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どうぞ、お静かに
スイが寄宿している雪森邸は、今どきの東京では珍しい、広い敷地の日本家屋であった。
この広い屋敷に、大学生がひとりと居候がひとり、暮らしているだけなのである。
さて、それは真夜中は過ぎれどまだ日は昇らぬ時刻。冬の未明はしんしんと底冷えに包まれ、雪森邸の庭石も老い松も、じっと藍色の闇の中で眠りについているばかり。
その庭の砂利を――抜き足差し足で踏みつつ、忍び居る人影があった。
家人は……眠りこけているに相違ない。客人は……こんな時刻には訪ねてはくるまい。それでは通りすがり……が、人の家の庭を通ろうか。では、答はひとつ――
泥棒だ!
雪森邸は、セキュリティ会社とは契約していなかったようだ。
それをいいことに、夜盗と思しき男は窓のひとつに近付く。塀に囲まれた敷地内のこと、誰に見とがめられるでもなく、賊は手早く窓ガラスにビニルテープのようなものを貼ると、携帯していた小さなハンマーでこつん、と一叩き。ガラスは難なく割れたが、テープのおかげで音もしなければ飛び散りもしない。開いた穴から指を差し入れ、クレセント錠が開けられて、窓はいともたやすくその侵入者の前に開かれるのであった。
すっ、と、襖が開けられる。
男は暗い部屋の中に、するりと滑り込んだ。部屋には立派な和箪笥がある。男はそれに近付くと、抽き出しに手を掛けて――
「!!」
一番下の抽き出しから、しかし、飛び出してきたのは何本もの、鋭く尖った竹槍だ!
それはすんでのところで男の顎をかすめる。彼はのけぞって、倒れかかりながら、その喉からは驚愕の悲鳴が…………漏れ、なかった。
誰かの手が彼の口をぴったりとふさいでいたからである。
「…………」
背後をとられたことに、まったく気づいていなかった。
背の高い――浴衣を着た細身の青年と知れた。いや、実を云うと青年ではなく、女性だったが、男はそうと気づかなかったのだ。
彼――いや彼女、雪森邸の食客、スイである――は、しーっ、と、人さし指を口にあてた。
「静かに」
男は、こくこくと頷いた。それからやっと、解放される。
「どちらさまかな」
スイは訊ねた。こんな未明に、家の中に見知らぬ男がいてどちらさまも何もないものだが、彼女は真顔だった。
「ち、畜生」
男は居直って、スイに向ってハンマーを振るった。窓ガラスを割るのに使ったやつだ。それが今、凶器としてスイを狙った。
「む!」
するり、と、柳の枝のように、彼女はその攻撃をかわす。賊は、さらに間合いを詰めて、第二撃を放った。それもまた、スイには届かなかったが――
「あ」
彼女は、棚の花瓶が、ハンマーの軌道上にあるのを見た。
このままでは、花瓶が割られてしまう。するとガチャンと大きな音がして、家主が目を覚ましてしまうかもしれない。この男のわずかな気配を鋭敏に察知して起き出してきたスイとは違い、家主である青年は今頃夢の中であろう。いつも、いくつ目覚ましをかけてもそれらをことごとく自分で止めては、後で「なんで起こしてくれなかったんだよ!」と当り散らしてくる男。最初の頃は、それでいちいち朝っぱらから喧嘩になるのが雪森家の風物詩であったが、スイは、彼女にとっては異世界であるこの現代日本の暮らしになじむのと同時に、家主とうまく折り合いをつける方法も学んでいったのだった。
すなわち、寝起きの彼にはかかわらないこと。
そして、できるだけ彼の夜の眠りを妨げないこと、だ。
(いかん!)
――と、ここまでのとっさの思考と決断に要した時間はわずかに0.3秒!
スイは、いちどはよけた身体をそのまま引き戻し、身をもって花瓶を守った。
ガツン!
ハンマーがしたたかに側頭部を打つ。
「ぬ……ッ」
さすがのスイも直撃をくらって、その半身が傾いだ。その肩が棚を押し――結局、花瓶が倒れて棚から落ちるではないか。
「くっ!」
スイが、畳にダイブして、それをキャッチする。間一髪、彼女は花瓶を受け止めた。だがそこへ、賊の、とどめの攻撃が振り降ろされる。
スイは床に寝そべったような姿勢であったが、そこから足払いを繰り出した。男は足元をすくわれて転倒する。これで体勢は互角――になったはいいが、男の手からすっぽぬけたハンマーが宙を舞った! 床の間の壺をめがけて!
「!!」
その体勢から、信じ難いほどの素早さでスイは跳んだ。飛ぶハンマーをゲット! 半回転して、猫のように畳に着地をきめる。
「くそうっ」
男は逃げ出そうとしていた。だが、男が行こうとする廊下の先には家主の部屋がある。
「廊下を走――」
廊下を走るな!と言いかけて、スイ自身、大声を慎んで口をつぐんだ。そのかわりに、無言でダッシュ。男の背中に追い縋ると、そのまま反対方向へと背負い投げる。
だが、なんということだ、投げ飛ばされた男の行手には縁側のガラス戸! このままでは盛大な音を立てて、男がガラス戸を突き破るだろう。
「ふんっ!」
今度はさすがに追いつけない。そのかわりに、スイはありったけの力で、そのガラス戸を引き開けた!
開いたところから、無事、男は庭へと放り出される。だが、まだ罠が! ちょうど庭には鯉の泳ぐ池があった!
「…………!」
スイの声なき声に応えて、風が疾走(はし)った。
風の精霊力が男を目に見えぬクッションに受け止め、やわらかい土の地面へと降ろす。
スイはぱっ、と庭に飛び降り、男の傍へと駆け寄った。
ほとんど目を回しかけていた男は、迫るスイから逃げようとあわてて後ずさるが、それより早く、スイの手が彼をとらえ――
「ひっ!」
喉を鳴らした男に、スイは鋭い眼光を突き刺し、ぐい、と襟元を掴んで引き寄せると……
「静かにしてくれ」
と、囁くような声で言った。
「…………」
がくがくと、男は頷いた。
そして、できるだけ音を立てないようにしながら……それでも脱兎のごとく退散してゆくのだった。
ぽかん、とそれを見送るスイだったが。
「あ! いかん!」
男が今、足にひっかけたのは。
雪森邸には随所に、彼女が仕掛けた罠がある。それが、この家がセキュリティ会社と契約する必要がない理由だった。さきほどの、和箪笥の竹槍もそうだ。他にも落とし穴やら吊り天井やらどんでん返しやら、さながら忍者屋敷なのである。
今、男がひっかかったのもその罠のひとつであり、本来ならば忍び込んでくる段でひっかかってしかるべきものであったが、幸か不幸か「行き」はすり抜け、「帰り」に踏んだ。
それは庭中に、ひそかにしかけられた鳴子が鳴り響いて、家人に曲者の存在を告げる、この状況ではもっとも困った代物だった。
スイが、そんな罠にするんじゃなかった、と思いながら――ここまでの思考と決断、およそ0.2秒!
精霊にだけ聞こえる命令が迸り、風の精霊たちは大挙して空気のふるえを止め、鳴りだした鳴子の音は遮られた。
のみならず、一切の音が雪森邸の庭から消え失せたのだ。
「それで…………」
スイは彼女なりのゼスチャーと、口パクで、男に問い掛けた。
「……きみはいったい誰だ?」
そのスイの身ぶり手ぶりが通じたのかどうか。
「……! ……!」
男がなにかわめいているようだったが、その声も音にならない。
外気の寒さが夜着の身にしみる。ぶるる、と身震いがひとつ。
「あ」
彼女はぽん、と手を打った。
「泥棒か!」
ごう、と、渦を巻き、声なき唸りをあげる風の精霊。
音の消えた庭先で、未明の捕り物だ。
逃げる男をスイが追う。鯉の池の水が、氷の矢と化して男を直撃。およそ3分後には、夜盗は砂利の上にねじふせられることになる。
ふう、と息をつき、汗を拭ったスイ。
そのころ家主は、蒲団の中で夢を見ていたことだろう。
(了)
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