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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


潰え往く世界 〜 Gate of the Heaven 5 〜





 新宿の高層ビルやサンシャインビルなどといった、言ってみれば東京の象徴たる場所が次々と焔を噴き上げた。
 年の瀬を間近に控えた、冬の日の事だった。
 バブ・イルの出現、そして消失。それに続くいくつかの怪異は、未だ人々の記憶に新しい。
 それぞれの場所で生じた災害は何の前触れもなしに起きたものであり、多くの人間の命をも奪うものとなった。
 焔と絶叫とに巻かれ、それでも辛うじて命を取り留めた者達は口々に同じ証言をする。
 焔のただなかに立ち、こちらを見つめ、穏やかに笑んでいたという少年に関するものだ。
 高校生ぐらいの、ごく普通の少年であるように見えたとの事だ。が、しかし、その反面で、どこか奇妙なほどに神聖な存在であるような――そんな風にも見えたのだと。

 少年は命を取り留めた者達に向けて、とある言葉を告げていた。が、その言葉に関しては、なぜか彼らはわずかにも証言を残そうとしない。
 が、彼らが立ち会ったそれぞれの災害の後、彼らは皆同様の行動を取るのだ。
 気付く者があれば、あるいは気付いていたかもしれない。中にはそういった点を指摘し、記事として世にあらわす者も、確かに存在していた。
 アトラス編集部の編集長、碇麗香もまた、彼らと事件とが持つ奇妙な符合に気付いていた。

「最初の事件と次の事件とが持つ符合を、私なりにまとめてみたんだけれど」
 碇は向かいのソファに座っている田辺聖人に向けて、数枚の紙を差し伸べた。
 田辺は碇の顔をちらりと確かめた後、差し伸べられたその紙を手にとって、そこに認められているものに目を走らせる。
「一件目の現場に立会って、ラッキーにも生き残った連中が……二件目の現場で死んでる」
 眉根を寄せてそう呟き、田辺は改めて碇の顔を睨みやる。
「一件目の現場に立会い、生き残った人たちは、全員で二十七人。その内の十八人が二件目の現場で命を落としているの」
 田辺の視線を受けながら、碇は深々とため息を吐いた。
「一人二人なら不幸な偶然っていう事もあるでしょうけど、さすがにこれだけの数になるとね。しかも、」
 書類に目を落とした田辺の視線を追うように、自らもまた視線をそこへと落とし、碇はため息混じりに続ける。
「十八人全員、現場で自殺してるのよ。焼身自殺。調べでは、彼らこそが現場に火を放ったらしいの。自分自身を火種にしてね」
「”神の子”」
 書類に目を落としたままの田辺が、口許を手で覆い隠しながら呟く。
「”彼らは口々に『預言者』の到来を告げていた。焔の中にありながら傷一つ負わず、それどころか自分達の命を救い出してくれた少年を”」
「現場で目撃されている少年よ。それぞれの現場で生き残り、そして次の現場で没していった人達は、皆口を揃えて証言しているわ」
 足を組み替え、眼鏡を指の腹で押し上げる。
 田辺はようやく書類から目を離し、碇の顔に視線を向けて、何事かを言いたげな表情で眉根を寄せた。


「だからじゃ、こっちも今てんてこまいなのじゃ!」
 三上事務所では所長である可南子が電話の応対に奔走していた。
 日頃は閑古鳥の鳴く事務所であるのに、ここ数日は珍しく依頼が立て続けに舞いこんできている。いずれもが怪異に関するものではあるが、ポルターガイストだのといった霊障にまつわるものばかりだ。
 最後の電話を叩き切って、もう電話が鳴らないようにと線を引き抜く。
「まったく、わしらはわしらで、悪魔祓いだなんじゃと大忙しじゃというのに」
 誰にともなしにそうごちて、可南子は事務所の奥――常ならば来客を通すための一室に視線を投げる。
 何ら変哲のないドアの向こう。そこは異界へと通じている。悪魔ベリアルの転生者である長谷川涼が特別に創り出した特別な異界だ。
 その中へは可南子は立ち入れない。むろん、可南子の部下である中田もだ。立ち入れるのは長谷川自身と悪魔フォルネウスの転生者である芹、悪魔ブネ、そしてブネが守護している巫女・伊織。元来であればただそれだけが立ち入るのを許される、闇ばかりの空間だ。
 そう。
 天も地もなく、上も下もなく、右も左もない、ただの闇ばかりがある異界。寒さも暑さもなく、あるのはただ静寂ばかり。
 しかし、その闇の中、時折烈しい焔や氷、噴き上がる嵐、全てを押し潰す程の豪雨などが生じる。
 全て、総て、許しなく異界に立ち入る悪魔共のなせるものだった。

 その身に七十二もの英霊を収めうるだけの器を持つ巫女・伊織。彼女は今や伊織自身の意識を持っていない。まるでそれを欠落してしまったかのように、虚ろなばかりの人形のようにあるばかり。
 それを手に入れるためにソロモンが放った悪魔共が、この異界へと踏み入るのだ。
 いかなベリアル・フォルネウス・ブネといえども、続けざまに襲い来る刺客達を相手に、疲弊の色を隠しきれずにいた。

「……助太刀が必要じゃの」
 呟くと、可南子は抜き取った線を再び繋ぎ、急ぎ、心当たりのある知人達へと電話をかけた。
 


■ アトラス編集部 ■


 美しい夢を見た。否、あるいは、あれは夢ではなかったのかもしれない。
 記憶はやけに鮮やかであり、思えば、全ての感覚があれを認知出来ていたようにも思い起こされる。

 ササキビ・クミノとセレスティ・カーニンガムはアトラス編集部内の、客人用にと用意されていたソファの上に腰掛けていた。
 眼前に並ぶ数枚の書類に目を落とし、先んじて口を開いたのはセレスティの方だった。
「この事件ならばよく知っています。というか、この騒ぎを知らない者など皆無なのではないのでしょうか」
 広げられていた書類の一枚を手にとって、セレスティは叡智をたたえた双眸をゆらりと細ませる。
「――結論から確認させてください。この少年が今鞍君であるという確証はあるのですか?」
 視線の先にいる田辺と碇を見据えながら、セレスティは常と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた。
 碇は田辺と視線を交わした後に、ふと小さな息を吐いて首を竦める。
「確かなのかと訊かれたら、正直なところ、それは分からないというしかないわ。顔写真があるわけでもないし、証言してくれる彼らも、なぜか容貌に関する点だけはとても曖昧にしか協力してくれないみたいだから」
「しかし、碇さんは核心を得ている」
 クミノがぽつりと言葉を落とす。
 碇はクミノに目を向けて「そうよ」と短い応えを述べた。
「そうね。……理由を問われると困ってしまうんだけれども。……直感、っていうのかしら。長い間こういうものに接していると、なんとなくそういったものが把握出来るようになっちゃうのよね」
「分かります」
 頷きながら、セレスティは手にしていた紙をテーブルの上へと戻した。
「それはともかく。次なる目的地に関しての検討はついているの?」
 置かれた紙を目にとめながら、クミノはひっそりとそう訊ねかける。
 田辺が腕組みをしたままで頷く。
「連中は、……あるいは連中を扇動している奴が狙っているのは、おそらくは精神的なダメージだろう。連中は、ある種象徴的なものばかり壊してまわってるんだからな」
「確かにそうですね」
 応え、セレスティは思案に耽る。
 サンシャインビルや高層ビル。大手町や永田町においても、被害の大きさは他所と明らかに異なるものの、それでも確かに悪夢は生じている。
「連続テロと言う方もいらっしゃるようですが」
「テロのようなもんだろう」
 胸ポケットからタバコを一本抜き出して、田辺は深々とため息を吐いた
「……もしも象徴的たる建物を破壊して回っているのならば、……そしてそれによるダメージを狙っているのならば、」
 伏せていた視線を持ち上げて、クミノは淡々とした口調で続ける。
「最たる場所が未だ手付かずのままなのは注目すべき点ではないだろうか」
 口を開いたクミノに、吸い寄せられるように三人の視線が寄せられた。
「東京タワー」

 何事かを交わしつつ、碇や田辺が忙しなく走りまわっている。
 セレスティは出された茶の残りを一息に干し終えて、早々、出立の準備を整えている。
 頭のどこかがぼうやりとさせながら、クミノはゆっくりと目を伏せた。
 ――数日前にみた夢が、なぜかとても鮮烈な色をもって脳裏をよぎる。次いで、頭のどこか片隅でいんいんと響く何者かの声。
 何者か。いや、それが誰であるのかは、クミノはきっともう既に知っている。
 ゆっくりと口を開けて、その名前を紡ごうとした、その瞬間。
「行きましょう、クミノさん」
 セレスティがクミノの肩を軽く叩き、クミノはそれで目を開けた。


■ 扉の奥 ■

 開かれたドアの向こうには暗黒だけが広がっていた。わずかほどにも光明を持たない、完全たる闇だ。本来ならば何たる事もない応接間が広がってあったはずの空間は、今は彼方の見えない黒で満たされている。
 背中の方で開かれたままのドアの向こう、不安げにこちらを見送る可南子の顔がある。
 赤羽根灯は可南子の視線に振り向いて、無理矢理に小さな笑みを滲ませ、頷いた。
 灯より先にドアをくぐったデリク・オーロフと亜矢坂9・すばるは、もう既に闇の中を歩み進めている。
「大丈夫か?」
 ドアの向こうで可南子が首を傾げ、灯はやんわりと再び頷いた。
「大丈夫です、可南子さん」
 応えて踵を返し、デリクとすばるの後を追う。
 ドアはそれから少しの間開けられたままでいたが、やがて申し訳なさげに閉ざされた。それと同時に、それまでは静寂のみが漂っていた闇の中を、烈しい炎が音をたてて爆ぜた。
 炎が、疲弊を隠しきれずにいる芹の横顔を鮮明に映す。芹はかろうじてその場に立っているといった風体で、その傍らにいる長谷川の腕を掴んでいた。
「おやおや、なかなかにお疲れのご様子ですネ」
 ふたりに向けて真っ直ぐに足を進め、デリクが満面に笑みを浮かべる。
 デリクの深い青をたたえた双眸が、ふつりと上空を検めた。火柱に照らし出された闇の中に、口蓋より濁った泡を吐き散らしながら咆哮する黒い天使がいる。
 闇に轟く洪水の唸り。万物を破壊しつくさんばかりの怒号を響かせる水音が、再び闇に沈んだ空間の端々までを満たす。
「……湿った闇だ」
 すばるが上空を仰ぎ眺めた眼差しを細める。
 感情の起伏といったものが乏しい、表情の薄い眼光が、闇に紛れ息を殺す黒い天使の姿を真っ直ぐに射抜いていた。
 頭上に――もっとも、完全たる闇の中を浮遊しているような感覚を得ている以上、果たしてそれが事実頭上であるのかどうかは定かではないが――そこに確認できた悪魔たちの影は、黒い天使の他にも数体ほど存在している。
 それらを検めた後、すばるはそのまま視線を移動させ、デリクの方を確める。
 デリクは長谷川と芹、すなわちベリアルとフォルネウスの傍らで足を止め、愉しげな笑みさえ頬に浮かべて、やはりすばると同様、頭上を見上げている。
 灯は伊織とブネの近くまで駆け寄り、ふたりの無事を確めてから、同じように悪魔たちの姿を検めた。
「……私、最近、夢を見るんです」
 誰にともなく呟く。
 伊織は身じろぐこともなく、それどころか意識も、明瞭としているのかあるいは混濁としているのかさえも感じ取ることが出来ない。ただぼうやりと空虚なばかりの眼差しで空を眺め、疲弊しきったブネによって監守されているのみだ。
 すばるが、灯の言葉に耳を寄せている。
「自分の名前を呼べって、そう言うんです。――夢の中で、炎の形をした……悪魔が」
 なぜそれが悪魔であると思うのか、それは自分でも分からない。ただ、こうして闇の中に潜み咆哮している者たちを見上げれば、夢の中のあれが彼らと同胞であろうことは、どうしてだか知れる。
 そう言葉を落としたのと同時に、それまではこちらの出方を窺っていたかのようだった悪魔たちが一斉に咆哮し、闇は大きく揺さぶられた。
 放たれる焔や氷柱、黒々とした雷光や轟音、金属が高鳴るのにも似た不快な高音。
 闇が一瞬にして様々な色で塗りこめられ、視界は光源を必要としないほどに明瞭となった。
 デリクが薄い笑みを浮かべている。痣がみとめられる両掌を差し伸べて、愉しげに、口許を歪ませた。
「ソロモンの手に堕ちてしまったのデスね、可哀想に」
 言いながらくつくつと低く笑い、傍らに立つベリアルの顔に一瞥をむける。
「かれらが出入りするための場所を作ってあげまショウ。どうせこうして出入りするならバ、せっかくですしネ。出入りするための場を与えてあげれば良いのデスよ」
「……奴らに出入り口を作ってやるというのか」
 ベリアルが眉根をしかめた。
 デリクは肩をすくめて笑い、眼鏡を指の腹で押し上げる。
「色々と、手段を講じてみるのも悪くはないでショウ?」  
  
 
■ 東京タワー ■


 東京タワーを訪れている人間達は、必ずしも観光客ばかりだというわけではない。家族連れやカップルといった客も目にする事ができる展望台で、クミノは眼下に広がる東京の街並みを確めた。
 空はあいにくと曇りがちで、薄い灰色の雲が陽光を遮っている。
 楽しげな会話のやり取りや笑い声。そういった賑わいに、しかし、クミノは流されることもなく視線を移す。
 ――頭に浮かぶのは、連夜見続けている夢の内容だ。
 一見、女神かとも見紛うばかりの美貌。艶めかしく白い肌は淫靡たる空気をまとい、血を塗りつけたような紅い唇は薄い笑みを浮かべる。
 黒い大蛇を全身に巻きつかせた、大いなる両翼をその背から伸ばした美貌の青年。
 
 我が名を呼べ

 青年はそう告げて、背徳的な微笑を滲ませているのだ。

 
 クミノとは別行動をとり、セレスティは静かに睫毛を伏せる。
 展望台の一郭、来客用の椅子に腰を据えるセレスティの身のまわりには、時折小さく黒い光が爆ぜていた。
 人々は気付かない。
 黒い光は東京タワーのすべてをぐるりと包囲しているのだ。――まるで何かを捜すかのように。

「視えたか」
 セレスティの傍らに歩み寄り、クミノが静かに訊ねる。
 おそらくは東京タワーが次の襲撃場所であるのは確かだろう。だが、それも確たるものではない。読みが外れれば、あるいは再び被害は広がるだろう。
 セレスティはクミノの声に応え、伏せていた瞼を持ち上げた。
「やはり、場所はここであっていたようですよ」
 返して穏やかな笑みを頬に浮かべ、クミノの顔を見上げる。
「私が契約をした悪魔――リヴァイアサンというのですが、彼によれば、前回までの生存者の大半が、今、この場所に集まりつつあるようですよ」
「リヴァイアサン……契約した悪魔か」
 呟きを落としながら、クミノは視線だけで周りを見遣る。
 展望台には、やはり、常たる空気をまとった客ばかりがいるように思える。ただ純粋に展望を楽しんでいるようにしか映らない人間達。
「……この中にも、ソロモンの手先は確かにいるというのだな」
 続けてそう呟き、周りを確めていた視線をゆっくりとセレスティへと戻した。
「ええ。ソロモン本人は、未だいないようですけれどもね。……もっとも、ここへ来るのかどうかは定かでありませんが」
 微笑むセレスティの周りで、時折黒い光が爆ぜる。
「……悪魔との契約か」
 ふと呟いたクミノに、セレスティはわずかに首をかしげた。
「クミノさんには彼らとの接触はありませんか? 私の知る限りでは、今回の一件に関与する事になった皆さんは、何がしかの悪魔と契約を結んでいるようですが」
「……私は」
 応え、クミノは少しばかり目を細ませる。
 『我が名を呼べ』
 ――美貌の男が小さく笑っているような気がした。


 ■ 黒 ■

 
 両掌を上空に掲げ、すばるは小さく短な息を吐く。掌からは空気を凍てつかせる閃光が放たれ、上空を満たす黒の使者を端から氷結していった。
「つまりは、彼ら、悪魔と呼ばれる生命形態もそれぞれに必死であるということだ」
 凍てつかせた黒い影の後ろから、その倍の影が姿を現してくるのを眺めながら、すばるは抑揚のない声音でため息を吐く。
「悪魔という名は人間が勝手に与えた呼び名なのであろうが、こうも次々と現れて来るのを見ていると、つまるところ彼らも必死なのだというのが知れる」
「?」
 すばるからわずかに離れた位置に立つ灯は、全身に炎の力をまとい、その力の一片を一振りの弓に具現させ、闇を覆う影を闇の内に縫いとめるようにして矢を放っていた。
 すばると灯は互いに視線を重ねる事なく、あるいは言葉を交わすでもなく、しかしその反面で意思の交感を行いながら、寄り合い混ざり合う影の咆哮に眉根を寄せる。
「どういうこと?」
 問うた灯に、すばるはかすかに目をしばたかせた。
「実際のところは彼らに訊かなくては知りようもないのだろうけど、少なくとも記録を紐解くに、悪魔と呼ばれる彼らはそれぞれの胸の内にそれぞれの悲願を持っているようだ」
 すばるの言に、灯は「ああ」とうなずく。
「私はあんまり詳しくないんだけど、でもきっと、悪魔だってみんな自我っていうのかな、そういったものを持ってておかしくないよね」
 灯の手を放たれた炎の矢が上空の影を貫通し、途端、闇を揺るがしていた咆哮がひたりと凪いだ。
 再び訪れた静寂。灯が身にまとう炎がかろうじて闇を照らし、虚無をはらんだ面持ちの伊織と、それを懸命に護ろうと牙を剥き続けているブネの姿が映し出される。
「もしかしたら家族とか友達とか、恋人とか。そういう存在を抱えた悪魔だっているのかもしれない。……ブネとか、ベリアルさんとかフォルネウスさんとか見てるとホントそう思う」
 構え持っていた弓をふと下ろし、灯は伊織の顔を見る。
 ベリアルとフォルネウスはデリクと共に少しばかり離れた位置にあるようだ。三人は何事か交し合っているようだが、会話までは灯の耳に届かない。
 すばるもまた掌を下ろし、伊織とブネに視線を向ける。
 灯は伊織の傍らに膝をつき、ふと片手を持ち上げて伊織の髪を撫で付けた。
「……そういうのを思えば、つらいよね。……でも、伊織さん。私たちが来たから、もうひとりで全部を背負わなくても大丈夫だよ」
 ほのかな笑みをのせてそう呟き、身を包む炎をふわりと舞わせる。
 炎は蝶のような動きで闇を飛び、伊織やブネ、ベリアルやフォルネウス――その場にいるすべての味方たちを包み込んだ。
 あたたかな陽光を思わせるそれは、緩やかに、そして確実に、皆の傷や疲れを癒してゆく。
「悪魔の中には、ソロモンにくだることで自らの悲願を永遠に手放さねばならなくなる者たちもいるだろう」
 癒えてゆく傷を見つめながら、すばるはふつりと言葉を落とす。そして再び視線を起こし、何かを決したような口調で続けた。
「その点を利用すれば、すばるたちにとっても良い可能性を見出すに至る手段を得られるはずだと思うのだが」
 ベリアル――長谷川が顔を持ち上げる。
「味方を増やすことが可能だと?」
 すばるは深くうなずいて、ゆっくりと瞼を伏せた。
「ソロモンの許に集う悪魔の集約数を幾許でも減らし、その最終的な姦計を阻止するためにも、――すばるは彼の者の名を口にしてみようと思う」
「……契約を結ぶのね」
 フォルネウス――芹が頬に小さな笑みをのぼらせる。
「姦計の……阻止」
 次いで呟き、灯はすばるに目を向ける。
「あなたにも、それを望む相手がいるハズですヨ」
 デリクがくつりと笑みをこぼし、灯に向けて視線を放った。
 灯はしばし戸惑い、再びすばるに目を向ける。
「……さて、私も一仕事しましょうかネ」
 穏やかな声音でそう告げて、デリクはかつりと靴底を鳴らした。そうして掌を闇の一点に向けて伸ばし、深い青をたたえた双眸に愉悦をのぼらせる。
「敵が出現する場所を特定するのデスよ。そうすれば彼らにとっても便利でショウし、――入り口を狭く造れば、あるいは道程を長く遠く、メイズのようにしてしまえバ」
 言いながら指を鳴らす。と、その指先から蒼く透明で暗い輝きをもった光が放たれ、上空の、今は身じろぐことさえしていない悪魔たちの間を一閃した。
 闇が、ぼうやりとした明かりをもった。
 デリクが放った力は上空の闇にあって魔法陣を描き、円は触れていた悪魔の身体を削ぎ消し、見る間に確かな形を成形したのだ。闇を照らしているのはその蒼い光源だ。
 悪魔たちがどよめき、わずかほどの光源を得た闇を揺さぶる。
「デリクさん」
 仄かにではあるが、それでも今までよりは随分と明瞭とされたデリクの横顔を見遣り、灯はぼうやりとその名を呼んだ。
 デリクは視線だけを移して灯に応え、そして小さくうなずく。
「……申し訳ないのですガ、私はこれより出入り口の固定に力を向けなくてはなりまセン。猫の手も借りたいとは、まさにこのコトでしょうネ」
 灯はうなずきを返してすばるを見遣る。
 すばるは、やはり、何かを深慮しているようだ。口許がわずかに動いては止まり、そうしてほどなくして表情が一変した。
「つまりは、こちら側の力を増幅しなくてはならないという話なのだな」
「そういうコトです」
 デリクが笑う。
 すばるは、やがて意を決したように目をしばたかせ、上空を埋める悪魔たちを確め、口を開けた。
「――あなたの名を、すばるは知っている。七十二の内の幾許かと心を繋ぎ留めおくことは、今や必要条件なのだ」
 悪魔たちが咆哮する。闇が再びびりびりと震え、それは悪魔たちの襲撃の再開をも知らしめた。
「マルコシアス」
 すばるの声が闇を裂く。
「マルコシアス」
 デリクが横目にすばるを見遣り、頬を緩めた。

 闇の中、悪魔たちを喰いちぎり、翼をもったしなやかな獣が姿を現した。――狼の姿をもった魔神、マルコシアスだった。
 マルコシアスは闇色の牙と眼光をもってすばるを見つめ、そしてニタリと笑みを作る。
「あなたがマルコシアス」
 対するすばるは平然としたもので、揺るぎない声で相対した仲間に視線を向ける。
「すばるたちに力を貸して欲しい。伊織をソロモンの手に渡さないために」
 紡いだ言葉に、マルコシアスは哄笑にも似た咆哮を轟かせた。
 そして逞しい脚で闇を蹴り、同胞であるはずの闇の住人たちを食い散らかし始めたのだ。
 すばるは無言でそれを見上げ、そして背に滑空用の主翼を開き、自らもマルコシアスの許へと向かう。

 残された灯は、再びたちのぼった闇の震えを感じながら、半ば呆然とした面持ちですばるの行方を見上げていた。
 が、それも刹那の間のこと。
 伊織を護るブネが悪魔たちに向けて力を揮いだしたのを知ると、再びその身に炎をまとい、そうして決然とした声で口を開けた。
「あれは夢じゃなかったのね。――フェニックス、私に力を貸して!」
 叫んだその時。
 灯の足元から鮮血のように赤い焔が巻き起こり、それは烈しい熱と輝きをもって闇を焦がしだしたのだ。
「私は東京を護りたいの。それは私の使命だし、なにより、友達がいる大切な場所だから。だからお願い、私に力を貸して」
 


 ■ 神の子 ■


 灰色だった空が、黒や赤、青――ともかくも尋常ではない状態へと姿を変えた。
 まるで子供が戯れで絵の具を撒き散らしたような、現実味の枯れたその空を見上げ、クミノはふいに口を開ける。
「私にも、それに該当するだろう心当たりがある」
 セレスティの言葉に応えながら、クミノは展望台の中(おそらくはタワーの全体においても)、瞬きの後に変異した異様な空気を睨みやった。
 笑いさざめく声が消えている。人々はうっとりとした眼差しでエレベーターの扉を見つめている。
「そうですか」
「私は別段悪の魔と称する者たちに許す心を持っているわけではない。化け物も人間もさして変わりはないのだし、悪魔というものと契約を結ぶのを厭うわけでもない。怖れる必要もまったくないのだから」
「ええ」
「しかし、それでも神を演じる者よりはずいぶんとましだろう」
「――ええ」
 クミノの言葉に、セレスティはやんわりと頬を緩める。クミノが移した視線を追うように、セレスティもまたエレベーターの方へと顔を寄せた。
「いらっしゃったようですね」
 呟いて、ステッキを持つ手に力をこめる。
「背徳の極み、アスタロト。最も良くソロモンの手の内を知り予測出来るだろう者。人の世の悲惨を見続けたいのならば協力するがいい」
 クミノが告げた、その時。
 展望台の向こう、作り物のような空の中から、艶然たる笑みをのせたひとりの紳士が姿をみせた。
 黒いスーツに黒いマント。禍々しいほどに白い肌と、横に引かれた紅い唇。
 それはクミノの背後に立ち、そしてクミノの耳元に唇を寄せて囁きかける。
 クミノはわずかに片眉を跳ね上げはしたが、その視線は今まさに開こうとしているエレベーターの方へと向けられたままだ。
 セレスティが立ち上がるのと、エレベーターが扉を開くのとは、はかったようにほとんど同じタイミングだった。

 開かれたドアの向こうから転がり出てきたのは、数人の人間たちを寄り合わせて作った団子状の塊だった。それが焔を帯びて、展望台の中を転げ回りだしたのだ。
 そして、その奥から悠然と歩き出てきたのはひとりの少年。
 湧き上がる歓喜と狂気。恐れ戸惑う人間たちと、それに反して狂喜する人間たち。狂喜する人間たちはこぞって焔の塊に駆け寄り、自らもその焔を受けて焼けていく。
「お元気そうですね、今鞍クン」
 燃え盛る炎の中、セレスティはあくまでも柔らかな物腰で、恭しく腰を折り曲げた。
「ああ、ご挨拶を述べるのに、これではいささか騒々しいですね」
 続けてそう述べたセレスティの周りで、黒い光が一層大きく爆ぜる。と、焔は一瞬にして立ち消え、燃え盛っていた人間たちを取り巻いていた炎獄も瞬時にして消えた。
 少年は悠然とした笑みを浮かべたままで周りを見遣り、次いで小さく肩を竦める。
「なるほど、計画は断念というわけですね」
 少年の穏やかな声音が小さな笑みを含んで紡ぐ。
「ええ、残念ですが」
 応え、セレスティもまた穏やかに頬を緩めた。
 クミノの傍らで、アスタロトが艶然とした笑みを満面にのせる。少年はアスタロトを確め、わずかばかり残念そうに瞬いた。
「浄化の炎のつもりだったのですか」
 セレスティが問う。少年はかすかに笑い、うなずいた。
「少なからず、人間という者はシンボルというものに惹かれるものではないですか。全ての現象に名を与え、理という枠にあてはめて考えようと試みる。それでも知れないときには、高い確率でそれに超絶たる何某かの存在を見出そうとする」
「神が与えた異変の一端だとして知らしめようとした」
「ええ」
「自らが神を名乗ることで?」
 クミノが口を挟みいれる。
 少年は小さく笑み、「僕は自らを神だと名乗ったためしはない。僕を見た彼らが僕にその名を与え、そこに勝手な絵空事を並べ付加していっただけにすぎない」
「しかし預言は与えてきたのだろう。甘言をもって彼らに囁きかけてきたはずだ。”共に永遠を迎えよう”と」
 クミノは眉根をしかめて少年を見定める。
「アスタロトが曰く――今起きている惨事は、それがための準備なのだと、あなたは彼らにそう甘言してきたのだと」
「ある種の催眠といった方がしっくりときますけれどもね」
 セレスティが笑む。
 少年は怯むこともなく優しげな笑みを浮かべて首を傾けた。
「僕は彼らの心の底にあるものを引き出してやっただけに過ぎない。なにもかも彼ら自身の願望だったんですよ。永遠の時を望むのも、破壊も、殺戮も、営みも。それを引き上げてやっただけ。けれど、彼らの願望は一度目を覚ませばもう眠ることがない。だから、」
 
 展望台に転がっていた人間たちが、一斉に牙を剥いた。
 武器となりうるであろうものを手に、彼らは大挙してクミノとセレスティとを襲い来たのだ。が、クミノがわずかに息を吐いている間に、暴徒は容易く姿を消した。
 アスタロトの手が揮われるのと同時に、辺りは異空間――漆黒の闇の中へと包み込まれたのだ。


 ■   ■


 闇の中、ひしゃげた身体を引き摺って、ひとりの老人が歩み寄ってくるのが見える。
 見たことのない男。だが、自分はこの老人を確かに知っている。
 首をかしげながら、伊織は、知らず、咄嗟に踵を返して駆け出した。
 ブネはいない。
 ベリアルもフォルネウスも、誰もいない。――当然だ。ここは伊織自身の心の底なのだから。
 何者も立ち入ることの出来ないはずの、伊織だけの城。
 老人は、しかし、易々と伊織を掴まえて、そうして耳元で囁いた。

 なにものをも怖れる必要のない身にしてやろう。



 ■ 闇の底へ ■


 デリクが闇の中に道を固定させたのと同時に、世界は闇から一変し、ごくありふれた事務所の応接間へと立ち戻った。
 あふれていた悪魔たちの姿はどこにもない。
 展望台にいた人間たちの姿もどこにもない。
 ソファと、テーブルと、安手の棚。その棚の中で整然と並べられた書類の端に目をやって、灯はぼうやりと瞬きをする。
「……あれ」
 呆然と呟き、しばしその場をぐるぐると見渡し、確めた。
 
 そこは三上事務所の一室だった。
 ベリアルが異界へと変じ、つい今しがたまで悪魔たちが群がる暗黒の只中にあったはずの場所。が、今はもう安穏とした空気さえ漂う事務所へと戻っていたのだ。
「……ここは」
 次いでクミノが呟いた。
 東京タワーにあったはずが、今はまるで違う場所に立っている。
 否、そこにはこれまでの応接間には無かったものがつけられていた。
 白い壁の端、ぽっかりと開いた暗い洞。ドアが外された出入り口のような見目のそれは、しかし、その奥で確かに闇が渦巻いているのが見える。
「出入り口を固めてみましたヨ」
 眼鏡を正しながら、デリクは安穏と笑った。
「今は封を施していマス。私が存命であれば、この鍵はこの出入り口を堅守するハズですヨ」
「どういう状態になっている?」
 すばるが訊ねる。
「彼らのいる場所――まあ魔界とでも名付けましょうカ。そこを抜けるための通路を、ひとつきりに固定したのデス。そこ以外からは、少なくとも力の大きな存在は出入りできませン。で、通路を長々と通って抜け出たのが、この奥にある広間というわけデス」
「どういうこと?」
 クミノがデリクを見上げる。
「つまりは、力の強い者は無制限に出没出来なくなるというわけですね」
 デリクに代わりセレスティが応えた。
「なるほど」
 灯がぼうやりとうなずく。そしてはたりと思い出し、ソファの上でぐったりと横たわっていた伊織に駆け寄り、その肩に手を置いた。
「伊織ちゃん? 大丈夫? 怪我とかない?」
 問いながら伊織の肩を揺らす。
 と、伊織の目がゆっくりと開かれ、その眼差しが真っ直ぐに灯の顔を検めた。
「伊織ちゃん」
「灯さん、少しいいですカ」
 安堵の息を吐く灯をデリクが押し留めた。
 そうして伊織を検めて、デリクはついと目を細ませる。
 返すようにして伊織の顔がカパリと動き、満面に笑みをたたえる。
「デリクさん」
 セレスティがステッキを鳴らし、同時に、デリクの足元から大きな影が姿を見せた。
「影!」
 咄嗟に構えた灯たちの目の前で、影は瞬時にして伊織の手足を留め、拘束する。
「――さて、困りましたネ」
 弱ったように笑みを浮かべ、デリクが肩越しに振り向いた。
 応接間には、今、悪魔の姿はない。否、おそらくはどこかに身を潜めているのだろう。それぞれの契約主が呼べばただちに姿を現し、気まぐれのように力を貸してよこすのだ。
 デリクが言わんとしていることは、その場にある他の者たち全てが悟っていた。
 
 伊織の心が、ソロモンの手によって押さえ込まれたのだ。それこそ、通路のようなものでも繋げたのだろうか。あるいは得意の甘言でも投げかけたのかもしれない。
 
「ソロモンは魔界でしょうか」
 訊ねたセレスティにベリアルが小さくうなずいた。
「ブネもいないわ。……連れていかれたのかも」
 フォルネウスが告げる。
「ソロモンを斃さねば、いずれ伊織はソロモンに乗っ取られてしまいかねないというわけか」
 クミノが小さくかぶりを振り、すばるがついと睫毛を伏せる。
「あるいは走狗とされてしまうかもしれない」
「つまりはソロモンを追って、これを斃さねばならぬということだ」
 決然と立ち上がるクミノの傍らに艶然と笑う紳士の姿が並ぶ。
 黒い光が爆ぜ、しなやかな獣がわずかに唸りながら闇をねめつけた。
「……行かなくちゃ」
 呟いた灯の指先で、地獄の業火が爆ぜる。
「伊織ちゃんやブネを助けなくちゃ。――それに、東京だって護りたい」 

 

 

 
  





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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  
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【1166 / ササキビ・クミノ / 女性 / 13歳 / 殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない。】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男性 / 725歳 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2748 / 亜矢坂9・すばる / 女性 / 1歳 / 日本国文武火学省特務機関特命生徒】
【3432 / デリク・オーロフ / 男性 / 31歳 / 魔術師】
【5251 / 赤羽根・灯 / 女性 / 16歳 / 女子高生&朱雀の巫女】



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          ライター通信          
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まず初めに、お届けが納期日を過ぎてしまいましたことをお詫びいたします。
わたしの自己管理の無さが露呈する結果となってしまいました。お恥ずかしい限りです。
心からお詫び申し上げます。


シリーズとして続けてきました今作も、次回を限りに終了というはこびとなりました。
最終的には魔界へ踏み入れていただこうというのが当初よりの目的でした。次回、それがかないます。

一応は一話完結という書き方でお届けしておりますので、むろん、次回分への参加は必須ではありません。
が、もしもご縁がございましたら、またお会いできましたら幸いに思います。
また、お待たせしてしまいました分、少しでもお楽しみいただけていればと思います。