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追憶ノ華弁ニ
濃霧の撒き散る、暗闇に息衝くかの様な樹木の隙間、仄かな燈りが標を表す様に満ち満ちて。
見えない何かに惹かれる瞳とこの足が、疑う事もせず導かれる儘其の道無き道を歩み徹した。
時の経過さえ知らされぬ儘、どれ程の沈黙を越しただろう。
拡がる其処は危うげな住人達の住まう――異界の地。
人を象る者、物の怪――そして、物の怪に憑かれた物の怪憑きの者……。
其処に在る誰もが簡素ながらに心許無い倖せを噛み締めて、儚くも確かな暮らしを営んで居た。
――そして、知る。
如何して此処に君が居ると言うのだろう。
願わくば君と共に、在るべき地へと還りますよう――。
「――曾祖母、様……?」
濃い霧が隙間無く、何処か褪せた景色を更に覆い尽くされた集落。
其の門戸と思しき場所で、神居・美籟は自身を襲った唐突な現象に未だ理解を起こせずに居た。
時は、夕刻程であろうか。
確か、自身は今の今迄、本家の離れで独り深き瞑想に耽っていた筈だった。
暫し外界との隔てを思わせる、静寂の時に――其れが、今はどうだろう。
不意に軽い眩暈と共に妙な倦怠感に襲われ、美籟が僅かに眉を顰めた一瞬……次に藍の瞳へと映り込んだ見慣れた筈の景色は、離れの其れとは大凡似付かない物へ異質な変貌を遂げていたのである。
見も知らぬ、薄暗い森の中へ前触れ無く放り出され……。暫しの思案に暮れる美籟を集落へと導いたのは不意に視界に宿った、淡い燈りだった。
無き道を指し示すが如く緩慢に揺らめく其の燈りに、何故か。美籟は何の警戒さえ抱く事無く――行き着いた一つの集落の先に。
――今は亡き、慕わしき曾祖母の姿が、確かに在ったのだ。
自身が生まれ落ち、現護としての位置付けらた生を悟った美籟へ幾年もの時を交え。
代々本家に受け継がれし先代護を其の身に課せられたが故か、常に美籟の傍らへと添うて、抱く胸の想いに触れてくれた唯一人の理解者。
だが、声を掛けるには余りにも遠過ぎる其の耐え難い距離に、美籟が柄に無く逸る足を一歩踏み出そうとした時――一人の青年の声が、敢え無く其れを制した。
「あんたが在る地へ還りたいと願うなら……。此処に存在する何物もがあんたにとって、知るに値しない代物だ。……其れを、忘れるなよ――」
「――――!」
疎らに往来する、この集落の住人と思しき者達同様――元より其処に在ったかの様に背後から掛けられた声に美籟が振り返れば、其処には自身が潜った門戸と一際暗く茂る森の並び以外、何も映る物は無くて――。
「………………」
暫し、何も在る筈の無い其の空間に残された香を聞くべく立ち尽くして居た美籟であったが……。其れと同時に、今この時にも離れゆく曾祖母の面影を持つ者を追う為、早々に踵を返し美籟は其の背の後を辿って行った。
――丁度、曾祖母に似通う者が立ち止まるのと、美籟が漸く其の姿に追い着いたのとが同時の頃であっただろうか。
見晴らしの良い小高い丘の先で、其れでも霞に覆われた草花の群れの中――。其の者が始めて、緩慢とした動作で美籟の下へと其の肢体を向けた。
「――曾祖母様――?」
再び、門戸の地で放った言葉を、自身にも問い掛ける様に繰り返す。
美籟には、幼き頃よりの香道の嗜みがある。――故に、上面等と言うあやかし達の惑わしには一分として揺らぐ筈の無い――確かな物をこの瞳で認識出来る事への、其れなりの自負があった。
――だが、今目の前に居る曾祖母――否、この不可思議な空間に迷い込んだ其の時から。
この地に存在する限り無く曖昧な、言い様の無い不確かさが……。常に美籟の周囲へと纏わり付いている。
「…………――」
曾祖母は、美籟の問い掛けに応える事無く……。
唯、唯柔らかな微笑みを眼前に湛え、美籟を真正面より見据えて居た――。
其れから、美籟は曾祖母と様々な話をした。
其れは美籟から一方的に語り掛けるばかりの物であったけれども、美籟は一心に――曾祖母が鬼籍に入ってから、己の現在までの身の上を話し続けた。
相も変わらず甘味を好み、時には周りも目を瞠る程の量を軽く食す或る日の事。
ふと気の落つ日の来たる時、ひそりと誰知らぬ場所で自身の音を風に流す事。
未だ、この気質にして友人たる友人の作り得ぬ事。
――自身の護としての、生涯続くであろう一族の名に生かされた日々を。
此処では些細な時の経過さえ知る事は叶わず、其れ故感ずる違和感に美籟が能く能く辺りへと目を向ければ、村に存在する者の種は人だけに止まらず……。
物の怪憑き、果てに物の怪其の者までもが――躊躇いも無く言葉を交わし合い、本来在り得る筈の無い共存を果たしている。
然うして曾祖母の傍らに添い、飽く事無く其の暖かな温もりに触れ、在る筈の無い世界をこの目にして――ふと至る。
――自身の本来在るべき場所の事を。
我が身に課せられた、離れ難き其の宿業を。
「…………」
元来、胸の内を明かすという行いに極めて乏しい美籟は暫くの沈黙を要した後、意を決し曾祖母へと向き合う様其の肢体を捻った。
――――だが。
其れよりも以前に、曾祖母の視線は美籟の元へと真摯に向けられていて。
自身に何も案ずる事は無い、とでも言うかの様に――。
優しく、微笑んだ。
互いから、其れ以上想いの紡がれる事は無く。
美籟は何言わず立ち上がると、軽く足元を払い――。今は自身を映さず、唯遠く眼前を見据える何処か儚げな姿を、一目納め。
恭しく一礼を捧げ、自身へ振り返る事を禁じる様にそっと瞳を閉じると……静かに其の場から離れ――そして立ち去った。
――再び門戸の地へと赴き、美籟は厚く霞に覆われた虚ろな空を仰ぎ、直想う。
如何すれば自身の在るべき地へ還る事が出来るかなぞ、美籟には微塵たりと想像する事等出来ないが、其れでも還らなければ――ならない。
此処は、自身の生きる場所では無い。……それだけは、分かるから。
――未だ自身を縛る護の宿業を、放棄する事は叶わない。
「良いのか?」
不意に、以前に聞き知った声が先と同様、背後から静かに降り落ちる。
美籟が然して驚く様子も無く振り返れば、其処には甚兵衛を身に纏った赤髪の青年が、無機質な面持ちで傍らに立ち尽くして居た。
「――構わない」
彼が何を言わんとしているのか、其の確証も無いけれど、何故だか美籟には理解出来て……。凛とした面持ちで、迷い無く返事を返す。
「あなたが、燈りを?」
「――さあな」
美籟から唯一掛けられた其の問いは、間髪無く返された言葉に彼が真実も、この地の一欠片の事象すら語る気が無い事を悟り。
美籟は亡き曾祖母の姿を瞼の裏へ、地に最後の言葉を残した……。
「さよなら、曾祖母様。……曾祖母様に、良く似た、人――」
其の音を最後に……美籟の姿も何時しか、風の攫うが如く其の存在を無くしていた――。
縛られた現世に。
せめて何時か、貴方の様な優しい香に我が身の包まれる事を願う。
現世に逸れたたった一片の華片よ。
今は唯、安らかに舞え……――。
【完】
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【5435 / 神居・美籟 (かない・みらい) / 女性 / 16歳 / 高校生】
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■ ライター通信 ■
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神居・美籟様
初めまして、この度は素敵なご注文を誠に有り難うございました。ちろと申します。
美籟様の課せられた護という名の宿業、其の立場に諦めを帯び、一線を引いた性格の中のふとした想い。
痩せの大食い等、魅力的な設定に私自身入り込んで、楽しく書かせて頂きました。^^
美籟様の、曾祖母様への切なる想いが文面にて表現出来ておりましたら、この上無く幸いです。
其れでは、又お会い出来る日を心よりお待ちしております。
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