コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<PCシナリオノベル(シングル)>


生きている者と死んでいる者

「こう」
神鳥谷こうは、朝の独特のざわめきの中にその声を聞いた。
 行き交う人の足音、車のエンジン音、鳥の囀りや高みを渡る風よりも低く、朝の清らな光の中で異質なまでの闇色から発せられた、その呼び掛けを。
「今、幸せ?」
こうは問いを向けて来た相手を見下ろした。
 真っ直ぐに立てば自分の方が、元より彼より背が高いと解っているのだが、今のその身長差は酷く遠く感じる。
 相手が椅子に腰を掛けていた為、必然としてそうなったのだが、こうは覚えた違和感を自らの行動に因って改善した。
「ピュン・フー」
探し求めたその人の、名を呼びかけて。
 こうは、その場に跪いた。
「……捜していた」
その唐突な行動に出会した通行人はぎょっとして遠巻きに道を行くが、膝をついた当人と跪かれた当事者とは特に気にした様子もない。
「俺を?」
オープンカフェでアイスコーヒーを前に雑誌を広げていたピュン・フーは、こうが肯定に頷くのにパタリと本を閉じる。
「そりゃまた、なんで」
聞きながらピュン・フーは、変わらずに顔の上に乗せたサングラス越しにこうに眼差しを向けた。
 口元に浮かぶ微笑みに、彼が確かに面白がっているというのが解る……けれどこうは咄嗟、理由を告げる事が出来ずに口籠もる。
 主を捜せ、と。
 こうを導く声がもう、聞こえない。
 未だ仕える存在を持たぬ傀儡が、人の為に造られ、それだけが存在意義である筈の自分が、主を得る資格を失ってしまった。
 ならば残された道はただ一つ……その救いを彼に求めていたというのに、いざ前にするとどうしても言葉が出ない。
 幾度も笑って与えられた約束。こうが、主を見つけられなければ、ピュン・フーはこうを殺してくれるのだと言う。
 それを目的として、彼を捜していたというのに。
 望みを告げればピュン・フーは躊躇なくこうを壊すだろう……主を得る事の叶わなかった愚かな傀儡の存在を、いつもと変わらぬ笑顔でその手にかけるだろう。
 自分が最期の瞬間に見るのは彼の笑み。そうと思うだけで炎の力を思いのままに振るうに似た、得体の知れない高揚を覚える。
 そして同時に胸の痛みが強弱を失い、引き絞られるような痛みに変わる……相反する感覚の意味を掴む事が出来ず、こうは目を伏せた。
「時に」
こうの長すぎる沈黙に返答を諦めたのか、ピュンフーはそう口火を切って、テーブルに頬杖をついて片頬の笑みの角度を変えた。
「今日、こう暇?」
後はピュン・フーに壊される、それだけが目的のこうだ。こちらの問いには頷く事で応じる。
「そっか」
こうの答えに破顔して、ピュン・フーは再び雑誌を手に取ると、栞を挟んだ頁を開いてこうに差し出した。
「俺、今オフなんだよ……暇だったら一緒しねぇ?」
片側を丸めるようにしたそれを受け取ると、片面の上部を埋めるようにして、太陽を負ったイワトビペンギンの凛々しい横顔のアップを捉えた写真。
 特集記事であるそれはカラー写真が所々に愛らしく不思議な水棲生物の姿が切り貼りされている……文の内容としては、トップを飾ったイワトビペンギンに因る仲間達とイベント紹介のようである。最も、ペンギンがインタビュー形式で記載されているそれに実際答える筈はないのだが。
 そしてその頁、栞と思われたのは一枚のチケットである……印刷された濃いブルー。
 無数の気泡、それを遮る影……の片隅に水中から顔を出したアシカが「みんなで来てね♪」と手を振っている。
「水族館……?」
 しかもペアチケット。
「こう、まだ行った事ねーだろ」
それどころではない、と頭では思うのだが、ピュン・フーの無邪気に笑っての誘いが胸に響いて、こうはこっくりと大きく頷いた。


 水の生物は多種多様、その命の様が一同に会する施設はその生態に応じて区分けされ、見る者を飽きさせない。
 それを証拠にピュン・フーは実に楽しげで、興味を覚えるその度に遅れがちなこうの名を呼んで手招く。
「こう」
肩越しに振り向き、歩みを緩めてこうを待つ、その眼差しの赤さに胸に走る痛みの明滅は、声と使命を失ったこうに残された、ただ一つだ。
 それを幾度も確かめるように、ピュン・フーが名を呼ぶ声を聞く為に、こうは横に並ぶ事をせず、順路に沿って先に立つピュン・フーに従う位置を歩く。
「ホラ、クリオネ」
北海の生き物展、と題された特集の展示場。
 ピュン・フーが示して見せたのは大型の画面である……クリオネはギリシャ神話で海の天使を意味するクレイオを意味し、学名をハダカカメガイという。殻は成長につれ失うが立派な巻き貝の仲間である。
 氷海を漂うその生態から実際の生体の展示は難なのか、壁に嵌め込まれたディスプレイが舞うように泳ぐ姿を映し出していた。
 半透明な体は角のような触覚を持つ頭部と胸のみが赤い。両側に伸びた羽根のような翼足、と呼ばれる足を使って漂う様は『流氷の天使』と呼ばれるに恥じぬ可憐な姿に、足を止める者も多い。
 こうとピュン・フーはその輪から少し離れた位置でナレーション付のディスプレイを眺めた。
「クリオネってナニ食ってるか知ってる?」
何気ない問いにこうは首を横に振る……如何なる手段でか、文明や習慣の日常的な知識は持ち合わせてはいるが、専門的、というよりは雑学的な知識は自ら蓄えるしかない。
「クリオネってのは偏食でなー……一種類の貝しか食えないんだ」
折良くリマキナというその名の表示と共にこちらも透明な薄い殻を背負った貝が、画面に映し出された。
「草食っぽいのに肉食って意外だろ? で、その喰い方がまた独特でなー……」
 ピュン・フーの話の流れを追ってか、もしくは彼がそうと狙ったのか。
 彼の眼差しが投げられる画面の中、クリオネはヒラヒラと飛ぶようにリマキナに近付き……頭、と思われていた其処が六つにばかりと割れて開いた。
 先までの漂うような動きから一転、まさしく襲いかかる素早さで以てリマキナに飛びついたクリオネはその開いた頭頂部で呑み込むようにしかし確かに噛み砕いてあっと言う間、哀れな犠牲者を食らい尽くす。所用時間は、一秒もあったろうか。
 食事を終えたクリオネはまた、元の天使の姿に戻ってふわりふわりと漂っている……柔らかく尖った下部、体の先端に今摂取してリマキナのそれが赤く下りて透明な体に色を添え、信じがたい惨事の事実を突きつけていた。
 その一連をつぶさに見てしまった見学者の群れは明確に一歩、引いていた。
「アレ見てから、俺はあいつ等を『流氷の堕天使』と呼んでる」
重々しくピュン・フーが告げる、その声に声なき同意がそこここで、こくこくと頷く動きに示される。
 恐るべし、クリオネ。
 未だ何も知らない清い心の持ち主が「あ、クリオネ♪」と嬉しく足を止める声を背に聞きながら、足早にその場を立ち去る見学者達。
 一つ階段を上ってしまった彼等は、その純粋な声に只、心の中で幸運を祈った。


 恐怖の現場から少しでも遠ざかる為か、走りこそしないが早足で行ってしまった見学者に置いて行かれてこうとピュン・フーの周囲には人影すらない。
 クリオネの体長は3cm程度、食いつかれても痛いとも思わない気がする……その上、食性はリマキナのみに向けられるのであって、人間が何故にあのような恐怖の面持ちで去っていったのかがこうは解せない。
 既知に耐性があるのか、ピュン・フーはこうの疑問に肩え竦めて笑った。
「アレだ。『流氷の堕天使』の後に薄暗いコーナー持って来られると、妙に後ろの気配が気になったりしてんだろ」
そんなものなのだろうか、とこうは首を傾げる。
 こうはその生態を成る程と納得したのみ、ピュン・フーは既知の余裕か特集展示の後、誰も居ない夜光生物のコーナーをゆっくりと見て回る。
 夜光、とはいえ何かを照らし出すほどの明るさを持つ程ではない。
 足下だけは危険を考えて間接的な照明に光量が確保されているが、意図として暗い水槽に漂う微生物が仄かな蛍光色に光の尾を作る様、そして闇の中に自らの居場所を示すようにふわりと発光体明滅させて傘に光を含むクラゲは月のよう。
 月の、よう。
 こうは思考の流れを追うように、先を行くピュン・フーの背に眼差しを向ければ、それを感じ取ったように、彼は後顧した。
「こう」
名を呼ばれて、こうは歩幅を広げてその背を追う……ピュン・フーは既に薄暗い通路を抜け、自然な光の中に立っていた。
 途端、視界が開けた。
 その蒼の領域に踏み出す一瞬、見上げずに居られない、透明な圧力が其処に在った。
 水族館の大水槽、その青に透過された光線が、過ぎる魚影を揺らめかせる。
 奥深く広がる水槽の中……閉じられた空間は岩を模し、水を満たし、生命を維持する為の酸素がコポと気泡となって天へ昇る。
「流石、ガンちゃんのオススメ。いいなこの大水槽」
ガンちゃん?と耳にした覚えのない呼称に首を傾げるが、直ぐさま、ピュン・フーが読んでいた雑誌に掲載されていたイワトビペンギンの名前に思い至る。
「……残念だった」
沈痛に告げるこうに、ピュン・フーが吹き出した。
「お悔やみ申し上げてるみてぇじゃねぇか」
ガンちゃんは館内を散歩するのが日課らしいのだが、生憎と彼等が到着した時には既に散歩を終えていた。
 硝子越しに遠くその姿を眺めるに、ピュン・フーがガンちゃんに触ってみたかったと言っていたのを指しての言だが、言葉の重さはまるでガンちゃんが天に召されてしまったようなニュアンスである……本人ならぬ本ペンギンが聞けばケーッ!と怒りの声を上げたに違いない。
 ひとしきり笑って、ピュン・フーは大水槽に足を向けて不意に、こうに問いかけた。
「生と死とを決定的に分ける要素ってなんだと思う?」
体重を意識させない歩みで進む、指が水槽を叩く……其処に波紋を生みそうな錯覚を覚えるが、強化硝子は固い音を立てるのみだ。
「今まで空気ン中で生きてたのが、この水ん中でしか生きれねぇヤツらみたいに変わっちまう……いきなりあっち側のモンになっちまうのって乱暴なシステムだと思わねぇ?」
 ピュン・フーが指でこうを呼んだ。
 その隣に並んで水槽を下から見上げれば、水面が光を弾いてきらめく様が見て取れ、それを見上げるピュン・フーの顔に波紋の影が揺れた。
「けど、『虚無の境界』のヤツってそれを得るのが『幸せ』らしい」
仄かな笑いが口元を彩る。
「こう、今幸せ?」
笑みは喜びの感情を示す筈だ。
 けれどその横顔は何か痛みを堪えているようで……自らの内に高揚と痛みの混在を知って初めて、こうはその笑みの質を知った。
 ぽつりと、言葉が口を衝く。
「……ない」
微かに、明瞭さに欠けたその声を耳に拾って、ピュン・フーがこうに顔を向けた。
「ん?」
問いの先を促す声に続ける。
「俺には解らない。主を捜せと、命じる声が聞こえなくなった。失ってしまった。主の居ない傀儡ならピュン・フーは壊してくれるのだろう? だから捜した、会いたかった」
自分でも支離滅裂だと思ったのだが、迸る思いのままの言は止まらない。
「俺には解らない……何故こんな、痛みを覚えるのか。痛いのにピュン・フーが何故笑うのか。俺が知っているのは、判るのは……」
未だ見ぬ主よりも、そして自分自身よりも、この目の前の存在を、ピュン・フーを優先したが為に永遠に、声を喪ったという事実だけ。
「俺に判るのは、存在する意味を失った事、だけだ」
渦巻く思いを声にして、整合を得た思考はピュン・フーが欲する問いの答えを、示す事すら出来ない己を自覚させる。
 再び口を噤んで項垂れたこうを見つめて、ピュン・フーはすいと身を引くように後ろに動いた。
 まるで避けるような動きに、こうはびくりと肩を揺らす。
「痛くて笑うってあたりは、俺、マゾっ気ねぇからよくわかんねぇケド」
コツコツと革靴の足音がこうの背後を過ぎって、水槽と平行に歩いていく。
「こうがフリーになったってトコだけは、よく判った」
足音を耳で追っていたこうは、その得心が行ったという響きに恐る恐る、ピュン・フーを見た。
 そこでばちりと視線が合う。
「俺はこうの主じゃねーし。なれねーけど」
いつぞやのように、親指で自分の胸を示して見せて、ピュン・フーはサングラスを引き抜いた。
 現われるのは、赤く染まって不安を誘起する月の色……月の、色。
 魅入られるように見詰めたこうに、口の端を上げてニ、と彼は笑う。
「いつまでとか言えねーけど。来る? 俺ントコ」
そう言って真っ直ぐに、こうに片手が差し延べられる。
「……俺を壊さないのか?」
その手を一度見て、また眼へと視線を戻したこうに、ピュン・フーは肩を竦めた。
「壊されてーなら殺してやるぜ?」
 最期に見るのが彼の微笑みであるならいいという諦観と同時、少しでも長く彼の笑みを見ていたいという欲求が相反している事に、ピュン・フーの笑みをまざと見て初めてそれに気付いたこうは、否と首を振る。
「こう」
こうの否定にピュン・フーはこうの名を呼んだ。
 天に向けられた掌、指先が招いてちょいと動くのに、こうは小走りにその手を両手にしっかと握り込む。
「そんな握らなくても逃げやしね……痛ててッ、こう、痛いって!」
痛みを訴えられて漸く、力加減を無くして強く握り過ぎてしまった事に気付いた。
 力は弱めたけれど、その手を放そうとしないこうに、ピュン・フーは苦笑して紅い視線を上方に向ける。
「……なんかスゲェ悪さしてる気分」
同意を求めるかのようなその言に頓着する筈もなく、光を翳らせて悠々と泳ぐ巨大なイトマキエイの魚影がこうとピュン・フーとに落ちかかった。