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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


ヒッピーを捕まえろ type B


------<オープニング>--------------------------------------


「あーあ」
 ひっくり返った陣の顔を上から覗き込み、彼はその、可愛らしい顔に笑みを浮かべた。それは、言葉さえ発さなければ天使と謳われても否定できない、本当に可愛らしい微笑みだった。
 しかし、陣はその本性を知っている。
 彼はその笑顔のまま、何処の物とも分からない汚い泥のついた靴を陣の腹に乗せた。
 無造作に伸ばした、毛糸のようなドレッドヘアを垂らし、そして言う。
「ねえ。僕に勝てると思ってンの?」
 顔だけは、天使のままで。

×

「つまりさ。そいつを捕まえて欲しいわけよ」
「校内に侵入したホームレスを、だな」
「そっ」
 短く答え、高井陣が体を乗り出す。
「もう、何つーか。ありえねえくらいズル賢くてさ。しかも、何? 早いわけ」
 大きな身振り手振りを加えながら陣はそう説明する。
 草間興信所の所長である草間武彦は、調査依頼書にボールペンを走らせながらもそんな陣の姿を時折見上げ、これで本当に生徒会長なのかと胸の中で呟いた。
 T市にある海星学園高等学校は、武彦でも名前くらいは聞いたことがある有数のお坊ちゃま学校である。通っているのは金も名誉も手に入れて、後は老後を楽しむばかりという親を持つ少年達ばかりだ。
 俺の時代とは、お坊ちゃまの定義が違うのか。
 武彦はジェネレーションギャップを感じずにはいられない。
 ソファに浅く腰掛け股を大きく開いて座り、腰までずらしているのであろうズボンが、股座でたるんでいる。これでは以前、うちに居た馬鹿バイトと余り変わらない。それでも海星学園の生徒会長なのだ。
「で。さ。やってくれるんっしょ? ここってほら。何でも屋っていうか」
「興信所だが」
「違ィわね〜」声を荒げて陣がまたソファの踏ん反り帰る。「大差ないっしょ」
「大差は、ある」
 武彦は溜め息でもつきたい気持ちで答えた。
「ま、どっちでもいっけどさ。金ならいくらでも払うから、捕まえてよ。ホームレス。うちの理事も困ってるし、とにかく学校中、アイツには迷惑してんのよ。いつからか学校内で住み出しやがってよ。俺ら。ホンット追い出す為にいろいろやったんだわ。でも俺らの力じゃどーにもアイツを捕まえることはできねえの。追いかけても逃げるの早いし。学校に鍵かけておいてもいつの間にかまた侵入してるしさ。頭使って金使ってもヒョヒョイのヒョイよ。なんでうちの学校なんだっつの。意味わかんねえ。生徒会としてもマジで困ってっし。アホな大人、ああ、まあ。教師らだけど。あいつらはまあはなっから期待してないとしてもさ。俺らですら捕まえらんねって、これほんとどうよって思うわけ。だからさ。捕まえて、追い出して欲しいンだよね」
「なるほどね」
 素っ気無く答え、依頼調査書にまたペンを走らせる。
 そこで陣がポンと手を打った。
「あ! でもお」
「なんだ」
「もし本当にアンタらが捕まえられたらさ。始末する前に、俺にとりあえず見せて欲しいんだよね」
 始末という単語を突っ込むべきか、見せてくれという意味を突っ込むべきか考える。ペンの尻で頭をかいた。
「とにかく……俺達は捕まえるまでは依頼として請け負う。その後の処分については。そうだな。お前に引き渡す。それでいいんじゃないのか」
「あーうん。まあ。それでもイイけど? でもホンット手ごわいんで、相当頑張ってね。いろいろちゃんと作戦とか練ってさ」
 意味の通じない激励をし、陣がポケットに手を突っ込んだ。煙草を取り出す。
「ごめ。火、ある?」
 こんな若造に、言われる言葉じゃない。
 武彦は、やれやれと眉を寄せた。


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 隣の椅子に座る、二人組みの男が気になって仕方がなかった。
 十ヶ崎正は窓の外を流れる平坦で平凡な景色を眺め、気になっては隣へと視線を戻した。誰も注意はしなかった。いや、しないのではなく出来ないのだ。
 この電車内にいる正以外の乗客は、誰もそこに座る二人組みに視線を向けることすらしない。流れるのは緊張と嫌悪を含んだ嫌な空気だけで、中には車両を変わる人間もいたが結局二人をそのままにして自分を動かしている。
 どうしてそんなことをせねばならない。
 正は腑に落ちない気持ちでいっぱいだった。
 迷惑をかけているのは向こうなのだから、だったら向こうが席を変わればいい。それが筋だと思った。しかし、いや。そもそもどの席へ移っても彼等が同じことをし、迷惑の押し合いになるのなら、やはり今、ここで注意すべきだ。
 正は深く心に決めて、ふっと隣の車両を覗く。そこには午後の電車のあるべく姿がある。漂う空気の中に温かい色が混ざり、乗客達はゆったりと揺られている。誰しもが抱える各々の悩みや空想に耽り、殆んどの人間が日常の中にぽっかりと空く空白の時間に身を委ねている。
 それなのにこの車両だけ、偉く空気が悪いのだ。
 正はまた、二人組みの男へと視線を向けた。今度は、そのうちの一人と目が合った。
「なに見とんじゃ」
 携帯を折りたたみながら男が凄む。先ほど携帯電話へ向かいがなり立てていた声より、一段と大きい声だ。それでも正はじっと男の目を見つめ返し、規則正しい息を繰り返してやる。
 たぶん。この男はイキがっているだけで本当はさほど権力や強さを持った人間ではないのだろう。そもそも本当に暴力団員ならば、こんな午後の電車に揺られているはずがない。
「何故見られているか分かりませんか」
 じっと男の目を見たまま、問い返した。二人組みのもう一人は、知らぬ顔で明後日の方を向いている。さきほどからそうだった。隣の男が携帯電話に向かい大声を上げていても、人に凄んでいても、加担するでも注意するでもなく、素知らぬ顔でしかし隣に座っている。
 歳は迷惑男よりも若そうだった。年下。上限関係があるのかも知れない。
「電車の中で携帯電話を使用するのはマナー違反です。さらに貴方は必要以上に声が大きい。迷惑です」
「てめえ」
「いい加減にして下さい」
 極めて冷静に、冷たい声で言ってやった。
 周りの人間達が息を飲み、緊迫しているかのような空気が頬に突き刺さる。
「ご心配なさらずとも、標的は僕です。他の方々がどう思われているか分かりませんが、僕は貴方が迷惑でなりません。そういう行為は外でやって貰いたい」
 歯軋りし、凄い形相で睨みつけてくる男の隣で、その付き添いと思われる男が小さく噴出した。次第にそれは、嫌な響きを持った引き笑いへと変わる。
「まあまあ。もうやめとけよ」
「兄貴」
 年下に見えた男は、どうやら上の立場にあるようだった。
「ねえ、君。すまなかったね」
 男が身を乗り出す。瞬間、とても整った顔だ、と思った。
「急を要する仕事の電話だったんだ。大目に見てやって。しかし電車って窮屈だよねえ。嫌になるよ。本当は車が一番面倒なくていいんだけどねえ。お忍びってやつで? 乗れないんだよねえ」
 そして隣の男を慰めるかのように、ポンポンと肩を叩く。
 へらへらとしたその反省の色もない態度は、更に正の気分を悪くした。まるで人を見下しているかのような目の色も気に食わない。きっと反省なんかしないし、自分が居なくなればすぐにでもまた同じことを繰り返すのだろう。しかし今、それ以上どうすることも出来ない。ここでイザコザを始めれば、それこそ乗客の迷惑になるのだ。それを知って挑発してくるかのように、組んだ足をプラプラと投げ出して男が続ける。
「嫌だなあ。電車って。ヤクザがそんなに珍しい? こんなに好奇の目に晒されたんじゃあ俺らだって迷惑だよ。どう思う? 人をジロジロ見るのはマナー違反じゃないの」
「見られるようなことを君が先にしたのだから、違反にはならないと僕は思う」
「ふうん。そっか。なるほどね」
 小さく頷いた男はまた明後日を向き、会話は唐突に打ち切られた。
 沈黙の隙間を縫うように、車内アナウンスが停車駅を告げる。電車がホームに滑り込む。ドアが開き、二人が立ち上がる。ドアを潜る直前、男が正にウインクした。



 薄く柔らかい風が、キウィ・シラトの頬を包み流れていく。秋の風は何処までも清々しく、足取りを軽くする。調子に乗ってどんどん歩いていたら、いつの間にか知らない土地まで足を運んでしまっていた。
 緩やかに伸びる坂道には、車がほとんど通らない。道の真ん中を左右に揺れながら、ぼちぼちと歩く。この道が何処へと続いているかは知らない。そろそろ引き返した方が良いのかも知れないと思った頃、坂道の上に大きな建物を見つけた。
 あれは何かしら。
 キウィは小首を傾げ、歩く速度を速めた。小走りに近い状態で、建物へと近づく。海星学園。学校だった。
「ふうん」
 つま先立ちして中を覗き込む。
 その時、背後にふと視線を感じた。何だろうと振り返る。
 それと目が合った。
「アヤシクナイヨ!」
 オウムのような声が言う。



「何なんだ。その、服は」
 呆れたように言うとモーリス・ラジアルは落ち着き払った声で言った。
「見て分かりませんか。制服です」
「分かるよ」
 脱力して、デスクに突っ伏した。頭上に、モーリスの声が降ってくる。
「ならば聞かないで頂きたい」
 声だけはいつもの彼だ。
 武彦はデスクから顔を上げて、その姿をもう一度眺めた。ブラインドの隙間から差し込む夕日に照らされ、金色の髪が眩しいほど輝いている。透き通るように白い肌は、無機質に白いシャツへと流れ、紺色のブレザーがやけにくっきりとその存在を主張している。嫌味なほど長い足にチェックのパンツは、ぴったりとハマっていた。
「そんなに見つめられると緊張しますね」
「なんでそんな物着てんだよ」
「学校でしょう? 制服を着ていた方が違和感がないと思いませんか」
「お前の存在自体が違和感なんだよ」
「似合いませんか」
「そういう問題じゃない」
 溜め息を吐いて、煙草の箱を手に取った。
「似合うか似合わないかと言われれば、似合っているのかも知れん。が。うーん。そうだなあ」
 煙草に火をつけ煙を吐き出す。
「美しい米国人のハリウッドスターが、チャイナ服を着ているくらいの違和感があるんだ」
「妙な例えですね」
「チャイナ服が似合うのは、やっぱりアジア人だということだ。制服はやっぱり学生なんだよ。だいたいそんなモン、どうやって手に入れたんだ」
 モーリスは小さく肩を竦める。
「企業秘密です」
「びっくりするくらい張り切ってるんだな」
「調査で堂々と学校に入り込めるわけですから」
「そうか」
 他にどう答えていいか分からず、武彦はいい加減な返事を返す。
「しかしお前も暇だな」
「呼びつけておいて、暇だな、とは随分ですね」
「忙しいなら断ればいい」
「人の心が分からないお人だ」
「お前が人の心を語るなよ。人じゃないくせに」
「人ですよ。仮初の」
 何が可笑しいのかモーリスは小さく笑う。その笑顔はただとても美しく、儚い。これでその達者な口がなければな、と思い、無かったから何だ、と思いなおした。
「しかし遅いな。十ヶ崎の奴は」
 壁に掛けられた時計を見やる。きっちり何時に、と約束したわけではなかったが、駅で電話をかけてきたのでだいたいの予定はたててあったのだ。
「こんな時に限ってまさか人身事故に巻き込まれたとかじゃないよな」
 呟いてみて、ならばきっと連絡が入るだろうと考えた。そんな時まできっちりマナーを守り、車内では携帯を使わない奴なのだ、という考えは打ち消した。
「うーん。とにかく、向かう、か?」
「そうですね」
 独り言に返事をしたモーリスが「向かいましょう」と尚も促した。
「とにかく行きたいんだな、お前は」
「調査で堂々と学校に入り込めるわけですから」
「はいはい」
 立ち上がり吸殻を灰皿にこすり付けた。煙草の箱とライターをポケットに突っ込む。
 そこでまた、モーリスの姿を見た。
「で? お前は本当にそんな格好で行くのか」



 逃げたら分かってンだろうな。
 粘りつくような声が頭の中に響いた。続いて自分に良く似た、けれどまるで違うその顔を思い出し、憐は小さく舌打ちを漏らす。
 あの男に見つかったことは致命的だった。そんな想いが頭の中をぐるぐる回り、打ち消そうとすれば溜め息ばかり出た。
 秋の風は冷たく、その中に独特の匂いを混じらせている。冬が来る前の、警告のような透明な匂い。
 寒くなると外で生活するのが一段と大変になる。ならばここで捕まってしまおうか。そんな考えが一瞬頭を過り、だから駄目なんだとまた溜め息を吐いた。
「いったあい!」
 何処からか脳を突くような甲高い声が聞こえ、憐ははっと顔を上げた。
「何処見て歩いてるのお」
 小さな少女が尻餅をつき、憐を睨み上げている。
 なんだこの、ガキ。
「今、ガキだって思ったでしょ! 嫌んなるわ。ガキでも痛いモンは痛いんだから!」
 そのクルンと大きな瞳は、赤い色をしていた。白いレースを散りばめた、真っ黒い服に赤いつやつやとしたポーチを下げている。
「ああ、ごめんね。ちょっと考え事してたから」
 打つかってしまったのだろうと判断し、憐は手を差し出した。少女はそれを掴み立ち上がると、パンパンと服を振り払う。自分の手が握り返されたことに、小さく感嘆した。
「へえ」
「何よ」
「いや? ただ。君くらいの年齢の子は、だいたい僕にビビって逃げちゃうからって思って。ほら、僕って汚いし。臭いでしょ?」
「自覚してるなら、お風呂に入ることをオススメするわ」
「そうだね。入れるなら入りたいんだけどね」
「あああああああ」
 その時突然背後から、空気に乗って飛んで来たような、薄くそれでいて妙にくっきりと耳を突くような変な声が聞こえ憐は思わず体を竦ませた。
「え?」
 目の前に立つ少女の顔を見る。
「君、が?」
「違あ〜う」
「あああああ。たまらん。たまらんですよ!」
 少女が何も言わず顎をしゃくった。
 憐は眉を寄せて後を振り返る。
 目が合った。
 無言で視線を逸らせた。
「な。何、あれ」
 誰に問うでもない、それは独り言の域を出ない呟きだった。自分が見たものが信じられなくて、ええ、っと呟きながら苦笑する。そしてまた、振り返った。
 また目が合った。
 逸らせた。
 それは一言で言えば、ピンクで金髪な男だった。
「アヤシクナイヨ!」
 まるで憐の気持ちを読み取ったかのように、甲高い搾り出したような声が言う。背筋があわ立った。
 何処からどう見ても、怪しいじゃないか。
「あーっと」
 男の姿を見なかったことにして、憐は頭をかいた。
「じゃあ。僕、急いでるから。本当、ごめんね」
「ちょっと待って!」
 小さな手が自分の服をしっかりと掴んでいる。
「なに」
「なに? なに、じゃないわよ。打つかっておいて、ただで行こうとするなんて信じられない」
「どうしろと?」
 憮然として返すと少女はふてぶてしくフンと鼻を鳴らす。
「ガキだと思って見くびってたら、痛い目に合うんだから」
「痛い目?」
 憐は苦笑する。
「ひどい。ひどい! キウィのことバカにしたわね! 泣いてやる! 泣いてやるんだから!」
 少女が顔を覆う。微かに漏れた嗚咽は次第に大きくなり、大声になった。
「ちょ、ちょっと!」
「えええええええええええんん。ええええええええんん。お兄さんが酷いことしたあ」
 彼女の声が辺りに響き渡る。
 憐は舌打ちした。今から逃げようって時に、なんでこんなのに捕まっちゃうんだ。
「あー。あー。分かった。分かったってば。そうだな。打つかってしまったお詫びに、お茶でもご馳走しよう」
「本当?」
 クルンと大きな瞳が憐を見上げる。そこには涙の一つも浮かんではいない。
「本当。本当。だから大声とか上げるのやめてくれる? いろいろマズイんだよね」
 少女はあからさまに瞳を細め、警戒の色を浮かべた。
「お金はないけどね。ほら、そこ」目の前に立つ、海星学園を指差した。「僕の家なんだよね」
「家?」
 繰り返し、少女は小首を傾げる。
「そう。僕、あそこに住んでるの」
「ほんとにィ?」
「本当、本当。どう? アイスとかもあるけど」
「えええ! アイスゥ! やったあ。キウィね、キウィね。喉渇いてて、アイス食べたかったんだ〜!」
 途端に歳相応のはしゃぎっぷりを見せた少女は、ピョンピョンと飛び跳ねながら憐の回りをクルクル周る。
「じゃあ。入ろう」
 少女の背を押し、そこでまた少し振り返ってみた。
 ピンクで金髪な男が、クネリと体をくねらせている。
 目を逸らした。歩き出した。
「あああああああ、待って!」
 思わず止まってしまった足を、また進める。
「ああああああ、待って! 待って! 行かないで! 行かないで!」
 舞台俳優のように良く通る声が辺りに響く。
 いい加減にしてくれ。
 憐は頭を抱えたくなった。
「行かないで! 行かないで! あああ。行かないで〜行かないでえ〜」
 良く通る声は、次第に音頭を取り始め、歌声に変わった。
「いい加減にしろよ! デカイ声出すな!」
 憐は思わず振り返り、男を睨みつける。
「いやあん。あはああん。そんな怖い顔しちゃいやあん」
 なんなんだ、この男は。
「じゃあ」溜め息が出た。「おじさんも……来れば?」
 脱力し吐き出す。返って来たのは無反応だった。
 しかしそれも数秒のこと。暫くすると、男はこちらが驚いてしまうくらい目を見張らせた。
「えええええええええええええええええええええええええええええええええ」
 くねりくねりと嫌な体の曲げ方をしながら、男がその場でわたわたとする。
「わ。私? 私に言っているのか。マドマーゼル」
「い、一応?」
「あああああ。嬉しい! おじさん、嬉しいですぅう。ありがとう! ありがとう少年!」
 両手を突き出し、憐の元へと足早に寄ってくる。しかしその足は、道のど真ん中でピタリと止まった。急ブレーキをかけたかのような、見えないガラスにぶつかったかのようなそんな止まり方だった。そして何を思うのか、男は突然、膝をつく。
「ああ。でもでも。おじさん困ったなあ。私にはね。妻が居るんだ。ハニーがね。困ったよ。ああ、困った。こんな所をハニーに見られてしまったら。私は、私は……。いやあん。そんなあ。ハッハッハ」
 何が可笑しいのか。笑い出してしまった男に、憐はかける言葉もない。
「お仕置きだなんて、んもう、ハニーったらあ。ハッ。私ってばそんな、幼子が見ている前で! 何で不謹慎な妄想を!!」
「えーっと。アノォ」
「なんだね! 少年!」
 男は結局駆け寄ってきた。
「いや。あの。嫌ならイイんですけど」
「嫌? 嫌? 嫌とは? 嫌?」
「い、いや。嫌っていうか、嫌じゃないならそれでもイイんですけど」
「私はね! 君が、君が! ……余りに美しいから……なあんてな! あああん、いやああん。おじさん、テレちゃう〜」
 顔を覆い、男がクネクネと体を揺らす。
「もう。そんなこと言わせないでよォ〜」
 伸びてきた手で肩を叩かれる。
「やん! どさくさに紛れて触っちまった!」
 このまま。出来ればこのおじさんが、唐突にナイフでも出して来て自分を刺してはくれないだろうか。そんなことをふと思う。このおじさんはどう見ても変なおじさんだ。変なおじさんなら変なおじさんらしく、自分を掻っ攫うくらいのことをしてくれればいいのだ。
 しかし変なおじさんは変なおじさんなのであって、別段狂暴なおじさんではないようだった。
「私の名前はリュウイチ・ハットリ〜、だ。宜しくね、少年。いやあ。この学園は私のお気に入りの一つでねえ。ここの少年達はネバーランドにぴったりなんだよ! ああ、もちろん少年。君はその中でも筆頭だ!」
「はあ」
「ラブだよ! ラブ! 世の中はラブなんだよ! 少年!」
「は、はあ。ですよね。だからあの。大声、出さないで貰えます?」
「ねえねええ。早くアイス食べたいんだけどォ」
「おおおおお。ビューリホー。私はもちろんレディ〜、貴方もネバーランドにご招待したいと思っていますよ!」
「いらない」
「おおおおお。無体な、無体な」
 リュウイチがクネクネと体を揺らす。
「ねえ。もう、早く行こうよ」
 少女の声に促され「そうだね」と憐は頷く。
 変な方向に回り始めた会話に、そうすることしか出来ずにいた。
「入り口はこっちだからね」
「どうして? 校門から入らないの?」
「それは出来ないんだ」
 彼女に微笑みかけ、そしてやっと頭の中でこれからのことを考える。
 こんなお荷物。どうしろっていうんだ。



「親父が親父だと子供も子供だな!」
 薄い扉の向こう側から、人を罵るような調子の声が聞こえる。
「オメーも親父と一緒でホモかよ! 何かあったらパパパパってよ! ファザコンか!」
「なんだと!」
 どう考えてもそれは、言い争いの声だった。
「君達!」
 聊か声に凄みを足して、扉を開ける。その目の前で、よろけた生徒が並べられた机に背を打ちつけ、雪崩のようにそこへ倒れこんだ。
「やめなさい」
「あんだよ。綾和泉かよ」
 吐き捨てるように蹲った生徒が呟く。口元を拭い、立ち上がった。
「これは。どういうことですか」
 溜め息を吐き出し、綾和泉匡乃は言う。
「どうもこうもねえよ、別に」
 気味の悪い薄笑いを浮かべ、殴られた生徒がそこに棒立ちする生徒を見やる。
「なあ? 成瀬? 俺は本当のことを言っただけだぜ」
 同意を求めるように、周りに立っていた二人の生徒を振り返る。教室内には四人の生徒がそれぞれ、何かしらの想いを抱える顔で突っ立っていた。
「水木君。いい加減にしなさい。君達も。授業は終わったんだ。早く帰りなさい」
 最近の生徒は自由という言葉と規律無用という言葉を履き違えている。ふと、いつだったか同僚が言っていた言葉を思い出した。
 促された生徒のうち、水木が率いていると思われる三人組はいそいそと帰り支度を始める。水木だけはその顔に卑しい笑みを浮かべたままだ。
 この先彼等がどうなるのか気にならないこともなかったが、今の段階で口を挟めばもっと事態がややこしくなることだけは予想できた。一先ず別々に帰らせるのが適当だろう。
 職場で生徒達の乱闘騒ぎを見るのは本当に稀なことである。学校に比べれば生徒達の係わり合いも、きっともっと薄いからだ。
 少なくとも彼等は目標を持ってこの予備校に通い、僕等は彼等が目標とする大学へ受かる為だけの勉強をさせる。そこに無駄はなく、やることだけやるというシンプルさがある。
 生徒曰く学校という場所は、そこに目標外のことが多すぎるのだそうだ。しかし本当は、その目標外の中にこそ社会に出て役に立つことがあるということを、彼等は知らない。
「お前ら。いい加減にしろよ」
 ずっとただ突っ立っていた成瀬が声を発した。地を這うような低い声だった。
 ポケットに手を突っ込んでいる。まずいな、と思った。
 案の定出された手には、バタフライナイフが構えられている。
 咄嗟に身を出していた。その手を寸でのところで掴み、「何をするんだ」と聊か声を上げてやる。
「コイツが」
 成瀬は水木を睨み付けた。
 水木は急転した事態に驚いたのか、呆然としている。
 深く震えた溜め息が聞こえ、力一杯手を振り払われた。そのまま成瀬は走り出していく。
「待ちなさい」
 ナイフを持った生徒がそのまま外に出て、事態が改善するとは思えなかった。
「君達はとにかく家に帰りなさい。明日、ちゃんと課題やってくるようにね。さようなら」
 こんな時までちゃんと釘をさせるのかと思うと、そんな自分が少し可笑しかった。
「時間外勤務は好きじゃない」
 憮然として小さく呟くと、匡乃は成瀬の背中を追った。



 何が嫌いかと聞かれれば、人様に迷惑をかけることが一番嫌いだった。
 それが正義なのか悪なのか、六法全書には載っていないだろう。自分の信念はいつも、自分の中にある。
 正には予感があった。
 あれは、悪の予告だ。今から悪いことをする。そういう意味なのだ。
 悪いことを悪いと自覚せずに、人様に迷惑をかけまくる輩を正は許さない。電車を下り、駅の外へと抜けていく二人の姿を、正も少し距離を置き追った。
 暫く歩くと、車が殆んど通らないゆったりとした上り坂に出た。
 身を紛らわせる場所は余りなく、後を追うのは少々困難だ。しかしそれでも時には電信柱の影に身を隠し、建ち並ぶ街路樹の隙間に身を隠したりした。
 二人は何を話す風でもなく、しっかりとした足取りで坂を昇って行く。何処に行くつもりだ? しかしその答えはすぐに出た。坂の上に大きな建物が見えて来たのだ。
 あの形は。学校、か?
 臆する風でもなく、二人がその中へと消えていく。正は困った。あの二人を追うべきか。しかし、用もないのに学校へ入り込むのは良くないことだ。
 そもそもあの二人は許可を得て入っているのか? いや。そんなはずはない。あんな二人組みがこの学校に何の用があるというのだ。ならばやはり連れ戻さなければ。
 校門の前であーでもないこーでもないと自問自答を繰り返し、何気無くそこに刻まれた名前を見た。
 海星学園。
 海星学園?
 あ。
 そういえば今日、草間で……。
 何ということだろう。約束をすっぽかしてしまうだなんて。
 正は慌ててポケットから携帯電話を取り出す。その時、視界の端に何かが過ったような気がした。
 はっとして顔を上げる。
 数十メートル先に走っていく男の後姿が見えた。衣服をヒラヒラとさせ、長い黒髪をバサバサと揺らしている。しかし骨格はまさに男だ。
 あの男、何処から出てきた?
 疑問と共に走り出していた。とにかく逃げる男は捕まえなければならない。逃げるということは、何かやましいことがあるからなのだ。
 男の足は恐ろしく速かった。しかし正も負けてはいなかった。
 距離がどんどん縮まっていき、最後には飛び掛るようにして男の体を捕まえた。
「な! なんだよ!」
「君が……逃げるからだ」
 切れた息の合間にやっと言う。
 呼吸を整える間もしっかりと男の手を握っていると、トクトクと脈打つ音が指先を通して体の中に入り込んでくる。
「どうして、逃げるんだ」
「あんた、な。何者なわけ?!」
 手を振り解こうと暴れまわる男の顔を見て、正はハッとする。
 この顔。電車の中で見た男に似ている? しかし良く良く見れば、何かが違う。とても良く似ているけれど、まるで違う顔。
「君は」
「お前!」
 その時背後から、喉が張り裂けたかのような大声が聞こえた。
「あいつ……ヤバイ」
 手の中にあった男の腕が一段と強く暴れまわる。離すものかと意地になる正をそれでも振り払い、男が駆け出した。
「君! 待ちなさ」
 叫び声は途中で引っ込んだ。足元、いや地面がグラグラと凄い勢いで揺れ出したのだ。
 バランスを失い小さくよろけながら、地震かと自問する。
「なんだよ……これ」
 誰かの小さな呟きが、正の耳を突いた。



「学校の匂いがしますね」
 校門に向かいその細い顎を少し上向けながら、モーリスが呟く。武彦は聊か驚いて、彼の顔を見やった。
「分かるのか」
「いえ」
「いえ?」
「ただ本で読んだ言い回しだったので、言ってみただけです」
「なんだよ」
 やっぱりな、と小さく落胆する。彼が共有者ではないことが、少しだけ残念だった。学校の匂い。それは確かに存在する。今この場所に立っていても、郷愁をそそる匂いが鼻先を掠め、懐かしさで胸がいっぱいになってくる。別段良い思いでがあるだとかそういうことではないのだが、学校という響きが懐かしく、その独特の香りに胸躍らされるのだ。
「俺ももうおじいさんかなあ」
「それにしても」
「ん?」
「生徒の姿が余り見えませんが」
「放課後だぜ? 張り切っているところへ申し訳ないが、殆んど生徒なんて残ってないさ。生徒が沢山残っているうちからお前に能力を使われたんじゃ、学校側としてもたまったもんじゃないだろうからな」
 ハリウッドスターのように眉をあげ、芝居がかった仕草でモーリスは唇を突き出した。
「なるほど? ではやるとしますか」
 景気をつけるように両手を叩き合わせたモーリスは、そのまま目を閉じ重ねたままの手を額に当てる。彼の回りの空気が張り詰め、金色の髪がうねり逆立つ。
 何事か小さく呪文のようなものを彼が呟くと、次第に地面がグラグラと揺れ出しそれは大きな地震へと変わる。地面がこのまま割れてしまうのではないかと心配になった頃それが止まり、そこに檻が出現していた。
 学校全体を覆うような、大きな檻だ。
「大雑把な仕事をするなあ」
「合理的な仕事です。こうしておけば、まずこの学校からは出られなくなるでしょう?」
「まあ。そりゃそうだが」
「何処から探しましょうかね?」
 美しい顔にお似合いの笑みを浮かべ、モーリスは学校の中へと入り込んで行く。
「依頼人の情報によれば、ホームレスは体育倉庫に住んでるらしいぞ」
 武彦も後に続いた。



「何処に行くつもりなんですか」
「学校だよ。ついてくんなよ!」
 成瀬の激が飛び、匡乃はこっそりと溜め息を吐いた。好きでついてきてるわけじゃない。その背中にそう言えたなら、どんなにか良いだろう。
「そういうわけにもいかないのですよ」
「なんでさ」
「貴方が心配だからです」
 本当は、彼自身というよりもそのナイフなのだが。
「どうして。水木君ともめていたのですか? まあ、言いたくないなら無理には聞きませんが」
「変な、噂を」
「変な?」
 問い返すとその背中が小さく強張る。確か先ほど、教室で親父がどうの。ホモがどうのと言っていたか。それが変な噂の正体なのだろうか。
「メールで。ちょっと嫌なこと流されて」
「ちょっと嫌なことを流されたくらいでナイフですか」
「だって!」
 思わずと言った風に振り返った鳴瀬は、すぐにまた前を向く。
「アイツら。調子に乗ってたからさ。刺すくらいのことして示してやんなきゃわかんねーだろ」
 やれやれと思った。見えていないのを良いことに、匡乃は瞳だけで空を煽った。
「そもそもどうしてそんなことになったのでしょうか」
「俺のことが……ムカついてたんじゃねーの。知るかよ、アイツらの気持ちなんか」
「なるほど。それで、どうしてそんなナイフなんかを持って学校へ行くんでしょうか」
「確かめに行くんだ」
「確かめに? 何を」
「あのホームレスが、本当に親父の愛人なのかってことをさ!」
 理解し難い内容に、匡乃は唸ることしか出来ない。
 とにかくこのまま学校まで送り届け、担任教師にでも話をしておくか。それとも親に連絡すべきか。
 思い悩みながら緩やかな坂を昇っていると、成瀬が「あ!」と声を上げた。
 顔を上げ見ると、その背中が走り出している。
「何なんだ、突然」
 大きく息を吐き出して匡乃も走り出す。
「お前!」
 前方に人影があった。成瀬はどうやらそこめがけ声を荒げているようだ。人影は二人居た。一人はこう言っては何だが小汚い、ホームレスのような男。そしてもう一人は、対照的に身なりの整った眼鏡の男。
 言い争いでもしていたのか、腕を掴み合いばたばたとしている。
 これはどういう状況なのだろうかと、匡乃は考えた。成瀬が二人に近づこうとしている。その時だった。突然地面がガクガクと震え出した。
「地震?」
 呟きながら、何故か空を見上げてしまう。そして地面を見た。
 暫くして揺れが収まり、
「なんだよ……これ」
 呆然と呟く成瀬の声が耳に飛び込む。
「これは……モーリス氏の檻?」
 数回、見たことがある。
 匡乃は自分達の外側に出現した鉄格子を見つめながら、小さく呟く。



「おじさん。困っちゃったなあ」
 まるで捨てられた子犬のようなか細い声を出し、リュウイチが隣で呟く。
「キウィも困っちゃった」
 調子を合わせ、キウィもか細く呟いた。
 しかしあのホームレスもやってくれる。
 二人を体育館倉庫へと案内してからの男の動きはとにかく素早かった。「あ」も「う」も無い間に突然扉を閉められ「ごめんね!」と謝られた。そしてそのまま、外から鍵をかけられたらしい。
 つまりは閉じ込められたのだ。
「困ったなあ」
 リュウイチがまた呟く。
「キウィも困るわ」
 同じように呟けば、いよいよ心細くなってきた。
 抱えた膝をぎゅっと抱きしめ、そこに頬を預ける。倉庫の中は酷く埃っぽい。息を吸い込めば、喉に細やかな埃が絡むような、そんな嫌な感触がした。まだ日は完全に落ちきっていないらしく、中はオレンジ色の光で照らし出されている。
 転がった鍋やヤカンやガスコンロを見やりながら、あのホームレスは本当にここで生活していたのだろうかと考えた。
「ん?」
 鍋の横に転がっているそれを見つけ、キウィは膝を抱えていた腕を解いた。這って行き、つまみ上げる。十円玉だった。
 これは貰っておくことにしよう。
 キウィはそれをこっそりとポーチの中に収めた。
「どうかしましたか?」
 ううんと首を振ろうとした時、ドンッという大きな衝撃音が降ってきた。鉄の扉がガサガサと揺れている。
「おい! 中に居るんだろ! おい!」
 声と共に世話しなくドアが叩かれている。助けだ、と思った。
「おい! こら! 返事をしろ! チッ。こんな鍵、壊してやるからな!」
 助けてやるからな! というよりは、責められているような口調だった。違和感を感じた。
「助けが来ましたよ! レディ!」
「おじさんから先に出てね!」
「どうしてですかレディ! こういうことはレディファーストだと決まっているんですよ!」
「いいから」
 そのピンク色の背中を押す。二人でくちゃくちゃとしていると、けたたましい音と共に扉が開き、光がばっと差し込んだ。
 逆光を浴びているのは、スーツ姿の男とやたらとガラの悪そうな男の二人組みだった。
 やっぱりな。
「ななななな。何者ですか! 貴方達は! おおおおおおっと。そちらの貴方。イケメン! イケメン!」
「なんじゃこりゃ」
 やたらとガラの悪そうな男が唸る。
「おい、お前! ここに居た男をどうした!」
 ずかずかと中へ入り込んできたと思うと、男は突然おじさんの胸倉を掴んだ。
「えええええ? どどどどど、どういうことですかあ?」
「チッ」
 盛大な舌打ちと共に、罪もないおじさんは殴り飛ばされる。
「いやあああん。おじさん、こんな大きな愛、受け止めきれないわ!」
 意味の分からないおじさんの言動は無視するとして。
 キウィはこの場をどう収めればいいのか、自分はどうすれば良いのか、頭をフルに回転させる。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「穏やかではありませんねえ」
 え?
「どうしたんですか、これは」
 キウィは入り口に視線を向ける。そこには美しい金色の髪をした、これまた美しい顔の男が立っていた。そしてその後。見覚えのある顔がある。
「武彦!」
「き。キウィ?」
「たけひこ〜」
 その懐目掛け、一目散に走り出し飛び掛った。
「キウィ怖かったよぉ。閉じ込められちゃったのお」
「ど。どうして……いや、何にしても無事で良かった。よしよし。怖かっただろ?」
「キウィね。キウィね。とってもね。怖かったよ」
「うんうん」
 優しく髪を撫でられながら、とりあえず自分は助かったのだと思った。



「やはりモーリスさんでしたか」
 聞き覚えのある声に振り向くと、そこに綾和泉匡乃の姿があった。
「君」
 どうしてこの場に彼がいるのだろうと、聊か驚く。
「そんな姿をしてらっしゃるから、間違えたかと思いましたよ」
「どうしてこんな所へ?」
 彼が無言で肩を竦め、顎先で微かに隣をさした。この学園の制服を着た少年が立っている。彼はじっと、モーリスの後に視線を馳せていた。振り返り、視線の先を突き当てる。二人組みの男。そしてその後にはピンクの金髪……。
「ええ?」
「どうして、お前らがここに」
 モーリスの声と重なるように、何故か険しい表情をして少年が呟いた。
「坊ちゃん。奇遇ですね」
 二人組みのうち、スーツ姿の男が小さく肩を竦める。
「どうしてお前らがここに居るんだと聞いている」
「いろいろと。いやあ。坊ちゃんがこの男の写真を持っていて下さって助かりましたよ。まさかこの馬鹿。こんな所に潜んでるなんて思わなかったですから」
 話は見えないが、何だかややこしそうな話だと思った。
 そのまた隣では、武彦が驚いたような責めるような声を上げている。
「十ヶ崎ィ。お前なあ」
「すみません。電話しようと思ったのですが」
「人身事故か?」
「まさか……その、ちょっと」
「っていうかお前。その隣の」
「ああ。これはちょっと怪しい奴を」
「依頼人に頼まれてたホームレスだ」
「え?」
「え?」
 モーリスは慌てて顔を戻す。
 ホームレス。ああ、これが。
 そしてそういえば、依頼人から渡された写真を見てなかったな、と思い出し、制服と学校に浮かれてしまっていた自分に、少し、苦笑する。
「じゃあ。これで調査終了ですねえ。十ヶ崎さん? 瓢箪から駒です」
「いやあ」
 十ヶ崎が困惑の表情で苦笑する。隣のホームレスに目をやった。彼の視線の先にもまた、あの二人組みが居た。制服の少年に愛想笑いをしていたスーツの男が、ゆっくりとホームレスを振り返る。
「兄貴」
「よお、憐。探したぜ?」
 緊迫した空気が辺りを包む。
 モーリスはスーツを着た男に視線を向け、それからまたホームレスを見た。
 記憶の奥の奥。自分ですら何処に仕舞い入れていたか分からないような所から、記憶がふわりと蘇ってくる。
「その小汚い男。こっちに渡して欲しいんだけど」
「それは出来ないな」
 武彦が憮然として答える。
「俺達はそいつを連れて返らないと、いろいろと面倒なことになるんだよね。頼むよ。そいつ、返して?」
「こっちだっていろいろと面倒なことになるんだ。みすみす渡すわけにはいかない」
「あーっそう」スーツの男は人の心の嫌な部分を刺激するような笑みを浮かべ、隣に立つ人相の悪い男を見上げる。「じゃあ。どうしよっか?」



 ベットの上に男が横たわっている。
 傷口が何処にあるのか、ぱっと見では判断できないくらい、体中が血まみれだ。
 モーリスは透明なビニル質の手袋をはめ、そこに横たわる男を見下ろす。彼は微かな虫程の呼吸を、何とか繰り返しているような状態だった。
「拾われて良かったですね。貴方、このまま放置してたら死んでましたよ」
「僕を殺してくれ」
「物騒な話だ」
 軽い調子で相槌を打ち、ベットの脇へと椅子を引っ張って来て腰掛ける。
「私はこれでも、名のある財閥のお抱え医師なんですよ。そうそう簡単に人を殺すわけにはいきません。この部屋に運び込まれた以上、最低限その理由を聞いてからでないと。中々ねえ」
「もう、嫌なんだ」
「ほう。何が」
「僕は。妾なんだ。ヤクザの」
 小さな息を繰り返しながら、男は言った。
「始めはアイツ……成瀬のこと。愛していたよ。物凄く好きだった。いや、たぶん。今でも好きなんだろうと思う。でも、だからこそ辛いんだよね。離れられない自分が嫌なんだ。アイツはさ。自分はとっとと結婚してさ。女も沢山囲ってさ。男も囲ってンのかな。ハハ。まあ、何でもいいけど。それでちゃんと子供まで作ってさ。だから。いいじゃんさ。僕、一人くらい居なくなったってさ。それなのに僕が逃げるとこのザマだよ。何処までも執拗に追いかけて来て、ボコボコにされて、次逃げたら殺すって脅されて。毎回そんなん。回を追うごとにお仕置きも厳しくなるんだよねえ。ハハハ。繰り返してたら、逃げ足も早くなっちゃったよ。でも。何が一番嫌かってさ。それで嬉しくなっちゃってる自分なんだよね」
 聞いてるだけで疲れてしまう。
 モーリスは小さく溜め息を吐いた。
「生きてる限り、僕は離れられないよ。そしてこんな歪な形でしかアイツの愛を確かめられない。だから。殺して欲しいんだ。アイツに僕を殺させないで、アンタが今ここで僕の息の根を止めてよ」
「なるほど?」
 モーリスは立ち上がり、脇にあったキャスター付きの台を引き寄せる。
「それくらい。人を愛してみたいものですね」
 実感のない声で調子を合わせるようにただ、言った。
「理由は却下します。貴方はまだ、生きるべきだ」
 彼の晴れ上がった瞳から、涙が零れ落ちた。

10

 忽ち始まった乱闘騒ぎの傍らで、憐は今なら逃げ出せる、と思った。
 何が何だか分からないが、とにかく兄達を抑えにかかった奴等に感謝しながら、そろりそろりと後退る。
 そして背を向け、走り出そうとしたその時、その喧騒の端でぼんやり突っ立っている少女とふっと目が合った。
 赤い目をしたその彼女の顔が、素晴らしく愛らしいことに、その時憐は始めて気付く。
「貴方の心の傷。癒してあげるね」
 喧騒の中でも、まるで心の中に響いてくるようなその声は、やけにくっきりと憐の耳に届く。
「お金ならもう貰ってあるから。たった、十円だけど」
 彼女が何かを受け止めるかのように両手を突き合わせ、それを憐の居る方角へと差し出してくる。
 その手の中に、白い、綿毛のような光がプワプワと舞っていくのを見た気がした。

11

「要するに。綾和泉氏の予備校に通う生徒が」
「そう。うちの予備校に通っていた生徒の親が、あのホームレスの愛人だったというわけだね」
「では……僕が追っていた二人組みは。その親の下で働いていたということですね」
「たぶん、そうだろうね。その生徒から聞いたんだけれど。彼は今、そこに座っている依頼人の彼から。学校内に入り込んだホームレスを捕まえようと話を持ちかけられたらしくてね。それでそホームレスを撮影した写真を持っていたそうなんだ。彼はまあ何というか。集団の中で生きていくには、少し我が強すぎるタイプのようでね。彼を快く思っていなかった友人に、まあ悪質な嫌がらせをされたみたいなんだ。おっと、これは余談だったね。つまり、彼が持っていたその写真を。君が追っていた二人組みが何らかの経緯で見つけ、そしてあのホームレスを捕まえに来た、と。そういうわけだろうね」
「なるほど、では……」
 綾和泉と十ヶ崎が散らばったピースの並べ合いをしている。
 そんな二人を鬱陶しげに一瞥した高井陣は、また武彦に顔を向け「どうしてくれんだよ」と詰め寄った。
「どうしてくれるとは、どういうことだ」
 煙草の煙を吐き出しながら、武彦は脱力を滲ませ彼に問い返す。
「捕まえられなかったじゃねえか! 逃がしたんだろ! あの、ホームレス!」
 苛立ったように声を荒げ、陣がドンとテーブルを叩いた。興信所のボロテーブルが、その衝撃で壊れてしまわないか心配しながら、武彦はわざとらしく肩を竦めた。
「仕方ないな。あれは不慮の事故だ。俺達だって精一杯やった。問題は成瀬という男だ」
「成、瀬? 成瀬がどうかしたのかよ」
「知り合いか?」
「同じクラスの、友達、だけど」
「なら、話は早い。後でそいつに何があったか聞けばいいんだ。とにかくこっちは殴られるわ、ピストルの弾は飛び交うわで大変だったんだ。ドサクサに紛れて逃げ出したホームレスをどうやって捕まえろというんだよ。無理だ。不可能。迷惑料は請求させて貰うからな」
「そんな。どういう意味だよ! わけがわかんねえ!」
「どっちにしろ。君の手に追える人間ではなかったということですね」
 口を挟んだのはモーリスだった。
「どういう意味だ」
 途端に陣の刃はモーリスへと向く。
「好きだったのでしょう? 彼が」
「な。なに。何が! 何言ってンの。あったまおかしいんじゃねえの!」
「ま。どっちでも良いんですがね」
 本当にどうでも良さそうに、モーリスがソファに寛ぐ。武彦は慌てふためく陣の顔を見やり、何もそんなにハッキリ言ってやらなくてもと少し、思う。
「つらい失恋ですね。まあ。始めから実らない恋だったのですから、諦めなさい。彼はね。ヤクザの妾をしていたような人ですよ」
「え?」
 言葉を失った陣を気にも留めず、モーリスは一人でクスクスと笑う。
「自分の子供の学校に愛人が隠れているなんて、普通は思わないでしょう。考えますねえ、彼も」
「うーん」
 思わず唸り声を上げてしまい、武彦は慌てて引っ込める。
 モーリスが知っていた過去については、学園からの帰り道、彼の口から聞いていた。しかしそれを聞いても、武彦には分からずに居る。
 あのホームレスが、愛人から逃げ切りたかったのか。
 それともその子供に何かしらの復讐をしようと思い、学校に身を潜めていたのか。
 あるいは、それでも見つけてくれることを望んでいたのか。
 しかしとにかく逃げてしまった彼から真相を聞くことも出来ず、結局やっぱり分からずじまいだ。
「ふざけんな! 意味わかんねえよ! こんなの。頼むんじゃなかった!」
「迷惑料は貰うぞ」
「ぼったくりだよ! ぼったくり!」
「依頼料は。親のすねかじりのお金よりも、バイトして払って頂きたいなという気があるのですけどね」
 いつの間にか話を終えた綾和泉が、口を挟む。
「どうでしょう?」
 それはいい、と武彦は思った。
「それはいいな」
 口に出して言っていた。











END










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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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type A
【2254 / 雪森・雛太 (ゆきもり・ひなた) / 男性 / 23歳 / 大学生】
【4017 / 龍ヶ崎・常澄 (りゅうがさき・つねずみ) / 男性 / 21歳 / 悪魔召喚士、悪魔の館館長】
【0086 / シュライン・エマ (しゅらいん・えま) / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【3453 / CASLL・TO (キャスル・テイオウ) / 男性 / 36歳 / 悪役俳優】
【3628 / 十里楠・真雄 (とりな・まゆ) / 男性 / 17歳 / 闇医者(表では姉の庇護の元プータロ)】

type B
【3801 / キウィ・シラト (きうぃ・しらと) / 女性 / 7歳 / たくさん遊ぶこと☆】
【2318 / モーリス・ラジアル (もーりす・らじある) / 男性 / 527歳 / ガードナー・医師・調和者】
【4310 / リュウイチ・ハットリ (りゅういち・はっとり) / 男性 / 36歳 / 『ネバーランド』総帥】
【3419 / 十ヶ崎・正 (じゅうがさき・ただし) / 男性 / 27歳 / 美術館オーナー兼仲介業】
【1537 / 綾和泉・匡乃 (あやいずみ・きょうの) / 男性 / 27歳 / 予備校講師】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 ヒッピーを捕まえろ にご参加頂きまして、まことにありがとう御座いました。
 ご購入下さった皆様と
 素晴らしいプレイングやPCをお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝致します。


 それではまた。何処かでお逢い出来ることを祈りつつ。
                       感謝△和  下田マサル