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Rosso
誰にでも、正義というものを目指すことはあるだろう。
多くの場合、その矛盾に気付き、また忘れ、何時しかやめてしまう。
しかし、今この少女はまさにそれへと突き進もうとしていた。
実にいい獲物だ。きっと、とても美味しいだろう。
二人はそんなことを考えていた。
なんでもない、平凡なはずだった一日の終わり。学生である彼女にとって、それは退屈な授業の終わる放課後をさす。
少しの間仲のいい友達と話して時間を潰し、気付けば太陽がその役目を終えようとしていた時間。彼女は高校を出た。
所謂黄昏時。誰彼と聞かなければ誰の顔とも判別のつかない、そんな時間帯。その時はやってきた。
少女の後ろから近付いてきたのは、ハッハと弾む息。その息がすぐ傍にやってきたかと思うと、その細い腕を矢庭に掴む。
「えっ…ちょっと、何?」
「助けて!」
その意味を問いただそうとした少女の声は遮られる。そこにいたのは、黄昏時であってもなおそれに溶けないほど鮮やかな金色の髪を持つ少女だった。
彼女の呼吸はただただ荒い。何かから逃げてきたような、そして何かに迫られているような。そんな雰囲気。
その姿が、少女の正義心を突き動かした。
「とりあえず落ち着いて、一体どうしたの?」
そんな彼女の言葉に、しかし金髪の少女の表情はただただ憔悴しきっていた。
「知り合いの小さな女の子が大変なのっ、お願い一緒に助けてっ!」
彼女の様子は只事ではなく、少女は小さく頷いて立ち上がった。
その後ろで、小さく笑う少女に気付かないまま。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
元々少女は正義感の強い人間だった。それは何故だろうか。多分自分自身よく分かっていない。
ただ、イジメだなんだということがあれば許せない性質だったし、それを見つけた時は何時も率先して止めてきた。
そうするうちに彼女に感謝するものも増え、気付けば彼女は何時も皆の中心にいるようになった。
少なくとも彼女の周りの世界はそれを賞賛していたし、彼女自身それを誇りに思っていた。
そう、その時までは。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
それは、既に何かのオブジェクトのようだった。
「……」
見上げる少女に、言葉はない。
いよいよ太陽がその役目を終えようという頃、二人は街外れの廃工場へとやってきていた。勿論他に人気はない。
廃墟特有の侘しさの中で、まるで磔にされたかのような小さな少女はある意味で美しかった。
宙に浮く少女。射干玉の如き黒い髪に混じって何かがきらきらと光る。目をよく凝らせば、それが何か細い糸のようなものであるという事が確認できた。
一体誰が、何を考えてこんな事を?
黒髪の少女はぐったりとしている。それを見ていると、沸々と怒りが沸いて来る。
「誰が、こんな…」
歯軋りとともに、そんな言葉が漸く搾り出される。
そんな彼女の様子を、金髪の少女は背後から楽しげに見ていた。あの時見せていた不安に押し潰されそうな表情など何処にもないまま。
なんて分かりやすいんだろうかこの子は。あぁ、これなら遠慮もいらない。
だから、
「それはね、私よ」
そんな事を笑い声混じりに言ってやったのだ。
ハッと少女がその意味に気付いたときには、全てが遅かった。
「くっ…ぁ…か…」
キリキリキリと。彼女の耳には、自分の体を締め上げる糸の音がはっきりと聞こえた。
ただただ苦しい。自分の体が締め付けられ、ともすればあらぬ方向に捻じ曲がってしまいそうなほどの圧力。
酸素が吸えない。肺が収縮したくても出来なくて、ただ苦しげに息を吐く事しか出来ない。
自然と涙が溢れてきた。痛い、苦しい、なんで、なんで――!
「ふふっ…いいわね、その表情。痛い? 苦しい? なぁんでこんな事になっちゃったんでしょうねぇ…」
よくもその原因が抜け抜けと!
…しかし、そう言いたくとも言えなかった。
せめてもの抵抗。涙交じりに彼女を睨みつける。すると、それが余程気に入ったのか、
「あはっ、この状況でもそんな顔できるんだ。あははっ、凄いわね!」
金髪の少女は腹を抱えて笑い始めた。
笑い続ける少女にとって何がそんなに可笑しいのか、彼女には理解出来ない。それもそうだ、自分とは元々かけ離れた思考回路の持ち主なのだから。
だから、
「あぁ、ホントいいわ。それでこそってものよ!」
金髪の少女がそんな風に破顔しても、睨む事しか出来なかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
嫌いだ。
ただその一言に尽きる。
薄っぺらい正義感を振りかざすものなど見たくもない。反吐が出そうだ。
そんなものが何の役に立つのか。寧ろ役に立つことなどありえるのか。
消えろ。そんなもので全てが救えるのなら、私の両親は死ななかった。
だからこそ、そういうものを持つものには殊更やる事が酷くなる。
目の前の女はそういう存在だ。
だから、もっと酷い事をしてやろう。
泣き喚かせて、己が正義感など持ったことを心底後悔させてやろう。
さぁ、お前は私とあの子の餌だ。
死ね。
消えてしまえ。
己の正義感の前に押し潰されろ。
ただ一度の凄絶な笑みに、金髪の少女――アヤカ・レイフォードは全ての意味を込めていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ブツッと。何かを刺し貫く音が小さく響く。
「いっ……」
不意に、拘束の弱くなったその左腕を、長く伸びた爪が刺し貫いていた。
熱くなる。どうしようもなく、堪えきれないほどに。
「ひぎあぁぁぁぁぁぁぁ!?」
地の底から響くような絶叫。それに混じって、ぐちゅぐちゅと湿り気を帯びた嫌な音が響く。
「やめて、やめてぇ痛いぃぃぃぁぁぁぁ!!」
「そんな大きな声で叫ばなくても分かってるわよ」
言いながら、アヤカは手を止めようともしない。
その腕を刺し貫いた爪が、その傷を抉るように掻き回しつづける。その顔は、笑っていた。
続けて肩、腹、指の爪…ありとあらゆるところにその爪が刺さり続ける。その度に訪れる激痛に少女はただのた打ち回り、叫び続けた。
アヤカは実に楽しそうに嗤っていた。まるでその姿が至上の愉悦を齎すかの如く。
ブスッグリッグチャッ――。
廃工場は、少女の奏でる悲鳴と、それに合わせる出来の悪い伴奏音だけが支配していた。
「いっやっ…もうやめでぇ…」
少女の声は随分と小さくなっていた。あの毅然としていた態度など、もはや何処にもない。
こういう状態の人間はよく知っている。精神的な限界が近いのだ。
しかしやめない。分かっていて尚、止めようとはしない。
「う゛ぅぅあぁぁ…もういやぁぁ…」
更なる苦痛に、また少女の顔が歪んだ。
大体なんでこんな事になったんだろうか。自分はただあの女の子を助けたかっただけなのに。
助けたらきっと、この二人は私に感謝してくれて、それで万事解決のはずだったのに。
なのに、何で。何でこうなるの?
私は何か悪いことをしたの?
「やめてほしい?」
涙と涎で汚れた顔を、髪を引っ張り上げさせる。
ただ怯えた瞳がそこにあった。そういう顔をするものは次の瞬間やることなど決まっている。
「もうやめでぇ…」
嗚咽交じりだった。その声に満足して、アヤカはまたニヤリと笑う。
「いいわよ、やめてあげても」
突如舞い降りた希望。その声に、少女は今度こそ自分の力で顔を上げた。
「あの女の子をあなたが殺したら、あなたは助けてあげるわ」
その言葉が。少女の頭の中でぐるぐると回る。
なんと言った。今なんと言った。
何をしろと言った、この少女は。
「…ぇ…?」
呆けた様に返す少女に、アヤカはやはり笑みを崩さない。
「日本語分かんない? この子を殺したら許してあげる、って言ってるの」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
冷ややかに見下ろす視線は、糸に吊るされたはずの少女。
その下には、全身を穴だらけにされて泣き叫ぶ少女の姿。
手に取るように分かる。次の行動が。
さぁ、飲まれてしまえ。
そうすれば、あなたをそこから解放してあげるから。
吊るされた少女――ロルフィーネ・ヒルデブラントは冷ややかな笑みを浮かべた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ほら。死にたくないでしょ?」
嘲り、その手に渡されたのは一本のナイフ。
ぎらぎらと鈍色に輝くそれは、少女の手の中で震え続ける。
「簡単なことじゃない。こう、胸に刺してあげれば終わりよ。
あぁ、首筋を掻っ切ってもいいわね。ほら、簡単」
けらけらと笑い声。だからといって、少女にすぐ行動が起こせるはずもない。そんな彼女の首に、冷たい感触。
「ひっ…」
それは、アヤカの爪だった。
「何迷ってるの? あなたに選択権なんてないのよ。
殺らなきゃ死ぬ。それだけ。分かる? あなたは死ぬの」
それでも、少女は動けない。
彼女の積み重ねてきた正義感が、どうしても動かしてくれないのだ。
そんな彼女の様子をつまらなさそうに見下ろして、アヤカはまた爪を頬に当てる。
冷たい感触が、否が応でもあの苦痛を思い出させてまた叫びそうになる。
「ねぇ、何で戸惑うの?
あれかしら、正義感? 命の大切さがどうとかそういうやつ? はっ…」
再び嘲り、アヤカは少女の耳元にその唇を近づけた。
「そんなもの捨てなさいよ。どうせ誰も見てやしないんだから」
それは、蛇の誘惑だった。
「ねぇ、あなたはなんで今までそんなつまらない正義感を振りかざしてきたの?
分かるわ。えぇとっても。皆が褒めてくれたからでしょ?」
蛇が、鎌首を擡げて少女の心を締め付ける。
「そうね、気分がよかったでしょうね。助ければ助けるほど感謝されて、皆の中心にいれて。
あぁなんて素晴らしい。世界はあなたを中心に回っていたのね」
小刻みに歯が揺れて音を立てる。重い感触で、腕の震えが止まらない。
「でもね、今は違うわ。ほら、世界は全てあなたの敵。あなたを殺そうとしてる。
ならどうすればいい? 自分の身は自分で護らなきゃ」
アヤカの細い指が、か細い少女の胸を指差す。
「今はそんなつまらないものに縋ってる余裕なんてないでしょ?
黙っててあげるわ。えぇ、あなたには何の穢れも残らない」
その手が、背中を押した。
「さぁ、どうしたらいい?」
「ふひっ…」
何故か、笑いがこみ上げてきた。
「あはっ、あははは」
もう駄目だ、何も考えられない。
シュルシュルと音を立てて、蛇が心を締め上げていく。巻きついたその体はもう離れない。
「あははははははは」
もうおかしくて仕方がない。手の震えなどとうの昔に収まっている。
細い胸が目に付いた。あそこに突き刺せば全てが終わる。
「あははははははははははははは」
笑い声は止まらない、どうやっても収まってくれない。
鈍色が煌いて。その刃が小さな胸へと堕ちていく。
その様子を。糸に吊るされた少女が、笑いながら見ていた。
「あはっ、あはは…」
ぶつりと、肉を貫く感触。温かい血が流れて、その手を濡らしていく。
殺した。間違いなく殺した。
あぁ自分が殺したんだ、今までずっと護る側だった自分が、この少女を。
これが笑わずにいられるだろうか。
「ねぇ」
笑い声に混じって、甲高い声が響く。その声に、少女の笑い声が止まった。
なぜなら、目の前の少女――ロルフィーネからその声が発せられていたから。
そして、その口から続くのは、
「ボクもそろそろご飯にしていい?」
なんでもない、本当になんでもない言葉だった。
「あぁ、いいんじゃない。私も沢山食べたし」
二人の言葉の意味は分からない。ただ、分かる。
この二人は、人間じゃないということが。
「そっか。じゃあ食べる」
目の前のロルフィーネはいたって無邪気だ。その胸にナイフを刺したまま笑っている。
「ひっ…ひひっ…」
恐怖でおかしくなってしまいそうだった。
人は本当に絶望したとき、笑うしかなくなるという。そんな何処かの本で読んだ事を、少女は今嫌というほど実感していた。
「あはははははは!!」
駄目だ。今度こそもう止まらない。
何がおかしいのか。自分の滑稽さがおかしいのか。
笑う、笑う、嗤う。
少女に声に、アヤカの笑い声が混じる。
笑い声は止まらない。やっとおかしいわけが分かってきた。
だってほら、
「あぁ、いい色…!」
自分の腕の、肘から先がなくなっているんだから。そして、それを二人の少女が愉しげに見ているのだから。
あぁ、おかしくなってもしょうがない。
「ねぇ、どうする?」
痛いはずなのに、痛くない。あげる悲鳴はただうるさい。
「んーそうだね、もうちょっと細かく切り刻んでー」
こんな最低の悪夢、笑うしかないじゃないか。
「はいはい、じゃあやっちゃいますか」
大丈夫、きっと大丈夫だ。きっと目を覚ませば、そこには何時もどおりの日常があって、皆がまた私を必要としてくれる。
「わぁい♪」
それから私はにっこりと笑って、皆の中心でまたわ
愉しい楽しい食事タイムは、程なくして終わりを告げた。
返り血でその体を赤く染めるアヤカと、自身の流す血と啜る血が混ざり合って赤い川を流すロルフィーネ。
しかしその姿は、二人にこれ以上なく似合っていた。
二人を照らすのは、ただ一筋の月明かり。
もう、耳障りな笑い声も聞こえない。ただただ、食に満足した少女達が漏らす、小さな含み笑いだけが世界を支配していた。
「んー…美味しかったけど、ちょっと足りないかなぁ…」
口元の血を軽く拭きながら、ロルフィーネがそんな呟きを漏らす。
「あぁ、私も。またやる?」
「あ、それいいー♪ …んー次はアヤカが吊るされるほうやってみない?」
「冗談、嫌よ。その役はロルフィーネにお似合いなんだから」
「ぶーどういう意味ー?」
そして、また笑い声。月が照らす凄惨な状況とは不釣合いな、二つの花。
おおよそ仲間と呼べるものをほとんど持たない二人が、それでもお互いのことを呼び捨てあう。それはつまり、そういう関係で。
「それじゃ、また引っ掛けてきましょうか」
「アヤカ、頑張ってー♪」
「ロルフィーネは楽でいいわよね…」
「あー。ボクだって胸刺されたりして痛いんだよー?」
「なぁに言ってるの、死なないくせに」
まだまだ二人の楽しい夜は終わらない。月が照らす二人の世界は、ただただ赤かった。
<END>
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