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<東京怪談ノベル(シングル)>


復讐の行方は

「それにしても……どこでついたのかな?」
 夜。シャワーを浴びながら、海原みなもは自分の左肩を見て呟いた。そこには、ミミズ腫れのような痣。もちろん、みなもにはどこかでぶつけた覚えはない。今朝、ロバになる夢を見て、鞭で打たれた場所がここだったが、まさか、そのせいだとは思いたくはない。
 シャワーの湯を当ててみても、それが消えるはずもなく。みなもは溜息ひとつついて、バスルームを出た。湯上がりの肌をパジャマで包み、自室へと戻ってベッドに潜り込む。

 気がつけば、みなもは空の皿を前にテーブルについていた。その皿には見覚えがある。今朝、夢の中でロールキャベツが盛ってあった皿だ。どうやら、今夜のみなもは既にロールキャベツを食べてしまったらしい。
 そう思ったところで、みなもの背筋に寒いものが走った。そう、今朝はこれを食べてロバになったのだ。
「まさか、あたし……」
 果たしてその予感は裏切られることはなかった。おそるおそる呟いた途端、身体の中心がかぁっと熱くなった。覚えのある、このおぞましい感覚。
「いやああっ」
 内側から破裂していくような激しい痛みと息詰るような苦しさに、そこから逃れようと椅子から立ち上がり、バランスを失って床へつんのめるあたりまでが同じだ。とっさについた両腕が棒のようにつっぱり、肩までそのまま走る衝撃が、今朝の悪夢をまざまざと思い出させた。
「や……」
 それはまるで、展開を知っている一番嫌いなホラー映画を無理矢理見せられているようだった。
 目の前で、分厚く、硬く、黒くなり、見るも醜い蹄へと姿を変える左手から、視線を逸らすことができないのはどうしてだろうか。
 手首から腕へと、白い皮膚に裂け目が走り、そこからおぞましい褐色の毛が飛び出してくるのを、みなもはなすすべもなく見つめていた。
 どうして、どうして、どうして……。
 絶望に見開かれた青の瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ち、乾いた頬を伝う。が、この頬もじきに裂け、ロバの毛に覆われるのだ。
 わかっているのは逃れる術はないということばかり。それがみなもの恐怖をさらに駆り立てた。悲鳴でもあげていればまだ和らいだかもしれないが、絶望感がその気力さえもみなもから奪っていた。
 それなのに、どうしてこんなに克明に、それこそビデオでも見ているかのように、自分の身体の変化がわかるのだろう。
 手首から肘へ、肘から肩へ。足首から膝へ。膝からももへ。みなもの皮膚は裂け、無骨な獣の四肢へと変わっていく。生え出た毛並みがざわざわと揺れる感触に、みなもは震え上がった。
 そして、今度は胴体がふくれあがり、骨格がみしみしと音をたてて変形する。その身体を包み込めなくなった衣服があちこちで裂けていく音を聞きながら、みなもはあの青年の存在を思い出した。「自分のしたことの報いを受けるがいい」と薄い笑みさえ浮かべて自分を見下ろした青年を。
 みなもはどうにか顔を持ち上げた。果たして、今回も青年はみなもを見下ろしていた。その冷たい視線と目が合い、みなもの顔は羞恥で真っ赤になる。
(どうしてですか? あたしが何かしましたか?)
 みなもは涙のたまった両目で青年を見つめた。が、ロバへと変じてゆくこの姿をじっと見つめられていると思うと、あまりの恥ずかしさに喉が固まってしまい、言葉は出て来なかった。
 青年はわずかに眉を寄せ、ほんの少しみなもから目をそらした。
 もう一度、口を半開きにしたみなもの喉を、大きなものが無理矢理せり上がってくる感覚が襲う。
 ああ、もうここまで、と思った途端、みなもの身体から力が抜けた。
 果たして、伸び上がって膨らんだ首はすでにロバのそれだった。額は後ろに引っ張られ、口は左右に引き裂かれ、重たい前歯がせり出して、視界がぐいと左右に開く。
 青年は今度は無言で轡(くつわ)を取り出した。それをみなもの口にはめようとする。
 みなもはまたも必死で首を振った。が、青年が鞭を振り上げた途端、あの痛みと衝撃が生々しく蘇ってきた。そのあまりの恐怖に、身が凍り付く。
「……」
 青年は黙って鞭を下ろすと、抵抗できなくなったみなもの口に慣れた手つきで轡をかました。やはり、みなもの中であたかも水面が凪ぐように、それまでの恐怖も羞恥も嫌悪感も、否、「海原みなも」という存在すらもが、すぅっと引いていった。もはやみなもは、完全にロバになっていたのだ。
 青年は無言のままでロバの轡を引いた。青い目とたてがみのロバは従順にそれについていく。
「ちょいと、そこのあんた」
 青年は通りすがりの男に声をかけた。
「このロバ、買わないかい?」
「ほう……、目とたてがみが青いんだなぁ、珍しいロバだな」
 男は立ち止まると、じろじろとロバを眺めた。何か腹黒いことでも企んでいるような、嫌な目つきだ。ロバは怯えて青年の後ろへと身を縮こめる。
「……やっぱり気が変わった。この話、なかったことにしてくれ」
 青年はロバの轡を引き、みっともなくわめき散らす男を残して歩き始めた。

「さて、ロバにはロバらしく、働いてもらうぞ」
 青年は冷ややかな目でロバを見下ろし、その背に麦の詰まった袋を積んだ。
 ロバはそのあまりの重さによろめいたが、ロバにしては細い脚を踏ん張り、一歩、一歩必死に踏み出した。ここで役に立てなければ、また売り払われてしまう。
 どうにか粉引き小屋にたどり着けば、今度は粉の詰まった袋を背に乗せて運ぶ。それは辛い仕事だったが、ロバは嫌がるそぶりも見せずにただひたすら働いた。
 青年は、そんなロバを黙って見つめていた。
 翌日。
 またも青年はロバの背に麦の入った袋を積んだ。昨日の疲れで背中や脚の痛むロバだったが、やはり嫌がるそぶりも見せず、懸命に荷を運んだ。
 粉引き小屋にたどり着けば、青年は今度は粉の詰まった袋を背に乗せる。が、しばし無言で考え込むと、そのうちの1つを下ろし、彼は自分で背負った。
 ロバは驚いて青年を見つめ、首を振った。こんな荷物も運べない役立たずだと思われてしまったのだろうか。このままではまた売られてしまうかもしれない。自分はまだまだ働ける、と一生懸命訴える。
 青年はそんなロバをちらりと見ただけで、袋を背負ったまま歩き始めた。ロバはしおしおとその後についていった。
 その翌日、青年はロバにブラシをかけてくれた。
 やっぱり売るために見栄えをよくしようとしているのだろうか。ロバは悲しくなって青年の顔を見つめた。青年は、相変わらず硬い顔をしていたが、ロバの首をそっと撫でてくれた。その手は思いのほか温かかった。
 この日、青年はロバに荷物を運ばせなかった。
 その夜、ロバが小屋で眠っていると青年がやってきた。そっと側に座り込み、優しく首を撫でてくれる。
「あんたには、本当に悪いことをしたな。あの人に裏切られて、関係のないあんたに八つ当たりしちまった。あの妙なキャベツも手に入れて、いつでも仕返しだってできるのに、俺は、あの人の真意を聞くのが怖いんだよ。あの時、舞い上がっていたのが俺だけだったと知らされるのが怖くて、もう一度あの人のところに行くこともできやしない……」
 青年は独り言のように言いながら、優しく優しくロバの首を撫でた。
 ロバはそっと顔を上げた。青年が言っていることの意味はわからない。わかるのは、彼がひどく寂しそうなことだけ。だから。
 ――元気を出して下さい。
 ロバはそっと顔を青年の首筋にすりつけた。
「優しいんだな、あんたは。そして、とても我慢強くて温かい」
 青年はロバの首筋に自らの顔を埋める。それを労るように抱きとめて、ロバは穏やかな眠りについた。

 翌朝、目が覚めればえさ箱にはみずみずしいキャベツが入っていた。空腹を覚えたロバはさっそくそれにかじりつく。お日様の匂いのする干し草も悪くはなかったが、やっぱり新鮮なキャベツの旨さは格別だ。あっというまにがっついて、ロバはキャベツを全て食べてしまった。
 と、突然、ぐいと首の後ろを引っ張られるような感覚に襲われて、ロバは思わず後ろ足立ちになった。両肩が左右に開かれ、身体がどんどん縮んでゆく。自慢の褐色の毛皮はごそりと抜け落ちた。
「きゃあああ」
 甲高い悲鳴を上げて、みなもははたと気がついた。目の前にあるのは、細い5本の指がついた人間の少女の手。おそるおそるそれを頬に持っていき、みなもは自分が人間の姿をしているのに気付いた。と同時に、ロバになっていたことを思い出す。
「何が……」
 きょろきょろとロバ小屋を見渡して、みなもは自分が裸であることに気付いた。途端、恥ずかしさにかっと顔が熱くなり、慌ててその場にしゃがみこむ。人の姿がないのが本当に幸いだった。
 そろそろと顔を上げれば、小屋の前に女物の服が置かれているのに気付いた。誰のものかはわからないが、この際拝借するしかないだろう。みなもはごわごわするそれを手に取り、手早く身にまとった。
 そして、再び周囲を見渡す。誰の姿もなかった。あの青年の姿も。
 みなもはゆっくりと足元を確かめるように歩きながら外に出た。あの青年の姿はない。粉引き小屋を覗いても、誰もいなかった。
 きっと彼の言う「あの人」の元へと行ってしまったのだ。みなもには、妙な確信があった。これでもうロバになる恐怖は味わわなくていい。そうはわかっていても、なぜか今、みなもの胸を満たすのは、切ないまでの寂しさだった。
「あたしを置いて、行っちゃったんですね……」
 そうこぼせば、締め付けられるように胸が痛んだ。両の瞳から、次々と涙がこぼれては落ちる。
 いつまでそうしていたのか、ひたひたと夕闇が押し迫ってきていた。

 薄暗い部屋の中で、みなもは上体だけを起こしていた。徐々に周りのものが目に入ってくる。
 見覚えのある天井、壁紙、机、教科書類……。そこは見慣れたみなもの自室だった。
「夢、かぁ……」
 みなもは小さく呟いた。いつの間に夢から醒めたのか、全く気付かなかった。
 みなもはベッドから降りると、窓辺に寄ってカーテンを引き開けた。明るい朝の陽射しが、夢の残滓を洗い流していく。
「ちょっと切ない夢だったな」
 みなもは大きく伸びをして呟いた。みなもは「キャベツロバ」のお話とその結末を知っている。
 けれどあの青年は、あの後、復讐などしなくても娘と心を通じ合わせ、幸せをつかむことができたのではないだろうか。
 何となく、その答えがそこにあるような気がして、みなもはグリム童話集に手を伸ばしていた。ぱらぱらとページを繰ったところで、はたと気付く。そもそもがみなもが悪夢に襲われた原因はこれにあったのではなかったか。
「……」
 みなもは本を見つめたまま凍り付いた。
 果たして今宵みなもが見る夢は。それは、神と父だけが知っていた。

<了>