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レムニスケート〜帝都のハスラー〜
――大正九年早春、東京。
この季節としては遅い小雪がちらつく石畳の上を、瀬崎耀司は軍靴を鳴らしながら進んでいた。
厚い冬仕様の軍服に身を包んだ耀司は、季節外れの寒さにも身を震わせる事無く済んでいる。
一方路傍では新聞を読む男が数人ずつ、外套の襟元を合わせ身を寄せ合っていた。
先年敷かれた休戦協定が国内の兵器需要を激減させ、結果大規模な労働者の解雇を招いた為、街中には失業者が溢れていたのだ。
――軍属、というだけで口に糊していられるのもいつまでかな……。
耀司は陸軍将校として身を立てていたが、その地位に拘りはない。
――軍属を離れて書物に埋もれる生き方も、まあ悪くないかもしれない。
ひとときそんな夢想に耽る自分を、「非国民な事だ」と耀司はひっそり胸の内で笑った。
と、雑踏の中を行く珍しい姿の人物に興味を惹かれた。
――女、にしては些かモダン過ぎるきらいがあるね。
後姿を見せる女はうなじが見える程髪が短く、細い身体を男物の背広に包んでいた。
大きなトランクを両手で抱えて歩く姿は、田舎出の娘のようにも見える、が。
耀司は女の姿に違和感を覚える。
どう見ても日本人なのだが、長く海外で過ごした人物がどこかちぐはぐな印象を与えるように、女はこの帝都で浮いていた。
娘は通りを曲がった先にあるカフェへと入って行った。
その後姿に続き、耀司もカフェのドアをくぐった。
混雑するカフェの中、女の姿はやはり特異だった。
今の時代洋装――しかも男装をしている女は珍しい。
「申し訳ありません、相席を願えますか?」
耀司は女の席に近寄り、にこやかに声を掛けた。
――興味の惹かれるものについ近付いてしまうのは、我ながら悪い癖だな。
耀司の声に女はテーブルの珈琲から顔を上げた。
「あっ、はい。どうぞ」
外見は同じような年頃の娘と同じく、溌剌とした雰囲気を持っている。
洋装以外はごく普通の娘だ。
器量もまあ不細工では無いと思うが、その点は各人の好みに拠る所が大きいので耀司には深く言及出来ない。
――何が気に掛かるのかな……。
耀司は不躾に見つめるのも失礼だと思い直し、手近な女給に珈琲を注文した。
「あなたは軍人さんですか?」
お互いに同じテーブルを囲んでいながら沈黙しているというのも気詰まりに思ったのか、女が声を掛けてきた。
「ええ、見ての通りです」
カーキに赤のラインが冴える軍服は、これ以上無いという軍人の証だろう。
「あの、不躾ですけど……この街でビリヤード賭博をしているような所、知りませんか?」
「それは……いきなり物騒な話だね」
職業柄、表沙汰にならない事情や情報も見聞きしている。
大きな声では言えないが、幾ばくかの金銭と引き換えに見逃している場所もある。
苦笑する耀司に女も「そうですね」と笑った。
「私のビリヤードボールが、手違いで紛れ込んでしまったようなんです。
この辺のビリヤード場は探してしまったので、あとはそんな場所くらいしか思いつかなくて」
明治に持ち込まれた当初は華族、高級官僚だけが遊んだビリヤードだったが、大正に入った今では庶民も楽しめる娯楽として人気が高い。
ビリヤード場はどこも賑わっている。
道具も買って買えない物ではない。
「その辺で買えるボールとは違うのかね?」
「……あれは特別なんです」
――ふむ……訳ありのようだ。
「僕の知っている場所は、女一人で乗り込むには些か危ないが……。
それでも君は行くかね?」
女は視線を逸らさずに答えた。
「そこに私のボールがあるなら、行きます」 ――なるほど、生半可な気持ちで荒事に首を突っ込んでいるのではないのだね。
「心当たりに声を掛けてみよう」
「ありがとうございます」
後に紫月美和と名乗った女は深々と頭を下げた。
ぴたりと身体にそった黒い革製の服は、青年の怪しい雰囲気に良く合っていた。
腕や足に幾重にも配されたベルトが、機能性と装飾性を高めている。
路地の奥にある酒場に現われた神島塊は、耀司の顔を見るなり大きく息を吐いた。
「あのなぁ……この街にどれだけ玉撞場があると思ってるんだ?」
「だから神島さんを呼んだんですよ」
塊は長い銀髪に紅い瞳が目を引く青年で、いつの頃からか軍の情報屋めいた事をしている。
耀司も軍に入ってからは何度か塊の手を借りていたが、そう接点がある訳でもない。
あくまで噂に過ぎないのだが――塊が関わった軍の作戦が、彼の外見年齢を考えると辻褄の合わない過去から存在するという。
いわく、塊は人外の長命種に連なる存在だという噂。
しかしそれを確かめる時はあまりに短く、彼に関する情報は不透明で、耀司もまた些細な事として流していた。
塊のもたらす情報がある程度信用の置けるものなら、出所も人となりも問わない。
塊はカウンターにいる和装の女に水割りを頼んだ。
「貴様がその馬鹿げた依頼人って訳か?」
塊の紅い瞳に一瞬身をすくませた紫月だったが、こく、と頷いた。
そして紫月は何を以ってビリヤードボールが『特別』かを語った。
彼女の持つボールにはそれぞれ人工的に作成された精霊が付加され、各個意志を持つのだと言う。
――陰陽術における式のような概念だろうか。にしても、人工精霊とはね。
「まぁ、普通のじゃないなら……目処つけるのは簡単そうだが」
塊は幾つか思い描く場所があるらしく、僅かに首を傾けて言った。
「僕の知る所では、銀座で一風変わった玉を用いる場所があったと記憶しているがね」
勿論正規のビリヤード場ではなく、法外な掛け金を載せた賭博場だ。
と、カウンターから水割りを片手に、白黒の市松模様に薔薇をあしらった和服を着た女が話し掛けてきた。
いっそ婀娜っぽさも漂う大胆な柄の着物だったが、不思議と下卑た所が無いように耀司には思えた。
「酔いどれの戯れ言にしちゃ、存外面白い話だねぇ。
もっと私にも聞かせておくれでないかい?」
女は塊の前にグラスを置き、そのままテーブルについて白い腕をゆったりと組み合わせる。
「姐さん俺は素面だよ」
ようやく来たグラスに口を付けた塊が呆れたように声を出す。
「にしちゃあ随分と酔狂じゃないか。
この華子姐さんにも一枚噛ませとくれよ」
黒髪が嫣然と微笑む顔から肩に流れ、さらりと音を立ててテーブルにひと束落ちた。
大徳寺華子――気だるげな仕草の女給はふ、と微笑んで身を乗り出した。
――酔っている風には見えないが、果たして……。
酔いが表情に現われない人間も中にはいる。
華子は自らも水割りのグラスを持ち、氷を軽く回しながら歌うように呟いた。
「こんな場所で毎晩酔っ払いのくだまきを聞いてるとねぇ、嫌でもやくざ者の話には敏くなっちまうのさ」
ぞくりと足元から闇に這い寄られるような嫌悪感が耀司を襲う。
――何だ?
暗闇の底には深い虚無が口を開いている。
それを覗き込んだが最後魅入られるのはわかっていながら、抗いようの無い魅惑を湛えた声が誘う。
――忌唄唄いなのか? 害意は無いにしても……!
言葉自体が黒き瘴気を放つ呪われた血族、そんな哀しい一族がいるといつか聞いたことがある。
瞳を閉じて高まる鼓動をやり過ごし、再び瞳を開くと一同が耀司を見ていた。
気分を悪くしていたのは耀司のみのようだ。
「おい、大丈夫か? 酒場で酒も飲まないで潰れてちゃ世話無いぜ」
「そうですね……」
塊の軽口に耀司は笑い、次いで華子と目が合った。
華子はすっと身を寄せ、「済まなかったね」と一言囁いて離れた。
――故意にではないのだから、怒るのも理不尽というものか。
耀司はそれ以上華子に言及もせず、不問にした。
「で、多少後ろ暗い方面には明るい三人が集まった訳だが、何処から探る?
官憲から手を回してその辺の物差し押さえるってのも手だな。
まあ何なら、俺は暴れたっていいぜ?」
塊の楽しげな言葉に紫月は眉を寄せた。
「できれば無用な争いは避けたいんですが……」
「それなら僕が一つ占ってみようか」
「占い?」
華子が耀司の言葉尻を取って繰り返した。
その声には艶やかな女の少女らしい一面が見え隠れしている。
「これでも陰陽道の真似事らしきものをしている身でね」
「軍狗は飼い主の顔色だけ占ってりゃ良いんじゃないのか?」
耀司の手元にある八卦図を覗き込んだ塊が冷やかすように言った。
「僕が占いをするのは、世界の姿を識りたいからです……軍職とは関係ない」
耀司にとってそれは崇高なようで、とても些細な欲求だった。
曖昧な世界の形を識る為には、禁忌に手を染める事も厭わない。
「……世界を、ねぇ……」
どこか倦み疲れたような華子の声が、ひっそりと響いた。
占いに現われた八卦は『震』。
北東の方角を現し、雷、龍などの属性を持つ。
長い髪をかき上げた華子が、細い指を顎に当てながら言った。
「その方角なら、良いとこのボンクラ息子どもが出入りしてる演舞場があるって聞くねぇ。
奥でビリヤード賭博に親の金注ぎ込んでるらしいじゃないか」
塊も華子に続いて頷く。
「ああ、そこなら俺もいつだったか聞いた。
仕切ってるやくざ者も結構大物で、軍とも繋がってるって話だ」
――『震』の意味には『長男』という人間も含まれる……符合は一致するな。
「そこか……」
それまで黙って成り行きを見守っていた紫月が口を開いた。
「皆さんありがとうございます。その先は私、一人で大丈夫ですから」
そう言ってトランクを抱えて出て行こうとする紫月を、塊が引き止めた。
「おいおい、何が大丈夫だよ……女一人で潜り込める場所じゃないんだぜ」
紫月は肩を落としてうなだれてしまった。
人工精霊を従えた紫月は無敵を誇るのかもしれないが、残念ながらその力の源は遠くにある。
「紫月くん、君は……他人の手を煩わせるのを酷く嫌う性質のようだね」
――それはそれで、周りに居る人間に寂しさを覚えさせるかもしれないな。
耀司は紫月の肩を軽く叩いてみせた。
「乗りかかった船の切符は往復と決まっているよ」
華子も言葉を繋ぐ。
「私もその船の切符を往復で買った口さ。気に掛かるじゃないか、ねぇ?」
紫月は気丈な表情を崩して笑顔を見せた。
塊の口利きで通された賭博場には、なるほどどこかの社交場からそのまま出てきたような、世間慣れしていない――否ある意味で俗世にまみれた『良家の子息』が集っていた。
その日暮らしの失業者が溢れる表の世界とは偉い違いだった。
――それも帝都の形、か。
「どうだ、それらしいボールはあったか?」
手分けしてそれらしい気配を四人は探っていたのだが、手ごたえのなさに落胆の色を隠せない。
「いえ、この部屋には無いようです……」
ビリヤード台が数台並べられ、細い線の青年達が交互に玉を撞いている。
それをいかにもな風体の男達が鋭い視線で見守っていた。
場内を歩いていた華子が戻ってきた。
「この奥にもう一部屋、特別室があるようだねぇ。
勝ち続けた者だけが呼ばれるって寸法さ」
「ふむ。どうやらそこが怪しいと見えるね」
華子は紫月に向かって一つ提案を切り出した。
「ここは博打場。博打場なら博打場の流儀に従ってみちゃどうだい?
勝ち抜いていきゃあ、探し物にたどり着けるだろぅ?」
――ビリヤード勝負か。しかし紫月くんの腕前はどうだ?
ごまかしの利く勝負じゃないだろう。
「……やってみます」
紫月は手近な台に近寄ると、その場にいた男たちに話しかけ玉を撞き始めた。
小気味良い音と共に玉が弾かれ、緑の台の上に美しい直線を交差させる。
「へぇ、結構慣れてるな」
小柄な身体を台の上に乗り上げるようにしながらも、紫月は正確に順を追って玉を撞く。
相手を挑発する事もせず、ただ淡々と、真剣に。
一人、また一人と相手を負かす度に見物する者が増え、場内は静まり返っていった。
最後の玉が台に吸い込まれた瞬間、シンとした場内に歓声と拍手が沸き起こった。
「やぁ姐さんやるねぇ!」
「君、すごいな!!」
その歓声も、一言によって再び静寂に戻されてしまった。
慇懃な口調の男が紫月を呼ぶ。
「……オーナーがお呼びです」
――来たか。
紫月について奥の部屋へ三人は足を踏み入れた。
この部屋にも一つビリヤード台が置かれ、その上にボールが転がされていた。
どうやらこれが、紫月の探す物らしいのだが……。
天井から龍の浮き彫りが見下ろす机の前に、この場を取り仕切っているらしい男が座っている。
その男が大げさにため息をついて言った。
「素人さんが一人勝ち、というのは感心しませんな。
お一人で今日どれだけ勝ったか、わかってらっしゃいますか?」
小声で紫月が隣に立つ塊に聞いた。
「……あの、どの位勝ったんですか?
大正の物価って私よくわからなくて……」
「はぁ? 貴様呑気すぎじゃねぇのか?
ざっと二千円は勝ってたぞ」
ちなみに銀行の初任給が五十円、国会議員年間報酬が三千円の時代である。
ぼそぼそと紫月と塊は話し込んでいる。
「ええと、それってすごい金額なんですか?」
「本気で言ってんのかよ……」
男が咳払いをした。
「随分余裕ですな。金額など興味はありませんか」
苛立ちを含んだ男の声にも、紫月は「はい」と素直に言葉を返している。
――紫月くん、相手をあまり刺激しない方が良くは無いかね?
紫月の後ろで耀司ははらはらと気を揉んだ。
それは華子も同じようで、眉間に皺が寄っている。
紫月は明るい声で言った。
「勝ち金は全てお返しします。
この部屋に揉め事無しで入りたかっただけですから。
その代わり、そこのボールを私に下さい」
「は? どういう、意味……?」
怪訝な表情の男の目の前で、ビリヤード台の上に載せられたボールが空に浮いた。
「代わりにこれ置いていきますから」
紫月はトランクからごろりとボールを台の上に転がし、キューを構えて言った。
「……ナインボール!!」
紫月の呼びかけに答えて、ボールは彼女の周りを衛星のように回る。
主の元へ集った精霊達は嬉しそうにさえ見えた。
「雷が苦手な人は目と耳、閉じていて下さいね!」
紫月が両手に構えたキューを振り下ろすと同時に、烈しい雷鳴が部屋に響き渡った。
「こ、こんなに走らされたの久しぶりだよ……」
降り出した粉雪の中、乱れる裾を直しながら華子が荒い息をついて言った。
「ごめんなさい……」
謝る紫月に、
「怒っちゃいないさ」
と華子は笑った。
雷鳴が引き起こした混乱に乗じて、耀司たちはその場から逃げ出したのだ。
追いすがる男達の一部は、どこからか現われた魔の眷属が足止めしてくれたお陰で巻く事が出来た。
――あれは何だったのかな。まあ、いつか知る日が来るかもしれない。
その日を心待ちにするのも、楽しみが先延ばしにされたようで心躍る。
「俺も久々に暴れた気がするぜ」
塊が背筋を後ろに反らして伸ばしながら言った。
塊に殴られて賭博場の通路に倒れた男も少なくない。
一方耀司は巧みに追っ手をかわして走りきったのだが。
「本当に皆さん、ありがとうございました。
ナインボールも戻ったし、これで……帰れそうな気がします」
愛しそうにトランクの縁を撫でる紫月に華子が聞いた。
「帰るって、どこへだい?」
紫月は少し考えて答える。
「私を探してる人の所です。きっと、ずっと探してるはずですから」
「そう……そんな人がいるのかい」
華子がややそっけなく言うのを聞きながら、耀司は紫月の輪郭が薄らいでいくのに気付いた。
塊もそれに気付いたらしく、上ずった声を上げる。
「おい! 貴様透けて……!」
「え?」
トランクを持った手を持ち上げ、紫月は「時間ですね」と言った。
深く腰を折って頭を下げる紫月の姿は、顔が再び上がる前に消えてしまった。
その場に残されたトランクと足の跡も、舞い散る粉雪が覆い隠してしまうだろう。
風変わりな女など、最初からいなかったかのように。
「何処から来て、何処へ行ったんだろうな……」
塊が呟いたその声も、耀司の耳に届くとすぐ消えてしまった。
(終)
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【 2991 / 大徳寺・華子/ 女性 / 111歳 / 忌唄の唄い手 】
【 4487 / 瀬崎・耀司 / 男性 / 38歳 / 考古学者 】
【 5462 / 神島・塊 / 男性 / 132歳 / 半妖 】
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■ ライター通信 ■
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瀬崎耀司様
ご参加ありがとうございます。
舞台が大正時代、という事でしたが当時の風俗が上手く伝わったでしょうか。
瀬崎様軍人コス、似合いすぎで五芒星も描きかねない勢いでした(笑)
少しでも楽しんでもらえると嬉しいです。
御注文ありがとうございました!
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