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<PCシナリオノベル(シングル)>


裁きの日

 息が凍る。
 深い藍は何れ濃い闇になり、世界の半分を覆い尽くす。
 灯火すらない社殿はいつになく、沈むような静けさで体温を奪おうとする……けれど震える事すらせず、氷川笑也は端座したまま時の流れだけに目を凝らした。
 冷気を感じても、寒いとは思わない。
 あの瞬間の、全ての時が凍り付いた感覚は未だ笑也を支配したまま、まるで他人の身体に間借りしているようで、肉体に魂がきちりと収らず存在がぶれている気がする……その中で我が物と感じるのは、朱い瞳のみ。物が細部と輪郭を失う闇の刻ともなれば、必ず過去の風景を映し出すそれ。
 故に笑也は夜に眠らず、幾度も記憶をなぞる……闇を見据えればそれを透過するように、目を閉じれば瞼の裏に、手の届く事のない亡霊のような記憶を飽かず、追う。
 追った所で過去は決して変わりはしないと理解しているが、それでも思わずに居られないのだ。
 繰り返し、繰り返し。
 届かない手を懸命に伸ばした、あの、瞬間を。


 芝生に走った赤い線を追って、笑也は駆けた。
 その先、無造作に転がった黒い塊、眼前で見てもその正体が認められず、信じる事が出来ず、されども確と確かめる事も出来ず、煩いほどの鼓動が胸を圧するようで、笑也は喘ぎながら上着の胸を掴んだ。
 見る間、それの周囲にじわりと、血だまりが拡がる……赤く汚れた黒髪に面を笑也から背けるように転がる、それ。
 刎ねられ落ちた……ピュン・フーの、首。
 それまでは信仰も望みも何もなく、悪しきを滅ぼす力をただ求めるのみだった笑也の舞。
 初めてと言ってよかったろう……心を添えて祈りを捧げ、ピュン・フーの魂を振るい救う為のそれは確かに届いたと、確かな眼差しにそう思えたというのに。
 笑也は、震える手で、ピュン・フーの首を持ち上げた。
 手にずしりと重いそれを返せば、血に汚れていなければ、緩く閉じられた瞼に眠っているかのような、その面。
「ピュン・フ……」
喘ぐ息でどうにか名を紡ぐが返る応えはない……笑也は指で頬にこびりつく血を拭おうとする。
 まるで、その赤さえ清めてしまえば、彼が再び目を開くとでもいうように、幾度も、幾度も。
 けれど冷えて色を変えかけた赤は粘りを持って汚れを広げるばかりで、いっかな清められはしない。
 喪われた微笑みが、決して帰らぬ事を示すかのように。
 震える手が、重みを支える事すら出来ず、取り落としそうになり、笑也はその胸にピュン・フーの首を抱き締めた。
 ……答えていない。笑也はまだ、答えていない。幾度となく問われた問いの意味を。
 否。
 考える事を拒否していたのだ。
 幸せか、問われてその答えを見つけるのは、笑也の生き様を否定する行為に等しい……舞は魔を滅する為の手段、魔は笑也の力を試す為の道具。
 誰よりも強く、その一言を支えに修行と鍛錬を重ねる日々に、基点の欠落に気付く。
 誰、とは誰なのか。
 願いに嘘はないが、目の前に現われる魔をただ淡々と、消して行く事に焦燥以上の感情を覚えはしない……目指すべき背がない、笑也の前にはただ虚空しかない……足りないと、満たされないと、いつまでも拭えぬ無力感だけを見据えて、母を喪ったあの日から、その場から、動けずに居る。
 笑也の前には母の骸が横たわり、その背には大儀を翳して屠った魔が埋め尽くす。
 誰よりも強く、誰にも触れず、もう二度と、自分が傷つかない為だけに奮う力が誰かを守れる筈はない。
「俺は……間違っていた……?」
呆然とした呟きに、返る声は最早ない。
 守れなかったのだ、自分は。
 救えなかったのだ。彼を。
 ……誰も、救える筈がないのだ。幸せになろうとしない人間は。
 いっそ命を屠るその事に快楽を見出す事が出来れば、彼の問いになりと答える事が出来ただろうか。
 喉が鋭く呼気を吸い込んで音を立てて一度、肩が大きく揺れた。けれど涙すら零れず、笑也は不安な子供がそうするようにピュン・フーの首を抱き締めたまま身を丸めた。


 後の事はよく覚えていない。
 気付けば私室の床に横たわり、幾日かは倦怠感に任せたまま寝付いていたように思う。
 夢に繰り返す光景に矢も盾もたまらず舞おうとしたが、そうとすれば指先が髪の一筋も動こうとしない。
「……俺は間違っていた?」
幾度問おうと返らぬ問いは、己の内に残響を響かせる事なく、すとんと落ちていってしまう。
 彼ならば何と答えただろうか……そんな事すら想えない。
 ふと、人の気配を感じて笑也は顔を上げた。
 遠く会話が聞こえる……夜気に密やかに落とした声は、家に戻るように窘める兄と、それに答えて二言三言、言葉を返す妹の物。
 笑也は静けさに耳が拾う音を聞くともなし、動かないで居る間に気配が近付いてきた。
「……笑也」
四方を戸板で閉ざしたままの毎殿、上がり口から廊下を周る、重さはないが存在を示す為かわざと足音を立てて兄が戸口から中を覗き込んだ。
「灯りくらいつけたらどうだ」
多分、戻るよう言い含めに来たのだろうが、笑也が暗闇のまま座しているのに大きく溜息をつく。
 社殿に来るまでに既に夜の暗さに目が慣れていたのだろう、兄は言った足で燭台の場所に辿り着くと、常に携帯しているライターから蝋燭の芯に火を移した。
 途端、柔らかな灯火に闇は隅に追われて色濃く蟠り、揺れる炎に影が舞う。
「あまり心配をかけるな……お前らしくもない」
妹を指しだろうの言に、笑也はふと顔を上げた。
「……私、らしくない?」
つと、その言葉が引っかかった。
「俺らしくないとはどういう意味ですか、兄さん」
笑也が声に込めた険に、もう一度吐かれた溜息に大きく炎が揺れた。
「気に障ったなら謝る」
八つ当たりでしかない言葉に兄が素直に非を認めて、笑也は途端に口籠もる。
「お前らしくないと言ったのは」
仕事から戻ったばかりなのか、スーツ姿のまま眼鏡だけを外して兄は笑也の正面に正座した。
「態と家族に心配をかける真似を、今までしなかったという意味でだ……お前のそういった面を知らないからな。義母さん達は余計に心配している」
父の後妻と腹違いに年の離れた妹を引き合いに出され、笑也は反論を封じられる。
 常には、彼女等に心労をかけまいとしていか心情を見失っていたのは確か、しかしそれを直ぐに窘めずに今まで黙っていたのは兄の温情なのだろう……けれど、指摘されて尚、笑也は動けない。
 大切だと思う、護りたいと願う……だが、自分にそれは為せない、その事実が笑也の足を止める。
 また母のように、そしてピュン・フーのように、力及ばず喪う位ならいっそこのまま心を殺したままで居ればいい。
「止めておけ」
その心中を読んだかのように、兄が静かに発した声に打たれて笑也は顔を上げた。
「お前も母さんの息子だ。自分の望まない道を行けやしない」
眼鏡越しでない兄の瞳は、緋の灯火を受けて藍のように沈む。
「……兄さん」
その兄もまた、母を亡くした痛みを抱えているのだと、当たり前の事に初めて気付く。
「俺は、間違っていた?」
思わず口をついて出た問いに、兄は口元を引き結んだ。
 逡巡を示す沈黙を、ジ、と炎が揺らしている。
「……それは、己で見極めよ」
舞の指導をする際に父が、よく口にした一言だ。
 所作の全てに意味がある。その心の遷りを、己で見極めよ、と。
 それだけ告げて、笑也に考える時間を与える為に席を立つ……そんな所まで父に倣う兄の背を、笑也は無言で見つめた。
 兄は退魔から退いて長い。舞殿に足を踏み入れるのも久しい程だろう……笑也と違う道を選んで歩む、その背が最も遠くそして近い。
「だが」
ふと、戸口で足が止まった。
「手の届かなかった何かを惜しんで全てを無くしてしまうより、腕の中に残った者を、失わないようにしろ」
それは確かに兄自身の言葉で。
 笑也はその背に深く、頭を下げた。
――笑也、今幸せ?
不意に声が耳に、虚ろだった胸に蘇り、反響して心を震わせた。
 まだ、舞えない。彼の問いに充分な、答えをまだ自分は持たない。
 けれど手の中に、胸の内に残る想いは確かに笑也だけのもので、あの掌と、眼差しと、ひたむきなまでに問うて、生きた彼の姿を思い出せる。
 仮に自分の過ちを、ピュン・フーに問うてみても彼ならば肩を僅かに竦めて少し、困ったように沈黙してそして、突き放すように優しく問うだろう。今、幸せ?と。
 叩頭したままの笑也の眼前、距離の近い板の目にポタポタと雫が落ちた。
 今はまだ、舞えないけれど。
 動く事も涙を拭う事もせず、笑也はそのまま声なき嗚咽に肩を震わせた。
 喪われた声も、想いもあの瞳の紅さも自分は確かに覚えている……記憶の中で彼はずっと変わる事なく笑也に楽しげに笑んで、問うのだろう。
 問われる度に答えを探して、探し続けて。その答えを見つけても見つけられなくても、正しくても、そうでなくても。
 笑也は力が欲しい。
 自分で選んだ道を、改めて見直して笑也は素直にそう思う。
 母に救われた命で、違う誰かを護る為に……今はまだ力が足りない。故に自分はまた力を求め、また舞うのだろうそれが。
 彼の為の鎮魂である事を、笑也は信じて疑わない。


 赤い月の夜にふと、風に混じって声を聞く事がある……楽しげに、何気ない問いは変わらず胸に響くのだ。
――……笑也、今幸せ?