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【problem】
その子はどうしようもなく、可愛かった。
リュウイチ・ハットリは自分の隣を流れていく寿司を見送りながら、向かいのボックス席に座る彼だけをじっと見つめる。
彼はどうやらわさびが苦手らしく、回っている寿司を取るとまずはこっそりわさびを取り除いていた。
しかしそれを連れ合いの男に発見され、すると彼は途端にムキになり、わさびを取り除かずに寿司を食い、目尻に薄っすらと涙を浮かべた。
全てにおいて気だるそうな態度や、少し乱暴な仕草も、少年特有の匂いを漂わせており可愛らしくて堪らない。
ああ。可愛い。可愛い。可愛い。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
リュウイチは自分の体の温度が上昇していくのを感じていた。
「で? なんか後から突いて来てンだけど」
腹と突付かれ、雪森雛太は屈辱に眉根を寄せた。
「言われなくてもわかってンの」
憮然として答えると隣から不快に軽い笑い声がする。
人通りの少ない道に、その声は大きく響いた。
「お前な! 他人事だと思って」
「いいからいいから。何つーかさ。オメー可愛いから、いろいろ狙われるんじゃねえの、やっぱり」
「うるせー!」
「あ。ああ!」
彼の人差し指が、目の前でクルクルと回る。
「オメーもしかしてさ。痴漢とかあったことあんじゃねえ?!」
「あるか! アホ!」
「その顔は。あるな」
「うっせえなああ! ねえよ。ボケ!」
「後に居るのも痴漢かもよ」
彼が雛太の体に巻きついてくる。
「ああーん。雛太クンの体忘れられなーい」
「ちょ。気持ち悪ィんだよ! 離れろ!」
「ま。仕方ないな」
彼はケロリとしてまた隣を歩いた。
「オメー。可愛いンだし」
「可愛い可愛い言うな!」
久しぶりに京都に居る友人から連絡が入ったのは、今日の早朝のことだった。
寝起きのぬるい頭に軽快な声が流れ込んで来た時、酷く不快な気分になったのを覚えている。
「お前は頭がおかしくなったかコノヤロー」
連絡してくるなりそうそうに、東京駅へ迎えに来てくれと頼まれ、つい不機嫌な声が出た。それでも向こうはそれを全く意に介さないかのような、軽い声で何度も同じことを言った。
迎えに来てよ、と。
「しっかし何だな。オメーは久しぶりに逢っても、可愛げのない口聞くんだな」
「それはお前の方。大体、迎えに行ってやった恩を忘れたわけ? 寝起きだったのにさ!」
「はいはい。そうでした。ありがとう、雛太さん。今日もお可愛いですね」
「可愛くねえ!」
「だって。可愛いのはお前の役目でしょ」
彼の指先が雛太の頬をつつく。その指を掴み、かぶりついてやった。
「イテ! おま! 噛むなよ!」
「だったらお前はそういうことを二度とするな」
「可愛いモンに可愛いって言って何が悪いンさ!」
「男に可愛いとか言う自体が間違ってンだろ!」
強い態度でこちらが臨むと、彼は途端に軽くあしらってくる。
肩を竦めて「はいはい。で? 後のアレ。どうするわけ?」と話を変えてきた。
後を向いたまま歩き、それから身を翻す。
「めちゃくちゃ見てンだけど」
「お前さ。だからそういう……なんつか向こうにこう。反応とか示さないでくれる? 無視すりゃあその内どっか行くっしょ、マジで」
「そうかなあ。ありゃあ相当、執念深そうな……変態さん。に見えるんだけど」
彼の言う通りだった。
雛太の眉間は繋がってしまうかと思うほどに寄り添う。
後を突いてくる変態。それは、ピンクで亜麻色なおじさんだった。
いつからついて来たかは定かではないが、寿司屋の時には既に居た。そして寿司屋を出た今もまだ、ついて来ている。
「何つーか。あれってこう。バチコーンって言った方がいいと思うンよ」
「だ! 駄目だって! そんなことしたら」
「ま。イザとなりゃあお前の体を差し出すくらいはして」
「するか! そ。そ。お。お前はそれでも友達か!」
「でもなあ。何つーか。あのオッサンはそれくらい執念深そうな気がするんだよなあ」
しみじみと言われたその言葉に、足元がグラつくかのような不安を感じる。
「そ。そんなこと言うな、よ!」
「もう何だろう。けっこ〜な変態プレイとか? しそうじゃん? ねえ。雛太くーん。これ着てみてよ」
彼は作ったかのようなダミ声で雛太の耳元に囁く。
「それで。セーラー服とかメイド服とか出されンの。どう? 想像してみ?」
「そ。そう。そ。想像したくない!」
頭を抱える。しかし脳裏には自分がメイド服を着ている映像が浮かび、体中が粟立った。
「ね? ヤバイっしょ。怖いっしょ」
「お。お前は! どっちの味方なんだ! そもそも!」
「べっつにィ? 真実を話してるだけさ。真実を。ま。確かに? メイド服を着たお前は見てみたいけどな。超ミニのヤーツ。それでさあ。それ着たお前が、いろいろあのオッサンに触られまくるわけよ。ああ、雛太くん。可愛いよ。可愛いよ。で。お前はそこで両手を縛られて泣き喚いてるわけ。いやだ。イヤダ。やめてお願い」
裏返った声を出し、彼は体をくねらせる。
「で。それを見たあのおっさんが、もっと興奮とかしちゃうわけえ。鼻息とか絶対荒いし。うわ! 毛も濃おそ〜!! ジョリジョリだよ。ジョリジョリ」
体中の毛穴が開き、背筋を悪寒が走り抜ける。
「ちょ。マジでやめろって!」
「ジョリジョリしながら囁かれたらどうすんべ、お前。好きだ。雛太くん!」
「ド! どうもしねえ! っていうかそんなことない!」
泣きたくなった。
雛太は頭を抱え込み、その場に蹲る。
少し虐めすぎてしまったかも知れない。
これは立ち直った時に殴られるだろうな、と思いながら俺は頭をかいた。
「モシモシ!」
不意に背後から裏返ったかのような声が聞こえ振り返る。
ピンクで亜麻色のおじさんが居た。
「どうしましたか! 少年!」
ピンクのおじさんは何がともあれ蹲る雛太に駆け寄り、その背を撫でる。
「んーんー。どうしたんだね。少年。おじさんに話してみなさい」
「こ。このクソが」
顔を覆いながら訴えた雛太は、それからハッと気付いたかのように顔を挙げ、それからピンクの男を見た。ギョっとしたように目を見開き「近づくな!」と男を張り飛ばす。
「おーおー。無体な無体な」男は地面に這うように体をくねらせた。「おじさん、ときめいちゃった」
「な!」
雛太は絶句している。
「もう本当に可愛いんだから! おじさん、ときめいちゃう!」
固まる雛太の傍へ這っていったおじさんは、その体に触れようとして乙女のように手を引っ込めた。
「やあん。困ったなあ。おじさんの好みだなあ。ハニーもきっと君を好きになると思うなあ。どう? おじさんチに来てみない? 合鍵あげるよ!」
言っていることが支離滅裂だった。
雛太はただブンブンと首を振っている。
「遠慮なんかいらないからね。うん。遠慮はいらないよ。少年、おじさんに全てを任せるんだ! ね? ね? ね?」
「おい、おっさん」
たまらず俺は、おっさんの肩を叩いた。しかしそれを素早い動きで叩き落とされる。
「ねえ、キミ。歳は幾つかな? 高校生くらい?」
「あんだよ。無視かよ」
「おじさんに教えてくれないかなあ? アヤシクナイヨ! ラブだよ、ラブ。ただラブなだけなんだよ、少年!」
「や。おっさん」
「もう。さっきみたいにおじさんをぶってくれてもいいんだよ、少年!」
「おっさん。おい。こいつ、二十三だってば。なーんつーか、もう。少年って歳でもないと思うんだわ」
最後の方はほぼ独り言に近い口調で言った俺に、ピンクの男は突然ガッと顔を向けてきた。
思わず、たじろぐ。
「あなた。今、何と」
「え?」
「あなた今、何と言ったんですか!」
「や。やあ。だ、だからその。こいつ二十三だよって」
「なにいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい! ガビーン!」
ピンクの男は第九のメロディを口ずさむとその場にべろンと崩れた。
「少年ではないではないか! 少年!」
言っていることがめちゃくちゃだった。
「おじさんはね。おじさんは……少年少女の愛と夢と希望を守ることが宿命なんだよ。ああああ」
ピンク男が顔を覆う。
「けれど貴方は少年ではなかった! どうしてくれよう! どうしてくれようこの悲しみは! おお青年! どうして貴方は青年なの!」
「ど。どうすれば……」
パニックからか呆然とした表情で雛太が呟く。
スイッチの切れた雛太も可愛いなと思いながら、俺は泣き崩れるピンク男の肩を叩いた。
「まあ、何つーか。少年が趣味じゃあしょうがねえわ。こいつはマジで少年ちゃうから」
「うん……うん。青年。すまなかったね。おじさんを許しておくれ……」
目尻に涙を溜めたピンク男はゆっくりと立ち上がり、ラ〜ラ〜ラララ〜と哀愁漂うメロディを口ずさみながら去っていく。
俺と雛太はただ、呆然とその背中を見送ることしか出来なかった。
「な。なんだったんだ……あれは」
暫くすると地面に尻餅を着いていた雛太が呟きながら立ち上がる。
「さ。さあ?」
俺は小首を傾げながら雛太を見やった。
そしてその目尻に涙の雫のような物を見つけ、何だか急に彼を愛おしく思う。
「おま。泣いてンの?」
「は!?」
雛太が慌てて目尻を拭う。
「びっくりしただけだよ! オメーもびっくりしただろ!」
「怖かったんだ? 何かいろいろ想像しちゃった? ん?」
「してねえーよ! びっくりしただけなんだよ! ふざけんなよ、お前」
俺を押しやり、雛太はずんずんと歩いていく。
「あー! もう今日は最悪! お前が来たところから最悪だよ、全く」
そしてこの愛すべき憎たらしい男といつまでも親友でいるんだろうなと、ふと妙なことを思った。
「じゃあ。行くとしますか。ディズニーランドに」
俺が背伸びをしながら声を上げると雛太は「はああああ?!!?」と大声で絶叫した。
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