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空の絵本
全ての天候をシステム管理されたドーム状の不夜城都市――２３区ＴＯＫＹＯ−ＣＩＴＹ。
雨も降り、雷も落ちれば気温は日々変化し、日本ならではの四季を満喫する事が出来る。管理センターから配信される天気予報は９０％以上の的中率を誇り、ごく稀に謎の台風などが発生する以外は、はずれる事などなかった。
そして今、ごく稀に起こる謎の台風がＴＯＫＹＯ−ＣＩＴＹに近づいていた。
【起承転結の起】 本を開けば物語りが始まるのは道理
ＣＩＴＹを覆うドームの外に広がる自然保護区域――通称ＮＡＴは、今尚、本物の月と太陽が空を巡り、地球の自転に則した自然を満喫する事が出来る、この世界では数少ない場所の一つだった。ここには自然保護団体が作る大小合わせて１６のコミューンが存在する。
この他にＮＡＴにはＣＩＴＹから逃れてきた犯罪者達の組織もあると噂されているが、こちらの方は噂どまりである。公にはそんなものは存在しないと発表されていたからであるが、勿論これは、お偉方の言葉を借りるなら『嘘も方便』という類のものであった。
いずれにせよ、自然保護区域といえば聞こえはいいが、実際には巨大な産業廃棄物処理場の一面も持ち、遺伝子操作され手に負えなくなった異形の産物――総じてキメラと呼ばれている――が蔓延る危険地帯でもあった。こんなところに好き好んでくるのは、コミューンの住人や犯罪者を狩る者達を除けば、怖いもの見たさの好奇心を押さえ切れなかった観光客と――シオン・レ・ハイ、彼ぐらいであろう。
長い髪を後ろで束ね、高そうな服を砂まみれにさせて、彼は１人武蔵野のブッシュの中を歩いていた。左にはスーパーの袋を抱えている。右手にはメモ帳。開かれたページには彼の最高傑作ともいえる、ＮＡＴの地図が描かれていた。これさえあれば絶対迷子にならないのだ。
この危険地帯を歩いて移動。
それだけでも彼がただ者ではない事を物語る。しかも彼は武器らしい武器を何一つ持たず、しかし臆するどころかどこか楽しげな面持ちで木々の合間を軽やかに歩いていたのである。
そんな彼を突然謎の触手が襲った。植物の太い蔦か何かのようだ。それが彼の腰に巻き付いたかと思うと、彼を持ち上げた。
「わっ」
突然の事に驚いて、シオンはバナナを落としそうになる。
触手が彼を引き寄せた。
そこにはグロテスクな赤色をしたラフレシアのような巨大な花がその中央に鋭い牙のようなものを光らせて大きな口を開けていた。肉食植物――マンイーター（食人花）である。
「やぁ、お久しぶりです」
シオンは呑気に片手をあげて食人花ににこやかに声をかけた。つわものである。
しかしマンイーターは何も答えない。口は食べる為にのみ存在しているのだろう。
「今日はおみやげを持ってきたんですよ」
彼はそう言っていそいそとスーパーの袋からバナナの束を取り出すとその内の１本をマンイーターの口の中へ放り込んだ。肉食植物に果物を食べさせても大丈夫なのだろうか。
マンイーターは咀嚼するように口を動かし、それからペッと皮だけ吐き出した。
「あぁ、皮をポイ捨てしたら危険じゃないですか」
シオンがメッと怖い顔をしてみせたが、果たしてマンイーターにそれが伝わったかどうかは永遠の謎である。
とにもかくにもマンイーターはシオンをおろした。
「お利巧さんですね」
シオンはマンイーターの花弁を撫でてやる。
このマンイーターとはまだ付き合いの日は浅い。しかしこの子のお母さんとは仲良しだったシオンである。だからこのマンイーターの事は我が子のように思えるのだ。マンイーターとお友達。やはりただ者ではない。彼はある意味ＮＡＴの王者かもしれない。さすがは野生児。あのＣＩＴＹでも普段から野宿ばかりしていた成果というやつだろうか。――ものは言い様であった。
かくして久しぶりの再会にシオンがマンイーターを抱きしめていると、
「わぁっ！！」
突然、先ほどマンイーターがバナナの皮を吐き捨てた辺りから悲鳴にも似た声があがった。誰かが地雷を踏んでしまったらしい。
シオンが茂みの向こうを覗くと、１人の男が尻餅を付いていた。
「大丈夫ですか？」
シオンが声をかける。
「何でこんなところにバナナの皮が落ちてるんだ」
空色の髪に空色の瞳をした男が、紺のブルゾンとジーンズの土を掃いながら立ち上がって、ぶつくさと呟いた。
「すみません」
シオンが頭を下げて謝った。
「あぁ、あんたが捨てたのか？」
男が白い目を向ける。
「はい。私のお友達の……」
言いかけたその時、男を触手が絡めとった。
「あ、マンイーターさん！ 彼は食べちゃダメですよ」
シオンが慌てて止めに入る。
「マンイーター？」
男は別段慌てた風も取り乱した風もなく言って、触手の先にある、大きくグロテスクな花を見下ろした。
「へぇ〜」
何とも呑気に呟いた。この期に及んで動じた風もない彼も、ただ者ではないだろう。こちらも手に本を持っているだけで武器らしいものは何一つ持ってはいないのだ。
マンイーターは男を口へ運ばずそこに下ろした。
「ありがとうございます」
シオンがマンイーターにお礼を言う。
「あんたこいつが操れるのか？」
男が尋ねた。
「操れるわけではありません。マンイーターさんはお友達です」
シオンがマンイーターの花びらを撫でながら答えた。
「なるほど。あんたいい人そうだな」
男が人懐っこい笑みを向けた。
「はぁ……」
シオンは困惑げな笑みを返す。いい人といわれるのはなんだかくすぐったい。
「俺は空野彼方」
男が言った。
「あ、私はシオン・レ・ハイと申します」
「あんた、いい人そうだから、いい事教えてあげるよ」
「はい？」
「もうすぐ、嵐がくるよ」
「……え？」
【起承転結の承】 頁捲れば物語進みて……
「何のご用でしょう？」
司法局ビルの一階ロビーで司法局特務執行部高野千尋は人懐っこい笑みを向けて言った。一般人受付の終わったこの時間、閑散としたロビーには殆ど人がいない。
千尋の顔は笑っているが目が迷惑そうな色を帯びている。それでも神宮寺夕日は単刀直入に切り出した。
「空野彼方が現れたんでしょう？」
「お引き取りください」
千尋のそれは即答だった。相変わらずにこにこした顔で玄関へと夕日を促す。
「犯罪者を前に見す見す逃す手はないでしょう？」
食って掛かる夕日にしかし千尋はにべもない。
「司法局の管轄です」
それを言われてしまったら夕日としては立場が弱い。警視庁捜査一課特殊犯に籍を置く彼女に司法局管轄は、いわば治外法権のようなものだ。
天下御免の警察手帳でさえ、上からの許可がおりない限り、まかり通ることは許されないのである。
しかしそんな事は百も承知で夕日はここへ訪れたのだ。
Ｓ級犯罪者、空野彼方。奴を捕まえる事が出来れば、否が応にもキャリアに箔が付くというものだ。
「司法局の管轄であるのは過去の犯罪に対してでしょ。これから起ころうとしている犯罪に対して未然に防ぐのは警察の仕事だわ」
「事件になるまで腰を上げない警察が珍しい事もあるもんですね」
千尋は大仰に笑って厭味を１つこぼすと背後を振り返った。そこにはいつ現れたのか、司法局特務執行部仁枝冬也が立っている。
「冬也。彼女は任せた」
投げやりに言って千尋は肩をすくめてみせた。
まるで相手をしてられないといったその態度に夕日がムッとして千尋の肩を掴もうとしたが、冬也にとめられる。
千尋はさっさと玄関へ歩き出した。恐らくはこれから空野彼方を追うのだろう。
「ちょっと、待ちなさいよ」
慌てて追いかけようとした夕日の腕を冬也が掴む。
「離してよ！」
夕日は冬也の腕を振り払おうとした。しかし男の腕力に女の細腕では対抗できないのか、振り切る事が出来ない。
その腹立たしさに夕日は反射的に冬也の腕を掴もうとした。その手に発火能力を宿す。
それより早く冬也が口を開いた。
「……知ってると思うが」
夕日は掴もうとしていた手を止めて、冬也を睨み付けるとその先のセリフを奪った。
「何かあった時は忘れる、でしょ？ 上等よ。自分の身ぐらい自分で守れるわ」
たぶん、彼が言いかけたのはそんな事ではない。それでも夕日は腹を立てていたのだ。空野彼方は自分が捕まえる。それは改めての意思表明でもあった。
「…………」
冬也は大仰に溜息を吐き出すと、諦めたような顔つきでウェストポーチから手の平サイズの端末のようなものを取り出し、夕日に差し出した。
「え？ これ……は？」
「司法局の情報ステーションに繋がっている」
冬也が言った。
「いいの？」
「一人で勝手に動かれて無茶をされるくらいなら俺の目の届くところにいて欲しい」
勿論、他にも理由はあった。しかし彼は言葉を選ぶのが極端に下手だったらしい。
「それを本人に言うのか！」
夕日は冷めやらぬ怒りにハイヒールで冬也の足を思いっきり踏んづけた。半分は千尋に対しての怒りもある。
時に凶器とすらなりうるハイヒールのかかとだが、冬也の分厚いトレッキングシューズの上からでは大したダメージを与えられなかったに違いあるまい。
「…………」
◇◇◇
『青い絵本が近づいている』
都立図書館の中にある殆ど人が訪れる事のないその部屋で声が聞こえるのは実はそう珍しい事ではない。この世界は奇怪に満ちていた。
声をあげたのは長き年月を経て霊魂の宿りし本、付喪神だった。
「え？」
要申請特別閲覧図書と呼ばれる曰く付きの本が並んだ一般人立ち入り禁止区域で、本の修繕をしていたこの図書館の司書――綾和泉汐耶は顔を上げると声の方を振り返った。
「青い絵本？」
聞いた事がある。確か天を駆ると言われている絵本だ。
『嵐が来る』
別の付喪神が言った。
『嵐が来る』
ざわざわと本達が騒ぎ出す。
それに汐耶は「おや？」と首を傾げた。
以前【赤い絵本】と呼ばれる絵本を封印し損ねた事があった。あの時は確か絵本の所在は本が開かれるまで明らかにならなかった筈だ。では今回【青い絵本】は開かれたというのだろうか。だが付喪神は【青い絵本】が開いたとは言っていない。それに、【青い絵本】は雨をもたらすと言われている。天候をシステム管理されたこのＣＩＴＹでそんな事が起きればすぐにニュースになる筈だ。
そも――。
「青い絵本が起こす嵐の規模はどのくらいなのかしら？」
水害を招くほどの暴雨と言われているが。
『ドーム状になっているこのＣＩＴＹはまず間違いなく水没するでしょう』
「水没！？」
汐耶は思わず椅子を蹴倒して立ち上がった。ニュースになるなんてレベルのものじゃない。ニュースも流せない程、ＣＩＴＹの全機能は麻痺するのではないか。
いや、それ以前に本が水没するなんて、考えただけで汐耶は眩暈がした。火も天敵だが水も天敵である。
「その絵本はまだ開いてないのですか？ 一体、どこに！？」
汐耶は声を荒げた。
『本は開いて、すぐに閉じました』
「え？」
絵本が開いてすぐに閉じた？
【赤い絵本】は最後までページを捲らなければ閉じなかった。それが【青い絵本】は途中でも閉じるというのか。いや、言い伝えでは嵐が終わるまで閉じない筈である。
そんな汐耶の思考を遮るように付喪神が続けた。
『先ほど開いたのは西に３０里ほど先のようです』
３０里とは約１２０ｋｍの距離である。ここから西に１２０ｋｍ。
「という事は、まだＣＩＴＹに入っていないのね」
汐耶は確認するように呟いた。絵本の謎はまだあったがそれは後でもいい。今はとにもかくにもＣＩＴＹに【青い絵本】を入れない事が先決だろう。
その前に必ず封印する。
「青い絵本の位置がはっきりわかる方はいらっしゃいませんか？」
汐耶が尋ねた時だった。返事はその部屋の入口から返ってきた。
「こちらで案内させていただきます」
汐耶が振り返った先に迷彩柄の上下を着た男と、薄手のスーツを着た女が立っていた。
一般人立ち入り禁止のこの場所へ入って来たのだ、いずれその資格を持つ者であろう。
「私は司法局特務執行部仁枝冬也と言います。綾和泉汐耶さんですね。青い絵本の封印をしていただきたくお願いにあがりました。館長殿には了解済みです。詳細は道中お話させていただきますので、急ぎ要請に応じていただきたいのですが」
「わかりました」
◇◇◇
「私は警視庁捜査一課の神宮寺です」
その車の後部座席に乗り込んで、夕日は隣に座った汐耶に小さく頭を下げた。
「刑事さん？」
「はい。今回はあなたの護衛も頼まれているのでよろしくお願いします」
「護衛？」
汐耶は首を傾げながら運転席の方を見やった。運転席には冬也が座っている。
「この件に関してはこいつが全く役に立たないので」
夕日の言葉には棘があった。まだ先ほどの一件を根に持っているらしい。とはいえこいつと呼ばれた本人は全くもってその通りなので言い返しようもなかったのだが。単独任務を基本とする司法局員の中でも冬也は特に不器用で、誰かの存在を意識して立ち回れるようには出来ていなかったのである。
「今、別のチームが捜索にあたっています」
冬也が言った。
「本が開いてすぐに閉じたというのは本当なのかしら？」
汐耶が尋ねた。付喪神の言葉を信じていないわけではないが引っかかる。【赤い絵本】を閉じるのにあれほど苦労したのだ。
「空野は青い絵本を自在に扱えるんです」
「えっ……？」
絵本を自在に？
「奴の使ってくる気界鏡という、こちらの力を全て跳ね返す結界が一番厄介になってくると思いますので……」
「ちょっと待って」
汐耶は半ば混乱しかかった頭の中を整理するために冬也の言葉を遮った。絵本を自在に扱える者がいる。
そして、
「気界鏡？ 水界鏡ではないの？」
血を啜る【赤い絵本】が使っていたのは血で作った結界――血界鏡。ならば水を操る【青い絵本】は、と思ったのだ。
しかし冬也はあっさり否定した。
「青い絵本は天を駆ける絵本です。水を操れただけでは大雨を降らせるぐらいしか出来ませんよ。嵐にはなりません」
「風がいるって事？」
「風は大気の流動体です」
「…………」
故に気界鏡。【青い絵本】が操るのは水だけではなく大気もなのだ。
「青い絵本の青が表しているのは水ではなく空です。だから空野は青い絵本の事をこう呼んでいる」
そこで冬也は車を止めた。ＴＯＫＹＯ−ＣＩＴＹの西の果て――ウェストゲート。
このゲートをくぐれば外にはＮＡＴが広がっている。
手続きをすませるとゲートはゆっくり口を開いた。
再び車が走り出す。
冬也が続けた。
「――空の絵本、と」
彼らがウェストゲートを出たのは冬也が言うところの別のチーム――高野千尋率いる、一色千鳥とセレスティ・カーニンガムがこのゲートをくぐってから、丁度３０分後の事であった。
【起承転結の転】 かくて他人を巻き込みたり
首の皮一枚で繋がっている。
次に問題を起こせばめでたく６回目の自主退職。ちっともめでたくはないが。
そこへ持ち上がったのが、この夏限定の警備の仕事だった。
自然保護区域――ＮＡＴには滅多に人は訪れない。しかし、夏休みともなれば怖いもの見たさの連中が我先観光へ訪れるのだ。その為この季節になると選りすぐりの屈強な警備員を臨時に雇うらしい。
ＮＡＴ西多摩コミューンにあるオープンデッキのカフェテラスで西多摩コミューン総括の面接を受けていた直江恭一郎は、普段滅多に見せる事のない愛想笑いを作って、相槌をうった。
総括のおやじは恭一郎を上から下まで舐めるように見やって、それから履歴書に目を落としている。背は高い方だが中肉といった風情の恭一郎は屈強な男どもに囲まれたら見劣りしてしまうのだろう、勿論見た目の筋肉だけがものをいうわけでもないが。これまでの退職理由と見た目のギャップに眉をしかめているようだった。
恭一郎はおやじの次の言葉を待って無意識に生唾を飲み込んだ。
「まぁ、途中で逃げ出しちまう奴もいるからな。で、いつから入れる？」
総括のおやじが聞いた。
「え？ って事は雇ってもらえるんですか！？」
思わず身を乗り出して尋ねた恭一郎に、おやじが肩を叩いた。
「あぁ、うちは相手がキメラだからな。やりすぎくらいが丁度いいんだ。しっかりやってくれよ、若ぇの」
「…………」
ちょっぴり、聞いていた話と違った。
キメラ？
確かにこのＮＡＴにはマンイーターだのノウムだの、怪しげな生き物が存在する。かつて遺伝子操作に失敗した異形の生物をそのまま廃棄したのがその原因とも言われている。が、この警備がそれらを相手にするもの、という話は、恭一郎は全く聞いていなかったのである。
なるほど。敵は人間じゃないから多少手荒な真似をしても過剰防衛にはならないというわけで、天職、などと上司に唆された理由がよくわかった。
それ以前にキメラとなんか戦った経験もないのだが。
「が、頑張ります」
恭一郎は答えた。
何とかなるだろう、今の自分に選択の余地はない。
「頼んだぜ。っと、もうすぐ雨が降るな。あんた、ＣＩＴＹに帰るんなら早めの方がいいぞ」
おやじが空を見上げながら言った。
恭一郎も空を見上げる。頭上には青い空が広がっていた。
「晴れてますが」
「ま、俺の勘だがな。山の天気は変わりやすいんだ」
「はぁ……」
かくして恭一郎は追い立てられるように西多摩コミューンを後にしたのだった。
車でオフロードを疾走する。
旧中央線跡地と呼ばれているこの道をまっすぐ走ればＣＩＴＹのウェストゲートにたどり着けた。時間にして約１時間半の距離である。
３０分ほど走ったところでおやじが言った通り雨が降り出した。
ワイパーのスイッチに指を伸ばす。
その瞬間、突然フロントガラスの向こうの景色が急スピードで回転した。
車がスリップしたと思った時には既に車体は大木に突っ込みボンネットをへこませた後である。
ハンドルから飛び出したエアバッグに額を乗せた。
「はぁ……」
深い溜息を吐き出すそれは勿論、助かった、とかいうものではない。
「レンタカーなのに……」
禍福はあざなえる縄の如しとはよく言ったものだ。せっかく仕事が決まったばかりなのに、誰がこの車を弁償するんだ。
しかし、何に滑ったのだろう。雨は降り出したばかりだし、地面もさして濡れてはいない。オフロードの道だしそんなにスピードを出していたわけでもないのだ。
恭一郎は変形して開かなくなったドアを蹴飛ばしてはずすと車から降りて絶句した。タイヤの下に黄色いものが見える。よく知っている。あれはバナナの皮と呼ばれるものだ。黄色いという事は、まだ新しいという事でもある。何でこんなところにこんなものが、と首を傾げていると、突然背後から声がかかった。
「マンイーターさん、奴を捕縛してください！！」
「へ？」
――勿論、誤解であった。
◇◇◇
「空野彼方に会ったのか！？」
冬也はシオンに詰め寄った。汐耶と夕日もシオンの顔を覗き込んでいる。
恭一郎のレンタカーが事故を起こした音を聞いて、不審に思った彼らはその現場に駆けつけたのだった。
そこにはシオンと恭一郎が立っていた。
「はい。もうすぐ嵐が来る事を教えてくださいました。いい人です」
シオンが胸を張って答えた。シオンは彼に悪い奴らの足止めを頼まれていたのである。そして恭一郎をその悪い人と間違えたのだった。
「奴はＳ級犯罪者だぞ」
冬也が声を荒げるのに、シオンは間の抜けた顔で「へ？」と冬也を見返した。
「嵐を起こそうとしてる張本人よ」
夕日が肩をすくめている。
「何ですって！？」
シオンが素っ頓狂な声をあげた。
「奴とどこで会った？」
冬也がシオンの肩を掴む。
「ここです」
シオンはメモ帳を取り出し広げるとそこの一箇所を指差して答えた。誰もが彼の芸術的な地図を覗きこんで目が点になる。
「北はどっちだ？」
と冬也が静かに尋ねた。
「あっちです」
と、シオンは北を指差して答えた。
冬也は、この地図上で、という言葉を飲み込んで言った。
「そこへ案内してくれないか」
「はい」
「一般人を巻き込むのはあまり本位じゃないが仕方ない。この車では動けないだろ」
冬也が恭一郎に声をかける。
「すみません。事情はわかりませんが手伝える事がありましたら手伝いますので」
恭一郎の言葉に冬也は恭一郎をマジマジと見やった。しかしその反応は西多摩コミューン総括のおやじとは少し違っていただろうか。見た目で言えば、冬也の方が細身である事もその理由の一つかもしれない。
「お願いします」
と言って冬也は運転席に乗り込んだ。
それに続くように恭一郎が助手席に乗りこもうとすると、そこにはシオンが既に座っていた。
「後ろに乗ってください」
シオンに言われて恭一郎はチラッと後部座席を見やる。
「変わってくれませんか？」
恭一郎が言った。どこか切迫したような声音である。しかしシオンの返事は素っ気無い。
「私は道案内しなくてはいけません。それにこの辺にはまだ、たくさん（バナナの皮の）地雷が眠ってるんです」
「…………」
「何やってるのよ、早く乗りなさい」
「大丈夫よ、そんなに狭くないから」
後部座席に座っていた夕日と汐耶が急かした。
「…………」
恭一郎は反射的に、ここに置いてってください、と言いかけて結局言い出せなかった。４人の視線に屈したのである。
女性に免疫のない彼は女性の半径１ｍ以内に自ら入るのも至難であった。にもかかわらず、よりにもよって隣に座る事になったのだ。
挟まれないだけマシ、と自分に言い聞かせて恭一郎は不承不承後部座席に乗り込んだ。
車窓に視線を固定し、頭に血が昇ってくるのを深呼吸で抑えたら、化粧だか香水だかシャンプーだかの甘い匂いが香ってきて、彼は慌てて口元を押さえた。
限界はすぐそこまで来ている。
「捜索チームが空野彼方と接触した！」
冬也がそう言ってハンドルを切る。誰もが息を呑んだ。
「あ、そっちにはバナナの地雷が！！」
車の急ハンドルにタイヤが悲鳴をあげる。遠心力に隣に座っていた夕日が恭一郎の方へ倒れこんできた。
一緒に恭一郎も悲鳴をあげた。内心で。
彼の為に合掌。
【起承転結の結】 栞挟みてひとつの物語を終えん
「参ったな……」
空野彼方は自分を取り囲む面々を見やりながら言った。
捜索にあたっていたセレスティと千鳥と千尋とそれから途中合流したシュライン・エマに四方を囲まれている。
その上、水がうまく制御できなかった。
しかし彼は言葉ほども参ったような顔をしてはいない。自分の逃げ場を阻むように水が自分を覆っていても尚、彼はのんびりとしていた。
だが、誰も彼に仕掛けようと動く者はなかった。彼の――いや【青の絵本】の持つ気界鏡に手を出しあぐねていたのである。気界鏡は全て力を跳ね返す結界であった。
今は、彼を逃がさない事だけに集中し援軍を待つ。
そこへ１台の車が到着した。中には５人乗っている。
彼方が目を細めてそれを見やった。
「僕ってこんなに人気者だっけ？」
と、おどけてみせる。
そんな彼方を無視して、千尋は背後に声をかけた。
「冬也」
「わかってる」
運転席から顔を出した冬也はＳＩＧ拳銃Ｐ２２６を構えた。彼の念のこめられた弾は結界を壊す為のものだ。
「綾和泉さん」
後部座席から降りてきた汐耶に冬也が声をかけた。
「結界なら私が解きましょうか？」
尋ねた汐耶に冬也は首を横に振る。
「いえ、それは俺がやります。貴女は絵本を封印する事だけに集中してください」
結界を解いても大気はすぐにまた結界を作る。封印が間に合わなければ、そのいたちごっこになるだろう。結界を解いたと同時に封印に入る必要があるのだ。
「わかったわ」
それを遠目に見やっていた彼方が口を開いた。
「何をやらかす気？」
「答える義理はありませんね」
セレスティが素っ気無く答える。
「嫌だねぇ、さっきの事、根に持ってるの？ 教えてあげたじゃない。僕は太陽の栞を持っている」
「いいえ。まだ聞いていませんよ。嵐を起こす理由を、ね」
千鳥が言った。
「ま、単なる予定調和だよ」
彼方が肩をすくめる。
そこへ冬也達と途中合流していたシオンが駆けて来た。
「あなたの方が悪い人だったんですね！」
彼方を指差し言い放つ。
「あぁ、あんたか。ダメじゃないか。ちゃんと足止めしといてくれなくちゃ」
「バカ言わないでください。私は悪い人の味方はしません！」
シオンの言葉に彼方は大仰に呆れた顔をしてみせた。
「なんだ？ それで正義の味方のつもり？ 多勢に無勢が聞いて呆れる」
「うっさいわね、空野彼方！！ 神妙にお縄につきなさい！」
夕日は怒鳴ると手錠を手にスタートダッシュの体勢で身構えた。
冬也がＰ２２６を撃つ。
弾にこめられた念が気界鏡の結界を打ち破った。
刹那、夕日がその懐に飛び込んでいた。回し蹴りが彼方のレバーを襲う。しかしその軌道上に彼はいない。
「なっ！？」
夕日が空をかいたその頭に手を付いて彼が飛んでいた。
「勇ましいお嬢さんだな」
絵本は開かれている。目まぐるしく動く絵本が捉えきれずに、汐耶は封印が施せないでいたのである。
夕日はこれ以上ないくらい目を見開いて彼方を見上げた。
彼方の手が夕日の眼前に翳される。
その時だった。
彼方の絵本を持つ手が肩から落ちた。
「！？」
サイバー化された腕が小さくスパークしている。
「隠密行動は私の得意分野なんですよ」
彼方の背後に立ち、彼の腕を肩から切断したのは冬也の車に乗っていた最後の１人、直江恭一郎だった。
閉じた絵本は絵本自身の意思で気界鏡の結界を張る。
それに冬也が再びＰ２２６の弾を撃ち込んだ。
結界の解けた刹那、汐耶が封印に入る。
腕を落とされた彼方は肩を押さえて蹲った。それに恭一郎が隙を見せてしまう。その隙をついて彼方は恭一郎の鳩尾に膝蹴りをお見舞いすると、一気に跳躍した。
恭一郎は何とか踏みとどまったが、ダメージに片膝を折ってしまう。
夕日が彼方を追った。
逃げ出した彼方に千鳥が手を伸ばす。
ありえないほどの距離を千鳥が強引に引き寄せた。
それを千尋が取り押さえる。
「助かりました」
「いいえ」
礼を言う千尋に千鳥が笑みを返した。
千尋は夕日を振り返る。
「ご協力感謝します」
いつもの愛想笑いで。
「ちょっ、人の手柄を横取りしようっての？」
「うちの管轄です。でも貴女の活躍はちゃんと上に報告しておきますよ」
一方、封印の終わった本をセレスティが拾い上げた。
絵本の本体は別空間に存在する。故に拾い上げようとも直接的に本に触れる事は出来ない。本に触れれば本に取り込まれる可能性があるからだ。
本に触れられず、中を読み取れなくなった絵本に、セレスティは彼方を振り返った。
「栞はどこですか？」
恐らく、この絵本を読むには栞を手に入れるしかない。
「答える義理はない」
彼方が冷たく答えた。だが、取調べが始まれば、その内明らかになるだろう、セレスティは溜息を１つ吐いて絵本を汐耶に手渡した。
雲で覆われていた空が晴れていく。
いつの間に陽が沈んだのかもう夜だった。
それでも月明かりが明るく辺りを照らしている。
「大丈夫？」
彼方に一撃をくらった恭一郎に夕日が声をかけた。助けてもらったお礼もある。
恭一郎は夕日を振り返り仰け反ってそれから口元を押さえた。
「？」
恭一郎の異変に気付いたシュラインが恭一郎を指差しながら夕日に号令する。
「行け！ 夕日ちゃん！！ 彼を介抱してあげるのよ！！」
「え？ あ、はい」
何だかわからないまま夕日は恭一郎に駆け寄った。
雨に濡れて張り付いた彼女の薄手のブラウスがほんのり肌を透かしている。
うっすらとブラのレースが浮かび上がってるのに気付いた時、恭一郎は臨界点を越えた。
「キャー！？ 何すんのよ！！」
吹き上がった鼻血が自分のブラウスを赤く染め上げるのに夕日が悲鳴をあげた。
「あぁ！？ ティッシュ、ティッシュ！！」
シオンが車から箱ティッシュを取ってくる。
「あっはっはっはっは！！」
シュラインが腹を抱えて笑い転げた。
「あなた今、わかってて彼女をけしかけたでしょ？」
汐耶がやれやれといった風に肩をすくめて、シュラインを見ている。
「勿論よ」
元気に答えたシュラインに、千鳥がふと傍らのセレスティを振り返った。
「時々思うんですが……」
「はい？」
「時に女って残酷ですよね」
「……そうですね」
■ＥＮＤ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物（この物語に登場した人物の一覧） ■
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【3586／神宮寺・夕日／女性／23／警視庁所属・警部補】
【1449／綾和泉・汐耶／女性／23／都立図書館司書】
【1883／セレスティ・カーニンガム／男性／７２５歳／財閥総帥・占い師・水霊使い】
【3356／シオン・レ・ハイ／男／42／びんぼーにん ＋α】
【4471／一色・千鳥／男／26／小料理屋主人】
【5228／直江・恭一郎／男／27／元御庭番】
【0086／シュライン・エマ／女／26／翻訳家＆幽霊作家＋草間興信所事務員】
【NPC／仁枝・冬也／男性／28／司法局特務執行部】
【NPC／高野・千尋／男性／28／司法局特務執行部】
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
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ありがとうございました、斎藤晃です。
空の絵本にご参加いただきありがとうございました。
物語は大きく、封印チームと捜索チームの２本立てになっています。
機会があれば他のチームを読んでみると、そのチームがその頃どんな状態だったかがわかって、いいかもしれません。
楽しんでいただけていれば幸いです。
ご意見、ご感想などあればお聞かせ下さい。
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