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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


架け橋と船とザトウムシ


■序の序■

 はじめにことわらねばなるまい。
 世には――世界には、きっとうな人間たちはあずかり知らぬ、非公式の組織がいくつもいくつも存在しているということを。
 そういった隠された組織のひとつが、IO2。さる調査書によれば、IO2とは、『怪奇現象や超常能力者が民間に影響を及ぼさないように監視し、事件が起ころうとしているならばそれを未然に防ぐ超国家的組織』である。この調査書は的を得ていた。IO2はそれ以上でも以下でもない組織だ。かれらは誰に感謝されることもないまま、人びとの安全と正気を護りつづけている。
 人類が生活圏を広げていけば、IO2の影もぴったりと人類に寄り添うようにして伸びていった。しかし、ひとつの組織の視界には限界がある。IO2は世界各地に点在する、志を同じくする秘密結社を吸収し、或いは協力を仰いで、死角を補ってきた。
 いまは英国に本部を置く秘密結社、A.C.S.――この組織も、IO2にとっての『孫の手』だ。このA.C.S.は、ふらりと気まぐれに地球にやってくる外宇宙や他次元の神々やその眷属から、人類を護る絶対的な呪文。
 謎めいた結社の構成員たちは、大半が金の瞳を持ち、わけのわからない能力を持っていた。彼らと接触した者たちは、まことしやかにささやく。A.C.S.構成員は皆、“混じり者”。悪魔や異形の血をひくものであると。


 しかし、IO2やA.C.S.がいかに事件を隠蔽しようとも、歴史は必ず残るもの。起きてしまった事象には、必ずそれを認識し、記憶したものがいる。


 ある日、突然、東京の空の上から、黒いガレー船が降ってきた。アスファルトに激突した船は、往来の車や通行人を薙ぎ倒しながらすべり、砕け、崩壊した。死傷者も出たこの事件を、さすがのIO2とA.C.S.も、“なかったこと”には出来なかった。結局この事件は、黒い木材を積んだ大型トレーラーの横転事故というかたちでマスコミを奔走させ、世界の人びとの同情を集めた。情報と記憶は迅速に操作され、かの惨事から数ヶ月が経ったいまでは、ガレー船をとらえた監視カメラの映像も完全にすり替えられていた。
 堕ちてきたガレー船を記憶に残すものは確かにいるのだ。ただ、常識と世間がその事実にガラスの蓋をかぶせる。
 『空から船が落ちてくるはずはない』。
 人びとは、降ってくるはずのない船が、人間と猫が見る夢の中の世界――幻夢境からやってきたものであることを、知るよしもない。


■序■

 アトラス編集部の応接室で、リチャード・レイが大きくため息をついた。いつもむずかしい顔をしている彼だが、この日の顔は輪をかけてむずかしい。彼の助手を務める蔵木みさとも、浮かぬ顔だ。彼女は数ヶ月前の『ガレー船墜落事故(トレーラー横転事故)』から、不眠症に悩まされているのだが――今日の憂いは、別件が原因だった。
 レイはすでにアトラス編集部を介して、腕に覚えのある調査員を募集している。応接室には続々と、その呼びかけに応じた調査員たちが集まってきていた。
 リチャード・レイからの――いや、正確に言えば、彼が所属している秘密結社A.C.S.からの今回の依頼――それは、堕ちてきたガレー船の故郷と、この現実を繋ぐ『門』のひとつを破壊すること。
 夢の中のものは、夜の眠りのなかにだけあればいい。夢の世界の神は、現実と夢をつなげようと目論んでいるらしいが、それはきっと、人間にとって都合の悪いことだ。だからこそ、A.C.S.が動いている。
 ガレー船とともに夢の世界から現実へ引きずり出されてしまった船乗りは、とりあえず、いつでも夢の中に戻れる手筈は整えている。しかし船乗りイハン=マヌウは、まだ現実にとどまっていた。東京の大惨事を巻き起こした黒いガレー船は、彼のものだった。自分の船が壊してしまった街、自分の船が壊れてしまった街――彼は少しでも多くの現実の記憶を、自分の中につなぎとめようとしている。夢のものは、現実のものに魅入られてしまったか。
 こうして夢と現実の境界を曖昧にしてしまったのは、レイやみさとたちと、かつては友人であったもの。明治の狂科学者が生み出した、夢の世界のエネルギーを原動力にする人造人間だ。夢の世界の力にあてられて、もはやコミュニケーションがままならなくなってしまった彼を、A.C.S.は破壊することを選んだのである。
 かりそめの命とつぎはぎの心。
 それでも、人造人間は束の間の友人であったから――レイとみさとは、浮かぬ顔だ。

 応接室は重苦しい空気の下にある。押し潰されかけている。浮かぬ顔でいるのはレイとみさとだけではない。集まった8人の調査員のほとんどが、状況と依頼の目的をレイから聞いたあと、お互いの顔を見合わせて黙りこんだ。
 にやりと笑みを浮かべたのは星間信人ただひとりであったが、彼は賢明な人間であったから、漏れ出しそうになった含み笑いを押し殺し、眼鏡を直して、調査員や依頼主の顔色をだまってうかがっていた。
 この場に集まった8人は、偶然にも全員が、数ヶ月前に錫の鍵を持ち、夢の中にある世界へと旅立った者たちだった。東京にガレー船が降ってきた理由を知る数少ない生き証人たちである。そして彼らの多くが、人造警備員陸號と面識を持っていた。
 最も顕著に今回の依頼内容に対して批判的な態度を取っているのが、光月羽澄と芹沢青だ。若いふたりは、若さゆえに情熱的であったし、怒鳴り散らしはしなかったが、レイの冷徹な言い分には真っ向から反論していた。
「壊す、って……そりゃ、殺すってことだろう。俺は突っ立ってるとこ、見ただけだけどさ……あいつは『好きで』突っ立ってたんだろ。自分で自分の行動決められるんだ、心があるってことだ。で、心があるってことは……生きてる、ってことだ。どうにかならないのか?」
「そもそも、陸號さんを殺せば、夢の世界の問題はぜんぶ解決するの? 陸號さんには、まだわからないところがたくさんあるでしょ。陸號さん本人だって、自分のことを知りたかったかもしれないじゃない。なにか良くない目的のためだけに生み出されて、誰かの都合で殺される人生なんて、あんまりよ」
 ふたりの言い分はもっともだ。良心的で、慈愛に満ちていると言ってもいい。理にかなっているし、――暗い顔で黙りこんでいる者たちも、大方はふたりの意見に同意していた。
 ただ、羅火や田中緋玻は、応接室の壁に寄り掛かり、腕を組んで床を睨みながら、黙ったままだ。影山軍司郎も無表情でソファーに腰を下ろしている。この3人がすすんで会話に加わらないのは、いつものことだ。――が、いつになく、表情は重い。出来ればさっさとここを出て、さっさと後味の悪い仕事を済ませ、さっさと忘れてしまいたいのだ。そして、さっさと忘れることが出来ればどんなにいいか、とも考えている。
 腕を組んで羽澄や青の言い分を聞いているのは、なにもその3人だけではない。武神一樹とて、そうだった。この世には人間や、自分達がいる次元そのものでも太刀打ち出来ない存在があることを、一樹は知っている。そういった存在と相見えて、自分の力が及ばなかったことに歯噛みしたこともあった。だからこそ、彼は容易にA.C.S.の判断を批判しなかった。むしろ、賛成している。
「……陸號は、危険な存在だ。この世にあってはならない歪みと言っていいだろう」
 一樹が、口を開いた。羽澄が緑の目を見開いて、一樹のほうを振り返る。
 あなたまでそんなことを言い出すの、と。
 しかし彼女の非難も、青の睥睨も、すぐに消えた。一樹の表情はあまりにも悲愴なものだったから。それに、すぐに一樹は言葉を続けた。
「……だが、あいつは俺たちの友でもある。俺はあいつが死なずに済む方法を考えたい。考えるのは自由だろう、リチャード?」
「ええ、……もちろんです」
「わたくしも……お手伝いを……させて下さい」
 四宮灯火は、気配を持たない。彼女は、今日もいつの間にか現れた。一樹の和装の陰から、す、と音もなくリチャード・レイの前に歩み出る。
 灯火は、心を持ち、自らの意志で動く人形だ。その点で言えば、破壊されようとしている人造人間陸號と、同じ存在である。
「陸號さんのいまのお姿を見るのも……世界のためだと、壊して、しまうのも……とても、心苦しいことです……。考えましょう……本当に、あの方を壊す道しか、ないのかどうか……」
「考えて考えて、どうしようもなかったら、あたしが汚れ役でも引き受けるわ」
 緋玻が静かに口を開いて、蒼い目を床から調査員たちに向けた。
「悪役にも執行人にも慣れてるし。……準備してくる」
 彼女は振り返らなかった。つかつかと応接室を出て、いつもの喧騒止まぬ編集部に入っていく。緋玻の後姿を見送りながら、羅火が渋面でため息をついた。
「……なんじゃ、まったく。骨のある手合わせが出来ると聞いて、来てみればこれじゃ。後腐れのない仕合にはなりそうもないのう」
 破壊、戦い、ぶつかり合い、そんな類の依頼にはいつも喜々として寄ってくる羅火だ。その羅火も、今日は、珍しく暗い。夢の世界絡みの縁もあるからと、彼は結局この後味の悪い仕事を引き受けたのだ。
「まあ、物騒な仕事はわしとあの鬼おんながつとめることになろう」
「……すみません、よろしくお願いしま――」
 レイの言葉をさえぎるように、軍司郎が立ち上がった。彼はすでに、タクシー運転手の姿をしていなかった。黒檀のように黒い軍服と黒コートの、『番人』だ。
「手ぬるい。浅はかでもある。あれを壊さずに済む方法などあるものか」
「……なに言ってんだよ、おっさん! みんな考えは一致してるじゃないか。誰も殺したくないんだ。それに……誰かに殺されていい命なんて、どこにもないだろ!」
「あれは、苦しんでいる」
 青は、軍司郎のことばに、ぐっと黙りこんだ。
「身体は材木と屍を繋ぎ合わせたもの。動力源は未知の世界が持つ『力』。心には個性など欠片もない。……それでもあれは、生きねばならぬ。その苦しみがわかるか」
「……おまえは、わかるのかよ」
「わかるとも」
 軍司郎は暗い漆黒の目で、青の目を見下ろした。
「わたしは諸君のように躊躇はしない。……躊躇するいとまがあるかどうかも疑問だが」
 くそっ、と青が軍司郎から目をそらして吐き捨てる。吐き捨てたのは、青だけではなかった。羽澄もまた、顔をしかめて、小さく叫んでいた。
「おかしいわ。こんなのって。……狂ってる」
 応接室の窓辺で、うつろな笑い声がかすかに起こった。ついに、こらえきれなくなってしまったのだ。
 星間信人、
 笑っているのは、彼だけだった。


■架け橋と、渡らない者■

 応接室で調査員たちが議論を交わしている間に、蔵木みさとはこっそりとその場を抜け出していた。彼女は戦うすべを持たないし、陸號を殺さずにすむ方法も思いつかない。調査員たちの話についていけなくなったわけではないが、あの場には居づらくなってしまった。なにも出来ない自分がなんとかしようと考えても、滑稽なだけだ。
 誰もが必死であったから、抜け出したみさとに声をかける者はなかった。
 編集部を照らす煌々とした蛍光灯の明かりも、体調が万全ではないときは、苦痛に感じることがある。みさとはぎゅうとフードを深くかぶって、窓から離れ、蛍光灯の明かりから逃れようとした。
 応接室から緋玻が出てきて、コピー用紙に〈コスの印〉を描きこんでいるのを見た。きっとあれは何十枚とコピーするつもりだ。夢の世界のものに対抗するには、あの印を盾と矛にするのが得策である。
「あれ、話し合い終わったんか?」
 声をかけられて顔を上げれば、そこには相変わらず潮の匂いのともにある、異世界の船乗りが立っていた。イハン=マヌウ。夢の架け橋の力でこの世界に引きずり込まれてしまった、『被害者』だ。
 綿やナイロンの臭いが気になるといって、この世界の衣服を毛嫌いしていた彼も、最近はようやくアロハシャツなぞを着るようになっていた。
「いえ……まだ……」
「そうかァ。……でも、モメてもらえるだけ幸せってやつじゃねえかい? 殺せ言われて、はいわかりましたってあっさり出かけられてもよ、逆に哀しいべや」
「……はい……」
 どれだけ励ましても、蔵木みさとにはここ数ヶ月、いい笑顔が戻ってこない。顔も気持ちも暗いままなのは、不眠症のためだけでもなく、陸號を殺さねばならないためだけでもないのだ。
「あ」
 みさとの顔を複雑な表情で見つめていたマヌウが、応接室を見て声を上げた。ぞろぞろと、レイの話を受けた腕利きの調査員たちが出てきたところだった。
「ああ! レイさん、マヌウさんはどうするの?」
 羽澄が足を止めて、珍しく大声を上げた。あ、と青もそれに続く。
「陸號って、『門』なんだろ……? 閉じちまったら、あいつ、帰れないんじゃないか?」
「いえ、彼は――」
「おー、オレのことも心配してくれてんのか。オレなら大丈夫だア」
 相変わらず訛った英語で、マヌウは腰に下げた小汚い袋から、錫の鍵を取り出した。
 本来なら、眠りの中で、精神しか旅立てない夢の世界。〈銀の鍵〉があれば、身体もろともその世界に行ける。調査員やレイも持っている錫の鍵は、その〈銀の鍵〉の複製だ。
「オレは好きでここに残ってるだけさあ。ヤバくなったら帰るべや」
「もう充分ヤバい状況だと思うけど……」
「帰ったって船なくしちまったしなあ。こっちの世界の船結構好きになっちまったもんでよ。なんも身体の具合悪くなるわけでもねえし、落ち着くまでこっち残るつもりなんだわ」
 一行の顔色をうかがって、マヌウはばりばりと黒髪をかいた。
「ヤバいべか?」
「……あなたがそれでいいなら構わないわ」
 若干呆れた声で、『準備』を終えた緋玻が来た。彼女が抱えているのは何百枚ものコピー用紙――及び、それに焼き付けられたトナーの〈コスの印〉。それを見て、マヌウはぎゃっとのけぞった。
「あわわわわ、神様の印重ねるなんて、こら、バチ当たり! もって丁寧に扱わんと、バチ当たるっしょ!」
「調子はいいみたいだが、あまり無理はするな。この世界の観光を終えたら、すぐに戻ったほうがいい」
 一樹は真面目な眼差しで、顎を撫でた。
「俺たちとお前の世界は、相容れない存在だ。お前にもそれはわかるだろう、マヌウ。記憶を操作しなければならなかったんだ……」
「あー……」
 言葉を濁して、船乗りは左右の色がちがう目を、遠い窓辺に移した。
 ガレー船とともにこの街に降ってきたイハン=マヌウ。この灰と銀の世界を見て、彼ははじめ、ひどく混乱していた。マヌウが持っていたもといた世界の記憶を一旦封印して、徐々に紐解いていく方法を取り、狂気の発現を防いだのは武神一樹に他ならない。
「……なんか、雲行き悪いんでないの。……行くんなら、気ィつけれ。オレはミサト見てる。船乗りのカンだわ」
 マヌウの横にちょこんと並んで、みさとは一行に深々と頭を下げた。
 行かないほうがいいと、心得ているのだった。

「……まだ眠れないか」
 レイと調査員がエレベーターへ、マヌウがコーヒーを淹れに給湯室へ向かったわずかな隙に、軍司郎がみさとに声をかけた。彼がさっさと行かずに誰かに声をかけていくのは珍しい。え、とみさとは一瞬面食らった。
「いつかも、言ったな。なにかあれば、わたしを呼べ。話を聞くことも……殺すことも出来る」
「はい。……大丈夫です」
「あれは、なんと言ったか。……ああ。どらいぶ、だな。それで気を紛らわせるのもいいだろう」
 仏頂面の軍司郎に、みさとが小さく笑ってみせた。
 彼女は、喜んでいた。
「影山さんに、心配してもらえるなんて。……嬉しいです」
「そうか」
「気をつけて下さいね」
「……」
 軍司郎は答えず、エレベーターに向かった。彼には、陸號の破壊以外にも、やらなければならないことがある。
 あやしい図書館司書の動きを見張らなければならない。武神一樹や、光月羽澄も、同じことを言っていた。星間信人には気をつけるつもりだ、と。

 エレベーターを待つ間の沈黙に、羅火がレイを小突いた。少しばかり力が強すぎたために、レイはよろめき、エレベーターの扉の前から押し出された。
「な……なんですか、ラカさん」
「ひとつ白状せねばならん」
 羅火はわざとレイを押し出したのだ。あまり他の調査員には聞かれたくない内容の話だったから。
「わしは、『殺す』ことが出来ん」
「え?」
「あの木偶の坊は、生きておる。わしは……戒められておるでな。命を奪うことは出来んのじゃ。あれは……生きておるのじゃろう」
「……」
「この戒めを受けてから、わしも考えるようになったわ。相手が生きておるか、死んでおるのかと」
「ロクゴウさんが、『生きている』と言えるものなのかどうか――」
 レイはのろのろとかぶりを振った。
「よく、わからなくなってしまいました」
 その重い表情に、どれだけの意味がこめられているか。
 羅火が口をへの字に結んだとき、エレベーターが来た。


■覚悟の奨励■

「なんとかする方法を……A.C.S.は考えてきました」
 道中、レイは重い口を開いた。
 陸號が『保管』されているのは、都心からも――人里からも離れた、うら寂しい東京の片隅だった。灯火がその転移能力を使おうとしたが、レイが制した。以前、『門』から現れた異形たちを退けるために灯火が転移の力を使ったとき、すでにねじ曲げられていた次元が干渉して、灯火の予期せぬ場所に転移するはめになったことは、レイにもA.C.S.にも報告されている。すでにこの世は夢と現実の世界の境界が曖昧になってきているのだ。それに気づいている者は少ないが。
 灯火が持つ便利な能力が使えずに、一行は車と徒歩で陸號をたずねていた。
「……考えましたが、良い案が思い当たりませんでした」
 東京の喧騒も遠い、更地の中にぽつんとたたずむ灰色の建物。そう大きくもない二階建てで、窓が少なく、下請け業者が事務所にでも使うような、無機質なたたずまいだった。生活感は欠片もない。窓から訪問者を見下ろす者もない。錆びたフェンスがぐるりと建物を囲んでいる。そのフェンスに寄りかかって屈みこんでいるのは、アトラス編集部の応接室にたびたび現れる、白髪の壮年だった。
 ブラック・ボックス、と名乗る男だ。A.C.S.の幹部をつとめている。態度と口が悪い男だが、いつもやけにはつらつとしているはずだ。こうしてぐったり屈みこんでいるのは珍しい。
「……おい、遅いじゃねェか」
「すみません」
「何かあったのか? 随分疲れているようだが」
 レイが応援を連れてくるという連絡は入っていたらしい。ブラック・ボックスは疲れた顔を上げて抗議してきた。ボックスのその顔色があまりにも無残なものであったから、一樹も不安になって尋ねてみた。あー、と唸りながらボックスが白髪をかきむしる。
「何かあったもなにもねェよ、くそッ、もうオレはごめんだ、オレぁもう知らねェ、もういやだ、もうやりたくねェ、ああもうだめだ、オレはもうダメだ、もうまっぴらだ、もうやめさせてくれ!」
 先行きが不安になる反応だ。陸號絡みで問題が起きていることをあらわすには充分な反応でもある。
「火! ……火! 火ィ、貸してくれ!」

 ドアにはうっすらと、〈コスの印〉や〈旧神の印〉が記されていた。
 いや、ドアだけではない。
 星間信人は眼鏡を直して、建物を見上げ、壁を目でなぞる。壁一面にびっしりと、しかしうっすらと記されているのは、悪名高い『ネクロノミコン』や『エイボンの書』といった魔道書の中にある呪文や印ばかりである。
「厳重な警備ですね」
「は? 見張りはあのオッサンだけじゃないか」
「芹沢さん。星間さんの言葉は正直に受け止めることないわ」
 こそこそと羽澄が青に耳打ちすると、羅火がぐいと青の肩を掴んで、壁を示した。
「ほれ、ここに印があるじゃろう」
「……ほんとだ。……このミミズの模様みたいなの、ひょっとして文字か?」
「ご名答。ヘブライ語に……ラテン語に……なにこの文字。チャンポンね」
 500枚の〈コスの印〉を抱えた緋玻が先頭に立って、ドアノブに手をかけた。
 あ、とレイが声を上げる。
「待って下さい、気をつけて開け――」
 緋玻はすでにドアを開けてしまっていた。

 羽音! 奇妙な鳴き声!

 一瞬にして、一行が色めき立った。獣じみた獰猛な反応で、羅火が動く。彼の拳が、建物の中から飛び出してきたものをしたたかに殴りつけた。
 しかし羅火の攻撃はそこまでだ。飛び出してきたものが何であるかもわからないまま、羅火が叩き落としたそれを、ドアを閉めた緋玻がずんと踏みつける。
 びィっ、と鋭い悲鳴が上がった。
「鳥?!」
 羽澄が言うとおり、それは紛れもなく、鳥だ。なんとも美しく、奇妙な鳥だった。大きさは鳩よりもひと回り大きいくらいか。青と黄色の極彩色だ。しかしその羽根の先は、まるで木の葉に擬態しているかのようだった。
「この鳥は――」
「ああ。あちらの世界にしかいない」
 この世界にいたとしても、こんな極彩色の鳥がこの日本に生息しているはずもない。緋玻が踏み潰した鳥は、たちまちかさかさと干からびていって、あっという間に風化し、風に溶けていった。
「……すみません、開けるときには気をつけて下さいと、言うのを忘れていました」
「こんなときにそんなうっかりする? 普通!」
「中は巣窟というわけか」
 鬼の形相の緋玻に平謝りのレイを差し置いて、軍司郎が軍刀を引き寄せた。
「開けて一気に雪崩れこむしかないわね」
 羽澄が鈴を、一樹が八握剱をを取り出して、青の双眸と髪にぱりりと稲妻が走った。灯火は目をわずかに細め、羅火はばきばきと拳を鳴らし、緋玻が再びドアノブに手をかける。

 がうん、とドアは開けられた。


■夢の外■

 魑魅魍魎、と言うのも生ぬるい。
 灰色の建物の中にひしめいて、飛び回り、這いずっているのは、得体の知れない生物ばかりだった。実体を持っているのかどうかも定かではないものたちは、どうやら興奮しているか錯乱しているかのどちらからしい。餓えているのかもしれない。ドアの内側に滑り込んだ者たちを見て、異形たちは叫び声を上げ、飛びかかってきた。或いは、逃げ惑った。
「なんじゃ、どうなっておる!」
 羅火にとっては、『歯ごたえのない』小物ばかり。しかし、その数にはさすがに羅火も驚いていた。むろん、驚いているのは彼だけではなかったが。
「あちらの世界の生物だ、全部! ……リチャード、まさか!」
「はい。ロクゴウさんのもとから、現れています!」
 A.C.S.が、「もうどうにもならない」と判断したのは、このためだった。叩き斬っても、弾き飛ばしても、眠らせても、あとからあとから現れる異世界の生物たち。建物の表面に描いた印や呪文で、なんとか外界に飛び出すのを防げても、開け放たれた門を閉じることも出来ず、異形は現れるばかりになっている。
 ブラック・ボックスは建物がパンクしないように、奮闘していたA.C.S.メンバーのひとりだ。これなら、到着が遅いと文句を言うのも頷ける。
「みんな興奮してるみたい……! 『音』を聞かせるわ!」
 やみくもに力でねじ伏せるやり方は、羽澄の流儀にかなわない。得物を持つ者たちが一瞬手をとめ、羽澄の足元にツと寄った灯火が、きらりとその目を光らせた。
 ドーム状に展開された灯火の力場が、夢の異形たちの自由を奪う。
 そこに涼やかに響いたのは、羽澄の鈴の音。
 ぎいっ、と鮮やかな色合いの生物たちが怯んだように見えた。
「興奮してるんじゃない。みんな……狂っちまってる」
 青が呆然と呟いた。
 怪物たちは、確かに、狂乱しているのだ。あの船乗りもそうだったではないか。自分の意志に反して、ちがう世界に来てしまった。その事実だけでも、精神をかき乱すには充分だ。この生物たちも、自分の身に何が起きたのかわかっていないにちがいない。
「全部相手にしてちゃ埒があかないわ。リチャード、陸號はどこ?」
「この先を行って、右に曲がってください!」
 羽澄の鈴の音を背に、無言で、軍司郎が先陣を切った。〈コスの印〉をばら撒きながら、灯火を抱えた緋玻が彼に続く。
 通路からしてこの調子だ。先が思いやられる、と渋面をつくったのは、一樹と青であった。

 ぎゃあ……ぎゃあぎゃあ、ぎゃあ。
 じゃあ……じゃあぢゃあ、ぎぁあ。

 軍司郎が蹴り破ったドアの向こうに、もはや人の形も成していないヒトガタが、膝をついて項垂れていた。
 明治の狂科学者、芹沢門吉。無貌の神にそそのかされ、夢の世界に魅入られて、造り上げた〈夢の架け橋〉。六番めに造られた〈架け橋〉は、制御も出来ず、動作も不安定な、結局は『失敗作』であったのかもしれない。
 錫の鍵を持つ者を、肉体を備えたまま夢の世界へ送ることが出来るのは、ある筋の者にとって、立派な利用価値になるだろう。しかしいまは、その利点すら暴走してしまっている。鍵を持たないものまでも、別の世界へ放り込んでしまう『門』に成り下がってしまった。
 あれはやはり苦しんでいる、と軍司郎は眉をひそめた。
 制御が利かなくなってしまった能力に苦しめられている。
「……殺すしかないのかよ」
 ぱりっ、と稲妻をたぎらせて、青が呻いた。
「くそッ。……結局俺、いい案が浮かばなかった」

 つぎはぎだらけの顔の縫い目から、崩れた口の間から、がふぅ、とかれは鈍色の煙を吐く。腕の中途からまた腕が生え、骨のない指は触手のようにのたうつ。
 かれは、夢の中の怪物だ。現実世界の物質をもって象られた、夢の造形物である。
「 ああ」
 どこからか、かれはそう呻き声を上げた。
「退避を 退避を 退避を」
「陸號さん、」
「閉じ 門を て下さい」
 かれの意志は変わっていない。羽澄は唇をかんだ。かれは以前にも、門を閉じてくれと言っていたのだ。造り主は閉じるなと命じているから、かれでは門を閉じられないのだ。
 誰かに助けを求めているのだ。
 かれ以外のものでなければ、門を閉じることは出来ない。
「もう……鍵じゃどうにもならないの……? だったら、せめて――」
「陸號の魂を抜くか、封じるかだ」
 一樹が剱ではない神宝を懐から出した。道返玉だ。迷える魂をとどめる力を持つ、神宝である。
「待て!」
 陸號に歩み寄ろうとした一樹と羽澄を、するどい一声が制した。軍司郎だ。
 軍司郎の眼差しは、いつにも増して厳しかった。
「迂闊だった。例の司書がいない」
 サーベルを閃かせて、軍司郎がもと来た道を引き返す。それを追ったのはリチャード・レイと羅火だった。一樹は――追おうとしたが、陸號を選んだ。それが吉と出たか凶と出たかは、わからない。

 わかっているのは、気づくのが少し、遅かったということだ。
 がふう、と大きく陸號がため息をつく。
 そして、


■夢の中、へ■

 がくん、と陸號が痙攣した。触手と腕は、かれの意志に反して動いているらしい。門の中からあふれ出てくる生物たちを捕らえ、めきめきと握りつぶして、その肉の中に取り込んでいくのだ。
「おい! なんか、ヤバそうだ!」
 触手は当たり前のように、青たちにも向けられた。緋玻が眉をひそめて陸號の腕を掴む。みちみちと、彼女の手がたちまち夢の世界に侵食されていった。力任せにぶちりとその腕を引き千切っても、腕は未練がましく緋玻の手にしがみつき、彼女を夢に取り込もうとしている。
 稲妻が走った。この非常事態に放たれたにしては、芹沢青という鬼の意志に、明確に稲妻は従った。逆境にあればあるほど集中力が増すたちなのだろうかと、青はひとごとのように考えた。蒼い霹靂は緋玻の腕に絡みつく肉の塊を狙撃した。焦げて剥がれる陸號の腕を、緋玻を振り払う。
「ありがと」
「いきなり掴んだりするなよ、素手で」
「そういう荒っぽいことしか出来ないもの。それに……手段なんか選んでいられないわ」
 緋玻が引き千切ったはずの腕は、もうすでに、陸號の肩から生えていた。失ったものよりも、より狂気的で、いびつな形に生まれ変わっていた。もう二度と同じ長さのものは生えない、トカゲの尻尾のように。
「嫌よ」
 羽澄は鈴を握りしめて、伸びてくる腕と触手をかわしつづけた。
「また誰かが怖い目に遭って……哀しい目に遭うなんて……嫌!」
 羽澄の顔を狙った触手の動きが、びりりと止まった。羽澄の足元で、灯火が目を光らせていた。
「……」
 小さな手を伸ばし、灯火は念動力でとめた触手に、そうっと触れる。彼女の手が、極彩色に彩られた。夢の世界の侵攻までは、彼女の念動力がとどめることは出来なかった。

 しかし、灯火の心に伝わってきた、その『意志』は――
 もう、どうにもならないものだった。

 ――ああ。退避を。退避を。退避を。
   誰かが 何かを 喚んでいる。

「……ここから……逃げましょう……!」
 灯火は、制限を受けていた転移の能力を使った。
 使うしか、なかったのだ。



 ブラック・ボックスが血まみれで倒れている。
 その傍らに立っているのは……星間信人だ。夢の世界の住人たちはいまや、灰の建物の窓や戸口から飛び出し、めくらめっぽうに飛び回っては、――去っていく。しかし、一匹の顔のない有翼鬼だけは、信人のそばから離れなかった。すでにその夜鬼は信人の手の内だ。ブラック・ボックスは信人を諌めようとして(或いは殴ろうとして)返り討ちにあったらしい。
「ホシマさん! 封印を解きましたね!」
「夢の世界のエネルギーが、こちらの世界と融合する……素晴らしいことではありませんか。原子力にも勝る資源です。なにせ、不死の魂まで生成出来るのですからね。この世界はより豊かになりますよ。神の加護を受け、エネルギーにも恵まれる。多くの人が望む世界だと思いませんか」
「あの力は禁忌に値する」
 軍司郎が、恍惚とした信人を一蹴した。
「夢は心の中にだけあれば良い」
「影山さん。あなたは顔のない御方を恐れているようですね」
 その言葉に怯みはしなかったが、軍司郎はぐっと顔をしかめた。軍司郎の代わりに、羅火が竜の唸り声を孕ませて、言い返した。
「誰しも恐れるものはあるわ。なにも恐れぬ輩なぞは、どこぞのネジが飛んでおるのじゃ!」
 嘲るように、信人は笑みを大きくした。他人にそう思われることを、恐れてはいないとでも言うように。その笑みのまま、信人は傍らの夜鬼に、短く強く命を下した。
 顔のない有翼鬼は、無言で軍司郎と羅火、レイに飛びかかってきた。
「おのれ!」
 羅火が吼え、夜鬼の爪を紙一重でかわした。夜鬼の鞭のような尾を、羅火は振り返りざまにむんずと掴む。
 しゃあッ、と間髪入れずに白刃が走った。軍司郎はその一刀で夜鬼の首を刎ね、コートをひるがえして走り出していた。次に狙う首は、信人のものだ。
 しかし、軍刀が信人をとらえることはなかった。どうん、と凄まじい轟音が上がり――人造人間陸號の保管施設が、砕け散ったのである。
 信人はその異変を察知していたかのように、どこか幸せそうに笑って、すでに馬面の巨大な鳥を手なずけていた。赤い翼を得た信人は、急に曇り始めた藍の空に消えた。


 ぬうう、と得体の知れないものが――触手の集合体が――瓦礫を吹き飛ばして立ち上がる。9本の、長すぎる触手が脚をつとめている。脚たちの付け根にあるのは、手足も失った人造人間の胴体だ。
「ああ!」
「あの人形!」
「星間が……喚んだか」
 脚はあまりに長すぎた。アーチを描く脚が、ずん、と一歩を踏み出す。ずん、とまた一歩。
 その姿は、不条理なほど大きなザトウムシ。
 9本足が歩けば、その脚に踏みしだかれた土や草が星色に変わっていく。夜の空がひるがえり、鈍色の光を放つ。
 9本足が咆哮を上げた。足のあちこちに目玉を持つ異形は、一体どこから声を上げているというのだろう。
 歩いていく、歩いていく、歩いていく。通る道を夢に変えながら。
「東京に向かっている」
「見ればわかるわ!」
「貴君の翼は飾り物か」
「なんだと?」
「わたしを連れて飛べるか、と聞いている」
「……殺る気じゃな」
「無論」
「……わたしは、ボックスさんのそばに。A.C.S.にも連絡を入れなくては――」
「おう、うっかり者はそこに居れ! 往くぞ、兵隊!」
「了解」
 ばうっ、と広がる羅火の赤い翼。軍司郎を抱えた竜人は、飛んだ。


■眠れない警備員のために■


 建物が崩壊するのと同時に、5人は空中から投げ出され、どさりばたりと道ばたに倒れこんだ。陸號の保管場所へ向かう際に通った道だ。轟音とともに立ち上がる怪物の姿は、いやでも目に入った。すり傷や土汚れ、打ち身の痛みも忘れて、彼らは立ち上がる。灯火の判断は、正しかったといえるだろう。あの建物の中に居れば、瓦礫の下敷きになるか、あの怪物に踏み潰されていた。
 ほんのしばらくの間、一行は呆然とザトウムシが歩んでくるのを見上げているばかりだった。
 はじめにしかめっ面で声を上げたのは、芹沢青。
「ああ! くそ! こっちに来る……ってことは、街のほうに行くつもりだぞ! ……結局……こっちの都合で、止めるしかないってのかよ……!」
「そう……止めて」
 地響きとともに近づいてくる9本足を睨みながら、羽澄は鈴を握りしめた。
「止めるだけでいいの。灯火ちゃん……陸號さんは、『居た』んでしょ?」
「……はい」
「陸號さんを眠らせるわ。ぎりぎりまで引きつけて……止めて! お願い!」
「……仕方ないわね。力ずくで行くわよ」
 音もなく、空と土が幻想的で空恐ろしい色に変えられていく。『門』が動いているのだ。現実は曖昧になって、夢のようなものが現れてくる。9本足のシルエットは、人知を超えていた。恐ろしい、というレベルを超えている。
 あれは、とても、どうにもならない、もの、だ!


 9本足のうちの1本が、一行の目の前に現れたとき。
 ずずうん、と道を踏みしめたとき。
 青が吼えた。緋玻の姿が、ひと回りもふた回りも大きくなった。蒼い霹靂が脚の付け根に命中し、9本足の歩みが刹那とまる。黒髪に蒼眼の鬼が、その脚に組みついた。ぎぎぎ、とザトウムシはそれでもなお、歩もうとした――灯火がぎらりと目に強い光を宿した。ザトウムシの脚の動きが、また止まる。
 止まった。
 止められている。
 羽澄は大きく息を吸い込んだ。
「羽澄」
 すう、と一樹が神宝を掲げる。
「お前だけが全てを賭けることはない。……俺も、全てを賭ける」


 ああ!


 ――お願い、陸號さん。そこで……止まって!


 誰も命令に従うこともなかった、あの人造人間。
 しかし、誰かの『頼み』を聞くことは、あったのだ。
 羽澄のシャウトが、その場のすべての者の『願い』であった。
「ああ 了解 しました」

 静寂。

「常磐に堅磐に護り給ひ幸ひ給ひ、加持奉る!
 神通・神妙・神力加持!」

 一樹の祝詞が、9本足の付け根を貫いた。
 銀色の光が瞬いたかと思えば――9本の脚がばらりと外れて、てんでばらばらな方向に倒れていく。巨大な脚が倒れる音に、鳥達が騒ぎたて、地が揺らいだ。土埃に目をすがめで、青が叫ぶ。
「おい、陸號の胴体、落ちて――」
 一樹の祝詞を受けたのは、陸號の、木製の胴体だ。はるか上空から落ちていくそれをね受け止めたものがあった。
 風の使者だ。
 蜂のようで、屍骸のようで、悪魔のようでもある異形――あれは、星間信人が好んで使役しているものだ!
『灯火ちゃん!』
 蒼眼の鬼が、緋玻の面影を残した声で叫んだ。
 クと上を向いた灯火は、ツと目を細め、異形の従者を睨みつけた。

「あれは風の手のものじゃな! いかれ眼鏡め! 人形を奪うつもりじゃ!」
「わたしを離せ」
「なに!」
「早くわたしを投げろ!」
 陸號の胴体を掴む風の使いが、そこで唐突に硬直した。かくかくと顎と羽根を震わせて、落ちることもなく、中空で止まっている。
 止められているのだ。灯火に。
「……仕留めい、兵隊!」
 羅火は一度強く羽ばたくと、その褐色の腕に力をこめて、抱えていた軍司郎を投げた。
 軍司郎は軍刀の柄を両手で握り直し、落ちざまに、異形の従者を叩き斬った。
 羅火はずばんと翼を打ち振って、軍司郎と――胴体と首だけになってしまった陸號を、受け止めた。


■眠れる友のために■

 陸號は、もう煙を吐いていない。目を開けていないし、動きもしない。一樹が額の汗を拭って、ため息をついた。
「……この国の力を持って、門を閉じた。いまの陸號と夢の世界の接点はない」
「ということは……もう、動かないんだな。動力の供給、出来ないってことだろ」
 はあ、と青も目をこすりながらため息をつく。この騒動で、カラーコンタクトがはずれてしまっていた。
「でも……死んだわけじゃないわ。そうよね?」
 そうだと言って。
 羽澄は一樹を見上げたが、彼は羽澄が期待している返事をしなかった。ただ、黙っていた。
「もう喋らないし、もう動かない。それって、生きてるって言えるのかしらね。……結局、やっぱり、殺しちゃったのかもしれないわ。……あたしには無理な話だったのよ。鬼のあたしが……なに期待してたんだか」
 緋玻が、はじめにその場を去っていった。コピー用紙の最後の一枚が、彼女が立っていたところに落ちていた。
 灯火は、緋玻のその背中を見てから、横たわる陸號にクと顔を戻し、また緋玻の背を目で追った。彼女は屈みこんで、陸號に触れてみた。彼女の冷たい手には、もうなにも伝わってはこなかった。
「……なんじゃ、まったく。……ふん。湿気ておるな」
 この空気は苦手だと、羅火が赤い髪をかきながら、歩き始めた。
「俺は、さ……こいつを助けたくて、この仕事引き受けたんだ。なのに……」
 屈みこんで陸號を見ていた青が、しかめっ面で呟いた。
「くそ。結局、俺って疫病神なんだな」
 パンツのポケットに両手を突っ込み、彼も歩き出す。
 ちいん、と鍔鳴りの音が響く。軍司郎が無言で軍刀を鞘におさめたのだ。彼は、ほんの一瞬、陸號に向かって敬礼をしようとした。しかしそれもすんでのところで思いとどまり、軽くかぶりを振りながら、やはり黙って歩き出していた。
「……冷えて、参りました」
 灯火が呟く。
 木と死体で出来た陸號の身体を、一樹がそっと抱え上げた。
「武神さん。陸號さんは眠ってるだけよね?」
 羽澄がもう一度だけ尋ねた。
「……そうだな。いつかきっと、また一緒に酒が呑める」
「……ありがとう」
「みんな精一杯やったさ。もちろんお前もな」
「……ありが……」
 羽澄はそれ以上、言葉を続けなかった。一樹より先に、歩き出していた。
 乾いた風が吹いた。いやに……乾いた風だ。一樹は眉間に力をこめて、空を仰いだ。星間信人の哄笑が、風にのってやってきたような気がする。要領がよく、悪運の強い信人のことだ。体よくこの場を離れているだろう。
 陸號の身体を抱える手に、一樹は力をこめた。

 少しずつ、何も言わずに、歩く彼らの前に、やがて一機のヘリが降り立った。中から顔を出したのは、リチャード・レイだ。ヘリはA.C.S.が手配したものらしい。
 上空から見てみると、地面や林にめりこむようにして横たわっている9本の脚が見えた。
 もはやそれは、脚ではない。胴に無数の眼球を持つワームでしかない。妙だ、と緋玻や青が眉をひそめた。
 動く門は、閉じたはずだ。それに夢の世界の生物たちは、殺せば砂のように崩れて消えていったはず。9本の脚は横たわったままで、夢混じりになってしまった土は一向に元に戻る気配を見せない。
「空が……」
 誰かが、呆然と呟いた。
 夜の東京の空に、赤い星雲が浮かび上がっている。昨日までの夜には、なかったものだ。
 夢は終わろうとしていないらしい。


■アトラス、深淵への門■

「おうい! おうい、誰か! レイに連絡つかねェかあ!」
 応接室から飛び出したイハン=マヌウは、すっかり血相を変えていた。書類の山の中から、編集長・碇麗香が顔を出す。彼女はデスクから自分の携帯を取ると、それを三下に投げ寄越して、自分は書類に目を戻した。
 携帯の中に連絡先は入っているから、連絡を取ってやれというのだろう。イハン=マヌウがどんな存在であるか、麗香と三下はレイから聞かされている。彼はレイ以上の機械音痴だ。
「あ、これ。あの、レイさんと、つながりました」
 三下がおっかなびっくり船乗りに携帯を差し出す。マヌウは蒼白い顔をさらに青くして、三下から携帯を半ば奪い取った。
「レイ! えっらいことになったべさ! ミサトが!」

 応接室のソファーで、蔵木みさとは横たわっている。
 彼女は恐れていた眠りについていた。土気色にも似た死人の肌に、かすかな呼吸では、傍から見て「死んでいる」ととられてもおかしくはない。
 マヌウは、彼女が死んだと思ったわけではなかった。みさとはあまりにも突然倒れて、呼びかけにも反応しなくなったのだ。
 東京が知っている、あの夢のはじまりに――みさとは眠りにつかされていたのである。




〈続〉


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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0173/武神・一樹/男/30/骨董屋『櫻月堂』店長】
【0377/星間・信人/男/32/私立第三須賀杜爾区大学の図書館司書】
【1282/光月・羽澄/女/18/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員】
【1538/人造六面王・羅火/男/428/何でも屋兼用心棒】
【1996/影山・軍司郎/男/113/タクシー運転手】
【2240/田中・緋玻/女/900/翻訳家】
【2259/芹沢・青/男/16/高校生・半鬼(?)・便利屋のバイト】
【3041/四宮・灯火/女/1/人形】

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               ライター通信
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 モロクっちです。いつもご贔屓にしていただき、ありがとうございます。『架け橋と船とザトウムシ』をお届けします。このシリーズもあと2回ほどで完結しそうです。
タイトルからして陸號がザトウムシ化(笑)することは決まっていたのですが、正直ここまでモメるとは思いもよりませんでした。皆さんフツーに壊してくれるだろう、と。ので、予定以上に長くなりました。陸號、そんなに皆さんと一緒に行動することもなかったし、こんなに愛されているとは思わなくて……(汗)。すみませんでした。でも、嬉しい誤算でした。
 今回もまた誰かのせいで問題が大きくなってます(笑)。ザトウムシもほんとうはそんなに大した存在じゃなかったんですよ。こうして皆さんのプレイングで物語が変化するというのは、ウェブゲームの醍醐味と言えるでしょう。
 長文ですが、楽しんでいただけたら幸いです。
 それでは、また。