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赤鰯の歌
半刻前までアコルデイオンの音色ばかり聞いていたというのに、今夜はどういうわけか、脳裏によみがえるのは三味線の音のみ。異なものだ。
威伏神羅の夜は長い。
三味線の音を、小洒落た料亭や洋風酒場の片隅で流し、店がその日の商いを終えても、私の一日は終わらぬ。私は多くの夜を眠らずに過ごし、陽が顔を出す頃、眠りにつく。
流しの仕事が終われば、私はひとの住まわぬ廃墟や町外れにまで足を伸ばし、近頃はアコルデイオンの練習をしていた。アコルデイオンの音色は、古めかしく、儚い。三味線とまったく非なる音でありながら、似た音だ。異なものよ。私のこころはそこに、惹かれたのだろう。
今宵の月は細かった。
いまは、その頼りない姿を雲の後ろに隠してしまっている。
私はその夜、仕事にはゆかず、公園の片隅でアコルデイオンを弾いていた。音色を聞いたのは、公園の公衆便所で寝泊りしている老人や、足を止めずに行き交う人間たちだ。
誰も、私の演奏を、耳障りだと咎めはしなかった。
そのかわり、音に足を止められ、耳を傾けていく者もなかった。
即ち未熟。鍛錬あるべし。
月が隠れた頃、私は弾く手を止め、公園を引き上げることにした――。
「三本杉通りは通んじゃねぇぞ」
垢染みた身なりの老爺が、私の背にそう言った。
この老爺は、私の音色を聞いていたか。宿と金を持たず、この公園で寝泊りをしている輩のひとりだ。老爺は私に、にやりにやりと笑いかけている。
「昨日も一昨日も、三本杉通りで、わしらの同類が死んどるわ」
「殺されとるわ、くかかかか……」
天が四角に切り取られている。
三本杉通りは、ビルヂングの間にのびる寂れた通りだ。この東京に張り巡らされた、無数の灰の道。そのひとつに過ぎぬ。杉の姿なぞ、どこにも見出せはしない。
いや。
或いは、その三本杉とは――ここが江戸と呼ばれていた頃、剣客どもに愛でられていた、あの銘刀を指しているのか。それが由来と云うならば、合点もいくというものだ。
この通りでは、近頃、よく人が死ぬと云う。
ならば鬼も死ぬるだろうか。
私はけして、死を望み、この通りを歩いているのではない。求めているのは仕合だった。誰に金を積まれたわけでも、涙をもって頼みこまれたわけでもない。私は我が白刃に吸わせる血と命を待っていた。
私は、血に餓えているのか。
この身に流れる残虐な血には抗えぬ。たとえこの身を、人の世に委ねていても。この世では、人を殺めてはならぬ。私は餓える血を鎮め、己に言い聞かせ、人ではないものと対峙する夜を待っていた。
今宵、この呪われし三本杉通りで、我が渇望は叶うだろうか。私はひそかに胸を躍らせながら、暗い、湿った通りを歩いていた。
街灯は、長いこと誰も手入れをしていないらしい。光は頼りなく、またたいている。通りにあらわる殺戮者の噂が広まっているためか、はたまたひとえに丑三つ時であるためか、私の他に人影はない。車も通らず、どういうわけか、犬の声さえ、風の囁きさえ聞こえない。
ここでは、人が殺されている。人というものは、想いのたいそう深いいきものだ。殺められて終えた命であるならば、その怨嗟の声がここらにはびこっていてもおかしくはないはずなのだが。
私は静かな通りを、ただひたすらに真っ直ぐに進む。
たとえ、眼前に侍が現れようとも。
たとえ、空気が張りつめ、冴えたかがやきを帯びようとも。
私は立ち止まらず、
私は歩みを速めることもなく、
私は恐れることもない。
彼奴もまた、なにも恐れず、歩みを止める気配はない。
今は平成の世であるというに、彼奴は侍の姿を持っていた。笠をかぶり、刀を引っ提げている。これまで通りには、音も気配もなかった。今も、ないと言えるだろう。
成る程、斯様な夜であったから、今宵は三味線の音ばかりが頭をかすめてゆくのであろうか。アコルデイオンの音色は、確かに、侍や殺陣に合うはずがない。
けれども音を立てず、我らは動く。ただひたすらに、前へ、前へと。
通りの終わりを見据えつつ、あたかも通りをただ往く者であるかのように。
しかし私にも彼奴にも、用がある。
この通りに、用がある。
私は彼奴に、彼奴は私に、用がある。
刃を交え、殺らねばならぬ。
彼奴は、感情の波や、気合の類を持ち合わせてはいないようであった。真っ向から私に叩きつけられるは、あまりにも強大なる殺気のみ。しかし、その殺気は奇妙であった。するどく研ぎ澄まされてはいるが、あまりにも、無垢。
彼奴は童のように純粋に、血と死を求めているらしい。ひたむきである。それが私は、妬ましいか。彼奴が求めるものは、危うい血と死だ。彼奴は、子供が飴玉を望む、そのこころに突き動かされているに過ぎぬ。血と死は、彼奴にとっての飴玉だ。
だが、
嗚呼、この殺気は心地良い。凡庸とした空気が張りつめ、肌と肉が引き締まり、私の唇が濡れていく。
――きさまを殺めようとも、咎は受けぬ。よくぞ人ばかりを殺め、私にその殺気を向けた。これで心置きなく、きさまと仕合える。
私は胸の奥で痺れる快楽に震えた。
三本杉通りに、二振りの白刃があらわれる。
私の、悦びに震える闘気が形づくる、白き刃。
侍の、無垢なる殺気をのせた、白き刃。
月は恐れをなし、雲の合間から覗きこもうともしていない。……それで、良い。
我らは歩く、ただ前へと。歩みを速めず、ゆっくりと。歩く。
間合いを詰める。刃が届くまで。
歩く。そして――火蓋を切るため、我らは駆けた。
ちぃん!
そして、私の手に、ぞぶりと確かな手ごたえがあった。
美しく、忌まわしく、艶やかな音。感触。嗚呼、これこそ、仕合の醍醐味よ。私の手には、戦いを征した証、肉を裂き骨を断った手ごたえが残る。
私は、歩く。
辻斬りの如く。
斬られた侍は、声も上げずに倒れたようだ。しかし、その音が、妙だった。私はそこでようやく、足を止め、振り返る。
侍の姿などは何処にもない。彼奴は、確かに、倒れていたとも。しかし、侍の姿ではなかった。血煙も起きず、屍が倒れる重い音もない。侍が目深にかぶっていた笠、着流しは、ぼんやりとした煙と化して消えていった。
私は、肩越しに聞いたのである。冷たいアスフアルトに倒れた彼奴は、きいん、からん、と音を立てていた。
冴えた無垢な音を立て、転がるは、折れた赤鰯。
恐らく、これまで数多の人の血を吸い、錆びつき、人の姿と殺気を持つに至った刀であろう。この静けさの謎もあえなく解けた。殺められた魂の残り香、怨嗟の声、すすり泣きのひとつすらここらに漂っていないのは、彼奴が残らず喰らったからなのだ。刀は主も宿も持たず、ひたすらに彷徨い歩いていたのだろう。ともすれば、言葉や意思すら持ち合わせてはいなかったやもしれぬ。
だが、私と同じ望みを持ち、斬るため、殺すために歩いていたのだろう。誤りは、人も妖も見境なく斬り殺していたことか。その誤りが、人々の間に恐怖と憎しみを呼び、殺められて終わる命を招いた。だが、わかる。血と死を持っているものならば、人であっても妖であっても、相手にとって不足はないのだ。彼奴は夜な夜な死と血を求め、それが得られたときには、悦びに打ち震えていたはずだ。
今このときの、私のように。
おお、同胞よ、呪うがいい。私を赦すな。
私の魂は、きさまと寸分違わぬ。私は、私を斬ったのだ。
夜明けは遠い。
嗚呼……月がようやく、息をついている。アコルデイオンを抱え、私は何処かで眠りにつこう。血煙の夢を、延々と味わいながら。
〈了〉
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