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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


悲しみの咆哮



 出社した桂を出迎えたのは三下の悲鳴だった。
 「どうしたんですか」
 事態を大体予測しつつも桂は儀礼的にそう尋ねる。くしゃくしゃのワイシャツにくまの張り付いた目でおろおろとオフィス内を行き来していた三下は桂に縋るようにして飛びついた。
 「どどどどうしよう桂くん。編集長に怒られる〜!」
 「締め切り前夜に徹夜で作業しようと会社に泊まったのはいいものの、結局寝てしまって原稿は上がらず・・・・・・ってところですか」
 「あれ、どうして知ってるの?」
 「分かりますよ。いつものことでしょ」
 言いつつ桂は三下のパソコンを見るともなしに眺める。どうせ未完成の原稿であろうと大した興味も持たずに。
 が、いつしか桂はモニターに見入り、マウスを手にとって画面をスクロールさせていた。
 「ああ〜どうしよう〜! 怒られる〜! 殺される〜!」
 「なんだ、ちゃんとできてるじゃないですか」
 「へ?」
 桂の声に三下はぐすっと鼻をすすり上げて振り返った。
 「バイトのボクが言うのも生意気ですけれど、なかなか面白いじゃないですかこれ。このまま編集長に見せたらどうです? きっと採用されますよ」
 言われてパソコンをのぞきこむ三下は眼鏡の奥の目を激しく瞬かせた。確かにそこには完成原稿が表示されているではないか。昨夜半分も書かずに眠ってしまったはずなのに・・・・・・。
 「え〜どうして〜?」
 「新たな能力に目覚めたんじゃないですか。眠ってる間にもうひとりの自分が覚醒して素晴らしい原稿を書き上げたとか。もしくは夢遊病ですかね」
 桂は乾いた笑いを浮かべた。



 不気味ではあったが、怒られる――程度で済めばいいが――よりはましである。三下は自分のパソコンに入っていた誰が書いたか分からない原稿を恐る恐る碇麗香編集長に差し出したのであった。
 すると碇女王は即採用の決を出し、その原稿はそのままアトラスに掲載された。そればかりかその記事は読者の反響を呼び、上・中・下の三回続きのシリーズとして特集を組むことになったのである。
 慌てたのは三下であった。元々自分が取材を担当していた事件なのだから続きを書くことは不可能ではない。しかし碇のお気に召すようなクオリティのものを書けるかどうかは別問題である。おろおろしながら過ごす日々が続き、疲労とプレッシャーと気疲れとで三下はまた締め切り前夜にダウンしてしまった。未完成の原稿を抱えたままで。
 しかしまたしても同じことが起こった。三下が目を覚ますと、記事の続きがきちんと書かれていたのである。三下の書いた部分に手を加えて別人のようなクオリティで仕上がった文面が。
 「本当にみのした君が書いたの?」
 シリーズ第二回の原稿に目を通しながら、碇は珍しく三下を本名で呼んでそう言った。「別人が書いたみたいね。三下君とは思えないわ」
 三下は引きつり笑いを浮かべるしかなかった。碇の言うとおり、この記事は三下が書いたものではないのだから。
 「――でね、これがその記事なんですよ」
 そして今、三下は二回目「中」として掲載された記事を示しながら訪問者に懸命に訴える。
 「六十年前の都築村(つづきむら)惨殺事件です。僕が生まれるずうっと前のことなので詳しいことは知らないんですけど、猟奇大量殺人事件として当時は相当騒がれたんですって。都内の都築村という村で、村人三十人全員が殺されたと・・・・・・」
 話しながら三下はぶるっと震え上がる。
 「全員が猛獣の牙や爪で引き裂かれたような傷を負って死んでいたそうなんです。大型の野犬やイノシシの仕業かと騒がれたんですけど、そんな動物では説明のつかない大きさの傷で、傷口から検出された獣毛も何の動物のものか特定できずじまいで・・・・・・あ、人間のものではないことは確からしいですけど」
 訪問者は三下の説明を聞きながら前月号と今月号のアトラスに目を通す。一回目「上」は事件の概要とそれに対する推理から始まり、二回目「中」は証拠をつまびらかに列挙してその推理を補強し、最後は事件の真相をにおわせるような記述で終わっている。この展開で続くならば「下」では事件の謎解きがなされるのであろう。
 「都築村があった場所は今は八代市(やつしろし)になってます。ほら、心霊ドキュメントなんかで必ず登場するあそこですよ、廃墟になった研究所が村を見下ろすように建ってる山の中のあの場所。いろんな心霊現象が起こるって・・・・・・。色々ね、いわくつきの場所なんですよ。夜中に獣の足音や遠吠えが聞こえたり、子供の泣き声がしたり。僕も取材のために一応あそこに行って来たんですよ。だ、だからそのときに幽霊を連れて帰って来てしまったんじゃないかって思うんですよぉ。きっと幽霊が僕の代わりに原稿を書いてるんですよぉ!」
 三下はぐすんと鼻をすすり上げて訪問者に縋るような目を向ける。
 「このまんまじゃ怖くて眠れませんよぉ〜! 何とかしてくださいよぉ〜!」



 冬の日光は柔らかく、静かだ。書棚に囲まれた薄暗い書斎で栄次郎(えいじろう)は揺り椅子に体を預けて静かに目を閉じる。断熱ガラスの下に広がる庭園は寒々として、緑の息吹は感じられない。もっとも、手入れをする者もない庭だ。春になったところで雑草が伸び放題になるだけであることに思い至って栄次郎は小さく苦笑する。
 「栄次郎さま」
 というしわがれた声に栄次郎は目を開く。色白の、ひょろ長い白髪の紳士がいつもの黒スーツに身を包んでいつの間にか部屋にたたずんでいた。
 「例の記事の続編です」
 「ああ。ありがと、古川(ふるかわ)」
 栄次郎はけだるそうに体を起こして『月刊アトラス』の最新号を受け取った。“例の記事”のページには古川の手によって付箋が付されている。他の記事には興味はない。“例の記事”だけを開いて読み進めていく。
 やがて一通り読み終わると、栄次郎は「読むか」とでもいうように古川にとひょいと雑誌を差し出した。しかし古川は首を横に振り、やや顔を歪める。
 「旦那様を苦しめた事件など見聞きしたくもありません」
 「だな」
 俺も知りたくないよ、と栄次郎は呟いてアトラスをサイドテーブルに置いた。
 「ずいぶん詳しく書いてあるもんだ。俺ですらここまでのことは知らないのに」
 「同感です」
 「おまえも知らないのか、ここに書いてあること」
 栄次郎はやや意外そうに首を持ち上げ、長年父に仕えた執事である古川を見た。「それなら、この記事を書いた人はどうやってこの情報を手に入れたんだ?」
 「知りませんし、興味もありません」
 そっけなく言って古川は暗い目を栄次郎に向けた。
 「私が憂えるのはただひとつ。この記事によって旦那様の過去が明るみに出て、旦那様や栄次郎さまが世間の好奇と非難の目に晒されることだけです。刑事的には時効といえども、道義的には・・・・・・」
 「だな」
 栄次郎は物憂げに頬杖をついて書棚の上の壁に目をやった。棚の上に立てかけられた写真の中で、父はくたびれきった表情で微笑んでいた。



 三下は怯えた表情でちらちらと彼女を盗み見ていた。金色の髪の毛に金色の瞳で優しく微笑む彼女。青を基調とした服には各所にリボンやフリルがあしらわれ、少女という風情を感じさせなくもない。しかし、この落ち着いた物腰と礼儀正しい喋り方はどうか。外見には不似合いな彼女の淡い雰囲気は、容貌に不相応に歳を重ねた人外のものではなかろうかという推測さえできてしまう。
 ラッテ・リ・ソッチラは三下の視線など気にも留めずに取材の資料を読みふける。悠久ともいえる時を生きてきた彼女にとって二十三歳の三下など赤子同然、興味はない。三下の視線には好奇というよりも怯えを感じるが、自分の正体を考えれば仕方ないのかも知れなかった。
 ラッテ・リ・ソッチラ。イタリア語だ。偶然にも、彼女と同じ名前のLATTE DI SUOCERAというアルコールが存在する。天然薬草と野菜の苦味に不思議な甘さが加わる強烈な味、75という高いアルコール度数、そして「継母の乳房」という妖艶な名前とボトルのラベルに描かれたドクロのマークがなんとも個性的な一品である。もちろんこの酒よりもラッテのほうがずっとずっと先に生まれたわけだが、“幻のリキュール”ともいわれるLATTE DI SUOCERAが、無数のボトルを揃えたバーを持つ彼女と同じ名前を選んだことは何かの必然ではないかという勘繰りすら働いてしまう。
 「三下さん」
 「は、はひっ」
 透き通った、それでいてふわふわとつかみどころのないラッテの声に三下は慌てて姿勢を正す。
 「そもそも、今回はどうしてこの事件をとりあげることになったんですの? 三下さんご自身のご発案なのですか?」
 「いいえ。編集長が夢を見たそうです。都築村の事件について調べろ、と誰かに言われたとかで」
 「そうなのですか」
 何者かに夢を操られてこの事件を調べるように仕向けられたという見方もできなくはない。「この事件・・・・・・例えば、津山三十人殺しを模倣した劇場型犯罪を連想しますわ。あるいは八つ墓村。フィクションを現実にするという妄想の現われとも・・・・・・」
 ラッテは資料を手にしたまま考え込むようにその場を何度か行き来する。普通の人間と変わりなくごく普通に歩いているはずなのに、三下の目には彼女がふわりふわりと宙に浮いているようにすら見えていた。
 「人間の仕業とは考えられませんの? 獣は人間を殺すというより食べるはず。死体が食されたという記述はここにはありません。人間が殺して、獣の犯行と擬装するために何らかの道具を使って傷を・・・・・・」
 「さ、さあ、どうでしょう」
 三下は首をかしげた。「それなら警察が気付くと思います。殺した後につけた傷なら分かるはずです、生活反応っていうんでしょ。人間の仕業ならそうとして記録が残っているはずじゃ・・・・・・」
 ラッテは浅く肯きつつもこの選択肢を保留しておいた。人間の犯行と知れたら都合が悪いから獣の仕業に見せかけたという仮説も成り立つ。
 人間の仕業だとしたら組織がらみだろうか。怪しいのは研究所。都築村は研究所を基点に形成された村だという。資料をめくるが、研究内容に関しては“公然にはできない”とあるだけである。具体的に何をしていたかまでは分からない。山の中にひっそりと建てられた研究所であればさもあろう。研究所は他施設と連携していた様子もなく、独立の機関として研究を進めていたようだ。メンバーとして集められたのは戦前から医学者や科学者として活動していた者たちで、研究所は戦後間もなく外国の援助のもとに建てられたとのことだった。この点も不自然といえば不自然だ。終戦直後、他国に援助ができるほどの国力を残していた国は限られる。せいぜい連合国軍に属していた国くらいであろう。
 犯行が人間の仕業としても疑問は残る。獣毛だ。死体から検出された獣毛は何の獣のものか判明しなかったという。村人を殺して回ったのが人間で、死体の傷や毛が犯人による擬装であったとしたら、正体不明の獣の毛を使う必要がどこにあるというのか。仮にこの獣毛が犯人が用意したものであったにせよ、犯人はどこからその毛を手に入れてきたのかという新たな疑問が発生してしまう。
 (とするなら・・・・・・)
 ラッテは小さく息をついて考え込む。やはり鍵は研究所か。資料によれば研究所の職員も村人同様に殺され、研究所からは同様の獣毛が無数に発見されたのだという。研究所で獣に関する研究をしていたということの現われなのか・・・・・・。
 ――まだ分からない。手がかりが少なすぎる。推理をするのはもう少し情報を得てからでも遅くはない。そう判断したラッテは質問の主旨を変えた。
 「三下さん。パソコンがハッキングされた形跡はありませんの? ハッキングされて原稿が書かれたとも考えられますわ」
 「それは真っ先に調べました」
 三下は激しく首を横に振る。「ハッキングされた形跡はありませんでしたよ。うちはこういう仕事をしてるでしょ、そういうところには人一倍気を遣ってるんです。ハッキングされて情報が漏れるなんてメディアにあるまじきことですっ」
 「ええ。締切前に二回連続で眠ってしまうのも編集者にあるまじきことですわね」
 「す、すみません」
 ラッテの的確な突っ込みに三下は縮こまってしまう。それから言い訳をするかのように眼を上げた。
 「不思議なんです。一回目はともかく、二回目は気をつけていたんですよぉ。でもどうしても瞼が重くなって、いつの間にか・・・・・・」
 ラッテは相槌を打って目を細めた。それならば何か人外のものが三下を眠らせて原稿を書いたとも考えられる。
 誰が原稿を書いているのだろうか。この記事は資料からは考えられないほど詳細だ。つまり資料にも載っていないような情報を知っている人物――事件の関係者か、それに近しい者が書いたと考えられる。村人、研究所職員、あるいは加害者本人や被害者本人。そんなところだろうか。
 原稿を書いている理由はどこにあるのだろう。意図的な操作、舞台演出とも呼ぶべきものなのか。この記事を読んだ誰かが事件を解決してくれるように誘導しているのか――あるいは、記事に興味を持って八代市の都築村跡地に人々を誘い込み、惨劇の第二幕とでもする気なのか。疑問は新たな疑問を生み、ラッテの思考は煮詰まっていく。
 「情報がないと・・・・・・」
 ラッテはそう呟いて三下に視線を送る。三下は電流にでも触れたかのようにしゃっちょこばって椅子の上に正座した。
 「三下さん。パソコンを貸してくださる? インターネットというものを使ってみたいのですけれど」
 ラッテは音もなく微笑んで言った。



 ネットに接続し、オカルト系の情報サイトを検索。ヒットしたのは関東一の規模を誇るオカルト系情報サイト・ゴーストネットOFFだった。
 ゴーストネットOFFの掲示板にはすでに都築村の事件に関するスレッドが出来ていて、結構な賑わいを見せている。ネタがネタであるし、ネットでの書き込みなので全面的に信頼するわけにもいかないだろうが、むかし都築村があった八代市の山間には男の子と女性の幽霊が出ること、男の子と女性の悲しげな泣き声や歌声が聞こえること、それに大きな獣の遠吠えやそれっぽい姿が目撃されたことは大体共通している。ただ、八代市に行って危険な目に遭ったり、帰って来られなくなったりした人はいないようだ。
 「獣は関係ありそうだけど・・・・・・男の子や女性、歌声というのは何なのでしょうね」
 いっそ現地に行って調べてみればいいのかも知れない。都築村跡地の自然生態も気になるところだ。例の研究所での研究対象がもしかしたらまだ生きているかも知れないという推測もある。同様に推測の域を出ないが、その研究対象が事件を起こした張本人であるという可能性もなくはない。興奮あるいは錯乱状態に陥って発作的に殺戮を行ったのか、それとも計画的かつ冷静なものだったのか、犯行の目的は何か、複数での実行かそれとも単独か・・・・・・。疑問は山ほどある。現地に赴き、せめてその場に留まっている事件の残滓でも感じ取ることができれば手がかりになるかも知れない。
 ラッテはさらにネットで情報を検索した後で都築村へと赴いた。ネットには都築村に関する情報がいくつか出ていたが、今回の記事以上に詳しいものはなく、手がかりと呼べるほど明確な手がかりは得られなかった。
 しかしひとつ奇妙なことがある。戦後の混乱があったとはいえ、村人三十人が惨殺されたというセンセーショナルな事件だ。マスコミ各社がすでに一通り特集を組んでいる。なのに、なぜ六十年目の今頃になって三下の代わりに原稿を書くなどという真似をするのだろうか。六十年という節目の年だから? それならば十年目や三十年目、五十年目でも構わない理屈である。
 都築村に向かう途中でラッテは二人組を目にした。一人は二十代後半の長身の女性。黒髪に切れ長の青い瞳という容貌は異国の風情を感じさせる。凛々しく整った顔立ちには「中性的」という形容がよく似合っていた。
 もう一人は学ランに身を包んだ少年。高校生くらいだろうか。黒髪に小柄な体躯といういでたちはこれといって特異な要素を感じさせない。しかし日本人にはない銀色の虹彩が彼を神秘的に見せていた。退魔系の能力を持った少年であることを瞬時に見抜いた後で、ラッテは三下から聞いていたシュライン・エマと梧・北斗(あおぎり・ほくと)の名を思い出す。ラッテと一緒に今回の調査に加わることになっているメンバーだ。
 会話から察するに、彼らは当時事件に関係した人間の所在を得て聞き込みにやってきたようだ。ちょうどいい。人間のお手並み拝見といこう。ラッテは自らの姿を“隠蔽”して二人の後について歩き、ついでにシュラインが手にしている資料を盗み見た。そこには久留巳・栄次郎(くるみ・えいじろう)と古川・仙一(ふるかわ・せんいち)という名が手書きで記されている。さらに資料を見ると、研究員の中に久留巳・倫太郎(くるみ・りんたろう)という名前があった。久留巳。そうそう見かける姓ではない。縁戚だろうか。
 やがて二人は一人目の関係者の自宅に辿りつき、聞き込みを開始した。
 まず、当時都築村の近隣に住んでいて、食料や日用品の行商で村に出入りしていたという男性の証言。
 「出入りしてた商い人は少なかったですよ。外部との接触を最小限に抑えている感じでしたね。そういえば・・・・・・あなた方、久留巳さんと古川さんというかたをご存知ですか? 久留巳さんと古川さんがあなた方と同じ用件で私の所に話を聞きにきたんですが」
 すでに亡くなった事件担当記者に代わって応じた彼の娘の証言。
 「ひどかったそうよ。ボロ雑巾みたいに引き裂かれた死体がごろごろ転がってたって。でも、あの村なら考えられなくもないって父が言ってた。どうも研究所で怪しげな動物を作る実験をしていたらしいとか・・・・・・具体的には分からなかったそうだけど」
 当時捜査を担当した元刑事は悔しそうにこう証言した。
 「解決の一歩手前まで行ったんだよ。ところが上のほうから捜査本部を解散するようにと言われてね。確証はないが、いろんな状況から察するにGHQから圧力がかかったんじゃないかって仲間内で噂していたんだ。絶対あの研究所に何かある」
 聞き込みで得られた情報はこんなところだった。
 GHQ。思いがけない名が出て来たものだ。GHQといえば当時の日本の実質的な支配者。そのGHQが圧力をかけて捜査をやめさせたということは、国家レベルの秘密が絡んだ事件なのだろうか。元刑事の証言からすれば事件と研究内容は大いに関わっているらしい。つまり研究内容にもGHQが関係していることになるのだろうか・・・・・・。
 ラッテは二人を置いて一足先に都築村跡地へと向かう。胸の下まで届きそうなほど伸びた枯れ草に、無残にも崩れ落ちた家々の廃墟。生い茂った雑木が空を隠して昼間でも薄暗い。かつて村だった場所は山間に不自然に開いた台地にできており、傾きかけた日が濃い影を落としこんでいる。村の背面からはなだらかに傾斜した道が伸びていた。その先に無言で佇むのが例の研究所であろう。
 さわさわ、と北風が枯れ草を撫でる音以外は静かなものだ。ちらりと廃墟に目をやると、所々不自然に黒いしみのようなものができているのが見受けられる。血痕だろうか。六十年前の血痕がこんなに鮮やかに残っているものかと思おうとしても不気味さは禁じ得ない。ラッテは慎重に辺りの気配を探った。やはりこの場所には“何か”がいる。しかしそれは実体を伴う存在ではないようだ。
 緩い斜面をのぼって研究所へと向かう。弱々しい太陽の光を背に受けて、その重厚な建物は黒々とした威圧感をもってラッテに迫る。崩れてはいるが、かつてはさぞかし瀟洒なレンガ造りであっただろう。横長で平べったい三つの直方体がコの字型に並んでいるさまは大きな病院を連想させなくもない。この研究所は戦後間もなくに建ったものだというが、戦後の貧困と混乱の時代にこれほど立派な施設を造り、維持することができたのだろうか。
 ラッテは気配と音を感じてふと目を上げた。ひゅうひゅうと、かすかに聞こえるこの声は風だろうか。



 ちっちゃなちっちゃなぼうやはね、ある日大人に手を引かれ
 ちっちゃなちっちゃなぼうやはね、ちゃぷちゃぷお風呂に入れられて
 真っ黒けっけのぼうやはね、ごはんを食べてすくすく育って
 


 わらべ歌だろうか。子供、恐らく男の子の声と思われる。その声に応えるかのように別の角度から別の歌声が聞こえた。



 ちっちゃなちっちゃな母さんは、ぼうやがいなくて寂しくて
 ちっちゃなちっちゃな母さんは、ぼうやに早く会いたくて
 真っ赤っ赤になる母さんは、ぼうやの所に着く前に

  

 こちらは大人の女性の声だ。子供の声よりさらに脆く、弱く、そして悲しく、わらべ歌の節を歌い上げる。女性に呼びかけるかのように子供の歌声が響く。女性がそれに応えて歌う。そのやり取りがしばらく続いた。



 わんわんわん、ぼうやはわんわん泣いたとさ
 わんわんわん、母さんわんわん泣いたとさ・・・・・・



 やがて両者の声はひとつになってそのフレーズを歌い始めた。歌声。女性。男の子。これでゴーストネットOFFで得た情報がひとつにつながった。しかし歌詞の内容はどうだろう。お風呂に入ったり、ごはんを食べてすくすく育つことがそれほど悪いこととは思えないが・・・・・・。
 「“ちっちゃなちっちゃなぼうやはね、ある日大人に手を引かれ”・・・・・・」
 旋律が妙に耳に馴染んだのか、ラッテは透明な声でわらべ歌を歌い始めた。服の裾が風をはらんで柔らかく広がる。くるくると。ふわふわと。歌いながらその場で舞うラッテの姿と透き通った声はやはりどこか現実離れしていて、地面と接しているはずの足ですらもわずかに浮き上がっているように見えるのだった。
 やがて視線を感じてラッテは動きを止める。追いついてきたシュラインと北斗がやや不気味そうにこちらを見ていた。おおかたわらべ歌を歌う幽霊にでも見えたのだろう。ラッテは音もなく微笑んで自己紹介した。
 「研究対象である獣がまだ生きているのではないかと踏んでここに来たのですが」
 事情を説明した後でラッテは小さく苦笑した。「残念ながらそうではなかったようです。ただ、存在は感じますわ。霊体になってとどまっているのでしょう」
 「霊体っていっても別に害はねえんだろ。変な声や歌声が聞こえるってだけで、何かの被害に遭ったなんていう噂は聞かないぜ」
 北斗は腰に手を当ててぐるりと辺りを見回した。「別に祓う必要も――」
 言いかけて北斗は「う」と呻き声を上げた。頭を抱えて膝を折った北斗の顔は青く、手といわず顔といわず首筋といわず無数の鳥肌が浮き出ている。
 「何かいるの?」
 と小声で問うシュラインに北斗は何度も首を縦に動かした。
 「来たようですわね」
 ラッテは静かに言って顔を上げた。
 ざわざわ、と木枯らしが枯れ木を鳴らす。北斗は懸命に体をさすって熱を生み出そうとしている。静かだ。しかしどこか気持ちがざわめく。何かが、起こる。
 三人の視線の先で、かさり、と枯葉が鳴った。地面に積もった枯葉がかさかさと音を立てて動いている。やがてそれらは螺旋状に浮き上がり、つむじ風にでもあおられるかのように回り始めた。くるくると。ひらひらと。枯葉は徐々に数を増してその場に壁を作る。
 ひゅう、と音がした。風だろうか。いや、違う。これは人の声。泣き声だ。細く、脆弱で、今にも消えてしまいそうなほどかすかな声。
 くるくると。ひらひらと。舞い続ける枯葉は勢いを増し、やがて竜巻のように天にのぼり、音もなくはじけた。
 枯葉の後に現れたのは小さな男の子だった。真っ黒い体をして、ぼろぼろの半ズボン一枚で立ち尽くす男の子だった。



 ――ちっちゃなちっちゃなぼうやはね、ある日大人に手を引かれ・・・・・・



 しくしくと泣きながら男の子は歌う。この子がわらべ歌の主なのだろうか。
 「大丈夫・・・・・・泣かないで」
 ラッテがそっと男の子に歩み寄る。ゆらゆらと陽炎のように揺れる男の子は顔を上げてラッテを見た。
 「君がこの歌を歌っているの?」
 シュラインが男の子の視線に合わせてしゃがみこんで尋ねた。男の子はこくんと肯いた。
 ――会いたいの。
 と男の子は言った。
 「誰に?」
 ――おかあさん・・・・・・。
 男の子はまた泣き出してしまう。ラッテは男の子の体を見やって小さく息を呑んだ。
 男の子の体は真っ黒だった。顔といわず手といわず足といわず、真っ黒な短い毛にびっしりと覆われていたのだ。
 “毛深い”という程度のものではない。明らかに普通の人間とは違う。これではまるで――獣だ。
 「まさか・・・・・・これが研究の内容なのか?」
 北斗が震えた声で呟く。シュラインは無言で唇を噛んだ。人工の獣、あるいはキメラの類。村人を材料にした研究。内心で考えてはいたものの、突飛であると斥けたその可能性がにわかに現実味を帯び始める。
 「その子を渡してもらえないか」
 そのとき、背後から静かな男の声がかかった。



 三人は弾かれたように振り返った。
 そこに立っていたのは三十前後の精悍な顔立ちをした男性と、黒いスーツに身を包んだ白髪の男性だった。彼らの背後には数人の男女が控えている。
 「久留巳・栄次郎さんと古川・仙一さんですね?」
 シュラインが咄嗟に察して問う。若いほうの男は小さく目を見開いた。
 「知ってるのか。大したもんだ、さすが興信所調査員。いや、正確には事務員だったか、シュライン・エマさん」
 「俺たちのことも調査済みってわけか」
 北斗が立ち上がって身構える。栄次郎と古川の背後に並ぶ男女が退魔師や能力者であることを北斗は同業者の直感で見抜いていた。
 「無関係な人を傷つけたくはありません」
 白髪の紳士は穏やかに口を開くが、目には厳しい光が燃えている。「さあ、早く」
 「少々不躾なのではありませんか」
 ラッテが静かに口を挟んだ。「これは私たちが調べている事件。あなたがたも同じ事件を調べているようですけれど、それならそれで事情を説明するのが礼儀ではありませんの?」
 「その質問こそ不躾だ。誰にだって人には知られたくないことくらいある」
 栄次郎は背後の数人に目配せした。退魔師の男女が男の子を取り囲む。男の子は明らかに怯えの色を浮かべた。能力者たちは両腕を突き出して一斉に同じ印を組み、口の中で何かぶつぶつと唱え始める。男の子は頭を抱え、悲鳴を上げて地面を転げ回った。
 「駄目だ」
 北斗がはっとして顔を上げた。「やめろ!」
 錯乱して我を失った男の子の悲鳴はやがて低い獣の唸り声に変わる。ラッテは信じられない光景を目にした。男の子の体が陽炎のようにゆらゆらと揺れ、ギシギシと音を立てて軋んでいる。体表を覆う黒い毛が爆発的に成長し、小さな体は揺らめきながら徐々に巨大な狼の姿へと変貌を遂げた。
 いや、正確には狼ではない。異形の獣。そんな形容がよく似合う。鋭い犬歯に爪、そして猪のような鼻。頭に小さく突き出ているのは角だろうか。複数の動物を組み合わせたかのような容貌である。まさかこの狼が都築村の事件の犯人だというのか――?
 「何をしている、早く抑えろ!」
 栄次郎が動揺した声で配下に命ずる。
 「待ってください」
 たまらずにシュラインが口を開く。「どうしてですか? この狼を・・・・・・あの子をどうするつもりなんです?」
 「消すのさ」
 栄次郎は激しい舌打ちとともに答えた。「この獣がいなくなればここが心霊スポットとして注目を浴びることもなくなる。そうすればやがては都築村の事件だって忘れ去られる!」
 「あなた、研究員の久留巳・倫太郎さんの親族なんですね?」
 シュラインのハッタリに栄次郎は明らかな動揺の色を浮かべた。
 「それがどうしたというのです。さあ、どけてください」
 古川が進み出てシュラインの腕をひねり上げる。シュラインの整った顔が苦痛に歪むのがラッテにも見てとれた。
 「もはや一刻の猶予もならない」
 古川は狼を顎でしゃくった。「このままでは我々がやられてしまいます」
 退魔師たちの術の影響で錯乱した狼の周りにいくつもの黒い影が吸い寄せられている。やがてそれらは獰猛な猪や獅子の姿に変わり、猪を守るように両脇を固める。研究で犠牲になった獣たちの霊を呼び寄せているのだろうか。ぎらぎらと光る金色の眼に燃えるのは憎悪と敵意――そして、懇願と悲哀。ラッテは敏感にそれを読み取っていた。
 不意にシュラインの腕を掴んだ古川の目が大きく見開かれた。そのままうっと呻いて膝を折る。その隙にシュラインは逃げ出すことができた。北斗が古川に全体重を乗せたタックルを食らわせたのだ。
 「駄目だ」
 シュラインを背後にかばいながら北斗が懸命に首を横に振る。「消すなんて駄目だ! 消す必要なんてねえよ! あの子はお母さんに会いたいだけなんだ、そのためにここにとどまってるだけなんだ! 人間に害を及ぼしてるわけでもねえのに――」
 「村人全員を殺害したのはその子だぞ!」
 栄次郎が北斗に負けぬ迫力で叫ぶ。北斗は思わずびくっと身を震わせた。
 「そいつが事件の犯人だ。そいつさえいなくなればこの研究はうやむやなまま済まされる。アトラスの発行をつぶせれば手っ取り早いが、そんな荒っぽい真似をすれば後から必ず勘繰られる。しかし、アトラスが発行されてもこいつがいなくなれば心霊現象なんて起きない! そうすればこの村は忘れられ、研究所が人目に触れることもなくなる!」
 「どうしてそんなに隠したがるのですか」
 ラッテが静かな怒りの目を栄次郎に向けた。「知れてはまずいことなのですね?」
 「悪いか! 貴様らに何が分かる! 父さんが受けた苦しみは――」
 「なるほど。研究員の久留巳・倫太郎さんはあなたのお父上なのですか」
 冷静なラッテの言葉に栄次郎の目が大きく揺れる。
 「それはおかしいわ」
 シュラインが疑問の声を上げた。「あの事件で研究員や村人は全員殺されたはず。仮に養子か何かだったとしても、六十年前に死んだ人の息子がこんなに若いわけが――」
 言いかけてシュラインははっとする。
 「生きていたのですね? 久留巳倫太郎さんは実は生き延びていたのではないのですか?」
 「だとしたらどうした! いいから早くどけ、貴様らもただでは済まんぞ!」
 ヒステリックな栄次郎の叫び声と充血した目はシュラインの推理が正しいことを如実に物語っていた。
 「駄目だ。消したりなんてさせねえ!」
 北斗は両手を広げて狼の前に立ちはだかった。
 「あんな小さい子が三十人も殺したりできるもんか。きっと変な研究材料にされておかしくなっちまったんだ! この子は犠牲者なんだよ! この子を実験台に使った奴が悪いんじゃねえか!」
 「黙れガキ! 父さんだって好きであんな研究をしていたわけじゃない!」
 叫ぶ栄次郎の目に涙が光っていることに気付いてシュラインははっとした。
 「逆らうなら力ずくでも渡してもらう!」
 栄次郎の配下が一斉に狼に飛び掛る。解決にはならないが、時間稼ぎにはなる――そう判断したラッテが狼に対して“隠蔽”の能力を発動しようとした時、北斗の胸の辺りで炎のような激しい光が炸裂した。結界符・火月(かづき)だ。北斗が素早く印を切って札を狼の頭上に掲げるのと、術師たちが何か見えない電流にでも触れたかのように弾き飛ばされたのはほぼ同時だった。
 「結界・・・・・・なるほど、考えたものですね」
 狼を囲むように出現した結界を見てラッテは感心したように呟いた。北斗はふうっと息をついて体の力を抜いた。一か八かの賭けだった。退魔用の火月がこの狼を護るために発動するかどうかは疑問だったが、元は北斗の深層意識や想いの欠片を繋ぎ合わせて物質化された結界符である。「この子を護りたい」という北斗の思いが結界を有効たらしめたのだろう。
 「この結界を解くことができるのは北斗くんだけ――」
 シュラインは栄次郎たちに厳しい目を向ける。「結界が解かれなければあなたたちの目的は達せられない。そして、あなたたちがこの子に手出ししようとする限り北斗くんは結界を解かないでしょうね」
 栄次郎が激しく舌打ちする。
 「今のままこの子を祓ったところで、また同じようなことになりますわ」
 ラッテは静かに言った。「この子は母親に会いたがっているんですもの。この世に強い未練を残したものを完全に祓うのは至難の業。あなたがたにそれほどの力がありまして?」
 「それならどうすればいい」
 栄次郎はぎりっと歯を鳴らしてラッテを睨めつける。「貴様らなら完全に消せるというのか?」
 「お母さんと会わせる」
 北斗はまっすぐに栄次郎を見詰めた。「消すんじゃねえ。助けるんだ」
 「なるほど」
 やってみるがいいさ、と栄次郎は皮肉っぽい笑みを浮かべて空を仰いだ。いつしか太陽は地平線に近付き、研究所に赤い光と濃い影を投げかけている。
 「提案を呑もう。この術者たちには手出しさせないと約束する」
 「栄次郎さま!」
 「構わん。こいつが消えてくれればそれでいい。そしてこいつらが言うには俺たちではこいつは消せないようだ」
 栄次郎は古川を制して三人に顔を向けた。「本当にこいつを何とかできるか?」
 三人は栄次郎を見据えたまま同時に肯いた。



 「私はアトラス編集部に戻りますわ。血なまぐさいことは嫌いですので・・・・・・」
 ラッテは栄次郎たちにも聞こえるようにそう言い、その後でシュラインと北斗に囁いた。
 「三下さんに聞いたところでは、次号の締切は明朝。記事を書いている人が何らかの動きを見せるかも知れません。恐らく、記事を書いているのはあの子ではありませんわ。どんな方法をとったにしろ子供があんな緻密な文章を書けるとは思えませんもの」
 「お願いするわ」
 私はここに残る、と言ってシュラインは栄次郎たちに目をやった。栄次郎ご一行は研究所から少し離れた場所に車座になって焚き火で暖をとっている。
 「何か分かったことがあったらお互い連絡を取り合いましょう。解決し次第私たちもそっちに戻るわ」
 シュラインは自分の携帯の番号をメモ用紙に書き付けてラッテに差し出した。ラッテは紙片を受け取り、小さく微笑んでから文字通りふうっと姿を消した。



 終業時間はとうに過ぎ、アトラス編集部に残るのは三下だけ。記事の主に警戒心を与えぬようにとラッテは自らの姿を隠して三下の隣に控えている。
 三下はパソコンにしがみつくようにして懸命に文字を打ち込んでいる。ラッテは静かにそのさまを見守っていた。やはり一連の記事は三下が書いたものではない。現在目の前で彼が懸命に搾り出している文面はあのクオリティには程遠い。
 切りのいいところまで来たのだろう。三下は水泳選手が息継ぎでもするかのようにぷはっと口を開けた。眼鏡の下に指を入れてごにょごにょと目をこする。眠そうだ。またこのまま眠りに落ちてしまうのだろうか。しかし三下は三度も同じ轍は踏まぬとばかりに唇を真一文字に結んで再び作業に取り掛かった。同じ失敗を二度繰り返しているだけに、警戒と決意は並々ならぬものが見てとれる。
 が、二度あることは三度ある、である。
 勢い込んでキーを叩く三下の指の動きは徐々にスローになり、やがて動きが止まる。そして、三下の首はそのままがくんと落ちた。
 ラッテは反射的に身構えた。明らかに不自然だ。やはり誰かが三下を眠らせている。と思う間もなく編集部の明かりが消えた。この部屋にいるのはラッテと三下だけ。二人ともスイッチには触れていないのに。何かが、現れる。そんな予感がした。
 カタカタカタカタ。
 カタカタカタカタ。
 静寂と闇で満たされた空間に乾いたキーボード音が響く。三下のパソコンのキーボードが動いていた。それに連動してディスプレイに文章が紡ぎ出される。それは「上」「中」の記事に続く「下」だった。
 カタカタカタカタ。
 カタカタカタカタ。
 キーボードの音は滑らかに、間断なく一定のリズムを刻む。やがてパソコンの前にぼんやりとした明かりが現れた。それは徐々に人の形を成し、痩せた老紳士への姿へと変わった。ラッテは彼が死者であることを直感した。
 「ずいぶんタイピングがお上手でいらっしゃるんですのね」
 ラッテは静かに言い、音もなく姿を現す。男性は手を止めてやや驚いたように振り向いた。
 「お若い頃からパソコンになじんでおられたのかしら。あなたのお若い頃といったらそこそこ昔じゃございません? そうですね、六十年くらい前でしょうか」
 ラッテの言葉に男性の眼が揺れる。
 「お名前を教えていただけませんか」
 ――久留巳・倫太郎です。
 老人はしわがれた声でそう答えた。



 「都築村での研究に関わっていた研究員のかたですよね?」
 やや間を置いてからラッテは尋ねた。倫太郎は疲れきった表情で小さく肯いた。それから目を上げ訴えるように言う。
 ――お願いです。この記事を書かせてください。この事件とあの子のことを知ってほしい。それだけなんです。それ以外には何も望みませんから。
 「事件を知ってほしくて書いているのなら邪魔をする気はありません。もちろん、あなたをどうこうしようという気も。ただ・・・・・・教えてくださる? あの事件の真実を。どうして今になってあなたが現れたのか・・・・・・」
 しばし、重苦しい沈黙が流れた。
 ――あの事件では村人と研究員全員が殺されたことになっています。
 やや間を置いて倫太郎はぽつりぽつりと語りだした。
 ――ですが、本当は命からがら生き延びた研究員が何人かいたのです。生き残った者は秘密を守るため、口封じのために莫大な金と家を与えられてひっそりと生きることを強いられました。私もその一人だったのです。妻も子も亡くした私は、執事の古川と施設から引き取った栄次郎とともに静かに暮らしていました。栄次郎の本名は橋本(はしもと)・栄次郎。正式な養子にすれば私の罪が知れた時に迷惑をかけることになるかも知れませんから。
 ラッテは無言で続きを促した。
 ――仲間の研究員は秘密を守ったまま、外に漏らさぬまま死んでいきました。最後まで生き残ったこの私も、去年癌で・・・・・・
 「今になって記事を書こうとしたのはそのためだったのですね。生きている間に告発すれば秘密を守って死んだ仲間が報われないと。碇編集長に夢を見せて記事を組むよう誘導したのもあなたの思いのたけがなせたこと・・・・・・」
 倫太郎は力なく肯いた。
 そして、倫太郎は研究と事件の真実についてゆっくりと語り始めた。
 研究内容。それは――新型の食料の生産。
 この研究所ができたのは終戦直後。貧困と混乱の時代。国民に食料を行き渡らせることが国の急務だった。しかし戦争で甚大な被害をこうむった日本政府にはそんな余裕はない。そこでGHQが名乗りを上げ、連合国軍の極秘の援助の下で研究所が設立されることになる。食肉の研究施設として。
 集められたのは捕虜を使って生体実験を繰り返していた科学者や医学者たちだった。本来ならば戦犯として裁かれるべきだが、この研究に協力すれば罪を不問に付すと条件をつけて。事実、彼らが捕虜に対して行った実験の中には貴重なデータがたくさんあった。平時であればとてもできないような残虐な実験でも、戦時においては「捕虜」という材料を使って簡単に行えた。国民とて「敵国」の人間に対する実験であれば文句は言わなかった。“戦争は医学を飛躍的に進歩させた”。それは歴史が黙認する事実だが、吐き気と怒りを禁じ得ない。
 最初は牛や豚などの改良をするつもりだったが、すぐに取りやめられた。戦争ですべて供出されたために、終戦時にはあまり家畜がいかったのだ。
 そこで思いついたのが、人間を材料にすることだった。人間の体に動物の遺伝子や細胞を組み入れて。
 「・・・・・・あの子はその犠牲者なんですね?」
 ラッテはゆっくりと尋ねた。
 ――時代が時代です。“研究所に来れば毎日おいしいごはんが食べられるし、風呂にも入れる”とでも言えば簡単に“材料”は手に入ったのです。待遇のよさは嘘じゃありません。栄養状態や衛生状態が悪ければ実験になりませんから。もちろん、“材料”を提供した者にはそれなりの報酬が与えられる。口減らしのために、自分が生きるために、子供を売る親だっていくらでもいたのです。
 そこまで言って倫太郎は口をつぐみ、両手で顔を覆った。すすり泣きの声が闇と静寂の中に静かにこだまする。
 ――私にも妻がいて、子供がいました。私はどんなに生活が苦しくてもあの子を売るつもりはなかった。なのに・・・・・・まずは研究員が実験台を提供しろと、上層部が無理矢理あの子を奪って研究所に連れてきたのです。
 「まさか――あの狼は、あなたの?」
 倫太郎は小さく肯いた。すすり泣きはいつしか嗚咽に変わっていた。
 ――私がそれに気付いたのは実験が始まった後でした。もちろんあの子を助け出そうとしました。ですが、あの子を助ければおまえも子供も殺すと脅されて・・・・・・
 あまりに悲しい事実にラッテは顔を歪めた。
 倫太郎がどうして逆らうことができよう。自分はともかく、子供まで殺すと脅されて。それでもなお抗うことができる親などどこにいよう。
 「それで・・・・・・あの事件が起こったきっかけは?」
 倫太郎の肩が大きく震える。彼はしばらく両手で顔を覆ったまま動かなかった。ひっく、ひっくと子供のようにしゃくりあげる嗚咽だけが沈黙を支配した。
 ――あの子はお母さんっ子でした。妻に会いたくて今もあの場に留まっているのでしょう。あの子を奪われた妻の悲しみもそれはひどいものでありました・・・・・・
 やがて倫太郎は呟くようにして口を開いた。
 ――最初は“おいしい食事を食べさせてあげられるし、お風呂にも入れてあげられるのだから”と自分を納得させてあの子を渡したのだそうです。しかし後で研究の噂を聞いて、妻はあの子を取り返しに行きました。もちろんそんなことが許されるはずがありません。妻は・・・・・・研究所に乗り込もうとして、警備員に銃で撃たれたのです。あの子の目の前で!
 甲高い倫太郎の叫び声は長く尾を引き、冷たい壁に乱反射して長くその場に留まった。これでわらべ歌の謎も解けた。風呂や食事の歌詞は研究所での生活を、“真っ赤っ赤になる母さん”のくだりは母親が血まみれになって殺されるさまを表していたのだ・・・・・・。
 ――元々、あの子は度重なる実験で自我と理性を失いかけていました。そんなあの子が母親の殺害現場を見せられて正気でいられるはずがなかった・・・・・・ショックで錯乱したあの子は一気に獣の力を発揮して暴走を・・・・・・そしてあの子は駆けつけた駐留軍に銃殺され・・・・・・私にできることは、こうやってあの事件の存在を示してあの子を救ってくれる能力者を待つくらいしか・・・・・・
 「・・・・・・もうよろしいですわ」
 ラッテは倫太郎の肩にそっと手を置いて続きを遮った。「死体が食べられなかった理由が分かりました。食らうためではなく、憎悪のために殺したのですね。母親を殺した人間たちを・・・・・・」
 倫太郎は濡れた顔を上げてラッテを見る。深い皺やシミの刻まれた顔はひとりのくたびれきった老人のものであった。
 ラッテはそっと手を伸ばし、倫太郎の涙を拭った。
 「さあ、早く記事を書いてください。朝になれば他の社員が出社してきます。それまでに仕上げていただかなければ・・・・・・」
 倫太郎の唇がかすかに震える。そして倫太郎は泣いた。背中を丸め、ラッテの手を握って、誰の目も憚ることもなく子供のように泣きじゃくり続けた。ラッテは倫太郎の手にもう一方の手をそっと添えた。
 


 ラッテはシュラインに電話を入れて倫太郎から聞いた話を事細かに伝えた。シュラインと北斗は居合わせた栄次郎から研究の詳細について聞いていたらしい。しかし事件の真相までは語られなかったらしく、二人が愕然とするさまが受話器越しにも伝わってきた。
 二人はこれから狼にかけた結界を解き、母親の霊を呼び出すことを試みるらしい。ラッテは倫太郎が記事を完成させるのを見守ると告げて電話を切った。
 倫太郎は無言でキーを叩き続ける。実直で、朴訥で、それでいて真摯に訴えかけるような文面が液晶画面に次々と紡ぎ出される。時折倫太郎は手を止めて肩を震わせ、涙を落とした。その度にラッテは彼の背中にそっと手を置いてやった。
 いつしか地平線は深い藍色に染まり、その藍はコバルトブルーへと姿を変えつつあった。
 倫太郎が静かにキーから手を離す。保存のアイコンを押した倫太郎の表情は疲れ切っていたが、穏やかな微笑を浮かべていた。
 ――これで完成です。三下さんには申し訳ないような気がしますが・・・・・・。
 何も知らずに眠りこけている三下を見ながら倫太郎は言った。
 「これからあなたはどうなさるのですか」
 ラッテは複雑な表情を倫太郎に向ける。「これであなたの重荷は少しは軽くなったかも知れません。けれどあなたのしたことは・・・・・・あなたの苦しみは、消えない」
 倫太郎の目が震える。瞳の縁に涙が盛り上がり、皺の寄った頬の上をすーっと伝っていった。
 ――構いません。
 やがて倫太郎は泣きながら微笑んだ。
 ――永久に苦しみ続けます。それが私の罰・・・・・・それが私の犯した罪の代償なのですから。
 いいんです、と倫太郎は涙と笑みで顔をぐしゃぐしゃにしながら幾度も繰り返す。ラッテはしばらく黙っていたが、やや間を置いてから静かに口を開いた。
 「私はあなたのしたことを認めるつもりもありませんし、“仕方ない”とすんなり片付けることもいたしません」
 そしてラッテはそっと倫太郎の手を取った。「でも、あなたはもう充分に苦しまれた。死んでまで・・・・・・あなたが苦しむ必要はありません」
 倫太郎は涙をこぼしながらラッテを見る。
 ラッテは音もなく微笑んだ。
 「あなたの苦しみを“隠蔽”してさしあげます。研究や事件の事実も、あなたが犯した罪も、この記事も消えません。ただ、あなたの苦しみをあなた自身から見えないように隠すだけ・・・・・・」
 倫太郎はラッテの手を握ったままその場に泣き崩れた。
 オフィスのガラスを通して白い光が差し込む。早朝の清冽な光を受けてラッテは倫太郎のそばにしゃがみこんだ。倫太郎の痩せた肩をそっと抱く。いつくしみ、そして隠すように。
 一瞬、強い光が差し込んで二人の姿が白い色彩の中に包まれた。
 そして、次の瞬間には倫太郎の姿は跡形もなく消え去っていた。



 シュラインと北斗はアトラスの始業時間前になって戻って来た。北斗の肩に痛々しく巻かれた包帯が戦闘の激しさを物語る。ラッテは微笑とともに二人を迎え、なぜ今になって倫太郎が現れたのか、なぜ倫太郎が記事を書いていたのか、経緯を説明した。
 「それも大人の理屈か? 少し卑怯じゃねえか」
 黙って話を聞いていた北斗がやや暗い目でラッテを見た。「何でこんなまどろっこしいやり方するんだよ。生きてる間に証拠の書類やデータでも出版社に送りつければ簡単に告発できたじゃねえか。自分が死んだ後にやるなんて、責任逃れ以外の何物でもねえ」
 「それは少し違うんじゃないかしら」
 北斗の言い分に肯きつつもシュラインは静かに首を横に振った。
 「あの研究に関わった人たちはみな秘密を抱えて生きていた。そして、秘密を誰にも漏らさずに死んでいったのよ。倫太郎さんが生きている間にその秘密を暴露すればどうなるの? 秘密を口外せずに死んだ人たちが報われないわ。こういう方法をとれば、少なくとも対外的には倫太郎さんが内部告発をしたとは映らないでしょ。誰かに告白して楽になりたくても、生きている間はそれも許されなかったのよ」
 シュラインの言葉にラッテも肯く。ある意味では倫太郎も犠牲者なのだ。北斗も一応は納得したようだったが、半分抗議するようにして口ごもってしまった。
 「倫太郎さんも気の毒なかたでした」
 ラッテが静かに口を開いた。「我が子が実験台に使われていると知ったのは実験が始まった後だったそうです。もちろん救い出そうとしたそうですよ。ですが、“子供を助けようとすればおまえも子供も殺す”と脅されたのだと」
 仕方なかったのです、とラッテは穏やかに言葉を添える。北斗はうつむいてきつく唇を噛み締めた。
 「あれ〜? また記事ができてる! どうして〜?」
 不意に、よだれを垂らしてデスクに突っ伏していた三下の素っ頓狂な声が三人の沈黙をぶち壊した。
 「あの通り、記事も出来てるんだし」
 シュラインはわたわたしている三下を横目に見て北斗の肩に手を置いた。「関係者は仮名にしてあるし、刑事的にはとっくに時効だけど、道義的な批判は免れない。でも、倫太郎さんに傷をつけることもあの子を世間の好奇の目に晒すこともなく事件を伝えられる。それが今の“最善”なんじゃないかしら」
 うつむいたまま、北斗はやや間を置いてから小さく肯いた。
 「三下先輩、おはようございます。例の原稿はできましたか?」
 そこへ桂が出社してくる。三下はずり落ちた眼鏡をかけなおし、何度か転びそうになりながら桂に飛びついた。
 「けけけ桂くん! また出たよ、幽霊だよ!」
 「だから、それはもう解決してもらったんじゃないんですか?」
 「えっ、そうなの? 僕は寝てたから・・・・・・」
 「三下さんは何も知らないほうがいいかも知れませんわね」
 二人の平和なやり取りを眺めながらラッテは静かに微笑んだ。 (了)
 





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

5980/ラッテ・リ・ソッチラ/女性/999歳/存在しない73柱目の悪魔
0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
5698/梧・北斗(あおぎり・ほくと)/男性/17歳/退魔師兼高校生



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■         ライター通信          ■
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ラッテ・リ・ソッチラさま


お初にお目にかかります、宮本ぽちと申す者です。
今回は当依頼にご参加くださいましてまことにありがとうございました!
相当な長文となりましたが、ここまで目を通してくださってありがとうございます・・・。

ラッテさまのお名前は何語だろうと思ったので、検索してみたらラッテ・リ・ソッチラというお酒を見つけました。
呑んだことはありませんが、調べてみると結構珍しいリキュールだそうですね。
ラッテさまの雰囲気をこのお酒になぞらえて描写できたらと思ったのですが・・・。

全体的に暗い話でしたが、最後の最後、倫太郎はラッテさまのお力で救われました。
本当にありがとうございます。
なお、男の子と母親についてはエマさま・梧さまのパートに詳述してありますので、よろしければご覧ください。
それでは、もしまたお会いできる機会がありましたら、よろしくお願いいたします。


宮本ぽち 拝