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【回送電車】Seashower
『……間もなく、扉が閉まります。駆け込み乗車は危険ですので、お止め下さい』
そんな構内アナウンスが聞こえてマリオン・バーガンディは少しだけ足を速めた。
これに乗らなければ買い逃してしまうのだ。小走りに階段を駆け上がると、行き先も確認しないで、そのホームに止まっている電車の、今にも閉まろうとするドアの隙間に体を滑り込ませた。
間一髪間にあった。
ほっと人心地。胸を撫で下ろしてドアに背を預け、ふと顔をあげると、通勤ラッシュは越えたとはいえ平日の朝にしては車内ががらんとしていた。
どうして誰も乗っていないのだろうと、訝しげに後ろを振り返ると、ドアの窓からホームが見える。
「あれ?」
ホームの向こう側に今にも走りだす電車の行き先表示を見てマリオンはしばらくそれをきょとんと見つめていた。
構内の行き先掲示板が次の電車の表示に切り替わる。その直前の二文字が彼の目に焼きついた。
――回送。
「ああ、どうやら、回送に乗ってしまったようですね」
マリオンは苦笑まじりになんとものんびり呟いた。慌てた様子も焦った様子もなく、どこかあっけらかんとしている。
某百貨店の中にある洋菓子やさんの1日限定30個のミルフィーユは、これでもう間に合わないだろう。ちょっと惜しい気もしたが、とはいえ今日でなくても、明日でもなんとかなるものだ。
朝の通勤渋滞で普通でも入り組んだところにあるその百貨店は、車では販売開始時間までにたどり着けそうになかったので、それなら電車で行けばと、わざわざ駅まで送ってもらったのだが。
「また、送って、なんて言ったら呆れられるでしょうか」
運転手の苦笑を想像して、マリオンは誰にともなく呟くとわずかに肩を竦めてみた。
しかしこうなってはどうしようもない。いや、別の方法も全くないわけではないが。走る電車から飛び降りるわけにもいかないし、不用意に空間を繋げて騒ぎになっても面倒くさい。
マリオンはどこかこの状況を楽しむように電車の進行方向に向かって歩き出した。
恐らくは車庫に向かっているのだろう、車掌さんに事情を話そうと思ったのである。
「滅多に体験できそうにありませんしね」
独りごちながら、一つ前の車両へ移動すると、真ん中の7人掛けの座席に1人の女性が座っていた。
空色の半袖のブラウスに真っ白のフレアスカート。膝の上にブランド物のハンドバッグをのせて、何事もなかったかのようにすました顔で、ぼんやり外の景色を眺めている。
見た目だけなら自分より少し上くらいだろうか。楚々とした品の良さを感じさせるお嬢さんだった。
こんな風に回送電車に乗っちゃう人って他にもいるんだなぁ、などと思いながら、マリオンはその女性の隣に座ると声をかけた。
「あなたもですか?」
突然声をかけられその女性は、少し驚いたような顔でマリオンを振り返る。
「え?」
マリオンは少しだけテレ笑いを浮かべながら言った。
「回送電車に乗ってしまうなんて、ね」
すると女性は不思議そうに首を傾げて――。
「次が終点なんですか?」
と、尋ねた。
◇
もしかしてこのお嬢さんは、うっかり乗ってしまったわけではなく、先ほどの駅で降り損ねてしまったのかもしれない。
「次は車庫ですよ」
マリオンが笑顔で答えると、お嬢さんは怪訝そうに首を傾げてみせた。
「それは終点ではないのですか?」
「終点……とは少し違いますね」
マリオンは困ったように肩を竦めながら、失礼にならない程度にお嬢さんを頭から足下までゆっくり見返した。
ハンドバッグ以外の荷物は見当たらない。ヒールが高めである事と、さほど汚れていないところから、遠出をしているとか、旅行客というのでもなさそうだ。
しかし、この近辺の住人であるなら、多少駅の名前や地名くらいは知っていてもおかしくないだろう。というより、そもそも車庫を終点かと尋ねてくるあたりから察して、電車に乗った事がないのかもしれない。
「終点は先ほどの駅です。私たちはこれから、電車を仕舞うところに向かっているんですよ」
そう説明すると、お嬢さんは視線を上に向けて考えるような仕草をした。それでもどうも充分には理解できなかったようで、不思議そうな顔をしている。
どこかの深窓のご令嬢というやつだろうか。確かに品の良いものを感じるのだが。世間ずれもしていないようだし、純粋培養された天然のお嬢様然としている。しかし、だとするなら供の者が誰もいないのが不自然な気もした。
マリオンは首を傾げながら車窓に目をやった。
さて、どうしたものか。
流れる景色を見ながらマリオンはふと、立ち上がった。
「とりあえず、車掌さんに話しに行こうと思うのですが、ご一緒しませんか?」
まるで女性をエスコートでもするかのように恭しく一礼してみせて、マリオンは彼女を誘った。
「車掌さん?」
「はい。“終点”に戻る方法を伺おうと思います」
「戻る方法……」
「はい」
マリオンはにこやかに頷いてから、ふと、車掌さんとはもしかして、一番前じゃなくて一番後ろの車両に乗っていたのではなかったか、と思いだした。一番前は運転士さんだけであろう。運転中の運転士さんに声をかけるのも気が退ける。とはいえ、車庫に帰るだけの電車に、車掌さんなんかが乗っているものなのだろうか。
長い電車の車両を行ったり来たり。
考えただけで、マリオンは段々面倒くさくなってきた。
「別に、伺わなくても方法がないわけではないのですが……」
マリオンは少しだけ言葉を濁して、視線を彷徨わせる。
「終点に戻らないといえないの?」
お嬢さんが尋ねた。
マリオンは少しだけ首を傾げてみる。
自分の場合。終点が目的地ではないのだから戻らなくてはいけない、という事はない。車庫から目的他に直行という選択肢もあるのである。
しかし、彼女は確認するように『終点』ではないのか、と尋ねていたので、てっきち終点に行きたいのだと思っていたマリオンである。
「終点に行きたかったのではないのですか?」
尋ねたマリオンに彼女は困惑げに俯いた。
「わかりません」
「え?」
「いいえ、それも少し違います」
「仰ってる意味がわかりません」
「行き先なんてどこでも良かったんです。ここではないどこかなら」
そう言って彼女は窓の外の景色に視線を馳せた。マリオンがこの車両に訪れた時にそうしていたように。
「ここ……?」
深窓のご令嬢、突然の失踪。
そんな言葉がマリオンの脳裏を過ぎる。ただ、家出の理由はわからないけれど、たぶんそれは、全くの無関係の通りすがりの自分が、聞いていいような事とは思えなかった。
マリオンは少しだけ考える風に首を傾げてから言った。
「行き先が決まっていないのなら、海に行ってみませんか?」
「え? 海?」
首を傾げるお嬢さんにマリオンは「ええ」と頷く。
何かしら嫌な事があって、ここから逃げ出したくなるほど嫌なことがあったとして、でもきっと、海はそんなちっぽけなものでも全部飲みこんでくれるに違いないから。
「はい」
マリオンは促すように彼女の手を引いた。
◇
まるで砂漠を思わせるような砂丘を越えると、そこに海があった。
海水浴にはまだ早いのだろう、海岸線に並ぶ海の家は休業中で、砂浜には殆ど人はいなかった。
遠くの波間にかろうじてサーファーの姿が見える程度で、打ち寄せる波の音以外は何も聞こえてこないほど静かだ。
彼女はしばらく目を輝かせて海を眺めていた。
まるで初めて見るような顔をしている。もしかしたら本当に初めてなのかもしれない。
青い空を映したような海は太陽の光を受け、白銀の波しぶきをあげている。
水平線は遠くにぼやけて、空と繋がっていた。
マリオンが靴と靴下を脱ぐと、ズボンの裾をたくし上げて、打ち寄せる波に足を浸す。
すると彼女もそれを真似た。
「冷たい……」
呟いて、彼女は微笑を浮かべる。
波を蹴飛ばすように足をあげると、飛沫が太陽の光にきらきらと輝いて、彼女は楽しそうに笑った。電車の中で見せていた表情とは違って、明るい笑顔で。
彼女はスカートを濡れないように両手で持ち上げて、ばしゃばしゃと軽やかにワルツを踊りだした。
砂浜に砂山を作ってトンネルに水を通したり。
砂の城を作ったり。
やがて潮が満ち、砂上の城は海にさらわれていった。
けれど意外にも彼女はあまり残念そうな顔はしなかった。
西の空が夕焼け色に染まる。
頬を茜色に染めて、彼女は陽が沈むのをじっと見つめていた。
「楽しかった」
彼女が呟いた。
「それは良かったです」
マリオンが答えた。
「ここにはまだ、こんなにも楽しい事があったのね」
彼女はマリオンを振り返って、そう言った。
ここにはまだ――。
「え?」
――ここではない、どこか。
マリオンは彼女の顔をまじまじと見返した。
「私、帰らなくちゃ」
彼女は晴れやかな顔でそう言った。
「はい」
マリオンは彼女の手をとった。
◇
2人はあの回送電車の中にいた。
彼女はあの車両の真ん中の席に1人でぽつんと座っている。
だけど窓の外を眺める目はぼんやりとはしていなかった。
まるで目的地を見つけたかのように、進行方向をじっと見据えていた。
少し、ぼーっとしたお嬢さんだったけれど、きっと彼女はこれから1人でいろんなものを乗り越えていくに違いない。
マリオンは一つ手前の、自分が最初に飛び乗った車両から、そんな彼女を確認して、さて、と振り返った。
目の前に手を翳す。
空間と空間を繋いで。
それは時間も世界も夢の中さえも飛び越える。
今は、この電車とあの駅を繋いで。
――頑張ってくださいね。
そう呟いて一歩を踏み出した。
■END■
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【4164/マリオン・バーガンディ/男/275/元キュレーター・研究者・研究所所長】
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■ ライター通信 ■
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ご参加いただきありがとうございました、斎藤晃です。
楽しんでいただけていれば幸いです。
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