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ほしにいのりを
もはや誰の記憶にも残されていなかったであろう、古びた――それこそ古きよき昭和を彷彿とさせる――ラジオが見つかったのは、寺の奥で眠りについていた小さな物置の奥だった。
かろうじて、カセットテープが再生出来るようだ。が、録音までは出来ないらしい。スイッチが壊れていたのだ。
曹洞宗は荘厳寺。その寺の住職の地位を剥ぎ取った、否、強奪したのは尼僧である妙円寺しえん。未だ(仮)がつく身ではあるが、今ではその地位から失脚させうようなどと目論む者も皆無となった。
ともかくも、ラジオは時々カタカタと小さな軋みを見せながらも、どうにかこうにか懐かしのアニメ曲を歌っている。
ラジオが古いせいか、あるいはカセットテープが問題なのか。
歌は思い出したようにぷつりと途切れようとするが、しかし、しえんが一度視線を遣れば、ラジオもテープもたちどころに具合を治すのだから不思議なものだ。
荘厳寺の離れにかかる弧状の渡り廊下。
そこで、しえんは、ただひとりきりで夜空を振り仰いでいる。
冬の寒さで凍てついた空気は、夜空で震える数多の星を一層美しく輝かせている。
しえんは頬杖をついて、わずかにため息を吐いた。吐き出した息が寒さで真白く染まる。
――このところ、立て続けに酷い目に遭っているような気がするのだ。吐いたため息はそれを思えばこその憂いによるものだ。
気を落とすというのは、しえんにとっても決して無縁な事ではない。少しばかり気の強いしえんではあっても、消沈する事もあれば物思いに耽る事もある。
ラジオが、昔懐かしのアニメの歌を歌っている。
しえんはその歌を耳にして、ふと、天に坐す神の御名を思い起こした。
「やはうえ様」
その御名を呟いて、しえんは窓辺で揺れるてるてる坊主に視線を寄せる。
風雨の中でさんざっぱらに晒され続けてきたのだろう。初めの頃は真白であったであろうその身は、今や黒茶がかってすっかりと汚れている。
果たしててるてる坊主を飾ったのはいつの事だっただろうか。何の目的のもとに作ったものだっただろうか。晴天を願って? こんな離れの渡り廊下に?
しえんは僅かの間を思案に耽っていたが、それもすぐに忘れて、視線をてるてる坊主の先へと伸べた。
寺をぐるりと囲うように伸びているのは杉林だ。それが風に揺れてざわざわと何事かを語っているようだ。
夜の中で黒くうねる杉の木立ちを眺め、そのまま視線を上空へと持ち上げる。
うねりをあげる杉の梢の上で、一際大きな星が明瞭たる輝きを放っているのが見えた。
それはまるでしえんの声に応えるかのように、その輝きをちかちかと震わせる。
そうだ。
しえんはぽんと手を打って、それからその大きな星に向けて両腕を伸べた。
「やはうえ様」
そうだ。時節はまさに降誕祭。街は、年の瀬迫る頃合も相まってか、要らぬ程の賑わいで包まれているではないか。
「わたくしに恵みを」
鈴の鳴るような声音でそう続けると、しえんは柳眉に満面たる笑みを浮かべて星を見た。
降誕祭で飾るのは樅の木であったはずだが、今、眼前にしてある光景といったらどうだろう。
大きな杉の梢の天辺で光り輝く星の光。それを彩るかのように閃く数多の星屑。月ですらもツリーを飾るオブジェのひとつだ。
星はしえんの言葉に応えるかのように、穏やかで優しい光を放っている。
まるで、しえんを優しく見守る”やはうえ様”のように。
しえんは喜色をいよいよ色濃いものへと染めて、伸ばした腕に力をこめた。
「わたくしもくじけません。女の子ですもの」
星が優しく瞬いた。
しえんは嬉しくなってますます声を弾ませる。
が、しかし。
次いで紡がれた言葉は”やはうえ様”とは何ら係わりのないものだった。
そう。
しえんは、まるで”やはうえ様”と交感しているかのような感覚に、いっそ我を見失ってしまっていたのだ。
「てぃび まぐぬむ いのみなんどぅむ しぐな すてらるむ にぐらるむ え ぶふぁにふぉるみす さどくえ しじるむ」
それは星の精霊を召喚するための呪文だった。
発音に特殊とも言える規則を持った言葉であったが、しえんのそれはなぜかひどく流麗で自然に、息を吐き出すような感覚で、あっさりと難なく紡ぎ出された。
まるで聖なるものに祈りを奉げた時のような心情で、しえんは満足して再び星に目を向ける。
ラジオが歌っている。
星は、先ほどまでとは打って変わった――そう、どこか禍禍しいものを思わせるような光を一杯に振り撒いて、哄笑と共にしえんの元へと降り立った。
「やはうえ様!?」
がばりと立ち上がり外へと飛び降りたしえんの前に立っていたのは、しかし、彼女が求めたような存在とはかけ離れたものだった。
醜く膨らんだ屍に張り付く無数の鱗。手足は無く、常に流動を繰り返している形の定まらない怪物。それがしえんの前に降り立った星の主だった。
杉の梢の上からは、もうあの輝かしい星の影は消え去っている。
先ほどまで広がっていた美しい風景が、今や一変。眼前にあるのはおよそ現実のものとは思い難い、どこのものとも知れぬ醜悪な化け物だ。いや、一応は星の精霊にあたる存在であるだろう。が、それは決して絵本やらに出てくるようなものではない。
精霊は意味の知れない言葉を叫ぶ。口蓋らしい場所から泡立った何かが滴り落ちて、足元に生い茂っていた草を瞬時にして焼き消した。
そう。それは”やはうえ様”などではない。断じて。少なくとも、今、しえんが思い描いていたそれではありえない。
そう思うと、それまで呆然とするばかりだったしえんの心に、沸点を遥かに超えた怒気がこみあげた。あまつさえ、精霊が垂らした泡がしえんの着物の袖先を僅かに掠めていったのだ。
「わりゃ、わしの着物に何しよるんじゃ! わしが黙っとりゃあ、さっきからガアガアいがりよってから、かばちたれとるんかいや、ああ!?」
言い捨てるが早いか、しえんの手には二丁のコルトガバメントが握り締められている。どこから出したものか、帯には長ドスまでも待機されていた。
精霊は変わらず何事かを叫んでいる。それが精霊を呼び出した者――すなわち、しえんを指す――に対して次なる呪文を求めているものだという事など、しえんの知るよしではない。
二丁のコルトガバメントが盛大に爆ぜる。それは決して威嚇のためによるものではなく、最初の一発目からして精霊の脳天と喉とを狙いすましていた。
従属の呪文など、しえんは知らない。まして眼前の化け物の言葉など解する余地もありはしない。
よって、しえんが繰り広げるべき結果はといえば、
「ちぃたあ黙らんかいや、おんどりゃあ、そいでいびせえつもりかいね、かばちもんがあ!」
袈裟を振り乱し、裾のはためくのも顧みず、眼前の化け物をぶちのめす、――ただその一点のみに重視されていた。
気付けば静けさで包まれていた(はずの)夜は空の彼方へと追いやられていた。
しえんの頭の上に広がっているのは紫がかった明けの空だ。
熾烈を極めた銃撃戦の末、”誤って”呼び出してしまった精霊を微塵に粉砕するに至ったしえんは、全身をもって呼吸を整えつつ、空の下の杉の梢に目を向ける。
やはうえ様はもう姿を消していた。朝の光は星の光や何もかもを連れ去ってしまっていた。
ぴんと冷えた風がしえんのみどりの髪をさらって流れる。
とぼとぼと窓をよじのぼり、再び離れの渡り廊下へと戻る。
てるてる坊主は、銃撃戦のあおりを受けてしまったらしい。存在すらも失せていた。
止まっていたラジオのボタンを押して、再びカセットテープを再生させる。
早朝の呼び出しに不服を申し出ているのか、ラジオはガタガタと大きく震え、しえんが望む歌を流そうとはしなかった。が、ひとたび長ドスをその脇に投げてやれば、たちどころに本来の調子を取り戻すのだ。
「やはうえ様……」
ぼうやりと呟いて、しえんは明けていく空を振り仰ぐ。
その視界の中で、消え残っていた星屑が慌ててその姿を消した。
Thank you for an order.
Moreover, I am waiting for the day which can meet.
2006 December 19
MR
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