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<東京怪談ノベル(シングル)>


ゆりかご


(あなた、二人目ですって)

(男の子なのか! そうか!)
(ええ。一姫二太郎とはよく言うけれど)

(名前を決めておかないとな)
(あら……上の子のときに、考えたじゃありませんか。あの子は最後までどっちなのかわからなくて)
(ああ、そうだったな。最後まで候補に残ったのは――)
(らんまる。森蘭丸の、蘭丸ですよ)

 それから、呻き声と、悲鳴だ。
 絞めつけられるような苦痛から解放されたとき、彼は大きく息を吸い込んだ。呼吸は自然と声に現れ、歓喜の声と、やさしい声が、彼の産声の合間を縫う。
「蘭丸……」


 京師蘭丸という少年の、最も古い記憶は、幸い幸福なものだった。温かいゆりかごに寝かせられ、心地よい揺さぶりを感じながら、眠り続けていた記憶である。血液の流れと鼓動、そしてかすかに聞こえる外界の会話が、彼の幸福をまもり続けた。
 彼はまだ若い。
 けれど、もっと幼いとき、何気なくその記憶を母親に話したことがあった。母親はひどく困惑したような表情を一瞬浮かべたが、「そう、蘭丸が生まれると知ったときは、それは嬉しかったのですよ」とやさしく返してきたものだ。
 蘭丸の中のありとあらゆる記憶は、決して時間によってすり減らされることもなく、いつまでも脳の中にとどまり続けていた。それが『当たり前』ではないことに彼が気がついたのは、小学校に入ってからのことである。

 ひとは、忘れていくものなのだ。
 いや、何もかもを覚えているはずなのだが、記憶のひとつひとつを脳のどこにしまっておいたか――それを、忘れてしまうのである。
 そのうえ、ひとはひとつの記憶をばらばらに分解してしまっておく。粉々にされた記憶は、二度と完全なかたちに戻ることはなかった。大きな部品が入った引き出しを見出しても、3本のねじの在り処がわからなくなる。
 記憶が見つけだすことが出来なくなってしまったとき、ひとは、「忘れた」とぼやくのだ。

 15歳になったいま、本好きでもある蘭丸の知識は膨大なものになっていた。彼はどこに何の記憶と知識をしまっておいたか、すぐにわかる。彼の脳は、記憶を無駄に分解することもなく、そのままのかたちできちんとしまっておくのだった。
おかげで彼は、すぐに必要な記憶が入っている引き出しを開けることが出来た。鍵を開けて扉を開くことも、底が深い箱をひっくり返すことも、ねじで留められた蓋を開けることも出来た。
 彼は、『忘れる』ことがないのだ。

 ――忘れることが、出来ないんだ。

 記憶を探り出すとき、彼は巨大な倉庫を前にする。引き出し、箱、引き戸のすべてに、彼の文字がしたためたラベルがきっちりと貼られているのだ。倉庫は刻々と姿を変えたが、ラベルは決してはがれることはなかった。
 その倉庫の中を探検するのを、蘭丸は次第に恐れるようになっていた。倉庫は永遠に肥大を続けているようなのだ。そして、彼自身を押しつぶす頃合を、虎視眈々とうかがっているのである。それに気がついてしまったとき、蘭丸は、記憶を恐れ、憎むようになった。
 すべての記憶が悪しきものではないということが、わかっていても。


「京師!」


 体育館の高い天井が、ただでさえ大きい体育教師の声に拍車をかけた。蘭丸は、膝を抱えて大人しく座り、窓の外を眺めていつも通りぼんやりしていたところだ。鬼神の叱咤に、蘭丸は軽く飛び上がった。
「はっ、はい?!」
「『はい?!』じゃないだろう、いまの説明を聞いていたか?! 怪我しても知らんぞ!」
「す、すみません」
「何を見てたんだ? ――女子か!」
「ち、ちがいま……」
 しかし、窓のすぐ向こうはグランドで、いまは女子が100m走のタイムを計っている。この高校の女子の指定体操服は、いまどきブルマーだった。
 蘭丸はべつに女子のブルマーや胸を見つめていたわけではない。倉庫の前に立っていたのだ。それを言い出せるはずもなく、蘭丸は押し黙った。クラスメートが笑っているし、体育教師は不機嫌な顔で腕を組んでいる。
 彼はちょっとした、こんな気恥ずかしささえ忘れることがないのだった。


 あれは、小学4年生の、7月6日のことだった。
 町の七夕祭りに、同じクラスの気になる子と、一緒に行く約束をしたのだ――。
 彼女は待ち合わせの3時半、駅前の大時計の下に現れなかった。彼女は約束を忘れたのか、という可能性を、彼はまだそのときは考えることができなかった。誰もが、何もかもを覚えていて、忘れることなどないと思っていたからだ。彼はずっと待っていた。
祭囃子が聞こえてきても、日が暮れるまで、ずっと。
「ごめん、わすれちゃってたの」
 翌日その子は、あまり悪びれもせずに、蘭丸に言ったのだった。
「わすれるなんて、おかしいです!」
 そのとき彼は、怒鳴りつけたのだ。
 忘れるはずなどあるものか。
 殺した虫の数、猫の死体を見た回数、深爪をした痛みまで忘れることなど出来はしないのに、会う約束を忘れるなどと!
「どうしたら、わすれることができるっていうんですか!」


 倉庫の前に立つと、何の脈略もない記憶が、唐突に押しつけられることがある。歳を経るごとに、迷惑な贈り物は多くなっていく。蘭丸に記憶を押し付けてくる者は、倉庫そのもの。
 ぼんやりした顔の、眼鏡をかけた、彼そのものなのだった。
 手にした瞬間、記憶は蘭丸の脳裏を独占する。ムービーは展開され、音と声がスピーカーから聞こえてくる。思い出したすぐあとに、蘭丸は悲鳴を上げて、記憶を鉄の函の中にぶち込み、錆びた大きな南京錠をかけるのだ。
(けれど)
 そんな蘭丸の背後に立つ蘭丸が、彼の耳元でそうっと囁く。
(僕は幸せなんですよ)


「蘭丸さん!」


 またしても、はっと我に返った蘭丸は、彼にしてはすばやく振り返った。手を振りながら駆けてくる姿は、彼の姉のものであった。蘭丸は微笑み、立ち止まる。
「姉上……今日は、お早いのですね」
「ええ。一緒に帰りましょうか」
「はい」
「――お母さま、昨日からあまりお身体の具合がよろしくないようですわね」
「そうですね……」
「今日は、私が夕餉を用意しましょう。蘭丸さんも手伝って下さる?」
「はい、もちろん」
「スーパーに寄って帰りましょうね」
「はい」
 ぼんやりとした蘭丸も、この姉に対する返事ならてきぱきとしている。
 姉についていく彼は、ふとそのとき、倉庫を横切った。倉庫の前に立っていた彼自身が、さっと桃色の紙切れをばらまいた――。

(らんまるさん……らんまるさん)
(よかった、きがついてもらえましたわ)
(いっしょにかえりましょ。どうしてきょうは、おひとりでかえろうとなさったの? いつもいっしょにかえりましょうって、やくそくしたじゃありませんか……)
(わすれたのですか?)

 あれは3月21日、桃色の花びらが舞い散っていた日。小学一年生の日。ぼんやりしていて先生に叱られ、落ち込んで、ひとりで下校していたのだ。
 彼は、忘れたわけではない。

 姉の背中はいつまでも、彼の目の前と、倉庫の中にある。
 ――僕は幸せです……僕は、わがままなだけなのかもしれません。
 ゆりかごの破れる音と呻き声に耳を塞ぎ、彼は温かい記憶をたぐり寄せながら、姉の後ろをついていく。こんな、何でもない日のことも、彼は決して忘れることがない。
 彼はこれからずっと、「忘れていた」と言い訳することもないのだろう。




<了>