コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


大いなる祖


 こいつをどうにかして殺そう、と彼女は思った。

 いつも鼻の頭に汗の玉を浮かべ、いつも必死で一生懸命な部長は、今日も彼女を怒鳴りつけているのだ。彼の部署にいる女性社員は彼女ただひとり。そして彼女は、新入社員だった。始めたばかりの仕事で不慣れがゆえの不手際はあるが、女は女なりに、真面目にやっているつもりなのである。実際、部長よりも必死だった。
 彼女は、就職活動らしい活動をしなかった――今いるこの大企業ただ一社に、志望先をしぼっていたからだ。なぜこの財閥に惹かれたのか、彼女自身にもよくわからなかった。
 古くから日本の財政界に座する大財閥は、頭のかたい、地味な会社だった。
 自分がなぜここに来たのか――ここで何を成すつもりなのか、彼女にはわからない。若者がひどく少ない社内で、彼女はこれ以下はないくらいの下っ端で、こうして毎日誰かに怒鳴りつけられている。
 廊下に部長の声はわんわんと響きわたっていたが、彼女はうつむいて上の空だった。ただ怒鳴られているだけで、彼女はどんな言葉もまともに聞いてはいないのに――知らず、唇をかんで、ぽろぽろと涙を流していた。

「そのくらいにしておけ」

 不意に、灰色の回廊の向こうから――あるいは地の底からか、低い、冴えた声が響いた。
 怒声をそれきり呑みこみ、部長が振り返る。
「か、会長……」
 彼はそれ以上、言葉を失っていた。怒鳴られていた女は、慌てて目を拭い、顔を上げる。彼女の視界には体格のいい黒服の男数名、青褪めた部長、そして見たこともない大柄な男の姿が飛びこんだ。
 黒服たちは立ったまま微動だにせず、大柄な男だけが、カツコツと革靴の音高らかに歩み、立ち尽くす女に近づいた。彼女の世界は、男の身体で光をさえぎられ、影の中に落ちてしまった。
 しかし……その逆光の闇の中にあってなお、男の金の瞳だけは、光り輝いていたのである。
「見ろ、泣いている」
 彼は言う。そして、女の唇についと指を這わせた。
 彼女は唇にぴりりとした痛みを感じて、思わず顔をしかめた。
「そのうえ、血が出るほど唇を噛んでいたようだ。……おまえは金輪際、部下を叱るな。おまえは叱り方が上手くないようだ」
「も、申し訳ございま――」
「誰があやまれと言った? 俺はいまおまえに『命じた』はずだぞ」
 さっ、と男が部長に金眼を向けた。部長はいまや鼻の頭のみならず、全身から汗を噴いていた。彼はしばらくぱくぱくと口を開閉させたあと、背筋を伸ばした。
「わかりました!」
「良し。――して、おまえは何をしでかした?」
 男は女に目を落とし、かすかに口の端に笑みを浮かべた。彼女もまた、ぱくぱくと金魚と化してから、小さくなったまま答える。
「フ、ファイルを……企画ファイルを……しまう場所をま……間違えました」
 やっと紡いだその答えを、金の眼の大男は、はっはと笑い飛ばした。
「くだらん! 血を流して詫びるほどの過ちでもなかろう」
「――会長、そろそろ……お時間が」
 後方で軍人のように背筋を伸ばして控えていた黒服たちのひとりが、会話をさえぎった。偉丈夫は目を閉じ、大きく頷く。
「ん。行くぞ」
 男は指についた女の血を拭うこともなく、悠然と歩き出した。別れの挨拶も何も残さずに。黒服たちが、ぞろぞろと無言でその背に続く。汗まみれの部長は、その背中たちが見えなくなるまで頭を下げていた。
 女は、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 あの男は一体何者だったのか、と彼女は思った。

 いつも思うだけにとどめてしまう彼女が、そのときは行動に出た。見たこともない男だというのに(一度見ていれば忘れるはずもない容姿だ)、懐かしさや畏怖を抱かせる男。周りの人間は彼を“会長”と呼んでいた。
 会長――。
 彼女は企業案内のリーフレットを手に取った。顔写真こそ載ってはいないが、裏面には会長の名が記されている。
 荒祇天禪、と。

 あの男を知っているのだ、と彼女は思った。

 記憶が、彼の存在を脳裏に刻んでいるのではない。彼の姿は魂に刻まれている。ファンタジーやフィクションにそれほど傾倒しているわけでもない彼女が、このときは超自然的な力のはたらきを感じ取った。
 その証か、いま彼女は夕暮れのデスクを抜け出し、ビルの屋上に向かっていたのである。眼前に残光のように浮かび上がる、金眼の導きに従っているのだ。
 屋上には、上がったことがなかった。屋外に出るための鉄扉は閉ざされていた。ほとんど駄目でもともとと、やけくそじみた思いで、彼女は自分のIDカードをリーダーに通す。ロックは――外れた。
 白い都市の霞に薄められた夕焼けが、彼女の頭上に現れた。

 天禪はフェンスに寄りかかり、東京を見ている。黒服たちの姿はない。彼女がおずおずと近づいても、彼は咎めず、また、振り向く素振りも見せなかった。
「俺の目を見、声を聞いたのか。そうだな」
 天禪はそう言い、片手をスラックスのポケットに入れると、ようやく振り向いた。
「会長……、先ほどは――」
「言うな。俺が一体何をした。おまえに挨拶のひとつもしなかっただろう」
 彼は東京に目を戻すと、
「……おまえには、古い話をひとつ聞かせようと思ってな」
 低い声で、話し始めた。

「はじめに、くにがあった。のちに日本や大和と呼ばれる地だ。そこには山に火を吐かせ、地を揺さぶり、海の牙を研ぐ、荒ぶる神が居座っていた。やがて、人間たちが流れついてきた。鬼神は己に仕えるものを民と認め……くにの一部と認め、民に力を与え、その身を護った。鬼の力を受けたがために、このくにの民は頑固で排他的になった。しかしその代わり、大陸の手からはのがれ、独自の世界を築き上げ得たのだ。
 しかし――さすがに時は経ちすぎた。人間たちの中の鬼の力はもはや薄まり、鬼神の記憶すら消え、護国の力は失われつつある」

 天禪は言葉を切り、右手でぐるりと東京を示した。
「見ろ。鬼神が築いた壁は崩れ、海の果ての風俗がこのくにと交わりはじめている。そして、おまえのように、鬼の目と声を感ずる人間はめずらしくなった」
 ふん、と彼は手を下ろし、呆れたように笑った。
「……大陸の民は、このくにのつはものを鬼子と呼んだ。奇しくもそれは的を得ている。このくにには鬼子がひしめいていた」
「会長……、私は……」
 ようやく、女はか細い声を上げた。天禪は女を見下ろし、口の端の笑みを大きくした。強い光を放つその金眼は、父のものであり――祖先のものだ。
「鬼の血を宿し、鬼と通じる人間は、まだ絶えてはいないのだ。そのものの存在こそが、このくにの記憶の証といえるだろう」

 風と轟音が、天禪と女の間に割り込んできた。夕焼けに目をすがめ、ふたりは空を仰ぐ。ヘリが一機、この屋上に降り立とうとしていた。
「来たか。2分早い」
 ばばばばば、と踊る風に天禪は微笑する。

「おまえは俺に従うか」

 その声は風と大地を貫いた。この東京にあるなにものも、彼を妨げることはないのだろう。
「はい!」
 女は、乱れる髪を払いのけもしなかった。
 天禪は満足そうに頷き、虚空から灰いろのコートを取り出すと、ばさりと羽織った。
「ならば俺はおまえに力を与え、おまえを護るのみ。俺の目と血は常におまえとともにある。俺は行くが、消えるわけではない。おまえはおまえの成すべきことを成せ」

 はためくコートと金眼は、黒いヘリの中へ。
 女はヘリが飛び立つのを見届けると、部長が待つ自分の持ち場へと戻った。
 どこに行っていた、という不機嫌な問いかけに、彼女は毅然とした態度で答えるのだ。
「会長に呼ばれて、少しお話ししていました」
 彼女は、部長が抱いたであろう畏怖と驚きを、その金眼にしっかりと焼きつけた。




<了>