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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


読めない絵本

【オープニング】
 時空図書館の庭園の一画で、管理人の三月うさぎが、泣いている子供を発見したのは、夏の終わりのある日のことだった。
 この地に、時間の流れがあるかどうかは、ともかくとして――ここにしょっちゅう入り浸っている妹尾静流の感覚では、そういうことだ。
 子供は、小学校三年生か四年生というところ。おさげ髪に、ブラウスとスカートという、ちょっと古風な恰好で、絵本を大事そうに胸に抱えていた。そして、その子が泣いている理由も、その絵本にあった。
 それは、読むことができないのだ。
 開いたページは、どれも真っ白で、文章も絵も何もない。稀にわずかに絵の片鱗のようなものが残っているページもあるけれど、それらは何が描かれているか見てもわからないという意味では、同じだった。絵本の表紙にはもちろん、タイトルと中身を示すような絵が描かれているのだけれども、これもなんだか意味不明だった。タイトルは、静流にはもちろん、三月うさぎにも読めない文字で書かれていて、絵の方はまるでだまし絵のように、見る人・見る角度によって、どんなふうにも見える。
「困りましたね」
 庭園の中の四阿(あずまや)で、しばらく絵本を調べた後、三月うさぎが、溜息と共に呟いた。
「おそらく、これはこの子の記憶でしょう。それが、絵本という形になっているのでしょうね」
「つまりこれは、この子が記憶を失っているからだと?」
 静流が尋ねると、三月うさぎは肩をすくめる。
「失っているというよりも、この子がここに迷い込んだ時点でなんらかの問題が生じて、そのせいで記憶が庭園の中に飛び散ってしまったという方が正しいでしょう。つまり、それを全て集めれば、絵本は読めるようになって、この子の記憶も戻り、ここではない、本来行くはずだった場所に行けるようになるはずです」
 言って、三月うさぎは静流を見やった。
「外から人を呼んで、手伝ってもらう以外、ないようですね。なにしろ、ここは広いですから」
「……わかりました」
 低く溜息をつくと、静流は携帯電話を取り出し、手伝ってくれそうな友人・知人に連絡を取り始めるのだった。

【1――庭園へ】
 静流からの電話に「いいですよ」と答えた途端、ゆるやかなめまいのような感覚が襲って来て、セレスティ・カーニンガムは、慌てて傍にあった日傘を手に取った。以前、時空図書館の庭園に招かれた時に、ずいぶん日射しが強かったことを、とっさに思い出したのだ。
 それと同時に、更にめまいは強くなり、彼はがまんできなくなって目を閉じた。
 ようやくめまいが治まって、目を開ける。彼の弱い視力では、あまりはっきりとあたりの風景を見ることができなかったが、そこはどうやら、時空図書館の庭園のようだった。もっとも、以前来た時とは、かなり様子が違っているようだ。
(あれは……芝生でしょうか?)
 彼がいるのは白亜の四阿の中で、その周囲は一面緑の芝生に包まれているようだった。四阿の傍には、噴水があるのか、水音が聞こえる。
 四阿には、彼の他にも何人か人影があった。
「セレスティ、あんたも来たの?」
 最初に声をかけて来たのは、友人のシュライン・エマだ。声ですぐにそうと察する。翻訳家で、草間興信所の事務員をしている彼女は、今日も長い黒髪を後ろで一つに束ね、胸元には薄く色のついたメガネが揺れていた。
「ええ。今日は車椅子ですし、こうして日傘も持って来ましたから、ちゃんとお手伝いができると思いますよ」
 セレスティは、笑ってうなずく。そして尋ねた。
「他には、誰が?」
「私も一緒です」
 答えた声は、綾和泉汐耶のものだった。都立図書館の司書をしている彼女は、女性にしては長身で、スレンダーな体型の上に髪も短く、時に男性と間違われることがある。今日もパンツスーツのようだ。
「汐耶さん。今日は、お休みですか?」
「はい。……まだ古書店巡りに出かける前でしたから、来ました」
 セレスティが問うと、彼女は苦笑と共に言った。
 そこへ、穏やかな声が響く。
「皆さん、お呼び立てして、申し訳ありません。……どうも、私たちだけでは探すのに手間取りそうでしたのでね」
 言って、ゆるやかな動作で立ち上がったのは、薄紅色の髪と目をした、二十代半ばと見える青年だった。その耳は途中から小さな羽に姿を変えており、まるで髪飾りのようでもある。その身には、白いゆったりとした中国風の衣服をまとっていた。
 彼がこの時空図書館と庭園の管理人である三月うさぎだった。
 そして、その隣に立つ彼より長身の青年が、妹尾静流である。
 もっとも、今日は二人の他にもう一人、小学校三、四年生ぐらいの女の子が一緒だった。この子が、静流が電話で言っていた、読めない絵本を持った子供だろう。
「その子が、絵本の持ち主ですか?」
 セレスティが尋ねると、三月うさぎがうなずいた。
「ええ。名前も覚えていないようなのですが……ないと不便なので、とりあえず今は、夏美さんと呼んでおくことにしましょう」
「夏美ちゃんか。……早く、本当の名前も思い出せるといいわね」
 シュラインが、女の子と目線を合わせて話しかける。そして、彼女がしっかりと胸に抱いている絵本を見やった。
「夏美ちゃん、その絵本を私たちにも見せてくれる?」
 問われて仮に夏美と名付けられた女の子は、うなずくと中央のテーブルの上に、絵本を広げた。セレスティたち三人もそちらへ寄って、全員で絵本を覗き込む。
 たしかに、電話でも聞いたとおり、どのページもほとんど真っ白で、表紙の文字は意味不明だった。
 ちなみに、シュラインと汐耶は職業柄、日本語以外の言語にも詳しく、稀少言語や古語などでも読み解けるほどだ。しかし、その二人にもこの文字は理解不能だという。
 セレスティにしても同様だ。彼は、書物やパソコンなど、情報を閉じ込めた無機物のそれを、手で触れることで読み取る能力を持っている。つまり、どこの言語で書かれていようが関係ないはずなのだが、やはり理解できなかった。
 ただ、中身については、彼ら全員でかすかに残る絵をチェックした結果、どうやら四季折々の遊びや学校行事を題材に描かれているらしいことが、判明した。
「やはり、子供の記憶だから、ということなのでしょうね」
 なんとなく微笑ましい気持ちになって言うセレスティに、シュラインもうなずいた。
「そうね。それに、四季折々のってところが、なんとなくちょっと前の時代の子供なんだなって感じだわ」
「ああ……。そうだわね。だいたい、今の子供って四季折々の遊びなんて、しないんじゃないかしら」
 汐耶もうなずき、続ける。
「それに、今だと外で遊ばせるのって、かえって危険だろうし」
「そうよね。誘拐とか事故とか、危険が一杯ですものね」
 シュラインが、小さく溜息をついた。そして、なんとなく夏美を見やる。彼女はしかし、三人の話していることがよくわかっていないのか、きょとんとした顔で、彼らを見上げた。
 それを見やってセレスティは、三月うさぎをふり返る。
「四季折々の……ということですが、どのあたりに記憶が散っていそうだとかの、心当たりはありませんか? それと、記憶を見つけてもどうやって持ち帰ればいいんでしょう? この子を、ずっと一緒に連れていけと? それとも、絵本だけを持って行けばいいのでしょうか?」
 彼の問いに、シュラインと汐耶も三月うさぎをふり返った。彼女たちも、同じような疑問を胸に抱いていたのだろう。
 三月うさぎは、それへ言う。
「記憶はおそらく、ここではなんらかの形になっていると思います。……そうですね。たとえば、花だとか木の実だとか。あなたたちなら、庭園に咲く花や木々と、記憶のかけらとの見分けは、かならずつきます。なので、あなたたちがそうだと思ったものを、持ち帰っていただければ、大丈夫だと思いますよ。それと、記憶が散っていそうな場所ですが……とりあえず、図書館の中ではないと思います」
「どうして、そう思われるんですか?」
 図書館の中も探す必要があると考えていたセレスティは、軽く目を見張って訊いた。
「セキュリティがあるため、こうしたものは入れない、というのもありますが……現在、図書館は全面メンテナンス中で、完全に密封状態です。人間も迷い込むことができません。ですから、それ以外のものは、当然入れません」
「つまり、庭園の中だけを探せばいいというわけね」
 シュラインがうなずいた。そして、小さく溜息をついてあたりを見回す。
「といっても、ここは途方もなく広いわよね。他に手がかりになりそうなものは、ないのかしら」
「もしかしたら、あそこかもしれません」
 さっきから、ずっと黙って彼らのやりとりを聞いていた静流が、ふいに口を開いた。
「心当たりがあるの?」
 シュラインが問い返す。
「はい。この庭園の中に、四彩亭と管理人が名付けた四阿があるんです。そこは、四季折々の花や風景が同時に見られるようになっています。あそこなら、もしかしたら夏美さんの記憶が形になって、存在している可能性も、あると思います」
 うなずいて、静流は言った。
「そうですね。あそこなら、あるかもしれませんね」
 三月うさぎも、傍から同意する。
「では、ともかくそちらへ行ってみましょうか。妹尾さん、案内をお願いします」
 セレスティが言うと、静流がうなずいた。夏美は、三月うさぎと共にこの四阿で待っていることになった。
 こうして、静流を先頭に、セレスティ、シュライン、汐耶の三人は、四阿を後にした。

【2――四彩亭】
 静流の言う四彩亭は、なかなか変わった建物だった。
 いや、外観は至って普通である。この庭園の中の建物としては珍しく、全体の造りは和風と中華風の中間のような感じだ。四阿というよりは、小さな廟堂とも見えるそれは、天井や柱、欄干など全てが朱塗りで、屋根からは手の込んだ金細工の飾りがいくつも下がっている。
 中の調度も、外観に合わせて朱塗りの四角いテーブルと、真っ直ぐな背もたれのある椅子が何脚か置かれており、天井からは、美しいししゅうの入った絹のおおいをつけた四角いランプが吊るされていた。
 しかしながら、そこへ案内されてセレスティたちは、怪訝な顔になる。というのも、建物の周囲は、先程の庭園と変わらない芝生になっていて、どこにも花など咲いていないからだ。だが、誰もそれを口にはしなかった。この時空庭園は、そもそも普通の場所ではない。だから、なんの変哲もなく見えてもきっと、何かあるに違いなのだ。三人ともが、そんなふうに考えていた。
 そして、その期待はやはり、裏切られなかった。
 四彩亭の中は、さほど広くはなく、四方の壁はそれぞれ障子のついた小窓と、傍に小さな格子戸を備えている。静流に言われて、セレスティたちは、それぞれの小窓を開けてみた。そして、驚きの声を上げる。
「これは……!」
「どういうこと? こっちは夏なのに、セレスティが開いている方の障子からは、冬の景色が見えるわ」
「私の方は、秋よ」
「ええ。だから、四彩亭なんです」
 静流がうなずいて言った。彼が開いている小窓からは、春らしい景色が覗いている。彼は続けた。
「民話か何かに、あるでしょう? 小さな和箪笥の中に、引き出しを開けるごとに、春の花見の様子や、夏祭り、秋の稲穂、冬の雪景色が見えるというの。あれと、同じような趣向らしいです、ここは」
「なるほど。たしかにここなら、四季折々の風景には事欠かないというわけね」
 シュラインがうなずく。
「では、手分けして、それぞれの季節の庭を見てみようと?」
 セレスティはちらりと窓の外を見やって、尋ねた。
「それがいいんじゃないかと思います。ちょうど四人ですし」
「じゃあ、今開けている景色の場所を、それぞれ調べるというのでいいかしら」
 静流がうなずくのを見やり、シュラインは他の二人を見回した。そして、ふと気になったように、静流をふり返る。
「ねぇ。この景色の中って、本物と同じなの? たとえば、夏だったらすごく暑いとか、冬だったら寒いとか」
「ああ、それはないです。この向こうも、基本的には時空庭園の中ですから。庭園の他の場所と同じように、日が陰ることもなければ、特別暑いとか寒いとかいうのもありません」
 静流が、小さく苦笑してかぶりをふった。
「つまり、冬景色の中へ行くにも、強い日射しの苦手な私は、日傘を使う方がいい、ということでしょうか」
「そうですね。……それと、雪が積もっているので、足場があまりよくないかもしれません」
 思わず尋ねたセレスティに、静流が気づいたように言う。セレスティは、車椅子だ。
「なら、私が変わりましょうか」
 横から、汐耶がつと言った。
「こちらは秋ですから、雪はないと思いますし」
「そうですね。では、すみませんが、そうしていただけますか」
 うなずいてセレスティは、ありがたく変わってもらう。
 そして、秋の景色が見えている小窓の傍の、小さな格子戸を彼はくぐりぬけた。

【3――秋の庭】
 格子戸をくぐると、その向こうに広がっていたのは、小窓からも見えていたとおり、秋の景色だ。あたりに建ち並ぶ木々は、全て赤と黄、オレンジに染まっていたが、その種類は豊富だ。紅葉に楓、桜と代表的なものから、銀杏やクヌギ、楡などもある。地面は四彩亭の周囲と同じく、緑の芝生だったが、その上にそれらの葉っぱが散って、天然の綾錦を織り成していた。
 静流が言っていたとおり、日射しは庭園の中の他の場所と変わらず強いので、セレスティは持って来た日傘をさした。視力が弱くとも、あたりを満たすのが鮮やかな赤や黄色なだけに、充分に楽しめる。もちろん、肝心の探し物を忘れてはいけないが。
 彼は、ゆっくりと車椅子を動かして、その風景の中を移動し始めた。木々の下には、コスモスや彼岸花、菊などが時々、群れをなして咲いている。そして、それらの間をトンボがすっと横切って行く。
(いかにも典型的な日本の秋、といった風情ですね……。悪くはありませんが、さすがに人工的に造られたものだけあって、多分に人為的な感じがします)
 ふと胸にそんな感想を漏らして、彼は小さく皮肉げに口元をゆがめた。「庭園」である以上、それはどうしても逃れられないものだと知ってはいても、あまりに典型的すぎると、ついそんな苦言を呈したくなる。
 その彼の目が、つと道端の鮮やかなピンク色に引き寄せられた。
 近づいてよく見ればそれは、鳳仙花だ。
「おや、珍しいですね」
 思わず呟く。厳密に言えば、鳳仙花は秋の花ではない。たしかに、九月ごろまで咲くが、七月ごろから咲き始めることもあって、夏の花だという人の方が、多いのではないか。どちらにしろ、最近はあまり見かけなくなった気がして、セレスティはそっとその花弁に触れた。と。いきなり脳裏に、ままごと遊びをする女の子たちの姿が、鮮やかに映じた。
 どこかの庭先に、四角いゴザを敷いて、女の子たちが三人ほど、プラスチックの小さな茶碗や皿を広げている。茶碗に盛られているのは、ご飯に見立てた土で、皿の中にはおかずのつもりらしい木の実や葉っぱ、花が盛られている。そして女の子たちの爪は、薄紅色に塗られていた。
(マニュキュア……?)
 まだ幼い子供たちなのに、風体ともやっていることともそぐわない……と思いかけ、ふいにセレスティは気づく。彼女たちの爪を染めているのは、鳳仙花の花の汁だ。
(ああ……)
 きっと、もののあふれる今の時代の子供たちは、知らないだろう。何もなかった時代の、女の子たちの簡単なおしゃれの方法だ。とはいえむろん、セレスティ自身がそんな遊びをしたことがあるわけではない。本性は人魚で、七百年以上を生きている彼はただ、そんなふうにして遊んでいた女の子たちとも、時代を共にしたことがあるだけだ。
(これこそ、夏美さんの記憶ですね)
 小さく微笑み、胸に呟くと、彼はその鳳仙花をそっと折り取った。
 それを膝の上に乗せて、しばらく行くと、小さな川が流れているのにぶつかった。川の上には短い太鼓橋がかかっている。橋の幅は広く、車椅子でも充分渡れそうだったので、セレスティはそのままそこに、乗り入れた。中程まで来て、彼はつとさしていた日傘をたたむ。頭上に、大きく張り出した紅葉の枝が重なり合い、天然の屋根を構成していて、強い日射しが遮られているのだ。川を渡って来る風も涼しく、彼は見るともなく、川面に目を遊ばせた。そこもまた、一面に紅葉や楓などの葉が浮び、見事な風情である。川の底で時おり閃く白いものは、鯉だろうか。
(あれは……?)
 その影の上を、ゆっくりと流れて行く、赤いものを見た気がして、セレスティは軽く眉をひそめる。紅葉などの葉っぱでは、なかったように思えた。気になって、水を操り、それを拾い上げた。
 赤いそれは、面が赤、裏が白の布で作られた鉢巻だった。
(運動会とかに、使うものですよね?)
 軽く目を見張って、彼が胸に呟いた時だ。再び脳裏に、情景が映じた。それはまさに、彼が今思ったとおり、運動会のものだ。真っ青な空の下にひるがえる旗、赤と白の鉢巻をそれぞれ巻いて必死に走る子供たち、飛び交う声援の声。
「どうやら、これも夏美さんの記憶ですね」
 セレスティは呟くと、再び水を操ってそこから完全に水分を消し去ると、鉢巻を折りたたんで、ズボンのポケットにしまった。
 太鼓橋を渡り切ってしばらく行くと、あたりに林立していた木々はいつの間にか終わり、一面を薄(すすき)におおわれた広い場所に出た。空はずっと青いままだが、吹き過ぎて行く風が心地よく、トンボが群れをなして飛ぶ姿にも、なんとなく郷愁をあおられる。
 薄の原の中には、一本道が通っていて、かなりの幅があったので、セレスティは太鼓橋の時と同じく、そのまま車椅子で進むことができた。だが、薄の原は、行っても行っても終わらない。まるでこのまま、ずっと地平線の向こうまで続いているかのようにも思える。
(ここまで来ると、庭園という規模ではない気がしますが……)
 セレスティはやや呆れて、あたりを見回した。と、薄の中を一列に並んで進んで来る子供の群れが見えた。子供たちはどれも、背中にリュックを背負い、水筒を下げている。なんとなく、学校の遠足といった風情だ。
 微笑ましくそれを眺めていて、セレスティはふと気づく。
(私が、こんなにはっきりとものを見れるわけが、ないですよね。じゃあ、これは……)
 思わず彼が目を見張った時だ。群れの中から、女の子が一人、彼の傍へと駆け寄って来た。
「これ、あげる」
 女の子が差し出したのは、花のような形をしたおはじきだった。
「あ……」
 思わず彼がそれを受け取ると、女の子の姿はいきなりかき消えた。いや、子供の群れも、あたりを埋めた薄の原も、全て消え失せる。
 気づいた時、彼は太鼓橋の降り口に、ぼんやりと佇んでいた。手の中には、先程もらったおはじきだけが、残っている。
(あれも、夏美さんの記憶だったわけですか……)
 幾分呆然と彼は呟いた。遠足に行った記憶が、彼女にとってはよほど強烈だったのかもしれない。だから、あれほど鮮明な形となったのだろう。
(さすがは、時空図書館の庭園というところですか)
 薄く笑ってセレスティは、おはじきもさっきの鉢巻と一緒に、ポケットに収めた。
 その後は、夏美の記憶らしいものとも行き逢わず、彼はやがて最初と同じく、紅葉した葉が錦を織り成す道を進み、小さな滝の傍に出た。滝の横手には、廟堂とも見える建物の、格子戸と障子のついた小窓が見えていた。どうやら、これでこの秋の庭は終わりということらしい。
(手に入れた記憶は三つですか。……他の人のと合わせてみないと、これで全部かどうかはわかりませんが、とりあえず、戻りましょうか)
 胸に呟き、彼は来た時と同じく、その格子戸をくぐりぬけた。

【4――絵本】
 セレスティが四彩亭に戻った時には、すでにシュラインと汐耶の二人も戻っていた。ただ、静流の姿だけがない。
 しばらく待ってみたが、どうしたことか、彼は戻って来る気配がないようだ。
「どうしましょう?」
 汐耶が、セレスティとシュラインを見やって尋ねる。
「この庭園には、妹尾さんの方が私たちより慣れているわけですから、何かに巻き込まれたということも、ないと思いますが」
 セレスティは、少し考えてから言った。シュラインもうなずく。
「私もそう思うわ。それに、彼に何かあったら、誰より先に三月うさぎさんが動くんじゃないかしら」
「そうね。でも……」
 汐耶が何か言いかけた時だ。入り口の扉が開いて、翡翠色の髪に翡翠色のドレスをまとった女性が現れ、三人に外に出るよう仕草で示す。
 セレスティたちは、思わず顔を見合わせた。
「一緒に来いと言ってるのかしら」
「……のようですね」
 シュラインの呟きに、セレスティもうなずく。
 この翡翠色の髪の女性たちは、三月うさぎに忠実だ。つまりこの女性は彼が、三人の迎えとして寄越したと考えて間違いないだろう。静流のことは気になったが、とりあえずセレスティたちは、女性について行くことにした。
 女性が三人を案内したのは、最初にいた芝生の中の白亜の四阿だった。夏美は、隅に置かれたベンチに横たわり、眠っていた。体には、タオルケットがかけられ、傍で一人、翡翠色の髪の女性が、大きな羽根の団扇でゆっくりと扇いでいる。
 一方、三月うさぎは、中央のテーブルの前の椅子の一つに腰を降ろしていた。
「ご苦労さまでした」
 案内されて戻って来た三人に、彼は声をかける。
「いえ。……それより、妹尾さんがまだ戻らないんですけれど」
 小さくかぶりをふってから言ったのは、汐耶だ。
「彼なら、大丈夫です。一番肝心のものを捕えるのに、少し手間取っているのでしょう」
 薄く笑って答えると、三月うさぎは、テーブルの上の絵本を示す。
「それよりも、見つけたものをここへどうぞ」
「あ……。そうね」
 シュラインがうなずき、ポケットからハンカチに包んだ蝉の抜け殻と、タイルのかけらを取り出し、手にしていた露草と共に、そっと絵本の上に置いた。途端にそれは、ふっと輪郭を失い、溶けるように消えた。
 セレスティと汐耶も、彼女にならって、それぞれ見つけて来たものを絵本の上に置く。
 汐耶が見つけて来たのは、クリスマスツリーのものとおぼしい星の飾りと、真っ赤な千両の実、それにお手玉だった。
 するとそれらも、そしてセレスティが集めて来たものも、全て絵本の中へと消えて行った。
「これで全部、読めるようになったのかしら」
 汐耶が、低く呟く。
「どうでしょうね」
 三人は、絵本を覗き込んだ。表紙に刻まれたタイトルは、やはりなんと書いてあるのか、読めないままだ。しかし、中を開くとほとんどのページは埋まっている。
 四季の行事や遊びを綴ったそれは、夏から始まり、秋、冬、春と続くようだ。そのうちの、夏と秋と冬の分は埋まっている。夏はラジオ体操に、プール、そしてキャンプの様子が描かれており、秋はセレスティが秋の庭で見つけたとおり、ままごと遊びと運動会、遠足の様子が、そして冬は雪合戦とクリスマス、正月の様子がそれぞれ描かれ、それらを簡潔にそして楽しげに語る文章が一緒に載せられていた。
 ただ、春だけが、最初と同じく絵も文もないままだ。
「春は、妹尾さんの分ですね」
 セレスティが、指先で絵本の表面をなぞって言う。
 その時だ。
「すみません、遅くなってしまって」
 幾分息を切らせて、静流が四阿に姿を現した。
「妹尾さん」
「ずいぶん、手間取っていたのね」
 汐耶とシュラインがふり返り、それぞれ声をかける。
「ええ。この子が、すばしこくて」
 うなずいて苦笑した静流の腕には、真っ黒な美しい毛並みの猫が一匹抱かれていた。
「猫?」
 セレスティたち三人は、思わず顔を見合わせる。
 その彼らに、ずっと黙って成り行きを見守っていた三月うさぎが、声をかけた。
「それで、最後です。それがおそらく、春の分のピースですよ。……静流、それを絵本に戻してあげなさい」
「はい」
 静流はうなずき、猫をそっと絵本の上に下ろす。
 すると猫は、さっきセレスティたちが持って来たものと同じように、ふっと輪郭を失うと、絵本の中に溶け込むように消えて行った。
 その途端。絵本の春の部分が、現れた。
 春の部分は、学校の始業式らしき風景から、始まっていた。赤や黒のランドセルを背負って、楽しげに登校する生徒たちや、新しい教室の風景などが描かれ、文章にはそこに描かれた子供たちが、新しく四年生に進学したことが綴られている。
 だが、最後のページは、道路に散り敷かれた桜の花びらの中に横たわる、女の子の姿で終わっていた。しかも、記憶のかけらは全部そろったように見えるのに、まだ見開き二ページ分が、白紙のまま残っている。それに、横たわる女の子の絵には、文章が何もない。
「これは……」
 セレスティは、思わず眉をひそめる。
「まだ、何か足りない記憶があるってこと?」
「でも、だとしたら、手掛かりはもう……」
 目をしばたたいて呟くシュラインに、汐耶は言って、途方にくれたように静流と三月うさぎを交互に見やる。
 だが、三月うさぎは口元に笑みを浮かべて立ち上がった。
「いえ、かけらは全てそろいました。後は、記憶の持ち主が、目覚めればいいのですよ」
 言って、隅のベンチに眠る夏美に歩み寄り、そっとその肩を揺する。
 夏美が、目を覚ました。途端にその姿は、ゆるやかに子供から少女へ、大人の女性へと変じて行く。やがて、四十前後の女性にまで成長した彼女は、ベンチの上から起き上がり、立ち上がった。
 驚いて目を見張るセレスティら三人の前で、女性はただ黙って深々と一礼すると、そのまま輪郭をぼやけさせ、あたりの空気に溶けるように、消えて行った。
 後にはただ、女性のものらしい木々に似た香りだけが、漂っていた。

【エンディング】
 しばしの間、誰も口を開く者はおらず、あたりはただしんと静まり返って、噴水の音だけが低く響いていた。
 が、やがて小さく吐息をついて、セレスティが口を開く。
「いったい、どういうことだったんでしょうか。夏美さん自身も、記憶のかけらの一つだったということですか?」
「さて、どうでしょう。……それよりも、絵本を見てごらんなさい」
 三月うさぎが、とぼけたように言って、彼らを促した。
 見れば、絵本は全部のページが埋まっていた。最初から通して読むとそれは、一人の女の子の四季を綴った物語になっているのだった。先程、文章がなかった春のページの最後には、横たわる女の子が事故に遭ったことが、簡潔な文章で綴られていた。更に、最後の二ページ、見開きのそこには、病院のベッドの上に起き上がった女性の姿と、窓の外を彩る向日葵が描かれ、三十年後、事故で昏睡状態だったあの女の子が、ようやく目覚めたことが、文章で綴られていた。
 改めて表紙を見ると、そこには『四季の物語』というタイトルが、記されている。
「あの女の子――私が仮に夏美さんと名付けたあの子は、いわば生霊のようなものだったんですよ」
 三月うさぎは、セレスティたちに言った。
「以前から、時おり彼女がここへ迷い込んで来ていることは、私も知っていました。たいていは、蝶の姿でやって来て、しばらく庭園内を飛び回っては消えて行く。……害はないですし、おそらく当人は夢を見ているぐらいにしか思っていない、ささやかで純粋な想いのかけらでした。だから、放っておいたのですが……」
「まさか……最初から、それがわかっていて、私たちを呼んだわけじゃないわよね?」
 シュラインが、少しだけ嫌な顔をして、彼に尋ねる。
「まさか。私がそれに気づいたのは、静流があの猫と会った時ですよ」
 穏やかに笑って、三月うさぎは言うが、セレスティはなんとなくそれをうさん臭く感じる。それに、彼の口ぶりはまるで、ずっと静流と一緒にいたかのようだ。
 セレスティがそれを口にすると、三月うさぎは意味有りげに笑って言った。
「そういうわけではありませんが……私は、この図書館と庭園の管理人ですからね。この中のことなら、たいていはわかります。殊に、静流のことはね」
「それなら、記憶が飛び散った場所も、三月うさぎさんには、わかっていたということですか?」
 幾分愕然としたように、汐耶が尋ねる。
「いえ。……ああいう、気配の小さいものは、かえって私には見つけにくいのですよ。今日は、皆さんのおかげで、助かりました」
 三月うさぎは、小さくかぶりをふって言うと、付け加えた。
「さて。歩き回って、喉が乾いたのではありませんか? たいしたものはありませんが、お茶を用意させますので、どうぞ、飲んで行って下さい」
 それが合図だったかのように、翡翠色の髪の女たちが、人数分の茶器と菓子の載った盆を手に、次々と四阿に入って来る。
 なんとなくごまかされている気がしないでもなかった。しかし、問い詰めたところで、三月うさぎはとぼけるだけだろう。
 結局セレスティたちは、それをありがたくご馳走になり、最後はすっかりくつろいだ気分で、そこを後にしたのだが、最後に見た時、あの絵本は四阿の中から姿を消していた。
 数日後の夕方。
 セレスティは、自宅近くの公園を、一人車椅子で散策中だった。その途中のことだ。四十前後の女性と、すれ違った。
(今のは……)
 すれ違いざま、ふわりとかすかにかおった森の香(か)に、彼は思わずふり返る。遠ざかって行く後ろ姿は、あの時一礼して消えた女性の輪郭をとどめているように、彼には思われた。
 今の女性が、本当にあの時の夏美と彼らが呼んだ人なのかどうかは、わからない。単に似ていただけかもしれない。それでも、きっと彼女も今、長い眠りから目覚めて、新たな人生を踏み出しているに違いない。セレスティは、そんな思いを胸に抱きながら、涼風の立ち始めた中を、ゆったりと車椅子を進めて行った――。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【1883 /セレスティ・カーニンガム /男性 /725歳 /財閥総帥・占い師・水霊使い】
【0086 /シュライン・エマ /女性 /26歳 /翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1449 /綾和泉汐耶 /女性 /23歳 /都立図書館司書】

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■         ライター通信          ■
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●セレスティ・カーニンガムさま
いつも参加いただき、ありがとうございます。
ライターの織人文です。
今回は、いただいたプレイングがあまり生かせず、
申し訳ありませんでした。
少しでも楽しんでいただけていれば、いいのですが。
それでは、またの機会があれば、よろしくお願いいたします。