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心意鬼
「うむ」
ぱ、ぱと――ひと揃い80万はくだらないスーツの汚れを叩き落とす。
「その意気やよし」
唇の歪みからのぞく歯は、鬼のものか。牙だというのか。
黒煙の彼方に浮かび上がるものこそ、鬼か。いや、使鬼か。
ともあれ、鬼は黒煙の中から頭角をあらわす。横転した高級車のドアが出し抜けに外れて吹き飛んだ。荒祇天禪は、ゆっくりと、余裕をもって、捻じ曲がった高級車から脱していた。
「――尤も、褒められるのはその意気くらいのものか。余程俺が憎いとみえる。……愚かなものだ」
くつくつという含み笑いは、高級車の爆発音にかき消された。
天禪の乗っていた高級車に体当たりをし、深夜のハイウェイに転がした者が在る。それこそが、依然として黒煙の中に立ち尽くし、今は天禪の前に立ちはだかるかたちをとっている、異形の鬼なのであった。黒煙の中、仁王立ちするその鬼は、身の丈二丈に及ぶだろうか。黒とも灰ともつかぬ巨躯のあちこちに、赤い梵字が爛々と浮かび上がっている。天禪のもとに息吹は届かず、心の臓の鼓動も音に聞こえぬ。
式神だ。近くか遠くにいるかはともかく、この異形を操っているものが存在する。
「此れで四度目になるな。おまえが覚えているかどうかは知らんが。……つくづく、愚かな奴よ」
この声も伝わるのだろうと、天禪は『鬼』に語りかける。
彼の言葉は、強がりでもなければ、でたらめでもなかった。荒祇天禪はここのところ立て続けに、三度も――今日で四度になったが――式神に襲撃されているのだ。そのたびに、優秀な運転手や己の会社の上役を失っていた。余裕をもって生き延びられたのは天禪だけで、いずれの場合も、血や黒煙や死にまみれた闘いがあった。
「一度目は……そう……禽だった……」
黒とも灰ともつかぬ、赤の梵字を戴いた式神。天禪のただ一度の平手で消し飛んだ。
「二度目は、大神」
赤の牙持つ黒と灰の狼。今は亡き、ニホンオオカミを五つまわりは大きくしたかのような。この狼もまた、天禪の平手に滅ぼされた。
「三度目は……四つ腕の熊……」
これとは、少し遊んだ。相撲を取ってやった。結局、四つの腕すべてを捥ぎ取り、頭を踏み潰して終わりにしたのだが。
「四度目は、此れか。此れが切り札だというのか」
なおも、彼は歩むのだ、
「面白い」
これまでの三度は見逃した。彼は襲われたときはちょうど退屈ではなかったし、命を狙われることはそう珍しいことでもなかったからだ。されど、仏の顔も三度とはよく言うもの。
――俺は神でも仏でもない。それに、年中忙しくさせてもらっている。だから、そろそろその顔を拝んでやるとしよう。逃げてばかりいる、と思われてはかなわんからな。
しかし、その前にやらねばならぬ。
「来い。俺は忙しい」
そう、この鬼めを、殺らねばならぬ!
咆哮!
アスファルトすら砕く怒号があった!
その咆哮が生む衝撃の中、揺れるものは天禪の前髪だけだ。
は、は――乾いたちいさな笑みが天禪の唇から零れ落ちた。呆れた意味での笑いでもあれば、面白いと一瞬期待してしまった己を嘲笑した意味もある。その気合を浴びるだけでも、相手の度量を測るには充分だ。巨鬼が丸太のような腕を振り上げ、天禪めがけて拳を繰り出す。身の丈二丈の鬼の前では、頑健な偉丈夫たる天禪の体躯も霞んで見える。
否!
霞むものか。
天禪は笑みを浮かべたまま、左の手を隠しに突っ込んだまま、ただの右手で鬼の拳を受け止めた。
「ぬるいぞ。ふざけているのか!」
拳を受け止めていた手の指を結び、
ぱ・ちん!
その指を弾くだけで、鬼の拳が吹き飛んだ。
「俺は忙しいのだ!」
今や、宵に光るのは、鬼の身体に浮かび上がった梵字だけではなかった。天禪の金の瞳が、煌々と光り輝いている。残像を引くほどに、強く。
すう、と彼は息を吸い込んだ。
そして、
咆哮!
スーツの襟を正すいとまさえあった。
ひらりひらりと宙を舞う、破れかけた札。
天禪の手が、難なくそれをつかまえた。
「どうれ、会いに行ってやるとしよう」
軽く呟いてから、ん、と彼は眉をひそめた。掴んだ札が未だに孕む波動が読めたのだ。彼にとっては、何もかもが容易いことであった――札をつくりだし、その札を用いて鬼を作った者が、いま何処に居るかを知るのも、容易だ。己の命を付け狙う者が、今どういった心境にあるかも手に取るようにわかる。
死ね、天禪……荒祇天禪……死ぬがいい。我が術によって、消え去るがいい。
死ね……死ね、死ね……。
黒い囁きは、ぐずぐずと燃えてしまった。天禪は何もしていない。彼の鼓膜には、いつまでもその囁きが残った。
「魂か……」
式神に、己の魂のかけらを使っていたらしい。恐るべき執念。感服に値する心意気。
ふん、と天禪は前を睨み、歩き続ける。後方では、ようやく警察が駆けつけ、爆発炎上した高級車の事故処理を始めていた。
天禪の姿が、警察の目に留まることはなかった。彼は影と夜の中に姿を沈め、すでにハイウェイには存在しなかったからである。
「おまえの心は、しかと受け取った」
稲荷神社の裏手、古い社の中に、男は座っていた。
社の封印を開き、荒祇天禪は、座禅を組む男に低い言葉を投げかける。返事はない。少なくとも、言の葉による返答はなかった。
男の頭上に、影のような力の塊は、突如あらわれた。すでにその力の姿は、人間のかたちを留めてはいない。するどく硬い牙と爪を持つ、鬼と化していた。
今は鬼であるこの男が、何の因果で、荒祇天禪の命を狙うようになったのか。何ゆえ、鬼と化してしまうほど、その想いは強かったのか。天禪ならば知ることは出来た。男は座禅を組んだまま死んでいたが、物言わぬ死体とは、人間も死体を軽く見るものよ。死体ほど饒舌なものはない。
しかし、天禪は、あえて知る気も起きなかった。ただ、この即身仏じみた男を滅ぼさぬ限り、自分は式神に狙われ続けるのだ。一度目は禽、二度目は大神、三度目は熊、四度目は鬼であった。五度目に何が来るか――考えるだけでも面倒だ。
「来い。俺は退屈していたところだ」
天禪は真顔で、右手をかざす。
しかし、その左手は、隠しに突っ込まれたままだった。
魂の牙が、天禪に食らいつこうとした。天禪はただの平手でその牙を33本へし折った。黒と灰の歯が、闘いを見守る杉たちの幹に突き刺さり、消えていく。魂は怯むこともない。天禪よ滅びよと囁きながら、黒々とした爪を振るった。
左!
天禪はさっと左手を隠しから抜き、がつん、と爪を受け止めた。スーツの袖は破れたが、彼の浅黒い肌には、一筋のかすり傷さえついてはいない。
「甘い! 鬼の爪撃とはこう云うものだ!」
咆哮、
一閃!
天禪の右手が、魂もろとも男を引き裂き、社をも切り裂き、風すら割れた。杉の葉は飛び散り、梟が飛び立つ。
あとには、丑三つ時の静寂がもどってきた。
「稲荷。迷惑をかけたな」
小さな稲荷神社の本殿に声をかけ、天禪は行く。ぱ、ぱとスーツの汚れを叩き落しつつ。そうして、左の袖が大きく引き裂けていたことにようやく気づき、困った顔で袖を見た。
――ああ、くそ。三日まえに新調したばかりだぞ。
しかしながら困り顔はすぐに、笑みに変わる。
「俺を嘆かせたか! 褒めてやる。これで、地獄の閻魔も大目に見るだろうな」
は、は、は――
乾いた小さな笑いが、杉の森に飲みこまれていった。影と夜の中に消える彼の後ろ姿をじっと見守るのは、一対の狐であった。
<了>
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