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オベロンの翅音
古い物が持ちうる神秘は、それを感知する人間の感度に程度こそあれ、確かに存在する。
僕はずっとそう信じて――いや、実際の経験に基づいて理解し、生きてきた。
神秘の開示された向こうに、更に広がる謎。
古の叡智を探る作業に没頭できる至福。
それこそが唯一、僕――城ヶ崎由代を探求に駆り立てる、真実だ。
三件目の古書店で見つけた和綴じ本は、思ったよりも状態が良く保存されていた。
人の目にあまり触れていない本、というのは本来の目的から大きく外れている気がして皮肉だが……それだけ余計な思魂が纏わり付いていなくて読みやすい。
予定ではまだ何件か回るつもりだったが、今日は引き上げようと思う。
新たに書物を手に入れると、すぐにでも読みたくなってしまう。
まだそんな子供じみた癖に振り回される自分を僕は笑って、店を出る。
そのまま帰宅するのも良かったが、ふと思いついて知人の家を訪ねる事にした。
友人の名前は結城恭一郎。
僕と同年代で、温厚な微笑をたたえた穏やかな男だ。
探偵の看板を掲げているが、その実東京の怪異と戦う『狭間狩り』の一人で、偶然狭間と出会ってしまった僕を助けてくれた。
結城には、僕が魔術を嗜む事を伏せたままで付き合っている。
表裏のない人物に隠し事をしているのは気が引ける。
結城なら僕が魔術を行使してもそのまま受け入れてくれるのではないか、とも思うが、しかし……。
僕は淡い期待と煩悶を繰り返しながら、季節を一つ進めようとしていた。
明治に建てられたという洋風建築を贅沢に使った事務所で、結城はデスクワークに追われていた。
「済まない、まだ片付かないんだ」
恐縮する結城に僕は微笑んで「勝手に待ってるよ」と返す。
あと一時間もすれば結城は事務所を閉めるだろうから、最初からそれを待つつもりでいた。
六角に張り出した応接スペースには風が入り、自然な涼しさで満たされていた。
大きく天井まで取られた窓で、白のレースのカーテンが淡い影をひるがえしている。
上まで視線を伸ばせば、優美な曲線を描く壁の装飾、程よく華美さを抑えた照明が見える。
内装・家具も時代物で統一された彼の事務所は、見てまわるのも楽しい場所だ。
ふと、珍しく大きく口を開けて、欠伸をする結城と目が合った。
結城は事務所で働いている時、あまりこういった面を見せない。
珍しいな。
「所長、寝不足ですか?」
資料をまとめる手を止め、調査員の和鳥鷹群が心配そうに結城を見る。
「この頃暑い夜が続くしね」
照れたように笑って、結城は「心配ないよ」と続けた。
「夜になると……多分羽虫だろうけど、窓を叩く音がするんだ。それが気になってね」
するとデスクから立ち上がった和鳥が僕の手を取り、宣言した。
「俺が城ヶ崎さんと一緒に何とかします!」
使命感に燃える和鳥くんの瞳が熱すぎる。
「え?」
「鷹群、多分羽虫の仕業だから……」
僕と結城の言葉は和鳥くんの耳に届いていないようだ。
「今晩は俺と城ヶ崎さんで泊まりこみます! だから所長は安心して下さいっ」
「ええ?」
「いや、きっと羽虫……」
僕はこうして成り行き上、結城探偵事務所に一泊する事が決定してしまった。
「急にこんな事になって、済まないな」
「謝ってばかりだね、結城くん」
事務所を閉めた後、僕は二階の結城の私室でくつろいでいた。
日が落ちても、まだ戸外は熱気に支配されている。
その中を郊外の自宅まで戻るのは、正直面倒だとも言えなくもない。
和鳥くんは夕食の買出しに出掛けてしまい、この広い家で僕らは二人きりだった。
初めてお邪魔した二階のリビングも、アンティーク家具が置かれている。
和洋折衷でなかなか趣味が良い。
普段は使う事のない暖炉の前には黒い螺鈿細工の衝立が置かれ、装飾と同時に目隠しも兼ねている。
これだけのコレクションは集めるのにも随分時間がかかったはずだ。
「ここの家具は結城くんが? なかなか良いね」
「いや、俺はそういうのはあまり良くわからないんだよ。
この家の前の持ち主の趣味でね。
アンティークは詳しくないけれど、この雰囲気は俺も気に入ってるんだ」
はにかんだように結城は笑い、足元の雪狼をひと撫でする。
雪狼は結城の武器である咆哮鞭・雪風で実体化させたもので、ほぼ盲目となった彼の視覚を補うため常に傍らにいる。
見た目は通常の動物と何ら変わりないが、狭間と対峙した時は明らかに異界の存在だった。
粉雪をまとわせながら疾走する純白の狼の群れは、鮮やかな印象を僕に残した。
その中心で怪異に容赦なく攻撃を仕掛けていたのが、結城だった。
今思えば、とてもこんなに穏やかな相手とは想像もつかなかったのだけどね。
「田舎だったら、羽虫ぐらいで大騒ぎしたりしないんだけどね」
結城のため息に僕は相槌を打つ。
「僕の家も都心から離れているから、それはわかるな」
しかし、たいてい羽虫は蛍光灯が放つ周波数におびき寄せられたり、光に集まってくるものだ。
夜、明かりを消した時に現われるのは、怪異の仕業か。それとも。
何が虫を呼び寄せているのか……。
「何なら、一度部屋に入れてみたら。
何が目的でキミの所に現われるかわかるかもしれない」
「手探りで窓を開けてかい?
夜は雪風も出していないから、ほとんどまわりが見えないよ」
半ば冗談めかして言うと、結城は手を振って苦笑した。
「ああ、目が見えないんだったね。気に障ったかい?」
その瞳からほぼ光が失われているなんて、一見した所でわかりはしない。
「いいや、気を遣われる事でもないよ。
普通に生活できるし……鷹群にもそう言ってるんだけどね」
「和鳥くん?」
僕の見る和鳥くんは真面目な好青年だ。
幼い顔立ちからは想像できないが、日本刀を使わせればかなりの腕前と噂も聞く。
「鷹群は、俺が足に怪我をしたのを……今でも自分のせいだと気にしていてね。
だから今みたいに俺の事を優先する」
結城は歩く時に左足を引いている事がある。
「それは、不幸な事だ……でも、もう終った事だろう?」
たぶん避けられない事故だったのだろう。
「……まだ高校生だった鷹群を、それで狭間狩りの世界に縛ってしまったのは俺だ」
苦しげに告白する結城の表情は、西日が投げかけた最後の光に曖昧ににじんでいる。
聞こえるのは辛そうな独白だけだ。
「結城くん。キミもそろそろ楽になる頃なんじゃないかね?」
過去との決別が人を前に進める事もある。
後ろ向きでも道は進んで行けるのだろうが、その先にある物は見えないままなのだろう。
「まだ俺は楽になれないよ」
結城は頑なに言った。
「それは……」
僕が言い募ろうとした時、リビングに繋がるキッチンから和鳥くんの声がした。
「ただいま戻りましたっ」
買い物袋を置く音に明るい声が重なり、ドアから顔を覗かせた和鳥くんはワイシャツにエプロンをかけていた。
「俺がいる時くらいまともなご飯作りますよ。
所長、また最近食事忘れてたでしょう? 冷蔵庫何も入ってないんですから」
シャツの腕をまくりながら、和鳥くんは口を尖らせた。
その仕草が子供っぽくて、僕は笑いながら結城くんを見た。
「仕方ないよ、集中すると時間の感覚がなくなるんだから」
言い訳する結城が可笑しい。
「城ヶ崎さんも実はそういうタイプじゃないですか?」
「僕が?」
「所長と城ヶ崎さんて、ちょっと似てますよ。
好きな事してると、まわりどうでも良くなっちゃうでしょ?」
再びキッチンに消える和鳥くんを見送って、僕らは顔を見合わせ肩をすくめた。
和鳥くんの料理を食べ終わった後、僕と結城はリビングでテレビを見ながら過ごしていた。
アスパラと牛肉のオイスターソース炒めが美味しかった。
手馴れた料理はきっと何度も作ったものなのだろう。
「自分で泊まるって言い出したくせに、鷹群は」
何だか大人しいと思ったら、ソファで和鳥くんが眠ってしまっていた。
「起こすのかい?」
和鳥くんは身体を長く伸ばし、クッションを抱えて本格的に眠りの態勢に入っている。
「寝かせておきたいな。
実は今日も、鷹群が事務所に戻ったのは明け方だったしね」
「そうか」
結城が麦茶を運んできたので、僕は話題を変えた。
「もう世間は夏休みだね。結城くんはどんな風に子供の頃過ごしてた?
僕はこれでも野生児で通っていたから、野山を駆け回っていたよ」
夏になると必ず訪ねた別荘。
懐かしい緑のむせ返る匂い、蝉の鳴き声。
それが忘れられなくて今は僕の住まいにしている。
「城ヶ崎くんが? とてもそうは見えないな……どちらかというと、本を読んでいるタイプかと思ったよ」
「ああ、もちろん夜は本を読んでいたさ」
たった一冊の書物がその後の生き方を変える事もある。
現在の僕を決定付けたのが、あの夏の日に読んだ魔道書なのは間違いない。
「ラジオ体操もきちんと通ったし、ドリルもはじめに済ませる方だったね」
結城くんは「すごいな」と目を丸くし言葉を続ける。
「俺も小さい頃過ごしたのが北海道の田舎だったから、よく川で魚を捕まえたりしてたな。
でもラジオ体操は苦手だったよ……朝起きれないからね」
気まずそうに眼鏡を上げて結城くんは言う。
「宿題は最後の一週間で終らせてた」
「意外だね」
結城くんの手の中で麦茶の氷が揺れて、音を立てる。
「一週間で終るくせに手をつけなかったな。何でだろうね。
やる事がなくなってしまうと、夏休みも終ってしまうとでも思ってたのかな」
楽しい時間に終わりが来るのは嫌なものだ。その気持ちはなんとなくわかるような気がした。
とりとめなくそんな話をしながら過ごすうちに、時計は一時を過ぎた。
「結城くん、そろそろ寝室を見せてくれないか?」
「そうだね……こちらが眠くなりそうだ」
明かりを落としたままの寝室は、月光の青白い光が降り注いでいる。
窓辺に立って外を見るが、特に目だった魔術の痕跡は感じられない。
いや、むしろ『綺麗すぎる』。
アンティークをふんだんに使った家なら、何がしかの残留思念、霊的波動を感じるものなのだが、ここにはそれがない。
結界でもあるのか? それとも、僕の瞳でもまだ感知できない魔道が働いているのだろうか。
「あとは音がするまで待つだけ、か。キミは眠っていても良いよ」
欠伸をかみ殺していた結城が軽くこちらを睨んだ。
「鷹群みたいな事を言わないでくれよ」
「まあ、眠っている結城くんに引かれて来ているのかもしれないしね」
ベッドの上に腰掛けた結城が肩をすくめる。
「虫だと思うけどね……」
「虚空の羽音を何と聞くかは、聞く人の心によるさ」
しばらくお互い黙ったままでいたら、かすかだが窓辺に気配を感じた。
――バタバタッ。
バタン。
念のためいつでもシジルを描けるよう構えながら、僕らはそっと窓辺に寄って行った。
「……蝉だ」
「……蝉だね」
翅をつかまれた蝉は抗議の声を上げ、指をすり抜けて夜空へ飛んでいった。
「となりの公園から来てたのかな。鷹群の思い過ごしだったね」
結城の視線の先には公園の緑が広がっている。
すぐ側にある公園は割と大きく、木々が街灯に照らし出されていた。
「いい年の大人二人が夜中に何をやってるんだろう」
蝉の感触が残る指先を見つめ、僕は言った。
「本当に」
薄闇の中で、笑みを含んだ結城の声がした。
蝉を触ったのは何年ぶりだろう。
懐かしい思い出をたどったせいで、今夜の僕は少しノスタルジックな気分に包まれていた。
僕らが少年の頃に出会っていれば、もっと親しい時間を過ごしていたのだろうか。
結城と語りたい事はたくさんあったけれど、僕らはもう大人で、ほんの少しでも眠れなければ体調を崩してしまう年齢になってしまっている。
それを残念だとばかりは思わないけれど。
「夏の夜は短いよ。夜が明ける前に寝てしまおう」
「そうだね……ここの隣の部屋が空いているから、好きに使って良いよ」
少し眠そうな結城の声が優しく響く。
その晩は久しぶりに子供の頃の夢を見た。
別荘までの長い砂利道を、家族と乗った自動車の窓から眺めている。
すると道を覆うように張り出した草木の向こうに、入道雲を背負った家が見えてくる。
初めて本を読む事を楽しいと感じた、あの家だ。
(終)
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【2839/城ヶ崎・由代/男性/42歳/魔術師】
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■ ライター通信 ■
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城ヶ崎由代様
ご注文ありがとうございます。
納品が遅れてしまいスイマセンでした!
城ヶ崎氏は結城と年齢も近いので、普段は年長者として振舞っている結城の弱い部分も書かせて頂きました。
夏休みに関しては、結城はやる気のない子供だったようです。朝起きれないのが致命的です。
少しでも楽しんで頂ければ嬉しいです。
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