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『 恋愛の過程 』
「私は、何者にもなり何者にもならず、此処に存在し此処に存在しない。幸せも不幸もお望みのままに、貴方様は何をご所望いたしますか?」
神経質なまでに頭の先から爪先まで黒で統一したその男に彼は、両目を細めた。その彼の細められた瞳に裏通りにある空気は緊張を孕んでいくものだが、しかしその黒の男は微動だにしない。
剣呑な視線をどこか飄々としたようにもとれる笑みで受け流し、開いているのか閉じているのかちっともわからない瞳でこちらを見据えている。
彼は小さく舌打ちした。
「何だんよ、あんたは?」
「私、でございますか? 私はただのセールスマンでございます」
「セールスマン? はん、この俺の姿を見てわかんねーかな? 俺はただの高校生なわけよ。そんな俺があんたの客になると想うかい? 他に行きなよ、他にさ」
高校生がもしもセールスマンから何かを買うとしたら、勉強道具、もしくは進学したいと想う学校の入試問題、センター試験の問題用紙と答案だ。もちろん、もしもこの怪しげな自称セールスマンの男が入試問題やセンター試験の問題用紙と答案を売りつけてこようものなら、速攻でその黒いトランクを奪い去っている。
まあ、そんなもしも話をしていてもしょうがない。自分は今はそれどころではないのだ。もう直にあの娘が出てくるはずだ。
パン屋でアルバイトしているあの娘が。
彼はセールスマンの男から外した視線をあの娘がアルバイトをしているパン屋の裏口に向けた。
そしてがちゃりとドアが開いて、あの娘が出てくる。
おっとりとした色白の美人。線は細く、服装はシックな感じでまとめられていて、ロングスカートの裾を静かに揺らしながら彼女は歩いている。
どうやらやっぱり今日も彼女は自分の事が好きなくせに恥ずかしくって、視線を合わせられないようだ。本当に恥ずかしがり屋な娘だ。自分はいつ告白されてもOKなのに。
そう、彼女は自分の事が好きなのだ。だから彼女から告白してくるまでじっと待っているのだ。
―――――こうやって彼女をじっと陰から見守りながら。
「ふむ、貴方は彼女に片想いをしていらっしゃる?」
興味深そうに顎に手をやりながらセールスマンが言った言葉が、彼の視線を即座に移動させた。
乱暴に彼の黒のネクタイを掴んで、睨み吸える。
「おい、失礼な事を言うな。俺と彼女は両想いだ」
そう言った高校生にセールスマンはわずかに両目を見開き、「ほぉーっ」と声を漏らした。
「これはすみません。失礼いたしました」
「わかりゃいいんだよ」
彼はセールスマンを乱暴に離すと、彼女の後を歩き(尾行し)始めた。
その彼の後を、セールスマンもついていく。
最初は無視していたが、どうにもうざったくって、気になった。
彼はセールスマンを振り返り、毒蛇が哀れな子ネズミを喰らうように彼のネクタイを再び掴んだ。
「だからあんたはどういうつもりだ?」
怒気の篭った声で威嚇するように鋭く言ってやると、そのセールスマンは口の片端を吊り上げて微笑した。
それに気圧されたように彼はセールスマンのネクタイを離した。もちろん、無意識にそれを悟られぬように舌打ちも忘れない。
セールスマンは黒のネクタイを何気ない仕草で調えながら、声を発した。
――――とても穏やかで丁寧な、しかしどうしようもなく人の心を不安にさせるような………そう、まるで昼間の誰も居ない都会のビル街に居るような、一条の光も届かない深い深淵の底を見ているような、そんなノイズの無い恐怖を不安を、疑心を、与えるような。
「いえ、もしも何でしたら、貴方が望む商品を、私がご提供しますよ? と、そう申し上げたかったのですよ。そう、ただそれだけでございます」
「…………」
そしてセールスマンはトランクを地に下ろすと、それを開けて、その中から古い手鏡を取り出した。
「これは【遠見の手鏡】という商品でございます。この手鏡には見たいと望む光景を映す事ができるのですよ。そう、これならわざわざ恋人を陰から見守らずとも、見ていられます。何時でも、何処に居てもね」
セールスマンはその鏡を高校生に渡した。
「あんた、一体何者なんだ?」
こんな物を唯のセールスマンが持っているであろうか?
――――普通なら眉唾物のこの【遠見の手鏡】をしかし一笑に伏す事ができなかったのは、その手鏡が持つ雰囲気がそれを躊躇わせ、セールスマンが言った事が真実である事を無意識にわからせるからだ。
「私、私でございますか? ですから私は、唯のセールスマンでございますよ。名前は影、と申します。以後、お見知りおきを」
――――――――――――――――――
【Begin Story】
かつて私が作った子たち。
二つの光は人間を愛した。
しかし私にはその感情がわからない。
確かに人とは愚かで、どうしようもなくって、それ故に面白い生き物であるが、しかし愛を注ぐような生き物ではない。
なのに私が作った光たちはその人間を愛している。
それがわからなくって、
そしてだから私はその高校生に興味を持ったのかもしれない。
――――――――――――――――――
【T】
「おや、あの二人は最近仲が良いんだね? 彼氏彼女の関係になったのかな?」
僕は小首を傾げて、彼女に訊いてみた。
「んにゃ、まだみたいだよ」
「まだ?」
「そう、まだ。でもまあ、時間の問題でしょう、あれは」
「なんでまた急に?」
「あー、彼女がパン屋のアルバイトの帰りになんか変な男に襲われそうになって、で、彼が助けたみたい。それはもう白馬に乗った王子様みたくナイスタイミングで現れてね」
「へぇー、すごいね、それは」
「だけどまあ、私なんかはそんなナイスタイミングで現れると、なんだかおまえが友達に頼んで仕組んだんじゃねーの? なんて勘ぐりたくなるもんだけどね」
「あははははは。それはテレビの見すぎなんじゃないのかな?」
「失敬な。推理小説の読みすぎと言ってちょうだいな」
そう言って彼女はけたけたと笑った。
「それにしても…」
「ん?」
「僕は彼が苦手でね。なんとなく雰囲気がよろしくない」
「そう?」
「うん。案外、君の推理が当たっていたりしてね。彼が仕組んだって。もしくはストーキングしていてたまたま遭遇したとかさ。って、どうした?」
「え、あ、いや、私はあんたが人の悪口を言うのを初めて見たからさ」
「あー、そうかな?」
「うん、優等生で、誰にでも優しいあんただもん。想像もできないよ」
「褒めたって、何も出ないよ?」
「馬鹿」
そして僕は、教室の窓側にある彼女の席の前の席に座って、それからしばらく彼女と話して過ごした。
+++
「それじゃあ、また明日ね。送ってくれて、ありがとう」
「ん、別にいいよ。どうせ、俺も帰り道だし」
「うん。じゃあ、また明日」
「って、二度目」
「だって上手いお別れの言葉が浮かばないんですもの」
あたしは意地悪そうに笑う彼にべぇーって、舌を出して、それから彼に手を振りながら、家の玄関の扉を開けて、家に入った。
そしてぱたんと閉じた扉に背を預けて、ふぅーっと溜息を吐く。
「緊張したぁ〜」
どうにもあの数日前の危ない所を彼に助けてもらってから、彼の事が気になってしょうがない。
彼はあれからどうも誰かにストーキングされているらしいというあたしの泣き言を聞いてくれて送り迎えをしてくれるけど、でも本当に彼はあたしの事をどう想っているのだろう?
――――ただのボランティア? それとも期待してもいいのかしら………
「あー、もう」
あたしはくしゃっと前髪を掻きあげると、もう一度ふぅーっと溜息を吐いた。
と、その瞬間、ぞくっとあたしの背中を悪寒が走ったのは、何もあたしが少し寒い玄関でぐずぐずしていたせいだけではない。
確かに誰かの視線を感じたのだ。
さっきまでは…彼と一緒に居るまでは、感じもしなかった恐怖が、あたしの心をまたいつものように侵食していく。
あたしは玄関を上がって、あたしの部屋に駆け込んで、それで毛布の中に飛び込んだ。
だけどそれであたしが感じる誰かの視線ってのは、消えなかったんだ………。
――――誰か、助けて…。
+++
彼は暗闇の中でくすくすと笑っていた。
手の中にある手鏡を見つめながら。そこに映る彼女を見つめながら。
「かわいいなー。そんなに独りが嫌なのかい? だけど大丈夫だよ。こうやって俺がいつもずっと君を見ていてあげるからね」
――――――――――――――――――
【U】
こんな言葉を聞いた事があります。
愛は二人でするもの。恋はひとりでするものだと。
なるほど、確かに彼を見ているとそうかもしれませんね。
彼は自分の想いだけで、彼女の想いを見てはいない。
馬鹿な男です。
それで貴方は私が渡した【遠見の手鏡】でこれからどうするのですかね?
あ、そうそう。もちろん、貴方から幸福は頂きますよ。
+++
「あれ、旦那はどうしたの?」
「旦那って」
彼女は苦笑いを私に向かって浮かべた。
そして…
「ん、どうした?」
彼女がおもむろに泣き出す寸前の子どものような表情を浮かべたりするので、私は慌てたのだ。
「彼が事故にあって、病院に入院したの」
「病院に入院って…」
私は愕然と彼女が言った言葉を繰り返して、そしてその次にしまったと想った。泣き出す寸前どころか、彼女が目からぽろぽろと涙を零し始めたのだから。
「あー、わー、えっと…」
そうして教室に入ってきた先生は彼女を見てぎょっとしたような顔をして、泣いている彼女におろおろとしている私は、先生に愛想笑いを浮かべた。
+++
「と、つまりはそういう訳だから、あなたも私たちと一緒に来ない?」
「彼のお見舞いに?」
「そう」
私が、私と彼女とで、お見舞いに行くから、だからあなたも一緒に病院にお見舞いに行かないかと誘うと、彼は素直にものすごく嫌そうな顔をした。
「どうして僕が」
「でもあなたも彼女が好きなんでしょう?」
「え、あ…うん」
彼は私の目から目を逸らして頷いた。
私は苦笑しながら言う。
「だからさ、今回のこれはチャンスだと想うよ? 彼を見極めるさ。あなたもどうせ好きな女の子を掻っ攫われるなら自分の目で見極めたいでしょう? 納得してるなら、幸せを祈ってあげられるじゃない」
「それはそうだけど…やっぱり、好きなのかい、彼女は彼を?」
「うん、そう想う」
「そうか…」
彼は後で合流すると言って、
そして私と彼女とで病院に向った。
+++
学校の校門の近くにはバス停があって、そのバス停に置かれたベンチには影が座っていた。
彼は現代の音の魔女に渡されたMDを聴きながらそこにいる。
その彼の前を二人の女子高生たちが通り過ぎていく。
二人は同じ学年で、眼鏡をかけた少女の方が髪の長い少女よりもしっかりとしていそうだ。
長い髪に縁取られている少女の顔は涙に濡れている。
「もう泣きやみなさいな。そんな顔で彼の病室に行ったら、彼が心配するし、自分を責めるわよ」
「うん、でも…」
「でももへったくれも無いでしょうが。やれやれ。私が知ってるあなたはしっかりとした娘だったんだけどね。本当に恋は女を変えるわね。まあ、いいわ」
彼女は包帯が巻かれた左手の手首にはめた時計の文字盤を見ると、また泣き顔の彼女に視線を移し、
「ちょっと学校に戻ってジュースを買ってくるから、待ってて。オレンジでいい?」
「うん」
「じゃあ、買ってくる」
眼鏡の彼女は自分の鞄を渡すと、来た道を戻っていった。
そしてバス停のベンチにはMDを聴く影と泣き顔の女子高生だけが残される。
10月初旬のほんのりと肌寒い風が紅葉しだした葉をさわさわと揺らしている。
いつの間にかヘッドホンをはずしていた影がその音に耳を傾けていた。
「暑い暑いと想っていたら、もういつの間にか秋ですね」
影に突然、声をかけられた彼女はびくりと肩を揺らして、そして俯かせていた顔はあげずに声だけを返した。
「そうですね」
彼女の表情は長い髪に隠されていて見えない。その彼女に影は一枚の筒に入ったハンカチを渡した。
「これをどうぞ」
「………」
髪の隙間からこちらを覗いている彼女の眼を影も見つめながら、上品な口調で言った。
「それは【仮面のハンカチ】。そのハンカチでこういう表情になればいいと望みながら顔を拭けば、そうすれば拭き終わった時にはその表情になっているのです。騙されたと想って、使ってみてはどうですか?」
「………」
彼女はほんの数秒、逡巡したようであったが、それを受け取って、顔を拭いた。そして制服のポケットから取り出したコンパクトに自分の顔を映して、見て…
「あ…」
驚いたような声をあげた。
「いい笑顔ですね」
影はにこりと笑うと、腰をあげた。
その影を追うように女子高生も腰をあげる。
「あ、あの、ありがとうございます」
「いえ、別に私はお客様が望む商品をお渡ししたまでです」
「え?」
「なんせ私はセールスマンですから」
「あ、あの、えっと…」
言葉を探す彼女に影はにこりと笑った。
そして両手に二つの缶ジュースを持ってこちらを見ている眼鏡の女子高生に視線を向けて、それでまた彼女に視線を戻す。
「お代は貴女の幸福。今回の幸福は、友人に缶ジュースを奢ってもらえる幸福をいただきましょうか?」
そして彼は、こちらにやって来た彼女と擦れ違い、そのまま影は立ち去っていった。
「どうかしたの?」
「セールスマンさん」
「はい?」
眼鏡の女子高生は小首を傾げ、そして自分の手から友人のために持ってきていた缶ジュースが無くなっている事に気が付いて、両目を大きく見開いた。
缶ジュースの中身を一気に喉に流した影はにこりと唇の片端を吊り上げた。
そして彼はさも今、気がつきました、という風に独り言を口にするのだ。
「そうそう。そう言えば彼女からも頂いてしまった幸福に見合うモノをお渡ししなければなりませんね」
ざわりと世界が震えたようにその瞬間、風が強く吹いた。
――――――――――――――――――
【V】
「運が無かったね。まさか交通事故に遭うなんてさ」
「本当に」
「ごめんなさい」
「どうして君が謝るんだよ」
「だって、あたしを家に送らなければ、そうしたらあなたが事故に遭うような事は無かったでしょう?」
「それは結果論だろう?」
「そうだけど…」
「大丈夫だよ。全治一ヶ月。いい骨休みさ。もちろん、ノートは頼めるだろう? 学年1位さん」
「それはもちろんよ」
「ありがとう」
彼は頷いた彼女に笑顔で頷くと、どこか面白くも無さそうに見つめている同級生の男子に…さして仲も良くないはずなのに来ている彼に視線を移す。
「君もありがとう。学年2位の君にもノートを頼めるかな?」
「ああ、いいよ。それにしても本当に運が無かったね。まるで何かの幸福の分、幸福が吸い取られたようだ」
+++
「あんたはいつも突然に現れるんだな、影さん」
「ええ、まあ。それよりも傷の具合はどうですか?」
「ふん、大した事はないよ、こんな物。それよりもさ」
「それよりも?」
にやりとどこか不吉な笑みを浮かべた彼に、影はにこりと笑った。
「邪魔な奴をどうにかできる道具は無いかな?」
「どうにか、と申しますと?」
「どうにか、だよ。それよりもあるのかい?」
「ええ、まあ。そういう商品はございますよ」
「ああ、それは俺が有効的に使ってやるよ」
くっくっくっと笑う彼は突然、顔を歪めた。傷が痛んだんだろう。
「無理は禁物ですよ。まあ、この道具ならば、貴方が動かずとも、ね」
「なるほど。いい商品だ」
「では、この商品を。そうそう、改めて言わなくってもいいでしょうが。それもまた貴方の幸福をいただきますからね」
「ああ」
+++
邪魔なのは二人だ。
あいつとあいつ。
彼女の傍に居るのは自分だけでいい。
そう、自分だけで。
影から幸福を代価に買ったこの商品、有効に使ってやるさ。
+++
それは魔性の道具。
彼は携帯電話を使って、彼の携帯電話にメールを送る。
意味不明のアルファベット13の文字を、13日間。
毎日決まった時間、00時00分00秒に。
病院にいる彼の携帯電話に。
影は笑う。
「それは【誘いの文字】。そのアルファベット13文字は確かに見る者が見なければ、意味不明ですが、でも見る者が見れば、それが呪である事に気が付くのです。その文字を一度でも受け取れば、その呪にかかり、何かの脅迫観念に囚われて、残りの日数もそれを受け取る事になる。そういうモノなのですよ、呪とは」
闇には影のくっくっくっくっと声を押し殺して笑う声が静かにたゆたっていた。
+++
「そんな…嘘、ですよね?」
口から出た声も、その言葉もどこか他人のモノのように思えた。
いや、想いたかった。それが自分の身に起こった事なんて、信じたくなかった。
だけど………
――――――それはあたしの身に起こった事だった。
病院に入院していた彼が自殺をしたのだ。
そしてその二日後に通夜があって、その翌日にお葬式だった。
…………。
「やあ、大丈夫?」
彼の葬式から一週間後にあたしは、ようやく学校に復帰した。
そのあたしを友人の彼女は眼鏡のブリッジを人差し指であげながらにこやかに笑って、迎えてくれた。
――――ありがたくって、涙が出た。
そしてそれから色々と教えてもらった。
そうしてお昼放課の時に、屋上でお弁当を食べながらあたしは彼女とこれまでの情報交換をして、あたしと彼女と彼のお見舞いに行った時に、一緒に行った彼の話に、話が及んだ。
「ああ、彼もまた休んでるのよね。病院の屋上から彼が飛び降り自殺した日の次の日からさ」
「どうして?」
「さあ?」
両手を広げて肩を竦める彼女。
「だけど彼もまた、あなたに片想いをしていたのよね。私は見た事があるよ。彼がパン屋のウインドウ越しに、バイトしているあんたを見ていたのをね」
「………」
+++
あたしは彼の家に来た。
まるで彼の家は、息を押し殺しているようで、ひっそりとしていて、なんだか息苦しさを感じた。
あたしは彼の家のチャイムを鳴らした。
だけど彼の家からの反応は無かった。
「居ないのかしら?」
―――――そんな事は無いはずなんだけど…。
あたしはもう一度チャイムを鳴らす。
でもダメだ。反応は無い。
あたしはしばし逡巡して、それで帰ろうと想った。久方ぶりに部屋から出たあたしを母は心配していた。これ以上は帰りが遅くなるのは躊躇われた。
と、だけど…
「あの、どちら様かしら?」
「あ、こんにちは。あたしは…」
あたしは自己紹介した。息子さんと同級生ですと。
だけど自己紹介しながらもあたしは眉をひそめずにはいられなかった。だって彼の母親は様子が変だったから。何故?
「あの?」
「あ、いえ、ごめんなさい。あ、あの、もしもよかったらうちの息子と会ってもらえないかしら?」
「あ、はい。そのつもりで会いに来たのだし」
「でも…」
「でも?」
「携帯電話は見せないでちょうだいね」
涙目で懇願する彼女にあたしは、両目を見開かずにはいられなかった。
+++
「こんにちは、容態はどう?」
そう聞いても彼は答えない。部屋の隅で両足を抱えて、膝に顔を埋めているだけだ。
彼の足下には携帯電話が置かれていて、それはぼろぼろになっているが、でもまだ生きてはいるようで……
――――そしてそれは…………
「彼の携帯電話と一緒だわ。そう、病院の屋上から飛び降り自殺した彼と」
あたしがそう言った瞬間に、彼はぎゃぁーーーーと叫び声をあげた。
「どうしたの?」
あたしは彼の肩を掴んで揺り動かすけど、彼はあたしを突き飛ばして、暴れ出して、
それであたしはその彼の異常な状態に愕然として、あたしも彼と一緒に我を無くしかけたけど、
だけど、あたしはぁ、
「しっかりしなさい」
彼の頬をぶん殴った。
そしたら彼はそれで正気に戻ったというわけではないんだろうけど、それでも、騒ぐのをやめた。
それで私は彼に言うのだ。
「何があったの? 一体この数日間、あなたに何が起きたのよ?」
それはきっと彼の身にも起こった事。
「病院の屋上から飛び降り自殺した彼の携帯電話もあなたの携帯電話と同じようにぼろぼろだった。一体彼とあなたの身に何が起きたのよ?」
「携帯電話にメールが送られてきて、そしたらそれと同時に見えるようになったんだ…」
「何が?」
部屋の空気が一気に何度も下がっていく。冷たくなっていく。まだ10月初旬なのに、吐く息が、白い…。
「幽霊がぁーーーーー」
――――――――――――――――――
【W】
影の服装は黒衣だった。
だからそこに彼が居ても、何の違和感も無かった。
病院の屋上からクラスメイトが飛び降り自殺してわずか13日後に起きたその二人目のクラスメイトの自殺に、通夜に参列している生徒達の顔には動揺しきった表情しか浮かんではいなかった。
影はそれをじっと見据えている。
――――まるで試験官の中の液体でも見つめいるかのように。
そして彼の視線の先には二人の少女が居た。
+++
「じゃあ、私は帰るけど…」
「うん、あたしはもう少し居る。彼はあたしが帰った後に自殺したから…だからその時の様子とかそういうの聞きたいの」
あたしは彼女にそう言って、そして通夜が終わるまでそこに居て、そしたらそのあたしの所に彼のお母さんが来て、そしてあたしにそれを渡してくれたの。彼の日記を。
「あの、どうしてこれをあたしに?」
「それがいいと想って」
――――それは好意じゃない。
憎悪だ…。
+++
日記に書かれているのはあたしへの想いだった。
あたしが好きで、あたしがどうしたで、あたしがあたしを助けてくれた彼に恋をしているのも書いてあって、だけどあたしはそれを不思議に想った。
だって………
「だって…どうして、これを知っているのよ?」
…………。
+++
「どうしたのよ、今日は?」
私は小首を傾げる。
彼女がいきなり私を呼び出したのだから。
――――しかもなんだかものすごく深刻そうな顔をして…。
「本当にどうしたのよ?」
「うん。あのさ、どうしてあなたは、あたしが彼に暴漢から救ってもらった事を知っていたの? あれはあたしを助けてくれた彼とあたししか知らない事なのに…」
彼女は一息に言った。
そしてあたしは肩を竦める。
左手の包帯を解きながら。
「この傷の代償でわた……いや、俺は知ったんだよ」
「お、俺?」
彼女は驚いた声を出した。当たり前だ。女の私が、俺と言い出したのだから。だけど私にとってみれば、私、という一人称の方がおかしいのだ。
そう、一人称は、俺、だ。
「性同一障害って知ってるか? 俺はそれなんだよ。体は女だけど、心は男。俺はさ、初めて会った時からおまえが好きだったんだ。ずっと見ていた、おまえだけを」
「な、何を言ってるの?」
「俺の女になれよ。な、馬鹿な男にくれてやるにはもったいない」
俺は嫌がる彼女の腕を掴んで、引っ張り寄せて、そして押し倒した。上に覆い被さり、下にある彼女の顔を見る。
「好きなんだぜ、おまえのことずっとよ」
「冗談でしょう」
「本当だよ。じゃなければ殺人までしない」
「殺人って」
「あの二人は俺が殺した。邪魔だったから。おまえを俺のモノにするのに。同じ男なのに本当に不公平だよな。俺はずっとおまえが好きだっていう心を押し殺していたのに、なのにあいつらはあんなにもおまえが好きだっていう感情を押し出してよ。俺はずっと…そう、ずっとおまえが好きだって言ってくれるまで待っていたのによ」
「そんな…」
「【遠見の手鏡】でずっとおまえを見ていた。【誘いの文字】で邪魔な奴らを殺した。全部おまえのためだ」
「知らないわよ、そんなのはぁ!」
彼女はばたばたと動く。俺はそんな彼女の唇に乱暴に自分の唇を重ね合わせた。
「くぅ」
だけどそんな俺の唇を彼女は噛んだのだ。そして俺を突き飛ばして、教室を飛び出した。その彼女の後ろ姿を見た瞬間に、かちんときた。
だってそうだろう? 俺は殺人までおかしたのに、なのに彼女は俺の気持ちを…
「くそがー」
俺は彼女を追いかけた。
+++
あたしは走った。
走って、走って、走った。
そのあたしの前に居たもうひとりのあたし。
突然、闇の中に浮かんだあたしにあたしは悲鳴をあげる。
だけどそれは鏡に映ったあたしで、だけど…
「鏡ですね」
「きゃぁー」
突然、背後からかけられた声にあたしは悲鳴をあげた。
「セールスマンさん」
鏡に映るセールスマンさん。
あたしは彼を振り返る。
「彼女から頂いた幸福分を貴女に渡しに来ました」
「え?」
にこりと笑ったセールスマンさんはあたしにそれを渡した。
+++
彼女は馬鹿みたいに鏡の前にいた。
「追いついたぜ。さあ、おまえも殺してやるよ」
俺は俺の愛を裏切った彼女を許せない。だから死への恐怖を増大させてやるために携帯電話を突きつける。死が結晶化したような携帯電話を。
「この携帯電話には、【誘いの文字】が入っている。それをおまえにも13日間送ってやる。そして13日後におまえも気が狂って自殺するんだ。受信拒否も携帯電話を壊す事もできずに」
一言一言、傷口に塩を擦りこむように言ってやる。そして俺はメールの送信ボタンを押した。
液晶画面の中で紙飛行機が飛んで…
――――だけど・・・
「あれ?」
俺は口をあんぐり開けた。なぜなら彼女に送った【誘いの文字】が俺の携帯電話に帰ってきたからだ。
「どうして…?」
頭が混乱する。
その俺に彼女は声を絞り出すように言った。
「セールスマンさんにもらったのよ」
「なぁ」
頭が真っ白になった。そしてその混濁した俺の意識の中に入って来たのは13文字の文字と、そして………
「来るなぁーーーーー」
――――――俺が殺したあの二人だった………。
【ラスト】
「こんばんは」
影は学校の廊下で粉々に砕け散った鏡の前で蹲る彼女…いや、彼に声をかけた。
そしてトランクから出した救急箱を、彼に差し出す。
「恐怖にかられて鏡を素手で割ったのですね。そんな無茶をするから、手が傷ついていらっしゃる。さあ、これで傷の手当てをどうぞ。ああ、そうそう。これは唯の救急箱ですから、貴方から幸福はいただきませんよ」
影がそう言っても彼は反応しない。
そして影には見えていた。蹲る彼の左右の耳に、彼が殺した彼らが呪詛を囁いているのが。
「どうして…どうして、裏切った?」
「いえ、私は裏切るも何も、セールスマン。だから私の商品をお求めになられる方に私の商品を渡すのみです。違いますか? ほら、以前に私は貴方から缶ジュースを頂いたでしょう? その時に私は貴方からもらっているのですよ。大好きな彼女に缶ジュースを奢れる幸福というのをね。だから彼女に【返しの護符】を渡したまでです。だって貴方の望みは彼女を守る事ですから」
影はくすくすと笑った。
「やはり愛とは、理解しがたい感情ですね。愛は美しい感情と人は位置付けますが、それ故に貴方は人殺しまでやった。愛、それは人を狂気に走らせる感情。他人を、自分を縛る感情。私には到底理解はできませんよ。さてさて、それでは私はこれで」
影は呪詛を囁き続けられる彼女ににこりと微笑んで、学校の廊下にある暗い昏い夜の闇に溶け込んで消えた。
そこにはもはや闇よりも暗い闇があったその残滓が如くに二体の悪霊に囁き続けられる彼の姿が在るだけであった。
― fin ―
【今回の商品一覧】
【遠見の鏡】
この手鏡には見たいと望む光景を映す事ができる。
【仮面のハンカチ】
そのハンカチでこういう表情になればいいと望みながら顔を拭けば、そうすれば拭き終わった時にはその表情になっている。
【誘いの文字】
闇の知識が無い者が見れば、唯の意味不明なアルファベット13文字だが、力と知識がある者が見れば、それは受け取った人物の身に不幸を引き起こさせる呪である事がわかるだろう。これは13組あって、一番最初のそれを受け取ってしまったら、そうしたら一種の催眠状態に陥り、最後まで受け取ってしまう。そして最後までそれを受け取ってしまったら、あるのは死だけだ。
【返しの護符】
【誘いの文字】と対を成す商品で、あらゆる呪詛を弾き返す力を持っている。
++ライターより++
こんにちは、影さま。
いつもお世話になっております。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
どうでしょうか??? 犯人が実は眼鏡の女子高生、だったという設定にはしまったと想っていただけたでしょうか???
もしも予想を裏切れていたら、本当に嬉しいです。(^^)
一人称でのノベルは三人称のノベルよりも難しく技術がいる文体なのですが、こういう言葉のトリックが扱えるのが何よりも面白いです。^^
と、言っても草摩自身の筆力がまだまだ伴っていませんので、読みづらい部分とか、登場人物がちょっとわかり辛い部分とかがあったら言ってください。
本当に救いが無いというか、生き残ったのは結局は彼女だけ…。それが唯一の救いで。
そしてこういう影さんはいかがでしたか?
今回は完全にダークな役柄で、最後に彼女を助けると言うか、見ようによっては彼に意地悪をした本当に闇色の影さん。
今回は人間への皮肉たっぷりのノベルとなりましたが、気に入っていただけていたら嬉しいです。
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
本当にありがとうございました。
失礼します。
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