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<東京怪談ノベル(シングル)>


はじめのいっぽ

 今日こそ。
 今日こそは頑張ろう。
 毎日毎日そう思っているのに、いざとなると尻込みしてしまう。それを「弱さ」と言われてしまえば仕方がないが、それでもやっぱり自己嫌悪してしまう。
「はぁ……どうしようかな」
 今日も神楽 琥姫(かぐら・こひめ)は、アクセサリーケースが乗ったドレッサーの鏡に映る自分に、溜息をついた。ドレッサーの傍らには、いつも一緒にいるパンダのぬいぐるみが同じように鏡を見ている。
「ねえ、どうしたらいいと思う?」
 いつもの習慣になっている、ぬいぐるみとの会話。寂しさを紛らわすためのアテレコで、結局自分自身と話をしているのだと分かっていても、子供の頃からそうしていたので、やっぱりやめられない。
 くりっとした目に、困ったような琥姫の表情が映る。
『頑張ろうって決めたんでしょ?』
「そうだけど……」
 頑張ろう。口で言うのに、これだけ簡単な励まし言葉はない。でも、実際そこから一歩踏み出していくのには、勇気と覚悟がいるわけで。
 琥姫はアクセサリーケースから、小さなピンクのバラのついたペンダントを手に取る。
 幼なじみがホワイトデーにくれた、可愛いペンダント。
 琥姫は少し前、その幼なじみに自分の能力について話をした。神楽の家を継がなければならないこと。だけど、自分にはその能力がなくて、期待されていないこと。
 普段アクセサリーに封印術をかけている琥姫は、能力を全て解除すると髪と目が銀色になる。でも、彼はその姿を見ても、今までと変わらず自分に接してくれた。
 少しでも前を向いて歩きたい。
 温かい励ましをもらって決意したのはいいが、決意するのは簡単でも、実行するのはなかなか難しいもので……。
『そんな事してるうちに、クリスマス過ぎちゃうよ。琥姫ちゃん』
「そうだよね……よし、今日こそ頑張る」
『そうだよ。ちょっとずつでいいから、歩かなきゃ』
 ちょっとずつ。琥姫が決意したことは、彼からもらったそのペンダントにかけていた術を、解くことだった。
 いつも琥姫は色々なアクセサリーを身につけている。それは、琥姫が持っている強大な能力を封じるためでもあるが、そうでもしないと周りの色々なものの思考が、勝手に流れ込んでしまうからだ。
 人や霊、植物や動物……普通にその辺を歩いていて、無造作に会話が聞こえてくるのとは訳が違う。一番最初に流れ込んでくるのは、強い負の感情。それが、琥姫に向かって「聞いて欲しい」というように突き刺さる。
 ペンダントのたった一つ……と言われそうだが、それでも琥姫にとっては、筏で海に出るほどの大冒険なのだ。
「………」
 今やらないと、きっと年を越してしまう。そうしたら、また立ち止まってしまう。
 ペンダントを左手の上に乗せ、琥姫は少しビクビクしつつも右手をかざす。封印を解除する呪文を唱えると、ほんのりと青白い光が灯った。
「……これで、一歩前進だよね」
『おめでとー! 次は、そのペンダントと一緒にお出かけだね』
「うっ……」
 そう。封印を解除するだけなら家の中で済む。あえて言うのならこれは準備体操で、本当に前進するのはここからなのだ。琥姫は鏡に向かってペンダントをつけると、冬眠前のクマのようにうろうろと台所に行き、冷蔵庫からトマトを取り出す。
「ま、まずはトマト食べて、落ち着いてから、ね?」
『………』
 冷やしトマトをかじりながら、どこに行こうか考える。
 大学に行くのは、ちょっとハードルが高すぎる。服飾に使うお店に行くのも、この季節人出が多いので、ちょっと怖い。
「ライブやった河川敷を通って、蒼月亭に行こうかな。今日、バイトだったらいいんだけど」
 メールで聞こうかとも思ったが、出来ればいきなり行きたい。琥姫は携帯を取りだして、アドレスを開いた。蒼月亭の電話番号はちゃんと入れてある。
 規則的な呼び出し音。それを聞きながらドキドキして待っていると、聞き慣れた声が電話に出た。
「お電話ありがとうございます、蒼月亭です」
「もしもし、ナイトホークさん? 琥姫です」
 電話に出たのは、蒼月亭のマスターであるナイトホークだった。出た時は営業用の話し方だったナイトホークは、相手が琥姫だと分かった途端、くすっと笑っていつもの喋り方になる。
「誰かと思ったら琥姫ちゃんか、どうした?」
「あのっ、今日の夜なんですけど……」
「あ、バイトの話?」
 ……どうして分かったのか。
 電話片手に何故か赤面していると、クスクスという笑い声が聞こえた。
「今日は、夕方からバイト入ってもらってるよ。それから来るかい?」
「い、いえっ……少し早く、そっちに行ってもいいですか?」
「お客さんはいつでも大歓迎だよ」
 良かった。
 幼なじみがアルバイトに入るよりも早く行きたかったのは、突然行って驚かせたいという気持ちもあるが、別の理由もある。
 もし、そこまで行けなかったら。
 流れ込む感情に押し潰されて、たどり着けなかったら。
 最初に「行くからね」と約束して行けなくなったら、彼を心配させてしまう。そんな不安を与えたくなかった。
 電話を切った琥姫はお手製のバッグにトマトを詰め、出かける準備をする。短い距離だけど、大きな冒険の第一歩。
「じゃあ、行ってくるね」
『行ってらっしゃい、琥姫ちゃん』
 お気に入りの靴を履くと、琥姫は外への一歩を踏み出した。

 季節はいつの間にか冬になっていた。
 乾いた風が吹き、街路樹もすっかり葉を落としている。夏の間は青々と茂っていた草や、咲き乱れていた色とりどりの花も、何だか息を潜めているようだ。
「………」
 いつも歩いている道なのに、初めて見た街のような緊張感。何だか、引っ越してきて初めてこの街を歩いた時のようだ。
 どうか、嫌な気持ちが流れてきませんように。祈るような気持ちで歩いていた時だった。
「きゃっ!」
 犬を散歩させていた人とすれ違おうとした瞬間、可愛い服を着た小型犬が、突然琥姫の足にじゃれついた。それを見た飼い主のおばさんが、慌てて犬を抱き上げる。
「………! ごめんなさい、大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です。気にしないで下さい」
 犬は振りちぎれんばかりに尻尾を振り、琥姫に鼻を寄せる。何だかそれが嬉しくて、琥姫も笑顔になった。
「人懐っこくて、可愛い」
 頭を撫でると、おばさんは少しくすっと笑った。
「この子がこんなに懐くのって、珍しいのよ。普段は撫でようと思って人が近づくと、私の後ろに隠れちゃうんだから」
「そうなんですか?」
 こんなに自分に懐いてくれているのに。
 犬に手を振り少し離れた時、琥姫はあることに気がついた。
「あれ……?」
 そういえば、今おばさんと普通に話をしていた。いつもなら流れ込んでくる無意識の負の感情も、困惑なども聞こえたりしなかった。
 ふとペンダントを触ってみると、そこから流れ込む周囲の気持ちは、何だかほんのりと暖かい。
「………!」
 冬でグレーが多い景色なのに、世界が美しく見えた。
 ライブをした河川敷はもう草が枯れているけれど、日差しに川面がキラキラと光っている。路地裏から出てきた野良猫が、琥姫に挨拶をするように目を細める。通りすがりにティッシュを配っている人が、笑顔で「ありがとうございます」と言う。
 これは、何の魔法だろう。
 何だか分からないが、ペンダントをしているだけで歩くのが楽しい。封印のないペンダントは、自転車で言うと補助輪が一つなくなっているようなものだ。それなのに、胸元に小さなピンクのバラを咲かせていれば、大丈夫なような気がする。
 琥姫は気付いていないが、それは彼の力だった。
 だがすごく強力なものではなく、琥姫を守ってあげたい、支えてあげたいという優しい想いが側に寄り添っている。
 それだけではない。
 幼い頃に死別した母や、琥姫のことを大事に想っている人たちの微かな気持ちが、ペンダントを通じて増幅されているのだ。
 そうしているうちに、大通りから少し裏路地に入る。すると蔦の絡まるビルと、蒼月亭という名前と蒼い月が描かれた木の看板が見えてきた。
 ドアを開けると、ドアベルの音と共にいつもの挨拶がかけられた。
「いらっしゃいませ、蒼月亭へようこそ」
「こんにちは、ナイトホークさん」
 ニコニコと笑ってカウンターに座ると、琥姫はバッグの中からトマトを三つ出してナイトホークに差し出した。ナイトホークは素直にトマトを受け取って、琥姫の顔を見る。
「ずいぶん嬉しそうだけど、何かあった?」
「そうなんです。今までずっと頑張ろうと思ってて、でも怖くて出来なかったことがあったんですけど、今日やっと一歩踏み出せて。だから、すごく嬉しいんです」
 ナイトホークには自分の能力のことを隠しているので、琥姫は本質を隠しつつ、でも本当のことを言った。
「あ、何飲もうかな……コーヒーで」
「かしこまりました」
 何も頼んでいなかったのを思い出し、琥姫がコーヒーを頼むと、コーヒー豆とミルを用意しながら、ナイトホークが少し笑う。
「ああ、そういう事ってあるよな……何かさ、それって自転車に乗れるようになるのと同じような気がする。琥姫ちゃんさ、自転車乗れる?」
「乗れますけど……」
 軽快な音を立ててコーヒー豆がミルに入り、ゆっくりと豆を挽く音とナイトホークの声が重なった。
「自転車とかって、最初乗れるようになるまですごく怖いだろ。転ぶと痛いし、よろよろしてたら、どっかぶつかるかも知れないし」
 その話を琥姫はじっと聞く。
 子供の頃……補助輪なしで自転車の練習をしたのは、幼なじみの彼と一緒だった。補助輪を彼のお父さんに取ってもらって、二人で代わる代わる後ろを掴んで、転ばないように頑張って……。
「でもさ、乗れるようになると、何で乗れなかったのかが分からなくなるんだよな。だから、最初怖くても、失敗しても、踏み出すことが大事なんだって……なんか、説教臭い話だな」
「いえ、何となく分かります」
 自転車に乗れなかった理由が分からなくなるように、いつかきっと、どうして封印具がなければ街が歩けなかったのか、分からなくなるかも知れない。まだ封印を解除したのは、彼からもらったペンダントだけだけど、クリスマスにもらったバレッタなどの封印もいつか解いて、全部の封印がなくなっても普通に街を歩けるようになるかも知れない。
 そんな事を思っていると、コーヒーの良い香りが漂ってくる。
「何でもさ、やらないとゼロだけど、やった時点でプラスになるっていうのは皆分かってるんだよ。それでもなかなか出来なくて、どうしようってもがいて、時々自己嫌悪とかしてさ……別に誰かが何か言う訳じゃないから、逃げたりするのも自由なんだけど」
「………」
「でもさ、始めの一歩が踏み出せたのは、琥姫ちゃんの勇気だから自信持っていいと思うよ。はい、コーヒーおまちどうさま」
 コーヒーを出した後、ポケットからシガレットケースを出すナイトホークを、琥姫はじっと見上げた。
「ナイトホークさんも、逃げ出したくなることがあるんですか?」
 普段カウンターにいるナイトホークに、そんな様子は全く見えない。ナイトホークはマッチで煙草に火を付け、何か考えているかのように煙を吐いて笑う。
「俺もようやく進み出したばっか。だから、お互いぼちぼち行こうぜ。焦ったって仕方ないし、そのうち何で怖かったんだろなーってなるからさ」
 琥姫が自分の能力のことを告げていないように、ナイトホークにも秘密があるのだろう。でも、それは今関係ない。温かいカップを両手で持って、コーヒーを一口飲んで琥姫はにこっと笑う。
「そうなったら、ナイトホークさんにお祝いしてもらわなきゃ」
「トマトで乾杯でもしようか? ……っと、来たみたいだ」
 ナイトホークが煙草をくわえたまま、入り口を指さす。
 見慣れたシルエットに、琥姫が更に笑顔になる。
「あいつにも話してやんなよ。絶対喜ぶから」
「はい!」
 カランと音を立て、蒼月亭のドアが開いた。

fin