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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


幸福と不幸の天秤


【T】


 ざわめく編集部内がドアの開く音一つでしんと静まり返る。視線を独占し、沈黙を呼び寄せた当の本人である九音奈津姫は動じることもせずに艶やかに笑った。それを合図に沈黙が去れば囁き声がそこかしこから響き、それぞれに目の前に立つ奈津姫の存在が現実なのかどうかを問いただしあっている。けれど総ては奈津姫の予想範囲内のことだ。容姿のみならず、自分の名前がそこかしこに知れ渡っていることは承知の上。こうした反応にもいつからか慣れてしまった。
 だからそれらを当然のものとして受け止め、奈津姫は碇麗香の前へと歩を進める。デスクに近づくと、麗香の前に立っていたどこかはっきりとしないぼんやりとした男がそそくさと場を空けた。
「こんにちは」
「丁度良いところに来てくれたわ」
 何気なく挨拶をした奈津姫に麗香もまた何気なく応える。それはまさに目の前に立つ人物の華やかな経歴など気にも留めていないといった様子だ。
「この調査、引き受けてもらえるかしら?」
 云ってもモニタを奈津姫の正面に向けると、答えを待つかのようにしてまっすぐな視線を向けてくる。
「何も独りで、とは云わないわ。そこのさんしたくんで良ければいくらでもこき使ってもらってかまわないんだけど……どうかしら?」
 麗香が云うと奈津姫に場所を明け渡し、少し後ろに立ったまま挙動不審な体を見せていた男が明らかに動揺する。奈津姫はこれがきっとさんしたくんとやらなんだろうと思いつつ、モニタに視線を向けた。モニタに映し出される文字は短い文章で綴っている。簡素なメールの文面だ。素っ気無いくらいに短い文章で綴られたそれは、人の痛みや辛さなどを消し去り、その代わりに幸福を与えてくれる女性がいるということを伝えている。
「幸福を与えてくれる……ね」
 緩慢な仕草で腕を組んで、思案するような風を装い奈津姫が呟く。
「あなたに幸福を定義することができる?」
 しばしの間を置いて奈津姫が問う。すると問われた麗香はまさかということを告げるように大袈裟に頸を振った。
「お引き受けするわ」
 麗香の答えに満足したのだとでもいうようにして奈津姫が答えると、明るい笑顔が形作られた。
「邪魔にならないのならそこにいるさんしたくんを連れて行って。危険なことになったら盾くらいにはなると思うから。女優さんを傷物にしたりしたら、それこそ大変でしょう?」
 笑って云う麗香の視線をなぞるようにして奈津姫はそこに立つ三下を視界に捉え、よろしくと告げるように満面の笑みを浮かべた。
「よ、よろしくお願いします……」
 動揺したまましどろもどろに云う三下を内心面白がりながら、奈津姫が編集部を後にしようかと思った刹那、再び辺りが不可思議な沈黙に落ちる気配する。自ずとドアのほうへと視線が動く。
 そこには流れるような銀の髪を持つ、高貴な気配を当然のように身にまとった細身の男が立っていた。


【U】


 その日、セレスティ・カーニンガムの頭を埋めていたのはインターネットで見た情報だった。掲示板に無作為に書き込まれる広告のようなものであったが、それだけではないような気配がする文面だった。決して長いものではない。けれど確実に人の心を掴む言葉を選んで書かれたものであることがわかる文章だった。痛みや辛さを消す。その代わりに幸福を与える。文章はそういったことを伝えていた。もし本当だとしたらなんて魅力的なことだろうか。
 しかし果たしてそれが本当の幸福だと云えるのかと、セレスティは思う。痛みや辛さを消すということは、喜怒哀楽のバランスを崩すことにも繋がる気がする。喜びと楽しさだけが総てなら、それはそれで幸福なことかもしれない。だからといって怒りや哀しみが一切不要なものであるとは思えなかった。
「君に幸福を定義することができますか?」
 車の窓の向こうを過ぎていく景色を眺めるでもなく眺めながら、セレスティはハンドルを握る運転手に問う。
「個人のものでしたら……しかし、総てに共通する幸福というもの一つを定義することはできません」
「人それぞれだということですか?」
「はい」
 答えはセレスティを納得させるには十分だった。幸福というものは定義することができない。そしてそれは決して変わらないものではないのだ。時に痛みや辛ささえも幸福として感じる者がいる。そうした者にしてみれば、痛みや辛さを奪われることが不幸になる。極論かもしれない。思いながらセレスティは、これから向かう先に何かこの疑問を解決するものがあってくれはしないかと思っていた。
 向かう先。それはオカルト雑誌のなかではある程度名の知れた月刊アトラスという雑誌を発行している編集部である。特別な用事があるわけではなかったが、思い立って赴けば何かしらの調査に立ち会うことができる場所だ。もし偶然が作用するようなことがあるのなら、この疑問を解決するための何かしらの情報がありはしないだろうか。そう思った時には既に、セレスティの意思は固まっていた。
 喜怒哀楽があるからこそ人は喜びをそれ以上のものとして受け入れて生きていく。痛みや辛さを喜びや楽しさで包み込むことで自分のものとして許容して人は生きていくのだ。それを外部から取り払うことで一体どんな幸福が手に入れることができるというのだろうか。自身が過ごしてきた長き時間を振り返りながら、セレスティはその幸福は少なからず偽りだと思った。痛みや辛さも総ては自分自身のもの。それを外部から何者かの手によって取り払われてしまうことは、まるで自らの手で人生を捨て去ろうとしているかのようだ。たとえ自らが望んだことだといえども、果たしてそれで本当に幸福になれるのだろうか。痛みや辛さを失うことで生じる不幸というのもきっとある筈だ。
 そう思ったところで目的地への到着を告げる運転手の声が響いた。


【V】


 場所は車中。明らかに外を行く車種とはレベルが違うと思いながら、奈津姫は傍らに腰を落ち着けたセレスティの横顔にちらりと視線を向ける。本当によく整った顔立ちをしていると思う。しかも驕ることなく、雰囲気に滲む慎ましやかさは好感の持てるものだった。
 編集部に訪れたセレスティに奈津姫が挨拶をすると、動揺する気配を見せることもなく柔らかな言葉で挨拶を返してくれた。セレスティ・カーニンガム。綺麗な男だと思った。しかしセレスティは明らかに人目を引く奈津姫に見向きもせずに、麗香に向かってやはり柔らかな言葉で話しかけた。その口から紡がれた言葉は奈津姫が調査を引き受けたものによく似た事象を描き、思わず口を挟んでいた。
「それって私がこれから調査に向かおうとしているところじゃないかしら?」
 その言葉を合図に麗香が深く頷く。モニタに映し出されるメールを見ていたセレスティもまた、顔を上げて静かに頷いた。
「このメールの文面と同じ書き込みを目にして気にかかっていたのです」
 奈津姫と麗香の二人に平等に視線を向けてセレスティは云った。
「それなら丁度いいわ。二人で行ってきてもらえる?さんしたくんと二人だけっていうのも心配だし」
「ご同行させて頂けるのなら、喜んで」
 そして二人は三下を付き人に、麗香から女性の居場所を記したメモを受け取りアトラス編集部を後にしたのだった。車を出してくれるといったセレスティに甘えて、三下を助手席に押し込み後部座席のセレスティの隣に落ち着いた奈津姫はさりげなく問う。
「痛みや辛さを忘れてまで幸せになりたいと思う?」
「どうでしょう……。今はまだ忘れてしまいたいほどの痛みや辛さを知りませんから、そうは思いませんがもし今そういったものを抱えていたとしたらわかりません」
 正直な答えだと奈津姫は思う。人は弱い生き物だ。逃げ出してしまいたいものがないわけがない。
「けれど……」
 セレスティが言葉を続ける。
「これから向かう先で行われていることで本当に幸せになれるとも思えませんから、結局は忘れてしまいたいと思いながらも抱えていくのではないかと思います」
「そうよね。大体怪しすぎるのよ。あなたを幸福にします、なんて云われても信用ならないわ」
「確かに。―――しかし、そうしたものに縋らなければならないほど現状に耐えられない方もいらっしゃるということですよ」
 云うセレスティに奈津姫ははたと気付く。
「それって経験よね?」
 質問の意味がわからないという風に視線を向けるセレスティに奈津姫は思考に浮かんだ言葉を一つ一つ丁寧に整理しながら声にする。
「あなたが今、現状に耐えられない人もいるって云えたのは他人の立場に立つことができたからでしょ?自分はそうではなくても、他の誰かはそうかもしれないってそう考えたからよね?」
「えぇ」
「だったらそれは他人の立場に立つことをしなければならない経験をしたからよ。痛みも何も知らないで幸福になった人間はそんなことできやしないわ。自分が厭な思いをした。でもそれを克服して今は幸せだから、自分が経験したような不幸は経験させたくない。そういうことはきっと痛みを知らなければできないことよ」
 奈津姫の言葉にセレスティは納得したとでもいう風に笑った。
「痛みと向き合うこともせずに幸福になった方からは周囲への気遣いが欠落してしまうとおっしゃりたいのですね」
「そうよ」
「私もそう思います。痛みや辛さだとしても、それは紛れも無い自分の人生において大切な一部ですから……。できることなら、消し去ってしまったものをご本人へと返して頂きたいと思っています」
 不意に車中に沈黙が落ちた。三下はかしこまったまま助手席で躰を小さくしている。慣れない車に慣れない人物の付き添いなのだから仕方の無いことかもしれない。仕事だといえどもその一言では割り切れない緊張に三下の表情は硬かった。
「ねぇ、あなた」
 そんな三下に不意に奈津姫が声をかける。反射的に三下が降り返ると、身を乗り出してきた奈津姫の視線と正面からぶつかるような格好になって慌てて視線を逸らす羽目になった。
「幸せになりたい?」
 唐突な問いにたじろぎながらも、三下は答える。
「……それなりには、幸せになりたいと思ってますが……」
「それじゃあ決まりね」
 軽やかに云う奈津姫に、何がですか、とセレスティの問い。
「お客になってもらうの。私たちは付き添いってことにすればいいわ」
「何もそんなことをしなくても……」
 ぼやくように三下が云う。それを奈津姫がさらりと一刀両断した。
「いい具合に不幸そうな顔をしてるんだもの。折角だから幸せにしてもらったらいいんじゃない?それに不幸そうに見えない人間が行って断られたらどうするの?」
 揶揄うようにして云う奈津姫に三下はあからさまに厭そうな顔をした。けれどその迫力に負けて云い返すことができない。救いを求めるようにセレスティに視線を投げかけたりもしたが、彼も奈津姫の案に賛成しているようで助けてくれる気配はなかった。
 反論を諦め、正面に向き直り溜息交じりに俯く三下を他所に運転手だけは静かに自分の職務をまっとうするべく、人の痛みや辛さなどを消し去り、その代わりに幸福を与えてくれる女性がいるというビルへと車を走らせていた。


【W】


 そのビルは占いの店が軒を連ねる路地の片隅に建っていた。外観は決して豪華ではなく、目立った大きな看板などが出ているわけでもない。セレスティはそれを前に、きっと口コミで広がったのだろうと思った。
「ここの二階ね」
 麗香から受け取ったメモを手に奈津姫が云う。三下はその隣で小さくなっていた。いい具合に不幸そうだと云われたのが影響しているのか、その表情はますます不幸そうに見えた。
「行きましょう」
 云って颯爽と歩き出す奈津姫に倣って、セレスティはステッキを操り歩を進める。三下も渋々後に続いた。
 内部はテナントビルらしい簡素さで、エレベータも大人五人が乗ればいっぱいといった小さなものだった。入っているテナントの名前が入った階数板に目的地の名前を認め、三人は二階へと昇る。エレベータの箱は瞬く間に三人を二階へと運び、ドアが開くと同時に視界に飛び込んできた光景に自分のことで手一杯になっている三下を除く二人は現実のマイナスの部分を正面から受け止めてしまったような重圧を感じた。
 長い人の列。それは廊下の突端にあるドアの前まで続き、誰もが皆示し合わせたように全身に憂鬱を貼り付けていた。こんなに多くの人が幸福を手に入れたいと望むのか。自ずと生まれる疑問に、奈津姫とセレスティは無意識のうちに視線を合わせていた。
「現実って……逃げ出すためにあるのかしら」
「違うと、そう思いたかったのですが……」
 言葉を交わす二人の視線の先で不意にドアが開く。憑き物が落ちたように晴れやかな笑顔をした女性が深々と頭を下げている。その姿は長蛇の列を築く人々のそれとは明らかに違って、悩みの総てを置き去りにしてきたような清々しさが香る。軽やかな足取りでこちらへ向かってくる女性に奈津姫が不意に声をかけた。
「それで幸せなの?」
 唐突な問いに女性は脚を止め、奈津姫に満面の笑みを向ける。
「それで幸せも何もないですよ。きっと私は世界で一番の幸せ者ですから」
 云ってエレベータに向かう女性を見送ることもなく、咄嗟に前に進もうとする奈津姫の肩をセレスティが掴む。振り返り怒鳴りつけそうになる自分を見つけ、奈津姫は一つ溜息をついた。
「……騒ぎを起こすのは得策じゃないわよね。ごめんなさい」
「いいえ」
 短い言葉の後、半ば会話に置き去り気味の三下を伴い二人は列の最後尾に並んだ。
「あのような幸福は間違いだと思われたのでしょう?」
 緩慢に進む列の一部になってセレスティが奈津姫に問う。
「えぇ。あの女性の目はどこか中毒者みたいに見えたわ」
「きっと楽をすることを覚えて何度もここへ脚を運ぶようになってしまった方なのでしょう。楽をすることを覚えれば、苦労などしたくはなくなるのが人の常でしょうから」
 溜息交じりにセレスティが云ったのを最後に会話は途切れた。
 それからどれだけの時間、憂鬱がひしめく列のなかにいたのかはわからない。晴れやかな笑顔と共に去っていく人々を何人も見送り、そうした人々に羨望の眼差しを向ける人々の背中を見続けた。
 そしてようやく順番がまわってきたのは、窓の外がオレンジ色に染まる頃のことだった。
 渋る三下を前に押し出し、その後ろについてドアをくぐると穏やかな笑みを浮かべた女性が三人を迎える。丁寧な仕草でシンプルながらも高価そうな応接セットに三人を促し、柔らかな声で問うた。
「どんな苦痛を消して差し上げれば宜しいのかしら?」
 作られた声だと奈津姫は思う。鼓膜の表面を逆撫でるようなざらつきが僅かに滲み、妙な冷たさを感じる声だった。本当に柔らかな声というものはセレスティのようなものであって、こんな風に痞えを覚えるものではない筈だ。
 ふと女性の目が奈津姫を正面から捉える。それを合図に奈津姫は能力を発動させた。魅了。男女問わず自分の言うなりにする事が出来るそれで、彼女の真意を聞き出そうと思った。けれど女性は不敵に笑っただけだった。
「私が与える幸福を疑っていらっしゃるのね」
 女性の言葉に両脇を奈津姫とセレスティに固められた三下が動揺する。
「仕様が無いことだわ。本当の幸福は身をもって知らなければ理解できないことですもの」
「残念ながら私たちはそれを望んでここを訪れたわけではありません」
 セレスティの言葉に女性は、わかっているわ、と答える。
「私が興味を持てることは、人が抱く負の感情だけ。あなた方にはそれが感じられないわ。現状に満足している……いえ、それとも諦めているだけかしら?少なくとも九音奈津姫さん、あなたは現況に満足されているでしょうけれどね」
 不意に矛先を向けられた奈津姫はかっとする自分を見つける。けれどここで騒いだところでどうなるわけでもないと自制した。冷静に言葉を選んで音に変える。
「負の感情にしか興味が持てないとはどういうことかしら?」
「そのままよ。私は私を満足させてくれる他人が抱える負の感情にしか興味を持てないの。もちろん有名なあなたにも僅かな興味も抱けないわ。姑息な手段を使わずとも、私が何故このようなことをしているのかと訊ねるおつもりならお話するつもりよ。ただやめるつもりはないということは予め理解して頂きたいわ」
「やめるやめないは君の自由ですから、強引に止めるつもりはありません。けれど今していることが、果たして本当にその人のためになるのでしょうか?」
「わからないわ。興味もない。彼らが自ら望んでここを訪れるだけで、私は何も自発的に宣伝して歩いているわけではないもの」
 セレスティの言葉をさらりと交わして、女性は三下に微笑みかけた。そしてやさしげに問う。
「現状に満足できない葛藤や苦悩を消して差し上げましょう。その代わりに幸福を差し上げます。そう云ったらあなた、どうなさいます?」
「……け、消してもらいたいと……思い、ます」
 三下の言葉に女性は誇らしげに笑う。
「こういうことよ。人が私を必要とする。だから私はその苦悩を消してあげる。そして代わりに幸福を与える。ただそれだけよ。需要と供給のバランスが取れているだけの話。何も悪いことはしていないわ」
「あなたがしていることで、不幸になる人がいると考えたことはないの?」
 奈津姫の問いに女性は冷たく笑った。背筋が凍るようなそれに、三人は女性の素顔を見た気がした。
「だから云ったでしょう。私は人の負の感情にしか興味が持てない、と。人の不幸は私を本当の意味で喜ばせてくれるの。個人の幸福に甘んじて他人の不幸を享受できなくなる。そして孤独の不幸を味あわなければならなくなる。けれどそれに耐えられなければ、またここを訪れるわ。そして悪循環を繰り返すようになる。それこそ私には一番の幸福よ。幸福を噛み締めて不幸になっていくなんて素敵だと思わない?」
「では、君は消し去ってしまった苦悩を返すつもりはないのですね」
 女性の言葉に不快感を覚えながらセレスティが訊ねると、女性は勿論と云って艶やかに笑った。
「あなたにとって幸福はなんなの?」
 苦々しい思いを噛み締めながら云う奈津姫に女性ははっきりとした口調で答えた。
「他人の不幸よ」
 その言葉を合図に奈津姫は部屋を出て行く。その後ろ姿を追うべく立ち上がったセレスティはふと足を止めて、女性に云った。
「不幸を理解できるのであれば、君は誰かの立場に立って考えることができるのだと思います。今していることも一概に悪いことだとは云えないでしょう。刹那の幸福だとしても、その人が幸福になれるという事実は覆りませんから。ただ……度が過ぎてしまいましたね」
 失礼しますと云って、三下を伴い部屋を出ようとするセレスティの背中に声が届く。
「本当の幸せなんてわかったら苦労しなかった……。わからないままここまできて、後戻りできなくなっただけよ」
 ドアノブに手をかけたまま振り返るセレスティに女性が痛々しい笑顔を見せる。
「最初はね、人を幸せにしたかっただけなの。本当よ。でも、今更そんな奇麗事が通じるわけがないでしょう?」
 縋るような声にセレスティは穏やかな、総てを許すような笑みを浮かべて云った。
「私には他人の不幸が本当に君の幸福だとは思えません」
 云い残してドアを潜るセレスティの耳に届いた最後の言葉は、ありがとう、という短い一言だった。


【X】


 部屋を飛び出し、車に戻っていた奈津姫は明らかに不機嫌だった。
 しかしそれは女性に対する苛立ちばかりではないようで、戻ったセレスティに問いかけた言葉がそれを証明する。
「本当の幸福は誰にも与えられないものだわ」
「そうですね……」
 特別な言葉での相槌は無意味だとセレスティは思う。
「彼女だってきっとわからないでいる筈よ。―――でもあんな方法は間違っていると思うの。でも私にはそれを正せない」
「何故でしょう?」
「彼女は他人なんてどうでもいいのよ。どうでもいいと思うようにしたのかもしれないけど……」
 云って自分の能力が通じなかったということの衝撃が思いがけず深かったことを奈津姫は知る。人は少なからず自分以外の人に関心を持つ生き物だ。無関心というものは思いのほか難しい。けれど彼女はそれをやってのけた。人の不幸を蜜に肥太った自己満足は自己愛にまみれて、もう戻ることができないことを奈津姫は目の当たりにしていた。
「言葉は悪いけど、潰してあげるのが一番いいことなのかもしれないわ」
 セレスティは奈津姫の言葉に答えることができない。最良の答えなどどこにもない。けれどもし多くの人のためを思い選ばなければならないとしたら、奈津姫の云うそれが最良の方法であるのかもしれないことだけは確かだった。
「あなたにはそれができるでしょう?」
 云って奈津姫は助手席の三下に視線を向ける。
「えっ……えぇ、まぁ、記事の書き方次第では」
「でも……」
「それが最良の選択ではないことは理解していらっしゃるんですね」
 セレスティが静かに問うと奈津姫は溜息交じりに頷いた。
「彼女が云っていました。最初は人を幸せにしたかっただけだと。でも今更そんな奇麗事は通じないと」
「そう」
 細く息を吐くようにして奈津姫は云って、総てを振り切るように笑った。
「彼女なら、潰れないかもしれないわね」
 云った言葉はまるで自分に云い聞かせているようだとセレスティは思ったが、敢えて何も云わずただ笑ってその言葉を受け止めただけだった。





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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  
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【4994/九音奈津姫/女性/24/女優・歌手 】

【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725/財閥総帥・占い師・水霊使い】



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         ライター通信          
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この度のご参加ありがとうございます。 沓澤佳純です。
美男美女を書かせて頂けてとても楽しかったです。
少しでもこの作品がお気に召して頂ければ幸いです。
また機会がありましたら、どうぞよろしくお願い致します。
この度のご参加、本当にありがとうございました。