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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


レムニスケート〜帝都のハスラー〜

 ――大正九年早春、東京。
「いい加減におしよ……野暮な男は嫌われるよ」
 気だるげに言い放つ女の着物の裾に、男は這い寄り縋り付いた。
「なぁほんの少しでいいんだ、俺と……」
 ――ほんの少し、何だというのだろう。
 男の瞳に映る暗闇は虚ろで、そのくせほの暗い欲の炎を宿し、女――大徳寺華子は嫌悪に肌を粟立てた。
 この季節としては遅い小雪がちらつく石畳の上、無様に倒れた男は尚も華子に縋り付く。
 ――ああ、人の感情は何て冥いんだろう。
 自分も同じ生き物だというのに、今ではこんなにその存在が、遠く。
 ――私はあの日から変わってしまったのか……人以外の者へ?
 男の手を振り払った華子の着物から影がするりと伸び、冷たい石畳の上、膝をつく男に纏わり付いた。
 触れた影の冷たさに男は「ヒッ」と息を呑み、見る間に肌を、体中を黒く影に覆われていった。
 悲鳴を上げようにも口元を闇で覆われ、男は声も上げられず動きを緩めていく。
 ずるずると黒い水溜りに落ち込んでいくような男の手が、指先まで完全に飲まれる様を見届け、華子はその場から歩き出した。
 奥まった路地から出ると、新聞を読む男が数人ずつ、外套の襟元を合わせ身を寄せ合っていた。
 先年敷かれた休戦協定が国内の兵器需要を激減させ、結果大規模な労働者の解雇を招いた為、街中には失業者が溢れていたのだ。
 ――ここもそろそろ、引き払う時期かねぇ……。
 足早にその場を立ち去りながら、華子は思った。 
 大徳寺の家が消失して数年、街を転々と流れながら華子は生きていた。
 身元の怪しい華子を雇うのはやくざ者がたむろす酒場ばかりで、勝手に都合よく解釈した男に絡まれる事も少なくなかった。
 そんな男を妖魔に始末させた事が、行方不明事件としてこの辺りでも噂になり始めている。 
 ――どうせもう、一所では暮らして行けないのさ。
 華子は自嘲気味にそう思い、長く息を吐いた。
 と、雑踏の中を行く珍しい姿の人物に興味を惹かれた。
 ――女、にしては随分とモダンじゃないか。
 後姿を見せる女はうなじが見える程髪が短く、細い身体を男物の背広に包んでいた。
 大きなトランクを両手で抱えて歩く姿は、田舎出の娘のようにも見える、が。
華子は女の姿に違和感を覚える。 
 どう見ても日本人なのだが、長く海外で過ごした人物がどこかちぐはぐな印象を与えるように、女はこの帝都で浮いていた。
 娘は通りを曲がった先にあるカフェへと入って行った。
 ――私も髪をあれ位短くしたら、何か変えられるのかね……。
 ばかばかしい、そう一人ごちて、華子は住まいへと戻っていった。


 路地の奥にある酒場が、今の華子の職場だった。
 給金は安いが、これでも長く勤めたうちに入る店だ。
 しかしここでの暮らしも潮時が来ている。
 カウンターで華子が次の街を何処にするか思案していると、陸軍の軍服に身を包んだ男が昼間見かけた女を連れて現われた。
 ――おや、昼間の? 偶然はあるもんだねぇ。
 連れの男はたまに見かける陸軍将校――名は……瀬崎耀司と言ったか。
 瀬崎は情報屋と待ち合わせていたのか、同じテーブルに程なく青年が座った。
 ぴたりと身体にそった黒い革製の服は、青年の怪しい雰囲気に良く合っていた。
 腕や足に幾重にも配されたベルトが、機能性と装飾性を高めている。
 現われた情報屋・神島塊は、耀司の顔を見るなり大きく息を吐いた。
「あのなぁ……この街にどれだけ玉撞場があると思ってるんだ?」
「だから神島さんを呼んだんですよ」
 華子は何となく会話に引かれて耳をそばだてた。
 仕事の作法としては些か無作法だったが。
 塊は長い銀髪に紅い瞳が目を引く青年で、いつの頃からか軍の情報屋めいた事をしている。
 塊には噂があった――塊が関わった軍の作戦が、彼の外見年齢を考えると辻褄の合わない過去から存在するというのだ。
 いわく、塊は人外の長命種に連なる存在だという噂。
 しかしそれは華子にとって特に興味を惹かれることでもなく、どうでもいい事だった。
 耀司もそれは同じらしく、塊のもたらす情報がある程度信用の置けるものなら、出所も人となりも問わないようだった。
 塊がカウンターにいた華子に水割りを頼んだ。
「貴様がその馬鹿げた依頼人って訳か?」
 塊の紅い瞳に一瞬身をすくませた女――紫月美和というらしい……が頷いた。
 そして紫月は何を以ってビリヤードボールが『特別』かを語った。
 彼女の持つボールにはそれぞれ人工的に作成された精霊が付加され、各個意志を持つのだと言う。
「まぁ、普通のじゃないなら……目処つけるのは簡単そうだが」
 塊は幾つか思い描く場所があるらしく、僅かに首を傾けて言った。
「僕の知る所では、銀座で一風変わった玉を用いる場所があったと記憶しているがね」
 勿論正規のビリヤード場ではなく、法外な掛け金を載せた賭博場だ。
 と、カウンターから水割りを片手に、白黒の市松模様に薔薇をあしらった和服姿の華子が話し掛けた。
 いっそ婀娜っぽさも漂う大胆な柄の着物だったが、不思議と下卑た所が無い。
 それは華子の雰囲気が妖艶でありながら、どこか相反する清冽さも併せ持っていたからか。
「酔いどれの戯れ言にしちゃ、存外面白い話だねぇ。
もっと私にも聞かせておくれでないかい?」
 華子は塊の前にグラスを置き、そのままテーブルについて白い腕をゆったりと組み合わせる。
「姐さん俺は素面だよ」
 ようやく来たグラスに口を付けた塊が呆れたように声を出す。
「にしちゃあ随分と酔狂じゃないか。
この華子姐さんにも一枚噛ませとくれよ」
 黒髪が嫣然と微笑む顔から肩に流れ、さらりと音を立ててテーブルにひと束落ちた。
 そして気だるげな仕草でふ、と微笑んで身を乗り出した。
 華子は自らも水割りのグラスを持ち、氷を軽く回しながら歌うように呟いた。
「こんな場所で毎晩酔っ払いのくだまきを聞いてるとねぇ、嫌でもやくざ者の話には敏くなっちまうのさ」
 華子の言葉を聞いていた耀司を、足元から闇に這い寄られるような嫌悪感が襲った。
 耀司の顔色は青ざめ、小刻みに震えをこらえて拳を握り締めている。
目の前の耀司の変化に、華子は眉をしかめた。
 ――この人は魔を帯びやすい体質なのかねぇ。
 時折、華子の言葉に含まれる『忌』の成分に強く反応を返す人間がいる。
 同じ場にいる塊や紫月は影響を受けていないようだ。
「おい、大丈夫か? 酒場で酒も飲まないで潰れてちゃ世話無いぜ」
「そうですね……」
 塊の軽口に耀司は笑い、次いで華子と目が合った。
 華子はすっと身を寄せ、「済まなかったね」と一言囁いて離れた。
 耀司もそれ以上華子に言及もせず、不問にした。
「で、多少後ろ暗い方面には明るい三人が集まった訳だが、何処から探る?
官憲から手を回してその辺の物差し押さえるってのも手だな。
まあ何なら、俺は暴れたっていいぜ?」
 塊の楽しげな言葉に紫月は眉を寄せた。
「できれば無用な争いは避けたいんですが……」
「それなら僕が一つ占ってみようか」
「占い?」
 華子が耀司の言葉尻を取って繰り返した。
 その声には艶やかな女の少女らしい一面が見え隠れしている。
「これでも陰陽道の真似事らしきものをしている身でね」
「軍狗は飼い主の顔色だけ占ってりゃ良いんじゃないのか?」
 耀司の手元にある八卦図を覗き込んだ塊が冷やかすように言った。
「僕が占いをするのは、世界の姿を識りたいからです……軍職とは関係ない」
 耀司の声にはまだ世界に飽いていない明るさがあった。
 世界が己の変化と共に移り変わるのなら、その時の流れさえ愛しく感じられるだろう。
 けれど華子の時は永遠に一所で留まり続け、全てのものは華子を置き去りにして遠ざかってゆく。
 ――そんな世界、どうだって良いじゃないか……。
「……世界を、ねぇ……」
 どこか倦み疲れたような華子の声が、ひっそりと響いた。
 

 占いに現われた八卦は『震』。
 北東の方角を現し、雷、龍などの属性を持つ。
 長い髪をかき上げた華子が、細い指を顎に当てながら言った。
「その方角なら、良いとこのボンクラ息子どもが出入りしてる演舞場があるって聞くねぇ。
奥でビリヤード賭博に親の金注ぎ込んでるらしいじゃないか」
 塊も華子に続いて頷く。
「ああ、そこなら俺もいつだったか聞いた。
仕切ってるやくざ者も結構大物で、軍とも繋がってるって話だ」
 ――怪しげな占いでも、まあ当たらずとも遠からじって所かい?
「そこか……」
 それまで黙って成り行きを見守っていた紫月が口を開いた。
「皆さんありがとうございます。その先は私、一人で大丈夫ですから」
 そう言ってトランクを抱えて出て行こうとする紫月を、塊が引き止めた。
「おいおい、何が大丈夫だよ……女一人で潜り込める場所じゃないんだぜ」
 紫月は肩を落としてうなだれてしまった。
 人工精霊を従えた紫月は無敵を誇るのかもしれないが、残念ながらその力の源は遠くにある。
「紫月くん、君は……他人の手を煩わせるのを酷く嫌う性質のようだね」
 耀司は紫月の肩を軽く叩いてみせた。
「乗りかかった船の切符は往復と決まっているよ」
 華子も言葉を繋ぐ。
 ――放って置けないなんて他人を思ったのは、いつぶりだったか……。
 曖昧な記憶の底に沈む感情は、どこか暖かかった。
「私もその船の切符を往復で買った口さ。気に掛かるじゃないか、ねぇ?」
 紫月は気丈な表情を崩して笑顔を見せた。
 塊の口利きで通された賭博場には、なるほどどこかの社交場からそのまま出てきたような、世間慣れしていない――否ある意味で俗世にまみれた『良家の子息』が集っていた。
 その日暮らしの失業者が溢れる表の世界とは偉い違いだった。
 ――それも帝都の形さ。
「どうだ、それらしいボールはあったか?」
 手分けしてそれらしい気配を四人は探っていたのだが、手ごたえのなさに落胆の色を隠せない。
「いえ、この部屋には無いようです……」
 ビリヤード台が数台並べられ、細い線の青年達が交互に玉を撞いている。
 それをいかにもな風体の男達が鋭い視線で見守っていた。
 場内を歩いていた華子が戻って言った。
「この奥にもう一部屋、特別室があるようだねぇ。
勝ち続けた者だけが呼ばれるって寸法さ」
「ふむ。どうやらそこが怪しいと見えるね」
 華子は紫月に向かって一つ提案を切り出した。
「ここは博打場。博打場なら博打場の流儀に従ってみちゃどうだい?
勝ち抜いていきゃあ、探し物にたどり着けるだろぅ?」
 ――伊達にキューの入ったトランク、提げてるんじゃないんだろう?
「……やってみます」
 紫月は手近な台に近寄ると、その場にいた男たちに話しかけ玉を撞き始めた。
 小気味良い音と共に玉が弾かれ、緑の台の上に美しい直線を交差させる。
「へぇ、結構慣れてるな」
 小柄な身体を台の上に乗り上げるようにしながらも、紫月は正確に順を追って玉を撞く。
 相手を挑発する事もせず、ただ淡々と、真剣に。
 一人、また一人と相手を負かす度に見物する者が増え、場内は静まり返っていった。
 最後の玉が台に吸い込まれた瞬間、シンとした場内に歓声と拍手が沸き起こった。
「やぁ姐さんやるねぇ!」
「君、すごいな!!」
 その歓声も、一言によって再び静寂に戻されてしまった。
 慇懃な口調の男が紫月を呼ぶ。
「……オーナーがお呼びです」
 紫月について奥の部屋へ三人は足を踏み入れた。
 この部屋にも一つビリヤード台が置かれ、その上にボールが転がされていた。
 どうやらこれが、紫月の探す物らしいのだが……。
 天井から龍の浮き彫りが見下ろす机の前に、この場を取り仕切っているらしい男が座っている。
 その男が大げさにため息をついて言った。
「素人さんが一人勝ち、というのは感心しませんな。
お一人で今日どれだけ勝ったか、わかってらっしゃいますか?」
 小声で紫月が隣に立つ塊に聞いた。
「……あの、どの位勝ったんですか?
大正の物価って私よくわからなくて……」
「はぁ? 貴様呑気すぎじゃねぇのか?
ざっと二千円は勝ってたぞ」
 ちなみに銀行の初任給が五十円、国会議員年間報酬が三千円の時代である。
 ぼそぼそと紫月と塊は話し込んでいる。
「ええと、それってすごい金額なんですか?」
「本気で言ってんのかよ……」
 男が咳払いをした。
「随分余裕ですな。金額など興味はありませんか」
 苛立ちを含んだ男の声にも、紫月は「はい」と素直に言葉を返している。
 ――ああ、何素直に返事してるんだい!
 紫月の後ろで華子ははらはらと気を揉んだ。
 それは耀司も同じようで、眉間に皺が寄っている。
 紫月は明るい声で言った。
「勝ち金は全てお返しします。
この部屋に揉め事無しで入りたかっただけですから。
その代わり、そこのボールを私に下さい」
「は? どういう、意味……?」
 怪訝な表情の男の目の前で、ビリヤード台の上に載せられたボールが空に浮いた。
「代わりにこれ置いていきますから」
 紫月はトランクからごろりとボールを台の上に転がし、キューを構えて言った。
「……ナインボール!!」
 紫月の呼びかけに答えて、ボールは彼女の周りを衛星のように回る。
 主の元へ集った精霊達は嬉しそうにさえ見えた。
「雷が苦手な人は目と耳、閉じていて下さいね!」
 紫月が両手に構えたキューを振り下ろすと同時に、烈しい雷鳴が部屋に響き渡った。


「こ、こんなに走らされたの久しぶりだよ……」
 降り出した粉雪の中、乱れる裾を直しながら華子が荒い息をついて言った。
「ごめんなさい……」
 謝る紫月に、
「怒っちゃいないさ」
と華子は笑った。
 雷鳴が引き起こした混乱に乗じて、華子たちはその場から逃げ出したのだ。
 追いすがる男達の一部は、華子が呼んだ魔の眷属で足止めさせて巻く事が出来た。
 そう、汗をかく程走ったのはいつぶりだろうか。
 幼い頃、家族と春の蓮華畑に行った事を華子は唐突に思い出す。
 草原を駆け回り、吸い込んだ空気は甘く肺を満たした……。
「俺も久々に暴れた気がするぜ」
 塊が背筋を後ろに反らして伸ばしながら言った。
 塊に殴られて賭博場の通路に倒れた男も少なくない。
 一方耀司は巧みに追っ手をかわして走りきったのだが。
「本当に皆さん、ありがとうございました。
ナインボールも戻ったし、これで……帰れそうな気がします」
 愛しそうにトランクの縁を撫でる紫月に華子が聞いた。
「帰るって、どこへだい?」
 紫月は少し考えて答える。
「私を探してる人の所です。きっと、ずっと探してるはずですから」
「そう……そんな人がいるのかい」
 ――この娘にも、そんな人が……帰る場所がちゃんとあるんだね。
 短い間だったが、華子は見知らぬ土地で彷徨う紫月の境遇に、自分を重ねて見ていたようだった。
 華子は紫月の輪郭が薄らいでいくのに気付いた。
 塊もそれに気付いたらしく、上ずった声を上げる。
「おい! 貴様透けて……!」
「え?」
 トランクを持った手を持ち上げ、紫月は「時間ですね」と言った。
 深く腰を折って頭を下げる紫月の姿は、顔が再び上がる前に消えてしまった。
 その場に残されたトランクと足の跡も、舞い散る粉雪が覆い隠してしまうだろう。
 風変わりな女など、最初からいなかったかのように。
「何処から来て、何処へ行ったんだろうな……」
 塊が呟いたその声も、華子の耳に届くとすぐ消えてしまった。


(終)

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【 2991 / 大徳寺・華子/ 女性 / 111歳 / 忌唄の唄い手 】
【 4487 / 瀬崎・耀司 / 男性 / 38歳 / 考古学者 】
【 5462 / 神島・塊 / 男性 / 132歳 / 半妖 】

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■         ライター通信          ■
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大徳寺華子様
ご参加ありがとうございます。
大正時代が舞台という事で、現在の華子様よりも過去に遡ったお話になりました。
全てに倦み疲れた頃から、少しずつ変わってゆく未来の予感を含ませたかったのですがどうでしょうか。
少しでも面白いと思ってもらえると嬉しいです。
御注文ありがとうございました!