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<東京怪談・PCゲームノベル>


青の鈴 〜生、青、流転〜


 瞼を閉じれば浮かぶ稜線。原初の風景、それはふるさと。
 嘉神しえるの心裡には、故郷の景色が二つある。

 ────ひとつは、この身体として生を受けた白い場所。
 ────今ひとつは、この巡り続ける魂が生まれた桜色の場所。


*******************


 春には、丈の低い草花が野辺を萌黄色に染めた。
 足元から伸びていく道の先、聳える峰の連なりは冬を越しても頂に雪を冠していた。魂まで吸い込まれそうな蒼穹が、その背後に広がり──青と、白。澄んだコントラストの見事さに、いつかの自分は目を細めた。
 今でも、瞼を閉じれば鮮明に思い出せる。あれが、自分のふるさとだ。
 しえるが十代の半ばまでを過ごした山間の街は、海を渡った大陸にある。この島国にも山脈はあるけれど、あれほどの雄大さを望むには少々山が和やか過ぎる。
 大きなる和、ともいうこの邦で、自分はいくつもの柔らかさに触れた。例えば舞い踊る時の指先であったり、また恋しい人の微笑であったり。とかくこの日の本という場所は、繊細優美、そして温かなものを尊ぶ気質があるらしい。

 ──── けれど、も 。

 ──── 今、この深閑たる山林には。
 ──── 硬く、拒むかの様に固い、青白き凍てつきが広がるのみ。


 す、と。 しえるは睫に彩られた瞳を開ける。
 顎を上げ、かつて山並を眺めたように見上げた先には、滝を背に浮く少年が一人。小さな掌の内に青い鈴を閉じ込め、唇を引き結びながら中空に佇んでいる。寂しそうでも悲しそうでもなく、表情にただ、静けさと厳しさのみを湛えて。
「また、『縁』と言うのかしら。ここまでくるともう、腐れ縁でなくて?」
 しえるは振り向かないまま、腰に手を当て言葉を投げる。
 背後の男はいつもの鷹揚さで、ああ、とひとつ答え。
「それだけ、因縁浅からぬ仲ってことだ。いよいよ鈴も三つ目、宜しく頼むぜ」
「任せなさいな……なんて殊勝ことは、言わないけれどね」
 くすり、と笑んだ唇がもう痺れている。吸う息吐く息、口を開くたび凍える冷気が入り込み、喉を否応なしに乾かす。
 温もりが血の通う生を象徴するならば、この冷たさは深い眠りについた死を連想させるもの。見渡す総てが白の中に埋没した世界。止まった流れ、動かない時間。────進むことを拒絶してしまった、一切。
 しえるは今一度ぐるりを見渡して確信すると、背を弓なりに反らせた。
 そこから大輪が開花するかの様に、熾天使の純白の翼が姿を現す。地を蹴り飛翔、目指す先は過たず少年。俯き加減のままの彼は、しかししえるが近づくにつれ僅か視線を動かした。
 少年と同じ高さで、しえるは羽根を止めた。
「話をしたかったから、」
 しえるは、わざと大きな声で切り出した。場にそぐわぬほどに明朗な声が、白い世界に木霊する。
「上にまで来させて貰ったわ。だって、見上げたままだと肩が凝っちゃうもの」
『……話? 否。説き伏せる心積もり、なのだろう?』
「まあ、いきなりツンツンしちゃって。安心なさい、確かに私は嵯峨野サンに頼まれはしたけれど、決して彼のために動いてるつもりはないわ」
 薄情だな、眼下で征史朗が茶化したのを微笑で受け流す。
「嵯峨野サンの言葉を借りるなら、貴方とこうして巡り会ったのも何かの『縁』よ。何せ貴方は此処をこのまま留めていたいらしいし、だったら、私と話す暇くらいありそうなものよね?」
 快活な物言いに、少年は不審そうに目を細める。そして暫し逡巡したようだった。勿論鈴を、握り締めたまま。
 桜花の下で出逢った少女も、池の汀で焔に身を包んでいた人も。想いを籠めた鈴を守ろうと──否、想いという茨で門を閉ざした楽園の中に居続けようと、他者を、未来を拒絶していた。見つめているのは愛した人と過去だけで、ここから進むことは要らないと、何処にも行きたくはないと────訴える切実さを知っていたからこそ、しえるは彼女達の魂に解放を与えたのだ。
 そう、征史朗が欲する鈴を持つ人はいつでも、愛しさに縋り、また縛られ。想いに埋没して世界を閉じている、まるで水辺のオフィーリアの様だった。たとえその人が昇華しても、形見の鈴は姿を留めたまま。

 言い換えれば、美しき、執心。
 征史朗は、人の執心を集めている。
 では、この世で最も美しいヒトガタを作り上げたいと願い語った彼は、一体何のために人の想いを使おうとしているのだろう。

『……話、とは?』
 やがて少年が、抑揚のない声でそう問うた。
 そうね、としえるは人差し指を顎にあて──その爪の先を、少年が背にする滝に指した。
「例えば、その、凍ってしまった流れのことを」


*******************


 山麓へと続く道に立っていた。──正確には、道が在ったはずの大地に。
 冬の訪れと共に街は白の中に沈む。尤も、その景観を生業としている街なので、冬眠のような耐える冬ではなかったが。
 山と空との雄大さに心地良く圧倒されながら、幼き日のしえるは胸いっぱいに冷涼な空気を吸い込んだ。きりりと身を引き締まらせる痛み、鼻の奥がツンとする。息をすることさえ難儀な寒さの中、天へとそそり立つ峰は飽くまでも不可侵の厳粛さを湛えていた。
 しかし不思議と、空にも山にも季節にも、拒まれているようには感じなかった。むしろ、懐に抱いた街を見守ってくれている様にも思えた。白く凍れる雪もまた、春には溶けて山に染み、いずれ野辺を潤す湧き水になると知っていた。

 短き生を、儚いと知らずに生きている人、その、いとなみ。
 見上げる空はどこまでも青く、流れ来る水は清清しい。
 青は、命の色だと知った。


*******************


 留めねばならぬ故、少年はただそれだけを答とした。
 当然、しえるは不平を申し立てた。
「ちょっと、モノローグではなくてダイアローグにして頂戴な。……仕方ないわね、じゃあ、どうしてそうしなければならないの?」
 待てど、返る言葉は無い。
 まるで聞こえなかった風を装い、少年が肩越しに滝を眇める。仕方なくしえるもそれに倣う。

 見事な滝だ、凍れるオブジェと化した今を見てさえそう思った。
 滔滔と流れ落ちていた時には、さぞや轟音を響き渡らせていたに違いない。放たれただろう音や飛沫をしえるは想像し、故に、今無音の中で動きを止めている姿を哀れに感じる。

 ────水、と、いえば。

 西欧の気質は、不定なる水に形を与え、美しい装飾として庭園に取り込む、いわば支配を旨とするものだ。逆にこの邦では、形を持たぬ水をただ流れるままにさせ、為すがままに在るがままにと、時の移り行く姿を愛したという。
 ならば、大いなる流れを止めるとは即ち、時への無理強い。
 無理は当然歪みを生む。そして歪みは、空気の肌触りをざわりと変える。

「……訊き方を変えるわ。何故、そうしたいの?」
 征史朗は言っていた、少年の望みは、この世界を凍らせて止めること。
 冬は春を待つための季節だが、此処は無理矢理眠らされている。初めて下り立った時から感じていた違和感は、白と青の違いだ。故郷と同じ雪の白でも、こちらは青空を知らぬ純白。音を立てることすら、いっそ生きていることすら拒まれているような静寂が気に入らなくて、しえるは少年に言葉を重ねる。
「先へ進みたくない、っていうことかしら。貴方はこれから育ち、長じていくべき姿をしているけれど、そのままでいたいということ? 今のままが良いと、今の幸福を壊したくないからと、時の流れを凍らせて、それを必死に守ろうとしがみついている。……違って?」
『……解ったように物を言う』
 ──── と。
 少年は不意に身を翻し、完全に背を向けてしまう。
 頼りなげな幼子の後姿に似合わぬ硬質な声が、
『おまえは……おまえの光は、眩し過ぎる』
 しえるに突如饒舌に、そして厳しく告げた。
『言葉を弄し、閉じた円環を無理に開き、また暴き。その者の裸足の爪先を、おまえは、敢えて茨の道へと踏み入れさせる。……それは身を裂く痛み。安寧を振り捨てさせ、最上の瞬間を、壊す』
 ひおう、と微風がしえるの頬を薄く切る。
 張り詰めた皮膚が痛みを訴えるほどの、凍え。
 それに呼応するかの様な、いや、世界を呼応させている少年の、言葉。
『おまえは、勘違いをしている。あれが自らは明かさぬであろうから、教えよう。この鈴は我のモノにして我のモノには非ず。そしてこの世界を創ったのも、我ではなく、あれ────』

 ──── おまえを連れてきた男、その者、だ。


*******************


 この身体の故郷が、命の青に見守られた場所だとしたら。
 この魂の故郷は、常しえの薄紅色に彩られた箱庭、だった。

 そこで私は、夢を見ていた。
 貴女も同じ夢を見ていると、想っていた。
 散り果てることのない花の樹下で、貴女と手を重ねていること。
 それが私の総てで、それが私の世界で。
 私の、たった一つの、祈りだった。

 ────どうかこのまま、何一つ、変わりませんように。


*******************


 嵯峨野サンが? 少々意外な瞬きをし、しえるは地上で待つ彼へと初めて振り返った。
「貴方が……創った?」
 和装の男は傘を小脇に、袂の中へ両手を入れて事の成り行きを見守っている様。声は聞こえているはず、しかし突然自分の名前が出てきたというのに彼は眉一つ動かしてはいない。相変わらずの不敵な微笑、崩さないでいる彼を見下ろして、少年は哀れむかの様に言葉を重ねた。
『我は、ただの仮初。凍れる滝も、此の静寂も────嵯峨野征史朗、あのか弱き男が望んだ姿。我は、あれの願いが形になった幻に過ぎず。だが生まれた以上、我は此処を、我の世界を守る。……それが、答え。留めねばならぬ、理由だ』

 ──── “霖”。

 はっ、と。征史朗が鈴の音を鼻で笑った。
「言ってくれるじゃねえか、坊。生意気な口きいてると、碌な大人になれねえぜ」
「って、ちょっと待ちなさいな」
 しえるが語気を荒げて遮る。
「本当だとしたら、矛盾もイイところよ。つまり貴方、自分の願いを壊してほしいと自分で頼んだの? どういうことなのよ……いいえ、そういうことなの?」
 男から、否定の言葉は返されなかった。
 代わりに両手を取り出し、擦り合わせて。
「……嗚呼、寒いな。手足が悴んで、倒れそうだ」
 はあ、と吐き出した息が白い。
 そのまま、がくり、と膝が折れ、雪の上に男が倒れこむ。いつか汀で見た光景が、蹲る姿に呼び起こされた。
「はは……助けに、来るなよ、大したことじゃ、ない。……そうだ、こんなことで、」
 言いさした途中、またあの時のように激しく咳き込む。口許を押さえ肩を揺らす彼の足元に一点、二点、朱が散った。総てが白の中でそれは鮮烈、目に焼きつくのをまたずとも、彼の身に何が起きているのか嫌でも悟った。
 留められたので降下の機会を失していたしえるは、無意識に下唇を噛みながら、征史朗と、未だ後ろ姿の少年とを見比べる。此処は何? 知らず、問いが口をついていた。
『此処は……あの男の、箱庭。────あれの、迷い』

 ──── “霖”。

『進みたくない、ではなく。進むのを恐れ、しかし一方で、未来を欲した男の迷い。女、おまえはあれに、進めと導くか?』
 咄嗟の答えに窮する。
 少年は待たなかった。
『……壊してでも、我を消してでも、鈴を奪う、か?』
「ああ、そうだ」
 足の下から声がした。
 荒い息の下、地に這い蹲ったままで征史朗が言う、きっぱりと。
「言ってくれよ、何時もの様に。おまえ……嘉神しえる。おまえは、剛い女だ。如何な迷いも真っ直ぐな意志で正し、進む心を決めかねて留まる弱さを、蒼白く熱い光で照らし、導く。……だからこそ、俺はおまえとの『縁』に縋った。おまえならば俺の背中を押してくれる。俺の、呪いの様に身を蝕む恐れを叱ってくれるよ……なあ?」
 再び咳き込みだした征史朗を、しえるは複雑な表情で暫し見つめる。
 彼の発作がおさまるのを待って、やおら、口を開いた。
「……フェアじゃないわ、真実を伏せて人に物を頼むだなんて」
「苦言、甘んじて受けよう」
「そんなに、悪いの?」
 ああ、と。彼は放り投げる様に言った。
「ヒトガタを作ることが願いだって言っていたわよね? ……ええ、貴方の作ったヒトガタは、きっと貴方を深く慕うわ。でもそこに、貴方はいない。生きた貴方を、貴方のヒトガタは見ることが叶わないのよ?」
「だろうな。次に作るのが、俺の遺作になる。ヒトガタ一体作るのには……まあ、想像もつかねえほどの精力が要るんだ。俺の先代、爺は腕が良かったが寡作だった。それは自分の長命を優先したからなんだよな。俺は、爺が一生の内に作った数を十代で越したよ。それだけまあ、命が縮まったってことだ」
「文字通り、命を賭けているということね。わかったわ……解った。今更教えるんじゃないわよ、と頬を撲ってあげたいところだけど、今は許してあげる」
 ────その代わり。
 しえるはぐ、と顎を引き、打ち据える様に告げた。
「死んでもいいから、進みたい?」
 征史朗は、眩い光でも見つめたかの様に目を細めた。
「死ぬのは怖いが……いや、だからこそ進みたい。……どうしても」


 どうしても 。


*******************


 叶えたい願いが数多あることを、罪深いと言うのだろうか。
 それとも、たったひとつの叶えたい願いのため、命も世界も賭してしまおうという執心を指して、罪、と神は仰るのだろうか。
 だとしたら自分は、あの楽園の中で最も罪深い生き物だった。どうしても、という恐ろしい望み方を、自分は平気でした。

 今も、それは変わらない。
 ただ、それを肯定しているだけ。

 どうしても、どうしてもよ。
 どうしても貴女が良かったから、私は幸福の園を飛び出した。

 茨で身を裂かれる痛みが待っていたとしても、怖くはないと思った。


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 ねえ、貴方。
 振り返った動きに合わせ、褐色の髪が虚空で弧を描く。ふわり、と広がる曲線の先を、粉雪混じりの微風がさらさらと揺らした。
 しえるが語りかけたのは、地上で漸く持ち直した男にではない。背を向けこちらの言葉を拒絶する少年に、────ねえ。
 今一度、繰り返す。
「“貴方”は、昔の私に似ているわ。ある意味で、ね」
『……剛き心の持ち主に、脆き心が解るというか』
 取り付く島もない物言いに。ふ、と口許を緩める笑い方で、しえるは応じた。「だから、そういう勇まし過ぎる言い方は止して頂戴なって、前も言ったでしょう? 買い被り過ぎよ、そんな、弱さを知らない存在なんて神の国にも居はしないわ。心には必ず瑕疵がある。それを知って呑み込んで、敢えて進むことが、つよさって言うのよ」
『……つよさ』
 少年の肩がぴくりと動いた、ような気がした。
「私にも、“今”が永遠だと思った……いえ、望んでいた時期がかつてあった。私が居たのは此処とは正反対の、常春の様な場所だったけれど。其処に居ればね、幸せだと思ってた。其処にしか、幸せはないのだと信じていたわ。そしてそれが……その頃の私には唯一の真実だった」
『我にとっても……真実』
 少年が、両腕を庇う形に広げる。滝を護るに他ならない姿で、少年は声を張り上げた。
『故に、時は流さぬ。留まれば、命を失う未来を遠ざけられる。……何故だ、何故あれは我から鈴を取り上げようとする。その道の先には奈落しかない、今より先の幸せなど見えない。そんな霧と茨に閉ざされた道を、何故、選ぶ?』

 どうして。
 どうして、“今”ではない“未来”へと、あなたは行ってしまったの?
 “此処”に居れば、幸せでいられるのに。

 ──── ……だって 。

「……だって、“此処”に無いものが、“其処”にも無いとは言えないでしょう?」

 幸せは、桜色の中にしかないと思っていた。
 世界は、私の世界は、ただ一色の中で完結するのだと思っていた。

 ──── でも、違った 。

「……私は、世界を知ってしまったの。時を経ることで移り変わり、生まれていく色を、知ったの」

 青空に見守られた街で、険しさの中で温かな暮らしを守り続ける街で、生まれた。
 国を移し、美しきものを知り、優しく微笑んで抱き締めてくれる存在を得た。
 春に花は咲き、夏に緑生い茂り、秋に葉は色付き枝を離れ、残されたのは冬を耐える黒々とした幹。
 ひとつの命が潰えても、それを受け継ぐ誰かが在る。円環は他の輪と交わり、螺旋となって伸びていく。
 終わらない、ここまで、なんて無い。巡り、生まれ、再びを望める。
 幸福は澱の中に耽溺するものではなく、流れの中に浮き沈み、それでも手で、か弱き手で、しかと掴み引き寄せるもの。

「時を止めた楽園には無かった。私が今手にしている喜びは、あの場所には無かった。あの場所を出たからこそ、出逢えたの」

 ────だから、自分につよさがあるのだとしたら。
 ────それ、を知っていることに、他ならない。

 中空を、天使が少年へと近づく。
 逃げも進みもしなかった彼の冷たい身体を、後ろから、両腕と羽とで抱き締める。
 今だけよ、なんて小さく笑って。触れているだけで凍えそうな存在に、在るべき熱をと頬を寄せて。
「たとえ有限の時であっても、経るごとに喜びは増えるわ。変わることは怖くない、目を閉じ留まっているほうが、ずっと怖い」
『…………』
 “霖”、と籠もった音がした。
 頑なに握り締めている少年の拳を、そっと片手で包み。遠目に見たその色を──青を、思い出す。
「青は、空の、海の、川の……貴方を取り巻く世界の色。そして、命を生み出す水の色。そんな色の鈴で世界を凍らせるなんて、悲しいじゃない?」
『悲しい? ……我が、悲しい?』
 ええ、としえるは頷く。そして、慈母の様な微笑みを浮かべる。
 白い世界、凍れる滝。止められた時間。
 誰もいない、自分しかいない、流れ行く世界から目を背けた、孤独なしあわせ。

「貴方の世界が、寂しくて、悲しいわ。流れを止めては、苦しいでしょう? 命を凍らせて、身体が、こんなに冷たいもの」

 ──── たとえ時の流れが、残酷なものだとしても。
 ──── たとえ行き着いた先の未来が、涙で満たされた場所だとしても。

「流れ、行き、辿りついて確かめてこそ意味があるわ。だから、解放して、歩き始めましょ? この道の先が、とても美しい所に通じているのだと、信じて」


『 「 ……おまえは、やはりつよいおんなだ 」 』


 パリン、と腕の中で音がした。
 硝子細工が砕ける脆さで、懐中の少年が粉々に霧散する。瞠目する視界の中に青い煌きが2つ、慌ててそれらを掴み取る。
 痛みすら感じる冷たい鈴。青いそれがやはり今回も、数を増やしてしえるの手中に収まっていた。
 ひとつは“彼”の幻だと名乗った少年のもの、そしてもうひとつは、あの男が進むことを決めながらも捨てられぬ迷い。────若しくは、迷いながらも進むことを決めさせた、執心。
「おい、動きだすぞ」
 と、下から声が投げ上げられた瞬間。
 どお、と轟音が鳴り響いた。
 咄嗟に羽ばたいて上昇、見れば滝の流れが自身を閉じ込めていた氷を内側から食い破り、眼下の滝壺へと、龍が身を打ち振るう如き勢いで落下した。龍の一口を受け、水面に張った氷盤が瓦解する。でたらめに亀裂が走り、砕かれたそれらはやがて溺れ、水の底へと沈んでいった。
 うごいたのね、しえるは口の中で呟いた。
 動いた、時が。眠らされていた世界が目覚め、そして、彼の時が音を立てて生を刻みだす。
「……あ、」
 不意に温みを感じて────天を振り仰ぐ。
 天一面を覆っていた分厚い雲が割れ、光と、青空が顔を覗かせていた。

■ ■

 地上へと舞い降りたしえるは、待ち構えていた征史朗へと空色の鈴をひとつ手渡した。
「恩に着るぜ。これで残りはあと……ひとつ」
 ぐ、と握り締める拳に力が入る。その上に掌をもう一枚重ねて、ぎゅ、と────包み込んだそれが、祈りを捧げる形にも見えて。
「……言いたいことが、あるのか?」
「それは、こっちのセリフよね?」
 翼を広げた天使は、少年に見せた優しい表情を男の前ではしなかった。
 男は力なく、それでも不敵に笑って見せた。
「はは。……ああ、そうだな。でも言っちまったら、止まらなくなる。故に、俺は口を噤む」
「つまり、やせ我慢ってワケね。まあ精々頑張りなさ」
「しえる」
 名を、初めて呼ばれた。
「俺は、おまえの言葉を信じる。この険しき道の先に、見たこともない絶景があるのだと」
 しえるは暫し面食らい、やがて、呆れたように嘆息した。
「……人のせいにばかりする男は、ひとりじゃ何も出来ないのよ?」
「ははっ。違いない」


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 夜の岸辺に佇む白い影が、僅かに、身じろいだ。
 それは凪の中に刹那だけ現れた波紋、広がる前に打消されてしまうほど微細なものであったけれど。
 確かに、名無花の半眼の瞳が、揺らいだ。
 呼ぶ声に、感情という色が滲んでいた。

「……せいし、ろう……」


 ────そんな、夢を見た。


 了


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【2617/嘉神・しえる(かがみ・しえる)/女性/22歳/外国語教室講師】

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■         ライター通信          ■
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嘉神しえる様

こんにちは、お世話になっております。ライターの辻内弥里です。
この度は当ゲームノベル「名無花の世界 〜青の鈴〜」にご参加くださいまして誠に有難うございました。
そして、ご発注を頂いてから年をまたぎ、結果として季節をいくつも越してしまいました。このようなあり得ない長期の遅延を致してしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます。
本当に謝って済むようなことではありませんよね……。ですが、こんな私の文章をずっと待っていてくださったこと、心の底から感謝しております。どれほど満足していただけるかはわかりませんが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
今回鈴も3つ目ということで、このような展開にいたしました。征史朗の事情と、しえるさんのいつも真っ当で力強いお言葉の散りばめられたプレイング。そして、どうしてしえるさんは強いのだろうと、今までいただいた他の機会も併せ考えながら、書かせていただきました。
次にいつお会いできるか、またお会いする機会をいただけるかどうか伺える立場ではないこと、重々承知しておりますが。もしもまたお会いできましたら、征史朗を最後まで導いてやってください。

それでは今回は大変申し訳ありませんでした。
最大限の感謝とお詫びをこめて。失礼致します。