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想い出を聞かせて 〜美しき誤解のゆくえ〜
井の頭通りに交差し、やがて公園につながるわき道に、セレスティ・カーニンガムは車を止めさせた。
「ここから先は、歩いて行きますので」
『弁天通り』と案内表示のあるその道に、セレスティは降り立つ。ここをまっすぐ行けば弁財天宮に通じる、というわけでもなくむしろ遠回りなのだが、散歩がてらに訪ねるには、丁度良い距離だと判断したのだ。
長月上旬、朝晩はめっきり涼しくなり、気の早い虫たちはそろそろ鈴の音を奏でている。しかし日中の気温は未だ高く、昼過ぎにはつかの間の夏が呼び戻される、揺れ動く季節でもある。
今日は曇り空ゆえ、さして暑くもあるまいと歩き始めたものの、肌にまとわりつく湿気は、じんわりと熱を持っていた。
(……大気が少し、乱れていますね)
大型の台風が、南のほうに近づきつつある。おそらくはその影響で、関東地方も天候が不安定になっているようだ。
セレスティはほんの少し、歩みを速めた。
とはいっても、ステッキを操る白い手に動揺は見られず、優雅な足取りはそのままだったのだが。
公園に足を踏み入れたとき、ぽつぽつと降り始めた小雨は、弁財天宮に着く前に本降りになった。気温はいっこうに下がらず、なんとも言えない蒸し暑さを伝えてくる。
いささか辟易したセレスティが、どうしたものかと思案しかけたとき。
「あのー。セレスティさん? たしか、セレスティさんですよね? 宜しかったら雨宿りなさいませんか? 『井之頭本舗』はすぐそこですので」
小走りに近づいてきた和服の少女が、店舗名の入った番傘をさし掛けたのだった。
** **
「あなたは、みやこさん、と仰いましたね? 以前、弁天さまが泉の女神を演じられたとき、鯉太郎くんと一緒に落し物を探していただいた」
「あ、覚えててくださったんですか? ありがとうございます」
みやこはセレスティを窓際の席に案内し、乾いたタオルを手渡した。
セレスティは濡れた銀髪を軽く拭いただけで、すぐに礼を言って返却する。
「ここは涼しいですね――助かりました。雨に降られるのは、まあ、構わないのですけれども、暑いのは苦手でして」
「どうぞ、ごゆっくり涼んでらしてください。こんな天気ですから、あまりお客さまもいらっしゃらなくて、実は退屈してたんです」
みやこはテーブルにことりと、麦茶入りのグラスを置いた。メニューを眺めているセレスティの横で、花丸印のついたおすすめメニューの解説を始める。
「もし、お食事がまだでしたら、今日は限定ものの田舎蕎麦がいいですよ。徳さんの自信作なんです」
「徳さん……?」
耳慣れない名前に、セレスティは首を傾げる。
「霧嶋徳治さんと仰って、弁天さまがどこからかスカウトしてきたかたです。見かけはちょっぴり怖い感じですが、信州内藤流を極めた蕎麦打ち名人でいらっしゃるんですよ」
「ああ。そのかたでしたら、私は『鬼鮫』さんという通称で存じてます。鬼鮫さんの打たれたお蕎麦、食べてみたい気もしますが……あまり食欲旺盛なほうではないので」
セレスティは結局、水出し緑茶と葛切りのセットを注文することにした。
「いらっしゃいませぇ、井之頭本舗へようこそぉ!」
1オクターブ高い珍妙な挨拶とともに、硝子の急須に入った緑茶を運んできたのは、髪を下ろして三つ編みにし、この店のユニフォームであるところの和服エプロンに身を包んだ弁天であった。
「おや、弁天さま。こんにちは。今日はこちらのアルバイトという趣向ですね?」
「むむ? 何故にわらわだとわかるのじゃ? 愛くるしくも初々しい、新人ウエイトレスに化けたはずじゃったのに!」
「……オーラが違いますから」
そつなく言って急須とグラスを受け取ったセレスティは、弁天の影に隠れるようにして葛切りを運んできた店員に気づいた。今まで笑うのを我慢していたのだが、思わず吹き出してしまう。
「草間さんじゃないですか。不思議な場所でお目にかかりますね」
「――いらっしゃいませ」
男性用ユニフォームの、芥子色の和服に紺のエプロンをつけた草間武彦は、苦虫を噛み潰したような表情で頭を下げた。
「何じゃ、その仏頂面は。客商売の基本は親切・丁寧・愛想良くじゃ。もっと爽やかに笑わぬか!」
叱られて武彦は、不承不承、強ばった笑みをつくった。
「こちらでアルバイトですか? お疲れ様です」
「……ああ。いろいろと事情があってな」
「接客にハードボイルドは不要じゃというに。突き抜けられない男よのう」
お盆の裏ですぱーんと後頭部をはたかれた拍子に、武彦が持っていたお盆が揺れた。葛切りの蜜が、少しこぼれる。
「ああっ。おぬしがきちんと持たぬからっ!」
そもそも自分が殴ったせいだということは棚に上げ、武彦に責任転嫁してから、弁天は奥の厨房に向かって大声を上げた。
「徳さーん! 徳さんはいるかえー?」
「……へい」
凄みのある返答が聞こえる。
「武彦のすっとこどっこいがしくじった所為で、葛切りをお客さまにお出しできなくなったのじゃ。忙しいところすまぬが、新しいものを持ってきてくれぬか?」
「只今、まいりやす」
桐盆の上に薩摩硝子に盛った葛切りを乗せ、霧嶋徳治こと鬼鮫こと『徳さん』は現れた。
長ドスの代わりにおしぼりを携え、血のにおいの代わりにほのかな蕎麦湯の香りを漂わせて。
「――いらっしゃいやし」
つ、とテーブルに葛切りを置く物腰には、一分の隙もない。
「これは……。私だけで鑑賞するのは惜しい気がしますね。……みやこさん?」
「あ、はい」
「予備のデジタルカメラなど、お持ちではないでしょうか?」
「2階のインターネット・カフェに置いてありますけど」
「しばらくお借りして宜しいでしょうか。弁天さまと草間さんと鬼鮫さんを撮っておきたいんです。出来れば動画で」
「わかりました。じゃ、あたしが映しますね。セレスティさんも一緒に」
** **
渋る草間武彦と居心地が悪そうな鬼鮫は、弁天になだめすかされ、セレスティ接待要員として同席することになった。
セレスティを囲んで座れるよう、テーブルと椅子の位置が動かされる。
右に武彦(余談だが、鬼鮫と一緒のときは禁煙を貫いているらしい)、左に鬼鮫、正面に弁天。ひとめ見ただけで今晩の夢に出てきそうな濃いビジュアルであった。
デジカメを向けながら、みやこはしきりにセレスティに話しかける。
「今までに、特別印象に残ったこととか、聞かせていただけませんか?」
世界的に有名なリンスター財閥の総帥は、草間興信所の調査員でもある。さぞ興味深い話が聞けるだろうと思った井之頭本舗店長のミヤコタナゴは、こぼれ落ちそうな目を輝かせているのだった。
「過去の印象的なお話、ですか。そうですねえ……」
セレスティは、想い出の海に潜るがごとく、静かに目を閉じた。
しばらくそうしていたが、やがて、ああ、あのときは、と呟いてふわりと笑う。
どうやら、記憶の海の底で、ひとつぶの真珠を見つけたらしい。
「私はごらんのとおり、どこからどう見てもれっきとした男性なのですけれども」
しかし、語り始めたそのときから、一同は異口同音に、
「えぅぁ?」
……つい奇妙な音声を発してしまった。弁天はげほんごほんと空咳をして、
「本人がそう主張しているのじゃから、この際、外野の感想は控えるとしよう――続けて良いぞ、セレスティ」
と、先を促す。
「以前は、レースを使った服などを着ておりまして。そうしますとたまに、私のことを女性だと勘違いなさるかたが現れるのです」
「それは、いらっしゃるでしょうね」
「さもありなん」
「当然だな」
「…………ンむ」
きっぱりと4人は頷く。さらにみやこは、合いの手を入れた。
「誤解を解くのは、大変だったでしょう?」
「あえて訂正はしなかったのですよ。男性としてそれはどうなのかと、自分でも思うところがありまして」
「でも、それじゃ」
「ええ。そのかたは、ずっと性別を間違えたまま――ある日、何を思ったのか花束をくださいました」
「なんと。罪な男よのう」
弁天が腕組みをして、眉間に縦じわを寄せる。
「何度か花束やプレゼントをいただいて……とうとう指輪を差し出されたときには、さすがに訂正しましたが」
「で、その殿方とはどうなったのじゃ?」
「今では良いお友達です。誤解は早めに解いた方がいい、という教訓を得ました」
「聞いたかえ、徳さん。こころ温まる逸話ではないか」
弁天が、びっしり汗を掻いている鬼鮫の肩をぽんと叩く。
「のう、徳さんとて、セレスティが女性であれば放ってはおくまい?」
「おい弁天、あんまり鬼鮫を困らせるなよ」
鬼鮫はどう反応していいかわからずに固まっているようだ。見かねた武彦が庇う。
(たまには気まぐれな散歩も悪くないですね。こんな珍しい光景が見られるのですから)
あとで、みやこさんにお願いして、撮った動画は屋敷の皆へのお土産にしましょう。
セレスティは、グラスに注いだ緑茶をひとくち飲んだ。
――まだ、雨は止まない。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1883/セレスティ・カーニンガム(せれすてぃ・かーにんがむ)/男/725/財閥総帥・占い師・水霊使い】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは。神無月です。
続けてのご来園、まことにありがとうございます。セレスティさまが、井之頭本舗の最初のお客さまでいらっしゃいました。
お心の片隅に、シャイな徳さん(ぇ)の想い出を刻むことができましたらば本望です。
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