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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


薬指下さい



オープニング


Side A 黒須誠


「田舎の…ヤンキー…ねぇ?」
 別に怪奇絡みという訳ではないのに、どうしても気乗りしないのは、目の前に座る男が胡散臭いという言葉を人の形にしたらこうなっちゃいました的な男だからなのだろうか。
 万年貧乏の分際ながらも武彦は、客相手とは思えない程に声に覇気がなかった。
「ああ。 如何にも!って、感じの女だ。 もう、『THE・ヤンキー! 目標は、北関東のお姫様!』みたいな…」
「はぁ…」
「好きな男のタイプは、勿論永ちゃんって感じの…」
「勿論…なんだ…」
「バイクの改造が趣味で、普段着は勿論ジャージ。 でも、キめる時は特攻服みたいな…」
「……今時、そんな娘本当にいるんですか?」
 まるで、昔のヤンキー漫画にでも出てきそうな、形容詞の数々に何故だかうっすらと頭痛を覚えつつも問い返せば、男は自信たっぷりに頷いた。
「一人称が、『あたい』だぞ? 凄いだろ」
そう言われて、思わず頷き返す。
今時、『あたい』。
もう、何がどう、凄いのか分からないが、とにかく凄い。
「で、年は幾つ位なんです」
そう言われて男は何故か、眉根を寄せると渋るような声で「聞いても、役に立たんというか、むしろ混乱するだけだと思うんだがな」と言いつつも、「確か、今年で18になったはずだ」と答えた。
18。
まだ、未成年だ。
そんな年若い娘を、どうして、自分よりも10は上だろうと思える年嵩の男が、探偵まで雇って捜そうとしているのか分からない。
(痴情の縺れか?)
年は、かなり離れているが、今の時代さして珍しい話でもない。
きな臭いとは感じるが、怪奇絡みでもなく、さして面倒そうでもない依頼だし、何より金欠男に断るという選択肢もなく(ま、いらぬ詮索は、止しとこうかね)と武彦は胸中で呟いた。
男が、首を傾げ「どうだ? 引き受けてくれるか?」と問うてくる。
 背中まである、女性ならば羨まずにはおれない程の綺麗な黒髪がシャラリと揺れるのを、何となく気持ちが悪いような視線で武彦は眺めた。
 例えば、この鴉の濡れ羽色ともいうべき見事な黒髪の持ち主が年頃の女性、それも妙齢の美女なんかであれば、武彦はもっと愛想が良くなったかもしれない。
 いや、妙齢でなくとも、美少女なりなんなり、持ち主として相応しい容姿をしていたならば違和感はそれ程感じなかっただろう。
 だが、応接間のソファーにどっしりと腰を下ろしているのは、間違いなく男性。
 それもいい年をぶっこいた、おっさんと呼ぶに差し支えない年齢の男性だったりする。
 差し出された名刺に書かれていた名は黒須誠。
 スッとナイフで切り裂いたような大きめの薄い唇を皮肉気に、人を小馬鹿にするかのように片頬だけ釣り上げた笑い方をする男で、喋りも達者ながらも、どこか口調が信用ならない。
オーソドックスなダークスーツ姿と、丸い小さな遮光眼鏡を掛けているのが尚、胡散臭さを増させており、何よりその眼鏡から覗く、蛇のようなとも言うべき、細く、どれほど口元は笑みを浮かべようとも決して緩む事のないつり上がった目つきが気に入らなかった。
 尖った顎と、痩けた頬が笑顔ですら大して良いとは言えない人相が、真顔になればどれ程嫌な顔つきになるのだろうと思わせる険しさを有しており、折角の美しい黒髪も、彼の胡散臭い空気を助長しているだけだった。
 雰囲気自体がどことなく、は虫類系の生き物を感じさせる湿った空気を発していて、ヒョロリとした細い体型も、軟体動物のような骨の無さを思わせる。
 クタリと首を傾げたまま、黒須は「とにかく、目立つ女だ。 すぐ見つかるだろうとは思う。 報酬はちゃんと支払うし、何なら前金として、半額今から渡したって良い。 とにかく、急いでるんだ。 今日中に動き始めて欲しい」と別段焦りのない声で言う。
武彦は、「分かりました。 お引き受け致します」と答えると、それからずっと疑問に思っていた問いを口にした。
「それにしても、興信所の職員まで雇って捜そうとするだなんて、その子何したんです?」
武彦の問いに、黒須は唯でさえ細い目を、底光りするような剣呑な光を宿してさらに細め、低い声で囁いた。
「その女が、大事なモンをかっぱらって逃げやがってな。 どうしても、モノを取り返さなきゃならねぇんだ。 どうしても…な」
その、ゾッとする程に不気味な表情に、何故か妙な吸引力を感じ、魅入られるような心地になりながら武彦は問いを重ねる。
「何を、盗まれたんです?」 
すると、黒須はぬめるようなニタリとした笑みを浮かべて、歌うように答えた。


「薬指さ」



本編



夏も終わり、秋。
読書の秋。
古本屋の棚を見上げ、溜息を吐いてみる。
欲しい作家の全集、全巻セット、金二萬七千円也。
小学生のいずみにしてみれば、大金も大金。
お正月のお年玉で買う値段である。
「欲しいなぁ…」
そう呟いてみたとて、家の本棚に、この全巻セットが並ぶわけでもなし、いずみは「バイト…しますか」と呟くと、本屋を出、興信所へと向かって歩き始めた。


興信所のバイトは、いずみにとって趣味と実益をかねた、中々に楽しいものであったし、小学生ながらに働ける場所というのは他にありえないとは分かっているのだが、どうにもこうにも危険の割りに報酬が少なかったりする。
いつもならば、楽しめさえすれば、首を突っ込んでる分際なので、報酬など全く気にしてはいないのだが、こういう事態においては、やっぱり、もうちょっと欲しいわよね…なんて考えてしまったりして、無駄と知りつつも値上げ交渉をしてみようかなんて悩んでいたせいか、いずみは興信所の前で人にぶつかってしまった。
「あ!」
そう小さく声をあげ、尻餅をつきかけるいずみの腕を、長く骨ばった指がしっかりと掴んだ。

ゾワゾワゾワッ!

得体の知れない嫌悪感が、背筋を這い上がる。
「っひぅ!」
妙な悲鳴を小さくあげ、見上げれば、見惚れるほどに美しい髪を流れ落ちさせながら、しかして、その髪がまったく不相応な人相の悪さをした男が、いずみの腕を掴んでいた。
遮光眼鏡の奥の、細い目が、キュッと細まる。
「あっぶねぇなぁ。 おチビちゃん、ちゃんと前向いて歩いてねぇと、今度は車にぶつかんぜ?」
そう言われ、早く腕を放して貰いたくてガクガクと頷く。
男は、ぱっとあっさり腕を放すと「気をつけんだぜ?」と言いながら、興信所の階段を上っていく。
(まさか? い、依頼人?)
震えながらそう思い「あ、あの、草間興信所に、何か御用でしょうか?」と問えば黒須が、訝しむような視線で見下ろし「ま、さかとは思うが、銀髪のお嬢ちゃんと一緒で、おチビちゃんも、この興信所のスタッフってぇんじゃないよな?」と問うてきた。



男は、予想通り事件の依頼人でもあり、いずみとは切れた煙草を買いに出た帰りに行き会ってしまったらしい。
「少年探偵団かよ…」
と、いずみを眺めて呆れたように呟いていたが、まぁ、その感想を否定できないといえば、否定できないのだ。
依頼人の名は黒須誠。
見れば見るほど、嫌悪感募る外見をしている。
(銀髪のお嬢ちゃんって……鵺の事だったのね)
自分の隣で、ワクワクとした表情を隠そうともせず、黒須を凝視し続ける鵺の眺めた。
夏のボランティアで親しくなった鬼丸鵺は、銀髪に赤い目をした、大層な美少女だったりするのだが、口を開けばぶっとんだ事ばかりを言っていて、だけどなんだか、憎めない友人だった。
鵺の、趣味は人間観察とやらで、人の深層を暴き立てたり、探ったりするのがどうも癖でもあるらしい。
いずみは、黒須への嫌な感触が拭いきれず、忠告がてら鵺に声を掛けた。
「まぁた、悪い癖が始まったわね?」と少し唇の端を挙げて揶揄すれば、「悪い癖?」と、珍しく、話の途中なのを気遣って、小声で問い返してくる。
いずみも、依頼内容を聞き漏らさぬよう注意しながら「依頼の話そっちのけで、黒須さんの事観察してるでしょ?」と、小声で問うた。
「ギクギクゥ!」
大袈裟な身振りでわざとらしくそう呟く鵺。
そんな鵺に「あの男、あんまり、深く突っ込まない方が良さそうよ? これ、勘だけどね」といずみはクールな声で、鵺に言う。
鵺は、相変わらずの喰えない調子で「まこっちゃん、結構、突っ込むと、面白い事が分かるような気がするよ? これ、勘だけどね」と言い返してきた。
いずみは、チラリと此方を見上げ、「可愛くないわね」と苦笑する。
「お互い様っしょー?」
と、鵺はヘラリと言葉を返し、それから二人で微笑みあった。
興信所には鵺やいずみ以外に、シュライン・エマ、飛鷹いずみ、モーリス・ラジアル、それに今回、初めての参加だという、久我高季という男性が集まった。
年の頃は三十代前半といったところだろうか?
久我は瞳の色が、左右違うオッドアイで右目が青みがかった濃い灰色。 左目は朱金色した目をしている。
先程まで、鵺や、モーリスに交互にその目を覗き込まれて、迷惑そうな表情をしていたが、武彦や依頼人が依頼の説明を始めると、どうも興味を惹かれだしたらしい。
帰りたそうな素振りが一変して、真面目な表情で話を聞いている。
「薬指を盗まれた…とは、どういう事なのかな?」
そう久我に問われ、黒須は肩を竦めると、「どういう事も何も、言葉通りさ」と答える。
そんな黒須に、更に久我は突っ込んだ。
「その薬指と言うのは貴方のものかな、それとも?」
黒須は面食らったような、キョトンとした顔をし、見渡せば同じように真剣な表情で皆から眺められている事に気付いたのだろう。 一気に破顔する。
「悪ぃ。 言い方が分かりにくかったな。 指は、俺のじゃない」
それからひらひらと自分の両手をかざしてみせると、「有難ぇ事に、俺の指は全部無事だよ」と、笑みを含んだ声で答えた。
黒須の言葉どおり、先ほど腕を掴まれた時にも、彼の指に違和感を感じなかった。
骨ばった、長い指が並ぶ、大きめの手。
少し長めに伸びた爪は、先が綺麗に尖っている。
その掌に並ぶ指は、一本たりとも欠けてはいない。
その瞬間がっかりしたような声で「なーんだ。 ヤクザさんの、エンコ詰めした指見れると思ったのにぃ〜」と心から残念そうに呟く鵺。
何故に、女子中学生が、そんな専門用語を?!と、皆強張る中、いずみは(ま、鵺だしね)と動じる事なく、「じゃ、どなたの指だったんです? それとも、それは比喩なんですか?」と、黒須に問うた。
「比喩? いや、本当に薬指だよ」
そう面倒くさそうに答え、それからキロリと音がしそうな眼球の動きで、舐めるように集まっている面々を見回す。
「ま、変な依頼だと思われんのは、しょうがねぇけど、俺としてはだ、女さえ捕まえてくれりゃあ良いんだよ。 俺が、取り返したい代物が、どういう由来のものかなんて、知らねぇでもよ、ド派手な金髪ヤンキー女なんざ、すぐに見つけだせるだろうが」
そう、何処か嫌気のさしているような声で言われ「確かにそうですけど…でも、貴方が盗まれたというものがものですから、ほら、危ない仕事じゃないのかしら?なんて、ちょっと気になっちゃって…」と、エマが慌てて口を挟む。
黒須の言葉に、(でも、これほど肝心の経緯を教えて頂けないとなると、やはり、気になってしまうのが人の常でしょうに)と、いずみが思えば、長い髪をうっとうしげにかき上げながら、「フン」と鼻を鳴らし、黒須はヌルリと音がしそうな流し目でエマを射た。
「危ねぇ仕事や、怪しい仕事も、ビビんねぇで引き受けてくれる人材が揃ってるっつうから、ここ頼ったんだが、見込み違いか?」
そう言われ、興信所スタッフとして働いている身故か、むっとした声で「いえいえ。 ただ、そう…ね、左指を取り返したいだなんて依頼に好奇心を刺激されてしまっているだけですよ? 私も、みんなもね? その、女の子だって、すぐ、見つけ出してみせますよ。 もう、アレよね? 三秒? うん、三秒位で!」と、言う。
思わず、(三秒?! その数字は一体何処から?)と戦き、胸の前で黒須に向かって手を振るいずみ。
皆も同じように無理無理と手を胸の前で振っている。
「もう、かなり、凄いですよ? ていうか、有り得ない位凄い! 情報収集能力だって、ウチの職員は高いんです!」
そうエマが言えば、物凄く疑わしげな視線で、黒須が鵺達に視線を送ってきた。
女子小学生一人。
女子中学生一人。
明らかに、浮世離れした風体の美青年が一人。
久我はまだ、頼りになりそうな空気は醸し出しているが、しかし、探偵をするには背が高く、変わった瞳の色と良い外見も少々派手だ。
とにかく、「え? マジで、興信所職員?」的なメンツを前に、改めて不安に陥ったのだろう。
「ほんっとーに、大丈夫なのか?」
と黒須が武彦に問えば、なぜか武彦は、疑わしい事この上ない自信満々な笑みを浮かべながら親指を立て、続いて視線を送られたエマも、武彦と同じような笑みを浮かべながら「グッジョブしますよ? うちは」と、親指を立てる。
(信用を得られなくても、無理はありませんね)と黒須の視線に納得するものの、モーリスが、のほほんとした口調で「かなり、頼りになる面々ですよ。 我々は」と言い、鵺は、コクコクと頷いている。
いずみは、何かの営業か?とも思われる遣り取りに、何だか、別にそういう訳でもないのに、黒須を騙しているような気分に陥った。
黒須は、そんな様子に色々諦めたのか肩を落とし、適当な感じの声音で「あ、うん、期待してます」と、あっさり引き下がると、いずみは現状で、話を進めてくれそうなのは他にはいないと感じ、いつもの冷静な声音で「では、まず、どうします?」と、皆に問いかける。
「黒須さんの仰るとおりの外見をしていらっしゃる方なら、聞き込み等従来の手段でもすぐ発見出来そうな気がしますが、東京は広いですし、やはり、場所は絞った方が良いかと思われるんです。 黒須さんは、その方が何処へ行かれたか全く心当たりはないんですか?」
その問いかけに、「うわ。 俺、小学生だと知りつつも、凄い今、このおチビちゃんの事を頼もしく思ってるよ…」と、黒須は顔を覆って呻き、「心当たりね…。 いや、ねぇこともねぇんだが…」と呟く。
子ども扱いを何より嫌うが故に、口調も大人びたものにしようと努力しているいずみにとって不快極まりない「おチビちゃん」という呼び名に気分を害し、「私の名前は、『おチビちゃん』じゃなくて『いずみ』です」と訂正した後、「心当たりがあるのなら、話は早いじゃないですか。 それは、何処です」と聞けば「アテになんねぇぞ? あいつは、史上稀に見るっていうか、最早、それわざと? ね、わざとなんだろ?的方向音痴だからな。 自分が行きたい方向の逆へ、逆へと見事に選ぶ判断力からいっても、目的地に無事着けている可能性など、ゼロだな。 ゼロ」と、断言する。 
黒須の力説に「そこまで言わなくても…」なんていずみは思いつつも、「方向音痴の逃亡者」なんていう、何だか間抜けな響きの呼び名が思い浮かび、ちょっと苦笑してしまう。
「この前なんざ、自分の住んでるアパートの部屋を見つけ出せなくなったつってたらかな、天才だな。 うん、天才」と黒須が言うに至って、先の行動を、全く読む事が出来ないという事においては、結構厄介かもしれないと、いずみも、困惑含みに眉根を寄せ、「困りましたね。 それじゃあ、場所は絞り込めない」と、呟いた。
すると、久我が黒須に向かって「貴方は、その薬指の持ち主の髪の毛か、もしくは、現在追っている女性の髪や持ち物をお持ちではないか?」と問いかける。
どうして、そのような事を問われるのか分からないのだろう。
「指の持ち主の髪を持ってるっちゃあ、持ってるが…」と、不思議そうに問い返せば、「では、その髪拝借させてもらいたい」と久我は手を出した。
いずみも、久我が何をしようとしているのか見当つかず、首を傾げる。
「俺は、陰陽師を生業としている。 媒体となるものさえあれば、それを元に式神を作り、対象者の気配を追う事が出来る」
久我の言葉を、立場柄不思議な能力を持つ人達を大勢見てきたエマが「へぇ、久我さんって陰陽師の方だったんだ」と自然に受け止め、いずみも自分自身特殊能力を持っているので、全く不思議に思う事無く、その言葉を聞いていたが、黒須はそうはいかない。
「陰陽師ぃ〜〜?」と、あからさまに信用していないような声をあげ、疑いのまなざしで久我を見る。
そんな黒須の様子に、モーリスが面白そうに「陰陽師の方に対してそんな風に驚かれるという事は、この興信所がなんて呼ばれているかって事もご存知ないんですか?」と問いかけた。
「は? 草間興信所だろ? ここは」と黒須が当然の事のように言いながら武彦を見れば「その通り」といった調子で武彦は頷き、「おい、余計な事言うんじゃねぇよ」とモーリスに釘を刺す。
だが、モーリスにささる釘などぬかに負けぬ程ある筈もなく、「怪奇事件専門の興信所。 あちらにおわす草間さんは、怪奇探偵の呼び声も高いんですよ?」と笑顔で答えた。
何故か、ぎくっとしたような声音で「か…怪奇?」と呟く黒須。
モーリスは頷き「この興信所は、この世ならざる者たちの起こす事件の解決率の高さは凄いんですよ? ゆえに、集まってくるスタッフも、皆それぞれに特殊な能力を持っている方が多く、陰陽師さんの他にも、西洋魔術を使われる方もいますし、所謂超能力って言うんですか? オカルトの分野で語られているような能力の持ち主の方もいらっしゃいます」と、何でもない事のように言う。
黒須は、その全てが初耳なのだろう。
細い目を精一杯見開き、不信感を滲ませた表情を見せ暫く黙って、皆を見回すと、何かを決心したかのようにぱっと立ち上がり「ハイ、お疲れ様でしたぁ!」と、唐突に手を叩きながら声を張り上げた。
「えーと、折角集まって頂きまして、まっこと恐縮なのですが、今日は、これにて解散!っていうか、永遠に解散!って事で…」とそこまで言った所で、この客逃がすか!とばかりに、黒須に取りすがり、「いやいやいや、解散しちゃ困るから!」と叫ぶエマ。
「黒須サン! ソンナコト言ワナイデ、チョット、マカセテミナサイヨ! サービススルカラ! ネッ、シャッチョサン、シャッチョサンッテバ!」と、何故かエマが出稼ぎ外人な口調で黒須の袖を引けば、「えー? なんで、いきなりフィリピンガール?」と後ずさりする、そんな黒須の耳元で武彦が「や、こうみえても、あいつら、かなり良い仕事しますよ? それにね、ほら、考えてみて下さいよ。 そういう能力がある奴らの方が、こういう、所謂『人捜し』なんていう、一般的な仕事に対しても常人では有り得ない早さで成果をあげられたりするもんなんです。 別に他に何か不便なところがある訳でもなし、任せてくださいよ」と唆すように囁く。
その二人の見事なコンビネーションに、流石恋人同士と感心していると、鵺が小声でいずみに「凄いね。 連携プレーだよ。 息ぴったりだよ」と言ってきた。
いずみも頷きながら「最早熟年夫婦の域に達してるわね」なんて同意する。
黒須は、前後をエマと武彦に挟まれ完全に困惑していたが、久我に顔を向けると「あんた、あー、アレだ。 本当に、陰陽師で、式神?なんてもん、作れんのか?」と問えば、久我は静かに頷き再度手を出す。
その掌の上に、黒須は「自分の」髪の毛を一本抜いて差し出した。
眉を潜める久我。
「…貴方自身の髪では、対象者を追う式神は作れない」
そう言えば、黒須はぽりぽりと頬を書きながら「その髪は確かに、薬指の持ち主の髪だよ」と訳の分からない事を言った。
訝しげな表情をしながら、それでも目を閉じ、呼吸を整えるかのように、久我は一旦静止する。
その後、スルリと指先で髪をなぞり、その後、目を開くと「…確かに…この気配は、貴方のものではない」と不思議そうに呟く。
他人の髪が生えてる男。
怪異と呼ぶに他ならない出来事に、いずみは恐怖を忘れて、黒須を凝視する。
久我に対し、懐疑的な態度をとりながら、自分自身、何やら不思議を抱えている。
どういう事だ?
そう好奇心が刺激されるも、再び、嫌悪の鳥肌がいずみの肌に立ち、いずみは唇を噛んで視線を逸らした。
(この男は、何か、危ない)
そう確信し、敵意すら込めた感情を黒須に抱く。
対象者を、本当に黒須に引き渡していいのか?
そんな迷いが、いずみの胸のうちに生まれ始めた。
鵺が、好奇心で目を輝かせ黒須を見据えている。
鵺ほど、顕著ではないものの、そんな不可思議を前に、皆が自分を注視している事に気付いているのだろう。
だが、何も言わずに、ただ、久我が「自分の頭皮から抜かれた髪が、自分自身の髪ではない」という非現実的な事実を、一撫でしただけで認めた事を少し驚いたように黒須は眼を見開いている。
久我は、懐から出した紙の人形を髪の上に置き、鋭く息を吸うと、腹の奥底から出ているような微かで、地を這うように低い声で、短く呪を唱え、片手で素早く印を結んだ。
その瞬間、紙の人形がフワリフワリと浮き上がり、興信所の扉の近くまで浮いていく。
黒須は、固まったまま、その一連の行為を眺めた後、式神の姿を目で追いながら掠れた声で言った。
「おいおいおい。 マジかよ? マジで、ああいう事ができちゃう訳?」
そう呟き、久我を信じられないものを見るような目で見る。
「何? ここにいる奴ら、みんなそーいう事出来ちゃう訳? うあ、俺はてっきり、どっかの新興宗教団体が関わってるカルトな、場所に足を踏み入れちまったって思ってたのに、フカシじゃなかったのかよ…。 こういうおかしな話は、俺の周りだけじゃねぇのか…」
そこまでブツブツと呟くのを聞いて、最後の一文に引っかかりを覚えたいずみは、(…俺の周りだけ?)と胸中で首を傾げる。
モーリスが、微笑を浮かべたまま「御自分の周辺で、『怪奇』なんて呼ばれる出来事に遭遇なされた事があるのですか?」と問いかければ、黒須は、一瞬にして無表情になり、それから「ま、とにかく、あいつ捕まえてくれるなら、なんだっていいやな。 さ、案内してくれ」と、久我に声を掛けた。



実のところ、黒須があんまりにも気に入らないものだから、今回の仕事は降りようかと考えていたいずみ。
しかし、此処まで話を聞いてしまっては、結末が気になるし、何より今は金が欲しい。
さて、値上げ交渉を駄目元でと、鵺と何やら会話していた武彦に「あの…お話が…」と声を掛ければ、どよんとした顔で振り返られ言葉に詰まった。
「あ、あの、何かありました?」
そう問えば「あー、…いや、いや、何でもねぇっていうか、いずみ、あんま、黒須さんには近付くなよ?」と、何かを含んだ声で言ってくる。
言われなくとも…と思いつつも、どうしてそんな事を言うんだろうと首を傾げれば「鵺曰くだが、どうも、黒須さんはちょっと合法ではない商売の方らしい」と回りくどい言い方をしてきた。
(ああ、つまり、ヤクザ家業の方という事ね。 でも…鵺の言う事だし、まぁ、話半分で聞いておいたほうがいいかも)と、感じながら、「まぁ、確かにお金をもらえば客は客ですが、なんか胡散臭い依頼人ですね。 しかも奪われたのは薬指って……そのままの意味なら猟奇事件ですし、比喩なら結婚指輪とか痴情のもつれという可能性もありますもの。 本人が、全く語ってくれないから察する事は出来ませんが、未来ある少女が見るにはいささか刺激が強そうな依頼です」と、しみじみ語る。
途端に武彦は半眼になって、全然子供らしくないお前が言うか」と恒例の言葉を返すと「ま、とりあえず、あんま目覚めの悪い思いをしたくねぇし、対象者の取り扱いにも、十分気をつけてくれ」と頼まれた。


結局、値上げの話を全く出来なかったことに気付いたのは、興信所を出てから暫く後のことである。





(何を隠しているのだろう?)


先に立って歩く男の背中を眺めながらぼんやりと、そう考える。
キラキラと日光を弾き輝く髪が、不相応に見えるみっともない猫背の細い背中。
丸まった背中と、がに股の組み合わせは,THE中年!という感じで、どうも哀愁すら感じてしまう。
謎の多いその佇まいに好奇心を刺激されまくっている鵺が、まつわりつくようにして話しかけているのを、ニヤニヤとした笑みを浮かべながらも、適当にあしらってる姿は、まんま人攫いだ。
(ま、『適当にあしらう』なんて事、出来る相手じゃないんだけどね)
そう胸中で呟いて、そんな自分に苦笑する。
どうも、苦手を超えて、完全に嫌ってしまっている。
クッっと、美しい眉を寄せた瞬間、舞うように髪を揺らしながら黒須が此方を振り返った。
訳もなく、固まる。
「あの陰陽師さんが言うには、ある程度のとこまでは行けるが、人が多いとこまで行くと、気が分散して分かんなくなるらしい。 で、こうやって6人でゾロゾロ歩くっつうのもなんだし、式神とやらで分かるとこまで行ったら、二手に分かれねぇか?」
黒須の提案に、エマが、焦っているかのようにコクコクと頷き、いずみはふと、ある事を思いつき「では、私と、久我さんはエマさんと、モーリスさんと、鵺が黒須さんと…という事でどうでしょう? 黒須さんは対象者のお顔を勿論ご存知ですし、私たちは久我さんの式神で、対象者を判別する事が出来ますから」と、如何にも全く他意はないんだというような、無邪気を装い提案する。
「構わないぜ?」
と、黒須は薄く嗤い、それからポンといずみの頭に手を置くと「こんなちんまいのに賢いな、おチビちゃんは。 何? これはバイトな訳? 小学生なんだろ? お袋さんは知ってんのか?」と、問てくる。
ゾワゾワゾワッと、再び鳥肌が立った。
しかも、また子ども扱いをしてくるし。
苛々と嫌悪感を同時に抱かされ、通常ならば痛烈な嫌味か、脛を爪先で蹴りつける程度の制裁を行っている所ではあるが、今は、じっと我慢する。
どうせ、この後、いずみの意図ありまくりのグループ分けによって、思う存分地獄を見るのだ。
人を振り回す天才の鵺と、ゴーイングマイウェイを地で行くモーリスと一緒では、人捜しどころではなくなるだろう。
二人に引っ張りまわされ、途方に暮れる黒須の姿を思い浮かべ、何とか怒りを収める。
それでも、自然に冷たくなってしまう声で、「貴方が、御自分の事を話さないように、此方にも自らの事を語らなくて良い権利があると想われるのですが?」と答え、いずみは黒須の手を振り払った。
そんないずみの態度に苦笑を浮かべ「いっつも、こんな感じ?」と問いかけてくる黒須。
「ええ。 おおむねは」
と、苦笑を返しながらエマが答えると、黒須は「で、まこっちゃんはさ、アレでしょ? ヤクザさんな訳?」と再び、妙なあだ名までつけられ、まつわりつき始めた鵺へと向き直る。
「…ごめんなさい。 でしゃばって」
いずみは黒須に聞かれぬよう小声で、エマに囁いた。
「え?」
「どうも、黒須さんの望みどおり、対象者の方を引き渡して良いものかどうか、判断できなくて…」
いずみの言葉に頷くエマ。
「確かに、おかしいとこだらけなのよ…。 一回分かれてみるのはいい考えかも知れない」
そう言われ、久我の明確な意図を悟ってその背中に視線を送る。
先ほどの術の腕前を見ても、「たくさん人のいる場所で、相手の気配を見失う」ようなレベルの術者ではない事は分かっている。
つまり、久我はわざと二手に分かれさせ、先に、対象者を確保しようと持ちかけてきたというわけだ。
とにかく、対象者には出来れば盗品を黒須に返させ、安全確保してやりたい。
いずみとしてはこんな怪しすぎる依頼人に、そのまま対象者の身柄を引き渡せないし、大体事の経緯が分からなすぎる。
別に正義の味方を気取る訳ではないが、武彦の「対象者の取り扱いに注意して欲しい」という言葉もある。
(黒須さんを出し抜ければ良いんだけど)
そういずみは考え、再び思考の淵に沈んだ。




場所は原宿、竹下通り。
久我の式神が此処で、浮遊を止めた。
「ムキャー! あのTシャツ可愛いーー! いいなー。 鵺、欲しいなー」
「暫く来てないうちに、色んな店が出来てますね…。 とりあえず、クレープでも頂きませんか? あ、あの雑貨屋さんに並んでる、ティーカップの良いですねー」
騒ぐ鵺と、明らかに脱線した事を言っているモーリス。
この二人と一緒に行動すれば、本人の意思など関係なく振り回される事は間違いないだろう。
この時点で、ダークスーツ姿で、滅茶苦茶回りから浮いている黒須が、雑貨屋と、古着屋を、クレープ片手に連れまわされている光景が目に浮かぶ。
自分の咄嗟のグループ分けにが正しかったと確信を深めていれば、エマが張り切ったように「えーと、じゃあ、黒須さん、ここらで分かれますか!」とシュパッと片手を上げた。
「っ! おい! え? こいつらと一緒で大丈夫なのかよ? 何か、チョコバナナクレープとか、明らかに人捜しをしている人間が口にすべき単語が聞こえてくるんだけど!」と叫ぶ黒須の片腕ずつを鵺とモーリスは掴み、「あの角のお店が、クリームたっぷりでうんまいんだよーv」と鵺がはしゃぎ、「あ、その後、古着屋めぐりしましょうね?」とモーリスが提案する。
「いやいや! 違うから! 此処へ来た目的、違うから!」と喚いてはいるが、ずるずると引きずられていく黒須に(ま、せいぜい、頑張ってくださいな)と心中で冷たく声を掛け、いずみは「ドナドナ」を口ずさむ。
その後、エマが「さて、どうします?」と久我を見上げると、哀しそうな目で三人を見送っていた彼は「とにかく、黒須より先に対象者を捕まえよう。 貴方も、彼女を、そのまま黒須に渡すわけにはいかないと考えているんだろ?」と問うてくる。
当然という風に頷いたエマを満足げにみやり、いずみも「久我さんの式神さえあれば、確実に先に、捕まえることは可能だと思います」と、やっと黒須と離れられた安堵を滲ませた声で答えた。
「で、この竹下通りの何処らへんにいらっしゃるんですか?」と、久我に問ういずみ。
久我は人を食ったような、澄ました顔を見せると「対象者は、原宿近辺にはいない。 我々が後にしてきた、草間興信所の近くにいるよ」と答えた。




「つまり、出来るだけ、興信所近くから離れようとしたって事ですか?」
元来た道を引き返す為、駅に向かう道でいずみは問いかける。
「ああ。 下手に興信所の近くにいると、鉢合わせの可能性があったしな」
「じゃあ、何故、竹下通り?」
「式神に気配を追わせた際に、対象者が、竹下通りを訪れた事が分かった。 移動をした後である事は、判明していたから、一度離れた場所を再び訪れる事はないだろうと思ったのが一点。 あまり、出鱈目な場所では、対象者の事をよく知っている黒須に悟られるのでは?と思ったのが、あの場所を選んだ理由だ」
滔々と述べられる言葉に、思わず、エマと合わせて拍手を送る。
それから、エマは、何かを思い出しかのように、バッグから携帯電話を取り出した。
「どなたかに、ご連絡を入れるんですか?」と、いずみが問えば、「うん。 零ちゃんがね、今日買い物でかけてるっていってたから、人通りの多いとこ出てるなら、もしかしたら対象者らしき人が周りにいないか、捜して貰おうかな?とか、始めは考えていたんだけど、ほら、今、興信所の近くに対象者がいるなら、零ちゃんが、もし興信所に戻っていたら、捜してもらえるじゃない」と答える。
興信所には、確か武彦がいる筈…と、「草間さんにお願いしても宜しいのでは?」と、言えば「あ、いや、武彦さん、別口から調べてみるとかで、今興信所を留守にしている筈だから…」とエマは答え、久我が不思議そうに「貴方は、あの草間氏とは、どういうご関係なのですが?」と、問いかけた。
思わず携帯を操る手を止めて固まるエマ。
「あ? え? ご、ご関係? え? なんで、です?」
ああ、そうか。
久我さんは、興信所のお手伝いが始めてだから、知らないんだ…。
そう、気付き、興信所の手伝いをしているものには、最早公然の関係である、武彦とエマの関係を、物凄い動揺を見せるエマをあっさり放置し、「あ、恋人同士です」と久我に答える。
「こ! いや、恋人、同士なんて、そんな…」
おろおろするエマを、久我は横目で眺め「ああ、やはりね…」と納得の姿を見せた。
「随分、親しい様子でしたし、そうではないかとは思っていたんだけどね…」
そう言われ、エマは照れ臭そうに、「恋人同士っていえる程の間柄じゃないけど…、そうですね、武彦さんが別の女性の方と仲良くしていたら、咄嗟に三百発位殴ってしまう位の仲ではあります☆」と頭を掻き、顔を真っ赤にしながらサラリと告げ、(いやいや、それ相当濃い間柄っつうか、むしろ、エマさんONLYで滅茶苦茶濃いです!)と、二人を震撼させる。
だが、そんな様子には全く気付かなげに、改めて携帯から零に連絡を取るエマ。
そんなエマを暫く恐れの入り混じった目で眺めていると、久我が何気ない調子で声を掛けてきた。
「いずみさんは、黒須さんではないけど、小学生の身で、こういうアルバイトをしていて、危ない目なんかにあったりしないのかい?」
久我の言葉に、キョトンと彼を見上げてしまういずみ。
確かに、どれ程頭が良かろうと、見た目は普通の小学女子児童。
こういう風に、不思議に思われるのが当然なのだろうが、今まで興信所で知り合った人物が、自分自身が特異な能力を持っているせいか、性格まで特異な人々が多く、こうやって改まって尋ねられた事が殆ど無い故に、何だかくすぐったいような気持ちにもなる。
「危ない目…には、合いますけど、社会勉強になりますし、何より…このお手伝いで、とても大切なものを手にする事が出来たりしますから」
いずみの言葉に「例えば?」と優しい声で、聞いてくる久我。
落ち着いたその声音に、何だか心地良い気分になりながら「今年の夏の話なんですけど…」と自分にとってかけがいのない時間になったと確信できる経験を語り始める。
「興信所がらみで、自分にとって最も大事な人の死と、これからの自分の生を一気に背負わされる事になった、私よりも幼い男の子と友達になりました。 その子の背負う荷物を、分けて貰う事は出来なくても、その子が笑っていられるお手伝いがしたかった。 私は、夏休みの殆どを、その子と過ごしました。 楽しかった。 悲しい結末を迎える事になりましたが、それでも、幸せでした。 私は、夏休みの間に、少し自分が成長出来たって、確信してます。 私は、幸福な子供です。 この年で、色んな世界を見、色んな経験をさせて貰っている。 つまり、そういう事です」
久我が、悲しげに曇る目でいずみを見下ろしながら、「そういう事?」と問う。
「つまり人生勉強だという事です。 私は、勉強の手段の中に、この興信所のお仕事も入れている。 成長する為に、私はこのお仕事をしているのです。 だから、小学生だから大変だとか、そういう事はありません。 むしろ、小学生だから、小学生の身で、こういう事件を見る事が出来るから、幸せだと思います」
久我は、けぶるような微笑を浮かべそっと、いずみの頭に手を置いた。
暖かな、優しい、大きな手。
外見の年齢からは想像出来ないほどの、何かの重みを感じさせる優しい手。
落ち着いた言動や、佇まいも、見た目の若さからすれば、威厳がありすぎて(この人、本当は幾つなのかしら?)と、いずみはぼんやり考えた。
頭を撫でられるなんていう、子ども扱いをされているのに、黒須に対して感じた苛立ちは全く無く、いずみは、何の反発心も覚えないまま、その温度に目を細める。
「貴方は、賢い子だ。 本当に、賢い…。 俺が、どれ程生きようとも、きっと、いずみさんの賢さには届かない。 俺は、どれ程生きれば……」
苦渋の滲んだ声。
不思議に思い見上げれば、何処か疲れたようにすら見える久我の、美しいオッドアイと目があった。
吸い込まれそうなその色合いに、我知らず息を呑む。
「あの…私は…そんな、賢くなんて…」
いずみが、途切れ途切れに、久我の言葉を否定しようとした瞬間だった。

「ばかぁぁぁぁ!!!!!」



エマの、絶叫が二人の穏やかな空気を霧散させた。
驚き視線を送れば「すぐ出なさい! そっから、すぐ出なさい!」と、エマが喚いている。
零に電話を掛けている筈なのに、どうも、受話器の向こうにいるのは、別の人間っぽい。
「ちょっと! 竜子さん? あなた、よっく聞きなさい! あなたがね、今いる、場所! その事務所! そこはね、黒須に『あなたの事を捜し出すよう』以来されてる、興信所なの!」
その言葉を聞いて、(まさか…)と眩暈のようなものを感じながらも、いずみは確信した。
間違いない。
受話器の向こうにいるのは、今、自分達が、黒須より先に接触しようと必死になっている、対象者だ。
しかも、エマの言葉から察するに、竜子という名らしい対象者は興信所を…、対象者にとっては敵の本拠地とも言うべき、興信所を訪れている。
エマが、ひきつったような声で再度叫ぶ。
「ホントにばかぁぁぁぁ!!!! あほ! ミトコンドリア! 誰が、そんな事言ったのよ! っていうか、零ちゃんが、良い子だなんて、私はよぉく知ってんだからっ!」
(え? ミトコンドリアって、単細胞って意味?)なんて、とりあえず心の中で突っ込み、耳を済ませれば、子供に対し噛んで含めるような言い方で、エマが受話器の向こうに語りかけ始めた
「…あのね? 竜子さん。 まず、大前提として、零ちゃんはなぁんにも知らなかったっていうのがあるの。 私もね、さっき聞いて驚いたのよ。 あなたが、そこにいるって事にね。 で、いい? 竜子さんは、今、黒須さんに追われてるでしょ? その黒須さんは、今全く別の場所で貴方の事捜してる。 ウチの興信所スタッフの方が、黒須さんを、わざと、見当違いの場所へ誘導してくれたの。 それは、何でか分かる?」
18歳の女性相手とは思えない口調。
多分、竜子は、「偶然」零と知り合い、何某かの遣り取りの後、零に案内され、興信所を訪れていたのだろう。
そんな「偶然」あるのか…と、頭痛のようなものを感じるが、まぁ、考えてみれば、「対象者に、黒須より先に接触したい」という此方の望みから考えると、ラッキーともいえるかもしれない。
色々ややこしい事になっているようだが、エマの口調を思うに、大分物分りの悪そうな相手が、ちゃんと理解出来ているか不安になる。
エマが再び激昂したような様子で、「あのね! 貴女を守りたいの! よく分かんないけど、すぐさま貴女を、黒須さんに引き渡すのは、とても不安なの! だから、捕まりたくないんだったら、今すぐそっから逃げなさい!  今は、別の場所に誘導出来てるけど、その場所はね、いつ何時、誰が戻ってくるか分からないし、黒須さんだって、いつ、そっちに向かうか分からないから!」と、一気に言い放ち、それから、幾分声音を落として、「あとね、零ちゃん達に、今言った事情説明して、逃げるのを手伝って貰いなさい。 で、一度貴女と黒須さん抜きでお話したいの。 だから…そうね…、何処か…良い場所…貴女、麒麟亭って分かる?」と、と言った。
麒麟亭…。
確か、鵺が健司と一緒に、昼食をとりに行った事もある、ドライカレーの美味しい店である。
ヨーグルトパフェなんかも絶品だと聞いていて、是非一度行ってみたいものだと考えていたのだが、まさか、こんな所でその名を聞くとは思わなかった。
竜子も、店の場所を知っていたらしい。
エマは、一つ頷き「ええ、そこで集合。 良いわね?」というと、それから矢継ぎ早に指示を与え始める。
「それでね、貴女、多分、人目で貴女だと分かるような格好をしてると思うのよ。 特攻服、着てるわよね?」

「零ちゃんに服貸して貰うなりなんなりして、格好変えなさい。 髪の色は?」

「じゃ、スプレーかなんかで、色変える」

そうポンポンと放たれる言葉に、竜子がどれだけ目立つ格好をしていたのか思いをはせつつも、夏休みにも実感する事の出来たエマの指示能力の高さに、舌を巻きつつ「うっさい! 捕まりたいの?! っていうか、私たちが、貴女のためにどんだけ頑張ってると思うのよ? とにかく、今は言う事聞く! OK?」と、凄みのある声で、そう言い聞かせるにいたって、殆ど尊敬の念を彼女に抱いてしまっていた。
「返事は!」
「っ! オッス!」
受話器の向こうから、焦ったような女性の返事が漏れ聞こえてくる。
エマは、その返事に満足げに頷くと、「じゃ、零ちゃんと、シオンさん、封禍さんに宜しく。 私たち、30分位で着くと思うから…。 あと、連絡は、メールでくれるように、零ちゃんに伝えて。 電話だと、もし、黒須さんと合流せざる得ない事態に陥った時、色々まずいからね」と、最後の指示を与え、電話を切った。
そんなエマに「エマさんって、色んな意味で気合入ってますよね」「いや、中々のお手並みだった。 感服したよ」と、久我といずみがそれぞれ、感心しながら言う。
エマは、少しくすぐったげな表情を浮かべながらも「さ、ちょっと急ぎましょうか?」と、真剣な声音で二人に声を掛けてくる。
エマの話の内容から、大体の事情を察する事が出来たいずみと久我は、確かに急ぐに越した事はないと二人揃って、黙って頷いた。



夕闇迫る、駅のホーム。




走り込めば、妙に目立つ三人組が立っているのを見て、息を呑むいずみ。
「っっっっつたく! ほんっと、ロクでもねぇ!!!!!」
そう人ごみの中叫び、つかつかと青筋を立てて歩いてくる黒須の姿に流石に気おされ後ずさるエマと、思わず硬直してしまったいずみを庇うかのように、一歩久我が前に出てくれた。
何で、気付かれた?
どうして、黒須が此処に?
疑問がいずみの中をぐるぐる巡る。
「舐めた真似してくれんじゃねぇか? え?」
そう低い声で問われ、「貴方を騙そうとした事は、まことに申し訳なかった」と久我が詫びる。
「しかし、あまりにも貴方が情報を明かして下さらないから、どうしても、こういう行動をとらざる得なかった。 対象者は、未成年であるし、我々、社会に生きる者は、未成年者を守る義務がある」
「だったらよぉ? 社会に生きるモンは、仕事も誠実にこなす義務っつうもんが、あるんじゃねぇの? な? 姐さんよぉ」
久我の言葉を受け、エマが思いっきりチンピラの口調で問い質されているが、しかし、反論の余地はない。
無事盗品を返却して依頼人を満足させ、対象者の身柄も確保する。
それが、いずみの望む結末だった。
しかし、こうまで、バレてしまっては、何も言えない。
「式神、だっけか。 アレが、本物だって認めてやるよ。 目の前でフワフワ浮いたんだしな。 つまり、あんたの力も本物だって、認めてやろうじゃねぇか。 だがな、だからこそ、ムカつくんだよ。 陰陽師さん。 あんた、ちゃぁんと、あいつの居場所は分かってたんだよな? なのに、俺を騙して、此処まで連れてきた。 そこの姐ちゃんも、おチビちゃんも、ぐるだ。 俺を、此処で泳がせといて、あいつを逃がしてやろうってか? っていうか、っていうか、あいつらはなんだ!」
そう言いながら、ズビシ!と、背後でニコニコと立っているモーリスと鵺を黒須は指差し、「もう! すっげぇ、プロ! ムカつかせるプロ! ムカプロ! よくもまぁ、滅茶苦茶に振り回してくれたもんだ! 俺は! 甘いもんは嫌いだ!」と、喚く。
意味の分からない言葉にエマが「はぁ…」と相槌を打てば「なのに、何故か、俺の手に握られていた、イチゴクリームクレープ! 甘い! そして、くどい! なのに、なんか…!」と、黒須は言葉に詰まる。
「だって、三種類の味食べたかったんだもん!」
「そうですよ! 黒須さんだけ、食べないなんて、ノリ悪いです!」
と、今の状況を分かっているのか分かってないのか、多分分かっているから、もっと性質が悪いのだが、そう不満げに言う鵺とモーリスを見て(わぁ、予想以上に、あの二人の威力はあったのね…)と、自分の策略が成功し過ぎていた事に呆然とするいずみの心境を後押しするかのように「アホかぁぁ! こちとら、どんだけ急いでると思ってるんだよ! あいつ、怒ると、うぜぇし、しつけぇし、蹴り飛ばされるしで、ロクな事ぁねぇんだ! ていうか、お前ら、分かってて、俺のこと振り回してただろ?」と、半眼になる黒須。
(あいつ? 誰の事を指しているの?)と不思議に思い「え? あいつって誰ですか?」
と、疑問を口にするも、あっさり聞こえなかった振りをして、黒須はモーリスと鵺に向き直った。
「なぁ、おい? お前ら、分かってて、俺の事をあっちの店やら、こっちの店やらひっぱり回して、こいつらに協力してたんだろ!」
「こいつら」の部分で、エマ達を指差した黒須は、深いため息を吐くと「お前んトコの興信所、最悪だな」と告げる。
「今回の仕事は、ナシだって、言いたいトコだが、マジで時間がねぇ。 その上、そっちの陰陽師さんは、あいつの居場所を確実に掴んでいる。 だったら、案内して貰うぜ? それが、あんたらの仕事のはずだ」
絡みつくような視線に睨み上げられ、動じた様子なく「…断れば?」と問い掛けた久我に、黒須は穏やか故に、凄みのある笑みを浮かべて「ま、しょうがねぇから、ありとあらゆる手段をつかって、『草間興信所』の評判を下げさせて貰おうかね」と答えた。
唯でさえ、怪奇事件ばかり扱ってるなんて、評判の芳しくない『草間興信所』。
これ以上、評判を下げられれば、本気の意味で、商売上がったりになる。
(卑怯な!)
そう歯噛みすれど、何も出来ない以上、何も言えないいずみ。
青ざめたエマの顔をクタリと特徴的な首の傾げ方を見せて、視線を送りニタリと黒須が嗤った。






どういう事なのだろう?
何故、ばれたのだろう?
竹下通りのような人通りの多い場所で、いずみ達が黒須を出し抜く為に、駅に向かったとて、それを黒須に気付かれる可能性など、0に等しい。
ましてや、完全に人ごみに紛れ移動をしていたのだ。
気付かれるはずが無い。
電車の中、平静を装いながらも、相当に悔しかったのだろう。
エマが、睨むような視線で黒須に問いかけている。
「どうして…分かったんです? 私たちが、貴方を出し抜こうとした事」
すると黒須は「竹下通りから、あんた達が遠ざかるのが、匂い…っと、見えてたんだよ」と、何か言い掛けたのを慌てて留めて、違う言葉に言い直した。
(匂…い? どういう意味? この人、まだ、何か隠している?)
新たな疑問を抱えながら、黒須に関して感じている疑問を整理し始める。
(自分の髪の毛が、盗まれた小指の持ち主の『髪の毛』である事。 どうも、自分より上の立場の人らしい『あいつ』って人の存在。 こんな風に、全て見透かされてしまった事。
 匂い…という言葉…。 薬指をどうして、竜子さんは盗んだのか? 何より…)
そこまで考えた所で、いずみは何気ない口調を装い、一番大事な疑問を黒須に投げかける。
「黒須さんは、その対象者の方、捕まえたらどうなさるおつもりなんです?」
答えによっては、興信所に迷惑を掛けると分かっていても、黒須に敵対せざる得ない。
正義の味方を気取る訳ではないが、良心の命じるままに行動せねばならない時がある事もいずみは理解していた。
皆、同じ気持ちなのだろう。
黒須の周りに、深い沈黙が落ちる。
それを知ってか知らずか、わざとらしいまでの愉悦を含んだ声で「まぁ…、落とし前つけてもらわなきゃならないだろうな。 さて、どんなお仕置きをしてやろうかねぇ」と、囁く。
ゾワゾワゾワッ!
強い嫌悪感。
どんな目にあうのか、想像しかできない。
だけど、鵺の言葉を信じる訳ではないけど、真っ当でない世界で生きている空気をプンプンと発している黒須の言う「落とし前」なのだ。
さぞ、苛烈なものになるのだろう。
駄目だ。
やっぱり、この人には渡せない。
竜子さんを、そのまま引き渡せなんかしない。




興信所の最寄り駅の改札口を出た瞬間、エマが力の限り絶叫した。
「って、馬鹿かぁぁぁぁっぁぁあぁあああ!!!!」
ただでさえ、目立つ集団なのに、会社帰りの人々からの視線が一気に集中し、いずみはたじろいでしまう。
だが、しかし、しかし、エマが叫ぶのも無理はない。
無理はないのだろう。
何故か、そう、何故か。
麒麟亭とはまっっったくの、逆方向であるこの場所に、いた。


鵺の婚約者である魏封禍と、夏にはとても世話になり、色々遊びにも連れて行って貰ったシオン・レ・ハイの間に何故か挟まれている人物っちゅうか、物体。
うん、物体で良い。
明らかに不自然な栗色の髪。
それ、何処で見つけたの?と、震える指で指したい、物凄いレースが沢山あしらわれたブリブリの服。
頬にピンクのチークを塗りたくられ、唇も、ショッキングピンクの口紅をつけた、ファンデの厚塗りのし過ぎで、物凄く気持ちの悪い顔色になっている女。
そんな女が、目を見開き、大げさな位強張った顔で黒須を見つめている。
(間違いないわ…。 あの人が…竜子さん…)
三秒で分かった。
ていうか、こういう格好をすれど、ヤンキーな雰囲気が伝わってくるというか、もっと引き立てられているというか、とにかく酷い!
黒須の言っていた、特攻服やらが目立つと思い変装したのかもしれないが、全然駄目である。
変装じゃない、これは仮装だ。


最早、怖い。


そんな女を間に挟んで立っている男性が、片やモデルのほうな整った容貌とスタイルを有している封禍と、黙っていればと前置きせねばならないものの、紳士的な容貌をした渋い魅力を持つシオンだったりするものだから、余計になんか、凄い。
その上、その女と何の経緯か手を繋いで歩いている零は、美少女と呼ぶに差し支えない容姿だったりするもんだから、何の罰ゲームそれ?って位悪目立ちしている。
正直言って、変装は出来てるかも知れないが、追われる身の人間がしてて良い格好じゃない。
封禍が「お嬢さん〜〜? 俺の授業抜け出して、こんな所で何してらっしゃるんです?」と、腰に手を当てて睨みを効かし、明らかにヤベ!という顔で、「あ、あれぇ〜? 封禍君、こんなトコで会うなんて奇遇じゃん!」と、鵺が片手を上げている、状況を全く無視して行われる、何処かしらほのぼのとしたやり取りを傍らに、憤怒の表情でエマが喚いていた。
「もう、何というか、愚か! 愚か者よ!」
そう錯乱するのも分かる。
いずみと、久我、エマが、三人で持って竜子の無事を確保する為、必死に頭を巡らせていたのに、全部台無し。
これで、台無し。
何も、目の前に現れる事はないでしょうが…とへたり込みたい気分になる。
方向音痴だとは聞かされていたが、ここまでだとは思いもしなかった。
ゆっくりと恐る恐る、黒須を振り返れば、竜子の余りの姿に一瞬硬直したものの、何故か、血の様に真っ赤な舌先を少し唇から覗かせ、チロリと閃かせると、確信したかのように「竜子! てめぇ、自分が何したのか分かってんのか!」と叫びながら、竜子へと詰め寄ろうとする。
その瞬間、「逃げて! 竜子さんっ!」とエマが叫んだ。
戸惑ったように黒須を見つめ、エマを見つめる竜子。
黒須はその戸惑いに付け込むように、「逃げたら、お前の事を助けようとしていた奴らが手伝ってる『草間興信所』に迷惑が掛かんぜ? 分かってんだろ? あいつが、ちょっとばかし、手段を選ばない人間って事はよ」と、脅し文句を口にする。
(あいつ…? 何なの? 黒須さんは、『あいつ』って呼ばれている人の指示で動いてるの?)
だが、いずみが悩んでいる間にも、黒須はねっとりとした口調で、竜子を追い詰めていた。
「恩義受けた人間に、迷惑掛けて平気なのかよ? えぇ?」
卑怯極まりない言葉に、唇を噛み締め俯く竜子。
「イイ子だから、アレ返せよ。 な?」
唆すような口調でそう囁き、黒須は竜子へと近付いて行く。
その態度、口調が悔しかった。
だけど、どう動いて良いのか分からない。
黒須は、もし、此処で、竜子を逃がすように働きかければ、本気で「草間興信所」を潰しにかかるだろう。
武彦や、零に迷惑を掛けるような事は出来ない。
だけど、このままでいいのか?
このまま、じっとしていて、後に自らの良心に咎められはしないのか?
息苦しくなるほどの焦燥感に心が炙られる。
後悔しないのか?
このままで、私は、後悔しないのか?

黒須は、厭らしい笑みを浮かべながら竜子へと近付いて行く。
竜子は、ポケットに手を入れて、俯いていた。
「……ちゃんと、渡したら、零達に迷惑かけねぇですむのか?」
掠れた声。
その声を聞き、いずみが泣きたいような気持ちになった刹那、「行こう!」と零が一声叫び、握ったままの竜子の手を強くひいた。
「っ! でも、あたい、零達に迷惑掛けたくないよ……」
「そんな事ね、気にしないでよ! 馬鹿! 友達でしょ? 私、友達なんだよね? 潰れない! 私のお兄ちゃんの興信所はね、汚い手、どれだけ使われても潰れないよ! そうだよね!」
零の強い声。
まるで、難問の答えを導けたような気持ちになった。
いずみは、ぱっと視界が開けるような心地になりながら、竜子に視線を送る。
零の言葉に、シオンが感銘を受けたように何度も頷き「そうですよ! 大体、私は、女の子の味方なんです! 竜子さんのしたいように、なさって下さい。 大丈夫です、草間さんトコは万年潰れそうだけど、絶対になんでか潰れないんです! しつこいんです!」と、微妙にずれた事を言い、いずみも、この答えが正しいのだと確信しながら「零さんがそう言っているんです。 とりあえずは、行って下さい! 今、ここで、こんな風な言葉に、貴女が屈する事はない」と強く言う。
最後にエマが、大きく口を開くと「竜子さん! 興信所、私が守るから、貴女は行って!」と叫び、それから「こんな、糞野郎に負けるなんて、悔しくてやぁってらんないのよ、畜生! 私たちの為にも、逃げなさい!」と、無茶苦茶な事を喚けば、竜子は一気に破顔し、「あんたら、すげぇ、格好いいな!」と叫び、そして、零に手を引かれ駆け出した。
「っ! 逃がすか!」
そう声を上げ、竜子を追おうとする黒須の前に立ちふさがるシオン。
「あんまり、暴力は好きじゃないんですが…仕方ないです!」
と言いながら、グイと手を伸ばし、その胸倉を掴もうとする。
だが、黒須は予想外にも驚異的な体の柔らかさを見せ、のけぞる様にして、その手を避けると、そのままバックテンをし、つま先でシオンの顎先を蹴り上げようとする。
咄嗟に後方に、頭をずらし、その攻撃を避けたシオンは、如何にも運動しなさそうな外見の黒須の予想に反した動きに目を見張り、油断ない構えを取った。
黒須は、綺麗な回転を見せた後、苛立たしげに表情を歪め「足止めくってる暇はねぇんだよ!」と吐き捨てる。
そんな黒須に、モーリスが笑顔で告げる。
「助けてあげましょうか?」
目を見開き、モーリスを見つめる一同。
いずみは(嘘ッ?!)と、殆ど悲鳴のような声を胸中であげる。
黒須が、少し笑みを唇に刷き「イイのかよ? 現時点では、俺の味方なんてしようもんなら、大顰蹙ものだぜ?」と問いかければ、モーリスは笑顔のまま「クレープ。 貴方のもの、殆ど頂いちゃいましたから、そのお礼という事で一つ。 それに、このまま、竜子さんに逃げられちゃうと、大層つまらないでしょ?」と答え、それから、シオンに視線を据える。
「と、いう事で、すいません。 少々の間、窮屈な思いをして頂きます」
そう微笑みながら言われたモーリスの言葉に、困ったような顔で「窮屈ですか? 私、常時空の下で過ごしている人間なもので、どうも、窮屈は嫌いです」と答え、「だから、ヤです」と困ったような顔のまま、きっぱりと答えた。
シオンの言葉に笑顔を浮かべ、モーリスが両手を組み合わせ、薄く白い瞼を閉じる。
形の良い唇を組み合わせた両手に寄せると、淡い光が両手に宿り、ゆっくりと蕾が開くかのように、その美しい手を広げれば、手の内に小さな正方形の檻が出来ていた。


「これは、貴方の鳥篭」


柔らかく微笑んでモーリスは、シオンに向かって、両手を差し出す。
その瞬間、シオンの周りに、淡く光る檻が構築されようとした。
咄嗟の判断で、前に転がるようにして飛ぶ、シオン。
いつも嵌めている、左手の黒い皮手袋を脱ぐと、殆ど出来上がりつつあった光の檻に、その左手に刻まれている鮫のタトゥーを押し当てた。
一瞬、ほんの一瞬、何の魔法を使ったのか。
まるで、溶けるかのように歪む檻。
その歪みによって、大きくなった隙間から身を滑らせるようにして抜け出したシオンは、「っつううううう!」と叫び、左手を押さえた。
何やら無茶をしたらしい。
その隙に、一気に走り出した黒須は「助かった!」とモーリスに叫ぶと、シオンの横を抜け、零と竜子の後を追う。
その瞬間、久我が物言わず、黒須の後を追いかけ、「あ! 駄目です! 待ってください!」と、何処か間抜けな事を言いながら、自分も黒須の後を追おうとしたシオンは、はた、とモーリスを振り返り「ね! 捕まらなかったでしょ?」と笑顔で告げる。
モーリスも笑顔で「でも、ほら、私の目的は、黒須さんに竜子さんを追わせてあげる事でしたから…」と告げると、「あ! そうか!」と今更ながら気付いたかのように、手を叩き、そして、今度こそ、竜子達を追って走り始めた。
鵺も笑顔になって「よし! 行こうか、封禍君。 結構面白いもの見れそうだよ? まこっちゃんの、『正体』とかね?」と告げ、封禍が「ねぇ? お嬢さん、ちょっとだけ黒須さんと遊んじゃ駄目ですか?」なんて、とんでもない事をねだりながら、二人は並んで走り出す。
残されたいずみと、エマは、一瞬呆然とした後、キッと眼光鋭くして、共にモーリスを睨んむと、一斉に「何、考えてるんですか!」「貴方は、どっちの味方なの?!」と責め立てた。
モーリスは女性二人に責められ、ちょっと困ったような表情を見せると「美しいレィディ二人に、一度に責められるなんて、自分がとても罪な男に思えてしまうので、どうか許して下さいませんか?」と、見惚れるような笑みを浮かべる。
「黒須さんは追い求めた女性に、やっと再会できたのに、それを邪魔するだなんて、野暮ってものでしょ?」
そう柔らかな声で言われ「そんな、ロマンスじゃなかったでしょ!」とエマが喚くと、「あー! もう! とにかく、後を追いましょう! それから、モーリスさんは、邪魔禁止! 興信所来てもお茶いれてあげませんからね!」と喚き、いずみも「今度邪魔したら、もう、モーリスさんとは口利きません!」と心からぷりぷりしながら宣言し、皆の後を追い始める。
「うわぁ、それは、キツいなぁ…。 じゃ、もう、絶対に、邪魔しません」と、冗談とも本気ともつかない口調で言ったモーリスも、一緒に走り出した。



「っ! いました! あそこですっ!」
いずみが、竜子達の姿を見つけて指し示した、場所。
そこは、高架線の下にある、人通りの全くない、薄暗い広場だった。
竜子がピンクハウスのボリュームのある服を脱ぎ捨て、下に着込んでいた赤いニッカポッカの上に白い晒しを巻いた姿に、零が抱えていた特攻服を受け取ってはおっている。
黒須が、ポリポリと頭を掻きながら、そんな竜子の様子を呆れたように眺めているのを見止め、一体何が行われようとしているのか、全くわからないままに、皆は何をしているのかと、見回してみた。
すると、シオンはハラハラと心配そうな表情で、鵺や封禍は愉快そうに、久我は険しい、何かを思案するような表情で、そんな二人を見守っている。
「っ! な、なに? どうなってるの?」
そうエマが疑問を口にしながら、走り寄れば、シオンが「お竜さんが逃げ続けるのは性に合わないから、タイマンで勝負つけるって…言い出しちゃったみたいで…」と弱った声で言ってきた。
(タ…イマンって、一対一の喧嘩よね…。 竜子さん大丈夫なの?)と、黒須が案外動ける男である事を悟らされた為に、不安を抱いてしまういずみ、
「タ…タイマン? 黒須と? 嘘、無理よ!」
エマも、不安げにそう言えば、零から借りたらしい、拭くだけで化粧を落とせるコットンで、顔面に塗りたくられている化粧を拭いつつ、「んな事ぁねぇよ。 あたいだって、修羅場幾つも潜ってんだ。 あんな、蛇野郎に負けやしねぇ」と言う。
そして、全て化粧を拭い、顔を上げた竜子の顔を見て、モーリスやシオン、零といった、変装の際に素顔を見たらしい人間以外は、皆例外無く息を呑んだ。


長い睫と、真っ白な肌。
大きな目は、黒曜石のような光を放ち、薄ピンク色の艶やかな唇が、ニカッと、その整った容貌に似合わない笑みを浮かべている。
眉毛は全て剃ってしまっている為、少々不気味には見えたが、逆にそれが精巧な人形の如き印象を人々に与えいた。
これで、金髪に染めてたっていうんだから、化粧してなきゃ、本当に西洋人形だ。
そう感じ、いずみはまじまじと凝視する。
その視線をものともせず、「零、悪ぃけど、あたいのポーチから、口紅だけ頂戴」と告げ、零から真っ赤な口紅を受け取ると、竜子はグイと自分の唇に紅をひく。
途端に完璧なバランスが一気に崩れ、下品な印象になる竜子の顔。
だが、一気に力強さを得た顔立ちを凶悪に歪ませると「待たせたな! 準備は出来たよ! あたいが勝ったら、薬指は諦めるし、この人たちにも迷惑掛けないっていう約束、守れよ?!」と叫び、特攻服の内側に仕込んでいたらしい、鎖をジャラリと取り出して、ブンブン振り回し始めた。
(見た事無い筈なのに、どうしてだか、懐かしいわ…)と、あまりにも前時代的な、竜子の喧嘩スタイルに、いずみは郷愁を覚えてしまう。
だが、至って本気の竜子は、ビュッと音を立てて鎖を放つと、狙い過たず、面倒くさそうに立ち尽くしていた黒須の右腕に何重にも巻きついた。
「よっしゃ! これで、あんたの利き手は封じたよ!」と叫ぶ竜子に、心底うざったそうに「竜子、お前、もう、ほら、諦めろ? 俺が追ってる内に、折れるのが得策だぜ? いい加減、薬指返してくれ。 あれが鍵だって事、お前も知ってるだろ」と言い聞かせる。
だが、竜子はブンブンと首を振り「あたい知ってんだよ! あんたに、薬指返したら、どんだけ取り返しのつかないことになるか! だから、絶対に渡せないっ!」と叫び、ぐいと鎖を引く。
竜子が女性にしては怪力なのか。
単に黒須が非力なのか、黒須がずるずると引き寄せられる姿に「頑張って! 竜子ちゃん!」と、嬉しげに零が叫び、いずみもぎゅっと拳を握って、竜子に心のうちで声援を送る。
黒須は、ふぅと小さくため息を吐くと、体の力を抜き、トンと地面を蹴って、引き寄せられる力にバランスを崩されぬように注意深い足運びで一気に前に走り寄った。
当然、力いっぱい後方に引っ張っていた鎖が緩んだせいで、後ろにすっ転んでしまう竜子。
(危ないっ!)
 いずみは、そう心中で叫べど、どうしようもなく、見守るしかない。
 黒須がそんな竜子の緩んだ鎖を一気に振りほどくと、そのまま竜子を押さえ込みに掛かろうとした所で、鵺が「封禍君! ちょっとばっかり、遊んじゃってもいいよ? あ、でも、銃は使用禁止〜〜」と、まるでお預け食らっていた犬に「ヨシ」を出すような気軽な声で鵺が言った。
その瞬間、二人の間に封禍が飛び込み、踊るような手つきで、黒須の喉元まで手を突きつけ、その喉を押さえるようにして、後方へと倒す。
封禍は殆ど、力を入れてないように見えたのに、なす術もなく倒れ付した黒須は、うずくまり「ゲホッ! ェホッ!」と唾液を垂れ流しながら咳き込むと、掌で口元を拭いながら起き上がった。
先程の衝撃で、遮光眼鏡が飛んでいた。
ゆっくりと、舐めるような目で封禍を見据える目は「黄色い目」。
爬虫類の特徴である、縦に虹彩が入ったその目に、いずみは思わず悲鳴を上げそうになる。
「…くっそっ! タイマン…じゃねぇのかよ」
息荒くそう吐き捨てる黒須に、封禍が「タイマンですよ? 一対一でしょ? 俺と、貴方の」とわくわくした声で言い、それから容赦なく、黒須の腹を蹴り飛ばす。
後方へ吹っ飛んだ黒須は、仰向けに倒れた体を、何とか起こすと、「あー、もうっ! サイアク!」と苛立ったように呟き、そして懐から一本の短い刀を取り出した。
短刀と呼ぶには長く、しかし刀と呼ぶには短すぎる。
黒塗りの鞘に収まっている、中途半端な長さの刀を握り、「お兄さん強いし、一応二戦目って事で、ハンデ貰うぜ?」と囁くと、黒須は一気に刀を抜く。
それは不思議な光景だった。
久我が静かに呟く声が聞こえる。
「妖刀。 それも、かなり邪悪な代物」
その言葉に、全くの素人のいずみも頷かざる得ないくらい、その刀は禍々しかった。
ズルズルと、鞘から引き出された刀は、刀ではなく、黒く滑り光る艶を有していた。
明らかに刃物ではない。
ズルズルズルズルと鞘の長さを超えて、抜き出されたその姿は、鞭。
鋭どくも薄い刃のような鱗をびっしりと身に纏わせた、長い長い、鞭だった。
何やら複雑な文様が描かれた皮手袋を手に嵌めて、柄の部分と、鞭の部分を両手で掴み、黒須はビンッ!と音を立てて、目の前で引っ張って見せる。
そして、真っ赤な、長い長い、明らかに人間の舌ではない二股に分かれた下を唇から這、
出させると、ベロリと鞭を舐めあげた。
「キャ!」
恐怖のせいか、零が短い悲鳴をあげる声が耳に入る。
いずみは、逆に恐怖の余り声が出なくなっていた。
蛇。
蛇の舌。
虫嫌いが、かなり克服されつつあったいずみだが、流石に爬虫類はどうしようもない。
気持ちが悪い。
嫌だ。
気持ちが、悪い。
その異形極まりない光景に、息が荒くなってしまう。
気味が悪い。
アレは、人間じゃない。
人間じゃないどころか、アレは間違いなく、化け物。
邪悪な化け物だ。
いずみは、思わず、エマの服の裾を掴んでしまっていた。
シオンは、零を背後に庇ったまま、ギッと音がしそうな視線で黒須を睨む。
久我は何も言わない。
じっと、見極めようとするかの如く、黒須を見つめている。
鵺は、好奇心に目を輝かせ、黒須の姿を凝視し、モーリスはといえば、まるで、全てを予想していたかのような余裕ある表情で佇んでいた。
「お兄さん、名前は?」
黒須の、掠れて、何処かに引っかき傷を残すような、少し高い声が封禍の名を問う。
封禍は、明らかな異形を目の前にしていても、楽しげな様子を崩す事無く、「魏幇禍と申します。 以後お見知りおきを」と答えた。
「へえ? 大陸の人かい?」
黒須も何処か楽しげな声で言いながら、ヒュンと音を鳴らして、鞭を地面に打ちつける。
「OK、OK。 じゃ、ちょっとばっかり、遊んで貰うかな? 痛い、痛い、思いをさせてやろう。 許して欲しくなったなら……」
愉悦の炎を点らせて、黒須の黄色い目がゆっくりと細められ、赤く長い舌が舌なめずりをし、囁いた。




「跪いて、足を噛んで」




ヒュン!と、音を立てて、一直線に鞭が飛ぶ。
その攻撃をバックステップでかわした、封禍の背後に回りこむように、鞭が踊り、そのわき腹を擦るようにして跳ね上がった。
まるで生きているみたいなその動きに、いずみは息を呑み、不安感を煽られる。
「っ!」
小さく呻いた封禍の、仕立ての良いスーツは無残に裂け、わき腹には薄く血が滲んでいた。
「妖刀邪蛇丸。 俺の意思を汲んで動く刀。 とっても、痛くしてやるよ。 許しを乞うなら、今のうちだぜ?」
そう言う黒須に笑顔を浮かべ「おっもしろい武器だなぁ!」と封禍は嬉しげに言い、舞うかのような優雅な動きで鞭をよけながら距離をつめ、鞭が全く効果を発揮しなくなる、得意の接近戦へと持ち込もうとする。
(確かに、接近戦ならば、鞭は使えなくなる。 だけど…)
いずみが、不安げに黒須に視線を送れば、そんな意思など見通してるとばかりに、後方へバッグステップを踏みながら鞭を操り、ぐいと容赦ない一撃を、先ほどと同じように人全ての死角となる背中に浴びせかけようとしていた。
「ひぇー! 本気で、蛇みたいな鞭だねっ!」
明るい声で、そういう鵺に、婚約者のピンチなのに!と思いながら視線を送れば、思いの外真剣な眼で、それでも笑みを含みながら封禍を見つめ続ける少女の横顔が目に写った。
まるで、封禍が負けるなんて微塵も感じたことのない目。
一瞬、格好良いなと心から感じてしまう。
あんな風に、男を信じられるものなのか。
あんな風に信じれる人にいつか出会うのだろうか?
思わず見惚れそうになった視線を、そんな場合ではないと、無理矢理黒須と封禍に視線を戻した。
まるで、背中に目があるかのように、四方から襲いくる鞭を逃れる封禍ではあったが、あと少しで、黒須を射程距離に捉えるという瞬間、首筋を鞭先が掠め、ひるんだ瞬間、背中に鞭が振り下ろされる。
「っ!」
息を呑み、思わず何者かに祈れど、最早避けられまい。 そう確信した瞬間、封禍は、信じられないような行動に出た。
ぐいと、倒れるように体を捻り、長い足を高々と上げると、


ダンッ!


と、強い音を立てて、手で掴むにはあまりにも危なすぎる鞭を、足で踏み押さえ込んだのである。
「お見事!」
と、楽しげに拍手するモーリスにチラリと視線を送り、会釈までする余裕を見せた封禍は、鞭を踏んだ足はそのままに、大きく一歩踏み込み、そのまま鳩尾辺りに体当たりをかまそうとしてか、体を低く屈め、全身で突っ込もうとする。
だが、その瞬間、黒須の握っていた鞭が一瞬にして縮み、そして、見る間に、あの黒い鞘に丁度収まる位の黒刀へと変貌した。
鱗の文様が刻まれた、艶々と黒光りする刀。
「っ! あっぶなっ!」
咄嗟に、いずみは目を塞ぎそうになる。
下手に突っ込めば、串刺しだ。
しかし流石というべきか、たたらを踏んで、封禍が自分に急ブレーキを掛けたのと、先ほどまで尻餅をつく、自分に絡まった鎖をわたわたとほどいていた竜子が立ち上がり、黒須に走り寄るのとはほぼ同時だった。
そのまま、漫画みたいなとび蹴りを黒須に喰らわせる竜子。
見事に蹴り飛ばされる黒須を見送りながら、黒須の腹辺りを蹴ろうとしていたのか、足を蹴りだす前の形のまま固まる封禍と、固唾を呑んで見守っていた面々は硬直する。
いずみも目をまん丸に見開いたまま、竜子を見つめた。
「アレ…だよな? しょうが…ないよな?」
何事がブツブツと呟く竜子と、そんな竜子に突然、怯えた表情を見せる黒須。
「だって…さ、みっともねぇとか、卑怯だとか、こんだけの人に助けて貰っておいて、言ってる場合じゃ…ねぇしな…」
黒須が青ざめたまま、「っ! り、竜子? お竜? やめろよ? っていうか、約束したよな? しないって、後で、どんだけお互い落ち込むか分かんねぇから、しねぇって」と、何事かを諭しだす。
呆気にとられるエマが「一体、何なのよ…」と呟けば、竜子はペコリと皆に向かって頭を下げて「皆さん、ご迷惑おかけしやした。 これから、ちっとばっかし、みっともないトコお見せ致しやすが、どうぞ、忘れてやって下さい」と告げると、強い瞳で黒須に向き直った。
「覚悟しろよ?」
そう言われ、後ずさりし、その上逃げ出そうと身を翻しかける黒須。
いきなりのこの立場の変化に、ついていけない一同だったが、竜子が手を伸ばし、ぐいと、黒須の長い髪を引っ掴んだ瞬間、いずみにとっては、訳の分からない光景が繰り広げられた。



「あらあらあら? お逃げあそばすの? 本当に、イケナイ小蛇ちゃんだこと。 よくってよ! よくってよ! わたくしが、躾けてあげる! 跪きなさい! 」



竜子は、「おーほっほっほっ!」と、高笑いして、傲慢な視線で黒須を見下ろしカン高い声で告げた。
「愛してあげる!」



「ひぃっ!」と、情けない声をあげて足掻く、黒須の背をゲシゲシと強く蹴り、堪らず彼が体制を変えた所で、その頬を容赦なく張り飛ばし、細く尖った顎を掴む。
「ま・こ・と? あぁた、下僕の分際で、このあたくしに、逆らうつもりですの?」
顔を近づけ、そう囁かれ、「す、すまん。 なんか、わからんが、本当に、すまん! だから、ちょっ! やめっ!」と、呻く黒須の頬を、また容赦なく張り飛ばす竜子。
「…その言葉遣いは何? 許して下さいでしょ?」
竜子の言葉に、抗おうとしているのだろうが、何だか陶酔を滲ませた声で黒須が答える。
「ゆ…るして下さい」



「それだけ?」
「許してください、りゅ……竜子様」
「違うわぁ? もう、本当に物覚えの悪い坊やね」
うっとりとそう言いながら、竜子が真っ赤な唇をキュゥッと吊り上げた。
「あたくしのことは、女王様とお呼びっ!」



そこまで見た所で急にエマに抱え込まれるようにして、美しい手で、視界を覆われた。
未成年には、あまりにも、ちょっとアレな様子故のエマの配慮だったが、いずみにしてみれば冗談じゃない。
音声のみなんて、気になりすぎる。
「エマさん? エマさん! どうしたんです? 何で、見せてくれないんです」と、不満を口にすれど、エマは聞いてくれもしない。
「ほら、ほら、ほらぁ! 痛い? 気持ち良いんでしょー?」
と、恍惚とした竜子の声が聞こえてきて、黒須が何をされているのか気になる余り、暴れてやろうかと思い始めた時である。
真っ暗な視界の中、「俺から、離れろ!」と叫ぶ黒須の声が聞こえてきた。



突然、ぱっと視界が開け、エマがいずみの手をひいて走り出す。
意味が分からずそれでも、焦っている空気は理解できて、とりあえず走り始めれば、エマの手を引き先を走るモーリスが、「…ちょっと、ヤバい感じですよー?」と楽しげに言いながら駆けていた。
封禍は鵺を半ば抱えるようにして、久我も竜子の体を担ぎ上げ走り、シオン零を連れて、黒須から離れた位置へと逃げている。
「何? 何なの! 何が起こるって言うの?!」
そう叫んでいるエマにモーリスがにっこりと告げる。
「何だか、ちょっとばかり、傍迷惑な気配が近付いているみたいなんです」
「「は?」」
そう、いずみとエマが揃って、口を開け、黒須を振り返れば、その瞬間、黒須の頭上に真っ白な光が物凄い勢いで落ち、鼓膜を揺さぶる轟音と共に地面が揺れ、いずみは思わずよろめいた。
(な…何? 何? 何が、どうなってるの?)
混乱しながら胸の中で喚き、分かってないのは自分だけなのでは?と悔しい思いが胸の中に込み上げる。


黒須の異形な姿、訳の分からない出来事の連続、唐突に強い口調となって、黒須を圧倒した竜子、黒須の美しい髪。


薬指。


全ての中心にある、薬指。



薬指は、誰の薬指?




白い強烈な光が消え、眩しさに眇めていた目を見開く。
その瞬間、劈くような叫び声を竜子をあげ、いずみはカチカチと自分の歯が鳴る音を聞いた。
(いやぁぁぁぁぁぁ!)
胸中で叫びながら首をふる。
黒須が突き刺されている。
銀色の大剣が、間違いなく黒須の胸の真ん中から突き出されていた。
物凄い勢いで剣を伝って流れ出る血が、地面に血溜まりを作っている。
鉄の匂いが鼻の奥に突き刺さり、吐き気がした。
長い黒髪が、その衝撃に舞い、そしてぐたりと俯く黒須の顔を覆い隠す。
その首に背後から腕を回し、抱え込みながら刺した剣をこれみよがしにゆっくりと引き抜く男がいた。
「……何を……している? 待ちくたびれた……。 と、いうか、ちょっと寝てた。 貴様は、とんだ能無しだ。 頼んだ仕事もろくにこなせん。 その上、下らん事にてまどりおって……」
嫌味ったらしく、ブツブツと呟きながら、男が顔を上げる。
竜子が憎しみの篭った声で、その男の名を呼んだ。
「リリパット・ベイブ! 呪われた王宮の王様が、わざわざ此処にお出ましとは、どういう了見だい?! とにかく、誠から、離れろ! そいつの鍵はあたいが持ってる! 返して欲しくば、まず、あたいとナシ付けるんだねっ!」
そう啖呵をきられ、ギリギリと黒須の喉を締め上げるように腕に力を込めていた腕をフト緩めた男は虚ろな表情で竜子の顔を見、そしていずみ達の顔を見回した。
「…どういう、騒ぎになっているんだ」
呆れたように呟くその声は低く、深く、洞穴を思わせる空虚さにみち、冬の空のような灰色の瞳が、暫し瞬く。
肌の色も、白を通り越して、白灰色にそまり、色のない乾いた唇は真一文字に引き結ばれていた。
眉根は深く寄せられ、その下にある目は隈が目立っており、焦燥が濃く滲む、生真面目そうでありながらも、酷く疲れを感じさせる顔立ちで、艶のない白髪は広い肩まで伸び、厳しい、とても厳しい表情のまま、深いため息を吐く。
体つきはがっしりとしており、背も高い。
虚ろで、陰気さが色濃く滲んだ顔立ちではあるが、狂気的とすらまで感じられる、ピンと伸ばされた背筋や、頑健そうな体つきは、本人自身のポテンシャルの高さを伺わせる。
何処の国の服ともつかない、だが、上着の丈の長さや、紋章などのあしらわれた作りからいっても、軍服か、それに類する正装なのだろうと思われる真っ白な格好をしていて、それが、唐突に「空から」現れたという事を含め、彼の非現実的な存在感を増していた。
黒須が、限りなく嫌悪感を相手に抱かせる容姿をしているとしたら、リリパット・ベイブ(小人の国の赤ん坊)という、その本名とは絶対に思われぬふざけた呼び名が似合わぬ男は、何処か後ずさりしたくなるような、黒須とは違う意味で人とは相容れない厳しさがある。


ゴボリ


黒須の喉が、生々しい動きを見せ、大量の血を黒須が吐き出した。


死ぬ。
間違いない。
あんな風に、刺されて生きてられる筈が無い。
死ぬ。
死んでしまう。
黒須の死なんて望んでいない。
違う。
私の、欲しい結末はこれじゃない。
黒須の事を嫌悪する態度を隠さなかったエマが、それでもそんな姿を見過ごせなかったのだろう。
「く…黒須さん?! 黒須さんっ!」
そう叫び、黒須に走り寄る。
ズルリと、わざと嬲るような陰惨な速度で剣が引き脱がれ、倒れ伏す黒須にエマが駆け寄り、その体を揺すった。
「ちょっと! ちょっと、なんなよ! わけわかんないわよ! 黒須さん! やだ! ちょっと!」
そう叫び、慌てて「れ、零ちゃん! 救急車! 救急車を、早く!」と叫ぶエマに、リリパット・ベイブが穏やかに言った。
「心配には、及ばない。 コレは、必要な儀式だから」
儀式?
これ以上、何が起こるの?
ぐったりとしたような気持ちになりながら、それでもどんどん血の気を失っていく黒須から目がそらせない。
久我が静かな声で「貴方は、何処から来たのだ? 体は、どちらに置いてきた」と、意味の分からない事をベイブに問うた。
その質問に、「私の体は、『千年王宮』にある」と答え、そしてピクリと黒須が震えるのをつまらなそうに見下ろした。
「勿体ぶらずに、とっとと暴かれろ」
そう言いながら爪先で、黒須の体を引っくり返す。
いつの間にか、日は沈み、暗闇が辺りを満たしていた。
切れ掛かった電灯が明滅を繰り返している。
高架の隙間から見える月が、魂の奥底まで冷やしてしまいそうな光を放っていた。
血で、口元を汚した黒須が凄絶な笑みを浮かべると「てっめぇ、時と場所を考えて…行動しろ…よ…」と呻き、それから黄色い目をいずみに向ける。
すまなさそうな視線。

ゾワゾワゾワ!

また、鳥肌が立つ。
なのに、どうしてだろう。
猛烈な罪悪感が、いずみの心を満たし始めていた。
「いずみ…、おっちゃん、あんま、気持ちの、良い、格好に…なんねぇ…から、目、チョットの間、塞いどけや…」
そう、優しく囁く黒須の声を聞き、「ああ…」と溜息のような声が零れ落ちる。
ああ、いやだ。
いやだ。
気持ち悪い。
吐き気がする。
どうして…。
どうして……。



気遣わないで下さい。
貴方を嫌いでいさせて下さい。
悪者でいてください。
ならば、私は正しく、貴方を嫌悪し続けられたのに。



気付いた。
気付かされた。
黒須の蛇の目が優しく細められる。



第一印象が嫌だった。
蛇が嫌いで、だから、嫌悪した。

それは、正しくない。

言葉も交わさず、相手も理解せず、最初から嫌うなんて事、してはいけない。
なのに……。


いずみは、全ての人間と仲良くできるなんて思ってはいない。
どうしても相容れない人がいる事も理解している。
だけど……。
努力もせず、一方的な印象だけで相手を切り捨てるような、そんな狭量で卑小な人間だなんて自分を思いたくなかった。
だから、必要以上に黒須を悪だと思い込んでいた。


そんな風に痛みの真っ只中にいながら、私なんかに優しくしないで。



いずみは、自分が恥ずかしくて、俯く。



分かってた。
自分に掛けてくれる声が、とても優しいものだなんて、分かってた。


黒須の体が、勢い良く跳ね上がった。
そして、息つく間もなくその体が、変化する。



「ラミア…」
掠れた声でギリシャ神話の、リビアの女王の名を呟く。
だが、目の前で繰り広げられる光景は、神話なんかじゃない。
間違いなく現実だ。



ズルリ。
身をくねらせて、黒須が体を起こす。
着ていたスーツが跡形もなく溶けさっていた。
長く黒い、美しい髪が滝のように流れ落ち、裸の肩を覆う。
ぐっと熱い塊が、喉元まで競りあがってくるのを無理矢理呑み下した。
吐き気が凄い。
意識が遠くなる。
嫌悪なんてものじゃない。
見たくない。
もう、見たくない。

黒髪が髪を舞わせて、顔を上げる。
今日一日で、いやいやながらも、見慣れてしまった顔だ。
あばらの浮いた、貧弱な体だって、黒須のものに間違いないだろう。
だが、腰から下が違った。


ズルリ。


腹に開いた大穴は、いつの間にか塞がっていた。
黒須が滑る音を立てて、ベイブの元へと這い進む。
竜子が悔しげに呻いた。
「無理矢理条件整えやがって。 これで、あたいの鍵さえあれば、全てが思い通りってわけか」


いずみは、堪えきれず引き攣った声で「ひっ! ひっ! なっ、い、いやぁ…!」みっともなく取り乱した声で、断続的に悲鳴をあげてしまう。
涙が、目の端に滲んだ。
嫌だ。
助けて。
誰か、怖い。
助けて。
一種の恐慌状態に陥ったいずみの体を暖かな感触が包み込む。
見上げれば、心配そうに見下ろす久我の顔が合った。
「うぅぅぅっ…」
涙を堪え、その体に縋りつく。
「大丈夫。 大丈夫だから」
久我がそう囁きながら頭を撫でてくれた。
「お姐さん」
黒須が、エマに声を掛けた。
シオンの背後に隠れるように動きながら、それでも「な、なんでしょう?」と、きちんと問い返す姿に、何て度胸がある人だろうと、感嘆する。
そんなエマを苦笑して眺め「あんた、知りたいって言ってたな。 こんな姿まで、見られちゃあ、全部一緒だ。 昔話でも、聞くか?」と、問い、エマは否応も無いといった調子でブンブンと頷いた。




「ありがちな話だ。 昔、惚れ合っていた男と女がいた。 女は、人とは違う種族の生き物だった。 だが、男はそれでも構わなかった。 女は夜以外は人間の姿でいれていたし、人間としての普通の生活を送っていた女だから、世間がそうであるように、二人の仲が深まれば、自然に結婚に行き着いた。 二人は平凡で、まぁ幸せな日々を送っていたのだが、ある日、女がある理由で殺されてしまった。 男は、自らの命を絶とうと心に決めるほど、絶望したが、女は死に際に男に言った。 生きて欲しいと。 そして、自分の全てを、貴方のものにして欲しいと。 男は、女の言葉通りにした。 それが、この結果だ」



月明かりに照らされ、濡れた輝きを見せる黒い鱗に覆われた大蛇の尻尾がのたくっている。
6.7メートルはあるだろうか?
その長く、丸太のように太い下半身をくねらせながら、明滅する明かりの中薄笑いを浮かべて立つ黒須の姿は、化け物以外のどんな呼び名も思いつかない。
いずみが最も嫌う生き物の形。
だが、何故だろう、目を逸らせない。
それは、最初に抱いた感想と一緒で、あまりにも醜悪が過ぎるからこそ、目が離せなくなっているのだろう。
嫌な脂汗がじっとりと滲み始めるのを感じながら、それでもじっと黒須の姿を見つめ続ける。
「全て、自分のものに…とは、如何様な手段で?」
久我が気遣うように、いずみからそっと離れ、黒須へと近付くと静かに問うた。
「貴方の目は、蛇の目だった。 舌だって、先が割れた、蛇の舌だ。 それに、あの時、俺たちが、あなたを出し抜こうとした時、いち早くそれを察したのも、その力のおかげなのでしょう? 蛇は、嗅覚鋭い生き物だ。 舌で、匂いを嗅ぎ分け、獲物の位置を探り当てるという。 貴方は、我々が立ち去るのを見たわけではない。 貴方は、我々の匂いが、竹下通り内から消えていた事に気付いて、駅へと先回りしたんだ」
そういえば、駅で、竜子達と鉢合わせした際、黒崎が舌を閃かせた瞬間があった。
あれは、余りにも化粧を厚塗りしていた為に、本当に竜子かどうか、判断できず、故に自分の嗅覚に頼ったという事なのだろう。
「そこまで、その亡くなられた女性と融合なされているという事は…」
そこまで、言って、久我は一瞬口を噤む。
何かの可能性に思い至ったのか、少し顔を歪めその表情を見て、黒須は嗤った。
「想像通りさ」
いずみは、その言葉の意味が分からずキョトンとする。
しかし、皆は分かったらしい。
息を呑むような気配。
自分だけ、分かってないという事態に、地団駄を踏みたくなるような悔しさを感じたけれど、どれ程成熟しようとも、小学生でしかないいずみには理解できないのが当然で、そして理解できなくて良かった。



黒須は、食べたのだ。


自分の全てを、貴方のものにして欲しい。



文字通りしたのだ。


食べたのだ。 全て。


「その結果、こういう生き物になった。 目や、舌、嗅覚こそは少々変化しちまったが、普段は、まぁ、そう人間とは代わりのない姿だ。 能力だって、体が柔らかくなった以外は、そんなに変化はねぇ。 あとは、まぁ、この髪かな」
そう言いながら不釣合いに美しい髪をつまみあげる。
「こいつは、元は俺の髪じゃない。 霧華の…俺が惚れてた女の髪だ。 切っても、切っても伸びてきて、キリがねぇんだよ」
「じゃあ、盗まれた薬指は…」
エマが、そう呟けば「そう、霧華のものだ」と、黒須が答える。
しかし、何故、そんなものを、竜子さんは盗んだのだろう…?と、新たな疑問を抱えることになったいずみではあったが、今は黙って、黒須の言葉の続きを待つ。
「普段はこうやって人間の姿ではいられる。 だが、夜限定だけどな、命を落としかけて、本来の俺の生命力が失われそうになった瞬間、こいつが出てくるんだ」と、言って自分の腰から下で蠢く蛇の下半身を愛しげに触れる。
そんな黒須に、漸くちょっと落ち着き始めたらしいエマが、いつもの冷静な声で「…自分が、そうなる事を予想して、黒須さんは、その、霧華さんを…?」と問いかけ、思いっきり素の顔で、下半身蛇の男に素の顔をしているという凄まじいシュールな状況ながらも、素の顔で「知ってたら、やってねぇよ」と黒須は返し、思わず納得させられた。
「もう、大変だぞ? 生活無茶苦茶だぞ? 霧華、何してくれるんだと、お前、何考えてたんだ、俺のそんなに、駄目な恋人だったか? 何か恨みのでもあったのですか? と問いかけたい位、アレだぞ? しんどいぞ? 齢38にもなって、髪はこんなだし、雰囲気は蛇って事で、とっても悪いし、子供には泣かれるし、爬虫類苦手な人には敬遠されるし、視力は落ちるし、昼日中はサングラスかけねぇと殆ど物見えねぇし、あと、あとなぁ! あとなぁ!」
手をわななかせながら、堪りに堪っていた鬱憤をぶちまけるように喋り続ける。
何度も聞かされているのか、物凄くうんざりした顔で、腕組をしているベイブは「適当に聞き流すか、打ち切るかしないと、ずーーっと、愚痴り続けるぞ?」と言っているのだが、蛇男にこんなに真剣に訴えられて、そんな話を打ち切る勇気を持っている奴がいるなら、是非お目に掛かりたい。
いずみは咄嗟に、長い胴体の部分に締め上げられている己の姿を思い浮かべてしまい、絶対に嫌だ!と硬く決意した。
「しかも、だ! しかも、霧華がなぁ…! 霧華はなぁ…!」
黒須がそこまで言った所で、「クッ…」と呻き、いきなし、暗い声で、聞き覚えのあるナレーションを始める。
「…奥様の名前は霧華。 そして、だんな様の名前は誠。 ごく普通の二人は、ごく普通の恋をし、ごく普通の結婚をしました。 でも、ただひとつ違っていたのは、奥様はマゾだったのです」


「は?」
脱力した声で問い返す、エマ。
何だか聞いた事がような気がするナレーションだけど、何のナレーションなんだろ?と首を傾げ、(マゾ? って、えーと、虐められるのが好きな人の事よね)と、黒須の言った言葉の意味を思い出す。
「だからな、霧華は、恋人の俺が知らなかったと言う事実にも、絶望したんだが、極度のマゾだったんだよ。 で、分かるだろ? あいつの色んな性質を、受け継いでしまった俺は…」
(えーと、つまり、黒須さんも、虐められるのが好きな人になっちゃって、だから竜子さんに叩かれていた時も抵抗できなかったのかしら? だけど、そもそもどうして、黒須さんは、霧華さんの性質を受け継いじゃったの?)
大人の疑問に翻弄され、ぐるぐると悩み続けるいずみを置いて、どんどん話は進んでいく。
エマが投げ槍というか、最早槍投げレベルの物凄くやる気のない声で、
「馬鹿じゃないの?」
と、言った。
「俺だって、馬鹿だと思うさ! ていうか、もう、俺の人生全部馬鹿だよ! 基本的に、馬鹿だよ!」
「夫婦だったんでしょ? そういう性癖、把握しときなさいよ…」
「知るか! ていうか、それ、一番の傷口だから、抉るな! 凄く痛いから! それに、あれだろ? まさか、あいつの性質を受け継いでしまうだなんて、予想してなかった訳だし」
黒須の言葉に「まぁ、人魚の肉を食らって不老不死になったという伝説があり、人外のものを食って、身体に影響が出るという事はあるだろうが、その性質を受け継いだというのは、確かに、珍しいといえば、珍しいかもしれないね」と口を開く久我。
いずみは久我の言葉に再び(え? 何で、人魚伝説の話を久我さんはするの?)と首をかしげてしまう。
「それまで、そりゃ、恋人は、変わった種族ではあった訳だし、怪異な出来事への理解っつうのは、人よりもあるつもりだったが、それにしたって、自分自身はごく平凡な人間でしかなかったんだぜ? まさか、自分がこんな風になるだなんて、誰が予想する?」
平凡…という言葉が今、平凡から最も離れた姿をしてる男の口から出るという事の違和感を感じつつ、怒涛のように言い募り続ける黒須に何だか、いずみは圧倒され始めていた。
「もう、凄い大変なんだぞ? 強い口調で命令されたら、全然逆らえないし、蹴られたり、殴られたりしても、抵抗できないし、蔑まれたときに、うっすら嬉しい自分を発見した時の絶望感というのはだなぁ…」
黒須の言葉に、嫌悪の顔をあらわに、エマは罵倒の言葉を浴びせかける。
「ていうか、気持ち悪っ! ただの変態じゃない、それ! うわ! 38歳、気味の悪いおっさんの、マゾって需要全くないね!」
「ないね! 有難くないね!」
そう言い合う、二人に「いや、あっても、困るでしょ、それ」と弱弱しい合いの手をいれるシオン。
「「うん、そうね!!」」と黒須とエマが何故か揃って頷いた後、「でな、でな! そこに付け込まれれば、幾らでもいう事を聞かせられちゃう訳だからって事で極力、人に知られぬよう行動してのに! あいつが! あの、アホ竜子が、また、事あるごとに、切り札っつって、俺の事をイヂメやがって!」と叫べば、「うん、見てた。 凄かった。 竜子ちゃん、堂に入ってた。 十分、プロとしてやってけそうな貫禄があった」と、またまた、いずみには、よく意味の分からない事をいうエマ。
(プロ? 竜子さんは、何のプロになるの?)
そう思って竜子を見れば、何故か照れたように竜子は頭を掻いていて、とりあえず褒め言葉だったんだと、いずみは理解する。
そんな彼女を指差し「そこ! いい気にならない! ってか、やめろ! プロとか、恐ろしい事を言うな!」と、本気の声でエマに黒須は訴え、「ていうか…コレ、何の話だっけ? 何で、こんなトコまで脱線してんの?」「さぁ?」と言い合う二人に「「「「いやいや、貴方たちのせいだから」」」」と、分からない事はたくさんあれど、これだけは間違いないと革新して、皆と一緒に突っ込んだ。
黒須もそうだが、エマも怒涛の勢いというか、あんなに黒須の姿に怯えていたくせに、今や丁々発止のやりとりをしていて、結局肝が据わってんだから……と、いずみは呆れてしまう。
「何か、予想外の盛り上がりを見せていて、腰を折ってしまうのが恐縮なのですが、そろそろ、次へ進めないと、黒須さんそのような格好のままでは、お風邪を召されますよ?」
と、笑顔で間に入るモーリスに、いずみは思わず感謝の念を捧げた。
黒須は、乱れた黒髪をうっとうしげにかき上げ、「あーっと、とにかくだ、そんなこんなで、俺はこんな需要のない生き物になった訳だ」と言葉を切ると、今までじっと辛抱強く待っていたベイブが、「で? 鍵は、取り返したんだろうな」と黒須に問う。
竜子が「まだだ! 誰が、返してやるもんか!」と、ギッとベイブを睨んでいたが、黒須は肩を竦め、そしてベイブの前に掌を突き出した。




掌の上に銀色の指輪がはまった、真っ白な、美しい指が一本転がっている。





「いつのまに!」
と叫ぶ竜子に「悪ぃな、お前の、女王様がご光臨されていらっしゃる時に、スらせて貰った」とふざけた口調で答え、そして、「ていうか、お前、マジで、時と場合と、場所を考えて降りてきてくんないかなぁ…」と言いつつ、その指をベイブに渡す。
「鍵穴は、何処が良い?」
ベイブにそう問われ、ズルリと細長い舌を出して閃かせると、その中ほどを指差し、「おおらえん、おおしおうあい?」と、口を開いたまま意味の分からない事を言う。
「舌をしまえ。 何言ってるか分からんていうか、ここまでのページ数凄まじい事になってるから、どんどん話を早く進めたいという、気持ちを察して欲しい」
そう真面目な声で、誰の気持ちに即した言葉なのか分からない事を言うベイブに頷き、ズルンと舌をしまった後「舌に作ると、目立たねぇし、面白くないか?」と、まるで、凄く良いアイデアを思いついたかのように提案する黒須。
「鍵穴って何よ? そもそも、その霧華さんの薬指は、なんなの?」
エマが、最早ためらうそぶりもなく問えば、ベイブが重々しい声で告げた。
「私の王宮の鍵だ」
「王宮の…鍵? 貴方の体があるっていう、『千年王宮』とやらの?」
「ああ。 私はそこに幽閉されている。 余り長い時間、外に存在する事は赦されず、また、外に出ても、体を置いてではないと動けない。 精神体とはいえ、辛うじて、物に触れる等の行為は可能なのだが、疲弊してしょうがない。 なので、私の目の代わりとなって、この世の事を見聞きしてくれる物が必要になった」
「で、その白羽の矢が俺に当たったわけ。 俺としても、こいつの持っている力を利用させて貰いたかったし、その契約の証として、俺はこいつから、『千年王宮の鍵』を預けられる事になった」
「それが、その薬指だ」
竜子が、苦々しげに、黒須の手の中にある、薬指を見つめる。
「復讐の為に、誠は力が欲しいんだ。 霧華姐ぇを殺した奴に、復讐する為に、あんたは向こう側に行っちまうんだ! 下らないっ! 分かってんのかよ。 そんなの、霧華姐ぇは望んじゃいねぇ! 望んじゃいねぇのに…」
「霧華さんという方と、竜子さんは知り合いだったの?」
鵺がそう問えば、コクンと子供の仕草で頷いて「あたいにバイクの楽しさを教えてくれたのも、任義や仲間の大事さを教えてくれたのも、霧華姐ぇだった。 あたい、尊敬してた、霧華姐ぇの事。 18になったら、一緒にツーリングしようって言ってたのに、あたいが18になるのを待たずに、霧華姐ぇは死んじまった。 その時、あたい、決めたんだ。 霧華姐ぇが、一番大事にしていた誠は、あたいが守るって。 何があっても、あたいが守って見せるって」と、熱っぽい口調で言い募る。
「なのに…なのに、誠ときたら、何処で、どうなったのか、おっさんなのは、前からだけど、やさぐれるし、ヤクザそのもののような生き様を見せるし、うっかり変態にまでなって、しかも、何処で知り合ったんだか、変な飼い主見つけてくるし…」
くぅぅぅ…と、うずくまり地面を叩きながらそう呻く竜子に「いやいや、それ、とても誤解を招く発言だから」「飼うなら、もっと可愛いものが良い」とベイブと黒須が一緒に突っ込むものの地面にうずくまったまま、「ある日突然、今まで、ずっと大事にしてきた男に『じゃ、今日から、ちょっとばっかし、こいつんトコ世話になるから』って、素っ頓狂な格好した男を紹介されたあたいの気持ち分かるか? 『一応、千年王宮で暮らさなきゃなんねぇから、もう会えなくなるかもしんねぇ』って言われて『え? 千年王宮って……何処のテーマパーク? テーマパークの住人って…、アトラクション案内でもすんの? それとも、着ぐるみでも着るのか?』ってなったあたいの気持ち分かるだろ?」と鵺に訴える竜子。
鵺も面白がってか「そうだよね。 そうだよね。 ビビるよね!」と同意を示す。
「だろ? で、話聞いてみたら、契約を結んで、誠がベイブに仕え、同じように『千年王宮』に繋がれる代わりに、何か、力を貸して貰うだとか、何とか言ってて、マジで意味わかんないんだけど、でも、ヤベェって、それって、ヤベェって思って…」
「それで、鍵を盗んだ…。 でも、どうして、霧華さんの指が、鍵なの?」
不思議そうに鵺が首を傾げれば、竜子ではなく黒須が答える。
「『千年王宮』の鍵はな、鍵の持ち主となる、人間の体の一部であれば、何でも良いって言うもんだから、霧華の指を鍵にしたんだ。 その鍵さえあれば、いつでもこっちと『千年王宮』を行き来できる。 使う際は、いちいち蛇の姿に戻りらなきゃならねぇのは面倒臭ぇが、この姿になれば、霧華と同化した存在になり、薬指が、俺の体の一部だと認められて、鍵が使えるようになる。 指だろうが耳たぶだろうが、切り落とされたりするのは御免こうむりたかったからな。 薬指だけは、指輪が嵌っちまってたから、大事にとっておいたのが功を奏したと思ったのに、まさか、こんな風に盗まれちまうとは思わなかったぜ。 しかもベイブは早く持って来ねぇと、俺の指を使うとか脅してきやがって、マジで焦ったっつうの」 
 そう言う黒須の口に物言わず、自分の指を突っ込むベイブ。
「…お喋りが過ぎる。 とっとと、済ませるぞ」
そう言われ、ベイブの指を咥えたまま、モガモガと何か言いかけて、それから諦めたように黒須は黙る。
「お前っ! マジで、自分がどうなるのか、分かってんのかよ!」
そう、叫ぶ竜子にチラリと視線を送り、何とも言えない笑みを浮かべると、黒須はゆっくりと眼を閉じた。
「…我に仕えよ。 我に繋がれよ。 我の忠実な僕となれ。」
そう言いベイブが、黒須の髪を梳く。
「……此処へ、おいで」



その瞬間、黒須がガクン!と仰け反り、喉に真っ黒な皮のような物で出来た輪っかが巻かれた。
暫く小さな痙攣をした後、首を何度か横に振りながら、顔を起こし、探るように自分の口の中に指を突っ込む。
そして、ニタリと笑うと、ベイブの前の地面に這い蹲る。
長い髪が、地面に流れ落ち、月明かりを受けて、黒い海のように見えた。
竜子が見たくないという風に、視線を逸らす。
地面に口付け、黒須が宣誓した。
「身命を賭して、貴方にお仕え申し上げます」
ベイブが、ブーツの足を持ち上げ、黒須の頭を踏む。
「我、そなたを『千年王宮』の住人と認めよう」
そのまま何を考えたか、物言わぬまま、ベイブはぐっと足に力を込め、当然の如く自然の摂理でガチンと、明らかに痛そうな音を立てて、黒須は額を地面に打ち付けた。
「ってぇ!」
そう叫び、ベイブの足を振り払うと額を押さえて、のたうつ黒須。
そのまま、ガバっと身を起こし、「いった! すっごい痛い! っていうか、何さっきの? 何の意味が?!」とベイブに怒鳴る。
赤く腫れている額を指し示し睨み据える黒須に、無表情のまま「いや、何か、こう、このまま、足に力を入れたら、どうなるのかな?っていう、極自然の好奇心が…」というベイブ。
その身も蓋も無い答えに、「死んでしまえ!! 好奇心も何も、踏めば、おデコぶつかるでしょ! ぶつかったら痛いでしょ! 分かる? 俺の言ってる事、分かりますか?! 分かりませんか?!」と黒須が叫ぶ。
間近で怒鳴られ、如何にもうざそうに顔を顰めてそむけるベイブに「何? その態度! うあ! ねぇ! このオデコ、見て! ほら、痛そう!」と、やっぱりうざく言い募った後、「あー、もう既に、こんな上司に仕えなきゃならん事態に、後悔の波が…」と、黒須は暗い声で嘆く。
黒い首輪は、どうも、ベイブに仕える者の証らしい。
溜息混じりに黒須は口を開いた。
「ま、とにかく、ゴタゴタしたが、目的は達せられた。 ごくろーさん。 全くもって、邪魔ばっかりしてくれたが、あんた達がいなきゃ、竜子捕まえられなかったのも事実だからな、一応料金は振り込んでおく」
そう告げた黒須に、久我が「契約とやらは、済んだということかな?」と問う。
黒須は、頷くと、ズルリと舌を見せる。
その下の中程に、丁度薬指が嵌る位の小さな穴が開いていた。
「こいつが、王宮の鍵穴」
そう黒須が、言った時、「きゃぁぁぁ!」と零の悲鳴が、その場に響いた。
慌てて零に視線を送れば、零は、後方を指差している。
零の指の方向を見れば、シオンが飛びつくように、竜子の体を抑え込んでいた。
「っ! 止めるな! やらせてくれよ!」
そう叫ぶ竜子。
その手には、小さなナイフが握られている。
黒須の後を追おうとしたのか。
いずみは、そう気付き、驚き、硬直する。
そこまで、黒須が大事なのか。
あんな醜悪な姿を見ても尚、そこまでして、側にいたいのか。

そして、いずみは、ふと気付いた。

そうか、竜子さんは、黒須のことが好きなんだ。
とても、とても、好きなんだ。

あんなに本当は綺麗な人なのに、どんな姿でも関係ない位、黒須の事を好きになってしまったんだ。


エマが、竜子に走り寄り、「馬鹿! 何をしようとしてるの! 馬鹿、馬鹿!」と怒鳴りながら、何とか竜子の腕を捕まえる。
「痛いのよ?! やった事ないけど、指を切るって、絶対痛いの!」
そうエマが言うのに同調して、「俺もVシネで見たけど、大層痛そうでしたよ?」とのんびりとした声で、封禍が言った。
「自分で言ってたじゃない! 取り返しがつかないって! 貴方まで、あっち側に行くことないでしょう? せめて、もっと、大人になって、色んな判断が出来るようになってから!」
そう言われ、悔しげに、身を捩るように、唇を噛みしめ、涙を零す竜子の姿を見て、切ないような、苦しいような気持ちになる。
分かってくれない。
どうして、分かってくれない。
大事で、大事で、どうしたって離れたくなくて、そんな恋は、大人も子供も関係ないんだと。


女だから、恋に堕ちる。






「イイんじゃない? 好きにさせれば」
すると、今まで静観していた鵺が、気のない口調で、エマの言葉を遮った。
思わず勢い良く振り返り、エマはキッと鵺を睨み据える。
「何が良いの! こんな、未成年者が、そんな!」
鵺は、そんなエマから視線を外し、竜子に向かって問いかける。。
「覚悟、決めてんでしょ? 女なんでしょ? まこっちゃんの事守りたいんでしょ?」
竜子は、コクリと頷いた。
黒須が険しい声で「変な事けしかけんじゃねぇぞ? お嬢ちゃん。 そいつは、カッとしやすい性格なんだ。 しかも、18の小娘が、指を落とすなって、これからの将来に影響するような事をやんのを、俺は許すつもりはねぇよ。 霧華にも、竜子の事はくれぐれもって頼まれてるし、俺ぁ、兄貴代わりとしても、そいつが真っ当な人生送るのを見届けてやんなきゃなんねぇ。 こっち側になんか、来させやしねぇよ」と、言う。
ベイブも、厳しく凍りついた声で「娘は来るな。 お前は、まだ年若い。 そんなお前を、呪われた王宮に繋ぐ事など、出来はしない」と言い、鵺に「馬鹿な事を申すな」と言って睨み据えた。
だが鵺は、そんな言葉を全く聞かず「若いとかさ、女だからとか、関係ないよね。 人生の決断の時なんざ、訪れるタイミングを選ぶ事は、誰にも出来ない。 鵺は、まだ13だけど、色んな事を選んできた。 竜子さんが、今、此処で、大事なものを守りたいと決断したのなら、それが絶対に揺るがないのなら、追えばいいじゃん。 行っちゃえばいいじゃん。 他人の道行きを、邪魔する事なんて誰にも出来ない。 竜子さんの自由だ。 捕まえて、離したくないものがあるのなら、それ捕まえとく為に、人生も、命も賭けちゃった方が、後悔しないよ」と、笑いかける。
竜子は、その言葉に頷き、黒須に視線を向けると「あたい、そっちに行くよ? 許して貰わなくたって構わない。 あんたの事逃がすもんか。 あたいの、知らない場所へ行かないで。 寂しい事をされる位なら、あたいは全部を賭けて追ってやる。 このお竜さんの覚悟はね、霧華さんが死んだ時から、ずっと決まっていたんだ。 ナめんじゃないよ!」と、啖呵を切り、それから鵺にニカッと笑いかけた。
「あんがとな。 お前、結構格好良いぞ」
そして、竜子はシオンとエマに交互に視線を向け、「ごめんよ。 ヤらせてくれよ。 心配してくれんの嬉しいよ。 すっげぇ嬉しいけど、でもさ、大丈夫だよ。 たかが、指なんだ。 あたいの大事な物は、何にも欠けやしないんだ。 お願いだよ」と訴えてくる。
黒須が「早く、そいつから、その物騒な物取り上げろ!」と怒鳴り、ベイブが「馬鹿な言い分を聞く必要はない! そんな娘に指を断たせるなど、してはならない!」と叫ぶ声が聞こえる。
エマが、シオンが眉根を下げ、此方を見回してきた。
いずみは、どうしてだろう。
行けば良いと、この人の邪魔をしてはならないと思っているのに、寂しいような影が胸にちらつく。
それは、竜子の綺麗な横顔を過ぎる、薄倖の影。
この人は、幸せにはなれまい。
なんだか、そんな気持ちになる。
黒須についていって、この人は、きっと寂しい思いをする。
いずみはそんな気がして、ならなかった。
鵺が、「…ね? 行かせてあげようよ」と囁く。
その言葉を合図に、シオンとエマは二人は顔を見合わせ、泣きそうに眉根を下げながら、ふっと腕を掴む手を緩めた。





竜子が「ありがとうござんした」と、いつの時代の言葉か分からない御礼の言葉を口にすると、躊躇いなくナイフを振り上げ、自分の指に振り下ろす。
肉と、骨の立たれる嫌な音に、ぎゅっと目を閉じ、首を横に向ける。
「ぐぅっ!」という、呻き声が聞こえ、恐る恐る竜子に視線を向ければ今にも気絶しそうなほど青ざめ、脂汗を浮かべた彼女がいた。
「馬鹿が!!」
そう怒鳴り、竜子の側へと這ってくる黒須。
「馬鹿が! 馬鹿が! この、馬鹿女が!」
そう罵り、竜子の左手を持ち上げ、なんとか止血しようとする。
だが、そんな黒須をスッと制止し、微笑を浮かべたまま、モーリスが「貴女に触れても宜しいですか?」と竜子に聞いた。
痛みに涙を流し、呻きながらも、コクリと頷く竜子。
すると、モーリスが両手を合わせて唇を寄せ、淡い光を宿し、そっと、指を切り落とした後の、竜子の傷口に触れる。
すると、見る間に、竜子の傷口は塞がり、そこから新たな指が生えた。
「っ! え? な! えええ?!」
竜子が驚いて叫び声をあげ、黒須も目を見開きモーリスの秀麗な顔を凝視する。
「…あ、あんた、手品師かなんかかい?」
竜子のズレまくった質問に、モーリスが笑顔で頷くと「そうなんです。 それも、かなり腕利きのね」と、シレっと答えた。
そうか。
そういえば、モーリスの能力は、「全ての物を、あるべき姿に戻す」というものだった。
つまり、切り落とした指を、元の姿に戻す事など、造作もない事に違いないっていうか、そういう事が出来ると、最初に言ってくれ。
まあ、モーリスが、「本当に指を無くしても、黒須を追いたいのか。 その覚悟があるのか」確かめたのだろうと思い、それにしたって黙ってじっと見ていた辺り食えない男だ、と改めて確信する。
そして、いずみは黒須とベイブに視線を送り、「竜子さんが、ここまでの覚悟見せて、まさか、連れて行けないなんて、言えませんよね?」と、確認を取った。
その言葉に、顔を見合わせる黒須とベイブ。
ベイブは眉間の深い、深い皺を刻み、色のない唇を気に入らなさそうに歪めると、「…仕方ないな」と呟いた。
「ハァ?! お前、正気かよ!!」と叫ぶ黒須に冷たい一瞥を送り「お前が、この娘を此処まで追い込んだのだ。 自業自得だろう」と、にべもなくあしらうと、黒須は、目の前に差し出されている真っ赤な血に染まった指を見下ろし、頭を抱えて「もー、知らねぇ。 もう、どーなっても知るもんか!」と呻いた。




靴を脱ぎ、優しく、そっと平伏す竜子の頭の上にベイブの足が置かれる。
「俺への態度と、随分違うじゃねぇか…」
黒須が苦々しげに呟くので、苦笑を浮かべてしまう。
「あー、あのー、えっと…し…しんめぇを…、えーと…」
「身命を賭して、貴方にお仕え申し上げます」
(どうして、あんな短い宣誓文を覚えられないの?)と、歯痒く思いながら、いずみが、冷静な声で、竜子に言う。
「あ! そう、それ! それなんでよろしく!」
そう言う竜子に深々とため息を吐き、「ちゃんと、宣誓だけはしてくれ」とベイブが言った。
「うー、身命を賭して、貴方に…お仕え…もうしあげます」
「我、そなたを『千年王宮』の住人と認めよう」
ベイブが哀しい目で、憐れむように竜子を見下ろして囁き、足を退けるとその髪をサッと払ってやる。
竜子の喉には、赤い首輪が巻かれている。
彼女はそれを嬉しげに触り、それから自分の胸の真ん中、晒しで隠れるギリギリ辺りに空けて貰った鍵穴に手を触れた。
ベイブは、クルリと背を向けると「私は疲れた。 先に、戻る。 貴様ら二人も、適当に準備を済ませて、後から来い」と告げ、瞬きする間もなく消える。
脱力したように、へタンとしゃがみこんだままの竜子はまず鵺に「あんがとな。 背中押してくれて」と笑いかけ、それからいずみにも「お前、よく一遍聞いただけで、あんなの覚えられたな。 天才だな」と笑いながら言った。
時間が経ち、元の姿に戻った黒須は、シオンから借りた上着を羽織って、うずくまったまま、「てめぇが、アホなんだ。 アホ!」と、怒りの篭った声で言うと「こいつが、あんなあほな事しでかしたのには、お前らのせいでもあるんだからな」と恨みがましい目で見回してきた。
確かに、仰る通りですと項垂れるしかない。
自分の先入観も合って、考えてみれば、何も分からないままに、随分失礼な事を言ったり、やっちゃったりしたような気がするし、何度か興信所の手伝いをしてきたが、ここまで、依頼人に対し不利益な結果に終わった仕事も珍しい。

黒須達の言う「千年王宮」という場所。
ベイブが、そこに幽閉されている訳。
黒須がどのようにして、ベイブと知り合ったのか…。

気になる事は色々あったが、今は、いずみは何よりも黒須に対して言わねばならない事があると思い、意を決して黒須の側へと寄った。



「あ…あの…」


震えながら、声を掛けてくるいずみを、黒須が不思議そうに見上げる。




「あの……、本当に、すいませんでした!」



ぺコンと頭を下げ、詫びるいずみを、細い目を見開いて見つめる黒須。
「私、誤解していて! でも、それは、黒須さんが、何も仰ってくれなかったのも、悪いんじゃないかな?って思うんですけど、でも、私、蛇が嫌いで、っていうか、爬虫類が苦手で、多分そのせいでの先入観もあって、で、先入観で人の評価を全てしてしまうというのは、大変恥ずかしい事で、私は、貴方の事を知る努力をしないままに、貴方の人間性を悪だと決め付けてしまって、つまり、何を言いたいかというと……!」
そこまで、一息に言って、いずみは大きく息を吸う。
「恥ずかしい事を、してしまいました。 貴方に対して、余りにも失礼でした。 申し訳ないです」
そう深々と頭を下げるいずみに、「あ…うーー、うぅ?」と、意味の分からない呻き声を上げ、それから、苦笑したような声で「や、謝るの、俺の方だろ? おっちゃんさ、ちょっと、まぁ、複雑な事情で、ああいう姿になっちまうんだ。 で、そういうのが、あんたみたいな、女の子には、すげぇ怖いもんだって分かってるし、普段もな、ああいう姿の気配っつうのは、滲み出ちまっててな、だから、しょうがない。 うん。 気にすんないずみ。 お前は悪くねぇよ。 怖かったな。 ごめんな。 ごめんな」と、言う黒須。
何故か、涙が零れ落ちそうになるのを堪え「馬鹿」と小さく呟く。
黒須が「はい?」と言いながら首を傾げれば「この私が、頭をこうやって下げるのは、とっても珍しい事なんです! 許さないで下さい。 どうぞ、叱ってください。 そうじゃなきゃ、私…私…みっともないままになる」と、訴える。
黒須は、心底困りきった顔で「いずみは、難しい事を色々考えんだねぇ」と呟くと、「あのね、あんたは、どんな風に思っちゃってんのかは知らないけど、俺は、あんたが最初に評価してた通りの人間だぜ? 化け物で、汚くって、あんたみたいな、賢くて、可愛い子と喋るのも許されないような、やっちゃいけない事もやってる。 だから、あんたは悪くないんだって。 謝るなよ。 な?」
黒須の言葉の寂しさに、いずみは、何だか打ちのめされた。
世界が違うと言っているのだ。
この男は、こんなに目の前にいて、触れられるような距離にいて、なのに、いずみに自分は違う世界に住んでいるから、罵られて当然の生き物なんだよと言っているのだ。


堪らずいずみは手を伸ばした。
その頭を抱え込み、ぎゅっと抱きしめる。
嫌悪感はある。
鳥肌だって立つ。
でも、誰か、お願いです、誰か、この人を救ってくださいと、いずみは祈っていた。


そして、竜子の横顔を横切った薄倖の影を想う。


竜子は幸せになれまい。



この男の側では幸せになれまい。



この男の魂は余りに孤独だ。


「そんな…事、言わないで下さい」


黒須はじっと動かない。


「そんな寂しい事を言わないでください」



そして、いずみは月明かりの下、決心した。
今度、もし、この男と会う機会に恵まれたのなら。
その時、この男が、あの蛇の姿を見せたなら、触れようと。


どれ程、恐怖と嫌悪に心を縛られようと、この男に触れようと。



その行為が、少しでも、黒須の魂を救えばいいと願いながら。






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■          登場人物           ■
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【0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【2414/ 鬼丸・鵺  / 女性 / 13歳 / 中学生】
【3342/ 魏・幇禍  / 男性 / 27歳 / 家庭教師・殺し屋】
【2318/ モーリス・ラジアル  / 男性 / 527歳 / ガードナー・医師・調和者】
【3356/ シオン・レ・ハイ  / 男性 / 42歳 / びんぼーにん 今日も元気?】
【1271/ 飛鷹・いずみ  / 女性 / 10歳 / 小学生】
【3880/ 久我・高季  / 男性 / 63歳 / 医師】


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■         ライター通信          ■
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最早、遅れるのがデフォルトになってしまっていて申し訳ありません。
初めましての方も、そうでない方も等しくごめんなさい。
駄目人間駄目ライターmomiziで御座います。(土下座)
今回こそはと、願っていた個別通信もやっぱり出来そうになく、歯噛みしております。
締め切り延ばしても、遅れるというのは、最早、私自身そういう病気なのかもしれません(開き直り)
なので、暫く山辺りに篭って療養生活をすべきかと!

うー、そんな優雅な人生を送ってみたい。

さて、今回はNPCとして、妙な三人を出してみました。
この二人は、この後異界に登録予定。
また、遊んでやって下されば幸いです。
しっかし、こう、今回は私の趣味が如実ににじみ出たお話になっていて、なんとも気恥ずかしいです。
NPCの登場といい、世界設定といい、今まで以上に、楽しませて頂きました。
この長さも、そのせいです!

本当に、長々とした物語にご参加有難う御座いました。
尚、momiziのウェブゲームは、登場人物全ての方、それぞれの視点に即した物語となっております。
お暇なときにでも、他のウェブゲームにもお目通し頂けると新たな真実や、自分のPCが他PCにどう思われていたのかを、知る事が出来るかと思います。

ではでは、またお会い出来る事を、心よりお祈り申し上げております。

momizi拝