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<PCシナリオノベル(シングル)>


■ 館で待つは何者か? ■*

 「……ちょいと、お前さんや。このケーキ、一体どうしろと…?」
 口元を引きつらせているのは、この草間興信所所長、草間武彦だ。
 彼は常日頃から、固茹で卵の道を邁進しようと、日々精進に精進を重ねている。
 「はい、草間さんと、一緒に食べようと思いまして」
 答えた男は、この小汚い事務所にはそぐわない程の美貌にてにっこりと微笑んだ。
 月の光の結晶を集めたと言われても頷ける程に見事な銀糸をその身に侍らせ、春の麗らかさを思い出す青の瞳を和ませれば、大抵の人であればそのまま惚けて見惚れてしまうであろうことは確実だ。
 絶群の美貌を持つこの男を、セレスティ・カーニンガムと言う。アイルランドに本拠を持つ、リンスター財閥の長きに渡って──正確には創立当初よりの──総帥であった。
 貧乏所帯の草間などからはある意味雲の上の存在であるのだが、何故か彼はこの興信所を気に入っている様で、良く姿を見せては、このオカルト探偵事務所に持ち込まれる依頼を解決していた。
 しかしながら、今日はただ単に、お勧めの菓子を共に食べようと思い、ここへと訪れていたのだ。
 セレスティの持ってきた菓子は『Michel Bras』のエクラ・ド・ドゥスールと言うケーキだった。日本国内の店舗は、北海道は洞爺湖にあるホテル内にしかなく、本拠地はフランスである。勿論、これは空輸したものを持ってきたのだ。
 ちなみにフランス国内の店舗は、パリから車で五時間は掛かろうかと言う辺鄙…ではなく、高原の自然に恵まれた場所だった。洞爺湖に店舗が出た経緯は、このシェフ、ミシェル・ブラス氏が洞爺湖の大自然より生まれる、豊富な食材に魅せられたからであるとも言われている。
 とまれ、そのケーキは、はっきり言って草間如きが、のんびりノホホンと事務所に座っていて食べれるものでは、到底ないと言う代物だ。
 だがしかし。
 「あのな。こんなまるっと一個、男二人で食えるか?」
 生憎、この草間興信所には、日頃から屯している面々はいなかった。まるでエアポケットに落ち込んだ様に、静かなまでの状況だ。
 「冷蔵庫に入れておけば、後で皆さんも召し上がることが出来ますよ」
 そう言いにっこり笑うも、実はセレスティなら1ホール全て食べてしまえることは口にしなかった。
 「……まあ、確かにそうだが…」
 そう言って、草間はケーキを覗き込む。
 このエクラ・ド・デゥスールと言うケーキは、薫り高いカラメルが、アーモンドのスポンジを覆っており、そのアーモンドのスポンジの中には、ナッツや様々なフルーツが織り込まれている。また、そのカラメルのコーティングの上には、まるで宝石の様にナッツ、ホワイトチョコ、オレンジが飾り付けられている。
 見るからに、幸せな笑顔を呼び込んでくれる様なケーキだった。
 そう言い渋るも、何処か草間の顔がだらしなくなって来たところ、一本の電話が入る。
 年代物の黒電話は、早く取れとばかりに五月蠅く響いた。
 「へいへい」
 そう言いつつ顔を上げ、何時もの顔に戻ると、草間は電話を取った。
 セレスティは、何をすることもなく、そんな草間を見ている。
 徐々に草間の機嫌が下降しているのが、その数度のやりとりで解った。と、言っても、草間はあまり言葉を発してはいない。どうやら、何時もの様にオカルト系の依頼が入ったのだろうと、セレスティは見当を付けた。
 「おい! ちょっと待っ……。……切りやがった」
 苦々しげに言う草間に向け、セレスティは問いかける様に視線を投げる。
 「友人の安否を確認して欲しいんだそうだ。何でも、ここ一ヶ月程、連絡が取れなくて、心配なんだと」
 「それは心配でしょうねぇ」
 そう言うセレスティに、はあとばかりに溜息を吐くと、草間は手を伸ばして煙草を取って火を付けた。
 「そいつはオカルト好きで、奇怪な物品の収集に首を突っ込んでいたらしい」
 成程、ここが草間の気に入らない点だろう。
 じっとセレスティを見ると、再度口を開いた。
 「報酬は直接口座に振り込むと言っていた。場所は都下の…」
 そう言うと、セレスティが聞いたこともない様な場所を口にする。そんなところが、本当にあるのだろうかと思っていたが、草間の口から更に情報が滑り出た。
 「番地もない山林地帯だが、地図で大まかな場所は特定出来るな。古い木造の洋館だそうだ」
 草間はそう言いつつ、うーんと唸って考え込んでいる。報酬額をぶつぶつと口にし、己の信条とこの興信所の経営状況とを天秤にかけている様だ。
 確かに、草間の心揺さぶる金額ではある。
 けれどセレスティは別のところに興味を惹かれた。そもそも報酬なぞ、セレスティには関係ない。己の興味を惹くかどうか、それが一番重要なことだ。
 そしてこれは、セレスティの好奇心を刺激した。
 『そんな山奥にある館とは、一体どんなものなのでしょうか』
 ゆっくり立ち上がるセレスティを見て、草間が声をかけてきた。
 「おい、まさか行ってみる気か?」
 そんな問いに、セレスティはにっこり微笑み頷いた。



 「まずは…。情報収集からですね」
 セレスティは、草間興信所を出て一旦屋敷に戻っていた。
 まず最初に手を付けるとすれば、かの館の所有者の特定だ。取り敢えずは、その探し人の住まいではある筈だが、その人物は本当に存在しているのだろうかと言う疑念も、なきにしもあらずだからだ。
 依頼人の名と、その探し人の名を脳裏に繰り返し、更に住所も合わせて思い出すと、セレスティは幾人かいる内の秘書の一人に、館の登記関係のデータを調べる様に内線にて指示を出す。
 自分自身は、こう言ったオカルト系の物品を取り扱っている美術商や骨董屋、古本屋に連絡を取った。
 数本の電話をかけ、漸く探し人の名前が挙がる。
 「ご主人、それは本当ですか?」
 セレスティが今電話しているのは、古本屋の店主だ。
 なかなか取っつきにくい人物なのだが、何やらセレスティのことを気に入っているらしく、変わり種の本が入れば連絡をくれる。
 『カーニンガムさんに、嘘はつきませんよ。ええ、その人なら、うちに何度か古本を頼んでましたよ』
 「どの様な本を欲しがっていたのでしょうか? お客様のことをお話しするのはルール違反かとは思うのですが、教えて頂けませんか?」
 そう丁寧に頼むと、店主は暫くの沈黙の後、口を開いた。
 『他でもないカーニンガムさんの頼み事ですしね。…あんたが悪い人じゃないってことは、あたしも良く解ってる。……その人はね、魔術書関係…まあ、グリモア関係の本を集めていたんですよ。有名なところでレメゲトンとかね』
 レメゲトン。
 つまりは『ソロモンの小さな鍵』だ。
 第一部『ゴエティア』が、ソロモンの霊が列挙され、その力や姿を記し、第二部『テウギア・ゴエティカ』では、四方のデーモンを扱い、。第三部『パウロの術』で、昼と夜の描く時間の天使と黄道十二宮の天使を取り扱っている。更に第四部『アルマデル』、第五部『アルス・ノヴァ』と続くのだが、今日レメゲトンとして理解されているのは、第一部の『ゴエティア』であると言うことだ。
 『最後にお買いあげ頂いたのは、ホノリウスでしたね。取り寄せで』
 これもまた、穏やかではない書物の名だ。
 「ホノリウス…ですか」
 セレスティの眉根が顰められる。
 永き時を生きている彼は、その書物が何であるかを把握していた。
 取り敢えず、ソロモン系の代表格である『レメゲトン』と、非ソロモン系の中でも有名である『ホノリウス』を購入していることから、とにかくグリモアなら何でも、と言ったところなのだろう。
 ちなみに『レメゲトン』は和訳されているが、『ホノリウス』は原書になる。
 確かにオカルト好きとは草間の説明にあったが、わざわざ原書まで取り寄せるとなると、可成り重症だなとも思えた。
 『そう言えばですね…』
 そう言って、暫し沈黙をする店主に、セレスティは問い返す。
 「どうしました?」
 『あたしから聞いたとは、言わんで欲しいんですが…』
 「解りました。決して口に致しません」
 即座にセレスティは了承する。
 『こう言った商売してるとね、色んな古いもん集めてるとこから情報も入って来るんでさ。あたしも直接は知らないヤツなんだが、何だかその中でも可成り妖しげな古美術商がいてね…。どうやらそんなヤツとも取引してたって話ですよ』
 「どんなものを購入していたか、解りますか?」
 先ほどの『レメゲトン』と言い、『ホノリウス』と言い、その先は想像が付くのだが、敢えて聞いてみる。
 『カーニンガムさんも、大体のトコは想像付いてるとは思うですけどね。…何でも、人の手首で作られたと曰くのある燭台やら、短剣…あちら風に言うと、アサミィですか? 何かそう言ったものを買いそろえていたらしいですよ』
 本気でこの探し人は、魔術を行おうとしていたのだろうかと呆れ返りそうになる。そうそう素人の手に負えるものではないと言うのに。
 確かに『ホノリウス』の名が出た時、嫌な感じはしていたのだ。
 何故なら、あれは悪魔召還の呪法が記されているのだから。全てが本当ではないにしろ、そこから正解に辿り着くのは出来ない話ではない。
 『ここ一ヶ月あまりで、目に見えてそう言ったものを買いあさっていたらしく、余り言い噂を聞かない古美術商も、流石に嫌な顔をしていたって言ってましたねぇ』
 セレスティが連絡先を聞くと、店主は済まなそうにわびの言葉を口にした。そこまでは知らないと言うのだ。本音は、そう言った者に関わり合いたくないから、聞かなかったと言うのが正解だろう。
 取り敢えず、セレスティは礼を言うと電話を切った。
 すると入れ違いに、今度は登記関係を調べさせていた秘書から電話が入る。
 『遅くなりまして申し訳ありません。セレスティさま』
 「いえ、充分早いですよ。それで、結果は?」
 セレスティはそう労うと、後は余計な話はしなかった。秘書はそのセレスティの様子から、直ぐさま報告を口にする。
 『はい。セレスティさまよりお聞きした館は、確かにお捜しの人物の所有となっております。登記の申請が出されたのが、一年前となっておりました』
 「しかしその者が存在するとは限らない…」
 『仰る通りです。しかしその者は、確かに存在しております。……戸籍上の話ではありますが。一ヶ月ほど前までは、都内の商社に勤務しており、勤務状況も良好。少々変わったところはあったと言うことですが、何処にでもいる様な社員だった様です。ただ、一ヶ月前に辞表を出しており、現在は誰も消息を知りません。また、その館ですが、彼はそこに住んではいなかった様です。同僚であった者の話によると、毎週末に通っていたと言うことです。週末に誘っても、全く話に乗らなかったと言う証言を取っております。当然のことながら、実際に住まっていた家も、一ヶ月前に引き払っております』
 「流石ですね。君にお願いして、良かったと思いますよ」
 登記関係とだけ言ったのだが、彼はきちんとセレスティの意図を飲み込んでいた。いや、そうでなければ、セレスティの秘書は勤まらないと言ったところであろう。
 『ありがとうございます。以降もご期待を裏切らぬ様、精進させて頂きます。そしてセレスティさま。その館ですが、実は持ち主が転々としておりまして、この前の持ち主は、三ヶ月も経たない内に、売りに出しており、半年を経て、その者の所有となっているとのことでした。更に遡って調べてみますと、どの持ち主も同じく、短くて一ヶ月、一番長い期間で半年と言うサイクルで、持ち主が入れ替わっております。なんでも住んでいる人間以外にも、誰かいる様に思えるからと言うのが理由だそうです。周囲では、幽霊屋敷と呼ばれている様ですよ。周囲と言っても、数キロ先まで行かなければ、民家はおろか、街すらない様な場所ですが』
 「良く不動産屋が扱う気になりますね…。そこまで行くと、手数料の問題でもないでしょうに…」
 『はい。実は、あの館を取り扱っている不動産屋は、潜りの様ですね。登記の際、見ましたところ、取り扱っている不動産屋の名は、何度も名は違うのですが、調べましたところ、元は同じかと思われます。ただ…』
 「ただ?」
 『申し訳ございません。その母体と思しき企業のことは、調べることは出来ませんでした』
 申し訳なさが伝わってくる。恐らく、もっと時間があれば、彼なら調べることが出来たであろう。この短時間に、これほどの情報を手に入れる能力のある者だ。
 「いえ、君は良くやってくれましたよ。充分です」
 『申し訳ございません。……報告は、後二つです』
 「言って下さい」
 『もう一人、依頼人の方ですが、高校時代よりの友人であると、探し人の方が、元同僚に言っていた様ですが、そう言った接点は皆無で御座いました』
 「わざわざ同僚に何故?」
 そんなことを言ったのか、そしてそんな嘘を言ったのか。
 『一度、誘った週末に、二人がいるのに出くわしたそうです。そこでそう言って紹介したと、申しておりました。何故その様な、すぐに解る嘘を吐いたのかは不明ですが…』
 「そうですか…」
 深く知られたくはなかった、事情を知られたくはなかったと言うことだろう。
 『また、お聞きしました依頼人の名と携帯電話の番号より調べましたが、契約時に登録してある家には、現在住まっておりません。新たな住所を知っている者もおりません。更に登録時に使用した勤め先ですが、確かにその様な社員はいたようです。現在は退職しており、消息を知るものはおりません。また、姿を記すものがございませんので、本人かどうかは不明です』
 「ご苦労様でした。また宜しくお願いしますね」
 『御言葉、嬉しゅうございます。調べの方、行き届きませんで、申し訳ございません』
 そんなことはないと言っても、彼はそうは思わないだろう。だからセレスティは、それについて深くは言わない。別のところで、充分によく働いてくれたと言う証明をしようと思っている。
 電話を切ると、暫し思案する。
 知りたいことは、秘書である彼が調べてくれた。
 することと言えば、探し人の興味の焦点である本を頭に入れることだろう。
 後はその現場に行ってみること。
 取り敢えずセレスティは、自分自身も所持している、その『ホノリウス』を探し始めた。



 「困りましたね…。これでは歩くのも大変でしょう…」
 見渡す限りの悪路…と言う表現が正しいかどうかはさておき、確かに道は悪かった。
 車が入るのは勿論ながら、車椅子で行くことも出来ない。
 杖を付くのであっても、なかなかに歩き辛い道だろう。転んでしまうこともあるかもしれないことは、覚悟しておくべきだとセレスティは思った。
 目的地と思しき館は、取り敢えずここを突っ切って行くしかない。地図にも載っていない場所の為、恐らくセレスティでなければ、場所を特定するのは難しいかもしれなかった。
 あの後、セレスティは再度『ホノリウス』を頭に叩き込み、更に様々なグリモア系列の本にも手を伸ばした。通常の人の様に読むのではない。手で触れ、直接その中身を焼き付けると言う方法をとった為、まるでカメラで撮った様に、脳裏に残っている。
 勿論のことながら、日頃からその様な読み方をしている訳ではなく、ただ楽しむ為の読書であれば、焼き付ける様な無粋な真似はしないのだが。
 とまれ。
 「ここからは一人で行きます。帰る際には、また連絡しますので、宜しくお願いしますね」
 「セレスティさまっ!」
 とんでもないとばかりに運転手はそう言うが、有無を言わさぬ視線で見やると、渋々はいと返事を返す。恐らく彼は、セレスティが戻るまで、ここで待っているだろうと思うが、もうそれは言っても絶対に引かないだろう。
 出来るだけ手早く済ませて、待たす時間を少なくしてやろうと、セレスティは歩き始めた。
 森と言うより、原生林だと思ってしまうそこを歩く。足下は獣道にすらなっていない。こんなところを、あの探し人は毎週通っていたのだろうか。通常、通えばそれなりに道は出来る筈。また、一ヶ月前からここに住み着いていたとはいえ、食料などの問題もあり、必ず外界との接触は持つ筈だ。なのにここには、その痕跡は全く残っていない。
 何もかもが可笑しなことばかりだ。
 依頼人の正体も不明で、探し人の足跡は一ヶ月前よりぷっつりとぎれた。
 探し人はオカルト系の収集を繰り返している。
 館は幽霊不動産屋に売買を繰り返され、数キロ離れている街の者からも幽霊屋敷と敬遠されていた。
 全てが何か嫌な道を指し示しているのだ。
 セレスティは、依頼人が何故自分で様子を見に行かないのかが気に掛かっていた。
 その気がかりは、どうやら嫌な形で己の身に降りかかりそうだ。
 とにかくは、この目の前の問題である。
 「……日が暮れない内には、帰って来たいものですね」



 館の周囲は、先ほどの森の中よりマシとは言え、伸び放題の草や二つに折れた木で埋め尽くされていた。薄気味悪い…と言うのが、もっともそこに似合う表現だ。
 何処かじめじめとした湿気を孕み、気配は明らかに魔に属するものとなっている。
 漸くの思いで、セレスティは館へと到着した。
 「……どう見ても、人が住んでいたとは思えませんねぇ…。一昔前ならいざ知らず」
 眉を顰め、セレスティはそう呟いた。
 さもあらん。
 その館は長年風雨にさらされた様相を示し、崩れそうな感じで傾き歪んでいるのだ。何処か触れば、見る間に潰れてしまいそうだった。
 それでも中に、入ってみなければならない。
 何故なら、依頼を受けたからだ。受けたからには、やり遂げる。良い結果が出るかどうかは解らないが、それは最低限のことだった。
 錆び付いた扉の取っ手に手をかけ、渾身の力で開く。
 開けると共に、ギギィと言う嫌な音が耳を引っ掻いた。
 手は扉に残したまま、一歩中へと踏みいると、そこは外とは違い、乾いた空気が漂っている。
 当然ながら荒れ放題で埃っぽく、とてもではないが長居したい場所ではない。
 セレスティは気を澄まし、己の眷属の気配を探るが、全く掴めないでいた。
 「これは、少々外から持ち込んだ方が良い様ですね」
 一旦外へと出ると、すっと手を差し伸べる。
 「おいでなさい」
 手入れされず、荒れ放題になっているそこから、ふつふつと水滴が現れた。宙にゆらゆらと浮かんだそれは、最初少量であったが、徐々に数を増し、質量を増し、大きな一つの水球となる。
 優しく手招きすると、それはセレスティの掌へと向かってやって来た。
 セレスティがにっこりと微笑むと、その水滴は彼にじゃれる様にまとわり付き、消えた。
 その身に水を取り込むと、セレスティは再度館へと入って行った。



 ドアを開け放したまま、セレスティは奥へと進む。
 入った先は、目の前に階段が見えるホールであった。
 オオカミから追われた子ヤギが入っていそうな古時計、以前は真紅であっただろう階段の絨毯、天井から吊されている蝋燭のついたシャンデリア。まるで絵本から抜け出た様な舞台設定だ。しかし一様に、それらは古び、壊れていた。
 そこそこに広いホールは、左右に廊下が延びている。更に階段を上ると二階へと続く道であるが、セレスティはそこに登る必要を認めなかった。
 何故なら、もう一本の道、ホールの正面に伸びる暗い廊下の方に、何か異質なものを感じたからだ。
 階段の下を潜り、暗い廊下を進むと両側に扉があった。
 気配を伺いつつも、ドアをそっと開け中を見ると、そこには埃が降り積もり、長らく放置されただろうと思しき部屋があった。内部は本と妖しげな術具に埋もれ、その本もきちんと整理されて積まれているのだが、背表紙が破れ汚れていたり、術具も使用した後潰れたのであろうと思える跡がある。
 また別の扉を開けると、先ほど見たのと同じ様な光景がそこにあった。
 ただ一様に、窓に掛かるカーテンは閉じており、人が荒らした様な形跡は何処にも見受けられなかった。
 一歩進むごとに、悲鳴の様な軋みが足下から上がり、耳障りなことこの上ない。
 突き当たり、五度目の扉を開けた時、セレスティは更に奥に扉があることを知った。
 その部屋もまた、古い本屋呪具が高く積まれている。どれもが恐らく探し人の購入したであろうと思われるグリモアばかりだ。
 ゆっくりと奥にある古い扉を開けた。
 瞬間、つんと鼻を突く埃臭い空気がセレスティにまとわりつく。
 顔を顰めつつ、そのムルキベルの建てた館『万魔殿』に降りるかの様に伸びている階段を見下ろした。
 「地下室、ですか…」
 罠に飛び込んで行く様なものだとは思ったが、ここまで来るに至り、大した物は何も見つけてはいない。探し人すらその気配を感じずにいるのだ。
 ここは降りて行かねばなるまい。
 杖をしっかり握りしめ、手すりすらないその階段の壁を伝いつつ、セレスティはゆっくりと一段一段そこを下りていった。一段降りる毎に、背筋を嫌な気配が這いずりまわる。
 明かり一つない場所だが、セレスティにはあまり関係がない。その鋭敏な感覚で、最終階段を下りきったことを知る。
 目の前には鉄の扉があった。
 意匠を凝らしているのだろうが、普通の人であれば明かりのないここでそれに感嘆を漏らすことすら出来ないだろう。
 どれほどの力が必要かと思ったのだが、あっさりとその扉は開いた。



 むっとした何か生臭い様にも思える臭い。
 魔の気配はこれ以上なく高まっている。
 真正面を向き、油断なく周囲に気を配る。視線の高さから見えるのは、果てがないように思える部屋の暗黒だ。窓はなく、まるで牢獄の感が拭えないその部屋だが、やはり同じように本棚の中には書物があり、術具、呪具があり、僅かばかりの家具が添えられていた。しかしその僅かな家具も、周囲に寄せられている。
 それも然り。
 そこには魔法陣が描かれていたのだ。すっとセレスティがしゃがみ込み、それに手を触れた。
 「…これは、つい最近使われた形跡がありますね」
 禍々しい気だった。すっと更に顔を上げると、何かそこにあるのが解る。
 「…?」
 何だろうと近寄ってみて、息を呑む。
 「これは……」
 探していた人だと、直感する。首がかききられ、既に乾ききった血が、まるで抽象画の様に塗りたくられている。完全に絶命していると解るそれ。
 「──っ?!」
 一挙にその場の空気が濃縮する。
 何処かで、かちりと言う『音』を聞いた気がした。
 ギィともキィとも言えぬ声が響くと、一挙にそこは嵐となった。
 いきなり気配が具現し、乾いた風が、セレスティを狙う。
 即座に身に秘めた水で刃を作り出すと、そのまま風に逆らい撃ち出した。
 水に貫かれ、絶叫を上げたのは、顔は鳥、背にはコウモリの翼を生やし、足は獣の爪を持つ妖魔だ。
 幾体ものそれが、ゆらゆらと浮かんでは耳障りな声を上げて威嚇する。
 「終わりですか?」
 セレスティの言葉の意味を理解したとは思えぬが、それが合図となった様に、妖魔が一斉に弾けた。
 かっと口を開くと、炎が舞い、セレスティの脇を通り過ぎる。乾いた空間であるそこは、周囲が木であったのなら、即座に燃え上がっていただろう。
 次々と放たれる炎。そこかしこで燃えさかるそれは、まるで人の魂が叫んでいる様にも見えた。
 「炎を使うのですか…。けれど…」
 彼は、艶冶な笑みを浮かべた。
 「それしきの炎で、私は焼き殺せませんよ」
 セレスティの背後に、海が見える。
 清冽な水が、怒濤の様に舞い上がった。海蛇がのたうつ様に、それは周囲の炎を一掃する。全てを駆逐した後、その蛇は刃と化し、次々宙を飛ぶ妖魔に襲いかかる。
 セレスティは、最初の一動以外、指一本すら動かしてはいない。
 悠然と腕を組み、撃ち落とされる妖魔を笑みすら浮かべて眺めていた。
 最後の一匹。
 それが床に落ちると、一歩魔法陣の元へと踏み出した。
 「他愛ない…。けれど、腑に落ちませんね…。ここにあるのは、もっと……」
 床に落ちた妖魔が、最後の一矢とばかりに、かっと口を開けて鎌鼬を起こすと、そのまま息絶えた。
 セレスティの頬が切れ、つっと血が滴ると魔法陣へと落ちる。
 ぐにゃりと『そこ』が歪んだ。
 同瞬。


 この世に我を生み出し育んだ御身の力よ。我にこの使命を果たさんが為の助力を求める
 我の内にて変ずるものは、風に翻弄され地に潜み、水に染み入り炎に昇華され、後に闇へと生まれ御身の使徒にと傅かん
 アルファにしてオメガの御身よ
 エロイ、エロエ、エロイム、ザバホット、エリオン、サディ

 御身の使徒ユダのカヴンであるビレトを見よ
 七つの封印に戒められし御身の使徒エノクを知れ
 御身こそが我にこの地の果てへと渡る術を示す

 エロイ、エロエ、エロイム、ザバホット、エリオン、エサルキエ、アドナイ、ヤー、テトラグラマトン、サディ

 我は開く
 永久の門
 常しえの果ての門
 来るべき御身の潜る門を

 永久の王よ
 混沌の王よ
 暗黒七界の王よ

 我は呼ばわん
 我の獅子
 御身アリオクの名を


 深い深い、永久の闇より出でた声が、周囲を舞った。
 声の終了と同時に、その部屋を意志を持つ豪風が支配する。そこにあった妖魔の死骸は跡形もなく消え去り、書物は引き裂かれ、家具が壁に激突して破壊された。セレスティは、風の兆候が感じられた瞬間、残り僅かな水をして、結界を身に纏った。
 膝を突き、何とかそこに留まっているものの、水が風の攻撃にぶるると揺れる。
 最後まで持つかどうかを不安に思った頃、その風は始まったと同時、唐突に止んだ。
 「誰ですっ?!」
 そう問うセレスティの声が、珍しくきつい。
 そこにあったのは、信じられない程肥満した巨人の姿だ。
 吐き気が出てきて堪らない。その巨人の細部は刻々と変化を行っている。腐り落ちる部分があるかと思えば、鱗や牙や翼が、現れては消え、消えては現れていた。全身が汚物まみれで、それが滴り落ちており、側には到底寄りたくはない姿だ。
 ただ不釣り合いなまでに美しいのは、腰に下げている黒い剣だった。
 セレスティが身震いしたのは、恐怖と言うより、その姿のあまりな醜悪さからだ。
 「何とまあ…」
 思わず漏らしたセレスティの言葉に、その巨人の視線が止まる。
 途端、その巨人の姿が見る間に変わった。
 するすると時を巻き戻したかの様にその身は縮み、肥満した姿は痩身の男に変わる。あっと言う間の出来事。そして…。
 「その姿は──」
 セレスティの目が見開かれる。微かな視力と言えど、それは解らない訳ではなかった。そこにあったのは、身に纏う衣装は違うものの、己と寸分違わぬ見目であったのだ。
 何処か中世を思わせるトーガを身に纏い、貴族然とした雰囲気を漂わせている。
 「不愉快ですね。とても」
 ゆっくり立ち上がりつつも、セレスティの目が眇められる。
 対して、元は巨人、今はコピーであるそれが、愉快そうに笑う。
 違わぬ見目とは言え、それの瞳に宿るのは邪悪さを湛えた知性であり、貪欲なまでの残酷さだ。それが二人を、決定的に分かっていた。
 先ほどまでの見目の醜悪さは消え去っていたものの、今度はまた別の醜悪さに、セレスティは吐き気がしそうだ。
 にいっと、その男は笑う。
 セレスティは、己の心が魔に支配されれば、あの様になるのだろうかと、錯覚してしまいそうになる。それほどに似ているのだ。
 「お初にお目もじ仕る。我の名はアリオク。我の使徒となりし者に召還された由」
 その声は、耳障りなまでに心地よい。
 セレスティは、その声にはっとする。
 『私と同じ力が使えるのでしたね』
 その声は、本来であれば、心の隙間を見つけて染み込んで来るのだろう。
 セレスティも同じく持つ『魅了』の力だ。
 ざらりとした触手で、心臓を撫で上げられた感覚。しかしそれは、甘やかな刺激となり、人を籠絡する……筈だ。
 「ほう。汝は面白いの」
 効かぬと解った彼──アリオクと名乗ったセレスティと瓜二つの顔を持つ男は、興味深げにセレスティを見つめた。
 「アリオクと言えば、コウモリの翼を持つ堕天使の名」
 その脳裏に焼き付けたグリモアの中にあった名だ。
 「我を御存知か」
 にんまり嗤い、否定はしない。
 やっかいだと、セレスティは思う。
 アリオク、またはアリオーシュとも、後に復讐の魔神とも呼ばれる様になった堕天使は、黒いコウモリの翼を持ち、腰には黒い剣を提げている。名の意味はヘブライ語で『猛々しい獅子』。『剣の騎士』、『地獄の大公』、『混沌の王』、『暗黒七界の王』の称号も持っていた。地獄の軍勢を指揮し、遠くから人を魅了することも、または魂までもを焼き尽くす炎を使うこともある。
 ただ彼は、その彼の存在を支持する者がいない限り、この世に現存し続けることが出来ないのだ。
 「君を召還した者は、もうおりません。さっさと元いた場所へとお帰りなさい」
 そう言うものの、何処かに彼を信ずる存在がいるからこそ、彼はここにいるのだ。それが誰なのか、または何であるのかを探して滅せなければ、彼はここから外へと出て行ってしまうだろう。
 そうなれば、セレスティの身に待つのは己の死だ。
 「なんの。目の前にこれほど麗しく、そして魅惑的な其方がおるのに、何故我があの闇に戻らねばならぬのか。笑止」
 「お褒め頂き光栄…と申し上げた方が宜しいのでしょうが、私は君に評されることを不快に思いますよ」
 言葉を返しつつも、セレスティは一体何が彼をここに止め置いているのかを考える。
 既にこの部屋は、先ほどの暴風にて崩壊寸前だ。また、どうやらアリオクが召還されると同時、もといた世界とは切り離され、結界の様なものが張られている様に感じた。あの歪んだ感覚がそうだ。
 と言うことは、この中に残っている何かだろうと推察した。
 本棚も破壊され、中の本もまたずたずたに引き裂かれている。扉は鉄製であった為か、何とか立っているものの、一蹴りすれば倒れてしまうだろう。椅子や机は言わずもなが。先ほどまで魔法陣の傍らにあった探し人と思しき死体は、千切れかけていた首がもげているだけでなく、手足もまた半分千切れかけていた。地下室であった為、窓はないが、何故か一部、セレスティの背後より僅かにずれた場所に床から浮く様にして、小さな鉄の扉がある。
 『あそこは……』
 妖魔に襲われた時も、風が巻き起こっている時も、気が付かなかったのだが、今そこに意識をやると、明らかに不審な気配が漂っていた。まるでいきなりここへと切り離された時に、現れて来たかの様だ。そもそも、あそこだけが無事であること自体が可笑しい。
 じりじりと後ろへと進もうとすると、アリオクの気配が揺らいだ。
 「やはり其方は愉快だ。我と共に行こうぞ」
 「ご冗談を…」
 セレスティは、逡巡すらもせず、冷然とした声音で言い切った。
 僅かばかりの間の後、溜息混じりの声がする。
 「残念だ」
 アリオクの手が上がる。
 不意に来る熱波に、セレスティが目を瞠る。まともに食らえば、その身は焼き爛れてしまうだろう。かと言って、なけなしの水は、もうない。地の底に流れている水源もまた、この閉じられているだろう空間から呼び出せるかどうかは解らなかった。自分自身に流れる血を使えば、体力の消耗が激しいだろう。
 『余り気は進みませんが…』、背に腹は代えられないのだ。
 セレスティは、既に凝固している探し人の血を溶かし、それを身近くへ引き寄せた。
 地獄の業火を目前にし、セレスティとの間に深紅の壁が立ちはだかる。
 だが、間に合ったと気を抜くことは出来ない。
 アリオク自身に、血が流れているのかどうか疑問だが、それでも何かしらの流れはあるだろう。
 衰えぬ勢いの業火を止める為、セレスティは彼の内部に干渉をする。
 「──っ?!」
 『掴みましたよっ──!』
 セレスティが手応えを感じたと同時、業火は止み、アリオクが膝を突く。
 その隙をつき、一旦壁を消すと、セレスティは背後の鉄扉まで引いた。離れている時は感じなかったそれは、こうして背に受けるとセレスティの五感をひっぱたく勢いで刺激する。
 「其方、流るるものを支配する水霊使いか」
 ざらりとした声が響く。不意に、アリオクの顔が嗤いに歪んだ。
 「やはり、惜しいの」
 アリオクの瞬き。セレスティの前から壁まで、半円に描かれた炎の断崖が立ち上る。
 彼の周囲には、鬼火の様に火球が舞い踊った。
 眉間に皺を寄せつつ、再度その内部に干渉しようと意識を集中する。
 が。
 「二度は食わぬ」
 楽しげに物言うアリオクに、セレスティは瞠目するも即座に決断した。
 指をかみ切り、己の血を滴らすと鉄扉に向き直る。
 「それを開けると言うか。…面白い。この業火が、其方を焼き切ると、どちらが早いかな」
 言葉と共に、じりじりと炎の壁がこちら側に浸食してくるのが、その熱量が増すことで解る。
 背を炙られ、冷や汗が流れるが頓着していられない。
 焼き殺すなら、即座に彼は出来るのだ。それをしないのは、ただ単に、セレスティが許しを請うのを待っているだけ。
 『ならばそうやって嬲るが宜しいでしょう』
 そう思う。
 この扉を開けば、何があるのかは解らない。けれど彼をここに止めている何かがある筈だ。それは先の言葉からも察せられる。開けられないと踏んでいるからこそ、こうして悠長に嬲っているのだ。
 熱い。
 熱くて堪らない。
 身体が乾涸らび、そのままぐずぐずと爛れ落ちてしまいそうだ。
 けれど負ける訳にはいかなかった。
 「我の眷属、我の命の源よ。我の意を受け、処女の如く堅固なる扉を解除せよ──っ」
 噛み切ったそこより、赫い光が発せられる。扉に取り付く赫は、即座にそこを覆い、蠢き始めた。
 流石に難い。
 通常であれば、セレスティが己の眷属を使役する際、言葉を使う必要はない。けれどここは、改めてそうしなければならないと感じる程に、難い封印が成されているだろうと踏んだのだ。
 ぶすぶすと言う音と共に、嫌な匂いが鼻腔を付いた。仕立ての良い、セレスティのスーツが熱波に煽られ発しているのだ。
 更に猛火は背に迫る。
 じりじりと命の炎を巻き込む様に。
 「っ、く…。あ、ああ…」
 漏れ聞こえる声が、まるで身悶えしている様に聞こえ、セレスティは怒りを覚える。
 二度と出さぬとばかりに、セレスティは唇を噛みしめ、背後で余裕を見せている者には屈せぬと、更に意識を集中した。
 「──!」
 「──っ?!」
 それは唐突だった。
 ばんっと扉が押し開く。
 「なっ…。これは……」
 そこにあったのは、血で描かれた魔法陣。そしてその中には、その部屋に倒れていた探し人の、歓喜に舞う顔があった。
 二重の呪だ。
 「開けおったな…。開ぁけおったなぁぁぁぁぁっ!!」
 余裕も何もをかなぐり捨てたアリオクの声。
 セレスティは確信した。
 猛火は一旦収束を見せたかと思うと、更に激しく燃え上がる。
 「終わりぞ、其方は終わり……っ」
 「終わったのは、君です」
 半ば炎に包まれ、意識を途絶えさせつつも、セレスティは最後の力を振り絞る。
 「我は命ずるっ、深淵なる闇の扉、悠久なる暗黒の閨への道を示せっ! この哀れなる魂を、宵闇の明星が元へと送らん──っ!!」
 炎が止んだ。
 夜よりも尚昏い光が、鏡から発せられる。
 セレスティは、その光の奔流にはじき飛ばされ、床へと打ち付けられた。徐々に意識が遠のいて行く。
 その中、視界が揺らぎ、世界が揺らぎ、絶叫とも呼べる禍々しい声が響き渡ると同時、この世の終わりの音が響くのを聞いた──。



 声が聞こえる。
 遠くから呼ぶ声。
 一瞬、今まで周りを行き過ぎていった者達の声かとも思ったが、それには何処か体温を感じた。
 「──…ぃさまぁー!」
 セレスティの瞼が震えた。
 「…ん…」
 徐々に意識が覚醒する。
 頭痛のする頭を支え、ゆっくり身を起こすと自分の身体を確かめてみた。
 あの場で負った、恐らく火傷であったろう傷は消えている。服すらも、泥に汚れている以外、何もなかった。ただただ、身体が重いだけだ。
 「これは…」
 どう言うことだろうと考えるも、グリモアの中にあった記述を思い出す。
 「そう言うことですか…」
 目の前にすっかり汚れきった靴が見えた。
 「セレスティさまっ!」
 何処か惚けた様に見上げると、そこには半泣きになった運転手の顔がある。
 「もう、この様な何もない場所で、一体何をなさっていたのですかっ!」
 その言葉に、セレスティはゆっくりと周囲を見回した。
 何も、ない。
 そこには荒れ果てた草木以外の、何物もなかった。
 あの障気溢れる館など、最初からそこになかった様だ。
 セレスティの唇に笑みが刻まれる。
 「何が可笑しいのですっ!」
 彼はどれほど心配していたのだろうと、セレスティは思う。
 「いえ、心配をかけましたね。戻りましょうか」
 言葉もなく頷くと、セレスティが立ち上がるのに運転手が手を貸す。
 傍らに落ちていたステッキを拾うと、それをセレスティへと差し出した。
 「ありがとう」
 時間をかけ、ゆっくりと二人は車まで戻って行く。
 セレスティが笑ったのは、自分の考えが、そう当たらずとも遠からずであることを確認したからだ。
 あの空間は、やはり閉じられていた。
 地下室の魔法陣に触れた時に、第一の鍵が、また己の血が流れ、アリオクが出現した際に第二の鍵が合わさり、セレスティは別空間へと放り出された。
 アリオクが使うのは、魂を焼く炎。
 現実の炎も確かにあるが、それを使うには贄が足りなかった。
 アリオクのその力は、己の信者に依存しているからだ。
 アリオクを信ずる者がいなければ、彼の力はこの世では対して影響を持たない。
 あの時、彼の信者は、己を贄にして呼び寄せたセレスティの探し人だけだった。
 だからこそ、あの閉じられた空間を必要とし、そしてあの空間であったからこそ、あれだけの業火を出現させることが出来た。
 暫くは餌をくわえ込み、力を蓄える筈が、そこへやってきたのがセレスティと言う極上のご馳走であった為、一気に力を得ようとしたのだ。
 全ては現実とは、ずれた世界の話。
 それ故、セレスティの受けた傷は、肉体に影響することはなかった。魂へと与えられた傷だから。恐らく、あそこで屈してしまえば、ここに戻ることもなく、また戻れたとしても、取り返しの付かない傷を負っていた筈だ。
 身体の怠さは、与えられた傷の深さ。
 暫く休息すれば、あの業火にすら膝を折ることを由としなかったセレスティなら回復するだろう。
 行きよりも時間をかけ、漸く車に戻ると運転手が恭しくドアを開けた。重い身体を引きずりつつも中へと乗り込み溜息を吐く。
 ゆっくり車が発進し、その揺れの心地よさに眠気を誘われそうになった。
 不意に携帯が鳴る。
 誰だと思うも、見ると草間からだ。
 「はい…」
 声を出すのも怠い。
 『やっと繋がった…』
 「そうなんですね」
 何だか受け答えすら面倒に思える。
 『……大丈夫か?』
 何処か不安げな様子が伺えるのは、珍しいなと思いつつ、セレスティはあまり頭が回らない。
 『あのな、何か嫌な感じがしてな、依頼人に電話をかけてみた』
 「そうですか…」
 『……本当に大丈夫か?』
 「ええ」
 そう答える声にも力がない。
 『電話な、繋がらなかった。『お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません』ってヤツだ』
 成程、それで電話をかけて来たのだと解った。
 『おい、聞いてるか?』
 聞いている。けれど眠いのだ。
 眠くて怠くて仕方ない。
 取り敢えず……。
 「聞いていますよ。……けれど、少しだけ眠らせて下さい」
 手から電話が滑り落ちると同時、セレスティは夢の世界へと生まれ変わった──。



Ende