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春の宵
上質な絹のすれる音がする。
風が、開放されたままの窓をかすかに揺らし、美しい花の一片を運んできた。
少年は、否、少年神は、窓辺に置かれた椅子の上で、退屈に小さなあくびを一つ。
春の陽光が降り注ぐ。
――――そう、それはまだ、少年神が一人の青年と出会う前の記憶。
□
「蓮生様、蓮生様、詩吟などひとついかがでしょう」
「いいえ、こちらで共に水遊びなどいかがでしょう」
「蓮生様、ほらこちらに、可愛らしいお花の蕾がございます」
少年神は名を冷泉院蓮生という。
陽光を映したような、あるいは豊かに実る稲穂のような、黄金色の髪。
そして静謐を映した夜の水面のような、澱みない黒い瞳。
見目麗しいその若き神は、天の端々にまで、その存在を知らしめている。
蓮生は窓から外に目線を送り、自分の名を呼んでいる天女達に視線を向けると、ついと笑んで小首を傾げた。
「今はしばしまどろみたい気分だ。後ほどおまえ達の元へと行こう」
外貌の若さには、むしろ不釣合いなほどの声音で、彼は天女達に言葉を投げる。
天女達はその言葉に一斉に頷くと、ふわりふわりと宙を舞った。
羽衣が風をうけて穏やかに揺れる。
「それでは蓮生様の眠りを、私共がお護りいたしましょう」
「万が一にも、悪しき夢が御身に訪れませんように」
「私共が、お祈りをこめた舞いを踊りましょう」
上質な絹のすれる音がする。
それは天女達が舞うたびに、さざなみのようにかすかに広がる。
上質な絹を纏う者にふさわしい、上質な微笑を絶やすことなく、彼女達はひらりひらりと宙を舞う。
一枚の画のような技芸を思わせるその光景に、
少年神は、瞼を閉じた。
□
どれほどの時が流れたか。
いや、蓮生が居る天では、時の流れなど小川の流れのようなもの。
ゆうるりと流れる時の下、まどろむ前と何一つ変わらない世界に目をやって、蓮生は小さなため息をこぼす。
――決して、嫌いなわけではない。
むしろ蓮生は天を愛してもいたし、その変わり映えのない風景に、慰められてもいた。
――でも、
睫毛を持ち上げて外を見やると、さきほどの天女達が庭の上で胡弓など爪弾いている。
そして目覚めた蓮生に気がつくと、嬉しそうに微笑んで、その整った顔をあげた。
「蓮生様」
「蓮生様」
「良いお目覚めでございますか、蓮生様」
「お目覚めに一曲奏でてさしあげましょう」
――――でも、胸に広がる一点の感情は、これもまた真実自分の心なのだと、ひっそりとささやく。
蓮生は天女達に応えて笑い、流れ始めた音色に耳を傾けた。
小さなため息は、喉元まで出かかって、飲み下された。
胡弓を奏でていた天女が手を止めた。
そして春日のような笑顔で少年神を見つめる。
「さきほどから、どうされました? 退屈だと、お顔に書いてございますよ」
「…………」
天女の言葉に蓮生は束の間返事につまり、しかしすぐに口を開けた。
「ここのところ、空のあの辺りに、麒麟の姿を見かけるのだよ」
言いながら窓から見える空を指で示す。
天女達もその方角に顔を向け、ひとしきり麒麟の姿を探してから、再び蓮生へと視線を向けた。
「麒麟、でございますか」
「聖人の生誕をお告げになる時に姿を見せる以外、滅多なことでは表に姿を見せませんのに」
「やはり蓮生様は全ての生命に愛されていらっしゃるのですね。麒麟も御身を一目見んと、覗いているのでございましょう」
詠うようにそう言って、天女達はふわりと笑った。
「……そうであるなら、一度この手で触れてみたいものだ」
一人ごちて肩をすくめると、蓮生はふと思い立って天女達に言葉をかけた。
「詩が聴きたい」
「詩、でございますか」
「下界のものがよい」
「下界……下界は今、春に包まれてございますね」
「梅の季節も過ぎ、今は桜が誇っているでしょう」
「それでは春を詠ったものをお聞かせしましょう」
「蘇軾など、いかがですか、蓮生様」
さきほどの天女が、再び胡弓に指をかけた。
□
やがて時はゆったりと流れ、夕になり、空にはぽっかりとした月が姿を現した。
天女が詠った詩は春の宵を詠ったものだったが、その詩の言葉をそのまま投影したような薄闇がそこにある。
蓮生は部屋から庭へと足を踏み出すと、欠けた部分のない月を仰ぎ眺め、目を細ませた。
そしてその月影に、一対の生き物の姿を見出した。
「おまえ達は」
口にしかけて言葉を飲みこむ。
急いで周りに視線を配り、そこに自分以外の者の気配がないことを確かめると、彼はもう一度目の前にいる影に向き直った。
「おまえ達は、空を泳いでいた麒麟か」
蓮生は目の前の麒麟にそう訊ねると、ゆっくりと、しかし嬉しそうに頬を緩めた。
そこには一対の麒麟の姿があった。
体表を龍の鱗で覆われた神獣は、牡と雌であるのだろうか、一対で宙に立っている。
そしてその眼で真っ直ぐに蓮生を眺め、花の芳香のような息を漂わせた。
「おまえ達は、なぜここに来た?」
問うと、麒麟は答えるように首をふるわせる。
それは言葉ではなかったが、蓮生は少し驚いたように目を見張った。
「下界へ、連れていってくれるというのか」
麒麟が再び首をふるわせる。
「しかし、」
それは禁忌だと言いかけて、言葉を飲みこむ。
――――天を、嫌っているわけではないのだ、決して。
むしろ天での時は心地良く思えるし、自分を愛でてくれる天女達や神仙達、動物達や植物のひとつひとつを、彼は真実愛しているのだ。
けれど、一つ。ただ一つ、蓮生の心の内に、一点の感情が沸いていた。
「……おまえ達は、我が望みを感じ取っていたというのか」
声音をひそめ、そう訊ねると、
麒麟はわずかに嘶いた。
□
冷泉院蓮生は天の内でもっとも穢れから遠い位置にある。
それは彼が穢れを寄せつけないためであり、文字通り、穢れを遠ざけられていたためでもある。
その彼に下界を不用意に見せることなど、ゆめあってはならぬこと。
ゆえに、彼は下界に触れる機会に恵まれず、そしてそれがかえって蓮生の心に一片のあこがれをもたらしたのである。
――――下界に触れてみたいと、本当はずっと思っていたんだ。
□
麒麟は滑るように天を渡り、ほどなくして下界へと降り立った。
そこは思っていたよりも(言い聞かされていたよりも)喧騒に満ちてはおらず、空気も思ったほどに汚れてはいなかった。
天とはまったく異なる建造物が立ち並び、夜なのにも関わらず、昼のようにてらてらと眩い光に包まれてはいたが。
麒麟は蓮生を細い道の上に降り立たせると、空気の中にすうと溶け込むように消えていった。
いや、消えたのではない。人の目に映らないようにしただけなのだ。
蓮生は降り立った道を静かに歩み、興味深げに目を輝かせる。
それは静まりかえった道沿いに、広く続く壁の存在に気付いたからだ。
壁に沿って足を進め、時々横を見ては麒麟の存在を確かめる。
ふわりと、花の一片が目の前を過ぎた。
視線を持ち上げると、壁の向こうに一本の木があるのが見えた。
それは夜の闇にもめげることなく、悠然と花を咲かせ、吹く夜風に身を任せて揺れている。
「これは桜だ」
誰にともなく呟いて、満開に誇るその桜を見上げる。
ああ、そういえば、あの天女が、下界では桜が咲き誇っていると言っていたな。
思い出して、空を見上げる。
ひらひらと揺れ、舞う桜の花びらが、視界を横切って流れていった。
しばしの間ひらひらと舞うそれを眺めていたが、やがて壁の向こうに人の気配を感じた蓮生は、麒麟に手を伸ばして息を潜めた。
壁の向こうには大きな屋敷があるようだから、おそらくはそこの主であるのだろう。
これほど見事な枝振りなのだから、夜桜と洒落こんでいるとしても、納得のいく話である。
「――――戻ろう、麒麟。そろそろ天女達が騒ぎ出しているかもしれん」
□
庭に見事な桜を抱え持つ屋敷の主は、たった今しがたまで壁の向こうにあった気配に、ふと眉根を寄せた。
それに気付いて腰を持ち上げたというのに、いざ確かめに来てみれば、まるで霞みのように立ち消えてしまっていたのだから。
「……桜が呼び寄せたか」
主はそう呟いて、大きな嘆息を一つ洩らした。
花びらがひらひらと舞う空を仰ぎ見て、携えてきた杯を一息に飲み干した。
墨をこぼしたような夜空には、ぽっかりと浮いた丸い月がある。
□
それは春の宵が見せた束の間の出会い。
少年神が一人の青年と出会う以前の記憶。
今はただ、とうとうと揺れ、舞う花のように。
―― 了 ――
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