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人情下町横丁へようこそ 〜一刻堂〜
ゆったりとした時間がながれるどんぐり商店街を、セレスティ・カーニンガムは杖を突いて文字通りゆっくりと歩く。
見ているだけでも飽きの少ないこの商店街の中、ふと耳に聞こえる数々の時計の針の音。
おや?とセレスティは足を止め、薄く戸が開いた一刻堂へと足を踏み入れた。
【琥珀の空】
かのアンデルセンが書いた人魚姫は、琥珀の窓から空を…太陽を眺めていたらしい。だが、哀しきかなこの時代にはまだアンデルセンは生まれていない。
彼がもしセレスティを知ったなら、あの代表的童話はどういった物語になって、どういった結末を迎えていただろう―――
「…行くの?」
ゆっくりと振り返った私の眼に映ったのは、ベッドの上で顔だけをこちらにむけた見知らぬ女性。
いいえ、見知らぬと言ってしまうのは失礼ですね、記憶の片隅で確かに貴女を私は知っている。
そっと窓から外を見れば、懐かしい街角が並んでいた。
薄く窓に照らされた私の姿に、私自身が驚きに瞳を見開く。
この街並みは200…いいえ、300年ほど前でしょうか?
「はい」
「そう……」
私の口から出た簡素な言葉に、女性は一度顔を伏せ、その一言きり何も言おうとはしなかった。
そう、この頃は人を愛すると言う事に本気になる事ができず、こんなお遊びのような関係をよく築いていた。
あの頃の私…ですか。
あまり振り返る事のない時代にまた逆戻りとは、面白い事もあるものです。
杖を突きながらゆっくりとしか歩けない自分に、どこか心の奥で苛立ちを感じたのに、遠くの自分がくすっと苦笑する。
こんな事でいちいち心を荒立てていたのかと思うと、自分もまだまだ若かったのだなと妙に懐かしく感じた。
今では普及してしまったコンクリートで作られたビルではなく、レンガで作られたレトロな建物から外へ出ると、見計らったかのように一台の馬車がその前で止まる。
セレスティは何の疑問も持たずにその馬車へと乗り込むと、程なくして大きな屋敷にたどり着いた。
あまり、変わっていませんね。
そうですね余りもう一度繰り返したい自分ではありませんが、たまには良いのかもしれません。
苦笑しつつ馬車から降りる。現在の日本での屋敷とさして変わらないつくりの屋敷。いや、逆かもしれない。この屋敷に似せて日本の屋敷を拵えたのだっただろうか。
ここまで時が経つとどちらだったか記憶に薄い。
それだけ昔よりも今が大切なのだろう。
セレスティはゆっくりと、まるで懐かしむように屋敷の中へと足を踏み入れたのだった。
†
呼ばれるがままに“友人”の夜会に招待され、何の疑問も持たずに足を運ぶ。
盛大な笑顔で迎えられ、セレスティも同じように笑顔で返す。
とりあえず笑顔で返しておけば余計な波風が立たない。
隣で手を組むのは、一夜限りの約束。
着飾った女性を美しいと誉める口はあるが、愛しいと思う心は無い。
パートナーを連れていることは、まるでピーチクパーチクと鳴く鳥のように煩い女性達を退ける事が出来る。そして、この女性にとって自分をパートナーとしてこの場に訪れる事は、選ばれたというステイタスとしてこの先活きていくのだろう。
何の他意もない、この関係も利害の一致があってこそ。
一時だけの夢と分かっていながら、どうして女性はこんなにも自分と共に在る事を望むのか。
軽快なステップでダンスを披露できる訳でも、下手な装飾では見劣りしてしまう可能性もあるだろうに。
「疲れましたか? セレスティ様」
心配そうな面持ちで問いかける女性に、セレスティは貼り付けたような微笑を浮かべ、大丈夫だと答える。
誰もこの微笑を見破る事は無い。
もし、この時にこの笑顔を見破る誰かが現れていたならば、自分はもっと早く変わっていたのだろうか。
必要以上な気遣いを見せる女性に、支えられるようにしてセレスティは夜会から早々に屋敷へと戻った。
メイドや使用人たちは、分かっていながらも表立って何も言う事は無い。ただ「おかえりなさませ」と深く頭を下げるだけ。
先日とは違う誰かと歩いていようとも、主の行いに干渉する事は無い。干渉できない、それが時代だった。
本気にならない恋愛だと分かっていただろうに、女性はそれからも足しげくカーニンガム邸に訪れる。
「一度も“愛してる”とは言ってくださらないのね」
その日、何の変化もなく起き上がった朝に、一言掛かる声。
セレスティは伏せ目がちの瞳のままゆっくりと振り返る。女性は貫くように、じっとセレスティを見つめていた。
その視線にセレスティはふっと息を吐き出して、優しく微笑む。
「言葉が欲しいのですか?」
言葉だけなら幾らでも差し上げましょう。
それで貴女の気が済むのなら。
だが女性はそれが欲しいわけではない。きっと、本気の『愛してる』が欲しい事くらい分かる。
たまに居るのだ、最初は利害の一致であっても、付き合っていく内に本気になっていく。多少の希望を抱いて、思いを返してくれるのではないかと言う人が。
そんな事は、ありえないのに。
「私が莫迦だって事くらい分かっているわ!」
最初に声をかけたのは自分。
そして、一夜限りのパートナーとして頷いたのも自分。
それなのに、あまりにもこの関係は寂しい―――…
足早にドレスを羽織り、淑女とは思えぬ足取りで部屋の中を騒々しく横切る女性。
「お送りしましょうか?」
「結構ですわ!」
叫びながら振り返った女性の瞳に宿る涙。
セレスティには、そうまでして見せる激情の意味が解らなかった。
解りたいと思っていなかった。
†
最初は一夜限りという約束で一緒に居ただけなのに、あんなにも激しい怒りを露にした女性に、私は困惑し、訳が分からないと突き放してしまった。
殴るという事はせず、泣きながら屋敷を去っていった女性を、私はただ見つめるだけ。
もしあの時優しい言葉をかけてあげる事が出来たなら、あんな涙を流させる事は無かっただろうに。
それでも私には、本気という名の愛情が分からずに居た。だから、それ以上の事は感じなかった。
「『すいません……』」
口から小さく出た謝罪の言葉は、女性には届く事は無い。
瞳を閉じて浮かぶシルエット。なんとなく、彼女に会いたくなった。
――コチコチコチコチ……
はっとあたりを見回すと、セレスティは時計に囲まれた店の中心で立ち尽くしていた。
セレスティはまるで先ほどの様に感じられる過去に、薄らと微笑を浮かべ、改めて店の中を見回した。
見た事がない形の時計がいろいろな時を刻み動いている。そっと視線をおろせば、万年自鳴鐘がその時を刻んでいる。
今は時を刻んでいない万年自鳴鐘に背を向けて、セレスティはガラガラと音を立てて扉を開け放った。
夕暮れが、辺りを照らし出していた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
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■ ライター通信 ■
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人情下町横丁へようこそ 〜一刻堂〜 へご依頼いただきありがとうございます。ライターの紺碧 乃空です。今回もひっそりと開けていたのでかなりびっくりでした(笑)
これはシチュエーションノベルの亜種のようなものですが、楽しんでいただけたのなら幸いです。300年前はどちらの国にいらっしゃったのか分からず、18世紀ヨーロッパとさせていただきました。余りにも遠まわしにしすぎて少し冷たい方になってしまったやもしれません。すいません。
それでは、セレスティ様がまた人情下町横丁にお越しくださる事楽しみにしております。
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