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<東京怪談ノベル(シングル)>


母なる慈悲と狂気。



 風はまるで竜の咆哮のように鳴り響き、少女の耳元で荒々しくがなり立てている。
少女はその無遠慮な吼え声に、顔をしかめた。
無論、少女のまだ幼さが残る顔に容赦なくたたき付ける、雨粒のせいであるのかもしれない。
だが少女自身にとってはそのどちらであっても変わりはなく、
心の中では、前を行く祖母を見失わないよう、ただそれだけを強く思っていた。
 その祖母は、少女のことを気にもかけずに、ずんずんと前へ突き進んでいた。
その前方に在るのは、黒々と荒れ狂う海。
海は全てを包み込む母の優しさを持っているが、
同時に容赦なく叱責する母の厳しさをも、その内に秘めている。
本来ならば海を住処としているべき少女にとって、それは十二分に分かっていることであり、
間違いなく今己と祖母の目の前に在る海は、母の怒りが具現化したものだと思っていた。
 無論、泳ぎには過分の自信がある少女とて、こんな猛々しく狂う嵐の夜に、
一層激しく荒れている海には出たくない。
だがどうしても、今この場で必要な薬品の材料があるのだ。
それはこの荒れ狂う海の中にしか存在せず、
だから仕方なく、少女は祖母に連れられて、嵐の海にわざわざ入ろうとしている。
普通の人間から見ると、明らかな自殺行為ではあるが、
少女と祖母には成し遂げることが出来る自信があった。
…少なくとも、祖母のほうには。
 やがて少女の少し前を行く祖母の足が止まり、
ためらいを微塵も見せず黒い海の中に飛び込んだ。
それを察し、少女も慌ててそれに続く。
巨大な波が押し寄せ、少女のまだ幼い身体を飲み込んでいった。

 だが決して溺れたりはしない。
少女の名は浅海・紅珠、れっきとした人魚の末裔なのだから。












 海水を被ると、紅珠の細い二本の足は、忽ち鱗を伴う魚の尾になった。
今は黒い海の中でよく判らないが、昼間の晴れた海の中で見ると、
それは緋色に染まり、時折光に反射して金の粉が舞うように輝くのだ。
 紅珠は自分の尾が好きだった。
自分の名と同じ朱の色も気に入っていたし、
まるで金魚のように優雅にたゆたう様子も、御伽噺の人魚姫のようで。
だが今の状態は、そんな悠長なことを思っていられる状態ではなかった。
先程陸を歩いていたときと同じ、祖母の波を蹴る尾を必死で追いかけながら、
まるで意思を持っているかのように暴れる波を掻き分け進む。
 紅珠は自らの泳ぎに、強い自信を持っていた。
それはある意味、人魚の血を引く彼女ならば当たり前のことであったし、
水の中ならば誰にも負ける気はしなかった。
しかし、紅珠はいずれ気付くことになる。
―…水の中ならば。海の中ならば。
それは総じて、”穏やかな”という前提の上で成り立っていることを。



 紅珠は決して、海を舐めていたわけではない。
むしろ、誰よりも海の凶暴さを理解していた。
だがそれよりも強く、己の尾と、己に流れる血を信じていた。
そして、師匠である祖母がいるならば。
紅珠が海に負けることは無い筈だった。
 だが時に、運命は”そんな筈では”ということをもたらす。
それは紅珠にとっても決して例外ではない。




 それは一体、何時からだったか。
いつの間にか、前を行くはずの祖母の尾が波に隠れて消えていた。
紅珠は思わず目を凝らす。
(…ヤバイ)
 その事実に気付くと、紅珠は思わず顔を青くした。
無論、暗い海の中、それを伺う者は誰一人としていなかったが。
(海流も激しくなってきてる。…わッかんないよ。波が激しすぎて、居場所が掴めない。
俺、今一体何処に居るんだ?)
 紅珠は叫びたい気持ちを抑え、とりあえず波に攫われまいと一層強く波を掻いた。
一旦海流に流されたらお仕舞いだ。
いくら紅珠でも、体勢を立て直すことは出来ない。
(…海が重いよ。何で、こんな、俺の身体に纏わりつく?)
 海は紅珠の味方だった。
いつでも紅珠の背中を押してくれて、彼女の思うとおりに動いた。
…だが今の海は、紅珠をまるで敵と認識したかのように、
重く鈍く、彼女の華奢な身体を押し潰さんにばかりに蠢いている。
 紅珠は何故か哀しくなった。
海の中にいるのに、こんなことは初めてだった。
まるで信じていた人から裏切られたような、そんな感情。
(…やだ)
 誰か、助けて。
 だがそんな紅珠の切ない祈りを聞く者は皆無であり、
また紅珠に容赦なく襲い掛かる海は、紅珠の心の隙を放って置く程、お人好しでもなかった。
 一瞬、紅珠の尾が動きを止めた。
海はそれを待っていたかのように紅珠の身体を飲み込み、渦の中へと招きよせた。
一度巻き込まれたら、二度と動き出すことは叶わない。
紅珠は身体の細胞という細胞が悲鳴を上げているのを聞きながら、
海のように深い闇へと、意識を落としていった。












 青く澄んだ、空の色を移す穏やかな海。
その波は緩やかに砂浜へと被さり、また引いていく。
それは砂浜だけではなく、その上にうつ伏せに倒れている少女へも同様に。

 やがて、さく、という砂を踏む音がし、少女の上に影を作った。
未だ意識を混沌の闇へと落としている少女は、その存在を知らない。

 それが、己にとって、どれだけ大切な存在になるかということすらも。









            End.