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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


彼は何を拾ったの


------<オープニング>--------------------------------------


 こめかみを突くような鋭い痛みは、太陽の熱を感じるたびに酷くなった。
 上山晃はその場で立ち尽くし、川と舗道を遮るようにあるフェンスに体を預けながら、額を押さえて目を瞑り、痛みがひいていくのを待った。
 昨年の夏のことはもう忘れてしまっているから、今年の夏が平均より暑いのか暑くないのか分からない。けれどただ、漠然と暑い。
 この頭痛も太陽を避け続け、エアコンに頼った生活をしているつけだと晃は思った。
 テレビで特集されていた冷麺を見て、どうしても食べたくて堪らなくなったのはつい十分ほど前のことだった。財布だけをジャージのポケットに突っ込み、徒歩で数分程度の場所に建つコンビニエンスストアーへ買いに行くことにした。
 外は、別世界だった。熱気にあてられ、数分程度の道のりがやけに長く感じられた。
 コンビニへ行く途中にあるごみ収集場所まで歩いた時、集められている透明の袋達を見て、そういえば今日が燃えるゴミの日だったことを思い出した。
 部屋に帰ってもまだ覚えていたら出そう。
 そう思って通り過ぎようと思った時、それと目が、合った。
 透明なゴミ袋の間に押し込められるようにして、それはいた。深い土色をしたそれは、顔のようなものと胴体のようなものをもった、置き人形のようだった。
 深い土色の胴体には洗濯板のようなギザギザが刻まれており、気味が悪いほど長い腕は頭の上で交差している。目と思われるような二つの丸だけが透き通るようなブルーをしており、ゴミ袋に押しやられるようにそこに居ながらも、瞳だけはしっかりと晃を捉えているかのようだった。
 気味が悪いことこの上ない。
 早々に立ち去ろうと思った。しかし何故か、どうしても目を逸らすことが出来ないでいた。
 青い瞳に射すくめられたように立ち竦む晃の隣を、生ぬるい風が通り過ぎて行った。

 ※

 それは、武彦の目から見ても気味の悪い人形だった。何をモチーフにして作られたのか全く検討もつかないような歪な形のその人形は、依頼人がゴミ収集の日に拾って帰って来てしまったものらしかった。
「元々、体が強いタイプとかじゃないんですけど」
 応接ソファに座った上山晃の顔はぞっとするほど青白かった。今にも消え去りそうな声で、小さな呼吸を繰り返しながら話をしている。
 今にも彼が息を詰まらせて死んでしまうのではないかという一抹の不安を覚えながら、武彦は調査書にペンを走らせた。
「最近は、特に疲れてて」
 そう言った晃の顔は、疲れているなどという言葉では生ぬるいほど見ているだけで痛々しかった。目の下には隈が浮かび、頬はこけ、元々、華奢な体つきではあったのだろう。浮き上がった骨はすぐにでも折れてしまいそうなくらい、細かった。
「この人形を拾って帰って来た日からなんです。ちゃんと眠ってるつもりでも疲れがとれなくなったり、ちゃんと食べてるつもりでも、体重がどんどん減っていったり」
「どうしてこの人形を拾って帰ったりしたんだ」質問というよりは、窘めるような口調になっていた。彼の顔を見ていると、そういわずにはいられなかった。
「わかりません。目が……合って。薄気味悪いと思っているのに、どうしても持って帰らなければいけないような。そんな気になって」
「じゃあ。これを捨てようと思ったことは?」
「あります。持って帰ってすぐ、部屋の中にあることが怖くなって捨てに行きました」
「では何故ここにある」
「戻ってくるんです。いや、戻してしまうんです」
「自分で?」
「はい。捨てたのも自分なのに、どうしても捨ててはいけないような気になって、また戻してしまうんです」
 小さく溜め息をついた後、晃は骨の浮いた細い手で顔を覆う。「でももう。解放されたい……。だから何とか。この人形のこと、調べて貰えませんか。自分で捨てることもできないし。そういう呪いだとか何だとかの……関係の話も取り扱ってらっしゃるんでしょう? 助けて下さい。俺、このままだと死んでしまうような気するんです」
 確かに。と頷きそうになった。今この場で彼が死んだとしても、武彦は驚かないだろう。
「呪いかどうかは調査してみないと分からない」
 武彦は煙草の箱に手を伸ばしかけて、やめた。彼に有害な煙を吸わせたら、たちまちその場で息を詰まらせ死んでしまいそうな気がしたからだ。
「だからとにかく。調査してみようじゃないか」


---------------------------------------------------------



 平和なはずの日常に。
 それは突如として振ってきた。



001



 どうしてその茶番に目が向いてしまったのだろう、と十里楠真雄は考えていた。
 考えながら、雑居ビルと雑居ビルとの間にある路地裏に目を向けていた。
 その道を通りかかったのは偶然だった。その地点にくる数歩前で、何かが強く自分に呼びかけた気がした。色で例えるなら赤い、危険信号のような物が脳裏でピカピカと点滅した。
 路地裏には四人の男が居た。その内の一人は、真雄も良く知る男だった。
 草間、武彦。興信所の所長であり、真雄の友人でもある男だ。
 彼はじっとその前で向かい合う二人の男を見つめていた。武彦の視線の先に居る二人の男は、向かい合い睨みあっている。片方の男は台所で良くみかけるような包丁をその手に握っていた。
 緊迫した、場面だった。
 けれど。真雄が何かを感じそこで足を止めてしまったのは、きっとそれが理由ではないはずだった。
 何が危険なのか。何がそんなにも引っかかったのか。真雄は自問自答する。答えは出ない。けれどたまらなく、何かが危険だった。
 包丁を手にした男は、駆け出していた。刺される、とぼんやり思う。けれど男の足は、透明な壁にぶつかったかのように、突然止まった。
 その場にガクンと膝を突き、上半身を仰け反らす。そして突然。小刻みに体を震わせたかと思うと、口から緑色の液体とも固体ともつかない物を吐き出し始めた。
 白目を剥いた男の口から、とめどなく吐き出されたそれは、気持ちの悪い効果音と共にそれは地面に溜まり、摘みどころのない楕円を作る。
 男はそんなとんでもない姿のまま、言葉にならないうめき声を上げ、手を振りかざしたかと思うと手に持っていた包丁で自分の喉元を思い切り良く刺した。
 血が噴出し、緑の上に赤い溜まりが出来る。
 グロテスクな光景だった。
 それを目撃した途端、真雄は強い頭痛に襲われる。頭の中で点滅していた赤い危険信号の点滅速度が早まり、全身の力が抜ける。立ちくらみのような感覚のあと、目の前でカッと強い光が散った。

 覚醒する自覚がないまま、体が変化してしまうことはそう多くない。
 どうして自分は今、覚醒したのだろう。

「きゅ、救急車!」
 上ずった男の声が耳を突く。真雄はビルの間から体を出した。
 包丁を握った男が汚物にまみれて、そこに横たわっている。
「必要ない」
 真雄の出した声に驚いたのか、武彦の隣に居た青年が体を揺らした。
「だ。誰」
 その声に顔を向けることもなく、真雄はそこに横たわる男を見下ろした。
「医者なら、僕が居る」



 交通量の多い道だった。
 乗用車が留まることなく行き来し、おまけに大型バスまでもが通る。
 何もこんな細い道を使用しなくとも、とモーリス・ラジアルは思った。細い道に車がギュウギュウと行き交う様子は、ドロドロとした血が流れる血管のようにも見え、気分が悪かった。
 車の一つ一つはコレステロールを多分に含んだ高脂血症の血で、細い路地に路上駐車する車は、血管に出来た血栓だ。
 ただでさえ通りが悪いのに、路上駐車の車のせいで事態はもっと悪化する。
 これが血管だったならば、心筋梗塞や脳梗塞目前といった状態だろう。もしも自分が診た患者がこんな血をしていたら、すぐにも改善を進めている。このまま放っておけば動脈硬化を起こしますよ、と。
 しかし自分だってここに路上駐車しているのだから、何とも言えない。私の車も血栓の一部なのだ。
 向かいの車に、ハザードの点滅が反射している。
 早くこんな場所を去りたいとは思うのだが、付き添いの人間がまだ用を追えないのでそうもいかない。血栓故の居心地の悪さを感じながら、モーリスはただ窓の外をぼんやり眺める。
 小さいとはいえ駅が近くにあるからか、人通りは少なくなかった。その行き交う人と車の中で、一人の青年にモーリスの目が留まる。
 なんて華奢な青年なんだろとまず、思った。
 白いシャツと深い緑の七部丈パンツを履いたその青年の、覗いた脛がぞっとするほど細い。あんな足でよくもまあ歩けるものだ、と感心すらする。きっと、白いシャツの中に隠れた体の中身も、骨が浮き出た華奢な体なのだろうと容易に想像できた。
 病的に細い体は嫌いじゃない。
 だって何となく。
 虐め甲斐がありそうじゃないか。
 モーリスは肘つきにもたれかかりながら小さく笑う。
 光りの加減で茶色くも見える柔らかそうな髪に隠れ、顔が良く見えないことを惜しいと思った。
 青年は、フラフラとした足取りでこじんまりとした弁当屋と米穀店の間を通り過ぎていく。何気無く視線で追っていると、角の自動販売機の前で突然、青年は力尽きたかのようにパタリと倒れた。
 みすぼらしい感じは受けなかったが、栄養失調だろうか。物に溢れた現代の日本の街中で見かける栄養失調とはとても奇妙な感じがする。
 モーリスは運転席に身を移して、そこから外へ出た。
 奇妙な顔だけをして、通り過ぎる人間達を尻目に彼に駆け寄る。
 足をつき、彼の肩を掴んだ。その余りに細い感触に少しうっとりとする。裏返し、膝に頭を乗せてやった。
 ビンゴ。
 アーモンド形に整った瞳を見てモーリスは思った。
 骨の浮き出た顔の輪郭は奇妙だったが、もう少し肉がつけばきっと素晴らしく可愛らしい顔になるに違いない。鼻筋、目の大きさ、唇の形。ポイントを押さえれば、彼の元の顔が浮かび上がってくるようだ。
 愛する人が骨だけになっても見つけられるか。
 いつか読んだ、本の一文が頭に浮かんだ。
「あ。あの」
 彼がか細い声で囁く。
「心配しなくても大丈夫ですよ。私に任せなさい」
 そう言ってやると彼は目を細め、喉を鳴らした。苦しそうにやっと、言う。
「く、さま。こうしん……じょ、に」



 黒いバックの中から何に使うかも分からないようなスポンジ素材のそれを取り出し、シオン・レ・ハイは溜め息を吐き出した。
 どうしちゃったんだろう。小杉さん。
 胸の中で呟けば、脳裏に四十歳代の温和そうな未亡人の顔が浮かんだ。
 彼女は最近シオンが始めた訪問販売のアルバイトで知り合った女性だった。
 夫を数年前に失くし、息子と二人暮しだったらしいが、今やその息子も留学中という。高級住宅地に家を構える彼女は、その大きな屋敷に一人暮らしだった。
 淋しかったのだろうと思う。
 シオンがたまたまその家を訪れた時、彼女は快くシオンを招きいれてくれ、物を買うことはなかったが一緒にお煎餅を食べたりお茶を飲んだりと、毎回楽しい時間を共に過ごした。
 それなのに。
 考えれば考えるほど気が重くなってしまうので、シオンはブルブルと首を振って考えを追い払った。
 考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。
 けれど思考の隙間から小杉さんの言葉は顔を出した。
 帰って! アナタの顔なんて見たくもないわ!
 何か、やってしまったのだろうか、と考える。彼女に不快な思いを抱かせるようなことを、自分は何か仕出かしてしまったのだろうか。
 けれど思い当たることはない。
 前回別れた時も彼女はちゃんと笑顔だったのだ。
 どうしてしまったんだろう。住宅街から少し離れた場所にある公園のベンチに座りこみ、シオンは悲痛な面持ちでまた溜め息を吐き出した。
 どうしよう。逢いたいんです。
 胸の中で呟いてみる。
「おじさん。淋しい」
 涙で滲む目を擦りながら、シオンは呟く。あんな言われ方をするほど、どうして自分が嫌われてしまったのか、そのことが分からない自分が一番ショックだった。
 こんな時は人の温かさに触れるしかない、と思った。ボケれば突っ込まれるような、そんな他愛もない人間的な会話をすべきだ。
「草間興信所に行こうかなあ」
 涙を拭いながら、シオンは小さく呟いた。



「たぶん。お前は考えているうちに怖くなったんだな」
 草間武彦が得意げに言ったその言葉に、雪森雛太は眉を顰めた。胸に抱いていたクッションの端をギュッと握り締め、唇を突き出す。
「怖いって、どういう意味だよ」
「どういう意味もない。恐れたということだよ」
 長方形の形をした事務所の窓際に、武彦のデスクは置かれてある。秋晴れの陽を背中に受けながら、武彦は煙草の煙をゆったりと吐き出した。その横顔からは、全てを見透かしたような余裕が感じられた。それは妙にカッコ良く、だからこそ腹が立った。雛太は拳でクッションの腹を打ち、揉みくちゃにし、反論する。
「違う。別に、怖くなったわけじゃない」
「人が人を刺し殺そうとしている場面に遭遇して、本当の意味で怖くならない奴なんてそうそういない。想像力のない馬鹿な奴だとか以外はな」
「それは俺を馬鹿にしてんの」
「怖くていいということだよ」
 自分の吐き出した煙に顔を顰めながら、武彦が灰皿に煙草を擦りつける。
「ただなあ。逃げてはいかん」
「逃げてないってば」
「じゃあどうして、刺すなら刺しちまえなんてことを言ったんだ」
「だって」
「だって?」
 雛太はそこで首を振った。
「上手く説明出来そうにない」
「理屈なら、要らないぞ」
「何というか。あの時はただ」
「ただ?」
「答案用紙が頭に浮かんだんだ」
「答案用紙?」
「頭に浮かんで。吐き気がした。俺はどちらかを選ばなくちゃいけない。と、そう強く思ったんだ。強く思ったら、答案用紙が頭に浮かんで」
「意味がわからん」
「だよね」溜め息混じりに相槌を打つ。
「要するに。そういうのを逃げたというんだ」
「だから違うんだってば」
「お前は頭がいい。たぶん。普通に進んでいれば、哲学者とかになっているかも知れないくらいだ」
「褒めたり貶したり。一体、何がしたいんだ」
「想像力も豊かで、人を思い遣ることも出来る。だからこそ、考え過ぎるところがある。深く、深く。それで思いつめて、勝手に答えを出すところがある」
「ふうん」
「茶化すなよ。この先、まだここでアルバイトをする気があるなら、重要なことだ」
「俺の本業は学生。今は……暇だから手伝ってるだけだ」
「あんな場面では。ゴチャゴチャ考えてはいけない」
「人の話を聞けよ」
「とにかく体を使うんだ。考えるよりまず、行動しろ。理屈じゃないんだ。お前は、体より先に頭が動くところがある。それは。まあ、普通に生きる人生においては重要なことかも知れん。しかし、あんな場面ではそれが、逆に足かせになることもあるんだ」
 武彦は身を乗り出し、自分のこめかみをトントンと叩いた。
「ココをな。使うことよりも、本能で動くことも必要なんだよ」
「分かってるけど」
 反論をしようと口を開いたまさにその時、草間興信所のドアが開き人が入って来た。デスクに肘を突いていた武彦が、いち早くその人物に視線を馳せ、声を発する。
「真雄じゃないか」
 何処かで聞いたことのある名前だった。
「真雄」雛太も口に出して呟いてみる。そして、思い出した。殺傷未遂事件の現場で見た、青年だ。
 振り返り、ドアを見る。
 黒いサラサラとした髪を持つ青年は、あの時見かけたのとは別人のような顔つきだった。印象的だった瞳だけはやっぱり変わらず赤いままで、白い肌も華奢な体もあの時と同じだったが。
 あの時はもっと、ヒステリックな感じがした。ストイックで、ヒステリック。そしてもっと、大人びた顔つきだったはずだ。
「こんにちは」
 青年はとても可愛らしい口調で言った。黒髪をサラサラと揺らし、事務所内に入り込んでくる。
「昨日は、どうも」
 小さく会釈して、雛太の向かいに座る。
 昨日。
 と、いうことはやはり同じ人間なのだろうか。
「残念ながら。同じ人間だよ」
「え」
 雛太が驚いて体を揺らすと、青年は可愛らしい仕草でクスクスと笑った。
「皆同じような顔するんだもの。笑っちゃうよね」
 あの時とはまるで違う、軽い口調で彼は言った。



 それはきっと呪詛関係の人形に違いないと、綾和泉汐耶は勝手に判断することにした。
 そして、慣れない人間が見れば吐き気を催したり眩暈を起こしたりするらしい、圧倒的なまでの数の本が並ぶ書棚から、呪術関係の本と民俗信仰に関する資料集をピックアップした。
 その最中、昨日聞いた草間武彦の言葉を思い出した。
「とにかく。気持ちの悪い人形なんだよ」
 それは、依頼を手伝って欲しいという要請電話の会話の中で聞いた言葉だった。
 汐耶は書棚から取り出した本をワゴンに載せた。どれもこれも分厚い本ばかりだったので、全てを手で持つことは不可能だ。六冊ほどピックアップしたところで書棚から離れ、通路に沿ってワゴンを押した。通路の突き当たりにある廊下まで来たところで足を止め、本を開く。
 一ページ目に掲載されていた写真に目が留まる。
 深い土色をしたそれは、顔のようなものと胴体のようなものをもった、置き人形のようだった。
 深い土色の胴体には洗濯板のようなギザギザが刻まれており、気味が悪いほど長い腕は頭の上で交差している。目の色は体と同じ深い土色で、何ともとにかく奇妙な人形だった。
 次のページにも、原色が胸の嫌な部分を刺激するかのような配分をされている呪い人形の図がある。
 これを全部読み終わる頃には吐きがしそう。汐耶は小さく息を吐く。
 昨日の夜、草間からの電話は突然かかってきた。突然なのはだいたいいつものことなので驚くというようなことはなかったが、問題は、その要領の得ない内容にあった。
 武彦はとにかく気持ちが悪い人形なんだということを強調し、だからそれを封印したいんだ、というようなことばかりを早口に繰り返した。
 汐耶は具体的なことが分からないと行動は出来ないと返した。もしも呪詛に関する人形だったならば、いくら汐耶が封印能力の保持者だったとしても容易に触れることなどは出来ない。
 むやみに触れれば汐耶自身が傷つくことになり、それより何より封印が失敗してしまうのだ。しかし武彦は、「とにかく来てくれ」の一点張りで「何時なら来れる」と言ってきた。
「じゃあ。明日ならば」と返したのが間違いだ。
 本当は、「見に来い」と言われて「じゃあ行くわ」なんて簡単に言えるほど、暇でも軽率でもない。図書館司書の仕事は傍目に見るよりもずっと重労働だし、さらに滅多に休むことなどない同僚が、何故かここ数日無断欠席をしているもので、その皺寄せもありずっと汐耶は休みを取っていない。
 けれど。言ってしまったからには守るのが約束であるし、聞いてしまったからには気になってしまうのが、自分という人間なのだ。
 面倒見が良いなんていわれると違和感を感じてしまうが、きっとそれに近いものが自分にはあるのだろうということは否定できない。
 例えば、何回もやって、もう絶対にやらないとその時は思い、けれど何度同じ失敗してもやってしまうことがある。
 口火を切る、というやつだ。
 誰もやりたがらない仕事を決める時。困ったことが起きた時。人は皆、黙る。
 ここで口を開けば何もかも自分にのしかかってくる。なんてことは、三歳の子供にだってわかっているだろう。しかし汐耶はそういう時、黙っていられない。押し潰されそうな沈黙と、物事が前に進まない苛立ちに捕われて、つい言葉を発してしまう。そして結局、全てを自分で背負い込んでしまう。
 沈黙に耐えられる人間は、卑しい笑顔で「ありがとう」なんてことを言う。悔しいが、当りくじよりも物事が前に進むことばかりをいつも見てしまっている気がする。
 そうして今回の草間興信所の調査要請にしたって。
 結局。呪詛に関する人形だった場合の知識まで詰め込んで、助けに行こうとしてしまっている。
 今日は定時で上がれそうだし。草間に行く前に、無断欠勤をしている同僚の様子も見に行っておこうか。そんなことを考えて、自分は何てお人よしなんだろうと少し、苦笑する。



 まるで安っぽいドラマのワンシーンのようだった。
 映像で見ているだけの時は、必ずといっていいほど「そんなわけない」と思っていたのに、実際、人はこういう時動けなくなるんだということを雛太は知った。
 数メートル前で、二人の男が睨み合っていた。片方の男の手には、包丁が握られていた。
 普段、台所で何気無く目にしているそんな物が、実はちゃんと人一人を殺害できるだけの力を持っていることに、改めて気付かされる。少しでも無駄な刺激を与えれば、勢い余って相手を刺し殺してしまいそうな雰囲気が包丁を握る男にはあった。
 どうすれば良いのだろう。
 雛太はただ身を竦ませて、頭の中で考える。
 何分。こういう体験は余りすることがないので、考えるのにもデータ不足だ。
 良くテレビで見るように、飛び掛ってみたりはどうだろう。
 いやいやそれで、自分が刺されてしまったらどうする。きっと。痛いぞ。
 二人の男のうち、一人は草間興信所に依頼をしてきた依頼人だった。内容は、ストーカーされて困っている。のではなく、ストーカーすることを止められず困っている。というものだった。
 所長の武彦とアルバイトとして手伝っている自分とで、いろいろと手を尽くしやってやったのだが、結果はこれだ。
 どうすればいい。今、俺はどうするべきなんだ。
 頭の中をグルグル動かし考える。何をどうする。どう、行動する。しかしあることに思考は行き着いた。
 今ここで、考えるべき、いや。考えられるべきことは、飛び掛るか飛び掛らないかという二つある選択肢のどちらを選ぶか、ということだけなのだということに。そしてもし、飛び掛ると決めたなら、今度は何時飛び掛るか、を決めなければならない。
 雛太は緊迫した場面を前にしながらも、何だか体の力がふっと抜けたような気になった。
 そして唐突に吐き気を感じた。頭の中に細々とした数字や文字が思い浮かぶ。
 答案用紙だった。
 四つか五つほどある答えの中から正解を選び出す、テストや試験の時のあれである。
 秀才と呼ばれた時代が自分にはあった。今から数年前、高校生だった時のことだ。その時から雛太は、選択問題が嫌いだった。
 面倒だからだ。答えが絞られて用意されてしまえばしまうほど、その中のどれを選ぶかで、どれを選べばどうなるのかで、頭を悩ませなければならない。
 選ぶということと、自分で考えるということは同じなようで全然違う。自分で考えるということには自由が許されているが、選ぶことに自由はない。こう思うんだよな。が、許され無い。
 それではまるで、自分は蚊帳の外だった。どんなに頑張ったって、まだ誰かに操られているような。上から見下ろされているような。そんな気がする。
 雛太は何だか妙に腹が立って、「ああ、もう!」と自分の頭をかき混ぜた。
「刺すなら刺しちまえ! っていうか、刺したいなら刺せ!」煽るように言ってやる。すると包丁を握った男、ではなく刺されそうになっている男がハッとしたように雛太の顔を見た。なんてことを言うんだ! と言わんばかりだった。
「うるせー。結局。刺すも刺さないも、背負うも背負わないもな。何もかも結局、選ぶのはそこの男なんだよ」顎で包丁を持った男を差してやった。
 すると隣から激が飛ぶ。
「依頼人だろ」武彦だった。「依頼人はどうやったって助けなきゃいけないんだよ」
「助けるったって。助けるの意味がさ」そこで言葉を切り、雛太は肩を竦める。「探偵ってさ。何つーか。結構、ヘビイだね」
「理屈じゃないんだよ。人を刺していいわけがないだろう」
「そんなの。わかんねーじゃん」
 答案用紙の答えを、他の人間が選ぶことは出来ないのと同じで。
 きっと人の人生の選択を、自分なんかが決めていいわけがないのだ。
「やりたいようにやるのがいいのかも知れないじゃん」
「全くお前という奴は」
 そこでふっと溜め息を吐き、武彦は一瞬だけ呆れたような顔になった。
 人の人生の選択問題を、他人が決めてしまおうと思ったら。
 それだけいろいろと、考えることが多くなる。選ぶということは、比べるということでもあるのだから、その人間にとってどちらがより重いのかを決めなければならないことなのだ。
 そんなことを判断するほど、俺はあの男を知ってるわけじゃない。
「とにかく。俺はもう、何もしないかんね」
「勝手にしろ」
 溜め息交じりに武彦が言う。
 包丁を握った男に目をやると、奇妙なほど小刻みに震えながらジリジリと間合いを詰めていた。これは本当に刺すかも知れないな、と雛太は思った。思ったが恐怖はなかった。どっちにしろ選んだのはあの男なのだ。
 ストーキングすることを止めたくて止めたくて、結局出来なかった哀れな男。
 しかしそれも仕方ない。選んだのは、あの男なのだ。
 まるで自分に言い聞かせるかのように、雛太は胸の中で呟いていた。
×
「それでね。覚醒っていうのかなあ」
 真雄の発した暢気な声に、雛太は我に返った。「え?」と言う。
「何よ。聞いてなかったの?」
 キョロンとした赤い瞳に責めるように見つめられ、雛太は肩を竦める。
「違うこと考えてた」
「失礼な人だな」
 真雄はまたそれを、無邪気な口調で言った。
「だからね。僕はあ。何か。人が変わっちゃうんだよ」
「えっと……それが。昨日の状態ってわけ?」
「そうそう」
「多重人格みたいな、モン?」
「うーん。似てるような違うよな」自分の唇を弄りながら真雄が小首を傾げる。それから「まあ。もういいじゃない。とにかく。昨日君が見た僕も僕だし。今ここに居る僕も僕だっていう。そういうことだよ」
 と、強引に纏められた。
 納得がいかないものを感じながらも、雛太は「ふうん」ととりあえず頷いた。
「それで。今日は何の用だ? 俺達は今、物凄く忙しいんだ。やっかいな依頼を抱えてる。プータローの相手をしている場合じゃないんだよ」
 武彦がまた、デスクの上の煙草に火をつける。真雄が少女のような笑い声を上げた。
「失礼な人達ばっかりだ。ここは」
「スマンな」
「せっかく。特ダネ持ってきてあげたのになあ」
「特ダネ?」
「昨日。キミ達を助けてあげた時にさ。実はちょっと気になることがあったんだ」
「気になることは幾つもあるさ。あんなグロテスクなモンを見せられたんだからな。緑色の汚物を吐き出す奴なんて、普通の人間じゃ考えられない」
「まあそうだね。彼は、普通じゃない」
 まるで、クイズの正解を知っているかのように真雄は頷いた。それから昨日の姿を思わせる、少しだけシニカルな微笑を浮かべて言った。
「僕はね。実のない仕事はやらない主義なんだよ」



 付き添いの男が運転する車は、草間興信所へと向かっていた。窓の外の景色は、時速六十キロの速度で流れる。モーリスは後部座席からその景色を一瞬だけ眺め、自分が今居る場所を確認した。
 そしてまた、青白い頬をした青年の顔に視線を戻し、そのこけた赤みのない頬に指先を滑らせた。彼の肌は、これだけ痩せ細っていてもしっとりと、艶やかだった。栄養失調というならば、これほど矛盾していることはない。どういう状況でこれほど痩せ細ってしまうのか、それとも元々こんなに細いのか。
 モーリスはふと確かめたくなり、自分に持たれかかって目を閉じる彼の顔の前に掌を翳した。
 掌から微かに水色の光りが放たれる。小さく円を描くように掌を動かしながら、彼の顔面全体に水色の光りを降り注ぐ。水色の光りはハルモニアマイスターの力の結晶だ。生きとし生けるものをあるべき姿、最適な姿に戻すという特殊能力の一つだった。
 彼の頬にほんのりと赤みが差し、ほんわりと膨らんでいく。浮き出た頬骨が埋まるくらいにまで膨れたそれはとても形のよい曲線を描き、彼の輪郭を元来の元と思わせるものに戻した。
 やっぱり、とモーリスは微笑んだ。重みを取り戻した彼の頭部は、骨の形が見せていたようにとても美しく可愛らしかった。
 このまま草間興信所になど連れて行かず、私のマンションに連れて帰ってしまうというのはどうだろう。
 悪戯を思いついたようにフフフと笑うと、運転席の男が奇妙な物を見るかのような視線をミラー越しに寄越した。
 それを無視して、モーリスは行き先を変更させようと運転席の男に向かい口を開きかける。
 その時だった。
 彼の頬が突然、しぼんだ。みるみるうちに、今モーリスがやったとの全く逆にくぼんでいく。
 どういうことだ?
 モーリスは眉を寄せる。
 私の能力は絶対なはず。
 掌を翳す。また、力を使う。しかし何かに引っ張られるような。対抗されるような、強い違和感を感じた。

×


 平和なはずの日常に。
 それは突如として振ってきた。

 そしてそれは準備を整え
 猛威をふるう。


×


002




 部屋に入った途端、汐耶は異様な空気を感じた。
 扉を後手に閉めて、中をうかがう。
「山井、くん?」
 恐々と同僚の男性の名を呼ぶ。
 右手に持っていた、見舞いの果物が入った袋を左手に持ち変えた。
 ビニールが掠れる乾いた音が、暗い室内にやけに響く。汐耶はゆっくりと靴を脱ぎ、部屋の中に上がり込んだ。
 人様の家に勝手に上がり込むという行為がやけにやましく感じられ、出来るだけ足音を立てないようにそっとそっと足を進める。
 だって。鍵が開いてたんだから。
 仕方ないじゃない?
 思わずそんな自問自答をしてしまう。
 草間興信所へ行く前にと立ち寄った同僚の山井のマンションは、オートロックでもなければ煩い管理人が居るでもないマンションだった。
 エレベーターに乗り込み三階へと上がり、廊下を進んだ二番目の部屋の前で汐耶はインターフォンを押した。しかし、中から人が出てくる気配もなく、何度インターフォンを鳴らしても物音一つしない。
 留守かしら。と思った。
 どうしてドアノブを回してしまったのかは自分でも分からない。嫌な予感が胸を過り、いたたまれずドアノブを回していたのだ。
 ドアはあっさりと開いた。
 鍵が。
 かかっていなかった。
 暗い廊下を渡りきり、ガラスのはめ込まれた白いドアの前で汐耶は立ち止まる。小さく深呼吸をしながらドアのノブに手を掛けた。
 向こう側に何がある。
 出来れば。
 ただ驚いた顔の山井くんが居ればいい。
 そして「鍵が開いていたわよ」なんてことを言い、いつもの調子で彼が頭をかいて。

 汐耶はゆっくりとドアを開ける。
 そして、息を飲んだ。



 自動販売機から戻ってくると、草間興信所へ続く雑居ビルの階段の前にシオンの姿を見つけた。
 雛太は小さく小首を傾げ「おお。シオンさん。何してンの」と声を掛ける。
 振り返ったシオンは、涙目だった。
 聊か、ギョッとしてしまう。
「ひ。ひひひ。雛太さあああん!」
 だっと駆け寄ってきたシオンが、その勢いのまま飛び掛ってきた。雛太は体の大きさを自覚してないラブラレトリバーに懐かれた気分になる。
「ちょ。ちょっと。何よ。どうしたよ」
 ジュースを持った手を空に挙げ、眉を下げた。
「小杉さんが!」
「はあ?」
「小杉さんが! 小杉さんが!」
「いやいやちょっと待ってシオンさん」
 ふさがった手でその肩を押しやった。顔を見据え、言う。
「誰だよ」



「つまりね。パラサイトエイリアンなんだよね」
「ぱ?」
 武彦が惚けたように口をぽかんと空けた。その顔が可笑しくて、真雄は小さく笑う。それからポケットの中身を取り出した。テーブルの上にポンと置いてやる。
「これ。あの男の体から取り出したモノね」
 テーブルの上を指差した。武彦が思わずといった風にデスクから立ち上がり、テーブルのものを近くで観察する。
「ふ。触れても大丈夫なのか」
「大丈夫だよ。とりあえずコイツは今、死んでるみたいだから」
 飄々と答えてやって、武彦が指を差し出した瞬間に「わあ!」と大声を出してやった。驚いたように武彦が身を竦める。
 真雄は声を立てて笑ってやった。
「そういう悪ふざけは止めてくれ」
「ごめんね」
「可愛い顔して相変わらずブラックだ、お前は」
 武彦のそんな言葉に小さく真雄は肩を竦める。
「ま。そんなことよりも、さ。この間、あの男の治療に当った夜のことだ」
「ああ」
「あの男は自害して、もう助からないという状況だったよね」
「そうだ」
「だから、僕がその死体を持ち帰ってあげた」
「感謝してるよ。闇医者だから出来ることだ」
 真雄は眉を顰める。「なにそれ。褒めてンの。馬鹿にしてンの」
「褒めてるんだ。感謝してると言ってるだろう」
「ふうん。まあいいや。それでさ。家に持ち帰って、僕はこの男の体を解剖してやったんだ。何というかね。物凄く危険だって、僕の中の何かが言っていたから」
「なるほど。それで?」
「それで。これが出て来たってわけさ。言っただろう。僕はね。実のない仕事はしない性質なんだよ。何かを、大切な何かを守るためにしか力を使わない。僕の危険信号はあてになるんだ。これは人類を破滅の危機にだって落としかねない、悪質なエイリアンだよ。僕はその危険を察知したってわけさ」
「じゃ。じゃあ。その……どうすればいいんだ、一体」
「うん。ボスはねえ」小さく息を吐き出した。「ここに居る」
 ゆっくりと手を上げて、草間のデスクの方を指差した。
「同じ気を感じるんだ」



 その光景を見た瞬間、汐耶は軽い吐き気を感じた。
 黒い、あれは。
 ゴキブリだ。
 咄嗟にそんな事を考え、まさか違うと首を振る。ゴキブリにしては大きすぎた。
 大の大人一人分ほどの細長い体。そこから伸びる細い六本の足、黒光りする体、背中のつくりなどはゴキブリに酷似しており、黒いネバネバした羽根が伸びている。
 なに。
 なになの……あれ、は。
 部屋と廊下を遮るドアの前で、汐耶はもう一歩も動けず立ち竦む。
 逃げ出したい。逃げ出したい。逃げ出したい。
 頭の中でそんな言葉がグルグルと回る。
 けれど。
 あの子を助けなくっちゃ。
 思う脳とは裏腹に、体は完全に拒絶反応を起こしていた。全身が総毛立ち、吐き気がする。
 もちろんその生き物のせいもあるが、そこで行われている行為の光景が。
 ウッ。
 汐耶は思わず口を覆う。
 それは。
 昆虫が交尾する姿に似ている。けれどもっと卑猥な、グロテスクな光景だ。
 布団の上に横たわる山井の体の上に、黒いそれは覆いかぶさり、ネチネチと不気味な音を立てながら上下運動を繰り返す。
 何をしているのか全く分からない。
 分からないのに、いや、分からないからこそ、恐ろしい。
 どうして。
 一体、何が起き……て……。
 汐耶はその場に崩れ落ちそうになる。何とか堪えようと体の力を入れるがままならない。
 あ、っと思う間もなく手に持っていた袋が、がさんと地面に落ちた。
 凄まじい音だった。これほどまでに、心臓を圧迫する音があるのかと思うほど。

 ど。どうし。

 汐耶は、身を竦ませる。
 黒い生き物が、まるでスローモーションでもかけているかのように、ゆっくりと振り返った。
 目が。
 合った。
 目だけは黒い光りの中でぞっとするほど澄んだ青だった。

★♪

 無理矢理腕を引かれ連れられて来たのは、草間興信所から徒歩でいける距離にある住宅街の中の一つだった。来る道中、シオンが訪問販売のアルバイトを始めたことを聞かされ雛太は驚いた。
 しかし、今の比ではない。
 目の前の光景が信じられず、雛太は何度も唾を飲み込む。かすれた声を漏らす女性は、生きているのが不思議なほどだった。
「こ。これ。アンタがやったのか、よ」
 かすれた声で言い、シオンの顔を見上げる。
 この温和そうな顔の奥に、そんな狂暴な素顔が秘められていたとは。
 雛太は思わず、後退る。
「違いますよお!」とシオンが絶叫した。
「私じゃありません! 来た時にはもうこうなっていたんです!」地団駄を踏むように言う。
 確かに。
 こののほほんオヤジにこんなことは出来るはずもないようなあるような。
 雛太は注意深くシオンの顔を観察する。そしてもう一度下を見た。
 そこに、女性の体が横たわっている。それは壮絶な光景だった。
 女性の体に、無数のミミズが這うかのような細い傷が幾つも走り、それは徐々にピリピリと裂け血が滲み出る。きっと、洋服の中でも同じことが起きているのだろう。全身を真っ赤に染めて、女性はただ「痛い、痛い」と呻き続ける。
 気を失ってくれたならどんなにかいいだろうと思う光景だった。
 想像は、分からないだけにこちらの痛みを増させる。
 どうしたら、いいんだ。
 雛太は息が詰まったかのようになり、荒い息を繰り返した。
「小杉さんを助けてあげて下さいよお。雛太さんしか居ないんですよおお!」
 泣きそうな、いや。最早泣いている声でシオンが喚く。
「う。うるせー。ちょっと黙ってろ!」声が裏返る。
 何とかったって。
 どうすれば。
 雛太は頭を抱えたいのを必至に押さえる。
 とにかく体を使うんだ。
 頭の中で武彦が言った。
 考えるよりまず、行動しろ。
 雛太はふうと息を吐き出す。目を見開いた。
 理屈じゃないんだ。



「なるほど。話は聞かせて頂きましたよ」
 壁際から声を発すると驚いたように武彦と、黒髪の青年が振り返った。
「こんにちは」
「お前は毎度毎度。性懲りもなく突然現れるなあ」
 舌打ちした武彦を無視して、黒髪の青年に向き直る。
「モーリス・ラジアルといいます。以後、お見知り置きを」
 彼は瞳をパチクリとさせて、それからにっこりと微笑んだ。
「僕は、十里楠真雄。よろしくね」
「で? 話は聞いたって? どういうことだ」

「上山晃という青年はご存知ですか」
 モーリスが言うと、武彦は驚いたように一瞬目を見開き、それから小さく首を振った。「知ってるも何も……と、いうか。どうしてお前が知っているのか、の方が知りたい」
「拾いました。先程、街中で」
「ひろ」
 武彦が絶句する。
「私は。美青年を見つける眼には自信があるんです」
「それで」
 呆れたように武彦が促す。
「私も彼を助けたいと思いまして。話は聞かせて頂きましたよ。パラサイトエイリアンをやっつけるとか?」
「遊びじゃないんだ。お前が口にすると、まるでシューティングゲームをやるみたいだ」
「そう変わらないではありませんか」
 フとモーリスが笑うと、真雄もシニカルに微笑んだ。
「そうだね。大差ない」
「気が合いますね」
「じゃあ。行こう」
 真雄が立ち上がる。
「ボスをやっつけるのは、広場と相場が決まってるんだ」

★♪

 彼女の体からあふれ出した血は、もうとっくに致死量を越えているかのように見えた。
 赤い海が床に広がっている。しかしもっと気味が悪いのは、その血の中に黒いうねうねとした小さなものが這い回っていることだった。
「な。なんだよ。あれ」
 隣に立つシオンを押しやるようにしながら言う。
「し。知りませんよおお。私に聞かれてもお」
 尻込みしているシオンは、もう一歩も前へは進まない覚悟のようだ。
「お前の知り合いなんだろ!」思わず声を荒げてしまう。
 目がついているのか何なのか、ベチョベチョっと嫌な音を立て黒いうねうねとしたその物体は迷わず雛太らを目指し前進してくる。しかも、前進しながら融合し大きくなっていく。
 考えるな、考えるな。何も考えるな。無心になろうと自ら言い聞かす雛太の耳に、「痛い、痛い」と亡霊のような掠れた女性の声がやけにハッキリと聞こえてくる。
 黒いものに体中を這い回られ、穴という穴を犯されてしまいそうな不快感が体を襲い、陽なたは思わず身震いした。
 どんどん大きくなっていくそのミミズのような物体は、後退る雛太らをジワジワと追い詰めてくる。
 とりあえず。なんだっていい。
 考えるより、行動するんだ。
 雛太は手に持っていた缶ジュースを投げつける。
 ヒョイと交わされ、女性に向かい落ちて行った。
「ああああ! 小杉さに当りますよお」
「うるせえ! 言ってる場合か!」
 思わず、ヒステリックな声を上げてしまう。

◆■

 モーリスは目を閉じて、口の中で小さく呪文を唱える。
 掌から黄金の光りが飛び出して、それは空で四角形を作り、広場に置かれた人形の回りを取り囲んだかと思うとガンと大きな音と立て、檻となりそこに建った。
「アークという能力なんですよ」
 モーリスは隣に立つ真雄に向かい微笑んだ。
「なるほど。便利だね。これで、アイツはもう逃げられない」真雄も凍るような冷たい笑顔で笑う。さきほどの顔つきとは一転したその顔も、嫌いではないとモーリスは思った。
 先程の彼が十代の少年だったとしたら、今の彼は二十代の青年といった雰囲気だ。
 能力によって覚醒したか。きっと、そんなところだろう。
 真雄は指の間から音もなく数本のメスを出現させた。
「ミツルギ。という能力でね。医療用具は僕にとって最大の武器になるんだ」
「なるほど」モーリスは小刻みに頷いた。そして自分も内ポケットから小型の拳銃を取り出す。さらにもう一つ、手を振ってメスも取り出した。
「彼に聞いてみましょうか。ドッチがお好みか」
 顔を見合わせ、フフフと冷たく笑い合う。
「いいダーツの的になる。狙うのは目だ。あの青い目だよ」
 言ったが早いか、真雄がメスを投げつける。目を狙うと言った割りにそれは大きく的を外れ、人形の胴体に突き刺さる。ウギャアと大きな声をあげ、人形は突然、固体から流動体へと姿を変える。その体は大きく膨らみ、檻の中から端々を覗かせる。
「的が大きくなった。僕のは外れてしまったみたいだね」
 ケケケと不快な音を立て真雄が笑う。
「じゃあ。私もやってみましょう」
 モーリスもメスを投げる。わざと、外し人形が呻き声を上げるのを楽しむ。
「このままじゃ、ハリネズミになっちゃうねえ」
 真雄が言う。
 モーリスは素敵な言葉だ、と思った。



 汐耶は後退り、何とかドアノブに手を引っ掛けて立ち上がろうと試みる。しかし足が戦慄いて上手くいかない。
 しっかりしなさい。
 しっかりするのよ。
 自分に言い聞かせ、ドアノブに手を掛ける。使い物にならないくらい震えた全身に渇を入れる。
 ゆっくりと歩み寄る黒いそれの背中で、横たわる山井の顔だけが見える。その顔に、特別な変化は見られなかった。
 そしてそんな風に彼を心配している自分に、少し呆れる。
 こんな時まで自分は、人の心配が出来るのか。
 自分が。こんなに。
 ピンチだって時に。
 自分も山井のようになってしまうかも知れないのに。
 そんな事を考え、あんな黒いものに襲われるくらいなら自害した方がまだマシだと思った。そして、自害するくらいならまだ戦った方がいいと考え直す。
 戦うったってどうやって? 自問してくる声に、なんとかするのよ! と渇を飛ばす。
 震える指先で何とか眼鏡を外し、あれ全てを封じ込めれば、と考えた。
 あんな大きなもの、大丈夫かしら。
 いや、私の身だって無事では済まないかも知れないわね。
 それでもやるしかないじゃない。襲われるよりはきっとマシだし。
 黒いものを見据え目を見開く。
 腹に力を込め、念じ……。
 その瞬間、黒いものの動きが突然止まった。
 え?
 汐耶は聊か拍子抜けする。
 黒いものは歩みを止め、ブルブルと小刻みに震え出した。
 なに。
 何が起こるの。
 尻を使い後退る汐耶の前で、それは突然パアンとはじけ、緑色の液体を当りに撒き散らした。


003



「え。エイリアン?」
 雛太は思わず、声を裏返らせる。
「あ。あれが?」
「そう。あれが。ってどれかかわかんないけど。正式にはパラサイトエイリアンなんだよね」
 真雄が平然とした顔で頷いた。
「ことの始まりはあの人形なわけ。あれはね。どういった経緯でこの日本にまで辿り着いたのかまでは分からないんだけど。擬態能力を持ったパラサイトエイリアンなわけ。何故あんなものに化けようかと思ったのかはわかんないんだけど。とにかく。あの生物の場合。人の生気を吸い生きながらえる人種であることは間違いないわけよ」
 その続きをモーリスが奪う。
「私は依頼人である上山晃くんに触れた時、不快感を感じました。それがこのせいだったんですね。つまり、あのエイリアンは人の生気を吸い生きながらえ、更に寄生することも出来る、という。最悪のパターンを持っていたんですよ。もしもそれらが全て成功すれば、人の体を持った人の生気を吸うものが誕生してしまうわけです。共食いするかのような光景です。ぞっとしますね。そして。寄生に失敗した場合は、本人の人格を狂わせ今回引き起こしたような害を人体に与えます」
「今回引きこした?」
 汐耶がわけのわからないと言った顔で小首を傾げると、ソファで気だるそうに額を押さえていたシオンがやっと口を開く。
「こ。小杉さんのような!」
「そう。っていうか、誰それ」
 真雄が眉を寄せて顔を突き出した。
「それにあの。ストーカー男か」
「す。ストーカー男?」
「まあ」雛太は汐耶に向き直る。「いろいろなところでそれぞれのドラマがおきてたってことだよね。たぶんね」
「ド、ラマ?」
 尚も納得のいかない顔をする汐耶に、雛太は無言で草間興信所の住居スペースを指差した。
 あそこには今、三人の人間が眠っている。シオンの友人である、小杉さん。汐耶の仕事の同僚である山井さん。そして、依頼主だった上山晃だ。
「とにかく何にしろ。皆、何かしらあったら草間興信所に集合するってことなんじゃない?」
「そう、ね」汐耶は頷いた。「そうかも知れないわね」
「あの! あの!」
 勢い込んで言ったのはシオンだ。
「それで、それで。その。あの、小杉さんはどうなるんですか!」
「ああ。襲われた人?」
「そうです!」
「まあ。三日もあれば全快するんじゃないかなあ。寄生によって出来た傷は、本体が死んだ瞬間に癒えてるし」
「そう、ですか」
 シオンがホッと胸を撫で下ろし、デスクで押し黙ったままだった武彦に向かい微笑んだ。突然微笑みかけられ、武彦は少し驚いたように苦笑を浮かべる。
「でも。どうして彼等だったんでしょう」
 汐耶が迷惑だった、と言わんばかりに眉を寄せる。
「何かしらの法則はあったよ。間違いなく」
「え。法則? うっそ。それってなによ」
「それは」その瞬間、真雄は少しだけ唇をつり上げた。「言えない」
「んーだよ! 言えよ!」
 食いかかる雛太に向かい壁際に立っていたモーリスが微笑んだ。
「世の中には知らないでいた方がいいこともありますよ」
 やんわりと、言った。










END










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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 3628/十里楠・真雄 (とりな・まゆ)/男性/17歳/闇医者(表では姉の庇護の元プータロ)】
【整理番号 2254/雪森・雛太 (ゆきもり・ひなた)/男性/23歳/大学生】
【整理番号 3356/シオン・レ・ハイ (しおん・れ・はい)/男性/42歳/びんぼーにん(食住)+α】
【整理番号 2318/モーリス・ラジアル (もーりす・らじある)/男性/527歳/ガードナー・医師・調和者】
【整理番号 1449/綾和泉・汐耶 (あやいずみ・せきや)/女性/23歳/都立図書館司書】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 彼は何を拾ったの にご参加頂きまして、まことにありがとう御座いました。
 ご購入下さった皆様と
 素晴らしいプレイングやPCをお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝致します。


 それではまた。何処かでお逢い出来ることを祈りつつ。
                       感謝△和  下田マサル