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<PCシナリオノベル(シングル)>


夢の跡


 夏雲遠く、朧げに。
 其処彼処白霞、輪郭判然とせずは陽光の強さ故か。ちらちら洩れ射す純粋なそれに、半ば融け込むように青、青緑、黄緑、茶色とあって、製作途中の油絵にも似ている。
 そして微か、風の吹き抜ける予感に、少女の笑い声が注した。

 少女の笑声については自分の意識が関与したかもしれない、とセレスティ・カーニンガムは用心して、それきり途切れた情報から、何か得られるものがないかと記憶を手繰り寄せた。併しどうにも曖昧模糊たる映像である。まずあの背景に見えた入道雲の方へ探査の手を伸ばせば、代わりに近くにあったような草たちが、忽ち消え失すような具合に、これは全体として捉えるべき画だと、判断を下した。
「まるで、夢のような……」
「だから夢なんだよ」
 セレスティの歌うような独り言に、ぐいと眉を寄せ、草間武彦が闖入してきた。
 昼過ぎの雑居ビルの一室、乱雑とした室内には三つの人影が、応接テーブルを中心にして、それぞれソファーとデスクに坐っていた。ビルの廊下に面した側の室の扉には、「草間興信所」と書かれたプレートが斜めにずれて貼り付けてある。此処は或る筋には大変有名な、興信所なのであった。
 セレスティは武彦の苦り切った表情にも優雅に頷いて微笑み向け、それから改めて今回の依頼人の方へと面を戻した。
 水無月舞、と名乗ったその女性は、今時の女子大生にしては随分と大人しい性質のように見えた。色を入れも抜きもせずして、本来の漆黒の色艶を持つセミロングの髪を片側に結い、目許に懸かる前髪に彩られた焦茶の眸は涼しげに細められていた。服装は、薄手の青いタートルネックのセーターに、濃い色のジーンズと云うパンツスタイル。特に何か、特徴的なところがあるわけでもない。そしてそれは、セレスティが初の対面時にも感じたことだった。水無月舞は、特別な能力を持つ人物ではなさそうだと、判じたのである。
 舞はセレスティの己への視線に気付くと、心持ち前のめりになってセレスティを見詰め返した。
「何か、分かりましたか?」
 期待に満ちたその眼差しに、併しセレスティは頸を横に振った。「先程、舞さんからお聞きした景色がぼんやり、視えただけです」
「そうですか……」舞は些か落胆したようだったが、すぐに元の調子を取り戻して、セレスティの手から髪飾りを受け取った。
 紙製の小さな包装用の袋へと戻されゆく髪飾りを視線で追い、セレスティはソファーに脊を預ける。髪飾り。ライトブルーの小さな丸いプラスチックの玉ふたつ、水色の輪ゴムに附属して、見るからに可愛らしい、子供用の髪ゴムであった。先刻セレスティが描き掛けの油彩ように思った風景の、情報源である。書籍など、予め記録を留める目的の対象であれば、もっと多くの情報を読めたことだろうが、それでも朧げとは云え舞の持つ視覚情報を少しでも共有できたのは良かった。

 ――夢の中で……私は誰かの夢の中に居るんだなって、感じたことはありますか?
 ――この頃、よく見るんです……不思議な女の子の夢を。
 そして、取り出された髪飾り。
 ――目が覚めたら、持ってたんです。

 依頼人である舞は、この髪飾りの持ち主――恐らく夢の中の少女を探して欲しいと、この怪奇探偵と名高い草間武彦の許を訪れたのだった。
 手掛かりと云えば髪飾りと舞自身の話のみ。それも内容に乏しく、確認も兼ねて調査する必要があった。舞が見た夢の中の少女は十歳前後。場処は大きな木が近くにある見晴らしの良い丘の上。これはセレスティの読み取った映像と合致するだろう。そして舞は、その場処について「どこかで見たことがあるような場処」だと言っていた。
 セレスティは冷め掛かった紅茶のカップに手を伸ばし、自分の考察が終わったことを示した。その間、煙草に火を点け手持無沙汰であった武彦が「どうする?」と話を振ってきた。最近の彼の仕事は実地調査と云うより、有能な調査員の紹介と云った仲介人のようなものが主である。セレスティにこの依頼を引き受けるか、と訊いてきたのだ。
「既に、調査を始めているつもりでしたが」
「ここまで訳の分からん依頼だとは思わなかったんだよ。手掛かりも少ないしな」
「成程、それで私を呼んだのですね」
「あんたなら、一人でも何とかできそうだったんでな」
 武彦はそう言って、ちらと横目に舞を見た。報酬のことだろうと察した。
 舞は黙ったまま二人の話を聞いている風であったが、やはりどこか落ち着きなさげ。それにセレスティは改めて――「お引き受けします」
 舞は微笑んで、一礼を返した。

 ***

 あの、と前置いて、舞は隣に坐り瞑目するセレスティを窺い見た。
 興信所を後にした舞とセレスティは、ひとまず舞の自宅に向かうことにしていた。その車中である。
「どうしました?」
 やわらかなセレスティの声に緊張も解れたとみえ、舞は安心したように続きを告げた。
「セレスティさんは、どうお考えですか? その、私の夢のこと」
 セレスティは表情を変えず微笑のまま、軽く頷くように頸を傾けた。
「そうですね……頻繁に夢に見ると云うことは、その女の子と夢の波長が合っているのではないでしょうか」
「夢の波長?」
「ええ。そのうちに、女の子の夢の中で行動できるようになり、物質を……先程見せて頂いた髪飾りですね、それを持ち帰ることができたのではと」
 舞は心底感心したように「成程」と神妙に頷いた。セレスティは「現時点での私の推測です」と言い添えて、今度は質問する側に廻った。
「夢の話をお聞きした時、風景のことについて、キミは言っていましたね――『どこかで見たことがあるような場処』だと」
 舞は頷いた。
「手掛かりが他に無い以上、その場処を探し出すのが解決への近道だと思います。これからキミの家に向かうのは、それを調べるためです」
「はい。……あの、少なくとも私の家の近くではないと思います。そんなに近処なら、さすがに私も分かるでしょうし――あ、次の信号、左ですっ」
 慌てて運転手に向け指示を出した舞へ、セレスティはくすりと笑みを零した。

 陽射しやわかな午后のうち、庭先に淡紅の厚い花片が点々と舞い落ちてあって、玄関越、ふと澄ました気配に、家の周りに瑞々しい植物の気を感じられた。舞の家には母親のみが在宅であったが、興信所で舞自身が前以て電話連絡を寄越していたため、セレスティの稀なる美貌に暫し呆然とされたもの、特に眉を顰められることもなく迎えられた。父親は会社員で平日のこの時間は仕事、兄弟は高校生の弟があるがそれもまだ授業中で、その話に舞は、と問うてみれば、本日は午前中に一齣あるのみだと云う。
 セレスティの足のことを慮って、一階の居間へと案内された。
「興信所から、なんて言うものだから、一体何があったのかと思ったじゃない」
 母親はソファーに落ち着いた二人へ紅茶を運び乍ら、娘へそう向けた。舞は添えられたチョコレートを口に抛って「昨日の夜、言っといたでしょ」と返した。言葉にセレスティが視線を上げる。どうやら母親には今回の依頼の件は相談済みのようだった。
「あ、不味かったですか? 母は夢のことなんて信じてないんですけど、家に調査に来るかもしれないと思って……」
 舞はセレスティの視線の意味を取り違えたようだ。
「いいえ、却って助かります。恐らく、お家の方にもご協力願うことになると思いますから」
 セレスティの発言に、意外に頸を傾げたのは母親の方だった。「私も、ですか?」
 セレスティは頷き返すと、
「まずは、記録から当たりましょう。――アルバムを、見せて頂けますか?」

 舞が個人的に収集しているもの――学校の行事などで友人らと撮影したもの――も含めて、家中のアルバムが居間のテーブルへと積み上げれた。念のために、舞の生まれる前の両親のアルバムも並ぶ。舞の夢の中に見た丘の風景、それに十歳ほどの女の子、それらの姿を過去の写真から探し出そうと云うのだ。
 早速手許の最新のアルバムを手に取ろうとした舞をセレスティが止めた。
「以前見たことのある場処のようですから、現在からよりは、最初の、舞さんの生誕辺りから見てみることにしましょう」
 母親には、更に古き写真に、それらしい場処や少女を追って貰って、セレスティ自身もアルバムの表紙に掌を置いた。慎重に、色褪せた頁に貼り付けられた鮮やかな記録を巡ってゆく。始めに覗いたのは舞の七歳の、七五三の振袖姿、萌葱の衣に紅桃の簪を危うくも挿し入れた頭を愛らしく傾けて、揺れた下がりの飾りが眼の前にと覚ゆるよう。舞と、家族と、友人らと、取り取りの場面がセレスティの脳裡を駆けてゆく。合間、丘の見える風景と、舞以外の少女の姿を見掛けては手を休め、該当の写真を舞に確認させた。特に舞自身が夢の少女と同じ年頃であった十年前の写真群は、一枚一枚念入りに照合することになる――友人は同年輩が殆どだからだ。
 と、やはり可能性高きとみたところにあったか、舞がその十年前のアルバムの一頁を勢いよく爪弾いた。
「この子です!」
 舞からアルバムを受け取り中身を読めば、髪の長い、けれど服装も仕種も活動的な、利発そうな少女の姿を見付けた。その頃の、つまり舞が十歳の時に撮影された写真の多くに、大抵舞の隣に並んで、とても仲良い友達同士と容易に窺える。
 ――ゆうこちゃん……。
 不意に場に落とされたその呟きは、舞のものではない。セレスティの傍らからアルバムを覗いた母親の口から洩れたのだ。
「お母さん、知ってるの? その子のこと」
 舞が驚いたように母の訝しげに絞られた眼差しを見遣った。母親は明らかに動揺していたが、
「だって、この辺の写真には、いつも舞と一緒に写っているでしょう?」
 逆に舞に訊き返す。
 舞の方はと云えば、「そうだよね」と応じたものの、頸を傾げてばかり。
「舞さんは、この少女を憶えていないのですか?」
 セレスティのその問いは、極自然なものであったろう。併し、その刹那、母親の顔からさっと血の気の引いたのを、セレスティは感覚を以て知り得た。
「ええ、でも、夢の中の女の子は、絶対この子なんです。これだけ写真に写っているなら、きっと仲良かったんでしょうけど……何で私、憶えてないのかな……?」
 ぱらぱらとその少女の笑顔の写り込むアルバムを捲り乍ら、舞は呟きがちにそう答えた。嘘を言っているようには見えない。舞は本当に、この少女を憶えていないのである。
 この意味を思案しようとセレスティが頤に指添えたところで、母親が唐突に、壁に掛けられた時計を振り仰ぎ、
「舞、それよりもう時間じゃないの?」
「時間? バイトならいつももっと遅くても間に合うじゃん」
「アンタいつもそう言って遅刻するでしょ。今日ぐらい早く行きなさい」
 舞は不満げに声を上げた。「それにセレスティさんが居るんだし……」
 舞と母親の視線が自分に向けられたのを感じ、セレスティは表情変えることなくそっと、それぞれの思わくを探った。舞は純粋に先の言葉通りの意味を、そして母親の方は――
「私のことはどうかお構いなく。そろそろお暇しようと思っていたところですから。……調査の方は、とりあえずこの写真をお借りして、また明日にでも続きを。宜しいですか?」
 母親の安堵の息が、大きかった。

 間もなくアルバイトのために家を出た舞を見送って、母親はアルバムを片付け始めた。大方仕舞うと、代わりに小振りの紙製の箱を持ってきて、残されたアルバムの隣に置いた。アルバムは、先程舞が少女の姿を見付けた、十年前のものだ。それで揃ったとみえて、母親はセレスティの正面のソファーに腰掛けた。セレスティが頷くと、改めて深く辞儀。やはり、何か知っているようだった。
「……『ゆうこ』さん、と仰るのですね、その女の子は」
 暫しの間を置いて空間に馴染むようなセレスティの声に、今度は幾分か落ち着いて、母親は短く、「はい」と答えた。継ぐ言葉がなかったが、何事か考え込むよう、そして決意したよう、眼の前に置いた箱へ手を伸ばし、蓋を開ける。古いコピー紙、藁半紙の匂い。諒解を取りそれへ触れれば、沢山の名前、住所録――小学校の連絡網の類である。そして、その中にセレスティは見付けた。ボールペンで無造作に印付けられた連絡先。
 ――芹澤夕子(せりざわ・ゆうこ)――
 僅かに顫えたセレスティの睫に、母親はそれと察したのだろう、やけにゆっくりとアルバムを取ると、懐かしむように頷きつ、頁を繰っては、己の娘と、少女、夕子の笑顔をなぞった。そうして、口を開く。
「本当に、仲の良い友達同士でした。ゆうちゃん、まいちゃん、なんて呼び合って、それこそ毎日のように一緒に遊んでいました。転校するまではクラスも、同じだったんですよ」
 母親のアルバムへ落ちる視線は優しげな。併し言葉はどこか、悲しい響を持っていた。
「……それならば、そんなに仲の良いご友人ならば、何故舞さんは、夕子さんのことを忘れてしまっているのですか?」
 これが、三歳や四歳の頃の記憶と云うのならばまだ分かる。けれど十歳の、それも十年前の記憶を、これだけさっぱりと忘れ得るものだろうか?
 まるで夕子に関する記憶だけ、抜け落ちたようだ。
「あの子は……舞は封印してしまったんです、その記憶を」
「それは、何故です」
「余りに……余りに悲しい出来事でしたから」
 不安げに揺れる眸が、そっとセレスティに合わせられる。澄んで静かな湖面を秘めた蒼眸は、すべてを受け入れるような安心の色を映しているようだ。
 母親は、話し始めた。

 ***

 翌日、再び舞の家を訪れたセレスティは、中へ入ることもなく舞を伴って車で出掛けた。行き先を尋ねる前に促されるまま車に乗せられた舞だが、何やらセレスティと母親の間で何事か取引めいた遣り取りがあったとみえて、母親も特に何も言わず舞を送り出した。運転手もまっすぐ目的地に向かっているのか、セレスティの指示もない。最寄りのインターチェンジから高速道路に入ったところで漸く遠出だと知り、舞はセレスティへ行き先を尋ねた。返ってきた地名には、聞き覚えがある。それは、
「私が前に、住んでた処ですね……?」
「十年前、キミは引越しをして、今の家に移ったそうですね」
「はい」
「引越しする前の、転校する前の学校、同じクラスに『彼女』は居ました」
「彼女? あ、昨日の写真の女の子ですね? 夢の中の……」
「そうです、彼女は存在しました」
「でも、何でその子が夢の中に……いえ、私がその子の夢の中に?」
「――まだ、思い出しませんか」
 え、と舞は目を瞠り、セレスティを仰いだ。併しそれきりで、車が目的地へと到着するまで、セレスティは一言も喋らなかった。

 冬枯れ、とは云うものの。
 ざあっとましぐらに天目指し翔らう凩の、散らす褪せた葉はまだ碧残る。低木と、丈短の叢、それら繁った処を抜け切れば、一気に視界が開けて、散り散りの葉が何処へともなく駈けゆく速さ。それに誘われるよう、セレスティの銀の髪靡くに、いちいち照り輝く美しさである。舞は見惚れがちになり乍ら、セレスティの傍らに添い、その歩行を助けた。
「あっ……」
 見晴らし良い丘の上、思わず息呑むように声洩らし、舞は眼前の広がり、景に圧倒されて惘然と立ち竦んだ。セレスティは視界の代わり、風の、光の、水の気配を探って、確かと知る。
 舞の夢の中。
 少女――夕子の夢の中。
 そこに在った光景が今、現の此処に広がっている。
 丘の天辺となる処には、一際高い一本の大木がやはり、聳えて、二人を見下ろしていた。この季節にも葉を落とさぬしっかりとした枝は、常緑樹のものと思われた。
 未だぼうっと丘下へ視線を向け、町を望む舞の横顔へ、セレスティは繰り返した。
「まだ、思い出しませんか」
 声に、はっと振り向いて、舞は眉根を微かに寄せた。
「夢の場処は確かに此処です。懐かしい気もします。……でもどこか、思い出そうとするとどこか、苦しくなるんです」
「苦しい?」
「はい。思い出すのが……怖い」
 丘にはずっと止むことのない風が吹き荒れている。ざわざわ触れ合う草の音に、舞は焦燥すら覚えているのかもしれない。セレスティから視線を逸らすと、風に嬲り続く草原を見詰め、息を詰めた。
「……舞さん」
「はい」
「『彼女』の名は、夕子さんと云うそうです。芹澤夕子さん、と」
 舞の唇が、その名をなぞった。
「キミと夕子さんは、十年前、それは仲の良い友達であったそうです。毎日放課後も、よくこの場処で遊んでいたと、キミのお母さんから聞きました」
「この場処で?」
 問い返した舞にセレスティは頷く。
 少しずつ、少しずつ、舞の十年前の抜け落ちた記憶の断片を拾って、舞に渡してゆくのだ。
「その木は」
 言ってセレスティは、丘上の大木を仰ぐ。
「その木は登れば、町を一望できるほどに、眺めが良いのだそうですね」
 現在セレスティの弱い視力では木の有り様は詳らかに知れぬが、髪飾りに見たその木は、子供でも登れそうな枝振りだった。
「キミたちは木に登り、共にその素晴らしい眺めを気に入っていた」
 いつの間にか舞も、大木に凝っと視線を注いでいる。
「そうして『あの日』も、彼女は……夕子さんは、木に登っていたのではありませんか?」
 投げ掛けられた問い。
 あの日。
 舞は瞬きすらせず、木を凝視している。やがて、眼を細めた。あの日、顫えた唇が呟く。声まで顫えたが、強い風が呟きを攫ってゆく。持ってゆく。引き寄せる。舞を、「あの日」へと。
 あの日。
「引越しの前日だったと、聞いています」
 舞の記憶を助けるよう、セレスティが告げる。

 あの日、引越しの前日、十年前、見晴らしの良い丘、風は心地好い、二人いつも遊んだ場処、大木の上、セリザワ・ユウコ――

 舞は導かれるように進んだ。歩いた。風に脊を押されて、懐かしい木の許へ。

 ――私、引越しするんだ。
 そう知らせた時の、彼女の悲しい顔が浮かぶ。
 ――遠いの?
 ――隣の県だって。
 ――そっか。……もう逢えないかもね。
 それからの毎日は、大切に過ごした。引越し当日は、学校のある日だから、彼女は言ったのだ。
 ――じゃあ、引越しの前の日に、
 お別れの日に、最後に逢う約束を。
 ――いつもの場処に来て。

 いつもの場処、それは紛れもなく、今、舞とセレスティの立つこの丘である。
「私……行きました。もう逢えるのもこれが最後になるんだなって、泣きそうになるのを我慢して、丘を登ったんです」
 木の下で戦慄く舞の肩を、セレスティの優しい腕が抱いた。
 あの日涙を堪えた少女は、またこの場処で顫えている。あの日は惜別の想いに。そして今は。

 夏の陽射し、遠く見ゆ入道雲。
 いつまでも続けばいい、と念じた思いも空しく、やがて繁みは抜ける。真ッ青な空が世界いっぱいに広がって、その真ン中に濃緑の葉を戦がせた大木が突っ立っていた。
 ――まいちゃん。
 少女の涼やかな声が降る。
 木の枝上に、やはり彼女の姿はあった。舞が来たことに気付くと、少女は早速木から降りようと、一段下の枝へと足を向ける。
 その足を突如、風が攫った。
 ひどくゆっくりと、風音さえ聴こえぬほどの自然さで。
 丘を駆け吹き上がる強い風が、少女の身体を木から離して、宙に舞わせた。
 そして。

 もう堪えることなどできなかった。セレスティの仄かな体温にも縋るように、舞は嗚咽を洩らしていた。その脊を何度も撫でてやり乍ら、セレスティは囁く。
「十年前のキミには、余りに悲し過ぎる記憶でした。だから、キミは封じてしまったのですね。記憶を。夕子さんごと」
 舞は啜り上げる中にも、必死に言葉を作った。
「……私ッ、知らないんですその、その後のこと何もっ……ゆうちゃんが木から落ちて、大人に知らせはしたけど……次の日、引越して、それきり……っ」
「生きています」
「え?」
「夕子さんは、今も生きていますよ」
 脊を撫でていた手を、舞の髪に絡ませて、今度はその頭を慈しむように撫でてやった。そうして、もう泣くことも忘れたように見開いたままの舞の眼差しを、自分と合わせた。舞の母親にそうしたように、見るものすべてに安らかな心を与う、蒼の眸を。
 ちょうどそこへ、セレスティの運転手が丘を上がってくる。芹澤夕子の家は変わらずこの近処にあると云う確認の旨を告げに。それからもうひとつ、驚くべき報告を持って。

 ***

 風は、優しい。
 足許を過ぎゆく風たちにも微笑を送り、セレスティは舞に支えられ乍ら、丘の上に佇んでいた。
「此処はね、一年中風が止まないんです。今は冬だから寒いけど、夏は涼しくて、本当に気持ちいいんですよ」
 嬉しそうにそう告げる舞の髪を、明るい青の玉が付いた髪ゴムが飾っている。夕子の夢から持ち帰った、あの髪飾りだ。
「では、次の夏に、また訪れることにしましょう。――その時は是非、夕子さんも一緒に」
 セレスティの提案に、舞はぱっと花咲かせたように笑って賛成した。
「きっとその頃には、ゆうちゃんも元気になってますよね」

 数日前、舞の記憶が戻った日、丘上に居たセレスティと舞へ運転手が齎した報――「夕子さんの意識が、戻ったそうです」
 夕子は十年前、木から落ちて地面に叩き付けられたことにより、頭部外傷に因る遷延性意識障害となっていた。植物状態のまま、この十年間を過ごしていたのである。

「ゆうちゃんのお母さんが言っていました。二週間ぐらい前から、急にゆうちゃんの容体が良くなって、私たちが訪れた日に、意識が完全に戻ったんだって」
「二週間前と云うと」
「そうなんです。私がゆうちゃんの夢を見始めた時期と一緒」
 舞は髪飾りに触れて、その全身で丘の風を感じていた。あの日夕子を攫った風が、今は優しく思える。
「この髪ゴム、あの日ゆうちゃんが、私にくれるつもりで、用意してたものなんです。これを渡すために、此処で待っていて――結局、受け取ったのは十年後の今だけど」
 髪飾りの玉を指先でなぞる。この髪飾りが、舞と夕子の夢を繋いでくれた。導いてくれた。もしこれが無かったら、舞は唯の夢として、振り向かなかったかもしれない。二度と夕子と再会できなかったかもしれない。
「……まだゆうちゃんの容体は安定してないけど、大丈夫ですよね、きっと。来年の夏は、三人でこの景色、見れますよね?」
 少しだけ不安の過ぎった舞へ、セレスティは笑みを深くして、確かに頷いた。その胸裡には、数日前に対面した、夕子の笑顔が浮かぶ。
 部屋の中央のベッドに横たわっていた夕子は、室に飛び込むように入ってきた舞へ、ゆっくりと頸を廻らした。そうして小さな声音で一言――「まいちゃん?」微笑んだのだった。
 夢から開放された彼女が、今一度夢に囚われることはないだろう。風は、こんなにも優しく、丘を包んでいるのだから。
 夢は既に――跡。


 <了>