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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


籠姫の了見



 その家の奥座敷には座敷童子がいた。
 童女の姿をした神。それは長年に渡って一家に多大な余財をもたらしたという。
 それがある日忽然と姿を消したのだと、男は憤怒をはらんだ口調で言った。

 座敷童子の世話は十歳になる長女の役目で、その日の朝もいつもと変わらず、守り神に供物を捧げに奥座敷に赴いた。
 その襖を閉ざす黒く大きな錠前の鍵は、長女がいつも首から下げて持ち歩いていた。
 誰にも渡していないし触れさせてもいないと長女は証言するが、襖を開けた先に童女の姿はなかった。

 男は、何者かが我が家の趨勢を妬んで、妙な手を使って座敷童子を誘拐したのだと大声でまくしたてる。
 父親の怒鳴り声を聞いて、叱られたように顔を伏せる長女の赤く腫れた頬が痛々しく、草間武彦はわずかに顔をしかめた。



「いくら大事なモンだからって、ここまで手ぇ上げるか? 普通」
 娘の打たれた頬を見て、氷室浩介は非難がましく依頼人をねめつけた。
 無理もないと辰海蒼磨は思う。
 というのも、氷室の父親が手を上げたのは、息子が無謀の果てに命を落としかけた時だけなのだ。
 その時の痛みは、今も彼の胸の奥底に刻み込まれているのだろうし、躾はかくあるべきだという思いがあるのだろう。
 辰海には氷室の憤慨がよく解ったが、この主に今、何を言っても始まらないだろうとも思う。守り神と家族、どちらが大事かを量る天秤が、完全に狂っているようにしか見えない。
「その筋では有名な探偵だというから草間興信所に依頼をしたのに、下っ端を寄越されるとは私もなめられたものだ」
 主は、不快感も露わに氷室を睨み返した。売り言葉に買い言葉で、氷室が主に食って掛かりそうになるのを、辰海は鋭く目線で制す。
「ご依頼主に何という物の言い様だ。口を慎まぬか」
 言いながら、主の隣で怯えたように身を竦ませている娘に手を差し伸べる。辰海が軽く触れただけで、腫れは瞬く間に引いた。
 ぽかんと口を開けて、驚きとも感嘆ともつかない視線を注ぐ彼らに、辰海は威厳に満ちた口調で言い放つ。
「守り神を取り戻せとのご依頼、しかとお受け致す。ご依頼主におかれては、大船に乗ったつもりで、良き知らせをただ待たれるがよろしかろう」
 まだ若いとはいえ、辰海も竜神である。ここぞとばかりに神々しさを発揮し、穏やかな微笑みを浮かべたら、主の機嫌は途端に良くなり、娘は信頼の眼差しで辰海を見つめた。
「……すっげえ燃費の悪ィ大船のクセに……」
 隣から聞こえた氷室の呟きは、きれいに黙殺する事にした。


 依頼人の信頼を得た辰海は、屋敷の捜査に当たる事になった。氷室が、依頼人について詳しく調査をしたいと言い出したので、そちらは彼に任せる。
 唯と名乗った娘はすっかり辰海に懐き、小さな手で辰海の指を握って、笑顔を浮かべて敷地内を案内してくれた。
「辰海さんは、お蔵様と同じ匂いがするよ。だから、一緒にいるとすごく安心する」
 そう言って、唯は笑う。子供の鋭さというのはなかなか侮れないものだと思いながら、辰海もまた笑んだ。
「左様。それがしも神の端くれ。同じ存在ゆえ、蔵の神の気配を感じる」
 きょとんと見上げてくる唯の頭に手を置き、辰海は優しく問いかける。
「唯殿は、蔵の神とかくれんぼの最中か」
 全てを見透かすような、辰海の青い瞳をジッと見つめたあと、唯はゆっくりと首を横に振った。
「あたしと、じゃないよ。パパとなの」
 辰海は、目を細めて唯を見下ろす。その首に下げられた黒い鍵に、何の意味もない事を辰海は知っている。
 神を捕える事など、人には不可能なのだ。特に座敷童子と呼ばれる神は、行くも去るも己の胸先三寸で決める事ができる。
 座敷童子の気配は、屋敷の中にも、敷地内のあちこちにも濃厚に漂っていた。なのに気配の元を辿ろうとすると、それは途端に掻き消える。彼女が意図的に自分の存在を隠しているのだとしか、辰海には思えなかった。
 守り神が姿を消すのは、加護を与える対象に何らかの警告を与えるのが目的である事が多い。今回もおそらくそれなのだろうと辰海は踏んでいた。
 唯の証言から察するに、どうやら辰海のこの推論は当たっているようだ。この場合、座敷神の警告は主に向けてのものだと思っていいだろう。
「……唯殿は、蔵の神に協力しておるのだな?」
 辰海の問いかけに、唯は素直に頷いた。
「蔵の神の居場所も知っておるのか?」
「知ってるよ。でも、内緒なの。……パパが見つけてくれないと意味がないんだって、お蔵様が言ってた」
「……左様であったか」
 どうやら事件の解決の鍵は、他ならぬ主が握っているらしい。そちらの調査は、氷室が抜かりなくやり遂げてくれるだろう。
 辰海は唯の前にひざまずき、その幼い瞳を見据えて、優しく囁きかけた。
「では、我らは、唯殿の父君が蔵の神を見つけられるよう力添えをしよう。唯殿、蔵の神に協力しているのと同じように、それがしにも協力してはもらえぬか?」
 問いかけに、幼い少女はポッと顔を赤らめたあと、こくんと可愛らしく頷いた。


 『仲良し』と言うよりは、すっかり仲睦まじくなった様子の辰海と唯を眺め、調査から戻った氷室は心底呆れたように呟いた。
「おまえ、性別が女なら年齢は問わないとか言うんじゃねえだろうな? この節操なし。言っとくけど、おかしな真似しやがったら、俺の拳が火を吹くと思え」
「戯けた事を。わしにも守備範囲というものがある。ただ、少女の稚けなさを愛でられるのはほんのひととき。堪能せぬ道理がどこにある」
 言いながら、辰海は唯の頭を撫でる。唯は嬉しそうに笑って辰海にしがみついた。
 大切な話があるからと、二人は唯を置いて、用意してもらった調査用の小部屋へと移る事にした。
 別れる時、唯がひどく寂しそうな顔をしたのが、辰海にも氷室にも気がかりだった。
 与えられた部屋に入る前、氷室は辰海に、無言で唇の前に人さし指を立てて見せた。辰海は頷き、ただ黙って氷室の動向を見守る。
 氷室はジャンパーのポケットから、何やら小さな機械を取り出し、部屋に置かれた調度品のひとつひとつにそれをかざす。彼の体に憑依し、何度も調査の様子を見守っていた辰海には、氷室が何をしようとしているのかすぐに分かった。盗聴器を探しているのだ。
 ほどなく氷室は目的のものを見つけ、窓の外に放り捨てた。そうして、これでやっと落ち着いて話ができるとばかりに、座敷の真ん中にどっかりと胡坐をかく。
「やはり我らは信用されておらぬようだな」
 端然と正座し、辰海はそう呟く。それに氷室が大仰に肩を竦めて見せた。
「あの主人が信用してないのは俺達の事だけじゃねえよ。家族に使用人に従業員、みーんな疑ってる」
 言いながら、氷室は今日一日で調べ上げた事柄を辰海に話し始めた。
 予想していた通り、主の会社は左前。彼はそれを景気や、己の手腕が鈍ったせいだとは思わず、誰かの陰謀だと決めてかかった言動を繰り返し、周囲の人間から敬遠されつつあるという。
「奥さんは心労で入院。なのにあいつ、見舞いにも行かねえでほったらかしにしてやがる」
「唯殿も、随分と寂しい思いをしているようだ。わしに懐くのも、おそらくは父親に構ってもらえぬ寂しさゆえであろう」
 二人は揃って溜息を落とした。
「あのオッサン、座敷童子がいなくなったのは、ライバル会社が術師を雇って、自分を陥れようとしてるからだって本気で信じてるみたいだぜ」
「ふむ。周囲が全く見えておらぬ状況というわけだな」
 今度は辰海が、唯や使用人から聞き出した話を氷室に語って聞かせる番だった。


 主にも、子供の頃には座敷童子の姿が見えていたと、一番古い使用人は語ってくれた。
 当時、内向的だった主にとって、座敷童子は数少ない大切な友人の一人だったのだと老女は語る。
「旦那様は、小さい頃は外に出るのを怖がる子でねえ。物心つく前に、お母様が事故で亡くなっていらしたから、幼心に『外は怖いところだ』という思いがおありだったんでしょう」
 老女は、皺だらけの自分の手に、まるで当時の思い出が刻み込まれているかのようにそれを撫でながら、懐かしそうに、辰海に色々な話を聞かせてくれた。
「でも、お蔵様と一緒なら、お外も怖くないと言ってね。よくお二人で、裏山に遊びに出かけられたものです。と言っても、私ども大人には、お蔵様の姿は見えませんでしたけれども」
 傍から見れば、それは主が一人遊びをしているようにも見えたのだという。
 幼い頃の主は、座敷童子と一緒に作ったという花冠を、使用人の一人一人に手渡してくれる優しい子であったと話す老女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
 それが単なる懐古の涙などではなく、変わり果てた主の現状を嘆くものなのだという事は、辰海にもよく分かった。
「まだ成人なさる前に、お父様まで亡くされて……。それから少し、旦那様はお変わりになりました。……いえ、変わられたのは、ご自分が成長されて、お蔵様の姿を自分の目で見る事ができなくなった頃からだったのかもしれません」


 何となく合点がいくような気持ちで、辰海は彼女の話を黙って聞いた。
 おそらく主は、『失う』という事を極度に恐れている状態なのだろう。母を亡くし、父も亡くし、挙句の果てに、子供の頃から一緒に遊んだ座敷童子を目視する事が叶わなくなったとなれば、そういう状態に陥ったとしても無理はないのかもしれない。
「だけどよ、そんなのおかしいじゃねえかよ」
 辰海の話をおとなしく聞いていた氷室が、理解できないというような口振りで言う。
「そりゃ、誰だって家族に死なれたり、連れがいなくなっちまったりしたらヘコむだろうさ。でもさ、だからって今、それが家族や、家族同然の使用人や従業員を蔑ろにする理由になんのかよ? それって変じゃねえかよ」
「そういう理屈が通らぬ状態だからこそ、蔵の神は姿を消したのだ。今、主が蔵の神を引き止められなければ、おそらくこの家は崩壊するであろうな」
 氷室は、自分が殴られたみたいに痛そうな表情を浮かべて、こめかみを掻く。
「それだけじゃない。自分にとって何が一番大事なのか、あの馬鹿主人に思い出させてやらない事にゃ、話が始まらねえ」
「その通り。だが、どうする? 何か良策でも? 心を凝り固まらせた人間を目覚めさせるのは、並大抵の事ではないぞ」
 柳眉を寄せる辰海に、氷室は自信ありげにニヤリと笑んで見せた。
「まあな。ちっとばかしいい考えがあるんだよ。おい、耳貸せ」
 もう盗聴器もないというのに、氷室は辰海を招き寄せ、こそこそと耳打ちをする。
 それを聞いた辰海の口の端が、愉快そうに引き上げられた。


 座敷童子を呼び戻すための儀式を執り行う、という辰海の提案に、主は二つ返事で頷いた。
 準備は全てこちらで行うからと主を会社へ向かわせ、辰海は氷室に指示された通りに、唯の手を引いて裏山へと向かった。
 氷室曰く。
「今は春だし……ちょうどいい。ここの裏山、筍とか山菜とか採れるらしいから、できるだけ色々集めてきてくれ」
 これから始まる事を思うと、胸が躍るというより腹が鳴る。何せ辰海も氷室も、草間がこの依頼を託しに訪れるまで、空の米櫃を前に途方に暮れていたのだから。
「何をするの?」
 わくわくした顔つきで訊ねる唯に、辰海は笑顔で答える。
「ぱーてーを開くのだ」
「パーティー?」
「そう。蔵の神もお呼びして、屋敷の皆で、唯殿の父君の誕生日ぱーてーをする。唯殿の友人も呼んで、楽しい宴にしようぞ」
 唯は一瞬、パッと顔を輝かせたが、すぐに思案顔になって俯いてしまった。
「でも、お蔵様、来てくれるかな……?」
「唯殿が是非にと頼めば、来ては下さらぬか?」
「……昨日の夜ね、枕許にお蔵様が来たの」
 表情を曇らせ、ぽつりと吐き出すように唯は言う。
「お蔵様が姿を隠しても、パパの様子はちっとも変わらないから、もう無理かもしれない、って言ってた。あたし、今、味方が増えたから、もうちょっとだけ待ってってお蔵様にお願いしたんだけど……」
 今にも泣き出しそうな唯の頭にそっと手を置き、辰海は優しい声音で慰めるように囁いた。
「では、なおのこと急がねばならぬ。……大丈夫。我らは今、唯殿達を助けるためにここにおるのだ」
 小さく頷き、唯は涙を拭う。
「この裏山は、父君がよく蔵の神と遊んだ場所だという。山の幸をたんと採って、懐かしい味を父君に味わってもらうとしよう」
「あ、あたし、筍がたくさん採れる場所知ってる!」
 唯は再び表情を輝かせ、辰海の手を取って引っ張り始めた。
「食べられる茸と食べられない茸の見分け方も、おいしい山菜の種類も、みんなお蔵様から教えてもらったの! 辰海さんにも教えてあげるね!」


 辰海の背負い籠が筍で埋め尽くされ、両手に提げた籠に山菜と茸が山ほど詰め込まれた頃になって、ぽつりと雨が二人の頬を叩いた。
「あ、降ってきた! 急いで帰らないと怒られちゃう」
 慌てたように立ち上がる唯に、辰海は小首を傾げる。
「雨に濡れると風邪を引くからであろうか?」
「ううん。この山ね、斜面が急だから、雨が降ると滑って危ないの。いっぱい採ったし、もう帰ろう、辰海さん」
 辰海としては、背負い籠から溢れるほど筍を詰めて帰りたかったのだが、そういう事情なら仕方がない。
「それがしは荷物が多く、手を引いてはやれぬが、大丈夫だろうか?」
「大丈夫だよ。辰海さんこそ、滑らないように気をつけてね」
 本当は手荷物をひとつ唯に預け、彼女の手を引いてやったほうがいいのだろうが、手提げ籠は随分な重さで、小柄な少女には文字通り荷が重い。
 唯はこの山に慣れているらしく、足元の悪い道なき道を、手近の木の枝を掴みながらすいすいと進んでいく。
 この様子なら心配しなくてもよさそうだと思い始めた頃、急に雨足が強くなり、唯がよろけた。
「きゃ!」
 何かに掴まろうと伸ばした手が虚空を掴み、小さな体がくるりと反転して、その足が地を離れる。
「唯殿!」
 辰海が手を伸ばして捕まえられる距離ではなかった。咄嗟に籠を手放し、辰海は腰に携えた竹筒の蓋を開き、中身をその場にぶちまける。
 竹筒の水は辰海の神力によって一瞬で編み上げられ、網となって、斜面を転がり落ちかけた唯の体を捕えた。だが、運悪く、網に包まれた唯の体は、側にあった木にぶつかったらしく、抱き寄せた彼女は気を失っていた。
 更に悪い事に、辰海は自分の体に違和感を感じた。人型の輪郭が、ゆらりと歪んで縮むのを感じる。
「くっ、不覚……!」
 どうやら、この依頼が舞い込んで来るまでロクなものを食べていなかったのが祟ったらしかった。たったこれしきの神力を使ったくらいで弱ってしまうとは。
 降りしきる春の雨は冷たく、気絶した唯の体を容赦なく叩く。その横に、小さなタツノオトシゴと化してしまった辰海がぽつんと佇んでいた。
「参った。まさか、こんな事になろうとは……」
 自分はともかく、唯をこのままにはしておけない。何とか人を呼び、彼女を保護してもらわねばならない。幸いにして、辰海は神力を使い果たし、こうしてタツノオトシゴの姿に変化してしまっても、移動くらいはできる。だが、この小さな体でゆっくり移動している間、唯を一人きりにはできない。
「浩介が探しに来てくれるのを待つか……?」
 氷室と辰海は霊的に繋がっている。今頃は彼が、辰海の身に何かが起こった事を何らかの形で察知してくれているはず。
 だが、悠長に助けを待つ猶予があるだろうか。唯が強く頭を打っていないとも限らない。そう悩んでいた辰海は、雨音に混じって小さな足音を聞いたような気がして振り返った。
 小柄な娘がそこに立っていた。
 赤い絣の着物、短く切り揃えた黒髪。狐のように細い目が、感情のない瞳で辰海を見下ろしていた。
 彼女は、傘のように手にしていた、大きな植物の葉を唯の体の上に置き、幼いながらも威厳を含んだ声で言う。
「永く生きたが、陸地で竜神殿とまみえたのは初めてじゃな」
「……蔵御神殿であらせられるか。お初におめもじ仕るというに、このように無様な姿をさらす非礼をお許し頂きたい」
 座敷童子は、細い目をさらに細めた。おそらくは微笑んでいるのだろう。
「そなたが守るは海。されど、それを越え、我が守るべきものを代わりに守って下さった事、感謝のしようもない。……また、今回の御助勢にも」
「なに、これしきの事、守ったうちには入りませぬ。……ですが、もし褒美を下さるのならば、宴への招待をお受け頂きたく」
 その時、遠くから聞き憶えのある声が聞こえた。辰海を呼ぶ声だ。氷室がすぐ近くまで来ているらしい。
 座敷童子は、ひたと辰海を見据えたあと、唇だけで頷いた。
「……お招きに与ろう」
 その姿がすうっと掻き消えるのと、雨に煙った視界の中に人影が見えたのは、ほぼ同時の事だった。
「蒼磨! どこだ!? おい! 返事しろよ!」
「ここだ」
「どこだよ!?」
「ここだと言うに」
 おそらく氷室は長身の辰海の姿を探しているのだろう。それで見つかるはずもなかった。
 何故なら今の辰海は非常にミニマムで、なおかつ、氷室がその姿を見るのは初めてなのだから。
 ようやく、倒れた唯の姿と、その隣にちんまりと佇むタツノオトシゴを見つけて、氷室は盛大に吹き出した。
「……こちらは大変だったのだぞ。だのに笑うか」
「いや、悪ィ悪ィ! まさかこんな面白い状態に陥ってるとは思わなくてよ」
 くつくつと肩を揺らしながら、氷室は自分のジャンパーを脱いで唯の体に掛ける。
「どっちも怪我ねえな?」
「おそらく。だが、唯殿は医者に診せた方がよかろう」
 氷室は、ひょいと辰海をつまみ上げると、ジーンズの尻ポケットの中に押し込んだ。
「おぬし、わしを何と心得る! よりにもよって男の尻の近くになど!」
「うっせーな。他に場所がねえんだよ。俺は唯ちゃん抱えながら、背負い籠と手提げ籠二つ持ってここを降りなきゃならねえんだぞ。文句言うな」
「……元に戻ったら憶えておれよ」
「じゃ、元に戻す方法なんか聞いてやらねえ」
 辰海は押し黙ったあと、雨音に掻き消されそうなぼそぼそ声で呟いた。
「……いや、この場所も慣れれば悪くない。……後生だ。わしを海水か酒に浸からせてくれ」
「了解」
 答える氷室の声は一時の優越感に満ち、さも楽しげだった。


 座敷童子を呼び戻す儀式と聞いて庭へ出てきた主は、そこに置かれた長テーブルやたくさんの椅子を見て、狐にでもつままれたような表情を浮かべた。
 椅子には、入院前に比べて幾分か顔色の良くなった妻と、嬉しそうな笑顔を浮かべた娘の唯。そして唯の友人達が並んで腰掛けている。
「一体これはどういう事だ? 座敷童子を呼び戻す儀式はどうした!」
「どうしたもこうしたも、これがその儀式だよ」
 氷室はつっけんどんに言い、主を強引に主賓席に座らせた。
「さあ、筍ご飯が炊き上がりましたよ」
「茸汁と、山菜の和え物もございます。皆様、たんと召し上がれ」
 使用人達が笑顔で、次々とご馳走を運んでくる。主は呆然を通り越して、放心したようにその様子を眺めていた。
「あなた、忙しすぎて、自分の誕生日も忘れていたのね」
 妻が、少し寂しそうな笑みを浮かべて言う。
「今日は仕事を忘れて、のんびりして下さいな。あなたが子供の頃に大好きだったお料理、皆さんが用意して下さったのよ」
「あたしもケーキ焼くの手伝ったんだよ! 最後に出てくるから楽しみにしててね!」
 溢れんばかりの笑顔を浮かべる唯の向かいで、辰海が胸を張る。
「それがしも、少しばかり手伝わせてもらった」
「味見は手伝いのうちに入らねえよ」
 氷室のツッコミもどこ吹く風で、辰海は既に目の前の食事に心を奪われている。そんな辰海はこの際放っておく事にして、氷室は唯に水を向けた。
「ほら、唯ちゃん。親父さんの為に用意したプレゼント、渡してやれよ」
「うん! パパ見て! お蔵様に教えてもらって、あたしが作ったんだよ!」
 唯が取り出したのは、小さな花冠だった。主はそれを見て目を丸くする。
「これをお前が? ……お蔵様に教わって?」
「うん! これだけじゃないよ。ホラ!」
 子供達が一斉に席を立ち、口々に「おじさん、お誕生日おめでとう!」と言いながら、主に何かを手渡してくれた。
 ナズナの鈴や、カラスノエンドウの笛、タンポポ人形に笹舟。どれも主が子供の頃、座敷童子に作り方を教わったものだ。
「私どもからも、旦那様にプレゼントです」
 言って、女中頭が渡してくれたのは、野草の花束とドングリの独楽だった。これを使って彼女達に遊んでもらった記憶が、主の頭の中で鮮明に蘇る。
 妻からは花の首飾りがプレゼントされた。まだ呆然としている主に、唯が心配そうに問いかける。
「パパ、嬉しくない? あたしが作った花冠、パパが子供の頃に作ってたのに比べたら下手くそだって、お蔵様が笑うの」
 主はいびつな花冠に目を落とした。確かにそれはお世辞にも上手とは言いがたかったが、何の変哲もない野草で作られたそれは、人を疑う事に疲れかけていた心を強く揺り動かした。
 幼い頃、座敷童子と遊んだ懐かしい記憶が呼び起こされ、同時にあの頃のささやかな幸福を取り戻したような気がした。
「……そんな事はない。とてもよく出来てる。……ありがとう」
 そう答えると、唯は嬉しそうに笑って首にしがみついてきた。
 こうして我が子を抱くのが数年ぶりであった事に、主はようやく気が付いた。
 ふと視線をやると、テーブルの端っこに、誰も座っていない席がぽつんとあった。主から一番遠い、けれど主からまっすぐ見える場所に。
 誰も座っていないのに、まるでもう一つの主賓席のように、そこには花が飾られていた。座敷童子が一番好きだと言っていた菫の花だ。
 それの持つ花言葉を教えてくれたのも彼女だった。『小さな幸せ』。
「……あなたはいつもそこにいて、私を見守ってくれていたのか……。ただ、私が忘れていただけで……」
 主の小さな呟きに、氷室は嬉しそうに笑って相棒を見た。辰海もまた笑んだが、どうやら無事に依頼をこなせた事より、久々にありつけたご馳走が嬉しいらしい。
「あら、唯、さっき作っていたシロツメクサの指輪はパパにあげないの?」
 母親に問われ、唯は照れたように笑って答える。
「ううん。これは、辰海さんにあげるの」
「それがしに?」
 口の端にご飯粒をくっつけたまま問うのに、唯は少女らしくはにかみながら、白い花の指輪を差し出す。
「あたし、大きくなったら辰海さんのお嫁さんになる!」
 その一言は、せっかく皆で作り上げた和やかな雰囲気をぶち壊すのに充分な、ある意味衝撃的な一言だった。
「……氷室君と、辰海君と言ったかな」
 主はにこやかに、けれど額に青筋を浮かべて、冷たい声音で言い放つ。
「問題を解決して下さって感謝する。お礼はまた、後日改めて。……今日は内輪だけで楽しませて頂きたいので、早々に辞去願えるかな?」


「……おまえが唯ちゃんをたぶらかしたりするから、俺、何も食えなかったじゃねえかよ」
 ぶつぶつぼやく氷室に、辰海も残念そうな声を出す。
「わしもまだまだ食い足りぬ……。久方ぶりの馳走だったというのに……」
「ちょっと食えただけでも有難いと思え。畜生……腹減った……」
 ぐう、という氷室の腹の音に重なって、携帯電話が鳴り出した。草間からの着信だ。氷室は慌てて通話ボタンを押す。
『よう、ご苦労さん。仕事、きっちりこなしてくれたみたいだな。ありがとう』
「ヘヘ。ま、これしきの仕事、軽いもんだぜ。それより草間さん、どうかしたのか?」
『ああ、今からうちの事務所で花見をする事になってな。おまえ達も一緒にどうかと思って』
「勿論、ご相伴に与る」
 氷室の手から携帯電話をひったくって答えたのは辰海だ。氷室はそれをもぎ取って答える。
「俺はともかく、蒼磨まで一緒でもいいのか? こいつ、馬ほど食うぜ? タツノオトシゴだけど」
『タツノオトシゴ?』
「こら。わしの秘密を暴露すると言うなら、わしもおぬしの秘密を暴露するが良いのか?」
 舌打ちして、氷室は問い直す。
「ホントにこいつも一緒でいいわけ?」
『ああ、あちこちに声をかけたら、食べ切れないほどの食い物と酒が集まったんだ。遠慮せずに来い』
 通話を切り、氷室は拳を振り上げた。
「やったあ! じゃ、今日は飲んで食って騒ぐぜ!」
「やれやれ。浩介にかかっては桜の風流も霞むな」
 呆れたように呟く辰海に、氷室は舌を出す。
「じゃ、おまえは花だけ見てろ。俺は食って食って食い倒す!」
「むむ。では、わしも今回は、花より団子といこうかの」
「今回は、じゃなくて今回も、だろ。さあ、待ってろよ酒とご馳走!」


 けれど、その数時間後。
 辰海は花見に集まった綺麗どころを片っ端から口説いて回り、氷室はそれを阻止せんと奮闘する破目になるのだった。



■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■

【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】

【6725/氷室・浩介(ひむろ・こうすけ)/男性/20歳/何でも屋】
【6897/辰海・蒼磨(たつみ・そうま) /男性/256歳/何でも屋手伝い&竜神】