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あるはずのない海
【プロローグ】
蒸し暑い夏の午後、草間の事務所を一人の女性が訪れた。
女性の名は、夏目千鶴。年齢は二十代半ばというところだろうか。
「絵を探してほしいのです。『あるはずのない海』と題された絵です。作者はわかりません。……その絵を見つけ、失われた妹の声を、取り戻してほしいのです」
彼女は、草間と対峙すると言った。詳しい事情を求められ、彼女は不思議な出来事を物語った。
今年十八になる彼女の妹・瑞樹は、一年前、父の友人に『あるはずのない海』と題された絵をもらった。それは、砂漠のただ中に海が広がっているという幻想的なもので、作者は不明だという。それをもらって数日後から、瑞樹はたびたびその絵を夢に見るようになった。夢の中で彼女はその絵の風景の中にいて、海を見詰めているのだという。そしてある時、夢の中で海から現れた言葉を話す美しい魚に乞われて、歌をうたってやったのだそうだ。すると魚はたいそう彼女の声が気に入り、それを欲しいと言い出した。瑞樹が夢の中のことだからと、深く考えずそれを承諾したところ、本当に声は魚に奪われてしまい、目覚めた後も、声が出なくなっていたのだという。
「――それ以来、妹はショックで学校も休学し、ずっと家に閉じこもったままなのです。絵の方は、妹の話を気味悪がった両親が、売り払ってしまいました。なのに妹は、今になってあの絵を見つけて、魚から声を取り返さなければ、自分の声は戻らないのだと言い出して……。実際、医師も声が出なくなった原因はわからない、だから治療法もないと言って、匙を投げた状態なのです」
千鶴は言って、悲しげに目を伏せた。
「絵の行方は、わからないんですか？」
草間の問いに、彼女はうなずく。
「はい。……美術商を介してのことで、そちらにも問い合わせてみましたが、常連客ではなかったので、わからないとしか。それに、両親は絵を買い戻すことにあまり積極的ではなくて……」
「なるほど……」
草間はうなずいて、考え込む。
結局、彼はこの依頼を引き受けることにした。その旨を伝えて彼女を送り出した後、彼はさっそく調査を開始した。
【１】
男との実りのない会話に、草摩色は内心に苛立ちながら、小さく奥歯を噛みしめた。
彼がいるのは、東京郊外の閑静な住宅街にある一戸建ての二階家だった。主は、目の前にいる宗方隆之（むなかた たかゆき）という五十前後の男だ。
事務所に遊びに行って調査を手伝うことになった色は、夏目千鶴の父の友人であるというこの男を、セレスティ・カーニンガム、綾和泉汐耶の二人と共に訪ねていた。件（くだん）の絵の入手経路や由来を聞くためだ。
もっとも、色にはその場所の昔の景色が見えるという能力がある。今はカラーコンタクトで隠しているが、彼の目は本来は銀色で、不思議な力が備わっているのだった。ただ、自分から進んで能力を人前で使おうとは思わない。今回、一緒に調査に当たっているのは初対面の人間ばかりだったし、聞き込みだけで絵の行方がわかるなら、自分の能力を使う必要はないと考えていた。なので、黙って調査につきあっている。
だが、宗方の答えはどれも、要領を得ないものばかりだった。
「絵は、ヨーロッパの画廊で買ったとおっしゃいましたが、どこの国のなんという街でしょう？」
何度目かの質問を繰り返しているのは、汐耶だ。
年齢は二十二、三歳ぐらいだろうか。長身ですらりとした体つきに、短い黒髪、銀縁のメガネ、濃紺のパンツスーツというなりで、華奢な青年とも見える。本業は都立図書館の司書だが、休日を利用して調査を手伝っていた。
「さて。さっきも言ったとおり、私は海外旅行や、その際に古い美術品などを買うのが趣味でしてね。たくさんあるので、いちいち覚えていないんですよ」
宗方は言って、小さく肩をすくめる。
「だったら、思い出せよ。友達の娘が、声をなくして苦しんでるっていうのに、少しは協力しようって気にならないのかよ」
内心の苛立ちをそのままに、色は横から口を出した。最初は彼も敬語で話していたのだが、宗方の態度に次第に言葉が乱暴になっている。
彼の言いように、宗方もさすがにムッとしたようだ。
「協力しているから、こうして訊かれるままに答えているんでしょう？ 私だって、心外ですよ。まるで、私のせいで瑞樹ちゃんがあんな目に遭ったかのように言われて……」
「申し訳ありません。熱心なあまり、少し口が過ぎたようですね」
セレスティが、それをやんわりとなだめる。
こちらは、二十代半ばぐらいだろうか。ほっそりとした体に、長く伸ばした銀の髪と青い瞳、白い肌の絶世の美貌の持ち主だ。リンスター財閥総帥だというが、草間から頼まれて、今回の調査を手伝っているらしい。
「色くん、キミも少し言いすぎですよ」
彼に咎められ、色はムッとして顔をしかめ、そっぽを向いた。
それを薄く笑って見やり、セレスティが改めて宗方をふり返る。
「後で、よく言って聞かせます。――しかし、それはそれとして、私たちももう少し具体的に実りのある話を聞かないことには、次の行動に移れませんので。もう一度お訊きします。絵をどうやって手に入れられたのですか？ そして、その絵にまつわる由来を、何かご存知ではないですか？ また、その絵の写真などをお手元にお持ちではないですか？」
「さっきから言っているとおり、絵はヨーロッパのどこかの画廊で買ったものだ。由来についても、描いた画家についても、私は知らないし、写真などはないよ」
宗方は言って、また肩をすくめた。
「しかし、私だって瑞樹ちゃんの声が出なくなったのが、本当にあの絵のせいなら、あなた方に協力したいのはやまやまだ。昔の日記や写真類を探してみよう。ただ、絵についての記録があったとしても、見つけるには時間がかかる。……なんなら、後日こちらから連絡するが、どうです？」
言われて色たち三人は、思わず顔を見合わせる。
「わかりました。お願いします」
セレスティが代表して言うと、草間の事務所の電話番号を教えた。
宗方がそのメモをズボンのポケットにしまうのを見やって、汐耶が口を開く。
「最後にもう一つだけ、お伺いしたいのですが。声が出なくなって、一年も経ってから、千鶴さんが行動に出たのは、どうしてだと思われますか？」
「さあ……。どうして、そんなことを？」
少し考え込んだ後、宗方は問い返した。
「あ……いえ。ただ、もしかして何かご家庭に問題でもあって、それでかなと。……すみません」
答えたものの汐耶は、すぐに困ったようにうつむいてしまう。
「家庭に問題ね。……それはないと思いますが、ただ、夏目もその夫人も超常現象というやつを、まったく信じませんからね。かなり頭の固いところもあるし。世間体が悪いとかなんとかで、何もしないでいるうちに、一年が過ぎたということではないですか？」
宗方は、怒ったようでも呆れたようでもなく、ただ面白そうに小さく笑って言った。
「はあ……」
汐耶が、どう答えていいかわからないといった、曖昧な声で返事する。
セレスティが、その彼女と色に質問はもうないかと確認するように、視線を送って来た。二人がうなずくと、彼は立ち上がる。色と汐耶も、続いて立ち上がった。
「それでは、よろしくお願いします」
宗方に頭を下げて、ステッキをついてセレスティは歩き出す。汐耶が慌てて、その彼を支えた。
本性が人魚である彼は、目と足が弱いらしい。普段は車椅子で生活しているようだが、今日はそうもいかず、ステッキを用意して来ていた。ちなみに、宗方家までの移動は、運転手付きの自家用車を使っていて、色と汐耶もそれに便乗させてもらった。ただ、家の前に停めるのはさすがにはばかられて、少し通り過ぎた人気のない場所に駐車していた。
三人は、そのままそろって、宗方家の玄関を出た。
【２】
外に出た途端、色は声を上げた。
「いいのかよ。こんなに簡単に引き下がって」
「しかたありませんよ。あんまり強引なことをして、相手の機嫌を損ねては、逆に協力してもらえなくなるでしょう？」
セレスティが、やんわりと言って、汐耶を見やる。
「ところで、これからどうします？」
「そうですね……。夏目家と美術商の方へは、草間さんたちが回るって言ってたけど……なんだったら、私も直接話を聞いてみたいわ。宗方さんはああ言っていたけど、私、やっぱりどうして一年も過ぎてから絵を取り戻そうとしているのかが、なんだか気になるんです」
少し考えてから、汐耶は言った。
「美術商の方には、私も会ってみたいですね。作者は不明だと言っていたけれど、美術商なら、絵の作者を知っている可能性もありますし……。とりあえず、草間さんに電話して、そのあたりがどうなっているか、聞いてみましょうか。なんなら、彼らと合流してもいいですし」
セレスティもうなずく。
二人のやりとりを聞きながら、色は自分の能力のことを、彼らに話そうかどうしようかと、しばし悩んだ。このまま美術商の元へ行っても、はたして有益な情報が得られるかどうかは、わからない。むしろ、夏目家へ行き、彼の能力を使って絵の行方を追う方がいいのではないだろうか。
一方、セレスティは、草間に連絡するために携帯電話を取り出そうとしていた。
その時だ。人の気配に顔を上げた汐耶が声を上げた。
「シュライン、みなもちゃん、草間さんも……どうしてここへ？」
彼女の言葉どおり、そこには絵の行方を追っているはずの、シュライン・エマと海原みなも、そして草間武彦の三人がいた。
「美術商の方から、絵の作者が宗方隆之さんだとお伺いしたので、こちらへ来ました」
答えたのは、みなもだった。
彼女は、十三歳。中学一年生だ。ほっそりした体に、ノースリーブのワンピースと、レースの半袖ボレロ、サンダルというかっこうだ。長く伸ばした青い髪と青い目の、愛らしい少女だった。
「本当ですか？」
思わずセレスティが問い返す。
色も目を見張った。宗方が、絵の作者だったとは驚きだ。夏目千鶴からは、彼はいくつか持っている不動産を人に貸して、その賃貸料で生活していると聞いていた。
「はい」
「私たちが、どうして絵の行方を追っているのかを話したら、教えてくれたのよ」
うなずくみなもに、シュラインが補足するように言った。
彼女は、二十五、六歳ぐらいだろうか。すらりとした長身の体に、白いパンツスーツをまとい、長い黒髪は後ろで一つに束ねていた。胸元には、色付きのメガネが下がっている。本業は翻訳家だが、草間興信所の事務員もやっていて、今は助っ人に回っているのだ。
「宗方隆之は、霜月創（しもつき そう）という名で、海外では有名な画家らしい。ただ、日本じゃあんまり知られていないんだそうだ」
草間も言って、美術商から聞き込んで来た話をセレスティたちに教えた。
それによれば、件の絵、『あるはずのない海』は、霜月創が幼くして死んだ妹の鎮魂のために描いた、未発表作品なのだという。それがどうして、夏目瑞樹に贈られたのかまでは美術商も知らないらしかった。ただ、夏目にこの美術商を紹介したのは、宗方だったらしい。
美術商は、買い取った絵が宗方のものであることに気づいて驚き、彼に連絡を入れたのだという。最終的に宗方は、他の自分の作品と交換する形で、その絵を引き取って行ったのだということだ。
つまり、現在その絵は、ほかでもない宗方の手元にある、ということだ。
話を聞いて、色と汐耶、セレスティの三人は顔を見合わせた。
「どうやら私たちは、まんまと一杯食わされたようですね」
セレスティが言う。
「ああ。あいつ……絵を持ってるなんて、一言も言わなかったんだぜ」
顔をしかめて、色もうなずいた。
「とにかく、じゃあ、一緒に話を聞きましょ」
それへシュラインが言って、インターホンを鳴らした。
ややあって、玄関に出て来た宗方は、彼らの姿に驚くよりも呆れたようだった。が、代表して草間が美術商から聞いた話を告げると、小さく肩をすくめて中に入るよう言った。
【３】
宗方が、六人に増えた色たちを案内したのは、アトリエとおぼしい一室だった。そこの壁に、その絵はかけられていた。
窓一枚分ぐらいの大きさはあるだろうか。たしかに、幻想的な作品だった。
広い砂漠の中に、海とおぼしい青い水の連なりが描かれている。しかし、じっと眺めていると、風紋に彩られた砂もまた、海水のように見えて来るのだ。
（だまし絵みたいな絵だな……）
胸に呟き、色は探るように絵を見やる。もっとも、カラーコンタクトをしている今の状態では、そこにどんな秘密があるのかを、探ることはできなかった。
他の面々もしばし黙って絵を見やっていたが、やがてシュラインがふり返り、宗方に尋ねた。
「この絵は、妹さんの鎮魂のために描かれたと聞きましたけど、どうして瑞樹さんに贈ったんですか？」
「彼女が小さい時に、約束したからです」
宗方は言って、わずかに口元をゆがめると、詳細を話し始めた。
彼と千鶴たち姉妹の父・夏目とは、中学時代の同級生なのだという。それもあって、千鶴や瑞樹が小さいころから、夏目一家と宗方の交流は続いていた。
ただ、彼が絵を描き始めたのは高校のころからで、夏目はいまだに彼が画家であることを、知らなかった。だから当然、この家にある絵を見ても、彼の作品とは思いもしなかったらしい。
瑞樹が七つか八つぐらいの時だ。この絵をすっかり気に入ったらしい彼女に、宗方は十七の誕生日に絵を贈る約束をした。当時の瑞樹が、彼には幼くして死んだ妹の姿に重なっていたためだ。そして、彼女が十七になった時、絵は約束どおり、彼女に贈られた。
「まさか、こんなことになるとは、思いませんでしたが」
自嘲気味に宗方は言って、更に話を続ける。
絵のモチーフは、小さいころに彼が妹のために作った物語だった。
砂漠のただ中に存在する、清い心の持ち主以外にはけして見えない《あるはずのない海》。そこには人の言葉を話す魚が住んでいて、訪れた者の心を試すかのように、贈り物を要求する。断ればそこから戻ることはかなわず、贈り物を渡せばそこから戻って幸福なくらしができる。ある時、そこに一人の魔女が訪れる。魔女は歌によって街を破壊し、人のさだめをゆがめる力を持っていた。魚はその声を所望し、魔女はそれを渡して国に戻り、平凡な娘として一生を送った――という物語だ。
「妹は、この話がとても好きでした。だから、鎮魂のつもりで、この絵を描いたのです。それを気に入ってくれた瑞樹ちゃんが、私には妹のように思えました。彼女が十七まで生きれば、妹もその年まで生きられたことになる――なんだかそんな気がして、この絵を十七の誕生日に贈る約束をしたんです」
宗方は、小さく唇を噛みしめて話す。
「ですが、瑞樹ちゃんの声が出なくなった理由を知った時、私は怖くなりました。……夏目は、もともと超常現象など信じない男でしたが、あの時にはさすがに気味悪がって絵を手放したいと言うので、友人の美術商を紹介したんです。でも、あいつが絵のことで連絡をくれて……結局、手元に取り戻してしまいました」
「なるほど。しかし……」
草間がうなずき、改めて絵を見上げる。何をどう言っていいか、わからない様子だ。
と、ずっと黙って話を聞いていた色が、つと絵に歩み寄った。他の者たちが話に聞き入っている間に、彼はカラーコンタクトをはずし、更にもう一つの能力を引き出すため、指先を軽く噛んでにじんだ自分の血を口にしていた。
「俺なら、この絵の中に入って、魚と交渉することができるぜ。もしかしたら、あんたたちも一緒に連れて行けるかもしれない」
言って、草間たちをふり返り、「どうする？」と訊いた。
草間たちが、思わず顔を見合わせる。しかし、瑞樹の声を取り戻すためには、魚と交渉する必要がどうしてもあるだろう。
「いいわ、行きましょ」
「ですよね。それしかないなら、あたしも行きます」
シュラインの言葉に、みなももうなずく。セレスティも言った。
「それしか手がないなら、しかたないでしょう」
「ええ」
汐耶もうなずく。草間も、溜息と共に同意した。そして、宗方をふり返る。
「宗方さんは、ここにいて下さい。大丈夫。瑞樹さんの声を取り戻して、無事に帰りますよ」
言って彼は再度、色にうなずきかける。
色はうなずき返すと、彼らに自分につかまるように言った。
【４】
一瞬の眩暈のような感覚の後、色は浜辺に投げ出されていた。
身を起こし、あたりを見回す。そこは、静かな波が打ち寄せる浜辺だった。前には広い海が広がり、その彼方は水平線に消えている。後ろには、ただ白い砂が営々と地平線の彼方まで続いていた。砂には、水晶が混じっているらしく、太陽の光に照らされて、きらきらとまぶしく輝いていた。あたりには日光を遮るものもない。が、暑くはなかった。
（他の連中はどうしたかな。……他の人間まで、別の世界に飛ばすなんて初めてだし、うまく行ってりゃいいけど）
色は、ふとそんなことを思う。
（草間さんが選んだ連中だし、大丈夫だとは思うけどな）
そして、魚の姿を探すように、海の方を見やった。
と、まるでそれに応えるように、澄んだ歌声が聞こえ始めた。声は、徐々に近づいて来る。
やがて、彼の目の前に、水晶の体と青い背びれを持つトビウオに似た巨大な魚が現れた。
「おやおや。あの人魚の占いどおり、頻繁に人間に会うこと。おまえで、もう四人目だよ」
魚は、彼が声をかけるより早く、面白そうにそんなことを言う。
（へぇ。やっぱり、他の連中もちゃんとこいつに会ったんだな）
色は胸に呟きながら、何食わぬ顔で声をかけた。
「あんた、綺麗な声してるよな。でもそれ、あんたの声じゃないだろ？ 返してくれないかな」
「いいわよ。代わりのものをくれたらね」
魚は、彼の乱暴な口調も気にならないのか、笑って返す。
「代わりのもの？」
「ええそう。……たとえば、おまえの大事なものを」
問い返す色に、魚は言った。
途端に、色は眉をしかめて考え込む。大事なものと言われても、思いつかない。家族、友人、健康、あるいは自分の持ち物……大事なものといっても、いろいろあるだろう。
彼が悩んでいると、魚は意地の悪い目をして言った。
「おまえ、普通の人間じゃないだろう？ おかしな能力を持っている。でも、昔はそんな能力もなくて、普通の人間だった。違うかい？ もしそうなら、普通の人間だったころの、一番楽しい記憶をお寄越し。そしたら、声を返してあげるよ」
「なんだと？」
思わず気色ばんだものの、色は慌てて自分を抑える。できれば穏便に、話を進めたかったのだ。
小さく唇を噛みしめ、彼はしばし逡巡する。だが、やがて心を決めた。
「わかったよ。けど、ちゃんと声を返せよ」
言って彼は、その時のことを脳裏に思い浮かべる。それは、幼い彼が両親と共に、初めて遊園地に行った時の記憶だ。病魔に犯されてはいても、今にして思えば幸せだった時代の、最後の記憶でもある。
と、魚はパクパクと何度か小さく口を動かした。そして言う。
「いいわ。記憶はもらったわ。……でも、全部はだめ。渡すのは一部だけよ。なにせ、おまえで四人目だから、かなり空白が出来てしまっているの。おまえの前に会った人間に、そっくりな声をもらったけど、やっぱり本物は貴重ですもの」
色は魚の勝手な言い分に、少しだけムッとした。が、それを面に出さないようこらえる。
魚が誰と会ったのかはわからないが、すでに自分を含めて四人と会っているなら、あと二人とも出会って取引をする可能性は高い。残りは、その二人に任せようと考えた。
「それでいいよ」
言った途端、また眩暈のような感覚が襲って来る。彼は、自分が元の世界に戻ろうとしているのだと理解した。
【エピローグ】
あれから、数日が過ぎた。
学校から帰って色は、子供のころのアルバムを引っ張り出した。今日学校で、クラスメートと小さいころの思い出について話していて、何か忘れているようなおかしな感じに襲われたのだが、その原因をたしかめたかったのだ。
あの日、彼は目を開けると再びもとどおり絵の前に立っていた。それは他の者たちも同じで、彼らは一人づつ魚と何かを交換し、最終的に瑞樹の声を取り戻すことに成功したようだった。
彼らが呆然と絵を見詰めている時に、草間の携帯に千鶴から電話があり、瑞樹の声が戻ったと知らせて来たのだ。
瑞樹が夢で絵の中に行き、魚と取引できたのは、そこに込められた宗方の想いと、波長が合ったからだったのかもしれない。
ともあれ、絵は汐耶の力で封印され、この後は宗方がずっと保管して行くことになった。
また、千鶴と瑞樹への事情説明は、草間が行ったようだ。
こうして調査は無事終了した。
草間からは、千鶴と瑞樹が後日、事務所へ礼に訪れたという話を聞いている。瑞樹は、見違えるように明るくなっていたということだ。
アルバムのページを最初から最後まで調べてみたが、何も忘れているようなものはない。どの写真もちゃんと色の記憶にあるものばかりだ。だのに、やはり何かが欠落しているような、忘れているような、おかしな感じだ。
（もしかして、あの魚に渡した記憶のことなんだろうか……）
ふと彼は思う。だが、それがどんな記憶だったのか、もう思い出そうとしても思い出せなかった。ただ、どうしてだか胸が痛い。ふいに涙が出そうになって、彼は慌てて目元をこすった。
（バカか、俺は。記憶は記憶にすぎないじゃんか。小さいころのことなんて、もっと年食ったら、どっちみち忘れちまうんだし……たいしたことじゃないさ）
自分で自分に言って、彼は無理に笑顔を作った。そして、もうそのことは忘れようというかのように、出したばかりのアルバムを、再び本棚の奥にしまい込むのだった――。
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■ 登場人物（この物語に登場した人物の一覧） ■
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【整理番号 ／ ＰＣ名 ／ 性別 ／ 年齢 ／ 職業】
【２６７５ ／草摩色（そうま・しき） ／男性 ／１５歳 ／中学生】
【１４４９ ／綾和泉汐耶（あやいずみ・せきや） ／女性 ／２３歳 ／都立図書館司書】
【１２５２ ／海原みなも（うなばら・みなも） ／女性 ／１３歳 ／中学生】
【００８６ ／シュライン・エマ ／女性 ／２６歳 ／翻訳家＆幽霊作家＋草間興信所事務員】
【１８８３ ／セレスティ・カーニンガム ／男性 ／７２５歳 ／財閥総帥・占い師・水霊使い】
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■ ライター通信 ■
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●草摩色さま
はじめまして。参加いただき、ありがとうございます。
ライターの織人文です。
魚との取引の材料が、色さまには少し酷だったかも……と
思いつつ、このような形にまとめてみましたが、いかがだったでしょうか。
少しでも楽しんでいただければ、幸いです。
それでは、またの機会がありましたら、よろしくお願いいたします。
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