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<東京怪談ノベル(シングル)>


モルモット・レース



 森の暗黒の中で、黒が動く。その黒は、高崎霞。彼女の姿は漆黒だった。大仰なゴーグルをつけているために、怜悧な美しい顔立ちも、黒の中に隠れてしまっている。彼女は唇をぴくりとも動かさなかった。ただ静かに、藪の中に身を潜め、獲物の気配と動きを探っている。刃のような雑草の葉が頬を突ついても、蚊が首筋を刺しても、彼女は微動だにしなかった。
 動いているのは、獲物と森だけ。
 霞が追っているのは、ちっぽけなモルモットだ。森の暗黒に比べれば、ずっと小さく、弱い存在だ。霞が注意しなければならないのは、一点だけ。それは、その小さな存在をけっして殺してはならない、というものだ。生きたまま、依頼主に差し出さなければならない。なるべく傷もつけないほうがいいだろう――この場合は。ターゲットを生きたまま連れてこい、という依頼は霞にとって珍しいものではない。ただ、そういった依頼では、生きていればどんな状態でもとりあえず差し出せばいいものと、そうではないもののふたつに分けられる。
 森の暗黒の中で、白が動いた。
 黒の霞も、次の瞬間には動いていた。


 依頼は非常に急を要するもので、霞はヘリでの送迎を受けた。現場は東京から遠く離れた山中、原生林の中にぽつんと建設された一軒のラボ。周囲には住居らしい住居もなく、畑や道の一本すら見当たらない。物資はヘリで輸送し、研究員はラボに泊まりこんでいるようだ。
 霞は世界中で、こういった研究所を飽きるほど見てきた。世間の目から外れたラボで行われている研究は、世間の良識や常識からも外れている。ここもその例に漏れなかった。有体に言う『超能力者』の研究を行っているらしい――霞はそれ以上、依頼主については知らなかった。正直なところ、その最低限な情報さえも、霞にとっては不必要なものだ。自分のことをいちいち詮索せず、仕事のないように見合った報酬を払うのなら、高崎霞は誰からのどんな依頼でも引き受けるのだから。報酬さえ満足できるものであれば、国をひとつ潰せと命じられてもかまわない。
 今回の霞が生け捕らねばならないものは、国でも核弾頭でもなかった。国に比べれば、ずっと小さな少女ひとりだけ。もっとも、研究所にとっては、無視できない大きさなのだろう。報酬は億単位だった。
「こっちの『兵隊』は12人殺された」
 依頼人は苦虫を噛み潰した顔で付け加えた。
「きみなら13人目にはならないと信じている」


 逃げる逃げる、彼女は逃げる。白い一枚布の患衣を着た、白いネズミは逃げていく。
 ほんの少女だった。髪は伸び放題で汚れている。皮膚は病的に青白く、唇は荒れて割れていた。
 彼女の足音は森中に響きわたるかのようだ。彼女はただ、逃げることだけを考えている。気配や足音を消すということにまで気が回らなかった――無理もない、彼女はただの白ネズミで、プロではないからだ。脱走の敬虔はこれまでに一度もなかった。
 白い少女は闇から闇へ、騒々しい音を引き連れて逃げていく。時おり後ろを振り返り、息を詰まらせた。彼女には、透視の類の能力はない。しかし今は、逃亡者としての立場が、追われる獣にふさわしい直感を与えていた。
 何かが間違いなく追ってきている。目には見えず、音もしない。だが追ってきている。しかも、確実に。
 やがて少女は泣き始め、悲鳴のようなものを上げだした。
 無言の追跡が、静かにその悲鳴を辿る――。
「いや……、いやッ、誰!? いるんでしょ!? いやよ、絶対戻らない! あたし戻らないからね! ぃぃいいいッ、あぁぁあああァ!」
 物言わぬ樹木と草花が潰れた。
 それが少女の能力だ。
 どおん、どおんどおんがおん。どうんどおんどうん。
 足音や悲鳴の比較にならない大音響が、今は確かに森を揺るがす。しかし、厚さ数センチにプレスされていくのは、少女の視界に入るもの――少女に見えているものだけだ。彼女に見えていない、暗黒の追っ手の気配は消えない。
 潰れるものを瞬時に見極め、潰れた直後には次の闇に移っているのだ。黒の追跡者は闇を恐れるどころか手なずけている。気配が揺らがないのは、追う者の感情が一切乱れていないからだ。
 だが、この世界に完璧なものは存在しない。ひとつの現象に必ず何かが干渉することで成り立っている。このときも、完全無欠と思われた黒い追っ手の姿が、ほんの一瞬少女の視界の中に映りこんだのだ。
「……見つけた!」
 少女は目を見開いた。
 黒い敵を押し潰すためだ。
 しかし、
 何も潰れなかった。

「え!?」

 驚愕する少女の視界は、ほんの一瞬真紅に染まった。それからは闇だ。彼女は、何も見えなくなってしまった。
「いっ……!? ああああ、やああああッ、やだッ、やめて、外して! これ、外してよおッ!」
 それは真紅の目枷と言うべきか。視線を武器にする少女は、硬質の赤い目隠しをされていた。少女はそれを顔から剥ぎ取ろうともがいたが、目隠しは根を張ったように動かない。ほんの1ミリずれる様子もなかった。涙はせき止められ、頬を伝うこともない。
 髪を振り乱して泣きわめく少女の背後に、黒い追跡者の姿はあった。
 高崎霞。
 赤い目枷も、彼女が所有するアーティファクトそのものだ。普段は指輪として身につけているその魔法工芸品を、さきは視線の力を受け止める壁として利用した。彼女の〈紅の牙〉は、そうして自在に姿を変える。
 霞は無言で少女の両腕を掴み、目隠しに手を触れた。黒手袋をはめた彼女の手の動きに従って、〈紅の牙〉はただちに姿を変えていく。目隠しの後ろから鎖が伸びた。鎖の先端には手錠がついた。霞は手早く、少女の両手首を拘束した。わずか数秒の『作業』だった。
「――こちらの状況は終了した」
 ざり、っ。
『了解。直ちに回収に向かう』
 ざり、っ。
 簡素な報告は終わり、無線の雑音もそれきり止んだ。森には、湿った沈黙が戻ってくる。――ほんの、数秒だけ。
「ね、ねえっ、ねえ」
 懸命に拘束具を外そうともがきながら、少女が背後の霞に呼びかける。霞は――それに応じたわけではないが――大仰な暗視ゴーグルを外した。冷たい美貌の上を、森の夜気が撫でる。
 霞が肉眼で見下ろしているのは、ほんの少女だ。まっとうな人生を歩んでいたなら、高校に通っている年齢だろう。
「お、お願い。あそこに帰りたくないの。こ、殺されちゃうよ。実験でみんな殺されてくの。あ、あ、あたし、まだ、し、死にたくないよ! な、何にも悪いことしてないのに、あ、あたし……あたし、どうして……、やだ、やだやだ、あんな死に方いやあッ!」
「……」
「ねえっ、お願い! お願いだから! あたし、あたしまだ、まだやりたいことたくさんあるの! 死にたくない、お願い! 助けて! 何でもするから、ねえッ、助けてようッ!!」
 がさりがさりと、男たちの足音が近づいてくる。足音が大きくなるにつれ、少女の懇願は割れた絶叫に変わっていく。しまいには、サルとネズミの悲鳴をかけ合わせたような、甲高い咆哮になっていた。
 その叫びを真っ向から受けても、霞は動かない。表情すら止まっている。だが――、白い作業衣の男たちが少女を取り囲むまでの間に、ふと、霞の脳裏を言葉がかすめた。
 ――助けてやるとも。この研究所の倍出すのなら、な。
 長く続いた金切り声は、唐突に途絶えた。研究所の人間が、麻酔を打ったからだ。霞は無言のまま少女がぐったりと完全に意識を失うのを待ち、目隠しを取って、拘束も外した。赤い拘束具は赤い指輪の姿に戻り、霞の指に収まった。
「――助かりました。ご苦労さまです」
「……」
 霞は研究員のねぎらいに何も返さず、ちらりと一瞥をくれただけだった。研究員は5名ほどいただろうか。男たちに担がれ、白いネズミは連れられていく。
 最後に一人だけ立ち止まり、霞にどこか暗い声を投げかけた。
「聞かないんですね、あのサンプルがどうなるのか」
「聞く必要があるのか」
「いえ。ただ、今まで同じようなお仕事を、あなたとご同業の方に何度も依頼しています。回収作業が終わるたびに聞かれましたよ。サンプルをどうするのか、とね」
「私にも、仕事の内容にも、関係のないことだ」
「……」
 男は霞の答えにうっすらと笑い、大きく頷いた。
「きっと、またあなたにお仕事をお願いすることがあるでしょう」
「……連絡を」
「では」
 どうやら、答えを気に入ってもらえたらしい。
 最後に残ったその男も去り、黒い森の中には霞だけが残った。どこからか、悲鳴が聞こえたような気がしないでもない――霞は静かに、煙草を取り出し、火をつけた。
 火が、湿気の中の恐怖と怨念をあぶりだしたようでもあったが、

 霞はその幻影にさえ、透明な一瞥をくれるだけだった。




〈了〉