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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


流れもあへぬ 紅葉なりけり


 双頭の牛が引く牛車は、炎をまとい、氷の軌跡を轍に残して、とある山中に現れた。
 とある山中。
 確かにここは多くの歌人に愛されている山道で、まれに都の帝も訪れるというが、いまはすっかりひと気もなくなっていた。ただでさえうっすらとした山道にも、落ち葉が降り積もっている。真っ赤に色づいた紅葉と楓が、かさかさと風に揺れている。
 この辺りは春になれば山麓が桜色に染まり、秋になればすべてが紅葉の赤に染まる。歌人が愛するのはこのためだ。牛車や従者たちが踏んだ道が、山頂までゆるやかに続く。
 だがいまは、この異形の牛車のほかに、誰の姿もない。
 都を出た道を、牛車が行くはずもないというのに。
 異形の牛が吐く炎と氷の息が、舞い落ちる紅葉の葉を一枚滅ぼした。
「うわぁ!」
 牛車の前から顔を出したのは、蒼い目の童女だった。妖しいかがやきを放つ、氷色の汗衫を着ている。童女はその目を輝かせて、ちょんと牛車から飛び下りた。
「これ、緋玻。はしたない」
「ますみあにさま! やまがもえてる!」
 牛車から飛び下りた童女をたしなめたのは、漆黒の水干を着た青年であったが――たしなめる言葉は、童女に届かなかった。彼女はすっかり、紅葉に心を奪われていたのだ。
 まったく、と呟きながら青年が牛車を降りる。呟きの内容のわりに、彼はうっすらとした笑顔であった。蒼い目に、わずかばかりの憂いを宿してはいたが――童女のおてんばを疎む『憂い』ではなかった。
「あにさま! ますみあにさま! にんげんかいのほのおは、あつくないのね!」
 山が燃えている、と言って喜ぶ童女は、狂気であるか。
 いや、違う。
 眞墨と緋玻は、火に恐怖を抱かず、業火がものを舐めつくしていく様を災いだとは思わない。この兄妹は、地の底を越えた深淵、無間地獄からやって来た。双頭の黒牛が引く牛車に乗り、人間界にのぼってきた鬼である。
 その蒼い目、まとう妖気を見れば、人間は彼らを恐れるだろう。本能に、彼らを恐れよと告げられるだろう。
 ふたりは鬼だ。ヒトはおろか、オニまで喰ってしまう鬼だ。
 けれども――
「あにさま、きれい! きれいよ!」
「ああ、そうだな。今年は見頃を逃さずにすんだようだ」
 ふたりは桜を愛し、雪を愛する。当然ながら、紅葉の赤も愛したのだ。

 緋玻は(人間ならばとうに寿命を迎えていそうな年であるけれど)まだ幼かった。地獄を出て人間界にのぼるのは、これが初めてではないにせよ、めずらしいことだった。人間たちは鬼を恐れ、蔑み、出会えば退けようとする。まだ幼く、好奇心の塊のような彼女が術者と会えば、怪我のひとつやふたつではすまないかもしれない。
 彼女は初めて人間界を訪れてから、その鮮やかな色彩に心を奪われ、すっかりこの世が気に入ってしまったのである。炎が蠢く地獄に戻れば、すぐに、にんげんかいにいきたいと駄々をこねるようになっていた。
 もっとも、緋玻は牛車の動かし方を知らないし、人間界への道すじも知らない。ひとりで人間界に行く心配はまだなかった。眞墨や緋玻の母たちはここのところずっと、自分たちの仕事が落ち着けばすぐに連れて行ってやるからと、緋玻を説き伏せるのに苦心していた。
 緋玻の堪忍袋の緒が切れかけたいま、ようやく、眞墨が腰を上げたのである。

「これはな、もみじ、と云うのだ。燃えているわけではない」
「もみじ?」
「春や夏は青い葉だが、秋になると、こうして色を変えながら落ちていく」
 眞墨が一枚の紅葉を手に取ると、さくりさくりと落ち葉を踏みながら、緋玻は牛車のそばに戻ってきた。眞墨の教授に小首を傾げて、緋玻が無邪気な問いを重ねていく。
「どうして?」
 重ねられた質問を厭わず、眞墨は答えた。
「死んで肥やしになるためだ。紅葉は自らの肉を喰らいながら、冬を乗り切る」
「じゃあ、みんな、みんなしんじゃってるのね」
「春になればまた蘇るさだめにあるがな」
「うふふ、すてき! すてきよ! いきかえってしまうなら、ますみあにさまもえんまさまも、いちいちいのちをあつめてつれていかなくてすむもん!」
「ああ。緋玻、やはりおまえは、へんに賢くなった」
「そう? あけは、かしこくなった? おとなになったかなあ?」
「ううむ、ひとりで牛車に乗るには、まだ、早い」
 ぷう、と緋玻は頬を膨らませ、眞墨は喉の奥で小さく笑った。一筋縄ではいかない兄だ。眞墨は一枚の紅葉を手にしたまま、牛車に再び乗り込んだ。牛車の中には、地獄から持ってきた酒がある。
「あれえ、あにさま。もみじ、みないの?」
「見るさ。こうして酒を呑みながら見るのが大人だ」
「……おとなって、つまんないの! おさけなんて、ぜぇんぜんおいしくないのに!」
「大人になれば、旨く感じるようになる」
「そんなのうそ! えんまさまにしたぬかれちゃうよ!」
 兄は笑って、盃を傾けるだけだ。
 ……人間界に来たときは、一緒について来ている兄や母のもとを離れるな。
 緋玻はそう言い聞かされてきた。だからしばらく、牛車に引っ込んでしまった眞墨のそばを離れずに、双頭の牛の鼻面や角を撫でたり、落ち葉を拾ったりして大人しく遊んでいた。
 もはや日は傾いた。秋の昼は短い。
 空が燃えると、山もいっそう激しく燃え上がった。空の火が燃え移ったのだ。かさかさと風が空に舞い上げる葉は、火の粉である。緋玻は口をあんぐり開けて、空を見上げていた。
 酒の味も、大人の条件も緋玻は知らない。飛んでいく落ち葉が、本当に木に喰われてゆくのかも知らない。ぱたぱたと、飛んでいく落ち葉を彼女は追った。ヒトが作った道を外れると、紅葉の赤はより美しく、強くなっていく。実際は、赤い夕焼けがそう見せただけのまぼろしなのかもしれない。けれど緋玻は、より赤い紅葉を追って、奥へ奥へと進んでいた。
 氷色の汗衫と彼女の目だけが、森の中の『青』であった。

「あぁ、きれい……きれいよ」
 赤い葉を、緋玻は夢中で集めていく。
 にこにこと微笑みながら。
 小さな腕では、抱える数の限りが少なすぎた。けれども彼女は、紅葉がない地獄へ、土産に持って行こうと思ったのだ。地獄の炎が一瞬でこの葉を焼き尽くそうとも、その一瞬を、地獄で待っている者たちに見せたかったから。
 自分がどれほど心を奪われたか、教えたかったから。


 ごふぅ、と生温かい風が紅葉を掃く。


 驚いて顔を上げた緋玻の手から、ぱさりぱさりと赤い葉が落ちた。生臭い瘴気の吐息をつきながら、のろり、のろりと――落ち葉が埋めてしまった道なき道を、鬼がやってくる。
 もとは唐衣だったのだろうか、それとももとからみすぼらしい貫頭衣であったのか、ぼろのような着物を引きずり、彼女は長い黒髪を振り乱している。雅のかけらもない忌まわしい姿だ。螺旋を描く角を持ち、黄ばんだ不揃いな牙もある。
 鬼だ。身なりは卑しいが、自分と同じものだ――緋玻はすこし、ほっとした。
「こんにちはあ」
 ちいさく挨拶をするも、応えはない。
 女は緋玻の前で立ち止まり、ふごぉ、と息をついた。
「もみじ……みにきたの?」
 緋玻は小首を傾げて、なおも問う。常日頃、兄や母や従者に、そうするように。
 鬼女はやはり、応えない。ただ、緋玻の問いではないなにかには呼応していた。荒い息をつき、牙の間から涎を垂らしながら、なにかの肉片がこびりついた爪を、指を、手を――ゆっくりと緋玻に向けていく。
 ――おおお、可愛や……可愛や……何故死んだ……殺された。おおお……わたくしの……子。
「……ないてる」
 呆然とした緋玻の呟きは、彼女に届いたか。
 間違いなく、兄には届いた。
 ざあっ、と舞い上がった落ち葉が道をつくり、門をつくる。黒い影のような風のようなものがその道を刹那で辿り、緋玻と鬼女の間に割って入った。
「あにさま!」
「下がっていろ、緋玻。兄は仕事をせねばならぬ」
「ますみあにさま、おねがい!」
 まさか殺すなとでも言うのかと、眞墨は一瞬緋玻に目を向けた。
「おねがいあにさま、おおきくなってあばれないで。もみじがなくなっちゃう」
 ああおまえはやはり子供だ、と眞墨は笑いたくなった。鬼女がなにものなのかまず聞きもせず、紅葉がなくなることだけを恐れた。
 ――憎きや、恨めしや……我が子を……何度奪うと……云うか!
 積もる紅葉を吹き飛ばし、鬼があぎとを広げて、眞墨に踊りかかった。

 女が生きながらにして鬼になったものであるということは、わかる。どうやら子供を殺されたらしい。けれども、どうして彼女の子供が殺されたのか――その理由は、地獄や眞墨にとって、どうでもいいことだ。ただ、閻魔帳の中にしたためられた魂の名があり、それが鬼となって寿命を歪め、人間界に留まりつづけているということ――それだけが、彼らにとっての『問題』なのである。この紅葉が美しい見頃の時期に、ひとりの歌人もここを訪れていないのは、このためだ。この辺りには、鬼女の噂が流れている。
 眞墨はその歪みを正すために来た。
 呑気に紅葉を眺めながら、酒を呑むためではない。子供に目がない生成を殺さねばならなかった。幼い妹を囮にしなければならなかったのだ。牛車を離れていく氷色の汗衫を、眞墨はだまって見送っていたのだ。
 だから彼の蒼い瞳に、憂いがあったのである。

 眞墨がその大きく開いた鬼女のあぎとにすすんで手を突っ込み、鬼の言葉で一声発した。
 ばづん、と女の頭どころか身体が爆ぜた。あとには、爆風にもてあそばれる紅葉と、ひらひら頼りなく浮かび上がる魂が残された。
 魂は、眞墨にひょいと尾を掴まれた。魂は蟲のようにもがいたが、あえなく眞墨の口の中に持っていかれた。
「あっ、ずるうい」
 ぱくり、ごくん。
 緋玻が駄々をこねる前に、眞墨は女の魂を飲み下していた。あまり旨くはなかった。牛車で紅葉を肴に傾ける一献のほうが、どんなに旨いだろうか。
「あまり旨くはなかったぞ」
「でも、ずるうい。あけは、おなかへった」
「そうか。それは悪かった。……牛車に戻ろう。母が作ってくれた餅があるではないか」
「うん!」
 いまの緋玻は、上機嫌だ。よかった。駄々をこねないし、機嫌を損ねてもいない。手にいっぱいの紅葉を抱えて、緋玻は真澄がつくった道を行く。
 眞墨がつくったその道は、おそらく、一刻もすれば消えるだろう。
 紅葉が焼き尽くしてしまうだろう。
 眞墨は緋玻の隣につく前に、自身もごっそりと地面の紅葉をすくい、両手に抱えて、歩き出していた。
「すまなかった、緋玻」
「どうしてあやまるの?」
「いや……ともかく、すまなかった」
 へんなあにさま、と緋玻は笑った。
 眞墨が緋玻に謝ったのは、初めてのことであったのかもしれない。




<了>