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ミス・エリカ
1.
その日の黒猫亭も、いつもと変わらず数少ない常連である灰原と、ここに居ついているのではないかというほどだいたい店にいる黒川の姿しかなかった。
「それにしても、マスターはいつ帰って来るんだろうね」
何の気なしに灰原がそう呟いたとき、その言葉を聞いた黒川は手に持っていたグラスをカウンタに置いた。
「そうか、もうそんな日だった。すっかり忘れていたよ」
「何をだい?」
「ミス・エリカからの招待状だ。頼まれていた酒の材料が今年は揃ったから取りに来てほしいと言われていたんだ」
数年に1度しか訪れることのできないその場所は、マスター以外には黒川しか知らず、そこにひとりの女性が暮らしている。
本当の名前は誰も知らず、黒川は彼女のことを『ミス・エリカ』と呼んでいた。
招待状が来たときに訪れれば、彼女がその『材料』を渡してくれるのだという。
「そいつがないと困るのかい?」
「質が良いんだよ、そこで取れるのはね。かなりの上物だ」
そう言いながら出かける準備をしていた黒川は、思い出したように顔を上げた。
「あそこはひとりが持てる数は限られてたな。多くもらえるに越したことはないんだが」
「僕は御免だよ。君が行くようなところ、どうせまともなところじゃない」
「最初からキミには期待してないさ」
灰原の言葉に、あっさりと黒川はそう返した。
「ちなみに、その『材料』っていうのは何なんだい?」
行く気はないが興味はある灰原がそう尋ねると、黒川は笑みを浮かべたまま答えた。
「彼女が育てている花さ。特別な養分で育てられたね」
「その養分は?」
厭な予感を覚えながら灰原がそう尋ねると、黒川はますます意地の悪そうな笑みを深めた。
「死体さ」
途端、灰原は目を本に戻したが、黒川は気にした様子も見せずくつくつと笑った。
「別に彼女が殺して手に入れてるわけじゃないぜ?」
「そういう問題じゃないだろう」
「良いじゃないか。一晩彼女と一緒に過ごして普段接することができない人々と語らうだけでなかなか飲めない酒の材料が手に入るんだから」
そう言ってから黒川は「あぁ」と思い出したように言葉を続けた。
「花の滋養にと血の一滴でも提供すれば、ますます喜んでもらえるかもしれないね」
「絶対に、僕は御免だ」
くつくつと笑いながら黒川は、さてと思案した。
誰かこういうことに興味を示す者がいただろうか。
と、すぐにひとりの名を思い出してにやりと笑うと手紙を書き出した。
その内容はひどく簡潔なものだった。
『貴殿の興味を示しそうな場所へ近々行くつもりなのだが、よろしければ連絡くれたし』
2.
呼び出された律花が黒猫亭を訪れると、いつも通りカウンタに座っている黒川とテーブル席にいる灰原の姿があった。
「あぁ、黒川が呼んだのはあなただったんですか」
どうやら灰原は律花のことをしっかりと覚えていたらしい。
「お久し振りです」
「お久し振りです。でも、あなたも物好きだなぁ。あいつの誘うようなところ、ろくなところじゃないというのに」
灰原の言葉に律花は笑って「だからです」と答えた。
そのまま灰原とも話していたかったが、今回は黒川の招きに応じたのだから彼の話を聞かなければならない。
「お久し振りです。黒川さん」
「やぁ、招待を受けてくれてありがとう」
「詳細をまだ教えていただけてないんですが、どういうところに連れて行ってくださるんですか?」
カウンタに腰掛けてから律花がそう問うと、黒川はこれから訪れる場所の主や目的について非常に簡単に説明をした。
「お酒の材料? お花が? どうやって作るんです?」
聞き終えた途端、律花は持ち前の好奇心や疑問からすぐに質問を開始した。
「いろいろだけど、多いのはワインだね。樽に入れてしばらく待つ。普通のワインと同じだよ」
「でも、お花では普通、そんなことをしてもワインはできませんよ?」
その言葉にくつりと笑った黒川の手にはいつもとは違い酒のグラスは持たれていない。
「ここではなんでも酒の材料になるんだよ」
「そもそも、醸造の許可は持っていらっしゃるんですか?」
「それを飲みたいと思う者がいるからそれを提供する。それ以外のものから許可なんて得る必要がこの店にあると思うかい?」
常識的な律花の質問に、黒川はくつくつと笑いながらカウンタから降りた。
「そろそろミス・エリカの元を訪れなければ。彼女も花たちも僕らの訪問を待ちわびていることだろうしね」
「その名前、いえ呼称でしたね。黒川さんが付けられた『ミス・エリカ』というのは何処から由来しているんです?」
「花でそういう名前があるのさ。ミスは勿論、相手が女性だからだよ」
人をからかっているような馬鹿にしたような笑みを浮かべながらそう答える黒川の態度に、どうやらそれ以外にも理由があるらしいことは察しがついたが、いまはこれ以上詮索しても答える気はないのだろう。
「こっちだ、付いてきたまえ」
そう言いながら、黒川は律花を店の置くにある裏口のほうへと案内した。
「こんなところからミス・エリカのお宅に行けるんですか? どうして正面からではいけないんです?」
「僕がマスターから聞き出せた行きかたがここしかないからさ。それだって、教わるまで随分かかったものだよ」
言いながら、黒川は裏口のノブを掴むと、一度それを開く。
現れたのは普通の路地裏だ。
「マスターならもっと簡単なのだがね」
それを見るでもなく、また閉じ、もう一度開く。
まず、律花が感じたのは匂いだった。
花の匂い。それも尋常な数ではないのは混ざり合っているそれですぐわかった。
だが、どれも不快な匂いはない。
その匂いに引き寄せられるように律花は目を移動させた途端、かすかに目を見開いた。
先程見えた路地裏は何処にもなく、そこには洋館の姿があった。
「あれが、花々を愛し育てているミス・エリカの住居というわけさ」
3.
花々に出迎えられるという表現がこの場合はとても相応しいのだろう。
館の入り口に辿り着くよりも先に、おびただしいほどの花が黒川と律花の行く手に咲き誇っている。
この館では人間よりも花に主導権があるのではないだろうかという錯覚に陥りそうなくらいだ。
(──本当に、それは錯覚なのかしら)
ふと、そんな疑問が律花の脳裏をよぎったが、その思考は黒川の言葉によって遮られた。
「やぁ、ご無沙汰していましたミス・エリカ」
その言葉に顔を上げると、館の入り口でひとりの女性がこちらに向かって微笑んで立っていた。
古風なドレスに身を包んだ姿には上品さが漂い、柔らかい笑みにもそれがある。
年齢は外見から察するともうすぐ30に手が届くというところかと思ったが、違う気もした。
「ご無沙汰しております黒川様。今日は素敵な女性もご一緒なんですね」
にこりと花が咲くように微笑んだその仕草は、ひどく年配にも見えたが、老いているという言葉はまったくそぐわない。
「いつも僕ひとりではミス・エリカも退屈だろうと思いましてね。招待したところ彼女が応じてくれたんですよ」
「秋月・律花と申します。招待状をいただいてもいないのにお邪魔してしまったのですが、お気を悪くされてはいないでしょうか」
「とんでもない。お客様が来てくださるのは歓迎です。『リツカ』とはどういう字を書くのでしょうか」
その問いに律花が説明をすると、ミス・エリカはとても嬉しそうに微笑んだ。
「まぁ、お花が名前に入っているのですか? それは素敵です。とてもお似合いのお名前ですよ。そんな方に来ていただけたなんて本当に嬉しいです」
まるで少女のようにころころと笑ったミス・エリカだったが、何かを思い出したのか慌てたように手を口で覆った。
「まぁ、わたくしったら。大切なお客様を玄関で立たせているなんて。申し訳ありません、とんだ無作法を。さぁ、中に入ってくださいな」
言いながら、ミス・エリカは館の中へとふたりを招き入れた。
応接間らしい場所へと通された律花は、鞄の中からひとつのものを取り出した。
「何かお土産をと思ったのですが、こういうものをお嫌いでなければどうぞ」
そう言って差し出されたものを、ミス・エリカは不思議そうな顔をして受け取った。
「これは、なんですか?」
「携帯のストラップです。最近はご当地ものも結構手が込んでいたりして可愛いものが多いんですよ」
そう説明してみたのだが、ミス・エリカはしげしげとストラップを眺めている。
律花が持ってきたストラップは発掘調査に行った先で買ったものだったのだが、どうやらミス・エリカはストラップというもの自体を見たことがないらしいことはその様子でわかった。
となれば無論、携帯などは持っていないのだろうが、考えれば隣で律花のプレゼントにもそれを受け取ったミス・エリカの反応にも愉快そうに笑っている黒川もそんなものとは無縁の男だ。
黒猫亭に残っている灰原も、おそらくは持っていないのではないだろうか。
「ケイタイというものがあることは聞いたことがありますが、見たことがなくて……けれど、このストラップは可愛らしいですね。ありがとうございます」
渡すものを間違えたかしらと律花が感じたとい、ミス・エリカはお世辞ではなく本当に嬉しそうに微笑んでいたので喜んではもらえたようだ。
「ケイタイには、こんな可愛らしいものが必ずつけられているんですか?」
「人にもよります。まったく付けない人もいますし、携帯より重くなるほど沢山付けている人もいるんですよ」
「わたくし、失礼なことにケイタイを持っていないのです。でも、何処かに飾らせていただきますね」
にこりと笑いながらミス・エリカはストラップを持ったまま歩き出した。
「では、わたくしの館をご案内いたします」
「僕は、別のところにいるよ。何処かで鉢合わせするかもしれないがね」
黒川の無礼を律花が注意しようとするのをミス・エリカが止めた。
どうやら、いつものことらしい。
夕食のときには現れるから良いのだとミス・エリカは微笑んだ。
4.
ミス・エリカの説明によると、この館には簡単な図書室もあるということだった。
「図書室ですか?」
「えぇ、さして量は多くはないですけれども一応は」
「見せていただけますか?」
律花の言葉を断ることもなく、図書室へと案内するとミス・エリカは先に庭園にいるからと言って先に行ってしまった。
引き止めようとした律花に対してもミス・エリカは微笑んだまま「読書のときに別のものがいてはお邪魔でしょう?」とだけ言うだけだった。
「ご自分のおうちだと思って、自由にご覧になってくださいね」
そう付け加えてミス・エリカが姿を消してから、遠慮よりも好奇心が強まっていた律花は図書室をぐるりと見渡した。
古い書籍ばかりだ。新しいものはほとんどない。
きちんとそれが整理されている様子は見事だが、これも全てミス・エリカがひとりで行っているのだろうか。
とりあえず、近くの本棚から一冊取り出して中を見る。
一世紀以上昔の洋書のようで、読み込まれた後があるが傷んではいない。
いろいろと中を見ていくと、どの本も花が関係しているものばかりなのだということはすぐわかった。
モチーフやテーマとして花を題材にしている本しかここには置かれていないようだ。
灰原が見れば狂喜しそうな古書が当たり前のように置かれている様は、蒐集品としてもなかなかのものだなと律花は思った。
と、その一角に少々毛色の違う棚が律花の目に止まった。
ひとつ手にとって見ると、古いという点では同じだが、小説ではなく記録だというのがすぐにわかった。
流麗な文字で名前と花のスケッチが描かれている。しかし、そのスケッチを見て律花は首を傾げた。
見たこともないような、いや、普通はこんなものができないような奇妙な形をした花のスケッチばかりがその記録には描かれていた。
名前のほうにも律花は聞いたことがない。しかも、人名から取ったというより人名そのものと思えるようなものが多いことにも疑問を覚える。
「ミス・エリカの蒐集した特殊な花の記録なのかしら」
多くの花を育てているのであれば、奇種に出会うことも少なくはないだろう。
しかし、それにしても量が多すぎる。
記録は優に本棚のひとつを完全に占めてしまっていた。
その辺りはミス・エリカに聞いたほうが良いだろう。そう思い、律花は図書室を後にした。
庭園にいると言っていたが、場所はすぐにわかった。
館に来たときとは比べ物にならないほどの数の花が、そこには集まっていた。
その様子にもだが、律花の目を引いたのはどれも見たことのない奇妙な形をしている花を咲かせているということだった。
花弁が異様に多いもの、複雑な色をしたもの、どれひとつとして同じ形をしている花はなく、人よりも大きいものなどはざらに生えていた。
色も様々で、自然には決して出ない色は至るところにあり、中には淡く光っているようにさえ見えるものもある。
しかし、変種としてもはたして元がいったい何の花だったのかの判別もつきにくいものが多い。それでも日本のものよりは洋種が多いということだけは判別できた。
時期としても同時に咲いているのはおかしいはずのものが隣同士に咲いていたりと、一種異様な空気ではあるが、花たちは和んでいるのが伺える。
そんな花たちに囲まれるようにミス・エリカの姿が見えたとき、律花は何故か安堵した。
このまま花たちしかいないところにいては、息が詰まるというよりも花々にとって邪魔になるのではないかという奇妙な思いを感じていたからだった。
玄関のときとは違い、ここでは完全に花たちが主なのだ。
勿論、その最高峰にいるのはミス・エリカということだけは間違いないのだが。
花々の中にいるミス・エリカと花たちを見ていると、彼ら(そう呼ぶのがこの場合相応しいと何故か律花は思った)がミス・エリカに傅いているようなイメージが浮かんだ。
「素晴らしい花ばかりですね」
律花の言葉にミス・エリカは振り返るとにこりと笑った。
「そう言っていただけると花たちが喜びますわ。中には、気味悪がってしまう方もおられますので」
「確かに、ここにある花々は全て奇妙な形をしていますけれど、気味が悪いなんて思うのでしょうか」
律花がそう言うと、ミス・エリカはあらといま気付いたように口を開いた。
「もしかして黒川様は、あなたに何もおっしゃっていないんですか?」
「何をでしょうか」
尋ねられた途端、ミス・エリカの顔に困ったような色が浮かんだが、すぐに口を開いた。
「この花たちは、死体で育てられているんです」
「……死体、ですか?」
「えぇ、死体の中に種を入れるんです。そしてそれを地面に埋める……この花たちはすべてそうして咲いているのですよ」
ミス・エリカの説明に、場にしばらく沈黙がおりた。
ミス・エリカはそれを律花が嫌悪を覚えてなのかと心配したような顔になっていたが、それを安心させるように律花は微笑んでみせた。
「図書室で、花の記録を拝見しました。ミス・エリカは本当にこの花たちがお好きなんですね」
「えぇ、わたくしにとっては彼らが全てです。けれど、やはり普通の人には──」
「いいえ。私も、彼らの美しさは本物だと思いますよ?」
そう言った途端、ミス・エリカの顔に嬉しそうな笑みが浮かんだ。
その笑みは、この中に咲いている花々の中でももっとも上品な花がほころんだようなものに見えた。
「では、しばらくこの子たちを見ていてくれますか? 普段はわたくししか相手がいないので、他の方に褒めていただければこの子たちもさぞ喜びます」
「勿論、喜んで」
律花がそう答えると、ミス・エリカは夕食の支度があるのでと庭園を後にした。
この花々の下にすべて死体が埋まっていると聞いても、律花は格段嫌悪を覚えることはなかったが、一応花々を鑑賞しながらも下で眠っているであろう彼らに黙祷の意味も込めて頭を垂れて回った。
そうこうしている間に、いつの間にやって来たのか黒川の姿が見えた。
「ミス・エリカがお呼びだ。そろそろ夕餉らしい」
「花のことをどうして説明してくれなかったんです?」
「僕は綺麗な花が見れるときちんと言ったぜ? それが何から生えているかなんて関係があるとは思えない」
相変わらず人を食ったような笑みを浮かべながら黒川は先に行っていると言い庭園を後にした。
出て行く際、軽く会釈をしたのは律花に対してではなく花にだろう。
5.
夕食は、見れば律花の分しか用意していなかった。
ミス・エリカと黒川の前にはワインの入ったグラスしかなく、そのグラスは勿論律花の前にもある。
「おふたりは召し上がらないんですか?」
「僕は、こちらのほうが良くてね」
「わたくしたちに遠慮なさらずに、どうぞ。律花様もお腹が空いているでしょう?」
そう促されては食べないわけにもいかず、律花はミス・エリカが作ったらしい野菜料理に手を付けた。
「おいしい」
一口食べて、律花は素直にそう言葉が漏れた。
野菜しか使われていなかったが、料理はどれもおいしいものだった。無論、ワインも。
食事とワインを楽しみながら、律花はミス・エリカと様々な話をした。
最近の流行は律花も人並みにしか知らないため、自然大学での専門知識と関係したものが主流となってしまったが、ミス・エリカにとっては初めて聞く話がほとんどらしく、興味深そうに耳を傾け、時にはころころと笑った。
「歴史にお詳しいのですね。しかも、それ以外にも博識でいらっしゃる」
「でも、まだ知らないことは多くあります。もっともっといろいろなことが知りたいんです」
「素敵ですわ。そういう探究心を持つことは」
「ミス・エリカも探究心は強いと思いましたけれど」
律花の言葉にミス・エリカは首を傾げた。
「そのように見えましたか?」
「えぇ、花に対する探究心はとてもおありになると思いました」
そう答えると、ミス・エリカは納得するように微笑んだ。
「わたくしにとって、花は生きがいですからね」
律花もミス・エリカにいろいろなことを尋ねた。
「黒川さんが、あなたのことをミス・エリカとお呼びしているんですが、由来はなんなのでしょう」
「まぁ、黒川様はそのことも教えてくださっていなかったんですか?」
言われた黒川のほうは素知らぬ顔をしてワインを飲んでいる。
「黒川様のジョークですわ。エリカという花があるのはご存知ですか」
「えぇ」
「花言葉は『孤独』というのですよ。ですから、わたくしをエリカと呼ぶのです」
その言葉に、律花は黒川を軽く見たが、相変わらず黒川は知らぬ顔をしたままだ。
「知らなかったとはいえ、失礼なことを言ってしまっていたのでは」
「いいえ。わたくしもその呼び名は嫌いではありません。せっかく付けていただいた名前ですもの。ミス・エリカで十分です」
ですから、とミス・エリカは微笑んで律花を見た。
「律花様も、わたくしのことはミス・エリカとこれからもお呼びください」
その言葉に、律花は笑みを浮かべて頷いた。
ひと通り食事と会話が終わった後、律花は客室へと案内され、その日はそこで泊まった。
6.
翌日、館に暇を告げるときに、黒川と律花は手に抱えられるだけの花を受け取った。
プレゼントにというわけではなく、黒猫亭に卸している花々なのだが、やはり何処か奇妙な形をしているが、色はすべて同じで暗闇よりも暗い花弁が見事だった。
覚えのある香りがすると思い、すぐにそれが昨夜飲んだワインのものだと律花は理解した。
「また、お邪魔してもよろしいでしょうか」
「いつでもどうぞ。と言いたいのですけれど、花たちがある程度揃ったときにまた。中途半端なときにあの子達に会わせては機嫌を損ねられてしまいます」
さようならと優雅に手を振っているミス・エリカに見送られながらふたりは館の外へと出た。
出た先は、黒猫亭の裏口だった。
入ったときと何も変わっていない店内の奥に、黒川は自分が持っていた花を置くと律花のものも受け取り置きに行った。
「今回は助かったよ。ひとりで持つには限度があってね。これだけあれば普段よりも多く酒が造れるだろう」
「飲む人間の数も多くなっていることをお忘れなく?」
そう言いながら、律花が店内へと戻ると、相変わらず灰原がテーブル席に座って本を読んでいる。
珍しかったのは、声をかける前に灰原が律花たちに気付いて顔を上げたことだろうか。
「あぁ、お帰りなさい」
しかしそれだけを言うと、やはりすぐに本へと目を落としてしまったのだが。
「さて、さっきの花が飲めるようになるのはまだまだ先だが、よければ別のものでも飲むかい?」
黒川の言葉に、律花は時計を見てから付き合うことにした。
「そういえば、灰原さん」
と、ひとつのことを思い出して律花は灰原に声をかけた。
「なんです?」
本からは目を落としたままだったが返事はしたので聞こえてはいるらしい。
「灰原さんは、──という名前の作家をご存知ですか?」
途端、灰原の目が律花を見た。
「その名前を何処で?」
「ミス・エリカの図書室で」
図書室、という単語に灰原は目を見開いたが、落ち着くためにかテーブルに置いてあったカップの中身を飲んでから口を開いた。
「かなり昔に極短期間だけ活動していた作家です。偏執的なほど花をモチーフにした作品が主でした。文壇の評価は低かった──というよりも、異端視されていたんですね。数ヶ月ほど失踪した後、それが顕著になり、奇妙な言葉を残して消息を絶った。ボクが知っているのはその程度ですね」
「奇妙な言葉、ですか。どういう言葉でしょう」
「自分の夢を叶える場所を見つけた、だったかな。まぁ、ありふれたフレーズではありますけどね」
その作家が何か? と好奇心を剥き出しにした目で見つめる灰原に、律花は答えた。
「いえ、ミス・エリカの図書室でその著者名の本を見かけたので、灰原さんならご存知じゃないかと思ったもので」
「ほんとですか? 彼の本なんてまず市場でも出ない上に所有者も少ないのに。それならボクも行けば良かった」
「絶対に行かないと言っていたのは何処の誰だったかな?」
黒川のからかい口調を聞きながら、律花はいつものように自然に出てくるグラスを取りながら口をつけ、思い出していた。
先程の作家の名前の本は確かにあの図書室にあった。
しかし同時に、ミス・エリカが記しているのであろう記録にも、まったく同じ名の花があったことを。
そのことも灰原に告げるべきかどうか考えながら、律花は新しい酒を注文した。
了
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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6157 / 秋月・律花 / 21歳 / 女性 / 大学生
NPC / 黒川夢人
NPC / 灰原純
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■ ライター通信 ■
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秋月・律花様
この度は、当依頼にご参加いただき誠にありがとうございます。
黒川の奇妙な誘いに同行していただき嬉しく思います。
図書館に立ち寄りたいとのことでしたので、そちらへも伺っていただき、また灰原の喜ぶような本があるかも探すということが書かれておりましたのでラストをあのような形にさせていただきましたが、お気に召していただけましたでしょうか。
律花様の『知る』ことへの欲求が多少でも満ちていただけると幸いです。
またご縁がありましたときはよろしくお願いいたします。
蒼井敬 拝
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