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<幻影学園奇譚・学園ノベル>


ヒュプノスを殺せ(2)



■めざめのはじまり■


 はじめに、夢、ありき――。


 目を開けるとそこに、暗い塀に囲われた神聖都学園がある。
 奇妙だ。
 校舎の周囲には、大木が鬱蒼と茂っている。空はうねり、稲妻を吐いている。

 ここは、どこだ……?

 もはや、生徒たちが笑いながら通っていた門はない。周囲を見回せば、戸惑っている生徒は数名いて、ぽかんと校舎をみつめているのだった。
 それでも、チャイムが鳴っている。あと10分で、ホームルームの時間だ。
「学校は……機能しているようだ。ならば、行くべきだな」
3年の影山軍司郎のことばだ――途端にぎしぎしと大木が捻じ曲がり、正面玄関が開いた。玄関の向こうには、多少は薄暗くなってしまったが、昨日までと変わらない『学校』がある。下駄箱、掲示板、消火栓の赤いランプが。
「さあ、登校しようではないか」
 彼は隣にいた生徒たちに涼しげな笑みを投げかけて、紐でまとめた教科書とテキストの束を持ち直すと、つかつか玄関に向かっていった。
「あいかぁらず真面目なやつ……」
 軽く溜息をついて、軍司郎とは同級の藍原和馬が、ポケットに両の手を突っ込んで歩きだす。
「ま、退屈はせんですみそうな様子じゃな」
 和馬についていったのか、軍司郎についていったのか、はたまた己の渇望に従っただけか。1年の羅火が、太刀を持った右手をぐうるりと回して、玄関に向かう。

 学校を見上げ、思わず絶句した2年の女子生徒が振り返る。そこには、彼女のクラスメイトがいて、緋玻と同じような表情で校舎を見上げていた。
「た、田中さん……これ……」
「あたしに訊かれてもねえ……」
「……だよね……」
 田中緋玻と山岡風太のふたりは、それでも生徒を受け入れようとしている校舎を見上げるばかりだ。そうしてふたりが言葉を失っている横を、3年生と、血気盛んな1年生が通り過ぎていった。
「何か、へんね。あんな状態なのに、行かなくちゃならない気がする」
「俺も」
「誰かに命令されてるみたい。……気持ちいいものじゃないわね」
「でも、行くんだろ?」
「ええ、……行かなくちゃならないから」
 そうだ。それこそが、生徒の勤めであるのだから。

「あぁあぁ、みんな行っちゃうな」
 束の間戸惑ってから、結局校舎に飲み込まれていく生徒たち。
 その背中を見つめていて、2年の蓮巳零樹は苦笑を漏らす。果敢にも、異様な校舎に立ち向かう者の姿に、彼はクラスメイトの姿すら見出した。
「にゃっ、なにコレ?!」
 零樹の後ろで、おさげの女子生徒が、変わった驚嘆の声を上げる。
「あれ、一子ちゃん……」
 その女子生徒は1年であったが、零樹はよく知っていた。彼女のほうも、零樹はよく知っている。どういうわけか、もっとずっと深いことも知っているような気がする。もやがかかったような記憶が、何とも歯がゆい。
「眼鏡、度を入れたほうがいいんでしょうか? 何だか学校がおかしくなってるように見えるのですが?」
「僕にも見えるよ。だから、近視のせいじゃないね」
「どうします?」
「どうしますって……僕らは生徒だよ。学校で勉強しなくちゃならないんだ。将来あんまり役に立ちそうじゃないことばっかりをさ」
「ですよね。何で行かなきゃならないんでしょうね……」
「それは、勉学に励むことがわれわれの義務であるからです。影山先輩の受け売りになってしまいますがね」
 一子と零樹の会話に割り込み、そして去っていくのは、1年の星間信人。図書室のヌシ。彼は授業よりも書物で得ている知識の方が圧倒的に多いだろう。だからなのだろうか、この現象を前にしても、妙に達観しているのは――。
「僕らも結局、こうして行っちゃうわけだ。……何か起きてるのは間違いないのに」
「映画とか夢とおんなじなんですよ。見えない力がストーリーをずるずる引っ張るというのは」
 零樹と一子は、信人に続く。
 そう、結局。


 さあ……ボクと……遊んでおくれ。
 ボクは、きみたちを、この世界を、必ず護る。


「この楽しい夢も、そろそろ終わりだ」
 ロビーの中央に立つ生徒会長が、厳かに告げた。
 今や彼は二年生とは思えないほど大人び、そして――学生服ではなく、狩衣をまとっていたのである。
「きみたちは、すぐに目を覚ませ。もう、あいつにはここを維持するほどの力がない。世界にほころびが出来て、となりの次元から、どんどん化物が侵入してきている。この世界での死が、きみたちにどんな影響を与えるのかもわからない。でも……これを知った上でもあいつと遊びたいなら、わたしは止めないよ。
 さあ、次のチャイムが鳴る前に、決めるんだ。
 教室に行くか、ここから出て行くか」

 薄暗い廊下の向こうから、ずるり、ぺたり、と足音がする。
 2階からだろうか、おぞましい咆哮が聞こえてきたのは。

「夢か」
 顔色が悪い蔵木みさとをたずさえて、パ=ド=ドゥ=ララが登校してきた。
「『鍵』の共鳴は止まぬ。ミサトは……闇の中で何かを見た。儂は、エイコを探す。ミサトは気が乗らなければすぐに学園を出ろ」
 ひたひたと何かが闊歩する廊下に、パ=ド=ドゥ=ララは何の躊躇もなく足を踏み入れた。蔵木みさとは――そもそも、パ=ドゥと学年がちがう。ここで、分かれてしまった。
「あ……あたし……怖い。こんなに……楽しかったのに……もう、いや。怖いの!」
 彼女はそこで座り込み、抱えていた資料がばさばさと床に落ちた。
 それは先日、あの資料室で探し出したらしい、この学園の古びた資料だ。

 チャイムが鳴る。
 校門が――かすむ。
 木々がみしみしと校舎を抱く。

「怖い! もう、帰れない! 帰れないの! みんな帰れないよう!」
 ぬう、と玄関を覗きこんだ目は、まるで蛸のもののようだった。


■追う■

「待ってよ、繭神くん」
 忠告を置いて立ち去ろうとする生徒会長を、零樹が呼びとめた。いまや生徒会長どころか、生徒でもなくなっている風体の繭神陽一郎が、面倒くさげに振り返る。
「何も訊かないほうがいいよ」
「どうして? 知る権利はあるでしょう?」
「知らない方がいいこともある。ここに残ることを選んだ以上、きみたちは楽しく学生生活を送ればいいんだ。苦労するのはわたしだけで充分さ」
 繭神の答えに、零樹は噴き出した。
 ひらりと手を広げて、周囲に目を配る。
 暗く沈んだ玄関、覗きこんでくる眼と眼と眼、廊下の向こうから聞こえてくる湿った音。
 零樹の後ろにいる一子が、音がする方向を睨みつける。
「こんな状態の学校を、『楽しめ』だって? きみ、『いま学校は危ない』って言ったばかりだよ。――何もかも、全部知っているんだね。だったら、教えてくれたっていいじゃない。そしたら、僕らも手伝えるし、その化物だって何とかできるかもしれないじゃないか」
「ちょっと、零樹……」
 一子が眉をひそめた。零樹が危険を知って、そこに自ら飛び込もうという姿勢に、違和感と不安を抱いたのだ。零樹はわずかに振り返って、一子には微笑みを返しただけだった。
「僕はいやなんだ。僕が知りたいと思うことが、知らないままで終わるっていうのは」
 繭神が溜息をついた。
「それなら、ついてくるといい。ただ、……危険だぞ」
「大丈夫。だよね、一子ちゃん?」
「はい」
 眼鏡を直して、溜息まじりに一子は苦笑した。


「蔵木さ――」
「く、蔵木さん!」
 半ば緋玻を押しのけるようにして、真っ先にみさとに駆け寄ったのが、風太だった。みさとを気遣ったのは何も彼だけではないのだが、誰もが無言で風太にみさとを任せた。
「大丈夫だよ。べつにみさとちゃん、ここに一人ぼっちってわけじゃないんだから。――一緒に行くよ。教室に行くのが無理なら、保健室に行こう」
 おずおずと風太はみさとの腕に手をかけた。みさとは、それを振り払いはしなかった。青ざめた顔で、ゆっくりと立ち上がる。
「……あんまり無理しないでね」
 みさとの鞄をかわりに持ったのは、緋玻だった。
 床に散らばった古い資料は、和馬が拾い集めた。
「何だこりゃ?」
 和馬は眉をひそめて文面を目で追った。印字はひどく古い型のもので、言い回しも堅いのだ。どういうわけか、和馬がその内容を理解するのに手間はかからなかった。意味はするすると和馬の頭の中に入ってくる。
 『要石の崩壊』
 『月詠』
 『繭神真言』
「おい、これ――」
 資料が言わんとしていることを大体理解した和馬は、みさとのように青ざめていた。しかし、彼が顔を上げたときにはすでに、みさとと、彼女に付き添うふたりの2年生は、階段をのぼり始めていた。
「おいおい、さっさと行くなよ。どうせ遅刻なんだし……授業なんか、受けてられっか!」
 ぎりぎりと歯を食いしばった和馬は、しかし、3人の2年生を追っていた。

 ごん、
 ごん、
 ごぅん、

 よくある曇りの日の暗さだ。
 午前中だというのに、夕方の暗さがそこにある。灰色の光が廊下の窓からずらりとさしこみ、ぼんやりと床を照らし出す。
 明かりがついていないようなのだ。ついているのに、その光が届かない。
 何もかもが曖昧だ。


■歪みにうつる影■

「パ=ドゥ君……怪談を駆け上るのは危険だ」
 軍司郎の手が、パ=ドゥの肩をしっかとつかまえた。ルーマニアからの留学生は、渋面で振り返り、大人しく立ち止まった。
「図書委員の蔵木君は、放っておいてもいいのか」
「あやつは無謀な真似はせぬ」
「ひどく恐れているようだった。……何かを」
 それでも、あの場においてきてよかったのか、と軍司郎は心中でとがめた。それはパ=ドゥだけではなく、自分に対しても向けられたことばだ。授業というものは、座りこんで震えている生徒を無視してまで受けるものなのだったろうか?
 パ=ドゥがさっと身を翻した。3階の廊下から、なにものかの咆哮があったのだ。
「待て!」
 軍司郎は、先ほどよりも強くパ=ドゥを制止した。荒々しく腕を掴んだために、パ=ドゥはバランスを崩した。そのブレザーの内ポケットから、何かがこぼれ落ちた。
 いや、落ちなかった。
 それは大きな鉛色の鍵であり、床に当たって跳ね返ることもなく、宙にふわりと浮いたのだ。しかも、燐光をまといながら。パ=ドゥは顔色を変えて、鍵を掴み取った。
「それは――『銀の鍵』!」
「……ちがう! これは――」
「人の目に触れさせてはならない。これは、禁忌に触れるものだぞ!」
 叫びながら、軍司郎ははっと息を呑んだ。
 禁忌とは、なんだ?
「……自分は、いま、何と言った?」
「禁忌に触れるものであると。得てして真実よ。――いま、何が起きているのか、儂にもわからぬ。確かなのは、ツキガミ・エイコが『鍵』を握っているということだ。――教室に行くのであれば、儂は今日欠席すると、担任に伝えておいてくれ」
 パ=ドゥはそのまま3階の薄闇に消え、呆然とした軍司郎だけが残された。
「――月神詠子? それが、敵軍の主将の名か?」
 またしても、呟いてから軍司郎は息を呑む。
 敵軍とは、なんだ?
 ぱりっと脳裏を焼くものがあって、軍司郎は教科書の束を取り落とし、こめかみを押さえた。
 教科書もまた、あの鍵のように床に落ちることはなかった。まとめていた紐が蛇のようにのたうってほどけ、教科書とテキストは羽ばたいた。奇妙な鳴き声を上げながら、かれらは軍司郎の頭上を飛び回る。
「幻覚……だ」

「おや!」
 不意に、そこで声が上がった。星間信人のものだ。きわめて勤勉である彼だが、教室には行かず、音や気配を追っていたのだった。どういうわけか気持ちがはやり、授業に対する義務感のようなものすらはねのけてしまっているのだ。
 彼は階段の踊り場に、影山軍司郎の姿を見た。
 ばさばさと不器用に飛んでいる教科書やテキストが、奇声を上げて信人に襲いかかった。日本史IIの教科書が信人の顔を強く打ち、眼鏡が飛んだ。
「やめろ!」
 軍司郎がうずくまったまま叫ぶと、教科書たちは無言で床に落ち、もう動くことはなかった。
 信人は制服の乱れを直しながら眼鏡を広い、その無事を確かめて安堵の溜息をついた。本ばかり読んでいる彼であるから、目は悪いのだ。
 飛ぶ教科書というシュールなものに襲われ、髪がすっかり乱れてしまった信人であったが、特に驚きも恐れもしないまま、笑みを浮かべた。
「大丈夫ですか、先輩」
「……」
 答えはない。
「しかし、面白いことになりました。そうは思いませんか? 校門で聞こえましたよね、『彼女』の声が。月神さんの声ですよ。この期に及んでも、彼女は僕らと遊ぼうとしている……くくく、せっかくですから、僕は彼女に付き合いますよ。付き合っていたら、きっともっと、あの神よりも素晴らしいものを見せてくれるでしょうからね」
 信人は階段を数段のぼり、3階の薄闇をうかがった。窓から中を覗いていた目が、まばたきをして――消えた。
「面白い……やはり、あれは……」
 信人は、ふらふらと階段をのぼっていった。
 その背に、軍司郎の呻き声がかかっても、振り返らなかった。
「……待て、……待つのだ、邪神の……徒め!」


■とおせんぼ■

 もう、どのみち遅刻だ。教室に行く気もない。行ったところで何になるというのだ。
 和馬は階段を駆け上が――ろうとして、たたらを踏んだ。
 アニメや映画でも見たことのない怪物が、しゅうしゅうという唸り声(おそらく)を上げながら、2階へ続く階段の踊り場に現れていたのだ。
「おォ……エンカウントか?」
 つくづく異様な怪物であった。死臭を放ち、目はないが、コウモリのような頭部を持っていた。吸盤のついた足が何本も、まるい胴体から生えている。
 目がなくとも、他の器官が発達しているようだ。怪物は和馬に近づき、聞いたこともない声で威嚇した。和馬は思わず後ずさった――恐れたわけではない。怪物の口臭は鼻が曲がるほどひどいものだったのだ。
「やる気か?」
 負けじと和馬も唸り声を出す。
 黒狼の唸り声を。
「望むとこだ――」
 和馬が体勢を低くしたそのとき、
「どぅるァ!!」
 裂帛の気合とともに和馬を飛び越えた者がいた。燃えるような赤い髪に、和馬は見覚えがあった。羅火だ、羅火が太刀を鞘に収めたまま振りかぶっている。
 太刀は怪物の頭をしたたかに打った。ぎゃっと叫んだきり、怪物はひっくり返って、それきりのびてしまった。
「何じゃ、歯ごたえのない!」
「気つけろ、まだ生きてッぞ」
 とどめ刺せよ、と和馬が怪物を顎で指す。ふん、と羅火がそれを鼻で笑った。
「のびておる者を倒したところで、何の鍛錬にもならぬわ。わしは強い者と戦り合いたいのじゃ」
「格闘家かよ」
 呆れてから、「ともかく」と和馬は手の中の資料をひらひら振った。
「月神詠子を見つけても、ケンカ仕掛けンなよ」
「何故じゃ」
「殺ったら、俺たち、どうなっちまうのかわからないのさ。……この学園は、あいつのものなんだ」
 むう、と羅火が口をへの字に曲げる。
「うむ……そう言えば、思い出した……あやつは、わしらと約束を交わしたようじゃったな」
「あんまり思い出さないほうがいいかもだ」
 そのとき、2階で悲鳴が上がった。風太とみさとのものだった。
 和馬と羅火は顔を見合わせ、のびている怪物を踏み越えると、凄まじい速さで階段を駆け上がっていった。


 窓の向こうに目があったのだ。2‐Bへ向かう3人の生徒は、その目をまともに見てしまった。
「ちょっと、何なの!」
 緋玻がみさとと風太の前に立ちはだかり、鞄を振りかざした。窓の向こうの目はまばたきをしただけだ。
「神様なのよ!」
 みさとが金の目を見開いて、甲高い悲鳴を上げた。
「眠っている神様だから、この学園に来れたのよ!! もうおしまいよ!! 月神さん、もう遊べないのよう!!」
「く、蔵木さん! 落ち着いて!」
 半狂乱で暴れるみさとを引きずって、風太はひとまず、窓から離れた。
 そうしてみさとの顔を真正面から覗きこんだ。
 きれいな金の目だ、
 髪も染めずに、漆黒だ。
 肌は白く、
 瑞々しい。
「あ、……えっと、」
 ごくりと息を呑んで、風太は束の間みさとの顔から目をそらした。
「大丈夫、蔵木さんはひとりじゃないんだ。何かあったら、僕がきみを護るから。……柔道とかやればよかったな。俺、なんでテニス部なんか……」
「どうして?」
 しゃくり上げながらみさとが尋ねる。
「どうしてあたしを護ってくれるの? 山岡君」
「そ、それは……」
 こくりと生唾を飲み込んで、
「く、クラスメイトだからだよ」
「あたしもそうなんだけど」
 ひょいとその場に顔を出したのは、何ともいえない表情の緋玻だった。
 風太は、そうしてひょいひょいと階段ホールから顔を出していた、和馬と羅火の視線を知らない。

 ガラスが割れる音がした。
 緋玻と和馬、羅火が無言で廊下に飛び出す。
 そこで3人が見たものは、窓からさしこまれ、のたうつ触手だった。緋玻が風太にサインを送る。今のみさとが、見るべきものではないと。
 つぶやきのような詠唱が聞こえた。触手が謡っているのだろうか。
 いや――
 どこかの教室で、もう授業が始まっているのだ。定年間近の教師が古典を読み上げている。
「こんな状況で授業かよ! おめでてエな、ったく!」
「ええい、埒があかぬわ! 叩き伏せてくれる!」
「待って! ひょっとしたら――」
 緋玻は階段ホールに飛び込んだ。1階に駆け下り(踊り場の怪物には一瞬驚いたが、のびていたので踏み越えた)、1年生の教室を覗く。
 授業は、滞りなく進められていた。あまりにも痩せた体躯が笑いの種にされている、数学教師……彼が、のんびりと黒板に図形を描いている。
 生徒たちは素直にその図形を写している。
 窓の外には、吼え狂う巨大な怪物たち。
 緋玻は2階に駆け戻り(踊り場の怪物は投げ飛ばしておいた)、風太の肩を掴んだ。
「教室の中は安全なのよ!」
「ど、どうして?」
「きっと、そういうことにしてるんだわ! 授業の邪魔が入らないようになってるの!」
「誰が――」
「この学園の持ち主が」
 和馬が、唸るようにして答えた。


■石室の目■

「私は月神に――いや、月詠に、時間をやった。それが間違いだったのかもしれない」
 薄闇の中で、繭神が語る。
「人でも鬼でもないものが、何かを理解しようなど、おこがましいのさ。――人間でさえ無知なのに、人間が生み出したものに、何を知ることが出来るというんだ」
「何のことだい? もう、さっぱり話が見えないんだけど」
「零樹……」
 得体の知れない札をいじりながら、零樹が口を尖らせる。繭神は、語りながら、脇目も振らずにいずこかへ歩いていく。
 一子が零樹の袖を引っ張った。つんつんと背後を指差しながら。
 振り返った零樹が見たのは、ずるずるぺたぺたと廊下を這いずり、しゅうしゅうと声を漏らしている、見たことも聞いたこともない怪物だ。
 一子が、歩きながらずらりと刀を抜き放った。妖刀は、彼女の影の中から現れた。
 札を握りしめ、零樹は繭神を見やる。さすがに繭神は立ち止まっていた。
「避難勧告か何か、生徒会長権限で出したほうがいいんじゃない?」
「いや……必要ない」
 一子が刀を構えて対峙するものが――近づいてきて、窓からさしこむ灰色の光を浴びた。
 映画や漫画に登場するほど、生易しい怪物ではなかった。不揃いな門歯を頭部らしきものに備えた、黒い触手と粘液の塊だ。ごぅ、と唸り声を上げて、怪物は首をもたげた。……首は、どこまでも長く伸びるようだった。
「わざわざ相手をする必要などない!」
「でも、これが教室に入ったらどうするんです!」
 繭神の叱咤を無視して、一子が妖刀を振り下ろした。
 黒い化物の触手が数本、のたうちながらはね飛んだ。
 だが、斬ったところで、触手はまた生えてきている――。
「教室には入れないはずだ。月詠はいまその『約束』を強化している。来るんだ!」
 繭神の言葉を受け、怪物の再生力を前にして、一子が無言で零樹の腕を掴んだ。
 零樹はふつふつと口の中で何ごとか唱えた。
 札はすでに零樹の手にない――壁、床、影に貼り付けられている。しゅッ、と零樹が呼気を放つと、札という札から何かが飛び出した。
 一子は、現れたものたちに警戒する必要はないことを、何故か知っていた。零樹が呼んだのは、従順な人形たちだ。人形たちが黒いものを押さえこむのをちらりとみとめて、3人は走り出していた。
「で、どこに行くんです?!」
「ほころびが大きいところに、月詠がいるはずだ!」
「月詠って誰さ、もう!」
 

■ほころびの中心■


「来てくれた……来てしまったんだね」

 理科室の戸を乱暴にこじ開けて、入ってきた生徒は――11人もいた。
 黒い長机に腰かけた月神詠子が、悲しい笑みを浮かべた。
 窓と戸はがたがたと揺れているが、理科室の中は静かだ。何ものにも侵しえない平和があった。

「そして、気づいてしまっているね」

 答えは軍司郎の頭痛と信人の狂える笑み、
 和馬が読み聞かせた古い資料のなか、
 繭神が語る古の噺のなかに。

「最近の人間は、目に見えないものを信じないんだね。
 ボクを封じていたもの……要石。何だかよくわからない大きな機械が、この土地をならして……『学校』を建てて、要石も祠も何もかも、崩してしまったんだ。
 ボクは、目を覚ました。
 夢の中で目を覚ましたんだ。
 覚めながら、ボクは眠っている」

「ボクはただ、目覚めたとき、少しだけ見た世界が、あまりにも変わっていることに驚いたんだ。
 ボクは知りたかったんだよ。どうしてそんなに笑っているのか……どうしてそんなに素直なのか。ボクが眠っている石室の上に建ったものが、どういったところなのか。
 そうして、少しだけ知ったんだ。『学校』っていうのは、ボクがいま眠っている部屋のように、特別な場所なんだって。
 ボクは、眠っているものだ。だからボクは、夢の中に世界を築くしかなかった。夢と夢を繋ぎ合わせて……夢を見ているものを呼び寄せた。
 ただ知りたかっただけなんだ。ボクは自分のこと以外何も知らない。世界のことも、親たる人間のことも。知ったところで、それを何かに利用しようなんて思ってない。知ろうとするのは、罪じゃないだろ?
 ボクは遊んで、学んで、この『学校』に通う子供たちみたいに……
 知ろうとしていたんだ。
 世界と人間のことを。
 それだけなんだ。
 それだけ……」

 詠子の背後に現れたのは、彼女に初めて出会ったとき、彼女の背後にうっすらと現れていたものだ。いまや、ぼんやりとした霞ではなく、はっきりとした影になっていた。水干を身につけた恐ろしげなものだ。
 鬼というものに、よく似ていた。

「月詠」
 繭神がかすれた声で言う。
「私の先祖たちが生み出したものだ。人でも鬼でもない。何かを知って、何になるというのだ。おまえは、永遠に、ただ眠っていればいい!」

「ボクの束の間の目覚めすら! きみは奪うというんだね!」

 しかし、と誰かが言う。
 その気配、牙、視線は、人間を傷つけるのだろう。
 知り続けることで、おまえは人を傷つけるかもしれない。
 おまえが『学校』の中で見た人間とは、傷つけるためのものなのか。

「ぼ、ボクは……
 ボクは……
 遊んでほしいんだ……

 ただ眠っているだけ……

 せっかく生まれたのに、ボクは……

 ずうっと、独りだけで、眠らなければならないんだもの」

 そのとき、月詠の緊張の糸が途切れたらしいのだ。
 理科室の窓が割れ、闇が侵入してきた。


■あぎとの最期■

「ツクヨミ! そなたの力は、もはや綻びも繕えぬか!」
 パ=ド=ドゥ=ララが吼えた。

「お隣の世界や、あなたのように夢みる神の力が、この『学校』にも及んでいるのですよ」
 笑っているのは星間信人だけなのか?
「誘い方が強引なんだよ。こんな、無理矢理にしなくたって、付き合ってくれるひとはたくさんいるのにさ」
 いや、蓮巳零樹も笑っているらしい。
「どのみち、この世界も、闘いには事欠かんわ!」
 があッ、と羅火が闇に牙を剥いた。
「知ってはならないことは、多いのだ。これ以上知る必要はない」
 軍司郎の目が、窓の外の目を睨みつける。

「でも、結構、楽しかったよ。そう……蔵木さんと、こうして、同じクラスになれるなんて……夢みたいだった。――ああ、夢なんだ」

「何だか身体がへんな感じするんですけどね、ぼくも、こうして学校に通うのは、初めてでしたから」

「ひょっとすると俺もかな。たぶんそうだ。忘れてるだけなのかもしれないけど」

「月詠……こんなかたちで会ったんじゃなかったら、あなたと、平安の話も出来たのに……馬鹿ね」


 そうして、一時間目の授業終了の合図が鳴り響くときには、理科室じゅうに<コスの印>が書き殴られていた。
 荒い息で床に座り込む11人が顔を上げると、そこに月詠――月神詠子の姿はなくなっていた。


■要石の約束■

 幻夢境探究部の当面の活動は、この学園のほころびを見つけて、その近くに<コスの印>ないし<旧神の印>を描くことだ。この世界では怪異たちの力も曖昧なものになるようで、印があれば怪物たちは逃げ去った。
 しかしながら、むやみに広いのが神聖都学園というもの。
「サークル棟になんか出たらしいぞう」
「「「また?」」」
 和馬の報告に、緋玻と一子と零樹が噛みつく。露骨にいやな顔をしていた。睨まれた和馬は迷惑だった。サークル棟に怪異が現れたのは彼のせいではない。
「……最初の頃を思い出せよ。もっと大変だったろ。前に書いて安心したら後ろに新しく入り口が出来たり……」
「休み時間になるたびにこれだもの」
「おなか空きましたよ」
「詠子ちゃんに奢ってもらわなきゃね」
 4人は、ぶつくさ言いつつもサークル棟に向かっていく。それをだまって見送りながら、軍司郎はがりりと校舎に<旧神の印>を刻みつけた。
「……この夢は、覚えていられるのだろうな?」
 彼は、誰にともなく呟いた。
「あの鬼は、禁忌の徒まで、純粋な人間だと思っている――そうではないことを、わたしは、覚えていられるのか?」
 大人びた視線は、図書室の窓を射抜いた。
 きゅきゅきゅ、とその窓に<コスの印>がマジックで描かれる。
 赤マジックを握って眼鏡を直し、あやしい笑みを浮かべる信人の姿は、丸見えだ。
 その遥か下、グラウンドで、吼えているのが羅火だった。印を刻むための彫刻刀を持ったまま、蟇蛙じみた怪物を蹴り飛ばし、殴りつけ、さんざんに痛めつけてから、ようやく彼は印を刻む。
「ええい! どいつもこいつも歯ごたえがないわ!」
 雄叫びは、遥か遠くに。
 風太がラケットとテニスボールを弄んでいる。胸ポケットには、いつでも印を刻めるように、カッターナイフと赤ペンがささっていた。彼は、人待ちをしている。テニスを一緒にやろうと、彼女を誘ったのだ。
 部活動に熱心な彼女が来てくれるかどうか、少しだけ不安に思っていた。


「9月30日だ」
「きみが猶予を与えてくれるなんて」
「そうだ。砕けた要石の欠片は、もう充分集まっている。30日とは言わず、今すぐにでも封じられるぞ」
「いや、……有り難く、猶予をもらうよ」
 空中に<コスの印>を描いて練習しながら、詠子は微笑んだ。


 木々が揺れる。風は、まだ夏の暑さを含んでいた。
 夢のような日々が流れていくのだ。
 チャイムが夕焼けに重なっていく。


 目を覚ますな。


 誰かの願いに、『生徒たち』は校門の前で立ち止まる。


 いや、いいんだ。
 ありがとう。
 今日も、いい夢だったかな?


「うん」
「はい」
「ええ」
「ああ」
「……うむ」
「ええまあ」
「もちろん」
「おう」

 ……。
 それじゃ、
 また、あした。


 きゅっ、と赤マジックが、去った日付に印を刻んだ。




<了>

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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0377/星間・信人/男/1-A】
【1533/藍原・和馬/男/3-A】
【1538/人造六面王・羅火/男/1-C】
【1996/影山・軍司郎/男/3-A】
【2147/山岡・風太/男/2-B】
【2240/田中・緋玻/女/2-B】
【2568/言吹・一子/女/1‐B】
【2577/蓮巳・零樹/男/2‐B】

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               ライター通信
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 モロクっちです。お待たせいたしました。『ヒュプノスを殺せ(2)』をお届けします。ヒュプノスは登場してませんが(笑)。
 今回は全体の流れを追いやすいよう、一本にしてみました。そのかわり凄い量になってしまいましたが!
 さて、幻影学園奇譚の真相は大体盛り込めたはずだと思います。ただ、このモロクっちのノベルで語られたことがすべてではありません。海キャンプや学園祭、他ライターさまの学園ノベルも全部合わせたとき、真相のすべてが見えてくると思います。全2回では消化できなかった部分は結構あるのです……(というか用意されていたエピソード、全部消化できたのだろうか(汗))。海キャンプの多くのノベルでは、『要石』についての記述も多いはずです。
 学園は、ノベルにもある通り、2004年9月30日までの命の世界です。
 ひと夏の経験を、月詠とともに記憶に留めていただけたでしょうか。

 それでは、
 また。