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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


水妖の夢

【壱】

「少々お待ち下さい」
 申し訳なさそうに背後のやり取りに呆れたような笑顔と言葉と共にローテーブルの上に置かれたコーヒーカップに視線を落とし、次いで藤井百合枝はどのデスクよりも一段と騒がしいデスクに視線を向けた。
 そこにある姿はいかにもできる女といった風の碇麗香編集長。そしていかにも駄目社員といった雰囲気が余すことなく発散されている三下忠雄だ。切れ切れに聞こえる会話の内容は三下がまた何がしかのミスをしたものであるらしい。
 周囲の様子を見るからにいつもの光景なのだろう。そう思ってカップに手を伸ばして口をつけると、濃すぎることもなく薄すぎることもないそれは明らかにインスタントコーヒーではないようだ。ここにきてこんな美味しいコーヒーに出会えるとは思っていなかったと何をするでもなくぼんやりと考えていると、三下の叱責も終了したのか碇麗香が挨拶と共に向かいソファーに腰を下ろした。
「この度はお世話になります。編集長の碇麗香と申します」
 名刺を交換しながら手短に挨拶を交わし、のろのろと碇の傍に立った三下にも小さく頭を下げる。
「事情は三下のほうから聞いていらっしゃると思いますが、他に何か疑問に思うことは?」
 礼儀正しく滑らかな口調で問う碇に、いいえと答えて三下に向けると所在無いというよりも怯えきった様子で俯いている。よほど手ひどくやられたのかもしれない。そんな三下の様子に気付いたのか碇が鋭く、しゃんとしなさい、と一言。しどろもどろに答える三下は、最後によろしくお願いしますの一言で言葉を括った。
 事の発端は仕事の帰り、不意に三下に声をかけられたことにある。調査に同行してほしいとのことだったが、不信に思ったのが本心だ。しかしだいたいの内容を聞き、名刺をもらい、社のほうへ来て頂ければという言葉で半ば好奇心も手伝って折れたのである。疑念が晴れたわけではない。ここへ来るまで、否、碇麗香の姿を見るまで何かおかしなものにはまってしまったのではないかという予感がしていた。いざとなったら逃げ出す覚悟でいたことも確かである。しかし碇と三下のやり取りや、今百合枝がいる場の雰囲気が三下の言葉に嘘偽りがないことを伝えているような気がする。怪しいといえば怪しい。けれどその怪しさは決して犯罪がらみといったようなものではなかった。
 手身近に事の段取りを説明する碇の言葉を聞きながら、三下から聞いている情報を整理する。山奥にある妖が出るという曰くつきの湖での失踪事件。それも決まって男性ばかりだという。戻ってきた者はなく、原因は不明。百合枝への以来は失踪原因の調査兼三下の取材のアシスタントである。碇は特別なことをしてほしいわけではないと云う。ただ何故だから妖怪の類に好かれる三下をバックアップしてくれればいいのだそうだ。碇自身も状況を把握しかねているのか、言葉の端々に苛立ちのようなものが感じられる。三下はおどおどしたままだ。もしかすると碇の苛立ちの原因は状況が把握できないからではなく、三下の態度にあるのではないかと気付くとこれから行動を共にしなければならないことに憂鬱の気配を感じた。
 しかし一度引き受けてしまったからには、今になって背を向けることはかなわない。とりあえず自分ができる限りの範疇で三下に付き合うほかないだろう。それにしても三下のような人間でもきちんと会社の一員として仕事ができているのだから不思議なものだ。即日解雇されてもおかしくない雰囲気が全身から立ち上っている。
「さんしたくんが役に立つかどうかはわからないけど」
 三下を咎め続けた砕けた口調のまま碇が百合枝に向き直る。
「よろしくお願いします」
 きっとこの人も上司という立場で多くの苦労をしてきたのだろうと思いながら、よろしくお願いしますと頭を下げると三下がおどおどした口調で、ではと切り出す。それにつられて立ち上がると、周囲の視線が瞬く間に同情に変わった気がした。しかし誰一人として言葉は発しない。きっといつものことなのだろう。仕方ないと諦めて、背後を気にしながら編集部を出る三下の後を追う。今後が思いやられると思ったのは事実だが、敢えてそれには触れず、何も訊かず、とりあえず現場に赴くことが最優先だと思った。


【弐】


 移動は電車とタクシーを乗り継ぎ数時間。三下は常におどおどした気配を隠さず、共に歩くそれだけで自分が何かをしただろうかと錯覚してしまうほどだった。しかしだからといって全く要領を得ないのかといったらそうではなく、疑問を投げかければしどろもどろになりながらもきちんとした答えが返ってくる。
 失踪者は編集部の人間ばかりではないらしい。興味本位で近づいた一般人も含まれているそうで、そんなことがあったせいか向かう場所は一部のオカルト好きには有名なスポットであるという。妙な噂が広がる以前は風光明媚な観光地であったというが、いつからか警察沙汰になるほどの失踪事件が露見するようになってからぱたりと観光客の足は遠のいたという。勿論警察が動いたところで失踪者が見つかったわけではない。今も見つからず失踪者のままだという人間が多くはないものの存在するのだと三下は云った。
 おかしなものだと思う。
 警察が動いても見つからない失踪者は多い。けれどある一定の場所で起こる失踪事件がこれまで報道されることもなく、ひっそりと慎ましやかな秘密に包まれるようにして存在していたということが現実にあるとは思ってもみなかった。失踪という言葉が備え持つ事件性のせいかもしれない。そして百合枝にとって失踪という言葉が身近ではなかったせいもあるだろう。
「どうして今までニュースになったりしなかったんでしょうか?」
 思ったままのことを言葉にするが、答えはぼんやりとして要領を得ない。三下はそんな風に考えたこともないらしい。
「多くの人が失踪していたりするならニュースになってもおかしくありませんよね?」
 重ねて問うても三下は、はぁ、とか、まぁ、といったような間延びした言葉を漏らすだけだ。そんな三下の態度には苛立ちを通り越して呆れるばかりである。
 これ以上は進めないと云うタクシーの運転手に舗装もされていない小道の前に降ろされて、二人肩を並べて木々の間を縫うように前へ進む。必要かもわからないまま持参した霊刀が本当に役立つことがないといいと思いながら、現場が近づくにつれて三下が怖気づいてくるのがわかる。しゃんと背筋を伸ばすことができないのか、丸められた背はますます丸くなっている。百合枝はそんな三下の姿を呆れつつ眺め、いてもいなくても同じなのかもしれないと思った。取材の責任者として今ここにいるのかもしれなかったが、何かあった時に三下にどうにかしてもらおうということは期待してはいけないことだと思った。何かあればきっとあのいかにもできる女といった体の碇が頭を抱えることになるのだろう。どう考えても三下一人でどうにかできるとは思えない。
「あっ……」
 事件とは全く別の心配をしながら歩き続けていくと不意に三下が呟きと共に立ち止まる。つられるように百合枝も立ち止まり、正面に視線を投げるとそこには大きな湖が湖面を静かに風に波立たせながら存在しているのがわかった。一見して妖がいるような気配もなければ、禍々しさのようなものも感じられない。至って平穏な、穏やかな湖があるだけである。
「本当にここなのでしょうか?」
 思わず訊ねると、
「えぇ、多分……」
と三下の頼りない返事。
 もうあてにしないほうがいいのかもしれない。思って百合枝は三下を置き去りに一歩を踏み出した。
 柔らかな緑の草が地面を覆う。歩きつかれた足をいたわるような柔らかさを感じながら、遠くに視線を投げてもあるのは広すぎる湖と抜けるような青空に向かってそびえる木々だけだ。平和という言葉しか思い浮かばず、不穏な言葉は似つかわしくないと思う。交通の便は悪いが、それが改善されることがあれば湖水浴場として人気の場所になるのではないかという気さえする。流れる風が木々の葉を揺する音が心地良い。辺りを満たす水の香りは心地よく、深く深呼吸すると日頃の疲れは瞬く間に吹き飛ぶようだった。一回りするには距離がありすぎ、てきとうな所で足を止めて水辺に近づいてしゃがみ込む。何気なく手を伸ばすと、不意にノイズのような音が鼓膜をついた。
 背筋を冷たい手で撫ぜあげられるような悪寒を感じる。
 風が凍てる。
 おかしいと思った。
 はっと三下のほうへ視線を投げると、茫然自失といった体で湖面を見つめている。
 噂ではなかったのだと確信した。肌で感じる雰囲気が先ほどまでのものとはまるで違っている。憎しみで総てを焼き切ろうとするかのような鋭さがあたりを包む。一つの空間が刃と化したかのようにピリピリとした痛みが肌を刺す。耳鳴りがする。金属音のような鋭い音だ。
 明らかに第三者がいる気配がする。姿は見えなくとも、存在だけはわかる。
 いる。
 確かに現とは別の世界に住まう者の気配。
 それは決して穏やかではなく、安らかでもない。憎しみとそれと同じだけの愛情。残り香のような思念はどす黒く、逃れるように立ち上がると立ちくらみとは明らかに違う眩暈が百合枝を襲った。
『……女……」
 声は低く、地の底を這うような重たさで響く。
『何のためにここへ来た……』
 辺りに視線を彷徨わせると湖の中央に揺らめき立つ靄のようなものが緩やかに人の形を形成していくことに気付いた。
 白いすらりとした手足。胸元に垂れた黒髪はしっとりと濡れて張り付き、漆黒のワンピースからはひたひたと雫が落ちて湖面に水紋を描く。
 気付けば辺りは陽の光とは切り離されている。薄闇に包まれ、次第に不快な感情に満たされて、身じろぎすることさえ苦痛を感じるほどだ。
『答えろ。何のためにここへ来たのだ』
 外見は女性だというのに、声はしゃがれて美しさの欠片もない。
「失踪した人を捜しに来たのよ」
 凛とした声で百合枝が答えると女は笑った。醜い笑みだ。
『つまらぬことだな』
「どうかしら?あんたがしていることこそつまらないことだと思うけど」
『おまえに何がわかる』
「わからない。私はここに来ただけだし、あんたがどうしてこんなことをしているのかもわからないわ」
 途切れ途切れに眩暈が襲ってくる。気を確かに持っていなければ足元がふらつきそうだ。
 不意に何がそこまで女を追い詰めたのだろうかと思った。思いつめるようにしてただ一つを憎み、殺意にも似た感情を抱きながらここにとどまる理由は何かと。
「でも……、興味はある。あんたは何を憎んでいるの?」
『興味?ふざけるな。興味本位でおまえに語ることなどありはせぬ」
「じゃあどうしてここで失踪者が出るのか教えて。それならあんたでもわかることでしょ?」
『……恨みだよ。憎しみだよ。他になんだって云うんだい』
 女の身勝手な言葉に百合枝は叫ぶように答える。
「ふざけるんじゃないわよ!恨みも憎しみも関係ない人間ばかり引き込んで、それでどうなるっていうの!」
『あたしは満足さ。……男なんて消えてしまったらいい。ふらふらと別の女に流れていくくらいなら、消えてしまったほうがいいのさ』
「身勝手なことを云うのね」
『身勝手?ではあたしを捨てた男は身勝手ではないのか?それこそ身勝手ではないのか?』
 至極最もな理由。
 けれどそれを今ここで受け入れば女の思うつぼだろう。女の周囲に揺らめく思念は自己愛に溢れて、人を思いやる気配など微塵もない。どす黒く、粘着質で深く暗い闇色だ。
「愛していたの?」
 百合枝が柔らかな声で問う。
『裏切られるまではな』
「手痛く裏切られたのね」
『あいつは愛してると囁きながら誰一人として愛してなかったのさ。愛していたのは自分だけ。女はコマみたいなものだと思っていた。浮気など当然のこと。そして嘘を重ねていくこともな』
「だからこんなことをしていると……?」
『そうさ。男なんていなければいい』
 女の言葉に百合枝は深く息を吸った。そしてすっと吐き出すと一刀両断するかのような鋭さで云い放つ。
「あんたこそ自己愛塗れの愚かな女だわ」
 女の目が見開かれる。
 そしてふっと百合枝から逸らされた視線の先にいた存在を認めると、にたっと笑った。
『おまえの男か……』


【参】

 
 女の声や姿が三下にどのようなものとして届いたのかはわからない。けれどひどく魅力的なものとして届いたことは確かだろう。女に呼ばれるがままにふらりふらりと歩を進める。双眸は魅入られたかのようにぼんやりとして、差し伸べる手は受け止めるものを切に求めているようでもある。
 百合枝は思わず霊刀を抜き放ち、女と三下の間に割って入った。振り上げた刀が空気を裂き、差し伸べる女の腕を切り落とす。しかし手ごたえはなく、女の両腕は霧のように溶けるだけ。
『斬れぬよ』
「くだらないことはやめなさい!」
『くだらぬと思うのはおまえの勝手だ』
「生きる世界が違うことを受け入れなさい!」
『同じ世に生きていたならこのようなことはできぬ』
 刀を構え、焔の如く立ち上る女の思念と向き合いながらどうしてここまで憎まなければならないのだろうかと思う。愛するという感情はどこまでまっすぐに人を狂わせるのだろうかと。憎しみの先に幸福はない。絶望的な結末は誰一人として幸福にはしない筈だ。
「愛していたなら、忘れなさい」
 百合枝の言葉に女が刹那動きを止める。
「そんなに愛していたなら忘れてしまえばいいのよ。憎しみであんたは自分自身が不幸になっていることに気付いていない」
『おまえに何がわかるというのだ』
 鋭さと共に女が襲い掛かる。
 百合枝は反射的に女の胸元に刀を突き立てていた。
 しかし柄を握り締める両手の力は緩まない。
「あんたが何を思ってここにいるかなんてわからない。でもあんたが幸せじゃないことくらいわかるわ。憎しみ続けた先に何があるって云うの?不幸に浸ってそれで満足なの?その先には何もないわ!」
 間近に女の顔がある。苦痛の気配は見られない。けれど表情には僅かな変化があった。戸惑い。そして僅かな正気。
 刀から伝わるのは消失の気配。
『おまえは何故あたしを恐れなかったのだ』
「恐れる必要がなかったからよ」
『不思議な女だな……。久しぶりの痛みだ』
 憎しみは消えない。
 どうして安らかに逝けないのだろうと思っても、女の心には自分の声は届かなかったことだけがリアルだ。
 霧散する。
 形も気配も何もかもが辺りの空気のなかに溶けていく。
 そして突如として吹き抜けた一陣の風に総てが消えた。
 百合枝の両手から霊刀が落ちる。我に返り辺りを見回すと、行方不明になっていた人々なのか多くの男性が倒れている。そしてその中にはすっかり腰を抜かしてへたりこんだ三下の姿も。
 何故人は人を愛し、憎み、死してもなお感情に縛られていなければならないのだろうと思う。死は肉体の終わりで、感情の終わりではないのだろうか。この世の涯まで感情を引きずらなければならないのは高い知能を持ったがゆえの罪なのかもしれない。思って百合枝は静けさを取り戻した湖面に黙祷を捧げた。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1873/藤井百合枝/女性/25/派遣社員】


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■         ライター通信          ■
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二度目のご参加ありがとうございます。沓澤佳純です。
なんとも後味の悪い救いようのない結末になってしまいましたがいかがでしょうか?
少しでもこの作品がお気に召して頂ければ幸いです。
それではこの度のご参加本当にありがとうございました。
今後また機会がございましたらどうぞよろしくお願い致します。