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<東京怪談ノベル(シングル)>


我が腕のうちにて目覚めよ


 レイシュナの領域というものは、何処にでもある。何処からでも立ち入ることが出来る。
 その日は原宿の陰にあったが、翌日にはチベットの山中にあるかもしれない。一昨日は北海道は札幌の、雪にうずもれそうな界隈にあった。
 原宿の陰に在ろうが、チベットの高原の只中にあろうが、『灰色の魔女』の姿は不変のもの。不変であり、普遍であるのは、レイシュナと云う占術師だ。そして、彼女がすべてを司る『領域』は、黒のベルベットに囲まれた占い部屋というかたちを持っている。
 レイシュナは来る者を拒まず、去る者を追いはしない。彼女はベルベットの中、漆黒の衣服に身を包み、今日もまぶたを閉じている。行き交う若者たちを微笑みとともに閉じたまなこでみつめ、ベルベットの部屋を不思議そうに覗きこむ者があれば、そっと小さく囁いた。
「いらっしゃいませ」
 その声は、囁き声であるにも関わらず、雑踏を切り裂いて、部屋を覗いた者の鼓膜をくすぐった。

 ――来るのですね。どうぞ、いらっしゃい。わたくしには、あなたがちゃんと見えている。安心して下さい。あなたのすべては、見えている。わたくしにまみえることで、あなたは識ることになるでしょう。

 そして、レイシュナのベルベットの部屋に、恐る恐る入ってきたのは、ひとりの少女だった。


「いらっしゃいませ」
 言うなれば『あやしげ』である、レイシュナの風貌。灰色の肌、閉ざされたまぶた、頭髪のない頭、黒の外套――すべてが怪しく、また、神秘的だ。水晶玉を前にして座っている彼女。穏やかな微笑みには、裏も表もない。
「どうぞ、おかけになってください」
 レイシュナは目を閉じたまま、水晶玉の向こうにある――己の向かい側にある椅子を示した。彼女の灰いろの腕は、臙脂色の長手袋に隠されているようだった。
 戸惑う少女も、半ばその椅子に座らざるを得なくなっていた。椅子は、たまらなく座り心地のいいものだった。部屋のどこからか、何ものかが運んできたかのように、かすかに香る香がある。
「識りたいことがございますね?」
 レイシュナは問う。
 制服の少女は固唾を呑んで、黙りこんだ。黙ってはいたが、頷いている。
 レイシュナは答えた。
「あなたの背後におられるのは、あなたに想いを寄せている方です」
「……!!」

 原宿を行く制服の少女。髪を染めてもいないし、スカートの丈も学校が定めた『標準』だ。携帯電話こそ持っていても、月々の電話料金で母親に怒られることはない。彼女は真面目で、成績も良かった。
 しかし、彼女の一日には、必ず影がつきまとう。誰にも見えず、誰にも知られることのない影は、いかなる住職や霊媒師にさえ見えず、彼女の視界だけに存在していた。影は明らかに男の姿を持っていた。しかし、顔かたちはようとして知れぬ。知っているようで知らない、もどかしいデジャ=ヴュばかりが、影を見つめる彼女を襲う。彼女は、どういうわけか影が恐ろしくてたまらなかった。
 影は、彼女に幸運をもたらすというのに。
 幸運だ。
 背後にぴったりと張り付く影を振り切ろうとして、急に駆け出したことがある。2秒後、彼女が歩いていた道に、大型のオートバイが突っ込んできて転倒した。
 本棚の整理をしているときに、影の存在にふと気がついた。いそいそと整理を済ませて部屋を出た途端、震度5ちかくの地震が起きて、本棚に詰め込んでいた百貨事典が残らず落ちた。
 ラッシュアワーの地下鉄で、彼女は痴漢に遭った。触られていることに気がついた彼女は、どこからいやらしい手が伸びているのかもわからないまま振り返り、影の男の顔を見た。思わず彼女は悲鳴を上げた――すぐ近くに顔はあるのに、やはり、顔立ちは漆黒の中に溶けていたのだ。影は気がつけば消え失せていて、彼女の視線はどこにでもいそうな中年の目とかち合っていた。その中年こそが痴漢であり、彼は周りにいた正義漢たちに取り押さえられ、次の駅で警察に突き出された。
 影が気になるとき、彼女はそうして救われてきた。何も語らず、表情もない男は、彼女にしか見えていない。彼女は、彼女を救い続ける影が恐ろしくてたまらないのだ。どう足掻いても、彼女は影を振り切れる自信がなかった。
 影は彼女の『世界』に存在している。


「そう――世界とは、自分だけのもの。たとえ家族であっても、自分と同じ世界を見つめているかどうかはわからない。自分が見て、存在している世界が、世界だという証拠はない。わたくしはしかし、あなたの世界を見ることが出来ます。あなたの世界には、あなたを護ろうとしている男性がいるのです」
「でも――でも、怖いんです。一体、誰なんですか……?」
「答えを知ったとき、あなたは世界の崩壊を望むでしょう」
「どうして?」
「あなたが認めたくはない真実であるからです。――識りたいのですか?」

「あなたのお父様です」


 少女の世界が崩れようとしている。
 少女に想いを寄せる男。
 少女の躰に口付けをした。
 忘れていた記憶が水晶玉の中にあった。いまはもう離れて暮らしている影の男の本体は、幼い少女の写真を手放さず、今このときも、垢じみた手で写真を撫でている。
 おまえを愛しているのだ。
 おまえのことが心配だ。
 おまえは父さんを愛してくれているだろうか。
 愛してくれているはずだ。いつも愛し合っていたじゃないか。

「アー! あー! アァー!!」


 泣き叫ぼうとも、狂い悶えようとも、声はベルベットの部屋から漏れることはない。レイシュナはスと立ち上がり、錯乱する少女の肩に手を置いた。
「あなたが望めば、わたくしは、あなたの世界を破壊致しましょう。あなたが見ているその世界を――」
 閉ざされていたレイシュナの目が開かれる。
 紅い紅い目だ。その灰の肌にも、あやしく、神秘的な、紅い文様が走り始めていた。
 ――

「そう、望むのですね」

 レイシュナは手袋を外した。右手は、漆黒であった。しかし、彼女の背後に取りつく影とはちがう。レイシュナの黒の右手の中では、まるで星がまたたいているかのようだ。
 レイシュナのその手が、少女の頭に乗せられた。
「もうひとつ、望まれてもかまいませんよ」
 彼女は優しく微笑んだ。
「たとえば、あなたの視界に在るべき、あなたの世界であるとか――」

 ずあっ、と少女の背後から影が消えた。いや、崩れ去ったのだ。彼女もろとも、世界は崩れ、レイシュナは虚無の中に立っている。
 レイシュナは黒の右手をひるがえすと、左手の長手袋をも剥ぎ取った。現れたのは、白の左手。

「そう、望まれるのですね」

「あなたの世界は……再び存在するべき世界は――いいえ、説明をいただく必要はありません。わたくしには見えるのです。世界はわたくしの意のもとに再構築される。あなたはわたくし。わたくしの意のままの世界こそが、あなたの世界。
 あなたは、あなたが救うのです」


 少女は白い世界から飛び出した。ベルベットの部屋の外は、原宿ではない。
 彼女の白い家のまえだった。
「ただいま!」
「おかえり。今日はね、おとうさんが早く帰ってきたのよ」
「ほんとに? めずらしい!」
 玄関先で彼女を出迎えるのは、なめらかな毛並みのミニチュア・ダックス、おめかしをした母、トイレから出てきたばかりの父。
「せっかくだし、どっか食べに行こうよ」
「そうね、お給料も入ったもの。ね、おとうさん」
「ん? ああ。ああ、そうだな、肉がいいなあ」

 ベルベットの向こう側から、レイシュナは、繁華街に向かうステーションワゴンを見送った。微笑みながら――小さな安堵の溜息をつきながら。
 そして、彼女は水晶玉を前にする。
 次の客は、あと33秒後にやってくる。
 彼女には見えるのだった。




<了>