コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


闇との邂逅 〜Gate of the Heaven 4〜


 神聖都学園に異変が生じたのは、いつもとなんら変わらぬ、穏やかに晴れた日のことだった。
 2時間目の終わりを告げる鐘の音が校内・校外を問わずに響き渡ったのと同じ頃、それは突然咆哮をあげた。
 校舎の北側全容を覆ったのは漆黒めいた泥を思わせるような暗闇だった。――そう、それは昼日中であるというのにも関わらず、まるでその部分だけが夜の闇によって侵食されてしまったかのような。
 それに次いで、校舎の中から転がるように生徒や教員やらが逃げ出してきたのだ。

「なるほど、なるほど。それでは、校舎の半分が異界と化してしまったと。こういうわけなのじゃな」
 三上事務所の所長である三上可南子は、受話器の向こう側にいる相手――長谷川涼が語る言葉に眉根を寄せた。
(異界化は何らかの事故で起きたものではない。事故や歪みといったもので生み出されるものならば、それが形成される前に、何らかの気配を感じさせるものだ)
 長谷川はそう言って小さな舌打ちをひとつ吐く。
「――ならば、何者かがそれを起こしたのだと。……こういうわけなのじゃな」
 訊ねるが、答えは返されない。もっとも、その答えは確認するまでもないことなのだろうけれども。

 逃げ出してきた者達が言うには、2時間目の授業が終わるその少し前に、大きな地震が校舎全体を揺るがしたのだという。
 むろん、この日は地震など観測されてはいない。
 しかし、彼らの証言はまだ続くのだ。
 その地震が落ち着いたのと同時に、今度はひどい悪臭が辺り一面にたちこめたのだと。――そして、彼らは目の当たりにしたのだ。およそこの世のものとは思えない見目をもった者共が、校舎の北側から這い出してくるのを。

(この闇は、魔界へと通じている。……この空気は、俺にはひどく懐かしいものだ)
「魔界じゃと?」
 三上の眉根に、より一層深いしわが刻まれる。
(校内にはまだ残されている者達がいるらしい。俺と芹は先に中に入ってみることにする)
「ま、待て。事態が急を要しているのは分かる。が、そなたらだけで中に入るのは危険じゃ」
(……俺たちの力を信用できないと?)
「違う! そうではない。……じゃが、今回のこの流れ。……確かソロモンを名乗る少年達は、神聖都学園の生徒であったはずじゃ」
(……まあ、あいつらが起こしたのだろうな)
 唸るように告げる長谷川に、三上はひとつの提案を述べた。
「すぐに救援を向かわせる。手配するから待っておれ。いいか、待っておるのじゃぞ!」
 そう言うが早いか、三上は長谷川の返事を待つこともせずに受話器を置いた。
 と、同時。事務所を留守にしていた中田が慌てて駆け込んできたのだ。
「大変です、可南子さん! い、伊織さんの塔が!」
「伊織の塔? バブ・イルのことか?」
「バブ・イルと現世とを隔てていた膜が破られたようです! と、塔が現世に露出して……!」

 中田の言葉を最後まで聞こうともしないまま、三上は事務所を後にして街中へと躍り出た。
 その目に映りこんだのは、確かにバブ・イルの塔の姿。――現世からすれば異界とされる場所に立っていたはずのその塔は、今再び現世へと姿を露出させているのだ。
「……莫迦な……」
 呆然と呟く三上の目には、バブ・イルの周りを飛び交っている悪魔達の姿までもが映りこんでいる。


 突如として訪れた暗黒は、久良木アゲハが授業を受けていた教室のからすぐの場所まで触手を伸ばしていた。暗黒は、次の瞬間には様々な姿をした魔物を生み出し始め、教室の中にいた教師や生徒達は避難訓練の成果などお構いなしに逃げていった。
 逃げ惑う級友達に紛れて教室を後にしたアゲハは、まるで生き物の如くに這いずってくる暗闇を目の当たりにした。
 と、その闇の向こうに、おそらくは逃げ遅れたのだろうと思しき数人の生徒達の姿があるのが見えた。
 まるでぬらついた膜の中に閉じ込められているかのように、がぼがぼと呼吸を吐き出しながら、彼らは懸命に手を伸ばす。
「待ってて、今、助ける!」
 自分の安全だとか、そういったものには考えも及ばなかった。
 気付けば、アゲハは自らの腕を闇の中へと投じ、生徒達の救出を試みていたのだった。

 腕につけた瑠璃の腕輪を確かめた後に、背負ったカバンの中に入れた炸裂弾、それに、無いよりはましだろうと思い立って提げ持ってきた”雌雄一対の剣”。
 守崎啓斗は、今、神聖都学園の門をくぐり抜けたばかりの位置にいた。
 学園が異変に見舞われてから、もう三十分ほどは経っただろうか。混乱を極めていた学園は、しかし、今は拍子抜けするほどの静けさで満ちている。
 逃げ延びるに至った生徒や教師達は、既に安全な場所でパニックと戦いながら、マスコミや警察からの事情聴取に応じている。
 学園へと続く道路はもちろん封鎖されてはいたが、啓斗の能力をもってすれば突破する事など難しい事ではない。人の目をかいくぐり、人に悟られないように気配を殺し――そう、それは暗殺業で身につけた業だ。
 思いがけずに静まり返っていた学園を眺め、啓斗は意を決して足を進める。
 視線の先に広がっている暗闇は、静かに、しかし確実に、その触手を伸ばし、広がっているのだ。

 飾り気のない電子音が鳴り響き、空気を小さく震わせた。
「――可南子さん?」
 電話に応じたのはセレスティ・カーニンガムだ。セレスティは美しい光沢をもった銀髪を風になびかせながら、真っ直ぐ先に見える”塔”を眺めている。
「ええ、神聖都学園の事なら存じておりますよ。――いや、私は……ええ、そうです。伊織さんが心配ですし。……ええ、はい。私はバブ・イルに向かいます」
 穏やかな声音で応答しつつ、セレスティは視線をちろりと横に向けて移した。
 セレスティの隣にはデリク・オーロフの姿があって、彼もまたセレスティと同様にバブ・イルと呼ばれるその塔を眺めている。
「学園の方にはどなたかが行かれたのですか? ……ええ、長谷川さん達の他にです。……ああ、なるほど。それでは心配ないですね。ええ、こちらは私達でなんとかします」
 会話を終えて電話をポケットへとしまいこむセレスティを見やる事もなく、デリクがふつりと口を開けた。
「セレスティさんは、今回の件、どう見ますカ?」
 訊ねたデリクに、セレスティは小さなうなずきを返しながら首を傾げる。
「そうですね。……バブ・イルは元々異界にあったものです。それが今再び現出しているという事は、それだけ辺りが異界に侵食されているという事でしょうか」
「そうでしょうネ。バブ・イルは神の門と呼ばれているものデス。そしてこのタイミングで現れた魔界へと入り口。――この二つが繋がれば、凄まじい力が現世を襲うのでしょうネ」
 喉の奥を小さく鳴らすようにして、デリクはゆるゆると笑った。
 そのデリクを横目に確かめながら、セレスティはゆったりと目を細めてうなずく。
「ともかく、どちらの入り口も早めに塞いでしまわなくてはなりませんね」
「そうデスね。得にも儲けにもならない、ただの騒ぎは御免デス」

 見上げる『バブ・イル』の周りには、想像の産物でしかなかったはずの悪魔達が飛び交っている。
 どんよりと曇った灰色の空は、まるで一枚の絵画のような風景を描きだしているのだった。

 泥のようにぬめついた闇の中から助け出した生徒達は、そのどれもが甚大なパニック症状を起こしていた。
「ねえ、大丈夫だから、落ち着いて!」
 アゲハは必死で彼らを宥めようとするのだが、――当然の事ながら、彼らの耳にアゲハの声が届く事はないままだった。
「とにかく、早くここから逃げよう!? 私がなんとかするから!」
 何度か言葉を交わした事のある少女の肩を揺さぶりながらも、アゲハは必死になって笑顔を浮かべようとする。
 ――ごぼり
 その時、ふと、膜が何かを吐き出した。同時に、生徒達の間で絶叫が轟く。
 吐き出されたそれは、何かの昆虫を思わせるような見目をもったもので――しかし、その大きさは、とてもではないが現実のものとは思えないほどのものだった。
「走って!」
 叫び、泣きじゃくる彼らを後押ししながら自らも走り出す。と、目についたのは備え付けの消火器だった。アゲハは消火器を抱え持ち、先に逃げていく生徒達の後を追いながら、背後に迫る魔物の姿をも確かめる。
 ともかくも、今なすべき事は、この学園内からの脱出だ。
 震える足をどうにか勇気付けて、アゲハは再び足を進めた。
 背後から這って来ている魔物が大きな咆哮を張り上げた。

 学園は、建物の半分ほどが闇に覆われていた。
 守崎北斗は校門前でバイクを停めて、忌々しげに表情を歪ませる。
「……ったく……! また一人で先走りやがって!」
 メットもつけないままでバイクに跨っていた北斗は、苛立たしげな舌打ちを一つ吐き、再びハンドルを握りなおした。
 バイクがいつもにないぐらいの荒々しいエンジン音を響かせる。
 北斗の兄である啓斗は、北斗には何ら声をかける事もなく、この学園を襲っている騒ぎを収拾するために三上事務所からの依頼を受けていたのだ。
 北斗は三上事務所からの依頼を受けたわけではなく、まして、兄がこの場に赴いたのだという事など、誰から聞いたわけでもない。が、それでも北斗には分かってしまったのだ。
 バイクのエンジン音は校門から校庭を走り抜け、そのまま玄関の中へと入っていった。
 後で誰に叱られようが、知ったことではない。
「……っくそ」
 呟いた声は、悲鳴のようにも響くエンジン音で掻き消されていった。

「おまえは三上から依頼を受けた者か」
 不意に声をかけられ、啓斗は振り向くのと同時に身構えた。雌雄一対の剣は二振りの片刃直刀としても使う事が出来る。
 緑色の双眼に昏い光を宿して睨みすえた声の主は、啓斗と同じ年頃であろうかと思しき少女と、その少女の横に立つ青年だった。
「――あなたは三上さんの知り合いですか」
 睨みすえる眼光はそのままに、啓斗は声を潜めてそう問い掛ける。
「可南子さんから聞いてない? あたしは芹で、彼は涼くん。先にこの中に入って、溢れた魔物を退治してたの」
 啓斗の問いに応じた芹は、そう述べてにっこりと首を傾げた。
「――魔界に属する者が味方についているとは聞いています」
「なら話は早いだろう。俺達はゆえあって三上達に手を貸している。――俺の魔界での名はベリアル」
「あたしはフォルネウス。――ねえ、そんな事より、早くどうにかしないと、魔界への入り口はどんどん大きくなっちゃうよ」
「……ベリアルにフォルネウス。……俺は守崎啓斗」
「啓斗。学園の中にはまだ逃げ遅れてる子達もいるから、まずはその子達をどうにかしないとね」
「……分かった」
 芹の言葉にうなずきを返した、その時。何かをひっくり返したような、大きな音が廊下の向こう側から響いた。次いで現れたのは転げるように走り来る数人の生徒達の姿。そしてそれを追うように顎門を開く、触手をもった大きな昆虫だった。

「皆、あともう少し! 職員室まで走って!」
 職員室へと向かう廊下を懸命に走りながらも、アゲハは目についた消火器を拾い持つ事を忘れない。
 職員室まで行けばライターの一つや二つはあるはずだ。ライターの火と消火器を併用すれば、簡易的なものではあるが火炎放射器として用いる事が出来る。
 昆虫は、想像以上に動きが速い。気を緩めればあっという間に追いつかれてしまいそうだ。
 と、生徒達が悲鳴をあげた。
 悲鳴が指し示す方角に視線を向けたアゲハの目に映りこんだのは、こちらに走り来る一人の少年と、青年と少女の三人の姿だった。

「早く、こっちへ!」
 少年――啓斗がアゲハ達を呼び招く。
「この教室の中に入って!」
 少女が叫び、生徒達は少女が導くままに、職員室の中へと入っていった。
 他の生徒達が全員職員室の中に収まったのを確かめると、アゲハはついと踵を返して魔物を睨めつけた。
「きみ……その消火器は」
 雌雄一対を振り上げた啓斗がアゲハに問う。
 アゲハの腕の中には三本もの消火器が抱えられていたのだ。
「火炎放射器にするのです」
 横目に啓斗を見やり、アゲハはゆるりと頬を緩めた。――ようやく、幾分か緊張が和らいだのだ。
「なるほど」
 小さくうなずき、啓斗は素早い動きで印を結ぶ。
「俺が炎を出すから、きみはそれを使って」
「――了解です」
 アゲハがうなずいたのと同時に、啓斗は素早い動作で印を結んだ。
 瑠璃の腕輪がちろりと小さな光を帯びる。
 啓斗が作り出した炎と、アゲハが噴射した消火器は、見事な火炎放射器となって魔物を包む。
 魔物は金属音にも似た声を張り上げて、やがて焼失していった。
「――兄貴!」
 魔物を焼いた炎が収まると、その向こうから、啓斗にとってはひどく聞き慣れた声の主が姿を見せた。
「……北斗」
「兄貴、怪我ぁねえか!? ったく、勝手に突っ走りやがって。来るんなら俺にも声かけろって」
「おまえ、授業は」
「はあ? ンなもん決まってんだろうが。サボりだよ、サボり!」
 ばりぼりと頭を掻いた北斗の腕を、啓斗はちらりと確かめる。
 北斗の腕には、大きな爪か何かで引っかかれたような痕がついていた。
「ああ、これ? なんかここまで来る途中で何回か得体の知れねえのに遭ってさ。まあ、きっちり倒してきたけどね」
 ひやひやと笑う北斗に、啓斗は小さな息を一つ吐いてかぶりを振った。
「――阿呆が」


 バブ・イルの内部までは、デリクの能力をもってさほどの難を覚える事もなく辿り着けた。塔の周りを飛び交っていた魔物達は、セレスティとデリクが塔の内部に入ってしまった途端に、その攻撃をぴたりと収めたのだった。
「伊織さんは無事でしょうか」
 バブ・イルの階段を登りながら、セレスティがふとそう言葉を落とす。
「伊織さんには未だブネしかいませんから……そのブネが応戦へと赴けば、必然的に伊織さんは一人になってしまうのですし」
「塔を襲っている悪魔達は、ブネを誘い込むための陽動でしょうねェ。――塔の中がこれだけ静かだというのも気がかりデス」
 言いながら、デリクは魔方陣のついた両掌を壁へと押し当てる。壁はぐにゃりと大きく歪み、頂上までの近道を作りだしたのだ。
「ソロモンの手下が既にこの中に入り込んでいる可能性がありマス。――まずはこの塔の中に術式を描きだしてしまわねばなりまセン」
「分かりました。私は一足先に伊織さんのところへ行っておきます」
「すぐに追いつきマスから」
 双眸を緩めて微笑んだセレスティに、デリクもまた頬を緩めて笑みを浮かべる。
 二人はそうして笑みを交し合った後、さほどの間を置かずに散り散りになった。
 セレスティはデリクが開けた道の中へと踏み入り、塔の頂上にいるであろう伊織の元へ。
 そして残ったデリクは、呼吸を整えた後に術式を行使するための支度へと取り掛かる。
 ――何しろ、この塔は『バブ・イル』――神の門と呼ばれる場所なのだ。ましてや、本来は現実世界とは逸した世界である異界に在るべきものだ。これを再び異界へと戻し、開きかけている異界への入り口を塞ぐのには相応の技術と力を要する。
「神世界への門は開かせませんヨ」
 呟き、静寂そのものといった塔の中を歩き始める。
 ――遠くで、何かの獣がギャアという鳴き声をあげていた。

 塔の頂上へと辿り着いたセレスティを迎えたのは、全身を覆いつくすほどの黒いマントと、被ったシルクハットで顔を覆い隠している一人の紳士だった。
 紳士はセレスティを見るとニタリと口を開き、笑みを浮かべる。
「――ソロモン王の使いですか」
 訊ねつつ足を進めたセレスティに、紳士はざらざらとした耳障りな声で応えた。
「わたくしはムールムールと申します。此度はソロモン王より命を受け、こちらにおいでの巫女様との交渉にと馳せ参じた次第です」
「交渉ですか」
 目を細めて紳士を見やり、それからついと視線を動かして部屋の中を確かめる。
 石壁の中に吹き抜けになった窓からは、激しい炎風と獣の咆哮とが流れ入ってくる。見れば、その中にはブネ――塔の主である少女・伊織を護る、三つ首の竜の姿があった。
「伊織さんは?」
 再び紳士を見やったセレスティに、紳士はニタリと笑んだままで口を開けた。
「わたくしはこう見えて、かつては座天使の地位にあったのですよ。ご存知ですか? 我々はガルガリンとも呼ばれ、意思の支配者と称されていたのですよ」
 紳士は、まるで舞台役者のごとくにそう告げる。
「伊織さんはどちらにおいでなのですか」
 セレスティは、今度は紳士を真っ直ぐに睨みすえてそう問い掛けた。
 ――と、紳士はおもむろにマントを広げてみせ、高々とした笑みを漏らした。
 マントの中には、人形のような眼差しをもった少女――伊織が抱き包まれていたのだった。


 学園を包む暗闇は、校舎の半分以上を包み込んでいた。
 空気が重々しいものに感じられて息が詰まる。
 涼と芹の二人に先導されて、アゲハ、啓斗、北斗の三人は漆黒の膜をくぐり入って来たのだ。
 廊下や教室はぬらついた泥のようなものに覆われ――しかしそれはあくまでも感覚の問題であって、実際に泥が付着しているといったものではなかった。
「ところで、どこへ向かうんだ?」
 啓斗が、先導して歩く二人に問い掛ける。 
「体育館だ」
 振り向く事もなく、涼が答える。
「体育館?」
 今度はアゲハが首を傾げた。
「そこに、ここをこんなにしちまったヤツがいるっての?」
 アゲハの言葉を、北斗が継げる。
 振り向いてうなずいたのは、涼ではなく芹だった。
「現世と魔界とを結ぶには、どんなにすごい魔術師だって、ちゃんとした術式を結ばなくちゃダメなんだよ。今回のこの術者は体育館にいる。感じない?」
 問われた北斗は、芹に促されるままに意識を向ける。続き、啓斗とアゲハもまた意識を集中してみた。
 ――確かに、体育館がある方角から、何か大きな渦のようなものを感じる。
「ねえ、ところで」
 ふと、芹が足を止めた。
「きみ達、悪魔と友達になってみる気はない?」
「――は?」
 アゲハが目を丸くする。
「うん、あのね。――多分、これから先、必要になってくると思うんだ。ここに来るまではしょぼい魔物にしかあたってないけど、中にはどうしようもない悪魔もいるからね」
 ニコニコと笑んだまま、芹はちょこんと首を傾げた。
「――つまり、これから先、厄介な相手とも対峙しなくてはならなくなるかもしれない、という事か」
 啓斗が目を細める。
「バブ・イルとこっちの二箇所で入り口は開いてる。悪魔はなにも七十二柱に数えられる存在だけがいるわけじゃないし、あたし達の他にも、どうしようもない悪魔はいるのね」
「でも入り口は塞ぐんだろ?」
 北斗が問うと、それまでは口を開けようとはしないままだった涼が唐突に言葉を発した。
「むろん、入り口を塞げば小物は強制的に魔界に戻る。が、そうでないヤツは自分の意思でこちらに残る。そして人間に紛れて暮らしていくだろう」
「――今後、そういったものと対峙する可能性が出てくる、と?」
 啓斗が問い、涼を見据える。
 涼は啓斗の視線を受けてうなずき、そして再び足を進めた。

 体育館に近付くほどに、辺りを埋め尽くす暗闇――瘴気は一層色濃いものへと変わっていく。
「――真っ暗になってきたね」
 いつの間にか眼前を覆いつくしていた漆黒を前に、歩み進めていた足を止めて、アゲハはそう呟いた。
 漆黒は、文字通りの暗黒だ。呟く声すらもしんとした闇の中に飲み下されていく。
 アゲハは不意に不安を覚え、足を止めたその場所で同行者達の名を呼んだ。
「――啓斗君? ……北斗君?」
 返事はない。
「芹ちゃん? ……長谷川さん」
 やはり返事はない。あるのはただ、果てがあるとも知れない闇ばかりだ。
「誰かいないの!?」
 不安が胸を突き上げる。――アゲハは懸命に声を張り上げた。
 その時、つと、男の声がアゲハの耳を撫でた。
「――貴様、吾が問い掛けに応えよ」
「え!? 誰!?」
「貴様の名は」
「え? 名前? あ、アゲハ。久良木アゲハ」
「貴様、この闇を如何に思う。恐ろしいか、あるいは畏れを思わぬか」
「し、正直に言えば、やっぱり怖いです」
「ならば何故此処まで来た。級友と共に逃げおおせれば良かったであろう」
「だって、助けを待ってる人がいるかもしれないでしょ!? 現にいたし。私、私で手伝える事があるなら、やっぱり逃げないで助けたいと思うんです」
「――偽善か」
「そうかもしれないけど、でも、やっぱり友達は大切にしたいと思うから」
 応えた、その刹那。
 眼前を覆っていた漆黒はその色を薄め、それまでそこにはなかったはずの悪魔が姿を見せていた。
「吾が名はグラシャラボス。――貴様のその心がどこまで続くものか、興味が沸いた。――これより貴様と共にあろう」
 低い男の声を発したのは、グリフォンの翼を持った犬の姿をした悪魔だった。

 暗闇は、歩き進めるごとに、ねっとりとまとわりつくような感触を一層濃いものへと変えていく。
 啓斗は、決して闇を好まないのではない。しかし、今周りを囲む暗闇は、なぜか、啓斗の心に過去の景色をぽつりぽつりと落とすのだ。
 固く目を瞑り、かぶりを振る。
 おそらく、この闇は、啓斗の心を暴き出そうとしているのだ。啓斗の心の深い場所を抉り出し、哂おうとでもしているのだ。
 瞑っていた目を開いて眼前の闇を睨めつける。その闇の中に、薄っすらと獣の輪郭が見えた。
「そなたは嘘吐きだ」
 獣はゆらりとそう述べて頬を緩めた。
「そなたの心はそなたの弟で占められておるというに、そなたはさも毛嫌いしておるかのごとくに弟に接する」
 低く、腹に響くような男の声だった。
 啓斗は獣を睨みすえて首を傾げ、告げる。
「俺の心は俺が知っていればいい事だ。――俺のこの心など、あいつには悟られないままでいい」
 返した言葉に、獣はヒヤヒヤと笑って目を細ませる。
「それすらも嘘だ。ハハハ、そなたは嘘吐きだ。然り、然り。気に入った」
 獣は啓斗の傍らに添うようにして姿を見せた。黒い、豹に似た姿をした悪魔だった。
「それがしの名はフラウロス。――そなたと同じ嘘吐きだ」

 気がつけば、そこには北斗より他にはいなかった。
 北斗はしばし足を止めて周りを見やり、そこに兄の姿がないのを知ると、深々とため息を落とす。
「兄貴、またどっかに行っちまったのか」
 呟くが、しかし、北斗はそこではたりと首をひねった。
 ――否。どこかへ行ってしまうはずはないのだ。廊下は真っ直ぐに続き、折れ曲がる場所も、入る教室もなかったのだから。
「兄貴?」
 啓斗の姿は、しかし、どこにも見当たらない。それだけではなく、同行していたはずのアゲハや涼、芹の姿もなくなっている。
 北斗はわしゃわしゃと頭を掻き混ぜて眉根をしかめ、――そして、視線の先に、一人の子供の姿があるのに気がついた。
「おまえ、何してんだ?」
 子供の傍へと歩み寄り、言葉をかける。
 子供は、十に満たないぐらいだろうか。肩に大きなカラスを乗せて、じっと、真っ直ぐに北斗を見上げている。
「おまえ、人間じゃねえだろ? 悪魔ってやつか?」
 単刀直入にそう問い掛ける。と、子供は暗鬱たる眼差しをしばたかせてうなずき、それからすいと片腕をあげて北斗の頬に軽く触れた。
 北斗は子供がみせた動きにも怯えや驚きといったものを見せず、それどころか微笑みすら浮かべて口を開けた。
「なあ、俺を兄貴のとこまで連れてってくれよ。代価でもなんでも払うからさ。――俺、あいつがいねえとダメなんだ」
 そう言い終えた北斗に、子供は小さなうなずきをみせる。
「なんでもくれるんだね」
「ああ、なんでもだ。契約っての? なんでもいいけど、その代わり、俺ぁ遠慮なしで利用するからさ」
「――いいよ。僕はアガレス。――きみは僕のともだちだ」


 塔の中には、デリクが予測していた通り、既に何者かによる術式がなされていた。
 何重にも巡らされたこの術式を解くには、それ相応の時間をも要する事となる。もちろん、より安全にこれを行うには、時間をかけてきちんと解いていくのがもっとも望ましいのだ。
「でも、ゆっくりもしていられませんでしょうしねェ」
 クツリと喉を鳴らし、何重にも巡らされた術式を上書きするためのものを描いていく。
 万が一にも失敗すれば、その衝撃は全てデリクの身に降りかかるだろう。しかし、デリクはそれを微塵にも恐れる事なく、描いた陣の中心で足を止めた。
 術を行使するための準備として、簡略化された呪を口にする。旧い言葉で唱えられるそれは、まるで美しく流れる詩の一節のようでもあった。
 が、詩は、最後まで形を成す事なく、中断を余儀なくされた。
 デリクは陣の真ん中に立ったまま、現れた客人を真っ直ぐに見やり、喉を鳴らす。
 視線の先には数人の悪魔の姿があった。
「――まあ、すんなりといかせてもらえるとは思っていませんでしたけれどもネ」
 喉を鳴らして笑みを零しながら、デリクはゆっくりと目を細めて指を鳴らした。
「でも、申し訳ありません。――私も忙しいものでしてネ。代わりに、この者が皆様のお相手をいたしマス」
 告げたデリクの言葉を合図に、デリクの足元から大きな影が姿を見せた。――這い出でるように姿を現したそれは、デリクの視界に映った悪魔達をはるかに凌ぎ、巨大で、強大な存在だ。
「お願いしますネ。――私は術式を続けマス」

 ムールムールと名乗る紳士を前に、セレスティは眉根をしかめて息を飲み下す。
 紳士の腕の中には伊織がいるのだ。――半端な事をすれば、その命はあえなく踏み潰されてしまうだろう。
「あなたは水の眷属でいらっしゃる。人間を愛しておいでで?」
 紳士はセレスティの顔を見やってそう問い掛けた。
「むろんです」
 問いを受けて、セレスティはうなずく。と、紳士はさらに続けた。
「おそらく、あなたは誤解しておいでだ。我々は何も人間共を一掃しようとしているわけではないのですよ。人間共と我々とが共存出来る世界を望めばこそ、わたくしはこうしてあの御方に仕えておるのです」
「……いにしえの世界を復活させようという事ですか」
「その通り!」
「そのために、その子供を殺めるのだと?」
「殺めるのではありませんよ。この子は尊い礎となるのです」
 ムールムールがニマリと笑んだ。
「――礎、ですか」
 セレスティは紳士の言葉を受けて目を伏せる。同時、セレスティの周りに、水を得た竜巻が噴き上がった。
「残念です。――出来る事なら、穏便に進めたかった」
「わたくしもですよ、水の御方」
 紳士のマントが、大きな黒い両翼となった。

 塔の外で、ブネが咆哮している。その中を、ムールムールは優雅な動きで飛んでいく。
 竜巻がムールムールを追うが、それは紳士を捕らえる事が出来ないままに、宙の中で飛散した。
「伊織さん!」
 窓際まで足を進めたセレスティが、紳士に攫われていく少女の名前を口にする。
 ――と、その時、飛散した竜巻が、再び形を成したのだった。それは巨大な水竜の姿をなして宙を泳ぎ、驚きに目を見張るムールムールの足を絡め取ったのだ。


 体育館のドアを開ける。
「見て。これって魔方陣だよね」
 体育館の床全体を使って描かれていた陣を指差して、アゲハが声を震わせる。
 さらに、その陣の中には、一人の少年の姿があった。
「あいつは」
「あいつがソロモン――現世と魔界とを結びつけ、悪魔の力を得て、永遠の命を得ようとしている男だ」
 北斗の呟きを継げるように、涼が忌々しげにそう吐き出した。
「永遠の命?」
 アゲハは涼の顔を見上げたが、涼はうなずくでもなく、ただ真っ直ぐに少年を睨みつけている。
「永遠の命なぞ……永遠に置いてきぼりになりたいのか」
 呟いたのは啓斗だ。その横では黒豹が低い唸り声をあげている。
「永遠に置いてきぼりだって? ハハ、きみはなんにも分かっちゃいない。何より恐ろしいのは、老いて死ぬ事なんだよ!」
 呟いた啓斗の言葉を聞きとめたのか、少年が高々とした笑い声を張り上げた。
 しかし、少年のその言葉は、
「バカバカしい」
 北斗の言葉によって遮られるところとなったのだ。
「おまえ、アホだろ。っつうか友達いねえだろ? つまんねえヤツだな。そんなくだらねえ事を望んでやがるなんてな」
「くだらないのはきみ達だ。いずれきみ達にも知れるだろう。ぼくのこの心がね」
 少年はそう放ってクツリと笑う。
「それじゃあ、ぼくは一足先に行ってるよ。――永遠を欲するようになったらついておいで。一緒に宴を開こう」
 少年がそう口にした時、床全体を使って描かれた巨大な陣が青白い光を放った。
「待て、ソロモン!」
 涼が叫ぶ。
 悪魔達が一斉に飛びかかったが、彼らの爪や牙は少年の体を引き裂く事なく、ただ、床を叩きつけただけだった。
 少年は、笑い声を残して消えていたのだった。


 
 学園を取り囲んでいた包囲網は、それから三日の後には解かれるところとなった。
 体育館の床に描かれていた陣を解く事で、学園を侵食していた漆黒はたちどころに姿を消したのだ。
 それと同じ頃、バブ・イルの塔もまた姿を消した。正しくは、薄い膜を一枚隔てた向こう――異界へと戻っていったのだ。
 この二つの異界の現出がさほど大きな被害をもたらさずに済んだのは、一重に、害が出る前に収束を見たためだろうか。

「いや、それはただ単に被害が表立って知られてないからだよ」
 三上が打ち出した答えは、しかし、芹によって呆気なく否定された。
「こっちに残った悪魔達は絶対結構いるし、そういう連中の中には人を喰ったりしてるのもいるだろうから、被害が甚大じゃないなんて絶対ウソ」
「……ぬう」
 意見を拒まれた三上は継げる言葉を飲み込んで、小さな唸り声をあげた。
「でも、あの人はどこに行ったんでしょう?」
 首を傾げたアゲハに、デリクが小さな笑みを浮かべて返す。
「魔界、でしょうネ。――魔界に行って、目的を果たすための準備を整えるのでショウ」
「……魔界」
 啓斗が呟き、北斗は大きく首をひねってから身を乗り出した。
「ところで、あの子平気なんすか? なんていったっけ、い、い」
「伊織さんですよ」
 セレスティが穏やかな声で答えた。
「伊織さんは、どうにか攫われずに済みました。――あの時、リヴァイアサンが現れなかったら、今頃は……」
「礎って、どういう事なんでしょう?」
 アゲハが問う。
「――今のソロモンの体では、七十二もの悪魔の力全てを取り込む事は不可能だ。――許容量が違う」
「伊織さんなら、おそらくはその全てを受け入れる事が出来る。――伊織さんという自我を潰し、そして悪魔を喰わせるのですネ」
 声を潜めて告げたデリクに、涼は静かにうなずいた。

 伊織は無事に戻ってきたものの、その意識は未だ戻らないままだった。まるで人形のごとくに身じろぎ一つ見せないその姿からは、自我といったものは既に欠片も感じられない。

「じゃあ、きっとまた迎えに来るんでしょうね」
 アゲハが眉根をしかめる。

 窓の外では、灰色の雲が重々しく広がり、世界を覆いつくしていた。




□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【0554 / 守崎・啓斗 / 男性 / 17歳 / 高校生(忍)】
【0568 / 守崎・北斗 / 男性 / 17歳 / 高校生(忍)】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男性 / 725歳 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【3432 / デリク・オーロフ / 男性 / 31歳 / 魔術師】
【3806 / 久良木・アゲハ / 女性 / 16歳 / 高校生】


□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
          ライター通信          
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□


このたびはノベルへのご参加、まことにありがとうございました。
シリーズものという事で、もしかしたら前後が知れないと内容が掴みにくい部分が生じてくるのでは……とも思いましたが、
出来るかぎりの手は挟みいれてみた、つもり、です(弱気)。

今回はご希望された皆様に一人づつ悪魔との契約を結んでいただきました。
お気に召していただければと思います。
また、もしもこのノベルがお気に召しましたら、次回以降もご参加いただければと思います。

それでは、ありがとうございました。
またご縁をいただけますようにと祈りつつ。