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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


『院内魔刃』



 『海腹総合病院』で外科手術を受けると死ぬ。そんな噂がある。
「といっても、大病院と言えば緊急手術も多いし、死人は多くて当然なんだけど」
 というわけで、今のところ病院の営業に支障はない。が、無論ながら碇 麗香が自ら仕入れてきたネタ。続きが存在する。
「実は…院『内』に奇妙な噂が広まってるの」
 ――手術中に使うと、患者が死んでしまうメスが存在する――
 ――メスは使い捨てが多いが、そのメスだけは何度捨ててもいつの間にか新品同様に在庫に紛れている――
「…ってわけ。そのメスは血に触れると、刃や柄の部分に血管のような紅い紋様が浮かび上がるらしいわ。まるで血を吸っているかのようにね。そして手術を受けた人は、ことごとく死ぬ。付いたあだ名は、吸血メス」
 紅紋が浮かんでいるのに、医者は手術が終わるまでは何故か吸血メスを使っていることに気付けないのだそうだ。そして手術ミスはしていないはずなのに、患者は謎の衰弱死を遂げる。それを捨てても別のメス(もしくは形を変えた同じ『何か』)でまた同様の事件が起こる。
「記事に病院名を出さない、吸血メスを発見したらうちが引き取るって条件で協力は取り付けてあるわ。現地入りの目的はメス本体の入手か、危険なようなら破壊。要はこの事件の発生と終焉を特集としてまとめられればいいの。さあ、協力お願いね」
 麗香はそう言って微笑むと、自らも席を立った。



「…さて、私を除いて取材班はこの三人。改めて自己紹介と行くわね。彼女は秋月さん。大学生で、よくうちのバイトをしてくれてるの」
 最初に麗香に紹介されて、秋月・律花(あきづき・りつか)は一瞬面食らった。
「どうも。秋月です」
「こっちがジェームズ・ブラックマン」
「交渉人をしています。病院の協力は取り付けてありますが、中で揉め事が起こらないとも限りませんからね。よろしく、ミス・秋月」
 麗香が指した男はがっしりとした体格に、優雅さを湛えた紳士だった。闇に溶けるようなスーツを柔らかく曲げてこちらに会釈する。
「よ、よろしくお願いします」
「で、こっちが…」
 手を離した律花の視線の先にいるのは、パッと見では男性に見まがいそうなほど背の高い女性。麗香の紹介を待たずに、彼女自身が言う。
「私は陸玖・翠(リク・ミドリ)。今夜はよろしくお願いしましょう、秋月殿。ブラックマン殿、貴方も。それからこの子は七夜。こちらの方もよろしく」
「よろしく、ミス・陸玖。そちらの子も」
 大柄な彼女に集中していて気付かなかったが、彼女の足元から黒猫がひょっこりと顔を出している。
「よろしくお願いします、陸玖さん。…七夜さんもよろしくね」
 黒猫の頭を撫でると同時に、その尻尾が根元から二本に枝分かれしていることに気付いた。

 あら、この子は…――

「翠は陰陽師なのよ。いざというとき、そっち方面の人がいた方が心強いでしょ?」
 麗香が言う。陰陽師とは平安時代、宮廷に属した神職で、呪術を操る専門家だ。彼らは式神と呼ばれる使い魔を操ると言うが、この子はその一種か…
「そうですね。相手の正体もわかりませんし…。私は簡単な結界を張るくらいしか出来ませんもの」
 正体不明の交渉人と古代の神官。仲間としては個性的だ。いつもながら、麗香のバイトは刺激と興味に困らない。



 全く、暇潰しにと麗香の所に顔を出したらこれか…

 車の中で翠は苦笑した。
「しかし、吸血メスですか…はてさて、正体は如何なるものなのやら」
「献血の間に合わなかった患者でもいたか、それとも…。ふむ、疑問はあるが答えはなし…ですか」
 ジェームズが言う。
「私もその予想は持っていますがねえ…」
 ジェームズと自分は謎を謎のままに放置出来る性分らしい。それに反して、放置できぬ性分の者もいる。隣の律花が身を乗り出して、予想を述べた。
「生き血を欲するというと何となく妖刀の類に近いような印象も受けますけれど、それにしては使用者の精神状態にさほど影響を与えないというのも妙な話ですね…」
 むしろ、律花への興味を示してジェームズがバックミラーを覗き込んだ。
「しかし手術中、医者はそれに気付けぬとも聞きました、ミス・秋月。となると精神干渉しているのでは?その点はどう考察なさいますか?」
「そうですね…。私、仕事前に少し調べたのですけど…古い文献によると妖刀の多くは『欲求』を持ちますが、『知恵』に関しては使用者に依存する、という場合が多いらしいんです」
 自分も、幾本か妖刀を目にしたことがある。実際それは『妖刀に取り憑かれた者』を見る、という印象に近かった。
「妖刀は使用者への刷り込みによって目的を達成する…強い欲求を持ち、鋭い意志を持つが、知恵を巡らすことは少ない…秋月殿の言うとおりでしょうねえ」
「…しかし、今回の吸血メスは使用者を一人に限定せず、向こうから動いている印象があります…知恵を持つのかも知れない。何らかのクリーチャーの可能性もありますね」
「ふむ、現段階にしては的確な推理です。素晴らしい。大学のご専攻は民俗学か何かですか?」
 ジェームズが言う。
「いえ、史学科で東アジア圏の考古学を…」
 と、照れたように彼女は話題を戻し、自分に話を振った。
「陸玖さんはどのように吸血メスを見分けるおつもりですか?」
「炙り出す方法ですか…自身の血を囮にすることですかねぇ。メスを使う怪我をすればすぐ寄ってくるでしょう。吸われて衰弱あたりはしそうですが」
 だが、私が死ぬことはない。それは言葉にしなかったが、律花もジェームズも言外の意味に気付いたようだった。
 律花は自分を憚ってくれたのだとして、ジェームズも黙っていたのには少し驚いた。人への興味を露骨に示す性分だろうに。いや、むしろ最初から気付いていたのか。彼からも自分と同じ、永い命を有する者の匂いがする。
「ブラックマンさんは?」
 律花がそれとなく話の焦点を戻した。
「ふむ、ミス・陸玖の意見に同意ですな。自分の血を差し出そうとは思いませんが。仮に亡霊の一種なら、一定量を摂取したら成仏するかもしれません」
 どことなく投げやりな答え。むしろ、律花の考えを聞くために述べた適当な意見…翠はそう感じた。案の定、律花が別な提案をする。
「危険な相手の可能性もあります。安易に生き血を与えてしまうのは、敵に力を与えるだけかも知れません」
「一理おありだ。他に考えをお持ちのようですが?」
「ええ…これ、『猫の黒鏡』と言われるものなんですが…」
 彼女が取り出したのは、銀縁で装飾された楕円形の鏡だった。被せてあった布を取ると、真っ黒な鏡面が姿を現す。
 一瞬、バックミラーの向こうでジェームズの顔が強張った。翠が初めて目にした、余裕の笑み以外の表情だ。律花はそれに気付かず、話を続ける。
「この鏡は、真実の姿を暴き出す力を持ってるんです。これを向ければ、正体を暴くことが出来るかも知れません」
 そう言うと彼女は鏡を布で包みなおした。ほっとしたようにジェームズが肩を落とす。まあ、安易に向けて欲しくはない代物だろう。
「素晴らしい呪物ですね、ミス。確かにそちらの方がよいかも知れない。…ところで、見付けた場合は封印するのかな、麗香?」
 助手席でうつらうつらしていた麗香が、急に話を振られて振り返る。
「ええ、まあ。蓮から呪物封印用の箱も借りてきたし。出来ることなら」
「箱?中身は?」
「空っぽよ。この箱の中に呪物を入れてしまうことで、その力を封印できる…ってだけ」
「ああ。そういうものですか」
 ジェームズがそう言ったとき、車が優雅に弧を描いて病院の駐車場へと滑り込んだ。

 まあ、全ては行ってみればわかることでしょう…。



 暗い病院へ入り込んだ瞬間、ジェームズは全身の毛を逆撫でてくるような敵意が風のように突き抜けていくのを感じた。自分と翠が反射的に足を止める。
「それじゃあ、律花。あなたはさっきの鏡で、メスの検査を開始してくれる?」
「碇さんは別行動ですか?」
「病院のスタッフに話を聞いてみるわ」
 話しながら歩く二人の後ろで、目を合わせる。やはり、友好的な相手ではなさそうだ。
「…お気づきに?」
 翠が尋ねる。彼女には嘘をついても仕方があるまい。ジェームズは肩をすくめて見せた。
「…私は秋月殿にご同行しましょう。ブラックマン殿は麗香と…」
「ミス・秋月には教えておいた方がいい。在庫や備品を検査するのならば、そちらの方が危険でしょうからね」
 翠が頷く。律花の人間性には面白みを感じるが、危険な場所に赴くのならば翠に役を譲った方がいいだろう。自分はただの人間ではないが、戦う技能を磨いてきたわけではない。
「麗香、スタッフと話すのならば、ご一緒しますよ」
「あらそう?じゃあ、お願い」
 他者とは対等の存在として付き合った方が、気分もいいし人間観察もしやすい。この病院に巣食っている奴は、そういうデリカシーには欠けるようだが…。
 撒き散らされる芬々たる敵意に、ジェームズも少々嫌気がさしてきた。



 ジェームズは麗香と共に吸血メスを使ったことのある医師を尋ねていた。
「吸血メスで死んだ患者のカルテを参照したいのですが」
 医師は無論ながら、その申し出をためらった。
「個人情報だぞ」
 そんなことも理解できないのか、とでも言いたげな瞳で彼は睨みつけてきた。
「仰りたいことはわかります。今は個人情報保護法もありますからね。危惧も理解できますとも。しかし、あなたも外科医ならば、もっと差し迫った危機に気が付くべきです」
 医師は怪訝な表情でジェームズを見た。
「メスを使う人間はあなたたちだということです。こんなことが続けばどうなりますか?最近は医療ミスが問題視されている。その隠蔽を暴くのは困難です。そんな社会情勢の中、あなたが手術した患者が次々と死ぬ。原因は不明。大衆はどう見ると思います?」
「ば、馬鹿な。私はミスなどしていないんだぞ。現に手術に全く不手際は…」
「それが真実ですが、大衆はそう見ない。吸血メスが悪いなどという真実を世間に伝える方法がありますか?」
 そう言うと彼は蒼ざめた顔でうな垂れてしまった。ここで、一歩の譲歩をすればそれで交渉は終わりだ。
「ではこうしましょう。奴の手に掛かったと思われる患者の血液学上の共通点などを教えてください。それ以外は必要ありません。それならば、あなたが誰の何を明かしたのかばれる心配もない。雑誌に載るのは血液型の傾向くらいのものです」
 医者は救われたという表情でジェームズを見た。彼はすぐに無数のファイルの中から、患者の情報を漁り始めた。
「さすがね」
 麗香が言う。
 始めに大きな条件を提示しておいた後で一歩引いてやれば、相手はその話が美味しいものだと思って飛びついてしまう。交渉術の基礎にすぎないが使い勝手はいい。
 医者はしばらくして戻ってきた。
「患者の血液型は整合性がないな…ただ、それ以外に一つ共通点があったよ。こうして見てみると、みんな若い。三十歳以下の人が奴に吸われたことはないね」
 ふむ…なるほど。心得顔で頷いたジェームズに麗香がそれで何がわかったの、という目を向けてくる。
「奴には『好み』があるということですよ。ミス・秋月が言っていたように、妖刀は知恵を使用者に依存する。だが、こいつは使用者をころころと変えているくせに、獲物を限定しているでしょう?つまり、単体で知恵がある」
「つまり正体は?」
「狭まってはきましたよ。しかしもう少し、話を聞いてみないといけません」
「その前に、二人が現物を見つけ出しそうだけどね」
「ふむ…」
 頷きながら、ジェームズは漠然と違和感を感じた。先ほどから、撒き散らされるような敵意は消える気配がない。この敵意は我々の存在と、破壊か封印という目的とを察していることを意味する。

 …それなのに気配を殺して隠れているという知恵は働かないのか?



「トイレに行ってくるわね」
 ジェームズが別の医者と話している間に、麗香がそう言った。頷き返して、医者との話に戻る。
「それで、手術中にメスに気付かなかったとは、どういうことなんです?」
「いや…私は確かにあのメスを二回ほど使っていたんだが…いつも終わってから気がつくんだ。血を吸ったかのように不気味な紋様に…」
 やはり、ある程度の精神干渉か。しかし、それにしては律花の言ったとおり、影響力に欠ける…単なる能力不足か?
「握っていたときの記憶が消えるとか、そういったことは?」
「特には…いや、しかし…そうだな、むしろ普通のメスよりも手術そのものは上手くいくんだ。結果的に患者は衰弱死してしまうが…手術に集中できるような気がするな」
 ジェームズは顎に手を当てた。これをメスの好意と考えるのは馬鹿のすることだ。病院内に立ち込める敵意、患者の血と命を吸い取る行為、血液に対する嗜好…――

 待てよ、もし仮に奴が一人の人間を完全に支配しうるだけの力を持っているのだとしたらどうなる?医者を完全に操らないのは単に奴に医療知識がないからではないか?医者の集中力を高めさせて手術を続けさせるだけで、奴は何もせずとも要所の血を吸える。
 奴は血液に対する嗜好があり、生命溢れる餌食の手術を狙ってやってくる。どうやってその情報を手に入れる?医者の会話によって?とすると、奴は人間と同等の知能を持っている…
 待て、それでは奴は何故、逃げようとしない?敵意を撒き散らして自分の存在を知らせることで奴に何の得がある?
 病院内に追い詰められた状況を打開する策は二つある。逃げ出すか、もしくは敵を始末するかだ。この敵意を考慮する限り、奴が選んだのは…――

 全ては可能性に過ぎない。推測の上に立てられた仮説、不安定極まりない推論だ。しかし、ここが今にも捜査の場から戦場に変わるとしたら、この可能性に目は瞑れない。
 ジェームズは、麗香の後をすぐさま追いかけた。もし奴に人間一人を完全に掌握するだけの力があるのなら、すでに備品に紛れてなどいまい。
 狙ってくるのは、油断しているこちら側だ。



「すいませんがペンを貸してくださいますか?」
 ぼんやりした表情の看護婦が、いきなり話しかけてきて麗香はびっくりした。カルテを抱えて、空の右手を動かしている。麗香は反射的にペンを貸してしまっていた。
「ありがとうございます」
 目の前で何かを書類に書いていく看護婦。外部の人間からペンを借りるとは。普通、胸ポケットなどに入れておかないものか?落としでもしたのか?
「どうも」
 うつろな目の娘が、こちらがはっきりと思考を紡ぐよりも早く、その手を差し出してきた。怪しいものを感じて、看護婦に意識を集中させたままそれを受け取る。
 女が、にやりと笑った。虚ろに、暗く、澱んだ目で。
「ありがとう…」
 彼女はそのまま膝から崩れ落ち、意識を失った。転がった書類には適当な線が引かれているだけ。彼女の手からからりと自分のペンが転がり落ちる。
 ぞっとして、受け取った物を見やる。開いた手から毒々しい血管紋様を浮かべたメスが現れ、意識が暗くなった。刹那、麗香は罠にはまったことを悟った。



「麗香、離れない方がいい。ひょっとすると奴は…――」
 暗い廊下に足を踏み入れた瞬間、ジェームズはすでに遅かったことを察した。佇む麗香の傍らに崩れる看護婦、振り返った彼女の目には虚ろな光が宿り、その右手には…

 先手を取られたか…――

 ジェームズが内心で舌打ちすると同時に麗香がいきなり彼の襟を掴んだ。レスラー並みの筋力で、彼を持ち上げる。
「…貴様らか、私の邪魔をしに来た連中というのは」
 声こそ麗香のものだが、その口調は明らかに違う。これは吸血メスの言葉だ。といって、麗香の体に攻撃するわけにはいかないが。
「人間ごときが、この私に楯突くとはな…」
 今のところ運が向いていることといえば、コイツが人質を取るつもりで麗香の体を乗っ取ったわけではないというところか。単に、始末する効率を考えてのことだろう。
 首が絞まらぬよう、手首を握って体重を分散させながら、ジェームズは答えた。
「そのつもりの方もいらっしゃいますね。しかし私はあなたがこれ以上、害をなさずにここから…そして友人の体から去ってくださるのでしたら、見逃してもよいと思っていますよ」
 本心ではあった。戦闘を回避するチャンスがあるなら、それに賭けたい。なにしろ、麗香の体からコイツを引き離す方法は考え付いてあるが、それは…
 麗香(いや、吸血メス)は眉を寄せた。
「私を見逃す?本気で言っているのか?」
「ええ…私が見たところ、物質憑依する系統の魔物の方ですか…?ならば生きるために生き血を吸うのは仕方の無いこと、要は度を過ぎなければいいのです。適度に力を吸い取り、殺しをせず、目立たなければ、誰からも敵視されることもない。つまり…――」
「悪いな、人間」
 締め上げが強くなって、ジェームズは言葉を止めた。
「私は交渉するつもりなどないんだよ。この餌場は私のものだ。邪魔者は消えて失せろ」
 やはり、こうなるのか。全く、礼儀を知らない奴は…――
 そしてジェームズはメスが自分の体に深く突き刺さるのを感じた。



「い、碇さん!ブラックマンさん!」
 彼らを見つけた廊下では異様な光景が広がっていた。倒れている無傷の看護婦。ジェームズを片手で持ち上げる麗香。胸からメスを生やしたジェームズ…
 不意に、ジェームズが身を捻らせて麗香の拘束を振りほどき、メスを突き立てたまま廊下の奥へ飛び退った。麗香が突然意識を失ってその場に倒れる。ジェームズは胸元を抑えたまま麗香たちから離れ、壁にもたれるように崩れた。

 律花は気が遠くなりかけたが、次の瞬間、ふらついている場合ではないことを悟った。まるでメスそのものが生きているかのようにジェームズの胸から飛び上がり、真っ直ぐに彼女に向かってきたから。
 すぐさま結界を張ろうとしたが、メスの方が明らかに速かった。空気を切り裂きながら、真っ直ぐこちらへ向かってくる。

…が、メスよりも翠の方が速かった。
 空中でぶつかり合ったメスと呪符。ぶつかった瞬間、まるで焼夷弾のように呪符が火を吹き上げ、甲高い金属音と共にメスを弾き飛ばす。目の前で起こった小さな爆発に仰天して、律花は後ずさった。
「麗香たちを連れて、ここから離れてください」
 静かに翠が言う。
「け、けど…」
「あれは刃物に憑依して、現世にやってきた妖魅の一種でしょう…貴女の鏡で覗き見れば本性も映りましょうが、現世において分離は出来ない下等な種。貴女の推理が正しかったのですよ」
 何らかのクリーチャー…自分はそういったが…人間を完全に操るのみでなく単体で飛翔して攻撃できるほどの化け物だとは。巧妙に正体を隠していたというわけか…
「急いで。奴の始末は、私がつけましょう」
「けど、ブラックマンさんが…」
 麗香と看護婦は翠の脇に倒れているが、ジェームズはメスの向こう側だ。銃弾のような速度で飛ぶメスを掻い潜って助けに行くというのは…
「彼は私が助けましょう。しかし麗香たちがいては、存分に戦えませんので…彼女たちをお願いします」
 律花は頷き、倒れこんだ二人を引きずって廊下の奥へと下がり始めた。ここは彼女の力量に賭けるしかない。



 麗香と看護婦を律花に任せ、翠はメスとにらみ合った。不意にメスが回転し、こちらへ向かってきた。扇状にした呪符によってそれを弾く。後方に飛んだメスの隙を見逃さず、翠は畳み掛けた。
 メスは金属である以上、陰陽五行説に照らせば金の気を持つもの。相克の火の気であれば、十分なダメージになるはずだ。
 無数の呪符が飛び、メスを廊下の奥へと追いやる。その隙に、翠は倒れたジェームズの脇を通り過ぎてメスを追い詰め、彼への危険を排除した。
「何人もの命を喰らって、増長していらっしゃるようですねぇ…。力も、態度も」
 両手で呪符の扇を作りながら、翠はメスを睨み付けた。ちっぽけな割にタフだ。何度か呪符の直撃を受けただろうに、刃こぼれする程度の傷ですんでいる。
「しかし貴方は私の友人を乗っ取り、あまつさえ仲間の一人に傷を負わせた…封印で許してもらえるとは思わないでいただきたい…」
 静かに怒りを込めて、翠は言い放った。
 ジェームズは恐らく生きているだろう。彼は永い命の匂いを感じさせる。あの程度で死ぬことはないはずだ。だが何故、ああもあっさりと攻撃を受けたのか。単純な話、彼は自ら攻撃を受けて、メスと麗香を引き離したのだ。

 意外に紳士じゃないですか…見直しましたね…

 彼が自分の力量を信じて戦闘を任せたのならば、信頼に応えなくてはなるまい。
 弧を描いて、メスが飛ぶ。首の後ろ。翠は呪符の扇でそれを弾き返した。呪符を投げ放ち、さながら弾幕のごとくにばら撒く。さすがに小さいだけあって奴はそれを良く避けたが、一発が横っ腹に直撃した。甲高い音と共に壁にぶつかって跳ね返る。
「速さも頑丈さも見事です。…が、それだけではね」
 ぼろぼろになったメスがくるりと向きを変えて、廊下の奥のガラスを目指す。ようやく力量差を理解したのだろうが、もう遅い。ガラスが、まるで鋼鉄のようにメスを弾く。
「考えも無く呪符をばら撒いていたとお思いで?」
 奴に正確な狙いをつけて放ったもの以外は、結界として機能するように壁やガラス戸にへばり付いている。これで王手だ。
 メスは焦ったように向きを変え、呪符を掻い潜って向かってきた。が、翠が身を捻ってかわそうとする必要もなく、脇をすり抜けてもと来た廊下の方へと逃げ去り始めた。
「逃げられるとでも…――」
 と、そこまで言って、翠は追跡を止めた。廊下の奥、あんなメスごときよりも大きな人外の気配を察したから。

 …これは…――

「なるほど…始末する優先権は、あなたにありますからね…」
 翠はそう言って手をかざし、結界にしていた呪符を呼び戻した。すでに決着はついた。あとは結果が届くのを待つだけだ。



 黒いスーツのおかげで血は目立たない。とは言え、自分の血を眺めることになるとは、最初は予想していなかったが。
 ジェームズはしっかりと立ちあがり、捕まえた吸血メスを冷ややかな視線で観察していた。すでに刃も欠け落ち、焦げ付いてぼろぼろだ。単体で動くのは力を消費する上、容赦のない爆撃に晒されたとあっては、当然の結果だ。空中で捕らえるのも、いとも容易かった。
 吸血メスは手の中に納まりながらも逃れようと暴れまわっている。
「全く…身の程も知らずにミス・陸玖に突っかかっていくからですよ。自分の力量くらい見極めてください」
 刹那、精神干渉能力が発動した。微かな頭痛が走り、意識に手が伸びてくる。苦々しい思いを込めて、ジェームズはメスを握りあげた。声にならぬ思念の悲鳴が上がる。
「全く、あなたは目先のことばかり見て失敗し続ける…。生き血を吸って人を殺そうというのに安穏と一所に留まり、敵が来てもまともな対応も出来ない」
 仮に自分たちを首尾よく全滅させられたとして、何になる?これだけ噂になっているのだ。いずれは始末されるに決まっている。そんなことも見抜けなかったのか。
「見逃してやろうと言ったのにそれを蹴り、不利になると逃げ腰になる…。申し訳ありませんが、あなたは非常につまらない。あなたのおかげでスーツを汚したのが馬鹿馬鹿しくなってきますよ」
 口から垂れた血を拭い、静かにジェームズは両手でメスを握り締めた。刃の方を持った手から、鮮血が滴り落ちる。メスは気を震わせて咆哮した。ゆっくりと、ねじり切られるかのように力が加わったから。
「待ってくれ?…いやいや、勘違いはいけませんな。私は『すでに待った』のですよ。そして『あなたが』交渉をお断ちになった。つまりこれはあなたが選んだ道。私はただ結果をなぞるだけに過ぎません」
 魂に届く声ならぬ声でメスが喚く。前は一体、何者なんだ?と…
「何者か?それは、あなたが自分の目で見抜くものです。さて…そろそろ、終わりにしましょう。ミス・陸玖をずっと廊下の奥で待たせておくのも忍びありませんし」
 人外の悲鳴が鋭く静かに夜を裂く。助けてくれと、無音の断末魔が脳裏に伝わる。それを魂で聞きとめながら、ジェームズは丁寧に別れと終わりを告げた。
「それでは、さようなら…――」

 よせ、やめろ!助けてくれ、頼む、助け…――

 精神干渉がぶつりと千切れたのを感じて、ジェームズはねじ切れた残骸を静かにポケットに入れた。



「全く、ドジ踏んだわ…」
 月刊アトラスの編集長デスクで、麗香がうんざりした様子で頭を抱える。
「けど、翠。あなたもあなたよ。破壊しちゃうなんて。出来れば手に入れたいって言ったじゃない」
 苦笑する翠の顔には「タフですねぇ…」と言わんばかりの色が浮かんでいる。律花としては全員が無事で、更にあの忌まわしいメスが破壊されたというだけで十分だった。
 それにしても…『全員が無事』とはなんとも妙な話だ。
「ブラックマンさん、あの…本当に、平気だったんですか…?」
 静かに記事に目を通していたジェームズがこちらを振り向き、にこりと笑みをこぼした。
「胸ポケットに手帳を入れていましてね。それでどうにか、深く刺さることは避けられたんですよ」
 手帳…?そんなもので防ぎきれる相手だろうか?そもそも、切り傷から命を吸い取るような相手なのに…。
「ミス・陸玖の退治も早かったですし、どうにかなったのでしょう。さて、彼女にお礼でも言ってきますよ」
 さわやかな笑顔で、ジェームズはこちらの思考を読む。そして苦笑を浮かべながら編集部を出た翠を追って、颯爽と去っていった。

 ブラックマンさん、あなたは…あなたは何者なの?

 かばんに入れた『猫の黒鏡』の重みが、自分の腕に意識された。これは、真実を映し出す鏡…。一瞬の迷いの後、律花はその考えを振り払った。彼が何者であろうと、それは重要なことではない。
 彼は身を持って麗香を護った。大事なのはその人間性だ。真実は、それだけではないか。



 雑然とした廊下を並んで歩きながら、ぽつりと翠が言った。
「私がやっつけたことにしておきましたよ」
「感謝していますよ、ミス。とは言え、八割がた本当のことですが」
「貴方がメスを麗香から遠ざけなければ、手こずっていたでしょう」
「お恥ずかしいですな。あのメスの不意を突いて、宿主から引き離す方法はあれ以外に思い浮かばなかった。無理に引き離そうとすれば、麗香の喉笛を切り裂いていたでしょうし…」
 二人はしばし無言で歩き、狭いエレベーターの中に入った。
「しかしミス・秋月もそうでしたが…あなたも私が何者か、とは尋ねないのですな。特に、知りたがりのミス・秋月にしては珍しい」
「…それを問うのは失礼というものでしょう。彼女も知っているのですよ。知らなくてもいい真実がある。あなたは友人を助けるために傷を負った。それで十分。それ以外は問題ではないということを、ね」
「ふむ。素敵なご返答だ。その配慮だけで私も十分だ。こういう仕事になるときは、またご一緒願いたいものです。ミス・秋月も、あなたも」
「私たちの時は永い。また会えますよ」

 では、また。ジェームズ…――

 翠の言葉はエレベーターの開く音と都会の喧騒に溶けて消えた。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【5128/ジェームズ・ブラックマン/男性/666歳/交渉人 & ??】
【6118/陸玖・翠(りく・みどり)/女性/23歳/(表)ゲームセンター店員(裏)陰陽師】
【6157/秋月・律花(あきづき・りつか)/女性/21歳/大学生】


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■         ライター通信          ■
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 ジェームズ様、初めてのご参加ありがとうございました。

 ジェームズ様は謎めいたキャラクターをされていらっしゃったので、最後までその雰囲気を保ちつつ、描写することを心がけました。また、交渉人としての腕前も発揮させて見ましたが、いかがでしたでしょうか。
 今回の作品テーマは『物を見抜く』というようなことを中心に展開させたのですが、ジェームズ様という謎めいたキャラクターがいてくださったおかげで、よくまとめられたと思います。

 気に入っていただけたら幸いです。では、また別の依頼でお会いできますことを心よりお待ちしております。