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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


花守りの屋敷

【壱】

 ざわめきに埋没していた編集部内が、たった一つの音で静まり返る。他愛もない音。ドアの開閉音だ。ドアを注視する視線は、古田翠の冷酷ともとれる一瞥で霧散する。三下もその一人で、編集長の碇麗香だけが面白いものを見つけたように不適に笑った。
 翠の雰囲気はどこか重たい。表の世界だけで生きているわけではないのであろう、重圧を感じさせるものだ。それはどんなに距離を置いていても、同じ空間にいれば自ずとわかってしまうようなもので、常にそうした世界に身を置いていることをそこはかとなく感じさせるには十分だった。表だけでは社会は成り立たない。それを身を持って知っているような鋭い雰囲気がある。それをよりいっそう際立てているのが肩に乗った艶やかな黒い羽をまとう鴉の存在である。翠は緩やかな仕草で、その鴉を撫でつつ、ゆったりとした足取りで編集部内に設えられた応接セットのソファーに腰を下ろす。そして真っ直ぐに視線を向けてくる碇に向かっていった。
「話しはこの子から聞いたわ。―――人に寄生する花と、それに魅了された学者……楽しそうじゃないの」
 緩慢な動作で足を組み合わせ、碇に視線を向ける翠の姿は不遜とも取れる態度だ。しかし碇はそんな些末なことには気に求めずに、自身のデスクを離れ翠の前に一枚の名刺を差し出す。翠もまた慣れた仕草で自身の名刺を差し出し、碇と手短に互いの自己紹介を済ませた。
「取材にご協力いただけるのだと解釈してよろしいということですか?」
 碇の言葉に翠は頷く。
「何かあった時のために、知り合いから式神を借りてきているし、問題はないと思うわ。私の単独でとは云わないわ。そちらの責任者の方に同行するという形で結構よ」
「わかりました」
 碇は云って、自身のデスクでなるべく目に触れまいとするかのように躰を小さくしていた三下を呼ぶ。静まり返った編集部内にそれは真っ直ぐに響いて、三下は無視することができなかった。もともと碇には頭の上がらない彼である。編集部内の雰囲気とやる気に満ちた碇の前では三下のささやかな抵抗など無駄なことだ。
 のろのろとデスクを離れ、翠に自己紹介をする三下の声は僅かに震えている。この取材の話しは予め碇から聞いていたが、元来の気質が影響して協力者など現れなければいいと思っていたのだ。そんな時ばかりこうして誰かがやってくる。こういうことを不運と呼ぶのか、それとも人間にはどうすることもできない運命なのか、三下にはわからなかったけれど兎に角仕事をしなければならないのだという絶望的な現実だけはわかった。
「足手まといだと思いましたら、どうぞあっさりと切り捨てて下さってかまいません」
 さらりと云い放たれる言葉は常の残酷さ。三下は黙ってそれを聞きながら、翠の鋭い視線から逃れるように俯く。
「よろしくお願いします」
 翠は碇の言葉に浅く頷いた。


【弐】


 碇に追い出されるような格好で三下は編集部を出て、翠を乗せた車で向かった先は郊外も本当に外れのほうにあたる都会にしては田舎じみた場所だった。緑も多く、排気ガスで咽喉が痛くなることもない。空の青さも透明に近く、流れていく雲は純白だ。三下は怯えた様子でハンドルを握っている。翠はそんな三下を気にすることもなくウィンドウの向こうに広がる景色を眺めながら、何が植物学者の心を惹くのだろうかと考えていた。
 花に寄生された人間が好きなのか。それとも人間に寄生する花が好きなのか。碇の言葉からは判然としない。花が好きなのか、寄生された人間が好きなのか、それによって事情は随分変わってくるだろう。それに花に寄生されている者の健康状態はどんなものなのであろうか。人に寄生する花など滅多にお目にかかることはできない。もし健康状態を脅かすようなものであるようなものであったなら、放っておくことはできないだろう。それに誘拐されたかもしれないという言葉も気にかかった。もしそれが本当ならば警察沙汰になることもありえないことではない。できれば穏便に済ませたいものだと考えているうちに、三下が車を停めた。
 長く伸びたアスファルトにコーティングされた道路の突端に佇む家がある。家と呼ぶには大きすぎる建物だ。そのわりにはセキュリティは完全ではないようで、豪奢な門扉は開け放たれたままである。郵便受けから顔を覗かせている郵便物は暫く放置されたままであることを無言のうちに伝えていた。
「本当に、行くんですか?」
 三下が問う。
「勿論。ここまで来て引き返すわけにはいかないでしょう」
 翠は渋る三下を切り捨てるように答えると、それでも渋る三下を他所に車を降りた。
 外の空気は冷たい。しかし不快で無機質な冷たさとは違って、確かに四季の移り変わりを伝える心地良い冷たさを感じることができる。緑の匂いと秋から冬に移り変わる途中の淋しさをまとう空気が鼻先をかすめる。微かな風に翠の黒髪が揺れて、それに導かれるような格好で三下が後ろをついて来る。
 開け放たれたままの門扉の辺りを見回してドアチャイムのようなものは見当たらない。真っ直ぐに玄関に続く砂利道の向こうにドアが見えて、きっとドアチャイムはそこにあるだろうと思った翠は躊躇うことなく門を潜った。三下も翠の後に続くが、勝手に入っていいものなのかどうかを考えているようで度々後ろを振り返っている。翠の足取りは滑らかだった。砂利の敷き詰められた小道を歩く足音が規則正しく響く。それを乱すのは三下の足音だ。
 手入れを怠っているのか雑然とした玄関前に立って、ドアのわきに設えられたドアチャイムに指を伸ばす。三下はもう何も云わない。辺りをきょろきょろと見回しているだけである。インターホンではないせいですぐには応えはない。もう一度押してみようかと思ったその刹那、不意にドアの内側から声が響いた。
「どなたですか?」
 男性のものだ。低くもなく高くもない、穏やかなしっとりとした声音である。
「珍しい花をお持ちだと聞いて取材に来たの。今お時間は大丈夫かしら?」
 口を開かない三下の代わりに翠が云うとドアの向こうでしばし逡巡する気配がする。
「その話しはどちらからお聞きになったのでしょう?」
 ドアの向こうから問われて翠は三下に視線を向ける。すると小さな声で編集部にメールでとの答え。きっとこの声量ではドアの向こうには届かないだろうと思って翠は同じ言葉を繰り返す。
「新聞社や雑誌社お得意のたれこみというやつですか……」
 嘲るような調子で云われて、翠は追い返されるかもしれないと思った。けれどそんな不安はすぐさま打ち消されて、硬く閉ざされていた玄関のドアが開いた。
「まずお話だけでも聞かせて頂けますか?花を見せるかどうかはその後に決めさせて頂こうと思います」
 特別これといった特徴のない男が立っている。洗いざらしの白いシャツに黒のスラックス姿で、印象的なものなど一つもない。
「ありがとう」
 翠がおざなりに云うと、その言葉につられるような格好で三下はぎこちなく頭を下げた。男性は三下を付き人か何かだと認識したのか、翠を家の奥へと促した。三下はついてくるだけである。
 二人が通された場所は殺風景なリビングルームだった。慎ましやかな応接セットが部屋の中央に設えられている。男性に云われるがままにソファーに腰を下ろすと、微かにスプリングが軋んだが決して座り心地が悪いものではない。一度姿を消した男性は程無くして、コーヒーが注がれたカップを二つトレーにのせて戻ってくると、肩を並べて座る三下と翠の前に一つずつカップを置いた。
「何から話せばいいでしょう?」
 男性が問う。
「植物学者だというのは、本当かしら?」
 翠がカップに手を伸ばすこともなく問うと男性は頷く。
「大学は疾うに辞めましたが、研究は続けておりますから学者の端くれくらいではあるといっても差し支えないでしょう」
「何故辞めたのかしら?」
「花のためです。あなた方が取材にいらした花は放っておくことができないもので、非常に手のかかるものであるからそれ以外の仕事をしていては枯らしてしまうことになるので。幸いなことに両親が残してくれた莫大な遺産もありましたし、その花の研究に一生を捧げようと思い、辞めたのです」
「そんなに珍しい花なの?」
 男性が大きく頷く。
「新種の花かもしれません。まだ研究の途中で何一つとして明らかにはなっておりませんが、珍しいものであることは確かです。一度そんな花があるといった噂を耳にしたこともありますが、長く植物に携わってきても目にしたのは初めてですから」
 すっと背を伸ばして丁寧な口調で話す男性は自分の状況が異常なことだとは全く思っていないようだった。
「周囲で誘拐された人が監禁されているといった噂が流れていることは?」
 男性は微笑む。
「なんと云われてもかまいません。私は私がやりたいことをやっています。相手もそれを理解して付き合ってくれているのです。警察沙汰になろうとも、私が犯罪者になることはありませんよ」
「それじゃあ、花に寄生されているという人は知り合いなの?」
「研究の理解者です」
 云った男性の表情が僅かに曇る。そして思案するような間を置いて言葉を続けた。
「形式的には赤の他人です。同じ分野の研究職についていた後輩で、寄生されていると気付いた時に云ってくれたんです。良かったら研究材料に使ってほしいと。寄生されたままでは研究もままならないから、と云って総てを私に委ねてくれたのです」
 その言葉には僅かな甘えの気配がした。我儘とも取れる強引さとどこか胸を張って云えないことをしているのだという自覚がある後ろめたさが感じられる。
「その方と話をさせてもらえるかしら?」
 翠が云うと男性はそれまでまっすぐに翠を見ていた視線を逸らし、思案するように窓の向こうへと顔を向ける。沈黙が生まれて、室内を満たしていくような気がした。
 そんな沈黙がどれだけ長く続いたことだろう。小さな声で男性が云った。
「本人が了承すれば、かまいません。もし本人が良いといっても決して気味悪がらないでやって下さい。花に寄生されているといえども心はあります。お話して頂くのはかまいませんが、人として話をしてもらいたいのです。約束して頂けますか?」
 どこか怯えたような男性の口調に、翠はしっかりと頷いた。


【参】


 無駄に怯えて傷つけてしまうかもしれないという三下をリビングルームに残して、翠は男性と連れ立って二階へと続く階段を昇った。廊下の突端にあるドアを開けて、もう一階上に続く階段の手前で男性が足を止めた。
「一応面会の承諾をとってくるので、少々お待ちください」
 言葉と共に残されて、翠は今しがた歩いてきた廊下を振り返った。生活感のない廊下。本当にここに人が住んでいるのかどうかを疑いたくなってしまうくらいに殺伐としている。どれだけそんな殺風景な廊下を見つめていただろう。
「上で彼女と……妻が待っています。妻は彼女の世話をしているだけですので、もし邪魔だと思った時は彼女にそう云って下さい。私はリビングに戻っているので話が終わったらそこへ」
 戻ってきた男性に云われて、今しがた男性が降りて来た階段を昇る。するとそこは温室だった。エアコンディションは最適に維持され、差し込む陽光に満たされて温かい。
 しかし温室には似つかわしくない生活用品がそこかしこにあった。そのなかでも一番目を惹くのはベッドだ。痩せた女性とその傍らに設えられたスツールに腰を下ろした、少女のような雰囲気居をまとった女性が翠のほうを見て、目が合うと微笑んだ。
「初めまして」
 涼やかな声だった。流れるような黒髪を彩るように薄紅色の花が咲いている。腕を包む長袖のシャツから緑色の茎が覗いて、人間でありながらどこか異質な気配がした。
「こちらへ来ておかけになって下さい。―――私は席を外させて頂きますから」
 云ったのは妻のほうだ。その傍らには一脚の椅子が置かれている。妻の言葉に従って、翠が歩を進め、妻が立ち上がった椅子に腰を下ろすと同時に女性が訊ねた。
「何を知りたいのですか?」
「花について訊きたくて来たの」
 すると女性は淋しげに笑う。
「それはお話できないわ」
「何故?」
「全く解らないからです。どうして私に寄生しているのかも、何故人間でなければならなかったのかも、全くわからないの。先輩の研究は全く進まないままで、大学に通いながらでは思うように研究を続けられないからだった筈なの。でも、一つだけわかることがあります。きっと私が死ねばこの花も枯れるでしょう。私という肉体を栄養分に生きていることは先輩も気付いている筈です」
 女性が言葉を綴るたびに、髪を飾る花や袖口から伸びる茎が揺れる。
 背後でドアが閉まる音がした。
「私が先輩と奥様を縛り付けているだけ。この花の研究を頼むべきではなかったのだと今になってようやく気付きました。先輩夫婦に社会を拒絶させているのも私のせいです。私という存在が世間に知られれば格好のネタになってしまう、騒ぎ立てられてしまう、そうしたことを考えて引き篭もるようになってしまったのだと思います。決して先輩も、奥様もそういったことは口にしないけれど、考えてみればわかることですから……それに、私はここではなくても受け入れてくれる人がいます。時々手紙を届けてくれるその人なら、こんな私でも受け入れてくれると思いますから」
 哀しげに話す人だと思った。まるで自分がいるからいけないとでも云っているようだ。
「それを彼や、奥さんに伝えたことは?」
 女性はゆったりと頸を振る。花の甘い香りがした。
「もし本当にそれを悔いるなら、話したほうがいいと思うけど」
「……そうよね。でも私、怖いんです。一人になるのが。ここにご厄介になっていられるのも、いつまでかわからない。そうしたら私はこんな躰でどうやって生きていけばいいのかしら」
 翠には女性に答えるべき言葉はなかった。決めるのは女性自身だ。他の誰にも決められない。
 翠は黙って女性を見つめながら、ふとギリシャ神話を思い出していた。
 オルフェウス。
 ギリシャ神話のなかに詩人の名前だ。甘く辺りを包む花の香がオルフェウスの琴の音。失ってしまったエウリュディケを今度こそは離すまいとするかのように濃密な甘い香りを放ち、女性の躰に寄生する花。しかし一度失われてしまったものはもう二度と戻ることはない。それが世の理というものである。いつまでもこんな風にしておいてはいけないだろう。
「話してくれてありがとう」
 云って席を立つ翠に女性が云った。
「先輩たちにはきちんとお話します。それからのことは自分で決めます。だから、ここにお二人を呼んでもらえますか?」
 その言葉に頷いて、温室を出るとすぐのところに妻らしい女性が立っていた。温室のドアが閉まり、翠が自分の目の前で足を止めたのに気付いたのか呟くように女性が云う。
「彼女にはいつまでもここにいたらいいの。私たちは彼女を捨てるようなことはしませんもの。いつまでも、ここにいたらいいのよ」
 柔らかな、縋るような声だった。何か唯一のものを喪失してしまったような哀しみとそれを再び手に入れられたのかもしれないというささやかな望みに縋り付こうとしているような弱さを感じる。
「奥さん、一つだけ訊かせてもらってもいい?」
 不意に問われて妻は怯えたように顔を上げる。どこか見たくないものから目をそらしているような気配がした。残酷な現実を引きずりだすことになるかもしれない。思いながら翠は言葉を綴る。
「子供はいないのかしら?」
 女性の双眸が見開かれる。
 そしてそれはすぐに力を失い、緩やかに睫毛が伏せられ呟くような声があたりに響く。
「……事故で亡くなりました。もう何年も前のことです」
「それは娘だったんじゃない?」
 翠の言葉が辺りに響くと同時に、女性の双眸から静かに涙が溢れた。
「……わかってるわ、わかってるのよ。彼女は娘じゃないし、娘はもう二度と戻ってこない。でも、行き場のない彼女をここに置いておくことが罪だというの?彼女は自ら望んでここにいてくれるのよ。夫が連れてきた時は、いつまでも彼女の甘えてはいけない、彼女を娘のように思ってはいけないと思った。けれど駄目よ。生活を共にして、まるで本当の娘のように私に甘えてくれる彼女を捨てることなんてできないわ」
 翠は一つ溜息を零す。
 仕方のないことだというのはわからないでもなかった。失ってしまったものが、また手に入るのだというのなら人は何を犠牲にしてもかまわないと思うだろう。それが娘のような唯一無二の存在であるとしたら尚更だ。しかしこのままにしておくわけにはいかない。たとえ花に寄生されている彼女が自らの死を悟っていても、そしてこの家に身を置くことを望んでいても、このままにしておけばこの夫婦は二度目の喪失を知ることになってしまう。お互いに傷つくだけだ。
「……ごめんなさい。私は君たちの偽りの幸福を壊すわ。彼女は返してもらう。でも、それは君たちがきちんと話し合うべきことよ。―――彼女が君たちにお話があるって云ってるわ」
 云い残して階段を降りていく翠を、女性は見送ることはしなかった。


【肆】


 リビングに戻ると三下と男性が無言のまま、居心地が悪そうにして向かい合っていた。翠が戻ってくるのを待っていたとでもいうように男性が顔を上げる。
「彼女が呼んでるよ」
 翠の言葉に男性が立ち上がる。
 そして擦れ違いざまに問うた。
「失うのが怖いのですか?」
 男性は足を止めて、翠を見る。憎しみと哀しみがない交ぜになったような複雑な双眸が翠に向けられる。
「失うのが怖くないといったら嘘になります」
「それは君の我儘よ。子を失った親の我儘……、そして研究者の業とでも云ったらいいかしら?彼女は君たちを縛り付けていると云った。でも逆に君たちが彼女を縛り付けているという風にも考えられると思うけど」
「妻に聞いたんですね。……わかっているんです。総て、わかっています。それでも失いたくないと思うのは許されませんか?」
 男性の言葉を翠は一言で否定する。
「許されないわ。どんなことがあっても、他人の人生を自分たちだけの幸福のために利用するなんて許されるわけがないでしょう。―――彼女の話しを聞けばわかるわ。彼女は何も考えずに君たちに甘えていたわけじゃない」
 語気を強めて云った翠の言葉に男性は諦めたように、わかりましたと呟いてリビングルームを出て行く。
 三下が翠を見ていた。
「調査はこれで終了。あとは三人が話し合いを終えれば、全部終わり。それを待つ?それとも帰る?」
 言葉に三下がソファーから立ち上がる。そして二人は静かに屋敷を後にした。


【伍】


 帰りの車中で翠は花に寄生された彼女がこれからどんな風に生きていくのだろうかと考えていた。
 確かにあそこには異形の者となってしまった彼女を受け入れてくれる人間がいただろう。花に寄生された者を好きだと思う夫の感情。亡くなった娘のように彼女を愛する妻の倒錯した愛情。過去に味わった喪失を紛らわすためにしか、彼女は必要とされていない。あそこには彼女自身はいなかった。娘の代わりに愛されて、花として愛でられる。そこには人間として尊厳のようなものは微塵も存在しない。
 もし自分の娘が失われることになったら。
 考えると自分もあの植物学者の夫婦と同じことをするかもしれないと思う。誰の目にも触れないように閉じ込めて、傍において愛情を注いでしまうかもしれない。
「君はもし、最も大切なものが失われてしまったらどうする?」
 不意に訊ねられたことに動揺したのか、三下がしどろもどろに答える。
「……取り戻したいと…思うでしょうね」
「そうよね……」
 答えた翠は小さく笑った。
 失うことほど怖いものはない。もう二度と同じ者として傍にいてくれなくなることほど辛く、残酷な現実はないのだ。
 それでも失ってしまったことを受け入れなければ前に進むことはできない。彼女は彼ら夫婦を救うことができるだろう。きちんと自分の言葉で話さなければならないことをわかっていた。彼女はきっと生きていく。そして彼ら夫婦を説得することができるだろう。
 それにしてもあの女性は美しかった。花を纏う姿が淫靡で、漂う香りは甘く脳髄を蕩かせるかのようだった。
 もしかするとあの夫婦はあの花に失った者の姿を見ながらも、あの花の持つ魅力に惑わされていたのかもしれない。
 あの甘い香りはきっと、死と喪失の香りによく似ていたのだろう。




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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【4084/古田翠/女性/49/古田グループ会長】


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          ライター通信          
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初めまして。沓澤佳純と申します。
少しでもこの作品がお気に召して頂ければ幸いです。
この度のご参加、本当にありがとうございました。
また機会がありましたら、どうぞよろしくお願い致します。