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Livin' Japan
しまった――そう思った時には、もう終わっている。
それが、かつて自らが師事した暗殺者ギルドの長の口癖だった。
……無表情の裏に隠れた感情は、盗みの技にはいつか災いをもたらす。
だからこそその師も、スイに殺しの業を教えることはしなかったし、代わりにその感受性こそが決め手の一つとなる精霊魔法を、自らのつてを利用して彼女に学ばせたのだ。
◆ ◆ ◆
――全くその通りだ……
何処に弾け飛ぶとも知れぬ次元空間を前にして、スイはそんな師の一言を思い出していた。
自らが飛ばされた空間は、真空であったが――風の精霊力を多少ではあるが体内に蓄積していたお陰で、呼吸することは出来ている。当面の危機は、とりあえずは免れたといったところか。
それでも、この状況はいかにしたものか。
パーティーの面子がかかった致命的な罠から脱出するために、転移系と思しき他の罠を作動させた結果が、この次元漂流だった。
他の面々は、しっかりと脱出出来ただろうか?
瞬時に行った罠の見立てでは、あの転移相は地上に繋がっていたはずだった。
「…………」
地上というだけで、もしかすれば、その地上の岩山の中に突っ込むということも大いに有り得たが……最善は尽くした。
問題は、自分だけが、こうしてどことも知れぬ場所に漂っていること……
精霊魔法を扱う上で、次元空間に関する知識というものは修めなければならぬ学問の一つである。
もともとが別の位相にある精霊の力を、我々の位相に持ち出す際に、ある次元を経る――という理論なのだが、実際の次元世界を見たものは、ほんの一握りだ。
そして、今まさに、スイはその一握りとなってしまったのである。
……師よ、これも、甘さが招いた結果か?
あたりを見回すが、真っ暗な中に見えるのは、幾何学的に伸びる地平線だけだ。
様々な書物に書いてあった、様々な次元空間についての説明を覆す、それはそれは単純にして絶望的な光景だった。精霊力の欠片も感じられない。
「もはや、手は一つ、か……」
スイは覚悟を決めた。
このままではどちらにせよ、窒息してこの空間に息絶えるだけのことだ。
ならば、打てる手は打つに限る。判断は早かった。精霊魔法使いにあるまじき、そしてシーフらしい即断――!
◆ ◆ ◆
『霊力帰還』。
自らの体内に残った精霊力を、全てあるべき場所に還す儀法である。
放たれた力は、あるべき場所――精霊の次元に帰っていく。
もし、この次元から、その精霊力が去っていくならば、それに便乗して『被召精霊還』を試みる。
それは制限こそあれ、空間のルールを覆す所業。これを使う時は、精神的にシーフを廃業する時だと思っていた。だが、背に腹は変えられぬ。
『霊力帰還』は、体内の精霊力を空にする、基本的にはメリットの無い技法。よって無拍子の無呼吸で行えるよう、体に刻印を刻んではいない。
しっかりと両手で印を組み、知的生命体が本来操らざる精霊言を詠唱し――
「あまたの精たちよ、放たれよ! あるべき場所に還るべし!」
――両手を掲げると共に、その掌から……
「…………ッ!」
放たれた、無数の色を持つ無数の霊力の塊は――空間の旋回を繰り返し、漂い、頼るようにしてスイの下へと弱弱しく戻るに至った。
「……お前たちにも、もはや、還る場所も無いか……ん?」
そんな中、一点を指し示すかのように、塊から軌跡を長く描く霊力が一つ。
「知らない霊力……いつの間に、体内に紛れ込んだか?」
だが、それだけならば、口に出す程の疑問でも無い。
スイが真に訝しんでいるのは、その白銀に光る霊力が、彼女の見知るどのような属性にも与さぬ、未定義とも言える霊力の集合であったからだ。
……賭けるか?
そう思っていた時には、もうスイは行動を起こしていた。やると思った時には、もう行動は済んでいる――それがシーフという生き物だった。
『被召精霊還』。
精霊力を媒介にし、その精が属する霊界に干渉する、通称『逆召還』。
精霊を行使する通常の行程を、己の身から逆に辿る、精霊魔法とは別の"巫術"である。炎の精に使えば、炎の精霊の住まう精霊界に辿り付けるという仕組みだ。
緊急避難のために使うのも有効な術ではあるが、その力は術者一人しか運ばない。ゆえに、他の者は嫌う術である……体に印を刻み付けている者がいたら、その者は信用に値しないと言っても過言ではない。それほどに、慣習的な面で希少性の高い術。
……今や孤独たるスイには、それを扱うことに対する忌憚など、無い。が、この見知らぬ霊力は、自分を何処へ連れて行くのか……?
不安を拭い去る。術者の不安は、霊力に伝わる。
どのみち窒息するのだ。ここから脱出する手段が、この術にのみ見出せている状況なのだ――考えても時間の無駄と言えた。
……ゆっくりと、初めての『被召精霊還』の印を結んだ。
「連れてゆけ……お前の世界へ!」
肉体が、泡沫のように散開し、霊力の紡ぐ銀糸へと絡まっていくのを確信し、スイは目を閉じた……閉じる眼すらも、既に霧散していたが。
短く、永い旅が始まった。
◆ ◆ ◆
大きく息を吸う。
空気はある。
多少汚れているとも思ったが、自分が居た世界と大差は無い。
――つまり、元にいた場所ではないことはもちろん、次元単位で違えた世界にやって来てしまったということだ。
それは軽い絶望となって、遠からず自分の心を襲うのだろう……が、考えても詮無いことだった。自分は生きている。自分の意識がある。それが今のスイには重要だった。
寝そべっている四肢を、指先から、ひと関節ずつ、確かめるように曲げて見た。どこにも違和感は無い。
眼を開く。エルフの超視覚と超聴覚が、周囲の事態を素早く分析する。閉鎖された場所だ。大小の木箱や、藁のような、何らかの植物で編んだと思しき箱が散立している……ここが倉庫のような場所であることを、スイは即座に理解した。
置いてあるものもそうだが、何よりも、鼻をつく古めかしい匂いが凄かった。
埃も満遍なく積もっており、いかにこの場所が長い間放っておかれていたのかを、無言にして雄弁に語っている。
もし、倉庫の精とかいうものが存在したならば、その放逐の歴史を、涙ながらに語り上げるに違いない――そう思うと同時に、スイは気付いた。
霊力が、最高の状態とは言い難いものの、蓄積に耐える程に体内へと還元出来ることに。相性の良い世界のようだ。
……なんとかなりそうだな。
剣呑な気配が周囲に無いことを確認し、スイはその場所から脱出を図る。
外側から錠が下ろされていた格子戸を、およそ数秒で破った。指先業ではない。炎精を使って溶かし、切り落としただけのことだ。
光が指す――スイはその眩さに眉をひそめた。
目に入ったのは、彼方より伝わりし、異国(とつくに)の剣法を極めた者が好むような佇まいの住居。
おとぎ話に聞かされた、鋼鉄の塔立ち並ぶ街の空……そして、自らの出現に驚く住人。小柄な青年だった。なにやら口にしている。理解しがたい発音の言語。
意志の疎通を測るためにも『言語相互』が必要だ。幸いにして、その効力を付与した魔法器具は、常日頃から持ち歩いている。ともすれば、心のどこかで、このような事態になることを考えていたのかもしれない――
スイはつむじ風のように近づき、うわっ、と驚く青年を意にも介さず、その魔法器具――指輪を、青年の指に早業ではめてやった。
呪力付与は行っていないから、言葉で説得し、器具を外さないように理解させなければならない。相手の知性が、自分の見知る人間と同等という保証など、どこにもないのだ――
「何すんだよてめぇ!」
理解出来すぎる言葉に、スイは内心ほっとしつつ、いつもの仏頂面で言った。
「ここはどこか?」
あまりに素直な、この世界での第一声であった。
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