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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


不定期バス


------<オープニング>--------------------------------------



 今、一台のバスが、田園風景の中を走り抜けていく。
 酷くゆったりとした速度でゆるゆる進むそのバスの車体は、照り付けてくる太陽の光にぴかりときらめき、時折ブルンと溜め息を吐くように排気ガスを吐き出した。
 平坦な道を行く、そんなバスの行き先が何処であるかということは、しかしその青年にとってどうでもいいことである。
 一番前の座席に腰掛けた、細面の華奢な青年。
 彼はその顔にのっぺりとした無表情を貼り付けて、窓の外をじっと見ている。小刻みに震える両手を腹の上でぎゅっと握り合わせ、これから自ずと考えなければならなくなる現実からも、自分が購わなければならなくなるはずの罪からも、そうして密やかに逃避している。最早、この場所が何処なのか、自分が何処に運ばれていってしまうのか、そんな当たり前のことを考える余裕すら彼にはなかった。
 頭の中は霧がかかったようにぼんやりとし、延々と同じ映像を断片的に再生している。
 どろどろとした赤黒いそれがリノリウムのくすんだ白の上に作った小さな水溜り。あの男の悲鳴。コンビニ店員の悲鳴。強盗だ、と誰かが叫び、気がつけば走り出していた僕。
 強盗だと言ったのは誰だっただろう。
 あの男と共に働いていた店員の一人だろうか。それとも、あの男の言葉だっただろうか。
 擦り切れたビデオのように、記憶にはノイズがかかり真実すらも見えなくさせる。
 罅割れる声。大音量の声。脈絡も規則性もなく混乱していく記憶。
 彼は小さな吐き気を催し、細かく震え続ける指先で自らの口元を押さえた。
 人を殺した。
 その言葉が生々しい感触を伴い喉元に込み上げる。
 人を殺した。きっと僕は人を殺した。きっとあの人は死んだはずだ。きっと、死んでしまったはずなのだ。あんなに血が出て、あんなに痛そうだったのだから。
 けれどそれでも僕は後悔しない。後悔などするはずがない。あんな男、死ねばいいのだ。そうだ。死んでくれて良かったのだ。僕の顔すらも忘れてしまうような。そんな、薄情な男なんかは。
 ガツン、とタイヤが石を噛み、車内に生じた揺れに任せ、彼は光を反射する透明な窓へどっと傾れる。
 うつろな目をした青年の、柔らかそうな茶色の髪がガラスと額の間でぐしゃりとつぶれる。
 冷たいガラスの生々しい感触は、これが紛う方ない現実なのだということを彼へ知らしめてくるようだった。
 これは現実。彼を刺し逃げた僕も。自分の前に滑り込んできた大型バスの扉が開かれるまま、誘い込まれるようにして乗ったことも。
 彼はぼやける視界のまま瞬きを繰り返し、ふっと前方に視線を向ける。
 その瞬間、青年と運転席に座る男の視線が交わった。
「気分が。悪いのか」
 何処か遠くから響いてくる声のように、その声は青年の耳を通り抜けて行く。



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 雲ひとつない真っ青な空にすーっと一筋の飛行機雲が伸びていく。
 次第に豆粒のように小さくなっていく飛行機の本体は、降り注ぐ陽の光にきらりと輝き、まるで地上にいる小さな人間達を嘲笑っているかのようだった。
 確かに嘲笑いたくもなるだろう。
 男はうだるような暑さの地上から、羨望の眼差しでその飛行機雲をじっと見上げた。
 彼は自分がいかに小さなことで悩み嘆いているかということも知っていた。
 たった二百枚。配ればいい。それだけのことなのだ。
 しかしそう思ってみたところで二百枚の壁は意外に高い。小さいと知りながらも悩まずにいられないのが人なのである。
 やがて飛行機の本体が視界から消えてしまっても、ゆるゆるとそこに浮かび続ける飛行機雲。尻尾の方からじわりじわりと消えていくそれを見つめていると、あらゆるものが消えていくにはそれ相応の時間が必要なのだということに彼は思いを馳せずにはいられない。
 万物の法則。あらゆる物が消えていく速度。それは焦ろうがもがこうが人間の力だけではどうあったって逆らえない自然界の法則だ。
 昔の人は待つ、ということを知っている。たとえばこんな言葉だってある。家宝は寝て待て。
 焦ってみたって仕方ないのだ。
 シオン・レ・ハイは小さく息を吐き、翳していた視線と共に地面へと視線を落とした。
 熱気に揺らぐ視界の先に、ぐちゃぐちゃに詰め込まれたおもちゃ箱の中のような町並みが見える。
 統一感のない、猥雑な色。駅からどっとくだりだした人々は、さまざまな目的地に向かいそれぞれなりの歩みを進め、バス停には定期的にバスが停車する。駅の前に開けたロータリー。彼は今、その一点に誰と交わることなく立っている。
 彼の右手に握られた配布を頼まれたチラシの束は、誰に配られることなくよれていた。
 たった二百枚だ。配ればいい。大丈夫だ。
 そう自分に言い聞かせ、時間ばかりがとうとうと過ぎていた。当初はお気楽に考えていた彼も、次第に焦らずにいられない。
 配ろうとするから焦るんだ。配ろうと思わなければ焦らない。
 懸命に自分を落ち着かそうと、シオンはその場をうろうろ歩く。
 焦らず待てばいい。家宝は寝て待て。きっと神様は見てくれている。何か劇的な出会いや奇跡が起きて、このチラシはびっくりするほど呆気なく消えうせる。
 シオンは切実な悲鳴をあげる、自分の腹にそっと手を乗せる。あの人はいい人だから、チラシを配り切れなかったとしても、あるいは飯を用意してくれるかも知れないのだけれど。
 しかしそんな好意に甘えてしまってはいけない。自分はきちんと任務を全うし、そうして晴れて夕飯にありつくべきなのだ。
 頑張れ、シオン。
 彼はそっと自分自身にエールを送る。
 飯のために頑張れ、シオン。切実なる問題は、自分で解決すべきなんだぞ。
 しかしそれはいくら切実でも、至極個人的な問題なのだった。目の前を素通りしていく人の殆どが、そんな悲劇になど頓着しない。
「おじさん、切ない」
 彼はその、聊か凄みある丹精な顔には余りにも似合わない言葉を呟いた。
 だいたい、とシオンは思う。
 だいたい、この街の人々は冷たすぎるのだ。
 本当は自分だって気さくにばしばし配りたいのだ。むしろ爽やかにどうぞとチラシを差し出したい。
 けれど人々から距離を置かれてしまった今のままじゃあ。
「もうおじさん、泣いちゃうから」
 彼はそっと、その切れ長の目尻を拭う。
 無視されたことが辛いのか、チラシが減っていかないことに苛立っているのか、受け取って貰えたとしてもすぐに捨てられてしまったことが悔しいのか、はたまた暑さと空腹にただ参ってしまっているだけなのか、もう、自分でも良く分からない。
 それでもただただほろほろと涙が溢れる。
「おじさん辛い辛い」
 焦ってみても仕方ないのだ。
「そうだ。そうだよシオン。それでも私は我慢するんだ。我慢して待つんだよ! いいんだいいんだ。それでいいんだ。そんな自分が好きなんだ。だけど! だけどおじさんやっぱり辛いよ。辛すぎるよ。涙で明日が見えないよ」
 チラシを自分の傍らに置き、シオンはとうとうその場にぐったりとしゃがみこむ。
 一体どれくらいの時間、自分はこの場所に立っていたのだろう。そんなことを考え出すと、明日はますます見えなくなってしまう。
 最早明日どころか、実際に今、目の前にある景色すら霞んで見える。
「もう、駄目、だ」
 日射病かも知れない、と思う。いや、熱射病かも知れないけれど。
「やっぱりもうおなかすいたよー。喉渇いたよー。暑いよー。カキ氷が食べたいよー」
 そんなことを言ってはいけません、と自分を叱咤する声があるにはあったがそれは驚くほど小さい声である。
「焦ってみてなんて言ってみても、私は小さい人間だもの。人間じゃないけど人間だもの! だいたいこのご時勢おじさんがチラシ配るっていうのも……おっ」
 しかし自分のそんな堕落した考えに罰が当たってしまったのだろうか、と思うほどのタイミングでシオンの背中を蹴り上げる足があった。
「あっと、すみません」
 シオンははっとし、地面にこすり付けていた顔をあげ、そこに立つ青年を見上げる。
 軽く息を切らした彼の目は、シオンにではなくロータリーの向こう側に見えるバス停へと向けられていた。恐らくは、しゃがみこんでいた自分が見えていなかったのだろう。
 シオンは勢い良く立ち上がる。
「いいのですよ! 青年!」
 彼はとにかく、これは来たのだ! と、考えていた。これこそ求めていた劇的な出会いなのである。ここで逃すわけにはいかなかった。
「ホントすみませんでした。じゃ、急いでるんで」
「待ちたまえ、青年!」
「えっ、わ」
 また走り出そうとする青年の手を掴み、シオンはその胸の中へチラシを押し付ける。
「持っていきたまえ。遠慮はいりません」
「い、いりませんっていうか、俺」
 彼の目はそわそわとバス停へと向けられていたのだが、必死に切実だったシオンの目には映らない。
「何かの役に立つかも知れないですよー。っていうか役に立つと思うんですよー。もうおじさん切ないんです。結構限界なんです。貰ってください。むしろ、貰ってください。お願いします」
「わかりましたから手を」
「え! 貰ってくれるんですか!」
「はいっていうか、手を」
「ああ、嬉しい。ああ嬉し。いえね。おじさん朝からここでこのチラシ配ってたんですよ。これね。私の知り合いのね人がね。仕事ない私にね。与えてくれたアルバイトでね。でもね。誰も貰ってくれなくてね。切なかったんですよ。もうね。もう……でも、ああ。おじさん。もっと頑張れると思ってたんだけどな。いえね。私はね。実はこう見えても子供の頃は無人島でサバイバル生活を送っててね。体力とか根性とかにはね、自信がね、あってね。でもね、恥ずかしい話なんですけれどもね。都会っていうか、こういう場所に来ちゃったらね。何かね」
 やっと人と交わることが出来た嬉しさに、シオンの口は止め処なく動き出してしまう。
「ちょ、離してください! バスが!」
「ああ、都会って怖いですよね。都会って人格を破綻させますよね。私が読んだ本にこんな言葉がありまして、都会の人口の……」
「バス……」
 呆然と呟く青年の視界の先で、バス停に停車していたバスがゆっくりと、排気ガスを撒き散らしながら発車する。
「バ、ス……」
「でも今日、私は貴方に逢えて本当に何かとっても嬉しかったですよ。これからもお互い、もっと時間に余裕を持って心健やかに生きていきましょうね。時間に追われるようにして生きてたら心が駄目になりますもん。ね、青年」
 爽やかに微笑むシオンの顔など、青年には最早見えていなかった。
 彼の目はじっと、ロータリーを半周し抜けて行くバスを追っている。
「だよなあ」
 相槌はシオンの足元からふってきた。
「ん?」
「俺もそこはそう思う」
 シオンは自分の足元を見下ろし、思わずあっと声を上げる。
「よお、変なおじさ〜ん」
 足元の彼はそのくるりと黒目勝ちの目を眩しげに細め、小さく手を上げた。
「いやさ。アンタってさ。見てる分にはホント、申し訳ないくらい面白いんだね」
「ひ!」
「つかさっきから見てて、もう突っ込みどころ満載で何から言っていいかわかんないけどさ。まず何やってんのって聞いていい?」
「ひ! ひな! 雛太さんではありませんか! わ! おじさんびっくり!」
「ははは俺もびっくり」
「おじさんは今、チラシを配ってたんですけどもう、こんなところで再会できるとは夢にも」
「配れてないけどね」
 素っ気無く口を挟まれ、シオンは思わずぐっと詰まった。
「で、す、よ、ね」
「でもまあ、どっちみち頑張ってもマイルドに無理だろうけどさあ」
「え?」
「いや。だってすっげえ怖い顔してんもん。鏡見た方がいいんじゃない? 怖いよ? 誰も近づきたくない感じだもん。憔悴してて」
「え」
「っていうか、浮いてる」
「ええ!」
「この街にそぐわない、アンタ」
「えー!」
「もうちょっとちゃんと自分が受け入れて貰えそうな街でチラシ配った方がいいよ。つかしかも、これさっき普通にCDショップに置いてあったし」
「ええええ!」
「配る意味は、ないと思う」
「ええええええええええええええええ!」
 ガビーンと、十本の指で無造作に鍵盤を叩いたような音が聞こえた気がした。
「は〜あ、よいしょっと」
 青年はぐっと立ち上がり、短パンの尻をぱたぽたはたく。
「アンタのそういういちいちリアクション大きいとこ、嫌いじゃないけどね。今捕まえてた人あっち行っちゃったけど、それはいいわけ?」
「え!」
 はっと我に返り後ろを振り返るシオンの視線の先で、走っていく青年のTシャツが風に靡いていた。





 コンコンとドアを叩くノックの音がする。
 自分の口から吐き出される煙草の煙を見つめていた草間武彦は、その視線そのままにノックの主へと素っ気無く言った。
「そんなわざとらしいノックなどしなくていい。気づいてる」
 開かれたドアの横にたっていた美しい男が、武彦の言葉にそのぬらぬらと赤い唇の端を小さく持ち上げた。
「そうでしたか」
「ドアは開きっぱなし。そこから入ってこられたら誰だって気づく」
「その割には歓迎がありませんでしたが。これでも待っていたんですけれどもね」
「別に歓迎してないからな」
「それはそれは思いあがりが過ぎまして、どうも」
「しっかし珍しいこともあったもんだな」
 武彦は煙草をデスクの灰皿へと押し付け、身を正す。
「モーリス・ラジアル様が正面入り口からおでましだ」
「明日は雨ですかね」
「たぶんな」
 彼はまるでプログラムされた動作をただ淡々とこなしているかのような温度のない滑らかさでただ小さく頷いた。
「人間界はどうやら今年も少雨や水不足だと騒いでいるようですからね。珍しいことをして雨が降るなら、降らせましょう」
 そしてモーリスは、そのまま事務所の中央に置かれたソファへと腰掛けた。
 狭い事務所の中に響く、かすかな着擦れの音と彼の吐息。
 沈黙を切り裂くように、ブラインドの下ろされた夜の闇の向こうでぶうんと車の走り抜けていく音がした。
「ところで」
 モーリスは芝居がかった仕草で緑色の瞳を辺りに散らし、ゆっくりと最後に武彦を見た。
 安っぽい蛍光灯の光に照らし出されながらも余りに美しい男の白い肌と不思議な緑の瞳に、武彦ははっとせずにいられない。モーリスがすっと視線を外すと、武彦は目が醒めたかのような心地になった。
「お一人のようですが」
「あ? ああ……」
「シュラインさんはお出かけなのでしょうか」
 武彦は小さく咳払いし、デスクの上のコーヒーカップを掴んだ。
「ああ、ちょっと出かけている」
 覗き込んだ中身は空で、彼はちっと舌打ちするとまた椅子に背中を預けた。ぎし、っと回転椅子から悲鳴が漏れる。
「なるほど、ちょっと、ですか」
「なんだよ。ちょっとだよ」
「ほう」
「だから何だよ」
「いえ。貴方にとって二日間はちょっとなのだな、と思いましてね」
 モーリスはまた唇の端を少しだけ持ち上げ言った。
 武彦は憮然と大きな溜め息を吐き出す。
「なるほどな」
「なんですか」
「今日は転移で驚かさないと思ったら、そういうネタで虐めてくるつもりだったんだな」
「虐める? そんな、滅相もない」
 彼はぬけぬけと知らん顔でそれを囁く。そのくせそこには、こちらの後ろ暗いところを突くような狡猾な響きがあった。
「お前のそういう意地悪な顔を、あの人に見せてやりたいね」
「意地悪とは心外ですが。恐らくはご存知だと思います」
 飄々とまた、彼は言う。しかし、彼の傍らに立つ時の彼の表情は柔らかく、少なくとも今の酷薄な女顔とはまるで違う。
 百合の花と薔薇の花。
 男と花に例えるのも可笑しい話だが、彼にはそんな二面性が確かにあった。
「全く。お前らは腹の底が見えないんだよ」
「日本人とは総じてそのようなものなのだと伺っております」
「口の減らない男だな」
「そんな拗ねないでくださいよ。私としては、気の効く女将に家出され、途方に暮れた男を少しからかってあげよう、という優しい気持ちを抱いているわけなんですから」
「口調が優しくないんだよ、お前は」
「不器用なんです」
「だ。だいたいな……別に家出されたわけじゃない。先に言っとくが喧嘩でもなければ痴話でもないからな。あいつは忙しい女なんだ。それだけだ」
「なるほど」
 モーリスは神妙な面持ちで頷いた。
「貴方のように鈍くて女心の分からない人は、たまには放り出されて頭を冷やせばいいかも知れません」
「やっぱりお前は俺を虐めてるんだな」
「今頃気づくなんて、さては貴方は鈍い人ですね」
「そもそもお前はそう言う話をどこから仕入れるんだ」
「情報ソースは秘密です」
 あらかじめ予定されていた台詞を言うかのように、ぽんぽんと彼は言葉を返す。
 武彦ははあ、と溜め息を吐き出した。
「もういいよ。分かったよ。はいはいどうせ俺は鈍い男だよ」
「もうギブアップとはつまらないですね」
「結局お前はさ」武彦はぎゅっと眉を寄せ、噛みしめた歯の隙間から吐き捨てる。「俺を弄りに来たわけですか。暇ですな」
「人がせっかく様子を見に来てあげたのに」
 彼のその芝居がかった口調に思わずフン、と鼻が鳴る。
「悪いが今のところ、お前が興味を示すような依頼はないぞ」
「興味があるかないか以前に、お仕事がないんでしょう」
 素っ気無く返されたその言葉がまさに図星で、図星だからこそカチンと気に障る。
「お前は――つくづく嫌な奴だな」
 憮然として吐き出すと、モーリスはさも可笑しそうにくすくすと笑いだした。
「そんなことは知っています」






 今日というこの一日を、彼がどのように過ごしたのかなどということは、水野まりもには知りようもないことだった。
 かといって別にまりもは、シオンを怒る気もなかったのである。
 確かにこの男には、責任感という次元とは別のところで人の思想に流されやすいという気弱な一面がある。
 まりもは開いた台本の影から、毛羽立ったソファにひれ伏すシオンの頭をこっそりと盗み見た。
「本当に本当に申し訳なく」
「うん本当、全然いいから」
「いえいえ、そんな。もう本当に本当に……せっかく与えて貰った仕事ですのに」
「いやもう……本当に」
 思わずトーンの下がった声で言ってから、まりもはいかんいかんと自分を戒めた。かれこれ三十分近くはこのやりとりが続いている。これ以上こんな不毛なやりとりを続けるのは御免だった。
 台本にある台詞だって今日中に覚えたいし、そもそもこれはわしの為に書かれた脚本なのではなく、水野まりもに対して書かれた脚本なのだから、二重に疲れてしまうのだ。
 まりもは勤めて明るい猫撫で声を出し、ひれ伏す頭に言ってやる。
「ほおんと。全然いいからさあ〜、顔上げて。ね? シオンさん」
 それはきっともう、抱きしめてしまいたくなるほどに可愛らしい声のはずだった。案の定シオンははっと顔を挙げ、年甲斐もなくうるうるとその瞳を潤ませたのだった。
 しょせんは彼も、自分より年下の若造なのである。
 まりもは心中で密やかに苦笑する。
 実際に見た人間以外は恐らく誰も信じないだろう。水野まりもというこの十五歳の少年の体の中に、布市玄十郎などという五十八歳の役者の魂が入っているなどとは。
 布市はこの奇妙な現象を考える時いつも、洒落た陶器のティーポットを思い出す。そしてその、原色が多く使われた有名ブランドのティーポットの中から緑茶が注がれる様子を想像する。
 そこに緑茶を淹れてはいけないという決まりはない。
 しかしそれでも人は、ある程度の思い込みで生きているものなのだ。
「それにほら。あのチラシ、本当はCDショップとかにも置いて貰ってあるからさ」
「あ。それ、は……聞きました」
「あ、そうなんだ。うん、だから。本当は配って貰わなくても」
「それなのに私のために仕事まで用意して貰ってしまってもう本当に何というか」
「ああ、ああ。いいから。いいから、本当に」
 膝の上に置いてあった台本を傍らに置き、まりもはそっとソファを下りる。
 シオンの目をじっと覗き込み、言い含めるようにゆっくりと言う。
「いいから。本当に。あれは今度事務所から出る後輩のチラシなだけだし、実は結構僕自身には関係ないし、事務所に言って貰った仕事でもないから事務所にも迷惑かけてないし。何ていうか謝られるとむしろ……僕が困る。恐縮しちゃう。わかるでしょう?」
 実は邪魔だから。とは、さすがに口には出せない。
「まりもさんは本当にとってもいい人です〜。おじさん、嬉しいです〜」
「な。泣かなくても」
 抱きついてくる男に顔を引き攣らせ、それでもそのがっちりとした背中を優しく撫でてやった。
 その時である。リビングにある電話がプルルルルと騒がしい電子音を鳴らし始めた。
 まりもはシオンを窘め立ち上がり、軽い調子で受話器を持ち上げた。
「はい。もしもし、水野ですけど」
 しかし答えてくる声はない。聞こえてくるのはふうふうと薄気味の悪い、男の荒い息だけだった。
「まただ」
 小さく顔を顰め、彼はぽんと切ボタンを押す。受話器を置くとまたソファの定位置へと戻った。
「どう、か。されました?」
「あ、ううん」
 軽い調子で首は振ったがしかし、どうかは確実にしていたのである。
 全く。自分とどうこうしようとでも思っているのか?
 先ほどの電話の男に向かい、まりもは届かない疑問を投げかける。それは最近、頻繁にかかってくる無言電話だった。とはいえふうふうと薄気味悪い荒い息を聞かせてきたり、どんなパンツ穿いてンのなどとお決まりの言葉を投げつけてきてみたり、と、無言ではないときも多々あるのだが。
 しかし申し訳ないくらい、布市にはその手の趣味がない。生前のまりもがどうだったかは知らないし、役者の世界には同性愛の趣味を持つ者も多く居ることは確かだったが、自分には断じてそういった思考はないのだ。迷惑極まりない。
 人を愛することは悪いことではないけれど、愛するの意味がどうにも昨今、微妙にはきちがえられているのではないかと布市は残念でならない。一体幾つの、どんな男が電話をかけてきているかは知らないが、最近の日本男子どもはどうなっとるんだと思わずにいられない。
 確かに自分より小さいものを、愛しく思う気持ちは誰にだってあるだろう。正直に言ってしまえば布市だって、自慰をする姿に思わずうっとりとしてしまったことだってある。まりもは可愛らしい少年であるし、正太郎コンプレックスでなくたってそういう気持ちになってしまうのもわからないではないのだが。
 悔しかったらお前もここに入ってみやがれい。
「ねえ。シオンさん」
 ソファの上で膝を抱きながら、まりもは改めて切り出した。
「はいはい?」
「あのそれで今日働いて貰った分の給与なんだけどね」
「は! いえ! それはなりません!」
「まだ何も言ってないけど」
「お金なんて貰えません! 私!」
「ああ、うん」
「だから給与なんて貰えません! 私、貰いません!」
 シオンはすくっと立ち上がり、自分の厚い胸板をどんと叩く。
「でもほら。あれでしょう? お金じゃなかったら貰ってくれるでしょ? 僕の気持ち。お礼したいんだ」
「は! お金じゃないってことは」
「そう、これで払うよ。シオンさんの大好きなもの」
 まりもは自分の部屋着のポケットの中からぴらりと一枚のお食事券を取り出す。
「僕の気持ち。受け取って」
「あああ。でも私。ああ、だって、どうしよう。ちゃんと働いてないのに」
「いいんだよ、困ってる人助けるくらいの軽い気持ちだから」
「ええええおじさんどうしよう。困っちゃうな!」
 あはははと笑い声を上げながら、シオンはまごまごと体をくねらせる。






 今、雑居ビルの階段を上る、一人の青年が居る。
 管理人がずぼらなせいか、踊り場に取り付けられた蛍光灯は弱々しくしか発光せず、階段は薄暗く酷く心もとない。しかし青年は、そのみすぼらしさに懐かしさを噛みしめていた。
 満足とは到底呼べない設備の全て。廊下の隅に追いやられた埃まみれの消火器。先っぽの枯れた観葉植物。煙草のヤニと人々の体臭の混じった独特の匂い。
 それを一つ一つ通過していくごとに彼の胸はいっぱいになっていく。
 耳に差し込んだイヤホンから流れ込んでくるレゲエの独特なリズムに体を揺らしながら、雪森雛太は草間興信所を目指し階段を上り続けた。
「このエレベーターとかないみすぼらしさが、また」
 息を切らせ、合間に彼は呟いた。
「あー、どうしよう。驚かれるだろおなあ」
 そもそも雛太が日本の地を踏むこと自体、一年ぶりだったのである。
 久しぶりに踏んだ灰色のコンクリートは余りに固く、どんな場所を歩いても足の下に伝わってくるしっかりとした感触に、彼も最初は妙な気分になったものだった。けれど三つ子の魂百までとは良く言ったものだ。俺の足はもう、すっかりこの感触を当たり前に感じている。
 雛太はつとつとと階段をこなしていきながら、今日の昼に再会を果たしたシオンの言葉を思い出していた。
 もっと時間に余裕を持って心健やかに生きていきましょうね。時間に追われるようにして生きてたら心が駄目になりますもん。
 確かに彼も、日本に帰ってきた瞬間にはその言葉を日本の全てに向けて投げたくなった。
 せかせかと無表情に歩く人の群れ。世界から見た日本の国土が如何に小さかろうと宇宙から見た日本が島国だろうと、歩く人間達にそれを意識してる人間などほとんど居ないだろう。そうしなければきっと、平和で秩序ある日本という国では生きていけないだろうからだ。
 どうあがいてもここは日本だ。そこから一度出てみれば分かる。この狭苦しい日本という国土の中で、貴方にあったライフスタイルなどという言葉がしっくりくる環境が何処にある。こんなところで互いの自己を主張されたって鬱陶しいに決まっているのだ。しかしそれでも人は憧れて、影響されて、流される。無秩序を不安と嘆き、一方で自由と個性を主張する。
 どうやら思い通りにチラシを配ることが出来なかったらしいシオンと共に、休憩がてらに入った喫茶店では(シオンはそこでそれはそれは美味そうにパフェを食べていた)、多くの人々が今まさに自分が生きていられるということを、至極当たり前に受け入れていた。
 日本を離れていた間雛太が学んだことと言えば、日本の余りの小ささである。そして自分自身の小ささだった。
 けれど小さな人間という生き物は、何と愛しいものだろう。小ささに気づくこともなく生きてこれた平和とは何と愛しいものだろう。
 今動いている心臓を、当たり前だと思えることは何と幸せなのだろう。
 そう気づけた自分ならあるいは日本に帰ったのだとしても自らの足でちゃんと立ち、周りに生きる人々をもっともっと愛せそうな気さえしたのである。
 だから俺はここに戻って来たんだ。
 雛太はいよいよ草間興信所の事務所が入った最上階に辿り着く。踊り場でふっと息を吐き、伸び始めの黒髪を乱れてもいないのに整えた。
 何処に居ても足りないものはある。だからまだ、少しでも自分にとって居心地の良い場所を人々は求め続ける。それは雑誌やマスコミが謳うほどそれは簡単に見つけられないのだけれど。
 雛太にはその場所があった。
 草間興信所である。
「あーーー! いきなり抱きしめられちゃったりしたらどうしよおう」
 楽しい妄想に彼の胸は膨らんだ。
 耳についていたイヤホンを外し、安っぽいドアの前でんん、とわざとらしい咳払いをする。そして今までに一度もやったことはないドアノックなどをした。
 返事を待つことはなく、ノブを掴み一気にドアを引く。
「え?」
 雛太はぎゅっと顔の中央へ向け力を込めた。開かない。
「は、なんで?」
 がちゃがちゃと何度かノブを回し、どんどんと扉を叩く。
 いい加減にはめ込まれた薄っぺらいガラスがバシバシと耳障りな音を立てた。
「こら〜おぉっさあん〜。 居ないのかあ。俺だよ〜。雛太だよ〜。借金取りでないから安心しろってば」
 しかし中からはうんともすんとも聞こえてこない。
 彼はドアに貼り付けていた耳を離し、「ああん?」と一人小さく唸った。
「んーだよ〜。マジで居ないわけえ?」
 唇を尖らせて軽くドアを蹴る。
「そんなこと考えてなかったし」
 雛太はむっと腕を組み、草間興信所のドアを睨みつける。すりガラスの向こうにほんのりと灯りが見えるということは、それほど遠出したわけでもなさそうだったが、果たしてどうだろう。
 俺はここで待つべきか。
「とりあえず……富田ンち戻るかなあ」
 一拍の後、自らの問いに答えた彼は、小さなぼろぼろの鞄からスケッチブックとペンと取り出した。
 英語が並ぶページを繰って白紙のページを一枚切り取る。そこにさらさらと何かを書いて四つ折にしたそれをドアの隙間に挟むと、彼は短パンのポケットから携帯電話を取り出した。
「あ。もしもし。俺、雛太だけどお。とりあえずもう一回、お前ンとこ戻っていい?」






 何が気にいらなかったのかは自分でも良く分からない。
 けれど掴みきれないもやもやが、確かに今彼女の心の中で鈍く疼いていた。
 私は一体何が気に要らなかったというのだろう。シュライン・エマは何度もそう自分に問いかける。しかし答えなど出ない。当たり前だ。気に入らないことなどまるでなかったのだ。
 居酒屋の店内は程よく込み合い活気付いていた。その喧騒は彼女の心のもやもやを、ほんの少しではあったが紛らわせてくれる。これも何かの縁だったのだろうと半ば勢いで一緒に来てしまった場所だったけれど、あるいはその選択も今の自分のとっては良かったのだ。
 一人で暇を持て余してしまえばそれを考えずにはいられない。
 突然出された夏休み。そうして宙ぶらりんになってしまう自分の不甲斐無さ。
 目的も到達点もなく、ただだらだらと時間を過ごすのは余り得意な方ではなかった。しかし何かしらの予定があって申請した休みではないだけに、まるでスケジュールは空白だった。
 埋める気になれば埋められたかもしれない。またねといいつつ連絡を取っていない友人にだって会いたかったし、忙しいからと諦めていた場所にだって行きたかったし、休みがあったらやるのにな、と思っていたことだってあった。
 しかしそれは所詮、本当にやりたいこと、ではなかったのだろう。いざ目の前にポンと休みが出されると、結局尻込みしてしまうしかない。
(それで映画だなんて私も芸がないわね)
 おまけにそこで再会した年下と居酒屋だ。
 シュラインはビールグラスから滲み出す汗を指で救い、木目の美しいテーブルにくるくると円を描く。
 宙ぶらりんのまま放り出された彼女の心は、行き場なくただただネガティブな方向へと流れていた。
――お前だっていろいろと忙しいんだろう。たまには、夏休みをとればいい。
 今まで気にしたこともなかったくせに。
――興信所なら大丈夫だ。俺一人だって何とかなるよ。どうせ、暇だしな。
 自分は必要とされてたのではなかったのか。
 お前が居なきゃ駄目だなどと言う、軟弱な男に興味はない。しかしそこまであっさりと言われると、これはこれでまた淋しいのである。
 そんな自分自身を振り切るように、ビールグラスをぐっと煽り、彼女は小さな息を吐く。
 何が気に要らないのか自分でも良く分からない。武彦に苛立っているわけでも、死にたくなるほど落ち込んでいるわけでもない。けれど掴みきれないそのもやもやが、彼女の心の中で確かに今鈍く疼いていた。
「ブルウ……ってやつですか」
「え?」
「いや」
 シュラインの隣のスツールに腰掛けた青年は自分のビールグラスを見つめながら小さく微笑む。
「いつものエマさんとは様子が違うようだから」
「そうかしら? そもそも森田君は私のいつもを知らないはずだけど」
「それは、まあ。そうですけど」
 森田は小さく肩を竦める。
「っていうかそのズケズケ感がいつものエマさんって感じ」
「きっと暇だからよ」
「え?」
「暇だと人間ってきっと、たとえそれが重箱の端だったとしても突きたくなるんだわ。余計な物引っ張り出してきてみたり……下手の考え休むに似たり、って言うじゃない。良く言えば模索。あれよ。それでもしてないと、暇にたえられなくなってしまったんだわ。ほら、人間の脳ってチンパンジーの三倍はあるらしいから」
「確かに。僕も完全にぼーっとしてることってないもんな……でも本当に意外だったな。あんなところでエマさんに会うなんて」
 耳を素通りしていく森田の声に、彼女は何の感慨もないその切れ長の目を向け、またすぐに視線を戻した。
「私も驚いたわ。あんな場所で森田君に会うなんて」
「エマさんて、映画嫌いなんじゃなかったんですか」
「嫌い?」
「いや……だって。同好会の皆で映画見に行こうって言った時、エマさんはとっとと帰っちゃったじゃないですか」
「あれは……忙しかったからよ」
 勤めて素っ気無い声を出し、シュラインは皿の上に投げ出された焼き鳥の空串を指で突く。
(それに私には感動物の映画を人と一緒に見る趣味はないの)
 だからこそ驚いたのだ。ちょうど一人でまさにその感動物の映画を見終わった後、森田となどばったり出くわしてしまったものだから。
 人生とは全く何が起こるかわからない。森田はシュラインが、翻訳の仕事の関係で付き合いのある大学で、ミステリ研究会という同好会に所属している男である。いわゆる知人、といった程度で特に親しくはないのだが、シュライン自身、ミステリやホラーを読むのが嫌いではないため、彼の書いた会誌小説――犯人当て小説というやつだ――に回答を出してみたり感想を述べてやったりしてみたり、と、大学に行けばそれなりに交流があった。
 しかしそういえば、とシュラインは思い至る。最近は同好会を覗いてみても、森田を見かけることはなかったな。
「で、今日はたまたま暇だった、と」
「アンタこそ若いのに。一人で映画を見てるなんてさびしいわよ」
「やっぱりっすか」
 森田はからからと明るい声で笑う。
「でも、何か精神的に参ってるときって、一人で映画、とかはまりすぎてることしたくなりませんか」
「参ってるんだ」
「少し」
「ふうん」
 何となくお品書きへと手を伸ばし、彼女はそこに目を走らせる。
「とりあえず今日の夕方くらいからやり直したいんですけど、って感じですよ」
「今日の夕方からでいいんだ?」
「とりあえず、は。約束、すっぽかすことになっちゃったから」
 シュラインはんーと吐息のような相槌を打ち、パタンと音を立ててメニューを閉じた。
「でも。時間って他人のものとも連動してるから、一部分だけ抜き出したってきっと上手くいかないのよね」
 森田は自らの殻に閉じこもっていくように、首の後ろで手を組んで悲しい笑みを浮かべる。
「そうかも……知れない」
 呟く声は余りに小さく切なげだった。
 あるいはその年頃の、大人と子供の狭間だからこそ妙に色っぽく見えてしまう、神経質そうな思案顔。
「でも考えちゃうんですよね。あのバスに乗り遅れてなかったら、俺、今頃どうなってるんだろうって。あの勢いのまま誰にも止められずあのバスに乗ってたら。って」
 森田は独り言を言うように呟いた。
「ばす?」
「エマさん……どうせこうなるんだろうって予想しながらも、期待を捨てられない時ってありませんか」
「そうね」
 一拍置いてシュラインは答えた。
「恐らくは大抵の人があるんじゃないかしら」
「俺もその大抵の一人なんですよね、今」
「そうなの。それで映画館」
 ずっとカウンターの向こう側にある棚を見つめていた森田は、はっと我に返ったようにシュラインを見た。
「あ、ああ。そうなんですよ」
 またからからと明るく笑う。
「映画館って……何か。ぼーっとすんの許されてる感じして、好きなんですよね。全員が画面に向かってて、辺りは暗いし、他のこと考える余裕ないっていうか。強制的に時間が流れていく感じっていうか」
「ええ。少し、分かるわ」
 だからこそ私だって、映画館に足を運んでたんだから。
「とどのつまり、逃避したかった、ってことなんですよね」
「何から?」
 気づけば反射的に問いかけてしまっていた。
 森田はシュラインを少しだけ見て、また前を向く。
「逃れられない……自分の気持ちから」
 これほどまでに静かで優しい声があったのだろうか。そう思ってしまうほどに彼の声は、居酒屋の中に漂う喧騒から遠く隔離されていた。
 胸に直接響いてくるかのような、声。
 シュラインはたとえ不意にであれ簡単に、何からなどと問うてしまった自分を後悔していた。
 ごめんなさいというのも場違いな気がして彼女は思わず口を噤む。そうなの、と。辛いのね、と。簡単につける相槌ばかりが頭を過り、結局そのどれもが今の彼に言える言葉ではないと彼女は結論を出す。
 こんな華奢な肩にでも。
 軽く前髪をかきあげ、シュラインは森田を盗み見る。
 黙ってその苦悩の重さを背負おうとする心意気を、ただの相槌で打ち消してやることこそ可哀想だ。きっと見ている自分がどんなに居た堪れなくても、その姿をただ黙って見守ってやるのが「何から」と問うてしまった自分が背負うべき責任なのだろう。
 暫くの間そうしてぼんやりと空を見ていた森田だったが、ひとつ大きな深呼吸をすると、不意に唇をゆがめ苦笑する。
「すみません、何か」
「いいのよ。逃れられないから逃れたいときって、誰にでもあるでしょうから」
「すみません――ああ、もうビールぬるくなってきちゃったな。焼酎、いきますか?」
「そうねえ。ここって芋、あるかしら」
「実は弥一があるんですよね、ここ。常連だけの秘密なんですけど。種子島紫芋使ってて。めちゃくちゃ美味い芋っすよ」
「へえ。あれって中々見かけないのに。失礼だけど、こんな普通の居酒屋にあるなんて思わないわね」
「でしょう?」
 森田はまるで自分が褒められでもしたかのように、らんらんと目を輝かせている。
「いっちゃいますかあ? あ。でも。そんかし。お金はエマさん支払いで」
 もう。
 と、答えようと口を開いたその時、森田のジーンズのポケットの辺りから騒がしいメロディが流れ出した。
「あ。ちょっとすみません」
 森田はポケットから携帯を取り出し電話を受ける。
 シュラインに向け小さく会釈し、店の隅へと移動した。元々それほど広い店ではないし、移動したといっても切れ切れには声が聞こえてくる範囲だが、その心遣いはありがたい。
 真隣で会話を繰り広げられるのは気まずいのだ。
「ああ、今ちょっと知り合いの人と」
「え? 今から?」
「え、つか今。飯食ってるから」
 切れ切れに聞こえてくる森田の返答の声。
 そういえば。
 武彦さんはちゃんと夕食を取っただろうか。
 そしてまた、そんなことを考えてしまう自分にシュラインは一人、苦笑する。






「たぶん……塩と砂糖を間違えたんだな、ありゃあ」
 助手席に座る武彦は、開け放たれた窓から吹き込む強い風に、その固そうな髪を靡かせていた。
「疲れてたんだ、きっと」
 運転席でハンドルを握るモーリスは、特に相槌を打つでもなくただチラリと助手席の男を見やる。
「普通なら間違えないよ。塩と砂糖。俺は料理をしないから分からないがな。第一これまであいつは一度だって塩と砂糖なんか間違えたことないんだ。そういう、しっかりとした女だったんだ」
「何の話です?」
 モーリスは素っ気無く問いかける。
「お前がさっき事務所で言ってた話の続きだ」
「さて?」
「女将の家出だよ」
 乱暴な口調で言い、夜景から車内へ視線を戻すと至近距離にはその美しい肌がある。
 武彦は、まるで初めて見る顔のように当惑した面持ちで暫しその横顔を見つめた。
「家出ではなかったのではありませんでしたか」
 艶やかな声が囁く。武彦はまた、窓の外へと視線を戻した。
「家出でもなかったんだけどな。俺にも良くわからんのだよ。俺は……不意にあいつが不憫でならなくなったんだな。三日前の話だ。暑い日だった。事務所のクーラーはあの通り古いしボロいし、クールビズも何もあったもんじゃない。あいつは、エマは。しきりに暑い暑いとぼやいていたな。俺に向けていってる風でも、だからどうこうしようと思ってる風でもなくて、恐らく無意識に暑いわね、と口から出たんだろう。そんな感じだったんだ。俺とエマは事務所に二人きり、こんな暑い日にわざわざ依頼を持ってくる客もなく、それぞれの時間を過ごしてたんだ。あいつは読書でもしてたかな。昼時になって俺の小腹が空くと、あいつはまるでそれが分かったかのように何か作るわね、と言った。俺はいつものようにああ、と答えた。出来上がったものを食べてびっくりしたよ。はは。あんな衝撃的な味は初めてだったな。俺は思わず顔を顰めて……でも結局何も言わなかった。またソファに座って本を読み出したあいつの……横顔が、さ。こいつはこんなに華奢だっただろうかってさ。白く細い首筋が……どうしようもなく頼りなげだったな。あいつには他にも仕事があるだろう? うちの仕事はそれで給料が入るわけでもそれで贅沢が出来るわけでもない、副業というよりお荷物だ。いや。俺はあるいはそうして、尽くされることに恐ろしくなったのかも知れない。自分があいつに向けて、一体何をしてやれるんだ、と考えたんだ。だから俺はこう言った。お前だっていろいろと忙しいんだろう。たまには、夏休みをとればいい。興信所なら大丈夫だ。俺一人だって何とかなるよ。どうせ、暇だしな」
 窓の外へ向け、武彦は乾いた笑いを投げている。
「あいつは暫くぼんやりと俺の顔を見てたんだがな。不意にはっとして、そうね。じゃあそうさせてもらうわ。と偉く簡単に言った。自分から休みをやろうといったのに、そうあっさり言われると案外淋しいもんだな――それでめでたく。女将は休暇に出かけました、とさ」
「貴方も相当疲れているように見えます」
「飲みすぎたかな」
 武彦がその言葉を、喋り過ぎてしまった自分に向け言ったのか、疲れているという言葉に向け言ったのかは、モーリスには知りようもないことだった。
「お前は余計なことを言わないし、何より俺より年上だしな」
「それが?」
 ハンドルを切るついでにモーリスは小さく呟く。
「懺悔をするにちょうどいい」
「人を物みたいに言わないでください」
 あくまで冷たく囁いたモーリスだったが、その唇は小さくつりあがっていた。
「さっきの店のピラフは中々美味かったな」
 武彦の声は夜空にそろそろと溶けていく。
 酷くゆっくりと流れる風景は、まるでスローモーション化した映像を見ているようだった。
 広い街。無限とも思えるビルの群れ。
 しかし宇宙から見下ろせば、この群れをそれまた大きく抱く地球すら、小さく見えてしまうのだという。
 モーリスはパチン、とカーラジオのボタンを押し込んだ。黄色にピンクに、ぼんやりと浮かぶ様々な色の光の中で、緩やかにジャズのメロディが流れ出す。
 白々しくも華やかな繁華街を今、一台の高級外車は走り抜けていく。


――「到着ですよ」
 不意に艶やかな声で囁かれ、武彦はハッと我に返った。
 見れば確かにそこは、見慣れた雑居ビルの前である。
「もう、か。もう少し遠回りして貰ってもよかったんだけどな」
 ふうと息を吐き、シートに身を押し付ける。
「男二人でドライブですか」
「ま、それも……そうだなあっと」
 身を起こし、武彦は車のドアを開ける。外へ出た瞬間、小さくよろけた。
「酔ってらっしゃるんですか」
 いつの間に来ていたのか、モーリスにぐっと脇の下を掴まれ武彦は一瞬カッと耳が熱くなる。
「ああ、すまん。大丈夫だ」
「ならいいですが」
 色っぽい声だ。と思う。顔を上げるとそこには余りに美しい顔があり、彼は一瞬、そこが現実であることを忘れそうになってしまった。
 武彦は空恐ろしいような気持ちで目の前の男の顔を見る。抗いがたい吸引力。彼には天性のカリスマ性がある。そもそも人間ではないものなのだから、そこいらを歩く一般人と比べてみたって仕方がないだろう。しかしそれでも、そうして人間の姿をしているモーリスを人間としてみるな、というのは難しい話なのである。
「なんですか」
 嘲笑交じりの溜め息が聞こえる。
「あ、いや……だいぶ酔ってるみたいだ」
 武彦はゆるゆると首を振った。
「すまん。一人で歩ける」
 半ば這うようにして雑居ビルに入り込み、文字通り這うようにして階段を上る。
 生ぬるい光が灯る事務所の前で武彦はふと足を止め、ドアに挟まれたそれを見つけた。
「なんでしょうね」
 隣からさっと美しい指が伸び、ドアに挟まれた紙切れを抜き取った。
「ほ〜」
 かすかな唸り声が聞こえ、武彦の視界いっぱいにばっとその手紙は広げられる。
――依頼を持ってきてやった! 携帯に電話しろ。雛太
「雛、太、だと?」
 霞む目を細め、武彦は呟いた。






 ふと見ると、居酒屋の入り口で一人の青年がきょろきょろと辺りに視線を馳せていた。
 確かに男は挙動不審だったが、シュラインは全く違う理由ではっと息を飲んでいた。
 どうして?
 口の中だけで小さく問いかける。
――どうして、雛太がここに居るのだろう。
 半ば呆然とした面持ちで、シュラインは入り口に立つ青年をじっと見つめる。
 彼の大きく黒い瞳がやがて自分を見つけてしまうその瞬間、彼女ははっともう一度息をのんだ。
 騒々しい居酒屋の店内で、二人の視線が一瞬絡み合う。
「あ」
 声を漏らしたのはどちらだっただろう。あるいは二人同時にそう呟いていたかも知れない。
「あーーーーーーーねーーーーーーーーーーごーーーーーーーーーーーーー?」
 身動ぎ一つしないシュラインの目の前で、雛太は大袈裟なリアクションを繰り出した。
 両手をばっと大きく開き、大きな瞳を更にまんまるくする。
「雛、太?」
「うおおおおおおおお! あねごー!」
 だっと駆け寄り犬ころのように抱きついてくる頭を反射的に撫でながら、シュラインも切れ長の瞳を思わず丸くした。
「雛太ー! アンタ、何してンのよ!」
 それは以前、草間興信所でアルバイトをしていた雪森雛太だった。正確に言えば彼は大学生であり草間興信所のれっきとした職員ではなかったが、つい一年ほど前まではほとんど住み込み状態の専属アルバイトだった男なのである。
「ちょ、アンタいつ帰ってきたのよ! ええ? うそー、本当に雛太?」
「ぜんっぜん俺だってば! うわあ。えー。何でぇ。え、何? 何で姉御がここに居るわけえ!」
「それはまさに私の台詞だわ」
「うおー。マジびっくりしたあ」
 雛太は一人、そんな言葉を呟き隣のスツールへポンと座る。
「もうアンタって子は。突然姿消したかと思ったら突然帰ってくるんだもの。びっくりしちゃうわ」
「仕方ねえなあ。俺ってば自由人だから」
「何処に行ってたの? 一年間も」
「ジャマイカ?」
「ジャマイカああ?」
「ボブ・マーリーよ。レゲエよ。自由とノープロブレムの母なる大地よ」
 シュラインははあ、と感嘆の溜め息を漏らした。
「なんで……また」
「洋輔が……覚えてる? 草間でアルバイトしてた奴。あいつとちょっと旅行って感じで」
「若い子の考えることは分からないわ」
「あいつはまだあっちに居るんだけどさ。かなりお気に入りみたいで」
「そう……」
「姉御こそ何、今日は一人なの?」
「あ」
 そう問われて初めてシュラインは、自分の隣に居た男を思い出す。
 雛太とは反対側に腰掛ける森田に目をやると、彼はただ苦笑を浮かべ二人を見ていた。
「何、これ姉御の連れ?」
 彼女の視線の先を辿り雛太はそう問いかける。
「これって……」
「つかおっさんは? 一緒に居ないの? 俺、あのおっさんに言いたいことあったんだけどさあ。依頼の話……つか、あ! そうだったそうだった」
 雛太はパンと何かを思いついたように手を叩く。
「そういえば俺、人探してンだった」
「人?」
「そうそう。森田保樹って」
「え!」
 森田がぎょっとしたように体を揺らす。
「え、なによ」
 雛太の問いかけに森田はかすかに首を傾げた。
「僕……一応、もりたやすきなんですけ、ど」
「えー」
 唇をへの字に曲げて彼は肩を竦める。
「すっげえ偶然」
 それからテーブルに置かれたグラスに目を向け「何飲んでンの」とシュラインへ問いかけた。
「芋焼酎」
「すんませーん! 俺も同じやつ」
 カウンターの中で慌しくする大将に声をかけてから森田へと目を戻す。
 テーブルの上で指を組み合わせ、若干身を乗り出して彼は言った。
「富田鳴樹、知ってるっしょ?」
「あ、はあ」
「俺、鳴樹のトモダチ」
 雛太がそう言った瞬間、森田は苦笑して頭をかいた。
 断ったのに。口には決して出しはしなかったが、彼は心中で小さく首を振る。
「あー。鳴樹から一応聞いてます……さっき電話があって。今から俺の友達が一人、そっち行くからって」
「うんうん。それ、俺」
「そうでしたか」
「それってつまり、どういうことなの?」
 自分を挟んだ隣同士で話が進められていくのに耐えられなくなり、シュラインは思わず口を挟む。
 本当は、それより何より彼女にはずっと気になっていたことがあったのだったが。
 それってつまり、武彦さんが興信所に居なかったってこと? それともアンタがまだ、興信所に行ってないってこと?
 森田が身を乗り出し、シュラインの言葉に答える。
「さっき。電話でちょっと立ったじゃないですか。あの時の電話の主が富田鳴樹っていう。僕の幼馴染だったんですけどね」
「そうだったの」
「それで今言った通り、今から俺の友達が一人、そっち行くからって言われて」
 森田はふっと恥ずかしげに目を伏せた。
「いやあ。実は一応断ったんですが。知り合いと飲んでるからって。でも、とにかく行かせるから、の一点張りで。昔から強引な奴だったんですよね。僕と違って」
「何処の世界にもマイペースな人間ってのは必ず居るのね」
「でも、エマさんと彼が知り合いだったなんて。驚きました。むしろ彼に来て貰っていい方向に進んだみたいでもあるし。結局、良かったの、かな」
「ぜんっぜん良かったんだよ?」
 運ばれてきた焼酎に口をつけながら雛太が軽い調子で相槌を打った。
「後のことは……僕にも良くわかりません。彼が。何の意味でここに来たのか、も」
 後のことはそっちに聞いてくれと言わんばかりに彼の目は雛太へと向く。
 その視線を辿るようにしてシュラインも自分の隣に腰掛ける雛太を見た。
 そういえば彼は少し、頼もしくなったかも知れない。昔はどうも室内派という印象が強く色白で華奢さばかりが目についたものだったが、こうして見ると陽に焼けた首筋や肩に男性的な力強さを感じる。
「あんだよ。二人で見つめてくんなよ。照れんじゃん」
 どぎまぎと言葉を吐き出した彼の、小さな耳がほんのりと赤く色づいた。
「いや、俺はさ。何つーか。ただ。まあ。友達として? 鳴樹の力になってやりてえっつーか。ジャマイカの地を踏んで一段と心広くなった俺をおっさんらに見せてやろう、つーか?」
「分かりそうで分からない説明だわ」
「うん。それは俺も思ったんだけど。いや、だからさ! つまり……おっ」
 突然会話を切り上げた雛太は、自らのポケットを探り出した。
「噂をすれば。おっさんからだ」
「武彦、さん?」
 開いた携帯を一瞬だけ見せつけ、雛太はピッと通話ボタンを押し込んだ。
 森田にちらりとだけ目をやって、「もしもし?」と言いながら席を立つ。
 思わずついて行きたくなりながら、シュラインはその会話に聞き耳を立てた。
「久しぶりぃ。よお! 元気かよ! おっさあん! え? いやいやいや。失礼とかないでしょ。わざわざ俺が会いに行ってやったっつーのにさ。居ないとかのがありえなかったから。ええ? うん、あん。おお。あ、そうだったんだ。飯ね。ふうん。ああ。うん。え? 依頼の話? あー、うん。いやそれなんだけどさ。つかマジでさあ。おっさん普通にタイミング悪すぎ……え? いやいやいやいやいやいや、だから。失礼とかないでしょ。え? うん。だからここではちょっと言えないんだってば。複雑な問題がいろいろと……あ、いや。おっさんはただバス運転してればいいんだけどさ。つかさ、おっさんってさ。バスとか運転できんの。あ、そう。出来るんだ。ま、そうだとは思ってたけどね。じゃあとりあえず今から俺が言う場所にバスを取りに行ってだな。え? いや、だからさ。詳しい話はまた明日だな。予定? はは。ないだろー。どうせ暇こいてたんだろ? え? いやいやいやいやいや、だから。失礼とか。え? うん。だから! うるさいな! とにかくおっさんは俺の言うとおりにだな。偉そうって言うな。うん、うん。うん。よっしゃあ。やってくれるんだね。さすが草間さんとこの所長さんだな。いや褒めてんだって。うん。あ、そうそう。依頼主は富田鳴樹って男ってことにといて。うん、うん。そうそう。バスが置いてあるとこでその名前出してくれれば分かるから。うん。それで明日、俺が今から言う場所で待っててくれればいいわけよ。全然簡単な話でさ。うん。うん。あのね。ミチミチね、予定立ててたってね。人生はその通りになんかなんねーんだってことをさ、俺はジャマイカで学んできたわけよ。明日は明日の風が吹くってやつだぜ。いや、うん。それでさ――」
 雛太の話を聞きながらシュラインは思わずふっと噴出してしまう。電話の向こうで憮然と拗ねる武彦の姿が目に浮かぶようだった。
 なるほど、あの場所ね。
 彼女は半ば反射的に、その待ち合わせ場所を心の中でチェックする。






 薄っすらとカーテンの向こうが白み始めていた。
 まりもは台本から目を上げてぐっと首を仰け反らせソファの背もたれに首を預けると、カーテンの向こうに揺れる朝日を見やった。
 夜が空けた。当たり前のように今日もやっぱり朝は来たのだ。
 そうして朝を迎えるときに、布市はいつも何かしら妙な感慨に浸ってしまう自分を感じる。
 まだ自分がちゃんと布市玄十郎だった頃、そうして朝を迎えるたびに何かを感じたことはなかった。だいたい正常な状態で朝を迎えることなどなかったのである。煙臭い部屋で賭け事に明け暮れ酒に酔い、気がつけば太陽が昇っている。
 けれど今、まりもの中で迎える朝はまるで違う。
 以前よりは健全であるという意味以上に、自分はまだちゃんとここに居るのだと。
 これは夢ではないのだと。
 朝が来るたびにそんなことを考えるのだ。
 まりもは毛羽立った高級な絨毯の上に、ぐたりと寝そべる黒い物体を見下ろした。
 ご飯を食べたら眠くなるなんて、そんなの子供だぞ。
 彼はつんつんと足先でそこに眠るシオンを突いた。んーとかすかな唸り声を漏らし男はばたりと寝返りを打つ。
 結局シオンは、まりもの部屋で一夜を過ごした。
 あの時、お食事券すらも貰おうか貰おうまいかとまたまごつくシオンに、うんざりとしたまりもが最終的に取った手段は彼の目の前で食事を取り始めてやる、というものだった。とにかくどうすれば帰るのか、彼が一体何をどうしたいと思っているのか、まりもには最早分からなかったのである。
 恐らくは彼自身にも分かっていなかったかも知れない、とすら思う。しかしそこはそれ、どんな事情があるかは分からないけれど、その日一日の食事にすら困っている彼である。腹が減って死にそうだ、という気持ちは布市にも良く分かる。自分が小さかった頃は日本だってそんなに裕福ではなかったのだ。
 そこでやはり飯だけは食わせてやろうと再び思い、目の前に飯があればさすがに彼も飛びつくだろう、と思い至ったのだった。
(食べたら帰るだろう、という思惑は外れてしまったが)
 静かになったので問題はない。台本を読み込むことも出来たし、こうしてまた朝を迎えることも出来たのだ。
「シオンさあん。朝だよ〜」
 ちょいちょいと足で蹴り上げ、今度は手でその肩をゆする。
「起きて〜。朝だよ〜」
 きりりと整った眉の間に皺が寄る。口を閉じてさえいれば丹精なその顔にじわりじわりと覚醒が浮かび上がってくる。んーと聊か間抜けた唸り声が聞こえ、次の瞬間彼はパッと目を空けた。
 それが余りに思い切って見開かれたものだったので、まりもは思わずどきっとしてしまう。
「は! わ。私の煙!」
「えっ?」
 シオンはがばりと突然起き上がり、挙動不審に辺りを見回した。
「ゆ。夢か」
 一体どんな夢を見ていたというのだろう。
 そこに若干の興味はあったもののおずおずとまりもは切り出した。
「あの、し、おんさん?」
「あ! まりもさん! そうか。私ここで眠ってしまってたんですね」
「うん。ぐっすり」
「すみませんでした」
「ううん。いいんだけどさ」
「はあ。もうこんなにお世話になってしまって本当に……凄く嬉しく」
「うん」
「ありがとうございました。おじさん。これからもまりもさんにいろいろと協力させて頂こうと思います」
「うん、ありがとう」
「新曲出たら買います」
「いや、それはいいよ」
 笑顔を浮かべ、まりもは言う。
「その前にちゃんとご飯食べてね」
「うう。ありがとうございますありがとうございます」
 何度も頷きながらお礼を言ったシオンは、よっこらしょと立ち上がり小さく息を吐く。
「それでは。私はそろそろお暇させて頂きますよ。お世話さまでした」
「お粗末様でした」
 シオンの礼に合わせ一礼したまりもは、ふと立ち上がり彼の背中にこう言った。
「あのシオンさん……気をつけて。帰ってね」
 しかしまりもがその言葉に込めた真意を、その時点で彼が知ることは不可能だっただろう。






「お客さん、お客さん。おーい」
 鉢巻を巻いたがたいの良い店主は、カウンターテーブルに伸びるその青年の肩を揺さぶった。
 朝日はとうに上っている。店主はその濃い皺の刻まれた顔に苦い表情を浮かべた。
 全く、保樹の奴め。
「置いていくか? 普通」
 今度来たら叱ってやらねばなるまい。親しき仲にも礼儀あり、だ。
 店主は青年と共に置いていかれたその手紙を苦い表情のままつっと持ち上げる。
――おっちゃんへ。僕の友人ですが、どうにもこうにも潰れているので、一先ず置いていきます。後でちゃんと迎えに来ますので、暫くおいといてやってください。よろしくお願いします。昨日は僕の我儘聞いてくれてありがとう。じゃあまた。保樹。
 はあ、と彼は溜め息を吐き出すしかない。
 その時、しんと静まり返った暗い店内に、素っ頓狂なほどに軽快なメロディが流れ出した。
 テーブルの上でブブブと携帯が発光しながら震えている。
「おーい。お客さ〜ん。携帯が鳴ってるぞ〜」
 しかし青年は目を覚まそうとしない。あろうことか、手だけがふらふらと動き、テーブルの上に投げ出された携帯電話のボタンをプンと押し込んだ。
 恐らくはでたらめに押したのだろう。
 その瞬間、また突然しんと辺りは静まり返った。
 そこに響く、電話からの声。
 通話ボタンだったのか。
「もしもし? おい! 雛太! ちょ、作戦中止だってば! おーい? こら! 何やってんだー!あいつが見つからないんだって! あいつだよ! 保樹の、あれだ! だから作戦中止ー! おーい、聞いてるかあ!」
 彼の放り出された携帯電話から、眠りこける持ち主に届かない声が投げられている。
 店主はいい加減、電話の主を可哀想だと思い相手は眠ってる旨を伝えようと携帯を手に取った。
 はずだった。
 はっと気づくと携帯が手から抜け出している。
 あれ?
 店主はきょろきょろと辺りを見回し、思わず咄嗟にひやり、とした。
「なるほど。ではその作戦とやらを聞かせて頂きましょうか」
 薄暗い店内に立つ、美しい男。
 足からぞっ、と、寒気が這い上がり、詰まったように感じる喉がごくんと空を噛んだ。
 この男は一体何処から現れたのだ? 店主は呆然と、そこに立つ美しい男を見つめる。
 男は飄々とした顔つきで、眠りこける青年の頭を素っ気無く撫でながら、携帯電話に向かい話をしている。その姿があまりにも当たり前だったので店主は混乱せずにいられない。
 俺は夢でも見ているのだろうか。人が突然現れるなんてそんなこと、あるはずがない。
「突然お邪魔しましてすみません。用が済んだらすぐにも退散いたしますので」
 男は携帯の受話口を手で押さえ、その生き物のようにぬめぬめと赤い唇をそっとつりあげた。
 恐れながらもその余りの美しさに、店主は恍惚とせずにいられない。






 何かがさっとシオンの隣を通り抜けて行った。
 シオンは本能的にはっと覚醒し受け身を取った。
 閑静な住宅街の中、きらりときらめく冷たい感触が彼の目の中に飛び込んでくる。
 ナイフだ。
 それが真っ先にシオンの目に飛び込み、次にそれを構える男の姿が見えた。
 ふうふうと荒い息を吐き出しながら、ぶよぶよの体を震わせている。
「な、なんですか」
 妙に明るい声でシオンは言った。余りの驚きに素っ頓狂な声が出てしまったのである。
「まりもちゃんとはどういう関係だ」
 対して男の声はぞっとするほど低かった。さらにぼそぼそとしていて余りに聞き取りにくい。
「え?」
 シオンは思わず耳に手を当て、男の言葉を聞き返していた。
「しらばっくれるな! 俺は聞いてたんだぞお! お前とまりもちゃんの会話! 聞いてたんだぞお!」
 ぶよぶよとした体を一段と震わせ、男は突然に声を荒げた。
「聞いてた?」
「まりもちゃんたらあんなに可愛い声だして……何でこんなおっさんと」
 男に人と会話する意思があったのかどうかは分からない。
 唐突に声を荒げたかと思えば、またぶつぶつと口の中で呟いている。
「なんでこんなおっさんに親切にするんだ。まりもちゃん。僕というものがありながら……君の後輩のチラシくらい僕が配ってやるじゃないか。なのに……それを!」
 またきっと男がシオンを見据える。
「お前はまりもちゃんに何をしたんだ! 大好きなものって。ううう。大好きな物ってなんだ! まりもちゃんの体か!」
「えええええええええええええええ。いやいやいやいやいや。何って、何もしてませんよ。聞いてたんでしょうが」
 良く分からないながらにも、シオンはおずおずとそう聞き返す。
「聞いてないんだ!」
「えええええ」
「いや、聞いてたけど聞いてないんだ!」
「はあ」
「お前のせいだ! お前のせいで俺は。だってあんな楽しげなまりもちゃんの声なんか聞きたくないもの! 毎日まりもちゃんの声を聞くのが俺の楽しみだったのに! お前がそれを邪魔したんだぞお。どうしてくれるんだ。どうしてくれるんだ」
 男はどしんどしんと足踏みをする。
 それが地団駄だったと気づくには暫くの時間を要した。



 そして一方、その当のまりもは自宅のべらんだの隅に隠れ、一部始終を見守っていた。
 やっぱり盗聴器がしかけられてあったんだな。鉄格子の隙間から下界を見下ろしまりもは神妙な面持ちで頷く。
 これは早急に事務所に相談しなければならない問題だった。
 何せ、あの男はまりもが所属するMASAPで雑用をしている事務員なのだ。まりもの中に布市が居るということは、事務所の中でもごく一部の人間しか知らない。もちろん自宅に居るときでも気を抜かないのは基本だったけれど、やはり自宅でさえまりもの皮を脱げないというのは疲れるものだ。
 盗聴器なあ。そんな気はしてたんだ。
 恐らくはいたずら電話もあの男の仕業だろう。事務員ともなればまりもの部屋の電話番号を調べるくらいきっと容易い。
 今日あたりマネージャーにでも部屋を調べさせようかな。
 物思いに耽るまりもの視線の先で、シオンがわあと飛び掛ってくる男から身を翻し逃げている。きっと、間違いなく勝てるであろう相手に対し、シオンはそれでも向かっていかない。もしかしたら余りの唐突の出来事に、自分が強いということすら忘れているのかも知れなかった。
 まあ。でもきっとシオンさんならやっつけてくれるだろう。
 まりもは暫くの間頬杖をつきながら考え込んでいたのだが、さっと立ち上がり部屋の中に入っていった。





「しかし雛太も自分から誘っておいて先につぶれるなんて信じられないわね」
 お弁当の棚を見ていたシュラインはふふふと小さな笑いをこぼした。
「姉御が夏休みなんだったら朝まで飲もうって先に言ったのはあの子なのよ?」
「ははは。張り切ってましたもんね。そりゃああのペースで飲み続けてたら壊れるわ」
「それにしたって良かったのかしら? 置いてきてしまって?」
「いいんですよ。おっちゃんとは古い知り合いだし。それに、別に悪い奴じゃあないみたいだから。雛太くん、でしたっけ? 寝てるだけで迷惑はかけないでしょう。またお店が開くまでに迎えに行けばいいんだし」
「迎えに行くときは一緒に行くわ。謝っておかなくちゃ」
「仕方ないですよ。待ち合わせ時間に遅れそうだったんだから。緊急事態ってやつですよ」
「でも大丈夫かしらねえ。雛太が居ないんじゃあ、誰が依頼の話を武彦さんにするのかしら。私も貴方も、雛太とその富田って子が何を考えてたかまでは最後までわからなかったわけだし」
「んー。でもまあ。行けば富田は来てるはずだから」
「どうも釈然としないわよねえ。どうして貴方を連れて来いって言ったのかも良くわからないし。貴方、誕生日か、何か?」
「いいえ」
 小さく笑いを含み、森田は首を振る。
「深い意味なんてないのかも知れないわね。ただ、そう。単純に、三人で遊びに行きたかったとか」
「ああ。そうかも知れない」
 小さく苦笑し、彼は商品棚に向けていた目をふっと何気なく入り口の方へ向ける。
 それは本当に意味のない行動のはずだった。
 けれど。
 森田は気づかぬうちにあ、と小さく声を上げていた。
 そこに立つ人。そこにぼんやりとまるで幽霊のように佇む彼を見つけてしまったからである。
「どうして」
「どうしたの?」
 シュラインは隣で呆然と入り口を見やる森田の横顔を訝しげに見つめ、同じように入り口へと視線を向けた。
 その先で彼女は見た。
 コンビニエンスストアーの入り口で、ぼんやりと佇む青年。その手に握られた出刃包丁を。
 咄嗟に嫌な想像が彼女の頭を駆け巡る。青年の目はじっと、カウンターの中できびきびと動く店員に注がれている。余りにもそこに立つ青年が静かなせいか、店員はまだ彼に気づく気配はない。
 一体彼は何をするつもりだろう。あるいは、本当に強盗なのか。そんな思考が彼女の動きを鈍られていた。
 と、突然。
 そこに佇む青年の横を通り抜け、店内に駆け込んでくる二人の男の姿があった。
 シュラインはえっと思わず目を見張らせる。そのうちの一人が、自分の良く知る男だったからである。
「し、シオンさん!」
 叫んだ声は、駆け込んで来た二人に気づき騒然となった店内のさまざまな音にかき消されてしまう。
 歳若い店員が(恐らくは深夜から早朝にかけてのアルバイトだっただろう)ばっとカウンターを抜け出してくる。かすかに上気したその頬が、店員の動転ぶりを現しているようだった。
 何せシオンを追っているでっぷりとした男の手には、ナイフが握られていたのである。カウンターの前でぜえぜえと息を切らす男には、まさに危うい勢いがあった。
「ど、どうし」
 よう。と言いたいのか、どうして、と言いたいのか最早シュラインにも分からない。
「お前! どけよお!」
 危うい勢いを秘めたまま、男がナイフを振り回しシオンの前に立ちはだかった勇敢な店員へかなきり声を上げる。
 あの男を何とかしなければ。本能的に彼女は考える。とにかくあの男を取り押さえなければ!
 シュラインはだっと駆け出していた。
 その後はまるでコマ送りした映像を見ているかのようだった。駆け出した彼女の視線の先で、でっぷりと太った男が店員をきりつけ、彼はドウと崩れ落ちる。
 呆然とそこに立つ男。カウンターの中で悲鳴をあげる初老の店員(恐らくは店長だろう)。
 ばらばらと近くの棚から零れ落ちる商品。
 そしてふっと、電源の切れたおもちゃのようにうつろな瞳でその場にしゃがみこむ、入り口の、青年。
「シオンさん! 何してるの! 早く捕まえて!」
 気づいた時にはシュラインは、蹲り呻き声を上げる店員の傍にしゃがみこんでいた。
 大音量に設定されていたビデオがばっと再生を開始したかのように、全ての現状が彼女の前に押し迫ってくる。
「ああああ。はああいいい」
 最早どうしていいか、あるいは自分が何をしてるかも彼にはわからなかったのだろう。
 シオンはでっぷりとした男の体をがっと掴むと、そこにどしん! と投げつけた。
 まるまると太った金魚が水を欲してビチビチと床ではねるように、男はそこで小さく痙攣した。
「森田く」
 シュラインは自分の隣をさっと見下ろす。
 しかしそこに見知った男の姿はない。
 森田が居ない!
 何処に行った? 彼女は方々へ視線を馳せる。
 居た!
 磨き上げられたガラスの向こうに、駆けてゆく森田と青年の姿が見えた。





「と、とにかく車を出して下さい」
 男は車に乗り込むなり早々、そんな言葉をがなりたてた。
 偉く荒い息を吐き出している。恐らくは何処かから全速力で走ってきたのだろう。
 運転席でぼんやりと煙草をふかしていた武彦は、その声にももちろんぎょっとしたのだが、何よりも、駆け込んで来た青年の連れの男の表情に驚いた。
 言うなれば表情のない。青白いを通り越し、死人のような土気色の顔。
「僕は。僕は森田保樹です」
 森田が聊かに落ち着いた声で言い、もう一人の青年をじっと観察していた武彦ははっとする。
「僕は。森田保樹です。雛太くんの友達です。そして彼は……彼が富田鳴樹です」
「おお」
 いい加減な相槌を打ってから、武彦はまた二人をじろじろと観察する。
「彼が……富田ね。なるほど。今回の依頼主なわけだ」
「そうです」
「じゃあ雛太はどうした」
「彼は……彼なら居酒屋に」
「居酒屋あ?」
「昨日、遅くまで一緒に飲んでたから。潰れちゃってて。だから、とにかく車を出して貰えませんか」
「居酒屋あ?」
 武彦は一人でもぞもぞと呟いた。
 この森田という男が信用できないわけではなかったし、あるいはそんな可能性もあるように思えるところがみそなのである。
 うーんと武彦は腕を組んだ。ルームミラー越しにチロリと、モーリスへ視線を投げる。何事もなかったかのように平然とそこに腰掛ける彼。武彦の顔など見ようともしない。
「だがなあ……しかし」
「早く!」
 突然、プツン、と何かが切れたかのように真っ赤な顔で青年は武彦を睨みつける。
 その迫力に気圧されて武彦は一瞬仰け反った。
「お願いします。とにかく車を出してください。行き先は……」
 そして結局、武彦はしぶしぶながらも車を走らせたのである。




 今、一台のバスが、田園風景の中を走り抜けていく。
 酷くゆったりとした速度でゆるゆる進むそのバスの車体は、照り付けてくる太陽の光にぴかりときらめき、時折ブルンと溜め息を吐くように排気ガスを吐き出した。
 モーリス・ラジアルは手垢のついたバスの窓から、雄弁な沈黙に包まれる車内へと視線を戻した。
 そこに腰掛ける、二人の青年。
 森田保樹とそしてあの青年は。確か、真野和樹と言っただろうか。
 その二人がどうして一緒に居るかはモーリスに知る由もない。けれどただ一つ、富田鳴樹と雪森雛太という二人の青年が武彦に依頼しようとしていた通り、結局今その二人がこのバスに乗っている、ということは確かなのである。
 モーリスは茫然自失といった状態で窓に張り付く真野の後姿をじっと見つめる。
 どうにも見ている限りでは多くの食い違いや勘違いはあるようだったが、最終的に森田の望み通りになったというわけだ。
 富田は森田が悩んでいる姿をいつも見ていたのだと言う。友人ということもあり、その相手がまさか男だとは当然当初は知らず、悩み相談を受けていたらしい。つまりは、自分は相手にとって何なのか、などという愚痴だろう。困った時、淋しい時、退屈な時だけに呼び出され、めそめそ泣かれ、愛してくれとせがまれて、けれどその人が自分の物には決してなりはしないのだと。それを自覚する不甲斐なさ、悔しさを酒の勢いで友人などに漏らしていたのかも知れない。
 一方、真野は真野で相当に弱い男だったと見える。彼には当然の如く、森田以外に愛する男性が居たのだが、その男性とは上手くいかず、そのたびに彼は少しずつ少しずつ精神的にも肉体的にもやつれていったという。あるいは今そこに居るもぬけの殻は、その成れの果ての残骸かも知れない。
 歪な三角形。それは何処にでもある話なのだろう。ありふれていて、至極くだらない。けれど、当人にとっては切実な。
 森田はそんな真野を救いたかった。そんな男から引き離し、出来れば自分の腕の中に抱きしめたかった。そして富田と雪森は、そんな森田を友人として救いたかったのだ。

 バスが走り出してから何十分が経過しただろう。
 余りにも尋常ではない様子の真野に対し、武彦は心配げな視線を馳せて「気分が悪いのか」と声をかけている。
 要領を得ないやりとりが交わされ、そしてついに武彦が、その言葉を切り出した。
「お前……もしかして富田鳴樹、ではない、のか?」
 森田がはっと凍りつくのが分かった。
 しかし凍りついただけで彼は口を開かない。
 武彦に突然そんな言葉を言われた真野だけが、きょとんとした顔で武彦の問いに答えている。
 あるいは彼は、今自分がどうしてここに居るのかも、ちゃんと理解できていなかったかもしれない。
「参ったな」
 真野から吐き出された否定に対しさほど参ってもいないような口調で言った武彦は、暫くこめかみをとんとんと叩き何かを思案している風だったが、不意に意を決したように道路脇へとバスを停車させた。
 もう一度真野に「富田鳴樹ではないのか」と確認を取り、否定された武彦は、「おい、どうするんだこれは」と、最終的にモーリスを見た。
 モーリスは座席に張られた薄っぺらいソファーシートに身を埋めるようにして座り、ただじっとそんな武彦を観察していた。呆れ顔で自分を見てくる武彦の目を笑みで受け流しながら、手の中にある銀色の四角い物体を弄ぶ。
 森田は神妙な面持ちで、口を開くべきかどうかを思案していた。重い沈黙。やっと我に返ったかのような真野だけが、オロオロと辺りを見回している。
「しっかり者の女将が居ないからこんなことになるんですよ」
 モーリスは手の中にあったデジタルカメラを構え、何ともいえぬ表情でそこに立つ武彦の写真を撮った。
 かちり、と冷たい音だけが車内に響く。
「まあ、まずは皆さん落ち着きましょう」
 そして彼は立ち上がる。
 じりじりとその、美しい顔に浮かぶ笑みを濃くして。













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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号0086/ シュライン・エマ (しゅらいん・えま) / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【整理番号3356/ シオン・レ・ハイ (しおん・れ・はい) / 男性 / 42歳 / びんぼーにん+高校生+α】
【整理番号2318/ モーリス・ラジアル (もーりす・らじある) / 男性 / 527歳 / ガードナー・医師・調和者】
【整理番号2254/ 雪森・雛太 (ゆきもり・ひなた) / 男性 / 23歳 / 大学生】
【整理番号4691/ 水野(仮)・まりも (みずの?・まりも) / 男性 / 15歳 / MASAP所属アイドル】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 不定期バス にご参加頂きまして、まことにありがとう御座いました。


 愛し子をお預け下さいました、皆様の懐の深さに感謝を捧げつつ。
 また。何処かでお逢い出来ることを祈り。
                       感謝△和  下田マサル