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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


BRILLIANT WING

────総ては、貴方という翼に辿り着く為に。

【 01 : Winter rain 】

「この世で一番美しい傘って、何だと思いますか?」

 それは足早に行き交う人々で賑わう駅の出口でのこと。街に出ていた嵯峨野ユキに声をかけたのは、見ず知らずの青年だった。
 天気予報が外れて降り出した真冬の氷雨。曇天を仰いで嘆息する者、手持ちの傘を色とりどりに咲かせて街を行く者。天気の気紛れに何の備えも無かったユキはその内前者で、そぼ降る冷たい雨と薄墨色の雨雲とを恨めしげに見上げていた。
 そこで、偶々横に佇んでいた青年に話しかけられたのだ。
「この世で一番美しい傘、ですか?」
 突然問われたユキが鸚鵡せば、下がり気味の眦が印象的な青年はこちらに微笑みかけながら「はい」と頷く。青年は、花で喩えればかすみ草だろうか。大人しく慎ましく、穏やかな風情のその花をユキは傍らの青年から想起した。
「僕は、今からその傘を届けに行かなければならないんです。僕の大切な人に、この世で一番美しい傘を、届けに」
 ────でも。青年はジーンズのポケットに突っ込んでいた手を引き抜き、僅か表情を曇らせる。
 その手には何もない。青年はユキと同じくこの雨天の下まったくの手ぶらで、悲しげに顰められた眉目がその空しい掌を凝っと見つめた。
「でも、僕は、その傘が何だったか思い出せない。それがどこにあるのかもわからない。だからお願いしたいんです、その傘を一緒に探してもらえませんか?」
 ふむ、とユキは腕を組む。紫水晶の瞳を凝らしたのは青年に興味を持ったからだ。”この世で一番美しい”モノを探すため他ならぬ自分に助力を求めるとは、これは果たして必然か偶然か。第一この青年自体素性が知れない。諾とするのは如何程の得策か────。
「……わかりました」
 暫しの逡巡の後、美貌のヒトガタは嫣然たる微笑を以って青年へと向き直る。まあ作為であっても構わない。あの人に繋がるやもしれない糸は総て捕まえ手繰ればいいだけのこと。
 腰に手を当て顎を僅か上向かせ、口角を吊り上げたユキはこう答えた。
「貴方に協力、してさしあげましょう?」
 雨の下、人の波の中。伸べられた手と手が握手を交わし、青年は「よろしくお願いします」と丁寧な仕草で頭を下げた。


【 02 : Wandering 】

+++++++++++++++

 良く降るね。蓮がそう声をかけると、女性ははっとした表情で振り返った。
 すいません、お店の前で。勝気そうな瞳が眉を寄せるのに、蓮は首をゆるく振る。
 構わないよ、軒先ぐらい貸すさ。どうせ今日は誰も来やしないだろう。そういう日なのさ。
 女性の短い栗色の髪は雨に濡れていた。沈黙。曇天を見上げる視線が遠いのは何故だろう。
 何なら中に入っていくかい。蓮が言うと女性は暫しの逡巡の後こう答える。
 話を、あたしの話を聴いてくれる人を、探していたんです。貴方ならば話せそう。何故かしら、今会ったばかりなのに。
 知らないよ、と蓮は素っ気無く返し、それから凭れて塞いでいた戸口から身を起こす。でもいいさ、だから今日は。

「……そんな気分でいいのさ。冷たい雨のそぼ降る、こんな日は」

+++++++++++++++

 仕事場のビルを出た嘉神しえるは携えていた傘をパッと雨空の下に咲かせた。
 薄墨色に煙る東京都心。行く人来る人皆自分の進む前のみを向いて忙しなく、しえるの脇を通り過ぎて行く。その人々の波はまるでしえるの爪先から割れていくかの様。顎を心持ち上げて歩く彼女の凛凛しさは、宛ら遠い異郷の古に神から十戒を授かった偉人かと思わせる様で────。
「……それで、ずっと私の事を見詰めてくれていたってワケね? それはどうもご苦労様で有難う、ユキ」
 しえるはにっこりと、目の前で同じく笑んでいるヒトガタへと様々含みある笑顔を向けた。ユキはそれに「どういたしまして」と詠う様に答えると、
「貴方が此方へ一直線にいらっしゃるのが見えたので、是非ご助力願いたいと待っていたのですよ。私の熱い視線は歓迎されこそすれ、厭われるはず、ありませんよね?」
「ええそうね。でもちょーっとだけ、温度が高過ぎたかしら。そういうの、芝居がかって有り難味ゼロって言うのよ。覚えておきなさい、お人形さん?」
「他ならぬ嘉神さんのお言葉、心に刻みます」
 と、再会の挨拶を英国の紳士宜しく一礼して恭しく結んだ。高慢に由来するのだろう卑屈なれど優雅な振る舞い、それが嫌味なく似合ってしまうのはひとえに彼の美しさのみを固めた様な容貌の為か。久方ぶりに邂逅したユキがくいっと柳眉を上げてくるのを見て、しえるは苦笑に近い微笑を洩らして肩を竦めた。
”嘉神さん、私を手伝って下さいね。”
 そう、彼に声を掛けられたのはつい先程のことだ。勤めを終えて駅に着き、さて定期入れはとハンドバッグを探りながら立ち止まった所で不遜な物言いが背後から飛んできた。ぱちくりと瞬く目で肩越しに振り返ったらば、そこに立っていたのは例の骨董品屋で出逢った彼、と見知らぬもう一人。一方的な協力要請を断る術は勿論あったのだが、しえるは二つ目には色好い返事を返していた。それは、こういうことってあるのね、という粋な偶然への乾杯でもあり。そして。
「また、”この世で一番美しいモノ”が関わっているのね?」
 疑問と言うよりは確認の問いに、ユキは「ええ」と首肯する。「当然ですけどね」とも続けたのは、鷹揚に唇の端を吊り上げて。
 ────その胸の内に在るのだろう相変わらず一途な慕情、嫌いではない。むしろ近しい、としえるは思う。彼に手を貸そうと思うのは、やはりこの親近感から来る好意か。
「それでは嘉神さん。早速、お願いの本題に……と、その前に」
「なあに?」
 小首を傾げたしえるに、ユキは何も持っていない両手を振りながら軽く片目を瞑って見せた。
「店まで傘を買いに行きたいんですが……ちょっとだけ相合傘、致しません?」
「私の傘は定員一名限りよ。ご愁傷様」
「……ケチ」


 街を歩いていた黒澤早百合は、突然の雨に慌てて最寄のコンビニエンスストアへと駆け込んだ。
 天気予報を素直に信じていた我が身への文句はさて置いて、あのやる気のなさそうなTVのキャスターが悪いのよっ、なんて責任転嫁を胸中で乱打し、漸く凌げた雨露にコンビニの入り口ではあと息をつく。濡れて頬に張り付く黒髪を気怠げに払い、程よく陳列されていた透明なビニル傘を手にレジへと向かった。
 その一行が店に入ってきたのは、会計を終え踵を返しかけたところだったと思う。
「……れにしても、”この世で一番美しい傘”が何だなんて、……」
 そんな会話の断片が不意に、良く通る女性の声で以って早百合の耳へと飛び込んで来たのだ。
 かさ? 安物の柄を握り直しながら心の中で首を傾ぐ。丁度扉を押し開けたばかりの男女三人が、肩や胸元の雨飛沫を払い落としながらこちらに向かって歩いて来るのが自然視界に入った。
「それで、手掛かりは?」
「無いそうです」
「……ええと、もう一度訊いても良いかしら?」
「ですから、この人は何も覚えていないんだそうですよ。自身のことも、探しているモノのことも、ましてやそれを、誰に渡そうとしていたのかも」
 擦れ違うにつれはっきりと聞こえてきたそんなやり取りに早百合は暫し困惑した。手掛かり? 何も覚えていない? 一体何を話しているのか、戯れに似た好奇心が気紛れという名の関心を彼らへと向ける。外への扉に手をかけながら肩越しにちらと振り向けば、凛とした顔立ちの女性と幾分俯きがちに微笑む大人しそうな青年、それから一際視線を引く銀髪の──あれは男、でいいのだろうか。中性的な、まるで作り物の様な美貌を誇る銀髪の青年が、レジの傍らで何事か顔を寄せ合い話しているところで。
「嘉神さんを呼び止めた理由、解っていただけましたか?」
「ええ、十分過ぎる程にね」
 女性がふるると首を振り、傍らの青年へと「手強い人ね」と柳眉をくいと上げて見せる。青年ははにかんだ様にただ頭を掻いて微笑い、「でも」と続ける。
「”傘”さえ、僕の探している”この世で一番美しい傘”さえ見つかれば、総て思いだせるような気がするんです。……調子が良いでしょうか」
「いいえ結構です。その言葉を信じましょう。……それで、ですが?」
 銀髪の青年が語尾を引き上げたのにはっとした。かち合った視線の先には輝石と見紛う紫電の瞳。女性として随分背の高い早百合とは僅かな角度で見上げ、見下ろす、しっくりと視線が絡み合う位置。それこそ測ったかの様に美しい上目遣いに一瞬瞠目した早百合は────ふっ、と吐息を漏らして扉から手を離した。
「あら、見つかってしまったのね」
「貴方、私達が入って来てからずっとこちらを意識していましたね。私はこれを、巡り会わせと呼ぶのです」
 嵯峨野ユキ、と申します。青年が手元に陳列されていたビニル傘を取り上げ(つまり早百合が購入したのと同じものだ)、その柄を口許にこつんと当てながら名乗る。細められた紫の瞳、通った鼻筋に白磁の肌、均整の取れたすらりとした体躯。年下の様だが間違いなく、正真正銘の、美形の、男。
「お名前を伺ってもよろしいですか、艶やかなる方」
「黒澤早百合よ、ユキさん」
 にこり、と早百合は芳しく華やかに微笑む。この際「そんな安い傘で格好つけて誘われても」とのツッコミは無粋なので即却下だった。
「では黒澤さん。性急ですがお茶を一杯、ご一緒するところからで如何ですか?」


 雑誌の頁を繰っていたマリィ・クライスはふとその指を止め、ティーカップに湛えられた黄金色の水面を凝っと見詰めた。
 街に出たある昼下がり。予報を違えて降り出した冬の雨を睨み上げたマリィは、偶々行き着いたカフェで一息つくことにした。テーブルに給仕されたのは印象的な瞳と同色のレモンティ。未だ温かな湯気を残すそこから窓の外へと視線を転じ、「良く降ることだねぇ」と何とはなしに呟く。窓際のこの席から僅か硝子一枚隔てた外を行き交う人々の波は、先程から途切れる様子がない。マリィはまた雑誌を一枚捲り、カップに一口唇をつけた。
 何やら騒がしさを感じたのはその数分後のことで、ふと上げた面と視線、通路を挟んで隣の席に男女四人が案内されてきたのに気がついた。
「ええ、そうね。私もしえるさんと呼ばせていただくわ」
「じゃあ私も早百合さんと。それにしても貴方も物好きね、普通靡かないと思うわあんな誘い方」
「内容はどうであれ、雨に降られた身を温めるのは吝かではないもの」
 どちらもはっきりとした喋り方をする、と聞くとはなしに耳を傾けていたマリィは感想を抱く。片やブラウンのウエーブがかった髪を後ろに払う美しい女、そして片や、鴉の濡れ羽色した黒髪を豊かな胸元にさらりと零しているやはり美しい女。向かい合う彼女らの隣りには、それぞれやけに整った顔立ちの青年と申し訳なさそうに微笑む優男風の青年が座っており、マリィは一瞬男女の逢引か何かかと思った──が、それにしてはどうにも会話がおかしい。
 別に下世話な興味で首を伸ばしたわけではない。元より、そんな女はマリィの毛嫌いするところであるのだし。だからただ、要は、雨に閉じ込められて暇だったのだろう。それだけのことだ。
「それにしてもユキ、何もわからないでは正確な解答は導けないのよ。前の時は地道ながらも方法があったけれど、今回はまるで処置なしね」
「確か、”この世で一番美しい傘”だったかしら? カサ……美しい傘、ねえ」
 四人が一様に首を傾げて思案の表情を晒す。マリィはまた外に目を遣った。手に手に色とりどりの傘を掲げて、人の波がぶつかり、溶け合い、また流れて行く。
「……そうね。傘と言えば色々あるけど、私的に美しいと言ったら和傘かしら」
 ブラウンの髪の女が炯眼を瞬きながらそう言った。
「和傘……蛇の目傘とか、野点で使う様なあれかしら?」
「ええ。日本古来の自然を人の手で組み上げた芸術品。実用のみならず踊りでも使うから馴染み深いし、綺麗だわ。────これでも私、日舞も趣味の内よ?」
「参りますね、これ以上貴方に夢中にさせないで下さい」
「リップサービスどうも有り難う。それで? 謎々をかけてくれた名無しの貴方、記憶が無いなら無いなりに貴方のことを教えて頂戴な」
 そこで四人のオーダーが給仕され会話が一時遮断される。温和な笑みを湛えた青年は黒髪の女に砂糖を勧められたがそれを丁寧に断り、やや俯き加減に話し出した。
「気がついたら僕は、雨空を見上げていたんです。そして横にこの、ユキさんが居た。在ったのは、早く行かなくちゃという強烈な焦りでした。早く、僕の大切な人に傘を、傘を届けなければ彼女が濡れてしまう。あの傘を、この世で一番美しい傘を彼女に届けなくちゃ、あの大事にしていた人が寒さに震えてしまうって……今でも、この掌に残っているのはそんな想いだけです」
 一途なのね、と黒髪の女が甘い声色で相槌を打つ。青年は豪奢な美貌に照れたのかはにかみに肩を竦め、しかし刹那、濡れた仔犬の様に頼りなく表情を曇らせる。
「すいません。本当にそれしかわからなくて……僕は一体、何者なんでしょうね」
「堂々巡りですね。やはりその傘を探さなければ……」
 銀髪の青年が顎に手を当て思案の表情を作る。長い睫が伏せられ、その瞬きの間から覗いた硬質な紫色の光は、人の瞳にしては玲瓏過ぎる煌きだ。マリィは鷹揚に髪を掻き上げながら緩く首を巡らす。大振りのピアスがしゃらりと揺れ、朱を刷いた唇が笑みを象った。────成る程、ヒトのカタチをしたモノってことかい。うちに居るあの子と同じだねえ。
 ぱたん、とさして興味惹かれなかった雑誌を閉じる。それから対岸のテーブルへと視線を向けた。
「何だったか思い出せないんじゃあ、探しようがないねえ」
 突然会話に割って入って来た自分へ驚く一同を微笑み混じりに見渡し──それを最後に、銀髪の人形の上で凝視と止めてこう言った。
「”傘”だったら用意できないこともないけれど……どうだい、うちの店に来るかい?」
「……これも、巡り会わせなのですね」
 瞠目を、瞬き一つでアルカイックスマイルに変じた人形がすくと立ち上がる。自身の美しさを熟知しきった優雅な仕草で一礼すると、詠う様に諳んじた。
「貴方の、御心のままに」


【 03 : Wisdom 】

+++++++++++++++

 雨が痛みを呼び起こすんです。カウンター越しに向かい合って座した彼女がそう口火を切った。
 その傷は何時までも塞がらず、じくじくと膿んでもう血さえ流れなくなって、ただ痛いんです。雨が降ると。
 雨が恨めしいのかい。蓮が訊く。ええそうです、雨があたしの傘を奪ってしまった。
 濡れると痛いのかい。重ねて問えば。そうですね、だってこの雨は、冷たいから。
 女性は蓮の方を真っ直ぐ向いてはいるが、その双眸は何処か遠く、過去を、透かし見ている。
 雨が降ると痛いんです。傷が痛むんです。だって、傘がないから。雨は嫌い。終わり無く痛いから、雨は────。
 輪を描き、前に進むことを拒否しているかの様な彼女の話の軌道。蓮は煙管に手を伸ばし、しかし止める。
 あんたの傘は、もう取り戻せないのかい? 彼女はそっと目を閉じ、はいと頷く。
 そうかい、と蓮が呟いたのは果たして、誰の為だったのか。

「……奇遇だね。あたしの傘も、もう、この世には無いんだよ」

+++++++++++++++

 都市の片隅にひっそりと佇む骨董品屋「神影」。カフェを後にし、一同を店に案内したマリィは自らの名を名乗り、ここの店主であることを明かした。
「偶然ですね。私の養い親も貴方と同じ職に就いているんですよ」
 照明の落とされた店内をぐるりと見回しながらユキが言う。その横で青年は物珍しそうに首を巡らし、しえるは腕を組んだ姿勢で傍らの棚を検分する様に眺めている。「それで」と切り出したのは、最後尾でビニル傘を畳み終えた早百合だった。
「折角ご招待頂いたんですものね。傘を、見せてくださる?」
 応じて頷いた店主は、勝手知ったる陳列棚の中から一本の傘を取り上げて見せる。外側は黒、広げられた内側には白いレースが取り付けられており、握る部分は焼き色の付いた真直ぐな寒竹で出来ている様だ。一見して職人の技だと察せられる作りのそれは、正しく丘の上の草原で貴婦人が差すに相応しいクラシカルなパラソル──マリィが頭上に差しかけるのを見て、皆一様にそんな感想を抱いた。
「この世で一番美しい傘、だっけ? 美しいなんて千差万別だけど、私の場合は傘のフォルムに惹かれるかしら? 傘って不思議な形をしてるわよねえ」
「『メアリー・ポピンズ』の様ですね」
 ユキの言葉にマリィは一瞬きょとんと首を傾げたが、すぐに頬を緩ませて「なかなか可愛いことを言うわね」と金色の眸を細める。
「毒舌のベビーシッターの話かい? そうね、風ですぐに飛んでいってしまいそうな形ではあると私も思うわ」
 開いたままの傘をマリィは青年に差し出す。どうも、と会釈してからおずおずとそれを受け取った彼は様々な角度から矯めつ眇めつしていたが、やがて。
「綺麗な、傘ですね」
「けど、あんたの探しているものじゃあない?」
「……恐らく。すいません、曖昧で」
「男が何でもかんでも謝るもんじゃないわよ。……まあ後はこれとか、かしらね」
 再び棚から傘を選び出したマリィは、今度はしえるへとそれを手渡した。ば、と勢い良く開かれたそれは番傘だ。装飾の一切無い竹と和紙で仕立てられた簡素ながら精緻な作りのそれを、しえるは優艶な所作で以って肩に凭せ掛ける。「番傘は男物だけれど」と微苦笑で付け加えながら。
「どう? 名無しの貴方、感想は?」
 青年はゆるゆると首を横に振る。しえるは特に落胆した様子も無く、その傘を静かに閉じた。
「わからないわからない、ね。本当に探しようがないみたいだけど……何だったら、コネはあるからそれを伝って探してあげようか?」
 腰に手を当てたマリィがくいと顎を上向かせたのに、ユキが「そうですね」と珍しく神妙に頷く。和傘に洋傘、日傘雨傘差し掛け傘。傘と名の付くものが如何程の数であるのかユキとて知らぬわけではない。肝心の当人は覚えが無いの一点張り、これでは前に進むことなど──その至上の美を持つ傘に辿り着くこと望めない。そんなことは許さない。もしかしらその傘こそが、我が心と運命の求める唯一のあの方に繋がるかもしれないのに。
「ねえ、ひとつ、良いかしら?」
 と、そこに一声、早百合が場に投げ掛けた。カツン、とヒールの踵を鳴らして青年へと向き直る。
「ずっと不思議に思っていたのだけど、何故貴方、そんな状態でユキさんに助力を仰いだの?」
「え、僕が、ですか」
「そう。だってそれ程までに何もわからないくせに、貴方、人混みの中からユキさんを選んだのでしょう? それはつまり、ユキさんだったら答えを知っていると、無意識のうちに思ったからじゃないかしら?」
 ぴくり、とユキの眉が反応した。ゆっくりと上げた面が真正面から見据える早百合の微笑とかち合う。もしかしたら、と彼女は蕩けるような表情で続けた。
「探すまでも無く、貴方の内に答が在るのでは?」
「……大きく出ましたね。黒澤さんの期待を裏切りやしないかと、はらはらしますよ」
「ふふ、ユキは相変わらず主導権を奪われると弱いわね。そういうところは可愛げがあって好きよ。……それじゃあ今度は私からの質問」
 携えていた傘の先をしえるは役者の様に青年へと向けて告げる。
「何故『美しい傘はどんな傘?』でなく『美しい傘は何?』なのかしら。まるで傘以外の物を探しているよう。さあ、その答は?」
 ユキと青年はどちらからともなく顔を見合わせり。面白くなさそうな仏頂面と困惑に苦笑する垂れた眦が見詰めあい、やがてユキがふうと息を吐き出して大袈裟な所作で肩を竦めた。
「この人が探している傘はモノではない、と仰りたい訳ですね。ああ、もう、またですか? 私が求めているのは、この手に手掛かりとして、あの方の行方がわかる縁として確かに掴めるモノ、なんですよっ」
「あの、方?」
 突如癇癪を起こしたユキに、早百合は些か驚きの表情で以って小首を傾ぐ。問いを含んだ視線はふらりとしえるへ辿り着き、心得た表情の彼女は一つ早百合に頷くと。
「ユキは、人を探しているの。自分を作った製作者である”主様”をね。何でもその人──の魂、だったかしら? それは”この世で一番美しいモノ”へ生まれ変わっているのだそうよ。だから今回も、この名無しの彼に手を貸して何か手掛かりを得ようとしているのよね」
 ふうん、とマリィがユキを一瞥しながら相槌を打つ。
「人形が自分の持ち主を探してるってことかい? 成る程、どこの人形も求めるものは同じと見えるわね」
「……待ってくださる? 人形?」
「人形よりは人に近く、人に比すれば人形に近い。言わば人造の人間──”ヒトガタ”って人形があるのだと……聞いたことが、あるけどねえ?」
「ご明察恐れ入ります。その通り、ですよ」
 薄明かりの元でユキの双眸がきらりと紫電の光を弾く。本来人が孕むはずの潤いと柔らかさよりは、鉱石の持つ滑らかさと硬質さとが確かに勝るその陶磁器と見紛う肌。早百合はまあと些か目を見張る。作り物みたいだわとは思ったけれど、とむしろ楽しそうに表情を緩ませ、桃色の唇をふわりと笑ませた。────興味深いわね。
 そこにパン、としえるが手を打つ。再び一同の注視を集めた彼女が、壇上の教師のように場を仕切り直した。
「話が逸れてしまったみたいね。続けるわ。傘がモノではないと前提すると、私思い浮かべるものがあるのよ。『破れ傘は日和傘』って知ってるかしら?」
「……浅学につき」
「拗ねないの。暈の中に星が見えると晴れという意味なんですって。暈は水と光が創り出す美、つまり虹と同じね。そして暈はカサであり、音として傘に通じる。頭上に差しかけられる物が傘なら、虹だって傘なんじゃないかしら。空に広がる無限の色を持つ美しい傘……それこそが、この世で一番美しい傘ではなくて?」
「それじゃあ、あの、僕が探しているものは虹、だと……」
「だから見つける方法は、雨上がりを待つ事とあとは運。霞がその腕で光を届けてくれる事を祈りましょ……じゃ、ダメ?」
 語尾を苦笑に紛らせたしえるが悪戯っぽく肩を竦めて、入り口横の窓へと肩越しに視線を転じる。釣られ皆が眺め遣ったその外の光景は、未だ氷雨の降り続ける灰色の空と街。光の傘が天空に橋をと架かるまではまだ幾分か時間を要しそうな雨模様だ。
 ふう、と息を吐き出したのはマリィだった。
「なかなか面白い考えだけど、それじゃあ困ったね。この子はその大事な人とやらに、”届ける”ことが出来ないんじゃあないかしら? それとも、空を指差しあれをあげるよ、とでも言うつもりだった?」
「……わかりません」
 青年の表情が歪む。痛みを耐える様なそれをちらと見遣り、続けたのは早百合だった。
「物理的な傘のことを指すわけじゃなさそうという、しえるさんの意見には同意するわ。この世で一番美しいと言うからには、ねえ」
「……わかりません」
 青年が片手で頭を抱えながら苦悶の表情を見せる。議論の袋小路に入り込んだ一同は所在なさげに腕を組み、青年を囲み、そして室内にまでか細く響いてくる雨音に耳を澄ます。天から地へと、原初に分かたれた二つ身がもう片身を求めて零す涙のように、それは尽きない幾筋もの雫。さああさああと泣き止まぬ空は、まるで、まるで。
「……届けなくちゃ、いけないんです」
 と、不意に青年が面を上げ窓を──その向うを一直線に見据える。相変わらず頼りなげな双眸はしかし、先程よりもずっと明確な意志の色を湛え潤んでいる様で、傍らでその変化に気付いたユキは抑えた声音で問いかけ、ようとした、
「行かなくちゃ、僕は、傘を……届けるんだ」
 途端、青年が走り出す。手にはマリィから受け取った傘を握り締めたまま、駆ける音も荒らかに、扉を乱暴に開け放つやそのまま店を飛び出した。余りにも急すぎる展開。宛ら一陣の突風。その風に煽られて暫し茫と彼を見送った一同だったがが、すぐさまユキが我に返り。
「感心しませんねっ」
「あ、ユキさん!」
「まったくもう仕方ないわね」
 毛を逆立てた銀髪の猫が床を蹴り、早百合としえるが困惑の表情を見交わしながらヒールを鳴らしてそれに続く。残ったマリィは「騒々しいねえ」と舌打ちすると、獣のしなやかさでそれを追った。

「待ちなさい! ……ああ、名前がないから呼べませんね!」
「赤信号も皆で渡れば怖くないって名言ね」
「……街中で追いかけっこは恥ずかしいけど」
「遅いわね、あんた達。先に行くわよ」

────行かなくちゃ。君の元へ。傘を届けに。この世で一番美しい傘を。大事な君が濡れないように。

「私には、必要なんです。この世で一番美しいというのなら、それが、私には」
「どうしてあの人、あんなに脚が速いのかしら。……いえ、違うわね」
「人に、全くぶつかっていない……? まるですり抜けていくように見えるわ。どういうこと?」
「ねえあの子、本当に人間かい? 霊とか、そういうものとは違う様に思ったけれど」

────君が待っているから、僕は走らなくちゃ。こうしている間にも、君は寒い思いをしてるんだね。

「ユキ貴方、厄介なものを拾ったのではなくて?」
「霊ではないわ。私が傍に居たのに、消えなかったんですもの」
「そういえば、結局傘って何だったのかしらね?」
「カサ……本当に雨が上がるまで待ってみる?」
「カサ……モノではない傘。傘の役割は」
「カサ……雨の日に差すモノよねえ」

────君を一切の辛さから守る傘を、僕は君に届けなくちゃ。

「……あ」
 雨の中に白い吐息がふわり、立ち上る。早百合がふと漏らした呟きは、横を走っていたユキの耳にしか聞き取れない程の小さな音量だったのだが。
「ねえ、ユキさん」
 肉厚な唇を一度引き結んだ後、早百合は汗に張り付く髪を振り払いながらこう囁いた。
「傘は雨風をしのぐモノ……だから、例えばある人が危険に晒された時に盾になって庇ってあげる、とか……もしかして、傘っていうのは、あの、そういう気持ちのこと……かしら」
「気持ち?」
 僅か頬を染めたように見えたのは彼女が自分の言葉に照れたせいだろうか。歯切れ悪く掻き消えた語尾にユキは眉を寄せ、問い直そうと口を開きかける。
 ────その時だった。
「!」
 四人の脚が、自然、止まる。
 追っていた青年の姿は最早何処にも見えず、今まで逆流する自分達を阻んでいた人の波もが今や消え。一瞬の間にがらりと様を変えてしまった周囲の景色に、驚きを露にしない者がいるはずもない。
「どういうことですか、これは」
 一歩、進み出たユキが目前に現れた建物を──ユキにとっては見慣れた、実に見知ったその軒先を睨みつける。
 四人が辿り着いた場所。そこは、「アンティークショップ・レン」の店先に他ならなかった。


【 04 : Wing 】

「恋人ですら、なかったんですよ」
 カウンターを挟んで此岸に蓮が、彼岸にその女性が座っていた。元来は勝気で利発を表すだろう彼女の容貌は、げっそり削げ落ちた頬の肉と色を失った唇それから櫛も入れていない赤茶けた髪のせいで見るも無残な荒れ様だ。
 その理由を蓮は問うた訳ではない。だから、ただ、彼女は話し相手を探していたのだろう。この冷たい雨の中を彷徨い、そして此処へと、導かれたのだろう。
「子供の頃からの友人だったというだけ。進む道も世界も違って、歳を重ねるごとに自然な速度で疎遠になって……お互い、恋心なんて考えたこともなかったのに」
 でも、いつも、傘を差しかけてくれるのは彼だった。彼女の化粧気のない目元が、隈で黒ずんだそこがふるふると震えていく。空知らぬ雨とは良く言ったもの。涙がひとふたみつと、零れて落ちる。
「私が気落ちしている時、どうにもならなくなった時。冷たいもの、痛いもの、つらいもの、そんな、雨に打たれた時に庇護の翼で包んでくれたのは……だって、彼だったんだもの」
 傘が無いのだと顔を覆って泣く女を、蓮は黙して眺めるのみ。その心の宇津保や如何にと、思い量る程のお人好しではないだけで。そこに自分を重ねるのがまた、惨めなだけで。
「……あの日、俄か雨が降ったの。別に傘なんて何処でも買えた。服が濡れても構わなかった。だけど、彼が、迎えに行くよって言うものだから。傘を届けてあげるから、今行くから待っててねって、言って、電話を切って、それで……」
 彼は、青信号が点滅しかけた横断歩道に飛び出しただけだったのだという。それだけのことで、彼は、傘は、永遠に彼女に届くことがなくなってしまった。
「……すいません。初対面の貴方に、こんなことを」
「謝るくらいなら人の店先であんな顔してるんじゃないよ」
「…………」
「だから別にいいのさ。あたしも暇だった。あんたが、気に病む必要は無い」
 彼女は黙って深く頭垂れた。それからすくと立ち上がり、お邪魔しましたともう一度礼をして踵を返す。そこまで送るよ、と蓮は告げ、二人連れ立ち店の扉を引き開けた。

「待たせて、ごめんね」

 声がした。そして扉の前に、世にも穏やかな微笑を浮かべた青年が立っていた。
 蓮はちらと傍らの彼女に目を遣る。震えることすら忘れ、ただ驚愕のみに瞠目し切ったその表情を、蓮は言葉を尽くしてすら形容することが出来ないと思った。彼女は息さえ止めている様で、ともすると鼓動を刻むことすら放棄し低様で、眼前に現れた青年をただ只管に凝視めていた。
「思い出したんだ、僕が届けようとしていた傘。そして、届けようとしていた君の事を。……あのね、実はこれ、お店から勝手に持って来ちゃった傘で、それからほら、雨傘でもなくて。随分遅れちゃったし、大分役立たずだけど」
 でも、ちゃんと、届けに来たよ。青年がはにかんだ様に淡く笑う。彼女が赤く大輪で咲く花だとしたら、青年はそれを慎ましやかに飾る白く小ぶりな花というところか。青年は一度持っていた傘を彼女へ差し出したが、やおらその手を引き、傘の代わりに自分の掌を彼女の頭上へと持ち上げて。
 ────そっとその髪を、撫でた。

「僕が消えてもこの”気持ち”は消えない。……”この世で一番美しい傘”を、永遠に、君に」


「どういうことですか、これは」
 睨みつけた軒先の下に佇む蓮に向かって、ユキはそう投げ掛けた。一体何が起こったのかと思考の整理もつかぬまま、蓮と、その傍らで呆然と立ち尽くしている女性とを交互に見比べる。
 蓮はそんなユキと、その後ろでやはり複雑そうな表情を並べている三人の女性達をゆっくりと見渡して。
「……雨、上がったみたいだね」
 腕を組み、くい、と顎で天空を指し示す。
「あんた達の探してる奴は多分もういないよ。……そして雨は、上がったんだ」
 頭上に広がっていたのは、垂れ込めていた雨雲が少しずつ千切れ、その切れ間から光が射し初めた大都会の空。黄金色に輝くヤコブの梯子がビル立ち並ぶ地上へと降り来るその様を、ユキは、しえるは、早百合は、そしてマリィは、ただ静かに見上げていた。


【 05 : Wolf 】

 金の光は陽の明け初める色。なれば銀の光は、昏が沈み逝く色。
 マリィは一度瞬きすると蓮と女の許へ歩み寄り、落ちていた傘を拾い上げた。確認するまでも無い、これは先刻店にてあの青年へと手渡したもの。持ち逃げした本人の姿は見えないがこれが此処にあるということは、つまり。
「あんただったのかい。あの子が届けなきゃいけないって、言ってた相手は」
 首を回して、女が虚ろな瞳をマリィへ向ける。涙の跡が幾筋の残る頬は見るも無残な程に青白く、けれども何故だか紅色に上気もしていて、彼女が頷くのを待つまでもなくマリィは青年と女との関係を大まかに察した。どういう経緯があったのかは知れないが、こうして傘が青年の手から彼女の許へ届けられたのならば、それで、十分ではないか?
「あげるわよ、これ。うちにあるモノの中ではつまらない程に普通の品だしねえ。大体あんたが、受け取るべきものなんだろう?」
「マリィさん」
 声に、見るといつの間にか近づいてきていたらしいユキの姿。この何処か大人びていながら幼さを残す一途な眼差し。ますます以ってあのお人形と重なり合い二重写しとなるのは、果たして何故だろうか。
「残念だけど、あんたが探しているモノとこれとは違うと思うわよ」
「ではこれが、彼の求めていた”この世で一番美しい傘”だと仰るのですね?」
「それを届けなきゃいけない、って言っていたあの子がこうして届けたのがこの傘だったのだから、自然これが”この世で一番美しい傘”になるんじゃないかしら?」
「……言葉を弄しているだけですよ、それ」
 人形は頬を膨らませる。初めカフェで見かけた時は、もっと余裕に満ちいっそ鼻持ちなら無い程に高慢な表情をひけらかしていたというのに、こうしてみればなかなかどうして、幼い子供の仕草と態度そのものだ。可愛いもんじゃないかい、と呆れ混じりに口角を吊り上げる。それから、片手でくるりと傘の柄を持ち直して。
「ほら、あんた、要らないのかい?」
 女に一声、傘を高く放り上げる。すると焦点の定まっていなかった女の眸がはっと色を戻し、垂直に落下してくるそれを慌てて胸に抱き留めた。ふるり、と睫が揺れたのは一瞬。やがてその眦からぽろぽろと大粒の涙が零れ始め、傘を抱き締めたまま蹲って泣きじゃくるその姿に、みっともない子だねえとマリィは苦笑を漏らした。
「ああ、そういえば」
 ユキ、と肩越しに名を呼ぶと「はい」と明朗な声でいらえが返る。「見つかるといいわね」とは腰に手を当てながら言った。
「あんたの探してるって人。どうしてこうも人形っていうのは持ち主を探したがるのか知らないけど、見つかるといいわね」
「……それは、違います」
 ナイフを入れる様に人形が言葉を断ち切る。否定が飛んでくるとは思わずおやと眉を上げれば、向かい合った彼は一瞬こちらを凝視して。
「私が探しているのは持ち主ではなく”主様”です。嵯峨野征史朗という、私を作り私に運命を与えた唯一至上の方。あの方に捧げるべき想いをそこいらの人形と一緒にされては、私の価値が薄れてしまうとは思いませんか?」
「おやまあ、偉そうに」
「あの方が傑作だと名付けたこの身を常に最高であらしめるのが、私の使命ですからね」
 ぱっ、と紫水晶の瞳が輝きを増す。初めて見た時から興味引かれる、彼の内で最も彩り鮮やかなその部位。血も熱も通わぬ人の形をしたモノが、まるで人の様に執心を語るのは何の故だろう。神より劣るヒトが、そのヒトが作ったモノに過ぎない人形が、まるで世界の中心で下界を見下ろしているかの毅然たる口調で己の価値を寿ぐのだ。
 何たる傲慢。何たる無知。絶対的なものを、この子どもは知らないのだろう。知ることもないのだろう。その愚かさが、身体よりも如実にヒトに近いというものを。
「……いいけどね。ただ、もしも本当に”この世で一番美しいモノ”があるのだとしたら」
 ────それは、きっと、ヒトが触れて良いものではないだろうに。
 言葉を、口にする代わりに首を打ち振る。そんなのは言っても詮無い泡沫。人形が神に出逢うことなど叶うはずもあるまい。
「まあ、私はどっちかって言うとそのモノよりもあんたの方が興味、あるけどね」
「好意ならば歓迎いたします。どれだけ好いていただいても結構ですよ」
「じゃあ精々、次に逢った時には話でも聞いてあげようかしら」
 またね、とマリィは片手を振る。そのしなやかな歩みで行く背に向かい、ユキは先刻と同じように紳士の如き一礼を披露した。

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「まったく、今日は疲れましたよ」
 女性達が帰途に着くのを見送り、二人残された後のこと。
 何時までも店の前で空を見上げている蓮に、ユキはそう言って大仰に息を吐き出す。蓮の返事は相変わらず素っ気無いもので、「そうかい」なんて興味のまるで無さそうな一言だけを呟くと、再び曇天に光滲む──何時しか茜射し染め始めた空へと再び目を遣った。

『”この世で一番美しい傘”を、永遠に、君に』

「今日も手掛かり一つ見つかりませんでしたけれどね。いいですよ、何時かという日は自分の手で引き寄せるものなのです」

『”この世で一番美しい傘”を、永遠に、────に』

「……この世で、ね」
 凭れていた木作りの壁から蓮は身を起こす。
 自分より少しだけ背の高い人形が、常に揺るがぬ恋慕の情を、その宇津保の胸に抱き続けているのなら。
 自分より随分背の高かったあの男は、常に揺るがぬ情念の炎を、あの広い胸に灯し続けていたのだろうか。
「……蓮さん?」
 蓮の手がユキの銀髪を撫でた。母が子どもにそうする様に、親鳥が雛を翼で覆う様に、そっと慈しみを以って。しっとりと水気を孕んだその銀の絹糸を、蓮は静かに撫でていた。
 ────しかしそれも、ほんの僅かの間のこと。
「景気良く濡れてきたね。中に入って、乾かしな」
「……はい」
 腑に落ちぬ表情のユキを残して扉を潜る。
 雨の残り香が刹那鼻腔をくすぐった様に、蓮は思った。


 了



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【2617/嘉神・しえる(かがみ・しえる)/女性/22歳/外国語教室講師】
【2098/黒澤・早百合(くろさわ・さゆり)/女性/29歳/暗殺組織の首領】
【2438/マリィ・クライス(マリィ・クライス)/女性/999歳/骨董品屋「神影」店主】

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■         ライター通信          ■
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初めまして、もしくはお久しぶりです。辻内弥里です。
まずは今回、納品が一週間以上遅れてしまいましたこと陳謝いたします。真に申し訳ありません。何を言っても言い訳になります立場、承知いたして只管に謝ります。すいません。そして、待って下さってありがとうございました。
こうして出来上がりました今回の「異界」、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。……しかし今回ほど痛感したこともありません。物語は、難しい。文章は、難しい。OMCは、難しい……。
PC様にというよりは、PL様に向けて書きました当拙作。核心の詳細がないのはわざとです。せめて残り香の様なものが皆様の心に届きますように。

>マリィ・クライス様
お会いできて光栄です。マリィさんのかっこよさや長く生きていらっしゃる故の重みを出すのがとても難しく、「了」を打った今でもお気に召していただけるかびくびくしております…。
そして今回、話中時間の関係で傘を集めていただくことが出来ず、あのようにさせていただきました。すいません。
マリィさんのお宅にいらっしゃる可愛く礼儀正しいお人形さんとは天と地ほどもありますうちの駄目な子なお人形…もし宜しかったら、またお付き合いくださいませ。
あ、ちなみに題名の意味、気付いていただけましたでしょうか?

それでは本当にご迷惑おかけいたしました。すいません、ありがとうございます。
失礼致します。