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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


隣人の悩み


------<オープニング>--------------------------------------


 目を開けると何を思うより先に、高安峰小はまただと思った。
 そして腹の底からふつふつと怒りが込み上げてきた。
 それは安普請のこのアパートに対しての怒りなのか、それとも隣人に対しての怒りなのかは分からない。けれどとにかく、苛立った。もういい加減にしてくれ、と思った。
 被っていた布団を押し退け、高安は勢い良く立ち上がる。
 ワンルームの部屋を出て、隣の部屋のドアを叩いた。
 近所迷惑なんて言葉は頭にない。力一杯叩いてやった。
「は、はい、はい」
 まだ少年のような声が耳を突く。それから慌てたように鍵を開ける音がして、少しだけドアが開いた。
「な。なんですか」
 その時高安は、始めて隣人の顔を見た。キョトンとした黒目がちの大きな瞳をし、滑りの良さそうな肌をしている。歳はまだ、十代とも見えた。
 その可愛げのある顔を見て、高安は一瞬言葉に詰まる。しかしここまで来て引き返すことも出来ない。
「なんですかじゃないですよ、アナタ」
 少しだけ勢いを潜めて言った。
「今何時だと思ってるんですか。一ヶ月くらい前からでしたよねえ。物音。私、隣に住んでるんですけどね。煩くて眠れないんですよ。いい加減にして下さいよ。こっちは次の日も仕事なんですよ」
 言ってるうちに、怒りが戻ってきた。そうだ。この一ヶ月間の、俺の安眠を返せ。
「あ、はあ。あ、すみません。ごめんなさい」
「謝ってねえ、済む問題じゃないんですよ。だいたい貴方ね。共同生活っていうことが分かってるんですか? そんな態度で。謝るのにも誠意が感じられません。なんですかそれ。扉に隠れて。いつでも閉めてやろうって考えですか」
「あ、いえ。ち。違うんですけど」
 はっきりしない隣人を睨みつけ、高安は自分の方から扉を引いてやった。彼が弾かれるように外へ出る。
 その拍子に室内の様子が見えた。
「ん?」
「あ、あの」
 彼が慌てて立ち塞がる。そして、勢い良く扉を閉めた。
「煩くしたことは本当に謝ります。ごめんなさい。それであの。もう煩くしませんから! では!」
 彼は早口にまくし立てると、素早く部屋の中へと入って行った。
 高安は呆然と立ち尽くす。隣人の慌しい対応にも面食らったが、それよりも。
「あれ、なんだったんだ」
 眉を寄せて、呟いた。

×

「変な物を見たんだ」
 高安はそう言うと、頭を抱えた。
「何なんだよ。あれ」
「俺に言われても知らんよ。こっちが聞きたいくらいだ」
 草間武彦は溜め息を吐き、煙草に火をつける。
「隣人なんだよ。隣人。隣に住んでる奴がアブないんだ。ヤバイんだよ」
「だからどうヤバイんだ」
「昼間は仕事に出てるから分からないんだが、夜になると大きな……そうだなあ。何かがこう。落ちるような。ドシンとした音を出してな。苛立った俺は、文句を言いに行ったんだよ」
「ほう」
「そしたら部屋に。何か大きな。悪魔みたいなのが居て」
「悪魔あ?」
 武彦は思わず小さく吹き出す。
「なんだお前。昔はそんな幻覚、見える奴じゃなかったよな」
「幻覚じゃないんだってば」
 高安はぶるぶると首を振る。
「あの隣人。可愛い顔して、黒魔術の研究でもしてるんじゃないのか」
「お前、そういう非科学的なもの、信じないんじゃなかったか」
「俺だって信じたくはない。けど、一体、あの部屋で何をやってるんだと思うと、心配で夜も眠れないんだよ。なあ、武彦。同級生のよしみだろ? 調べてくれよ。興信所なんだろ。危ないことなら止めさせてくれ。出来ればあの怪物を退治してくれよ」
「そういわれても」
 要領を得ない内容に唇を曲げる。
「つまりは。隣人を調べればいいんだな?」
 煙を吐き出し確認する。


-----------------------------------------------------------


001



 風の中には微かな涼しさが混じっていた。鼻腔を擽る甘い香りは、通りに面して建つ住宅の庭に生えている金木犀のものだろうか。
 この匂いを嗅ぐと季節の変わり目だということを実感する。
 秋か。
 雪森雛太は胸の中で小さく呟いた。
 だからといってどうということはない。自分は鬱蒼とした秋よりも解放的な夏が好きだし、柔らかく曖昧な春より、まだはっきりと自己主張する冬の方が好きだ。
 ただ、好き嫌いと生活のし易さは別のところにあり、秋は確かに過ごし易い季節であった。
 雛太は草間興信所の所長である武彦に頼まれ、ちょっとした書類を区役所へと取りに行っていた。今はその帰りである。
 通りを歩く人々を見るのは楽しい。夕暮れの住宅街には、自転車の乗った人や子供達が行きかっている。長袖の人間も居ればまだ半袖のシャツを着ている人間もいた。秋とは統一感を狂わせる季節なんだなと、そんな妙なことを考えた。
 書類の入った袋を脇に抱えながら、地に足が着いていないかのようなフワフワとした軽い足取りで雛太は歩く。暫く歩くと曲がり角が見えてきた。そこに建つ家は一際大きく、庭も広かった。眩しいほど紅葉した葉が塀の上から飛び出している。
 雛太は何気無くそこへと視線をやった。
「ふうん」
 別段、草木に興味があるわけではなかったがその見事な枝ぶりには感心する。
 見上げていた視線を前方に戻した時、目の前に男が立っていた。向こうも視線を他へとやっていたらしく、二人の間にほとんど距離はない。ぶつかる、と思った時には衝突していた。
 骨っぽい肩に押しやられ、小さくよろける。顔を上げると、そんなに凄い衝撃ではなかったはずなのに男が尻餅をついていた。
 その時やっと、自分がぶつかった男の姿をちゃんと見る。
 男は髪の毛から洋服まで全てが真っ黒だった。奇妙だと思った。奇妙だとは思ったが、嫌悪感や気味の悪さは感じなかった。
 それはたぶん、その少しどんくさそうな顔のせいだっただろう。
「あー、大丈夫か」
 雛太は小さく言って手を差し出した。自分を見上げる少年の目が、一瞬だけ驚いたように見開いた。しかしすぐに彼は「だ。大丈夫です、ごめんなさい!」と甲高いソプラノの声で言い、立ち上がる。
 どんくさそうな顔をしているくせに、行動は素早かった。
「ごめんなさい、僕。ちょっと余所見してたから」
「あー。俺も、余所見してたし」
「ですよね。僕もです。っていうのは今さっき言いましたね」
「う、うん」
「じゃあ。僕急いでいるので。本当に本当にごめんなさい。では!」
 小さく頭を下げたかと思うと、男はダッと走り出す。その背中をチラリとだけ横目に見やって、雛太は小首を傾げる。
「なんだったんだ」
 意味もなく小さく呟いて、また歩き出そうとしたところでハタッと気付いた。
 そういえば俺。手に何か持って。
「あ。書類」
 慌てて周りを見渡した。
「え。あれ?」
 いつまで自分はその手に持っていたのか。そしていつなくなったのか。決定的な記憶はなかったが、多分、男とぶつかる前には持っていたはずだった。
「まさか、ええ?」
 盗まれた?
 口元を押さえ自問自答する。もう一度辺りを見回した。区役所のロゴが入った茶封筒は見つからなかったが、足元に小さなビニールパックが落ちていることに気付く。
 雛太はそれを広い上げた。
 掌に収まるくらいの小さな袋に、白い粉が入っている。
「なんだ、これ」
 背中を振り返る。そこに、男の姿はもうない。
 手の中にあるビニールパックが、ずしりと重さを主張したような気がした。



 気管を抉るような咳だった。
 今年の風邪は酷いなんて言葉は、毎年のように傍を流れる。いつもそれを他人事だと思っていたのは、自分自身がほとんど風邪をひかない人間であり、そして周りの人間もほとんど風邪をひかない人間ばかりであったからだ。
 しかし、今年こそ「今年の風邪は酷いんだ」とシュライン・エマは実感している。
 草間武彦が、風邪をひいた。
 無理矢理ベットの中へと潜りこませたのは、つい一時間ほど前のことだった。熱の為か頬をほんのりと赤くして、苦しそうな咳をするくせに煙草を吸い続ける武彦を、心配してというよりはそんな彼に苛立った、というほうが正解かも知れない。
 自分の身を思い遣らない人間は、見ていて時に酷く不快になる。自分がその人を愛していればもっと、だ。
 ベットの中で身を捩った武彦が、また気管を抉るかのような咳をする。
 その凄まじい騒音とも呼べる音を聞いていると、シュラインは彼の横顔を平手で打ってやりたいような衝動にかられた。
 自分の体なのに。ちゃんと管理しないからだ。そんな喉で煙草を吸って。
 毛布から覗く、武彦の頭を睨みつける。
 おまけに、ワケのわからない依頼まで引き受けているんだから。
 武彦の旧友だという男が現れたのは、昨日のことだ。隣人に悪魔が居るから調べて欲しいと言った。何よりもシュラインが気に入らなかったのは、同級生のよしみだから無料でやってくれというところだ。突然現れて何が同級生のよしみだ。
 そんな言葉が通用するほど仲が良い人間だとはシュラインには到底思えない。そもそも武彦だって、ベットに入り込む前言っていたのだ。
「それに。俺と高安はそれほど仲が良かったわけでもないんだ。だからといって悪かったわけでもないぞ。そうだな。距離で言うなら、山手線で目白から新大久保くらいだな。つまりだ。学生時代、居ただろ? そういう知り合いと友人の間のような関係の奴がさ。そして俺にとっての高安っていうのも、そういう人間なんだよ。どうやって調べたか興信所に訪ねて来て……何十年ぶりかに顔を合わせたようなもんだ。しかも」
 武彦は肩を竦める。
「再会にとりたて感激もない。そういう関係だ。まあ、そう思うと偶然だったのかも知れないな。あいつが俺と知って訪ねて来たわけじゃなく、興信所の噂を聞いてやって来たら俺が居た、とな」
 だったら、断ればよかったのだ。
 武彦からその依頼の話を聞いた時、シュラインは間違いなくそう思った。自分がその場に居たならば、必ず断らせていただろう。そもそもあのデスクに座ることすら許していない。ベットの中に押し込めていたはずだ。
「なあ」
 苦しそうな声で武彦が囁いた。
「なに?」
 つられるようにして、シュラインも囁くような声で返事を返す。
「高安の依頼なんだが」
「依頼」こんな時までそんな言葉しか出てこないのか。「依頼じゃなくて、頼まれごとでしょう」
「ちゃんと調べてやってくれよ」
 だから草間興信所は万年赤字なのだ。
「分かってる」
「今、赤字のことを考えたな」
 連なった咳をして、武彦が寝返りを打つ。熱に潤んだ瞳が、シュラインを見ていた。
「それが悪魔だっていう。具体的な、証拠は?」
「分からないから依頼して来たんだろう」
「そもそも何故、悪魔なんかに見えたのかしら? そもそも具体的な何かを見たのかしら。人型に角とか、牛や山羊みたいだとか、そんな身体的な特徴でも? 音とそれだけじゃ人外とは言い切れないわよね。美術系の大学とか立体造形美術か何かしてる人で、夜に製作してるとも考えられなくもないし」
「機嫌が悪いな。腹でも減ってるのか」
「誰がそんな子供みたいな理由で」
「なあ」
 武彦の熱を持った手が、シュラインの手を取った。
「俺は。こんな性格だからな」
「こんな、性格って?」
「学生時代から人と会話を楽しむという概念は、余りなかったんだ。だからと言って、人が嫌いだったわけでもない。たぶん、鈍感と自意識過剰の合併症だったんだな」
 シュラインは無言で頷いて、話の先を促した。
「たぶん、高安の方は全く意識してなかったんだろうと思う。友人の友人として知り合っただけだったし、アイツは。そうだな。小さな事を大きく言うような人間で、とにかく社交的だった。信用はされてなかったかも知れないが、人気はあった。顔は広かったな。俺はそんなアイツが少し、羨ましかった。……若い頃の話だ。だからこれは、安っぽい男のプライドの問題だ。今度は俺が、成長したということを。力になれるということを見せたい」
 かすれた声でそう言い、上目使いにシュラインを見つめる武彦の姿は、まるで少年のようでもある。ゆっくりと引かれた手が、武彦の頬に触れた。
「冷たくて気持ちいいな。女将、頼りにしてるよ。頼むぜ」
 結局、そんな武彦の言葉に強く逆らえない自分が居る。
「分かってるわ。ま。こんなの、今に始まったことじゃないしね」
 苦笑して、武彦の額を指で押した。
「じゃあ、行くわ」
 草間興信所の住居スペースである部屋を出て、事務所の応接ソファに腰掛けるシオンの元へと足を進める。

002



「黒魔術?」
 自分で口にした言葉が余りにも奇妙に思えて、モーリス・ラジアルは唇をつり上げた。しかしシオン・レ・ハイはそんなモーリスの表情にも気付かず、小首を傾げた。
「と、いうかですね。それが分からないので調べるんですけどね。まあ。そういう可能性もある、ということで」
「なるほど。でもまあ。黒魔術なんていうことはないでしょう」
「なんでですか?」
「うん?」
 モーリスは軽い返事を返し、その場にしゃがみ込む。作りこまれた箱庭の中でも、無作法に伸びて行く草木の本能を感じながら、それでも人間の驕りで美しくないと判断されたそれらをハサミで切り落としていく。
「黒魔術の魔方陣ですが。あれはね。ワンルームマンションの部屋などでは描ききれないんですよ」
「魔方陣、ですかあ」
「ええ。だからまあ、黒魔術の研究なんてことはないでしょう。しかし悪魔ということはあるかも知れませんね。悪魔という言い方も、あまり気に入りませんが。この東京、日本、地球にね。人間以外の知的生命体が居ないと思っているのは、人間だけなのですよ」
 雑草を抜き取りモーリスは「ああ」と声を上げながら立ち上がる。
「でも。知的生命体とも言えないかも知れませんねえ。騒音を出すのでしょう?」
「そうなんですう。と、いうかですね。それが出しているのかどうかも分からないのですけど。だから調べたいんですけどね」
 溜め息のような音を出して頷き、雑草を傍らにあったゴミ袋に捨てた。
「それで。私に参加しろと?」
「はい! そうなんですよ」
 外見からは想像もつかないような元気さと無邪気さでシオンが頷いた。
「とにかく何ですかね。モーリスさんの檻を作る能力が必要だとかなんですけどね」
「それは先ほど聞きました」
「はい、言いました。なので、とにかく一緒に興信所へ行って貰えますか」
 こちらの事情を伺う様子も、考える暇も与えない。モーリスは苦笑しながら、手袋を外す。視線を感じて横目をやると、シオンがじっとこちらの手の動きを見つめていた。
「そんなに見つめられると緊張しますね」
「そうですか? それにしてもお花育てるのって楽しそうですね」
 彼が言うと、まるでそれは幼稚園の課外授業のような響きになる。
「まあ。苦労はありますけど。確かに、草木は好きですよ、私も」
「ですよね。癒されるなあ」
「でしたら自宅のお庭などで簡単なガーデニングから始めてみてはどうでしょうかね。苗ならいつでも差し上げますよ」
「ほ。本当ですか!」
 顔の前で手を組み合わせ、シオンが目をキラキラさせる。それは男優のような彼がやってはいけない仕草の、一番手ではないかと思うくらい、可愛らしい仕草だった。
 艶やかな黒髪も、高価そうなスーツも、渋い外見も、キレイに歳を重ねた中年男だ。それなのに、やることはまるで幼稚園児。
「私、公園に住んでるんですけどね! 広場に植えても怒られませんよね!」
 モーリスは無言で顔を背けた。
 歩き出すと、シオンも隣について歩いた。とにかく彼は、先ほどからモーリスの行く場所行く場所へとついて来た。ちょこちょこと言うには大柄な体で、それでも自分の体の大きさを自覚していないラブラドールレトリーバーのようにモーリスの後をついて回った。
「それで? どうして貴方を寄越したんですか。別にその……いいのですが。電話でも済む内容ではなかったかとも思うんですがね」
 シオンが困ったような表情をし、顔を伏せた。自虐的な言葉が出てくるのは嫌だ、と思ったが今更フォローするのもおかしい気がする。
「訪問販売」
「え?」
 予期せぬ言葉が飛んできて、モーリスは思わず振り返る。どうしてここに訪問販売という単語が出てくるのだろう。邪魔ですか、などという言葉が来ると思っていただけに、意表をつかれた。
「訪問販売、クビになっちゃったんです。ついこの間まで、アルバイトしてたんですけど」
「あ、はあ」
「それでねえ。暇になっちゃったんですよねえ。びっくりですけど、まあ、向いても居なかったとも思うので」
「はあ……そうなんですか」
「そうなんです。だから草間興信所ででやることないかって、言ったら。モーリスさんを呼んできてくれるかって、シュラインさんが」
「シュライン女史が?」
「そうなんです。武彦さんは、風邪引いたんですって。私が看病しても良かったんですけど。呼んで来てくれる方がいいって。シュラインさんが」
「そうでしたか」
 笑顔で頷きながら、頭の中で自分なりに整理し、なるほど、と納得する。今この状態を加味すれば、シオンがそのデカイ図体を自覚せず興信所の中をうろうろしたことは明白だ。
 厄介払いしたかったのかも知れない。
 ともすれば私はラブラドールの世話係か?
「犬はそれほど好きではないのですがね」
「え? 犬?」
「いいえ。なんでもありませんよ。こちらの話です」
「でも。でっかい家ですよねえ。びっくりしましたよ〜。私もこんなオウチに住みたいものです」
「お屋敷に、ですか? そうですねえ。貴方には似合うかも知れませんね」
 喋らなければ。
 胸の中で呟いて、辺りに視線を馳せる。リンスター財閥総帥が所有する建造物の一つだった。主に自宅として使われている。モーリスの仕事はその庭を管理することだ。
「しかしこれは私の所有物ではありませんよ。私の主人の物です。私はそこで働いているだけですから」
「そうですか。って、いえ知ってますよ。ご主人」
 そこまで言って、シオンはハッとしたように口をつぐんだ。
「え! 夫婦なんですか!」
 いやいや。
 モーリスはまた無言でそこをやり過ごす。
 言葉の匙加減一つでしょうが。
「詳しいお話は、草間興信所の方で聞けるのでしょうかね」
「そうですね! はい!」
「伝言、ご苦労様でした。私は用意が出来次第自分で向かいますので」
 その時、シオンが目を剥いて絶叫した。
「ええええええええええええええええ」
 モーリスはシオンの絶叫に驚き、思わず「え」と間の抜けた声を出してしまう。余り驚くことがない自分だけに、驚いたことに更に驚いた。
「と。突然大声を出されますと、驚いてしまいますよ」
 出来るだけにこやかに、抑揚のない声を取り繕う。
「ああ。すみません。っていうか、ええ。一人で行くんですか? っていうかだったら、私に一人で帰れというんですか」
「あ、ああ。まあ。そうなるでしょうか」
「おじさん! さびしい!!!」
 その場でシオンは、自分の顔を覆う。
「淋しい淋しい! せっかくここまでやって来たのに。帰れと仰るんですか。なんてことだ、ああ。神様」
「あ、あの」
「はい!」
「いえ……。その、では。ご一緒に参りましょう、か」
「ですよね! ですよね!」
 また大きさを自覚していないラブラドールレトリーバーのように、シオンはその場でピョンピョンと跳ねた。慣れればきっとどうということはないのだろうが。きっと、危害はないのだろうが。



「あんだあ、あいつ。何処行ったンだ」
 雛太は荒い息を吐き出して、その場に蹲る。頭を抱えて、自分の判断が間違っていたのかと自問した。しかし曲がり角の度に考え、判断した結果に間違いはないはずだった。
 この辺りの地理は頭に入っているし、どの道を進めば何処に出るのかなどということは分かっている。その全てを加味し導いた結果が間違えているとは、到底思えない。
 それならばあの男は、一体何処に逃げたのか。
「あれ」
 その声は、ぐちゃぐちゃと言葉が行き交う脳裏の隙間から流れ込んで来た。
 雛太はその場に蹲ったまま髪をかきあげた格好で、首だけをそこへ向けた。
「あぁっれ? 姉御ォ?」
 声と共に立ち上がる。
「雛太くん。何してるの」
 目を丸くしたシュラインが小走りに寄ってきた。
「貴方、別の依頼で出かけてたんじゃ」
「別の依頼?」
 思わず、問い返す。シュラインの言い草はまるで、雛太が今、他の依頼にも関わっているような言い方だった。
「え、ええ。でも貴方、高安さんの依頼、知らなかったはずよね」
「高安の依頼? 何それ?」
「え? そうじゃないの?」
「あ。いや。あの。パクられてさ。書類を」
「書類を?」
「黒い男にさ」
「黒い、男」
「うん……まあ。いや、で? その高安の依頼って何なん?」
「あーうん。うん……ちょっとね。武彦さんの旧友の頼みなんだけど。お金の出ない話でね」
「あらあら」
「でも。その黒い男っていうのも気になるわねえ」
「んー。まあ……っていうかさ。そいつがヤバイもん落としてったのも気になるしさ」
「なんなの?」
 雛太はニヤリと唇を歪め、ポケットから先ほど拾ったビニールパックを取り出した。
「こおれ」
「なに、これ?」
「たぶん。シャブじゃね?」
 出来るだけ軽く言ってやる。
「シャブってことは、クス、リ?」
「そだね。ヤバアイお薬だね」
「ますます気になるわ」
「でっしょ」
 シュラインに向け指を差し、雛太も頷く。
「でも、まあ。見失ったトコなんだよね。手がかりもないし」
「そうだったの……見失ったのはこの付近?」
「んー。いや。この辺りじゃないんだけどね」
 そこで一つ、大きく伸びをする。
「これからどおーすっぺなあ」
 傍らを見ると、シュラインが携帯電話を取り出していた。
「なに、何処にかけてんの?」
 掌を向け、ちょっと待ってと合図したシュラインは「あ、もしもし?」と受話口に向け話し出した。
 雛太は肩を竦め、何となくキャッチボールの真似事のように体を動かしながら考える。
 追うたってあの黒い男は見失ったし。だったらそれはまた体制を立て直してちゃんとやることにして、こっちに参加した方が面白いんじゃん? なんてことを。



 てっきり車でも用意してあるのかと思ったら、シオンは無邪気な顔で「じゃあ、行きますか」と歩き出した。
「あ。歩いて行くんですか」
「ええ。秋の景色はキレイですよ」
 有無を言わさないような笑顔で返され、苦笑する。彼の笑顔には、自分が仕える主人の持つ力とはまた別の、無邪気さ故の力強さがある。
 小さい息を一つ吐き出したモーリスの眼前を、微かな涼しさの混じる風が流れていった。
 まあ。
 また、小さい息を吐き出した。
 付き合ってあげることにしましょう。
 彼の背中について歩くと、その背中が意外に逞しいということに気付く。伸びた背筋のラインは本当に美しかった。
「いったああ!!」
 しかし、このギャップは何だろうか。
 モーリスは突然地面に尻餅をついたシオンを見下ろす。そしてその向かいに、同じように尻餅をつく男を見つけた。少年と呼ぶのが相応しい、童顔の男だった。
 いてて、と小さな声を漏らしながら、尻をさすっている。
 どうして普通に歩いていて、人とぶつかることが出来るのか。それが聞きたい。
 しかもそれほど衝撃がなかったにも関わらず、二人はオーバーにも尻餅をついている。喜劇のワンシーンか、と言いたくなった。
「大丈夫ですか」
「もう、オジサン。びっくりちゃった」
 シオンが心細い声で言い、よっこらしょと立ち上がる。向かいの少年も立ち上がった。どんくさそうな顔つきのわりに素早い動きだった。
「ごめんなさい」
 黒く、さらさらとした長い髪を揺らし少年が頭を下げた。
「ああ。いえいえ。おじさんなら、大丈夫ですよ」
 優しい声を出したシオンに少年は何故か驚いたような顔を見せ、それから顔を伏せてもう一度言った。
「本当に……ごめんなさい。余所見してました。じゃあ僕。急ぐから」
 そう言って少年は駆け出す。モーリスはその背中を見送りながら、ふと嫌な予感にかられる。先ほど少年が見せた、表情を思い出す。
「ああああああああ!」
「な。なんですか」
 モーリスはまた、聊かぎょっとしてシオンを見やる。
「財布がないんですよお! 私の黒革のガマ財布が!」
「く。黒革のガマ財布?」
 問い返した後ハッとして、モーリスはまた舗道に目を上げる。驚いたことに、少年の後姿はもうだいぶ小さくなっていた。
 なんて素早いんだ。
 モーリスはその背中を見つめながら、何かを投げるように手を振りかざす。
 遠くの方からぎゃ! と短い悲鳴が上がった。
「え!」
 自分の体を弄っていたシオンが、振り返る。
「アーク。先ほど言ってた、檻の能力ですよ。彼を捕まえました」
「か。彼?」
「貴方の財布を掏った彼ですよ」
「掏った? え? スリ?!」
「行きましょう」
 駆け出すとシオンも事情が飲み込めていない顔のまま、後をついて来た。檻の手前まで来ると、少年がハッとしたように振り返る。
「盗んだ財布を。返して頂きましょう」
 モーリスは笑顔で言った。
 少年はその大きな黒目に怯えたような色を浮かべたが、唇を噛み締め「知りません」とか細い声で言う。
「わ。私の財布、盗んだんですか!」
 シオンが泣きそうな声で言った。
「それは困りますよ! それは困ります。私。私あれがないと、いろいろ困るんですよ! 彼女にだって怒られるし! いや。そんなことよりも、盗むなんて酷いですよおお。私、私」
 ウッと嗚咽を漏らし、顔を覆う。
 モーリスはフウムと溜め息を吐き出した。
「なるほど。シラを切る気なわけですね」
「だって。知らないんです。本当、に」
「お母さんから教えて貰わなかったですか? 嘘をつくとエンマさまに舌を切られると」
「エ、ンマさま?」
 それは何だと言わんばかりに、少年が眉を寄せる。
「知らないなら構いません」肩を竦め、内ポケットから手術用のメスを取り出した。「エンマを知らないなら、これはどうでしょう。人の皮膚が良く切れるメスです」
 少年が身を竦ませる。モーリスはその反応に、少し楽しくなってしまう。
「正直に罪を告白し、盗んだものを出さないと痛い目に合いますよ」
「イタイのは……嫌だ」
 囁くような声で言い、少年が懇願の目を向けた。それはまるで、主人を煽るマゾヒストの目のようだ。
「ならば、出しなさい」
 小さく頷いた少年は、ゆっくりと立ち上がり黒い服の腹についたポケットからシオンのガマ財布を取り出した。続けて携帯電話を三つ、眼鏡を二つ、文庫本を三冊、ブランド財布を4つ取り出した。そして最後に出てきた物には一番、違和感があった。到底それが入るとは思えない、茶封筒が出てきたのだ。区役所のロゴが入っている。
 四次元ポケットなどというふざけた言葉が頭に浮かんだ。
「全部出しました。だから。痛くしないで下さい」
 細い声で少年が言う。約束を破って彼を殴ってやりたいような衝動に駆られたが、モーリスはただ肩を竦めて見せた。
「偉く便利なポケットですね」
 檻に近づき、少年の頭を撫でてやる。彼は一瞬だけ体を竦ませたが、何もしないと分かるとただ上目使いにモーリスを見上げた。
「貴方と遊んでいたいですが残念です。私はこれから用事がありますのでそちらに向かわねばなりません。しかし、貴方をこのまま野放しにするのも、世の為に良くないでしょう。シオンさん」
 そこで地面に膝を着き腕を伸ばし、自分のガマ財布を取ろうともがいているシオンを見下ろした。彼はモーリスの声に気付くことなく、懸命にガマ財布に挑んでいる。
「シオンさん」
 声を強め、もう一度名を呼んだ。
「え。あ? あ、はいはい」
「彼を見張っていて欲しいのですが。貴方のその財布と共に」
「はいはい……って、え! 見張るんですか! わ。私が?」
「他に居ませんからね」
「ええええ。こ。この檻って。大丈夫なんですかあ」
「そう簡単には開かないはずですけど」
「ぜ。絶対大丈夫って言って下さいよ!!」
「残念ながら。コツさえ掴めば誰にでも簡単に開けられるんですよね、これが。ま。外からのみですけど」
「ええええええええええええええええ」
「あ、電話が鳴っています、失礼」
 胸元で振動した携帯を取り出し画面を見ると、シュラインの表示があった。
「もしもし。はい、ええ。はい。そうですが」
 シオンに目をやり、少年に目をやった。二人は新種を見たかのように、牽制し合っている。
「いえ。少しアクシデントが御座いまして。ええ。まあ、大したことじゃありません。ええ。そうですね。はい。では、すぐに伺いますので。あ、それでシオンさんなのですが。ええ。彼にちょっとした用が出来てしまいまして、はい。ええ。ですので、私一人でお伺いしても宜しいでしょうかね。ああ、はい。ええ。ええ。わかりました。では」
 電話を切り、胸ポケットに仕舞い入れながら、檻の中をじっと見つめるシオンの肩を叩く。
「シオンさん。地図、出して下さい」
 暫くの沈黙の後、やっと振り返ったシオンにもう一度言う。
「地図、出して下さい」
「地図?」
「待ち合わせ場所が書かれた地図です。例のマンションの」
「あ。ああ。はいはいって、え! やっぱり私、留守番ですか!」
「財布が心配でしたら、残られた方が宜しいかと思います」
「財布だけ取り出して下さいよお!」
「急ぎますので。地図」
 シオンに向かい、手を差し出す。暫く懇願するような目でモーリスを見上げていたシオンだったが、最後には唇を尖らせポケットから地図を取り出した。
「はい」
「ありがとう。では、私は失礼します」
「こ。これ、動かせないんですか。車が通ったら」
「まあ大丈夫でしょう」
 笑顔で答える。
「そんなあ!」
 シオンの声を無視し檻の中の青年に向き直ったモーリスは、その頭をもう一度撫でると地図を頭に入れ瞳を閉じた。
 そしてその場所へ向かい、転移する。



「皆さんおそろいで」
 振り返るとそこに、モーリス・ラジアルが立っていた。
「やっと来たわね」
「お待たせしてしまいましたかね」
「まあ。少し」
 シュラインが肩を竦めた。
「それは失礼しました」
「アクシデントって何だったの?」
「それ、は。まあ。後でお話するとして。ここですか? その問題の部屋というのは」
 モーリスが空を煽る。しかし雛太の目には、マンションではなくアパートに見えた。建てられてから三十年以上は経過していそうだ。見るからに、安普請そうである。
 高安の依頼の概要は、シュラインから聞いていた。こんな安アパートに住んでいながら、それでも騒音を気にする高安という人間には頭を傾げたくなったが、だからといってすぐにも引っ越せるような金銭的はないのだろう。
 一人暮らしをするならば、ちゃんと物件を見てからがいい。いつだったか、誰かが言っていた言葉を思い出した。テレビの音ですら騒音になる部屋だってあるのだ。
 そしてこのアパートは、見るからにそんな感じだ。
「とりあえず、どうする?」
「ヤボ用はとっとと済ませてしまいたいですねえ」
「とりあえずは。そうね。新聞の勧誘でも装ってインターホンを鳴らしてみましょうか。私が行くわ」
 それは妥当な判断だった。雛太は頷く。
「それでは私と、彼はそこで」モーリスは駐輪スペースのような空間を指差す。「隠れてみています」
「じゃあ、行ってくるわね」
 ヒラヒラと手を振って、彼女が駆けて行く。
 しかし暫くするとシュラインは、眉を寄せて戻って来た。
「駄目。いないみたい。とりあえず中だけでも覗きたかったんだけど。これは彼が帰ってくるまで張り込みするしかないわねえ」
「いいや。方法は、一つある」雛太は武彦の口調を真似て、人差し指を一本突き出した。「この偶然は、ある意味で幸運だった」
「ど。どういう意味?」
「こーの。雛太さまが問題をズバっと解決してやんよ」
「どうやって?」
「家主が居ないなら。居ない間に忍び込んで中を調べればいい」
「ふ。不法侵入するってことッ?」
「シッ! 声がでかい!」
 雛太は慌ててシュラインの口を塞ぎ、辺りを見回した。
「人聞きの悪いこと言うなよ。俺はただ、純粋に依頼を解決しようとしてるだけさ」
「私もその意見には賛成です。まあ、忍び込める、ならば?」
「話分かるじゃん」
 雛太は笑って、モーリスの肩をポンと打った。
「忍び込めるなら、ですよ」
「忍び込めちゃうんだわこれが」
「見つかれば犯罪よ。貴方が警察に捕まったなんて知ったら、響子さんが何て言うかしら」
「きょ!」
 シュラインの口から飛び出した名前に、雛太は眉根を寄せる。
「きょ。響子は関係ないだろ!」
 腕を組んで明後日を向いた。
「あらやだあ。響子ですって。呼び捨て。何だかいやらしいわね」
「いやらしくない!」
「彼女ですか」
「違う!」
 ムキになって答えると、シュラインがモーリスに耳打ちした。
「以前、うちに居たでしょ? アルバイトの」
「ああ。洋輔くん、ですか」
「そうそう。そのね。洋輔の依頼で京都に行った時。この子ったら。いつの間にか、美人のクラブママさんと知り合っちゃって」
「へえ」
「だ。から。違うって」
「京美人ですか。それはよろしいですねえ」
「だから、違うってば!」
「毎日、メールしてるのよ。見ててゲップが出るわ」
「見たのかよ! っていうか、何見てんだ!」
「失礼ねえ。見たんじゃなくて、見えた、のよ」
 シュラインが笑顔で言い返す。
「し。失礼しちゃうな、コンチキショー!」雛太は大声で叫んで二人に背を向けた。振り返ることなく鉄の階段を昇っていく。
「耳まで真っ赤になっちゃってえ」
「そういう顔をされると余計に何かがあったのかと、勘ぐりたくなりますよね」
「そうよねえ」
「うるさい! 依頼の話だ。そこに話を戻そう。行くぞ!」
 階段を上りきり突き当たりの部屋へ向かい歩く。
「念の為」
 雛太はもう一度、インターホンを押した。
 それから「すみませーん」と声に出し、ノックをする。
「ねえ? いないでしょ?」
 背後に立っていたシュラインが言った。雛太は無言で頷く。
「じゃあ。ちょっと失礼してえっと」
 ポケットから携帯を取り出し、そのストラップ部分につけてあった同居人特性の鍵開け棒を取った。ドアに耳をつけ、もう一度中の音を確認してからゆっくりとその場にしゃがみ込む。
 ドアノブに取り付けられた鍵は、防犯という単語とは程遠いように見えた。鍵穴に棒を差し込み、指先に伝わってくる微かな振動を読む。
 こういう時、人の体の中で指先が一番発達した部分ではないかなんてことを、雛太はふと考える。細かい作業も、点字を読むことも指先はやってのけるのだ。温度を感じることも、麻雀をする時パイの柄を読み取ることだってやってのける。
 この指先に、自分は何度、人生を豊かにして貰っただろうか。
「お。開いた」
 雛太は立ち上がり、得意げに二人を振り返った。
「素晴らしい。器用なのですねえ」
「ねえ。本当に、入るの?」
 二人の顔は対照的だった。
「ここまで来て、入らないわけにはいかないっしょ。全ては正義と。そうだな」
 そこで雛太はニンマリと唇をつりあげる。
「愛しい武彦さんの、為?」
 さきほどからかわれた仕返しとばかり、シュラインに向かい顔を突き出してやった。
「もう!」
「じゃあさ。姉御はここで見張っててよ。俺ら、入るし」
「そうですね。そうして頂きましょう」
「呼んだらすぐに出てくるのよ」
 心配げな面持ちでそんなことを言うシュラインを背に、雛太は部屋の中へと足を踏み込む。外はまだ夕暮れ時なのに、部屋の中はやけに暗い。
「遮光カーテンでしょうかね」
「ますます妖しいな」
 ヒソヒソ声で言葉を交わし、顔を見合わせる。音を立てないよう靴を脱ぎ、そっと足を進めた。
 しかし、短い廊下の先にある六畳ほどの部屋には、この距離から見ても、何があるようには見えなかった。そっと歩き、部屋に辿りついても、やはり何もない。
「なんで?」
 思わず普通の声で言い、背後に居るモーリスを振り返る。彼は無言で小首を傾げた。
 その時だった。
「誰だ」
 細かく振動するような、不思議な声が聞こえる。雛太は驚き、身を竦ませた。
「今の、声。モーリスさんじゃない、よね」
「私じゃありません」
「誰だ」
 声はもう一度言った。
「お前こそ、誰だ」
 辺りを見回しながら、雛太は言う。
「俺はここに居る」
 振動した声は言い、暗闇の中からそれは突然姿を現した。零体のように形をぼやけさせ、ユラユラと揺れながらそこに佇んでいる。その形はほぼ人に近いが、手足が例えるならば半漁人のように、水かきのようなもので繋がっている。姿の所々は消えかかっているように抜け落ちていた。
「これが。悪魔、か?」
 しかしこれは、悪魔というよりも幽霊に近い。
「お前は……悪魔、なのか」
 切れ長の目が雛太を見た。しかし何も答えず、モーリスへと目を向けた。
「私どもは騒音に悩む隣人から依頼を引き受けて参りました。この部屋には悪魔が居ると。調査してくれないか、といわれましてね」
 モーリスの言葉にそれは唇を吊り上げ、やれやれと言わんばかりに首を微かに振った。しかしふと何かに気付いたかのように顔を挙げ、切れ長の瞳でまた、モーリスを見た。
 ゆっくりと足音もなく近づく。
 雛太は反射的に身を引いていた。しかしそれは、雛太には微塵の興味も見せず、次の瞬間にはモーリスの腕を素早い動きで捻り上げていた。
「何の真似でしょう」
 モーリスは冷たい目で微笑んでいる。それすらも気にせず、それは大きな手で器用にモーリスのスーツの袖口から何かをつまみ上げた。
「これはどういうことだろう」
 注意深く見なければ分からないが、取り上げたのは、黒く長い髪だった。
 それを眺め、「これは、どういうことだろうか」また振動するような声でそう言った。



 モーリスが行ってしまってから、何分くらい経っただろうか。檻の中の彼を見つめるのにも飽きてしまったシオンは、辺りに転がる石ころを広い地面に絵を書いていた。
「あの」
「ん?」とシオンは振り返る。
「なんですか」
「あの。僕。僕……もう一生、ここから出られないんですか、ね」
 彼がか細く呟いた。
 シオンは「さあ?」と小首を傾げる。手にあった小石を投げて、掌についた砂利を払った。
 彼が「そうですか」と呟き肩を落とす。
 その姿が酷く可哀想に見えた。
「あの。出たいですか?」
 シオンは思わずそんなことを聞いてしまう。
「出たい、です。でも、おじさんじゃ駄目なんでしょ?」
「うーん」
 シオンは腕を組み、唸り声を上げた。
「もう、いいです。仕方ないですよね。僕が……悪いことしちゃったから」
「あのね」
「はい」
「どうしてあんなこと、したんですか?」
 シオンの問いに彼は俯き、暫く黙った。それから微かな声で「お金がないと、生活できないから」と、言った。
「うん。まあ。そうなんですけどね。だからって盗むのはどうかって。おじさん思うなあ」
「ですよね。悪い、ことしました」
「働けばいいじゃないですか。ほら、まだ若いんだし。いろいろありますよ、お仕事くらい」
「働き方が分からなかったんです」
「分からない?」
「僕、僕の言うこと、信じてくれますか」
 彼が懇願するような目を向ける。シオンは何故だか心の中がじんわりと熱くなった。
「信じますよ。何ですか?」
 思わず、力強く言う。
 彼は俯いてから、ポツリポツリと話し出した。
「僕。僕、違う世界から飛んで来たんです。こことは全く違う世界です。お金は……モンスターと戦って手に入れてました。だから何ていうか。良く、分からなくて」
「も。モンスター?!」
「はい……そうなんです」
「すごいすごい! じゃ。じゃあ。えーっと、えーっと。どうやってこの世界へ?」
「分かりません。でも、僕がそれを強く望んだことは確かです。僕が前に居た世界でも。人が争っていたり、モンスターと戦ったり。とにかく毎日、争いの毎日だったんです。僕、もうそんなの嫌になっちゃって。そういうことがない世界に行きたいって」
「そう。そうだったんですか」
「はい」
「それは可哀想に……おじさん、涙出ちゃった」
「僕。だけど、この世界に来ても駄目だった。誰も僕の話なんて聞いてくれないし、信じてくれないし。人は冷たいし。ぶつかったら、怒られるし。本当は、いろいろ教えてくれる人が居たなら、僕だってこんなことしなかったんですよ。本当です。でも誰も優しくなんてなくて。おじさんが始めてでした。ああ……それからその前にぶつかった若い男の人も優しかったな。大丈夫かって言ってくれて……ああいう人にもっと早く逢いたかったな」
「そうなの。そうなの」
「おじさん。この世界で生きていくのって。とっても、しんどいですね」
「うんうん。分かるよ。分かる。そうですよ。中々、辛いモンです」
「でも。まだ僕が何とかそれでも生きていられたのは彼がいてくれたからなんです」
「彼? 親戚ですか?」
「僕の……恋人なんです」
「なんと!」
「あの人はあんな姿になっても僕の傍に居たいと言ってくれた」
 彼は細い声で言い、唇を噛み締める。大きな瞳にみるみる涙が溜まる。シオンも何が悲しいのかも良く分からないまま自分もさめざめと涙を零し、「うんうん」と頷いた。
「あの人に逢いたい。おじさん、僕。あの人に逢いたい」
「よしよし、おじさんが何とかしてあげますからね」
 涙声で言って、シオンは立ち上がった。
「これ。鉄で出来てるんですかね」
 呟いて、思いっきり引っ張ってみる。顔に血が昇るほど力を入れて引っ張ってみたが、檻はびくともしない。
「うーん」
 力を抜いて小首をかしげ、檻をそっと撫でた時である。突然柵がぐにゃりと曲がり、予期していなかった檻の変化にシオンはバランスを崩してしまった。
「わわわわ!」
 体の支えを失い、そのまま前へ倒れこんでしまう。
 そして気がつけば。
「すみません。落ちてしまいました。テヘ」
 自分も檻の中に居た。



 そこにはうつ伏せに寝転がり、足だけを柵の隙間から器用に出したシオンの姿があった。
「何やってるのよ」
 シュラインは思わず、溜め息交じりに呟いてしまう。
「おやおやその声は。シュラインさんではありませんか」
 首を精一杯曲げて、シオンが振り返る。
「何をやってるの、本当に」
「檻を開けようとしたんですね。多分」
 やれやれとモーリスが肩を竦めた。
「檻を開けようとしただけで、こんな格好になるの?」
「この檻を私以外の人間が開ける場合は。コツがありましてね。アメと鞭を使い分けてやれば開くんですが。まあ。駆け引きに弱いんですよ。恋と同じです」
「よ。良く分からないんだけど」
「しかし。これはまた、凄まじい格好ですね」
「笑ってないで助けて下さいよお」
 シオンが情けない格好で、情けない声を上げる。
 その時、雛太と異世界の彼がやっと檻の傍へとやってきた。
 そして檻を見るなり雛太が声を上げる。
「お前!」
 雛太の声に、檻の中の少年がビクリと体を竦ませた。
「このこそ泥! あああ! 俺の書類!」
 檻の中を指差した。
「この子、だったの?」
「こいつ。こんな顔してすげえスバシッコイんだぜ! しかも。これ」ポケットからビニールパックを取り出した。
「こんなヤバイ仕事してさ」
「まあまあ。彼にもいろいろ事情があるんですってば」
 シオンがうつ伏せの格好のまま、言う。
 雛太がチッと舌打ちした。
「話はこの半漁人から聞いたよ。けどな。だからって悪いことしてもいい理由にはなんねーだろ。しかもシャブまで取り扱って!」
「しゃ。シャブ? シャブって。何ですか」
「とぼけんな!」
「それ。それは。彼のエサっていうか、彼の為の食べ物です。彼、普通の物食べられないから」
「だからシャブを与えたっていうのか!」
「ご。ごめんなさい。だ。だって。お店の人、普通に打ってくれましたよ。コムギコがそんな悪いものだったなんて知らな」
「コムギコォ!?!?」
「は。はい」
「んだよ! コムギコかよ!」
 チッと舌打ちして、雛太がビニールパックを地面へと投げつけた。
「テメエ! ワケわかんないもん食ってんじゃねえ!」
 異世界の彼に向かい、怒鳴り声を上げる。
「騒がせやがって!」
 騒いだのは自分じゃないか。と、シュラインはこっそり苦笑する。それは明らかな八つ当たりに見えた。
「でも。まあ。そうね」
 シュラインも頷く。
「盗みはいけないわ」
「ごめんなさい。本当に……ごめんなさい」
「まあ。無差別に人を指す人間よりはマシだと思うけどね」
「ごめんなさい……」
「とりえあず。私達は依頼の為に来たの。だから一先ず、それを確認させて貰うわね」
「依頼?」
「隣に住んでる奴がな。騒音に悩んで、更に悪魔を見たってよ。まあ。悪魔ってのはこの半漁人だったわけだけどさ」
「半漁人……?」
「コイツ」
 雛太が異世界の彼の腕を掴む。
「っていうかさ。お前とコイツ。同じ世界から来たんだろ? なんでこんなんなっちゃったわけ?」
「良く……分かりません。でも。バチが当ったんだと思います。どうしてだろう。違う世界に行きたいと思ったのは僕なのに。この人には何の罪もないのに」
「その話はもういい」
 それまで押し黙っていた異世界の彼が、ボソリと呟いた。少年は眉を寄せて俯き、唇を噛み締める。それから一つ、溜め息を吐き出しシュラインを見上げた。
「煩かったのは……その。何というか。僕が……その。ホウキで空を飛ぶ練習を」
「ホウキで空あ?! はあ?」
 声を荒げたのは雛太だ。
「バッカじゃねえの!」
 笑い声を立てている。そんな雛太の姿に檻の中の少年はシュンとして、半漁人は切れ長の目で雛太を睨みつけていた。
「やっぱり。馬鹿ですか。おかしいと思いますか。僕……僕。こんな世界に来なきゃ良かった。この世界は生きていくのが、とっても辛い。でもどの世界でも辛いんだなって気づきました。楽園なんて。ないんですよね」
「確かに。辛い世界よね。聞いた話だけじゃあ、貴方達が居た世界がどんなものか本当の意味では分からないけれど。でももしかしたらこの世界よりはマシかも知れない。今の世の中じゃあ。普通に歩いてる人が何の罪もない人を、突然刃物で刺したりするの。そういう世界なのよ、ここは。でもね。それだけじゃないわ。貴方が言った通り、完全なる楽園はないかも知れないけれど、完全なる闇の世界なんてものも、ないんじゃないかしらね」
「俺も。何処にでも、一筋の光りはあると思うぜ。ただ、それに気付かずスルーする奴が多いだけでさ」
「そうですねえ」顎を摘み少年を見下ろしたモーリスが、小さく微笑む。「あのままあのアパートに住む、というのも難しいでしょう。主人のペットになるなら、相談してあげても良いですが?」
「そっかあ」と続けたのは雛太だ。
「まあ。うちも? 居候一人居るけど。あと二人くらい増えてもいいくらい、広いっちゃ広いし」
「そうねえ。本当に少しだけど。うちで依頼解決の手伝いしてくれるなら。お給料出してあげてもいいわ」
「確かにしんどいだろうけどさ。生まれてこの方ずっとこの世界で生きてる俺でもしんどい時あるしね」そこで雛太は小さく苦笑する。「でもさ。お前さえしっかりしてりゃあさ。それなりに生きていけるモンだぜ。この世界ってさ」
「そうね。貴方次第よ。汚れるのも真っ当に生きるも。決めるのは貴方だわ。一人じゃ生きていけないとは思うけれど。最後の決断まで人のせいにしちゃいけないわ。人のせいにして悪へと流れては駄目だわ」
「おじさんもそう思うよ。君なら、きっと出来ますよ」
 瞳をキラキラさせて、シオンが無理な体勢から少年の肩を叩いた。
「それに。ホウキで空だって。そのウチ、飛べます」
「それは、どうかな」
 モーリスが苦笑する。
「でも。こんな言葉がありますよ。信じる者は救われる。どうでしょう? 私達を信じてみるのは」
 モーリスが洒落た仕草で肩を竦める。
「信じる者は……救われる?」
 噛み締めるように呟いた少年が、それからすぐに小さく微笑んだ。
 しかしその笑顔はすぐに。
「ありがとう」
 涙顔に変わった。







END











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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 0086/シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【整理番号 2254/雪森・雛太 (ゆきもり・ひなた)/男性/23歳/大学生】
【整理番号 2318/モーリス・ラジアル (もーりす・らじある)/男性/527歳/ガードナー・医師・調和者】
【整理番号 3356/シオン・レ・ハイ (しおん・れ・はい)/男性/42歳/びんぼーにん(食住)+α】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 隣人の悩み にご参加頂きまして、まことにありがとう御座いました。
 ご購入下さった皆様と
 素晴らしいプレイングやPCをお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝致します。


 それではまた。何処かでお逢い出来ることを祈りつつ。
                       感謝△和  下田マサル