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オベロンの翅音
夕方の結城探偵事務所は西日が射してまぶしい。
レースの白いカーテンがほんの少しだけ夕陽のオレンジ色を和らげて、人影も曖昧ににじんでいる。
日が落ちても、まだこの時間の外はまとわりつくような熱気で満ちていた。
良い地酒を揃えてる店を教えてもらったので、久しぶりに僕――綾和泉匡乃は和鳥鷹群と予定を合わせて出かけるために、事務所に立ち寄った所だった。
アルコール耐性が同じ位の友人は貴重だからね。
それにまだ、妹がお世話になったご挨拶も所長の結城さんにしていなかった。
「別にお土産なんて良かったのに」
水羊羹を受け取った結城さんはそう言うけれど、事務所にお菓子はいくらあっても問題ないんじゃないかな?
アンティークな家具が揃う事務所は、明治時代に建てられた洋風建築だ。
窓も大きく取られているし、階段の手すりや棚の飾りも細やかな細工が施されていて、見ていて飽きない。
定時というものがあって無いような事務所だが、今日は通常の会社と同じ時間に上がれるようだ。
ふと、珍しく大きく口を開けて結城さんがあくびをする所を見てしまった。
ソファでくつろいでいた僕は少し驚いた。
決まり悪げに「失礼、匡乃くん」と結城さんは口元を覆う。
僕の知る範囲で結城恭一郎という男は、事務所でこういった姿を見せないのだけれど。
「所長、寝不足ですか?」
資料をまとめる手を止め、調査員をしている和鳥が心配そうに結城さんを見る。
「この頃暑い夜が続くしね」
照れたように笑って、結城さんは「心配ないよ」と続けた。
「夜になると……多分羽虫だろうけど、窓を叩く音がするんだ。それが気になってね」
するとデスクから立ち上がった和鳥が僕の手を取り、宣言した。
「俺がこいつと一緒に何とかします!」
使命感に燃える和鳥の瞳が熱すぎる。
「え? 何とかって、今日は飲みに……」
「鷹群、多分羽虫の仕業だから……」
僕と結城さんの言葉は和鳥の耳に届いていないようだ。
「今晩は俺もこいつもここに泊まります! だから所長は安心して下さいっ」
「ええ!? 僕は明日も仕事だぞ?」
「いや、きっと羽虫……」
僕はこうして成り行き上、結城探偵事務所に一泊する事が決定してしまった。
まあ、短い夏の夜に不可思議な音を確かめるのも面白そうだね。
「銘柄は任せるけど、冷酒が美味いのを選べよ。
それからつまみは和鳥が作るんだよな?」
「綾和泉、お前態度デカ過ぎないか?」
冷蔵庫の中身をチェックして買出しに出かける和鳥を、玄関先で見送りながら僕は言った。
猫かぶりだって言いたいのか?
TPOをわきまえてると言って欲しいね。
「せっかく飲もうって気分だったのに、和鳥がここに泊まるなんて言い出すからだろ」
確かに音は気になるけれど、こうもアッサリ予定を変更できる和鳥もどうかと思うね。
和鳥の瞳が何かに気が付いたように見開かれる。
「ああ、もしかして拗ねてる?」
「僕が?」
冗談にしては笑えない。
思いっきりしかめた眉間に皺が寄ったが、和鳥は屈託なく笑って出て行った。
「誰が拗ねてるって」
深く考えるのもばからしくなって、僕は二階へと上がって行った。
事務所の二階が結城さんのプライベートルームになってるらしい。
こうしてみるとかなり広い家だ。
事務所は閉めてしまったので、結城さんもリビングでのんびりしている。
足元には純白の毛並みの雪狼が行儀良く座り、僕の方を見て尾を振った。
「すまなかったね、今日は約束していたんだろう?」
僕に空いたソファを勧めて、結城さんは困ったように苦笑した。
「鷹群は言い出したら曲げないから」
「いえ、僕も興味がありますよ。その音にね」
昼と夜の合間に出現する、狭間と呼ばれる怪異。
それらと闘う結城さんたちの事だから、もしかしたらただの虫の音ではないのかもしれない。
「虫だと思うけどね」
また一つ大きくあくびをして、結城さんは顔を赤らめた。
本当に睡眠不足なんだな。
足元の雪狼も同じように口を開け、前足を伸ばした。
「何か悩み事でもあります?
そのせいで眠れないという場合もあるでしょう。
僕でよければ愚痴でも聞きますけど?」
結城さんは「ありがとう」と言って微笑んだ。
それから頬の上に指を這わせ、小さくため息をつく。
表情を作る、というのができない人なんだな。
まがりなりにも表向きは探偵で、年齢も僕より二十年も上だ。それなのに。
「……愚痴ではないけど。
うん……匡乃くんは鷹群と親しいから、わかってもらえるかな」
「和鳥の事ですか」
結城さんは左足に視線を落とした。
「鷹群は俺の傍にいると、何でも俺を優先するんだ」
「それは和鳥が基本的におせっかいだからじゃないですか?」
僕の気まぐれにも平気で付き合ってくれる男だ。
度量が広いか……言い方を変えれば小さなこだわりがないのか。
「違うんだよ。鷹群は十年前、自分のせいで俺が怪我をしたと思っている。
その責任を感じてるんだろう」
償いなのか好意なのか、その線引きはどこにされるのだろう。
僕には和鳥がただの罪悪感から結城さんに接しているようには思えない。
結城さんが思うほど和鳥は子供でもない。きっと。
けれど十年前といえば、当時の和鳥は高校生だったはずだ。
親にとって子供がいつまでも子供であるように、結城さんの中で和鳥は初めて出会った高校生のままでいるのかもしれない。
「もうそろそろ、そんなものから解放されてもいい頃だと思うんだ」
足元の雪狼に手を伸ばし、結城さんはひっそりと呟いた。
「それ、和鳥には言いました?」
「好きでやってる事だから、って返されたよ」
和鳥らしい答えだと思った。
「そうですか」
僕は結局気の利いた答えも返せず、ただ結城さんの話を聞いただけで終ってしまった。
「所長、ご飯できましたよ。綾和泉、皿ぐらい運べよ」
「和鳥ってわかりやすく結城さん第一主義だよな」
呆れてたらカルパッチョの皿を押し付けられてしまった。
酒は塩でも呑めるけど、つまみはあった方がもちろん楽しい。
僕は皿をキッチンからリビングまで運んだ。
僕は日本酒を、鷹群は缶入りのチューハイ、結城さんは麦茶を飲みながら夜中まで待つ事になった。
「結城さん、お酒苦手なんですか」
缶入りアルコールなんて、酒のうちに入らないじゃないか。
結城さんは鷹群の作ったひき肉春雨丼を口に運びながら、気まずそうに頷いた。
「妹さんから聞いてない?」
「特に、何も」
妹の所にはたまに顔を出すけれど、とりとめない話題ばかりだったように思う。
兄妹の会話なんてそんなものじゃないかな。
「所長は酒に弱いんだよ」
焼きなすをつまんでいる和鳥が言った。
それに続けて、結城さんが口を開く。
「……酔うと周りの人間に抱きつくみたいで……楽しかったのは覚えてるんだけどね。
あ! 妹さんに抱きついたりは、してない……と思う、から……」
最後の方は聞き取れないくらい小声だった。
気の置けない仲間とのお酒の席でなら、その位許されるのにね。
ああ、相手が女の子だとちょっとまずいかな。
結城さんだったら良い感じに誤解する女性がいても、おかしくないけれど。
「たいがい犠牲者は俺ですよ」
和鳥は冷えた酒を僕のぐい飲みに注いで、自分も缶をあおった。
言葉は迷惑そうでも、口調には嫌な感じは受けない。
何だかんだ言っても、二人とも良いコンビネーションじゃないか。
「見てみたかったな、結城さんの酔ってる所。ああ、少し飲んでみます?」
「え、遠慮するよ! 本当にだめなんだ!」
結城さんの空いたグラスに日本酒を注ごうとしたら本気で困られてしまった。
この人からかい甲斐あるなぁ。
あまりいじめると和鳥が睨みそうなのでやめた。
「ところで、夜中ってだいたい何時頃にその物音はするんですか?」
食器を片付けてしまうともうする事が無い。
僕と和鳥はまだアルコールを飲み続けている。
なかなか酩酊感が訪れないのも、それはそれで寂しいものだ。
飲めない人にはまるでわからない例えだけれどね。
「二時頃かな……」
「所長は寝ていても良いですよ。見張ってますから」
和鳥はそう言って立てかけてあった日本刀の鞘を持ち上げた。
緋色の鞘と、透かしになった桜の鍔が綺麗な刀だ。
実際に和鳥が闘っている所を僕は見た事がないけれど、その時彼の相棒になるのがこの日本刀。
人工精霊を載せた刀の名前は、『紅覇』と言ったかな。
「かえって眠れないよ」
深くソファに身体を沈めて、結城さんは笑いながら言った。
見ていると欠伸の回数も多いようだし、早めに寝室に向かった方がいいかな。
「でも、窓のあたりも確認したいですし、寝室にお邪魔しても良いですか?」
「殺風景な部屋で良ければ、どうぞ」
結城さんに通された寝室はちょうど一階の応接コーナーの真上らしく、六角に張り出した部分が部屋のコーナーにある。
ライティングデスクやベッドもアンティークで統一されていた。
といっても豪奢な装飾の無い、慎ましやかな雰囲気のものが多い。
和洋折衷で、今はもう使われていない暖炉の前には墨の濃淡で描かれた衝立が目隠しに置かれていたりもする。
デスクにはパソコンが置かれている。現代的なものはパソコンくらいの物だ。
問題の窓辺には確かに何も霊的な痕跡がない。
いや、この家自体、歳月を経た物にしては随分……『綺麗すぎる』。
どこの家にも少しは低級な心霊物がいるはずなのに、ここにはそれがいない。
護符や退魔呪法が施されてるようにも見えないんだけどな。
「良い部屋ですね。アンティークは結城さんの趣味ですか?」
「いや、俺はそういうのは全くわからなくて。前の持ち主の趣味だよ」
家具ごと譲り受けたのか。
どんな人物のコレクションだったのか、機会があれば聞いてみたいね。
「明かり消した方が良いですか? ほら、寝てる所長の所に来る訳ですし」
ドアの傍に立った和鳥が聞いた。
「僕もその方が良いと思いますよ」
窓の外にはすぐ傍の公園に繋がっていた。
街灯の明かりに誘われた虫が気まぐれに窓を叩いたのかもしれない。
「じゃあ、鷹群」
結城さんと僕が椅子の座ったのを見てから、和鳥は明かりを落とした。
暗がりに瞳が慣れてくると、月光に照らされた部屋の様子が良くわかる。
結城さんは静かに雪狼を膝に抱いて、その身体を抱きしめるように座っていた。
雪狼は赤い瞳を窓に向け、じっと動かずにいる。
そして和鳥は窓のすぐ下で紅覇を構え、片膝を立てて座り込んでいた。
僕は何故かそんな和鳥を見て、墓守のようだ、と思った。
もちろん結城さんは生きているし、ここは花を添える人も途絶えた墓所ではないのだけれど。
墓守でなければ、殉教者かな。
他人からすれば理不尽な事柄でも、求め抱く目的のためになら命すら投げ出す殉教者。
……僕は不吉な予感をはらんだ考えを消して、窓の外に集中した。
きっと和鳥がいない時に結城さんと話したのが、頭に残ってるんだな。
――かつん。
かすかなガラスを叩く音がする。
――かつん。かつ、ん。
「来た」
チ、と澄んだ音が響き、紅覇を抜刀した和鳥が立ち上がった。
僕も立ち上がって窓辺に急ぐ。
「……これ、公園から飛んできたんですかね?」
「……やっぱり虫だったか」
窓の外には大きな一対のはさみを持ったクワガタムシが飛んでいた。
翅を広げているのをあまり見た事がなかったので、ガラスに目を近づけて見入ってしまう。
刀まで抜いてしまってる和鳥に、僕は冷ややかな視線を投げた。
「和鳥、早くその物騒な物しまえよ」
「わかってるよ!」
ばつが悪そうに言い返して和鳥は刀を鞘に戻し、明かりを点けた結城さんが「二人ともご苦労様」と労ってくれた。
「匡乃くんは俺の隣の部屋が空いてるから、そこに泊まるといいよ。
鷹群は今日も屋根裏部屋かい?」
「ええ、そうします。おやすみなさい、所長」
「失礼します」
廊下に出たところで僕は和鳥に聞いた。
「この家は屋根裏もあるのか?」
「ああ、狭いけどな。学生の頃ここに間借りしてて、その時から使ってる」
初耳だ。屋根裏部屋がある事よりも、和鳥がここに暮らしてた方が驚きだった。
どうりで、キッチンで食器のしまってある場所なんかにもやけに詳しい訳だ。
その辺はまた今度、二人で飲む時にでも聞こうか。
「おやすみ。和鳥」
「じゃあ、また明日な」
屋根裏に続く小さな階段を上る和鳥に、僕は声をかけて寝室のドアを閉めた。
(終)
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1537/綾和泉・匡乃/男性/27/予備校講師】
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■ ライター通信 ■
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綾和泉匡乃様
お兄さんは初めましてのご注文、ありがとうございます。
しかし、納品が遅くなってしまい……スイマセン!
匡乃くんにとって和鳥が、自分を作らないで接する事ができる相手ならいいな、と思いながら書かせて頂きました。二人とも同い年ですしね。
ともあれ、少しでも楽しんで頂ければ嬉しいです。
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